専門家には耳が痛いところもたくさんありました。 専門家が果たした役割にも悪い面がたくさんあったようで、 反省する必要があると思っています。
これまでの大体の内容としては、 市民が賢くなって自分で行動し、 行政を引っ張って復興していこうということかと思います。 建物についても、 まちなみについても、 市民が賢くなってそういう行動を取りなさいというお話だったと思います。 最後に、 ご要望もあったようですので、 小松さんにお話いただいて、 終わりにしたいと思います。
小松:
私自身、 箕面の自宅の被害は、 塀にひびがいったぐらいで、 大したことはありませんでした。 しかし、 この被災地へ地震後すぐ来たときには、 胸が潰れるような思いがしました。
神戸新聞の社屋もやられてしまったんですが、 偶然にもその前年に京都新聞と、 何かあったときにはコンピューター編集で助け合おうという協定を結んでいたんですね。 輪転機は西神地区に持っていって、 ハーバーランドに建築中だった新社屋の建築事務所に、 編集局をおきました。 神戸新聞は一回も休まないという伝統があるんですが、 震災の日の夕刊からもう出し始めたんです。 京都新聞のコンピューター部門がずっとバックアップしてくれて、 いよいよこれでもう結構ですと言った時に、 京都新聞の人たちが握手をすると、 神戸新聞の役員が泣いたそうですね。 私はその時に、 行政よりも企業同士、 同業同士の方が頼りになるんだなと思いました。
さらに、 私が連載を書き始める時に皆さんにお願いしたのは、 日記でも何でもいいから、 その時の記録を残しておいてくださいということです。 それから、 テレビ局、 ラジオ局、 FM局は全部その時のテープを消さないでいてほしいのです。 これを後で解析することによって、 たとえば東京のど真ん中で同じ規模の災害が起こった時のシミュレーションになるんですね。 あるいは、 ロサンジェルス、 中国でも大きいのがありました。 そういう時にどう対処したらいいかという国際的なマニュアルができると思うんです。
神戸の皆さんの記録を集めて解析することは、 大変ですが、 できないことはないと思います。 私でもパソコンでやりましたから、 せめてご近所でもいいですから、 そういうところでプールしておけば、 神戸の災害の経験というものが、 人類社会全体の役に立つことになると思います。 それをお子さんに残してもいいのです。 私も母親の震災の時の記録が大空襲の時に非常に役に立ちました。 そういうことがありますので、 現地で体験された皆さん一人一人が、 多少感情が入ってもいいです、 そんなことは構いません、 残しておいていただきたい。
私はいま、 公的な記録あるいは解析を国の防災科学研究所が真剣に取り組むべきだと思って、 一生懸命働きかけています。 防災科学研究所は十日ばかりしか神戸に来ていない。 防災科学研究所を神戸におくことで、 将来の総合防災学…これは朝日新聞の九月一日、 防災の日の論壇に書いたんですが、 神戸はこの経験を生かすことでそういったもののセンターになっていって欲しいと思っております。
震災後、 芦屋のまちづくり研究会で何度か一緒になった映画監督の大森一樹氏がパネリストを快諾してくれた時、 作品は「風の歌を聴け」に決まった。 原作も神戸出身の村上春樹氏で、 ストーリーは少しわかりにくいが、 十五〜六年前の若者の視点から見た阪神間の風景がふんだんに登場するこの作品が好きだったからだ。
神戸は近代になって発展してきた街で、 歴史を感じさせる風景は、 私達のアイデンティティそのものです。 震災を生き延びたこれらの貴重な建物が保存・再生利用され、 復興していく神戸の風景の中に『都市の記憶』として位置付けられることを、 私達は強く望みます。 未来の神戸の歴史をつくるために、 そして地球がいつまでも美しくあるために。
1996年11月9日「震災の記憶」を伝える
「風の歌を聴け」上映について
シンポジウム「都市の記憶」の企画段階から、 「映像と記憶」という観念があり、 失われた過去の映像を会場で上映したいという考えが最初から頭の片隅にあった。 映像が議論を触発してくれればとの想いもあった。
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1995年1月17日の大震災は、 多くの人々の命と生活を奪ったばかりでなく、 私達の街から多くの建物を奪い、 慣れ親しんだ風景をも変えてしまいました。 一方、 老朽化したといわれながら、 幸い被害を免れた建物もありました。 それらは、 救援活動の拠点として、 また避難所として大きな役割を果たしました。 しかし、 せっかく残ったこれらの建物も、 復興の名のもとに建て替えられるかもしれません。
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