神戸のみなとは、 古く奈良、 平安時代の「おおわだのとまり」に始まり、 平清盛、 足利義満らによって修築され、 対宋、 対明貿易などの拠点となってから国際性を帯びるようになった。 明治開港がさらにそれを加速し国際港都「みなとコウベ」としての道を歩み出すのだが、 近代的国際性豊かなハイカラな街となったのは居留地の返還からだろう。 居留地は裁判権など不平等な条約よる先進欧米諸国の特権区域であったが、 条約の改正によって返還され、 コウベ市民は外国人と対等に付き合えるようになった。
この百年の間に神戸っ子は、 衣食住の全ての面で外国人の長所を貪欲に取り入れていったが、 外国の人たちもまた「自分たちの街」として神戸の街を愛してきた。 つまり、 神戸の街は日本人だけではなく外国人の愛情にも支えられてかたちづくられてきたのである。 このようなコスモポリタンな街であるからこそ、 戦時中に外国籍の人たちが「私たちの街を爆撃しないでほしい」とアメリカ大統領に手紙を送ったという。 国際都市にふさわしいこの話は感動的である。
彼らの仕事場であり、 住居であった旧居留地、 北野町、 山本通の美しい近代建築は、 神戸の歴史・文化・景観の主役であるが、 やがて、 日本人だけの手による建築物がそれに加わってくる。 これらの建物は神戸だけのものではなく、 日本近代建築史の記念物でもあろう。
「兎追いしかの山」も、 「小鮒釣りしかの川」もなくなってしまった現代日本の都市にあって、 やはり建築物は私たちの心の故郷、 原風景として見逃せない。 最近では、 築四、 五十年の建物は「スクラップ・アンド・ビルド」の対象でしかなかったが、 街のランドマークとしての意義を見直すべきではないだろうか。 震災にも耐えた建物を保存し、 再生利用することが、 被災者の心をいやし、 神戸のアイデンティティーを守ことにつながるのではないだろうか。
「都市の記憶」
小 松 左 京
撮影:中尾嘉孝
今年は外国人居留地が日本に返還されてから百年になる。
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