それでは後半の部に。 申し遅れましたが、 司会進行役の橋本健治です。 私は有馬温泉の生まれで、 長田から新開地へ、 そして石井町と平野で小学校時代を過ごし、 それからだんだん東のほうへ東のほうへ、 いまは東灘に住んでおります。 なんで神戸市の西方から東方へ行ったかというと、 神戸市の行政、 まちづくりが東のほうへ拡張されていったことに関係があります。 その結果、 いまいろんなことが起こってきた。 本来の兵庫のところで神戸市が居座って、 行政をちゃんとやっていたら、 この事態とは違うまちが生まれていたと思うんです。 それはちょっと余談ですけれど。
押田:
ちょっと過激な意見が出ましたね(笑)。 去年のシンポジウムの時に、 森栗さんが、 神戸市が大きくなりすぎたという発言をされたのが、 耳に残っております。 昔からの神戸である長田区、 兵庫区、 平野あたり。 それからいい住宅地と言われています灘、 東灘界隈。 平野などの方は、 東灘区は戦後神戸になったんやから、 あの辺の連中は神戸っ子とはいえへんと言われます。
しかし、 私共も不謹慎とは思いながら、 西区、 北区は神戸やないで、 というようなことをチラっと言うことがあるわけです(笑)。
選挙区を決める時に思うんですが、 やはり住宅地の代表、 商業地域の代表、 それから新しい地域の代表と、 そういう風にして選挙区を作ればいいのになと密かに思っております。 そういう意味では須磨区なんていうのは、 東灘区と同じ選挙区の方がいいのかもしれないですね。 いわゆる昔からの神戸の地域、 それから戦中、 戦後、 広くなった東灘区、 垂水区のあたり、 それらと、 北区、 西区はちょっと感じが違うんじゃないでしょうか。 会場の中に、 西区、 北区にお住まいの方はおられませんか。
Aさん:
神戸というのは新しいまちで、 よそ者というとおかしいですが、 いろんな人が集まってまちが育ってきたという経緯があります。 私の家を見ても特徴的で、 父親の出所は、 淡路の安藤忠雄さんの水御堂のある東浦町なんです。 母親の家は、 大阪の靱公園のところで、 乾物問屋を代々やっていたんですが、 縁があって父との出会いがありました。 母親の父が、 八多町という、 いまちょうどニュータウンが広がっている辺りへ療養に移った。 父親の方も、 祖父の代に神戸へ出てきて、 中山手のちょうど西村珈琲のある辺りで、 魚屋をやっていました。 中山手の魚屋のせがれと八多に疎開した娘の子がどこで生まれたかというと、 ちょうど真ん中の鈴蘭台だったというわけなんです。
私は、 万博の年に生まれ、 鈴蘭台という割と新しいところで育ってきた。 田んぼのある風景を知っているたぶん最後の世代だと思います。
県立夢野台高校(昭和2年竣工、 設計:兵庫県営繕課) |
押田:
私は灘に住んでいますけど、 親父が神戸へ来て住むようになって、 その時は、 武庫郡西灘村でした。 青谷に住んでいますが、 昔、 「神戸市外青谷」と書いた郵便物が家に来ていたのを覚えています。 そういうことで、 灘区といえども、 比較的新しい。
先程、 小学校の話をしましたけど、 震災の時に、 小学校へ逃げ込んだ人が多かった。 そこで、 地域活動を小学校を中心にやっていったらどうかという話が幾度か出ました。 ところが、 わたしのところには、 灘区の情報があまり来ない。 新聞の配達区域が中央区の区域になっているらしくて、 灘区に住みながら、 神戸市の広報は中央区のものが入るんです。 土砂崩れの危険地図をくれますが、 それも中央区のもので、 灘区のはくれない。 だから、 わざわざ市役所に言って、 送ってもらうんです。 広報を新聞屋さんに頼んで配っているというのも、 奇怪な感じがします。
私は灘区に住みながら、 小学校は中央区、 昔の葺合区の小学校に通っていたんですね。 その校区はいまも変わっていません。 小学校を中心にして災害対策をやろうというのはいい意見ですが、 その前に神戸市教育委員会さんはもう一度、 小学校校区の整理をしてもらわないと、 目の前に小学校がありながら、 よその小学校へ行くというひどいケースが、 灘、 旧葺合区の中にもあります。
戦争中に神戸製鋼、 川鉄の従業員の数が増えて、 どんどん人口が増え、 新しい小学校を無理やりに作ったわけですね。 ですから、 私は昭和七年生まれですが、 小学校は第二回卒業生なんです。 最近はPTAの役員になる人もいなくなっているようですが、 そんな小学校で、 それを災害の基地にしようなんて、 これまた無理があるなあと考えています。
今日の趣旨は神戸の思い出。 いろいろと復旧、 復興は進んでいますけれども、 本当に神戸らしい昔の良き時代の神戸に近づきつつあるのか、 あまりええ方向へ行ってへんでということなのか。 いずれにしましても、 ここに集まっている私たちが思う良き神戸というのはどういうものなのか、 その辺をお聞かせいただきたいと思うのですが、 いかがでしょうか。
私も武庫郡生まれで、 いま、 灘区に住んでおります。 新設の小学校に入りましたので、 私も第二回の卒業です。 現在七十歳、 このあいだ、 小学校で、 六十周年の記念の式典がありました。 そこで、 この小学校の生い立ち、 当時この辺りはどういう風であったかというのをご紹介しましたら、 かなり皆さん喜んでくださった。 私の小学校は、 東灘が神戸になる前の一番東の端、 高羽小学校ですが、 その頃の遊ぶところといえば、 海の方では、 かつて東明の浜があり、 そこで地引き網をやっていましたし、 山の方では、 一王山があり、 遊ぶ範囲が、 それだけ広かったわけですね。
私も小学校の時、 水害に遭いました。 中学校の終わりの頃、 空襲がありました。 それから、 今度の震災。 三つの災害を全部受けているわけです。 その災害を受けるたびに、 それこそ都市の記憶というのは無くなってしまう。 災害が大きかったもんですから、 無くなるのも、 いたしかたないと思うのです。 しかし、 ヨーロッパでは…私は退職してからよくヨーロッパに旅をするのですが…、 九〇%破壊されたというまちが、 まさに大変な努力だと思うんですけれども、 少なくとも表通りは、 その前のままに再興されている。
記憶というものを考えますと、 ハードとソフトと二つあると思うんです。 ソフトというのは、 人間のつながり方です。 これは昔はお寺の住職の方とか、 神社の神職の方、 教会の牧師さん、 学校の先生、 町内会長さん、 そういう方々が中心になって、 記憶というものが残ってきているんですが、 そういうのが災害を受けるたびに、 バラバラになっていくわけです。 先程の詩もソフトに入り、 『神戸っ子』もソフトに入るわけですが、 そういう形でソフトの記憶というものが残されると思うんです。 その一方でハードの記憶というのは、 建築物、 モニュメントなどです。
モニュメントのことで、 このあいだ、 神戸市長さんにレターを出して、 異議を唱えたんです。 震災は別にして、 水害のモニュメントも戦災のモニュメントもどこにあるんだということですね。 戦争についても、 原爆のことはジャーナリズムが毎年わーわーと言いますけど、 それと同様に我々が受けた戦災のモニュメントはどこにあるんだ。 費用から考えても、 こんなものは神戸空港と比べたらわずかなものであると。 それをどうして作らないんですかという質問を出したんですが、 結局返事はきていない。 ウィーンにはアルベルティーナ広場というのがあって、 そこには戦災のモニュメントがあります。 その地下に四百〜五百人の方が眠っておられるというモニュメントが立派に建っているわけですね。 どうして日本ではそういうことができないのかと、 非常に疑問を持っているわけです。
要するに、 「都市の記憶」というものに対する考え方が、 日本人とヨーロッパの人とでは、 非常に違うと。 将来の発展を考えると、 その記憶というものをベースにしていかないと、 根無し草になってしまうわけですね。 それがどうも日本では、 スクラップ&ビルドがいいんだということで、 すべて画一的な教育がされてしまう。 明治以後の画一的な政策、 教育が都市の記憶を留めるのに災いしているんではないかという気がしています。 だから、 記憶を留めて、 都市のアイデンティティーをちゃんと持ちながら将来発展していかないと、 一体どこのまちだろうというようなことになるんではないかと密かに心配しているわけです。
押田:
ハードとソフトとおっしゃいましたけど、 まさに、 冒頭に申しましたように、 一回目、 二回目にハードの話に偏りすぎたので、 今回はソフトの話をしようというのが我々のねらいでしたから、 ただいまのお話は非常にうれしゅうございました。
都市はハードで、 記憶はソフトやと思うんですけど、 私は、 心理面で子供たちが震災の恐怖から本当に立ち直っているのか、 心配しているわけです。 生きる力がどれだけ回復しているか、 戻っているか、 もしまだなら、 どうすればいいかという心理面のアフターケアを心配しています。 建物は、 たとえば仮設でも半分以上はもう撤去されているようですけど、 心の問題で、 特に子供たちや老人が、 震災のショックから立ち直っているのか。 四十代から六十代ぐらいの人たちは、 リストラとかいろんな問題があるにしても、 まだ回復力があると思うんですが…。 そういうソフト面、 心理面で回復しておかないと、 後でしっぺ返しがあるんじゃないかと思います。
もし回復がまだならどうすればいいか。 これは、 おそらく心理学者とかカウンセラーとか、 専門の先生方が、 もっとディスカッションすればいいと思うんです。 ハード面では、 元町や三宮を歩いていても、 いやというほどギンギラギンの建物が建って、 十分すぎるぐらいですから、 ソフト面を充実させてほしい。 たとえば仮設でも、 隣どうしでやっと親しくなったのに、 復興住宅ができたから、 今度は別の棟に分かれて住んでくれという。 せっかく親しくなったのに別れ別れになって、 またひとりぼっちで生活せないかん。 行政は箱だけを作って、 本当に住んでいる人間のことを考えていないんじゃないか。
このあいだ、 世界記録を作った野球選手が、 仮設住宅をちょっとでもホンジュラスの方へ送りたいと言ったら、 日本の政府が、 そんなにたくさんは無いと言ってもったいぶったと。 水害で困っているホンジュラスへ、 送られんはずがないんですね。 もちろん東南アジアにも多少は送っていますけどね。 要するに、 ハートが無いんですよ、 日本人は。 だから嫌われてしまって、 このままいけば、 世界の孤児になってしまいますよ。 何か自分だけ良かったらいいという感じでね。 私はそういうことを心配しています。
押田:
本当に大事なお話だと思います。 恐怖心から子供たちが立ち直れるか。 それぞれお医者さん、 心理学者、 いろいろ考えてくださっているように私は受け止めています。 ご存じかと思いますが、 最近、 神戸新聞がその辺の連載をしています。 ただ、 新聞に書いたからといって解決する問題ではありませんし、 具体的にどう進めていくかという問題になっていくだろうと思います。
Dさん:
私は東灘区在住で、 神戸小学校を出たんですけど、 神戸小学校は潰れてしまいました。 元々は、 芦屋の精道から来ました。
日本が一番良かったのは、 昭和十年代ではなかったかと思います。 向田邦子さんの小説にもありますけど、 それは皆さんの記憶の中にある。 神戸の良さというのが記憶の中にあることがいいんで、 昔の神戸のまちなみに戻したり、 どうこうというんじゃない。 やはり、 これからは未来志向で、 いまの若い人は暮らしやすい、 良いハードのまちをつくっていけばいいんじゃないか。 横光利一が、 ヨーロッパから日本へ帰ってきたのが一九三〇年なのですが、 神戸を見て、 あまりのみすぼらしさにがっかりしています。 昔の神戸は、 そういう西欧的な尺度で見れば、 非常にみすぼらしかった。 それがここまで良くなって、 みなさんの記憶の中に残っているのです。 よくシンガポールと比較されるんですが、 シンガポールというのは金属的なまちで、 神戸もそんなまちになりつつあるんじゃないかという批判もあります。 シンガポールに長いこといっていた人に聞いてみたら、 確かにそうかもしれないけど、 決定的に違うのは、 住んでいる人間の質だと。
私は生まれたのが岡山で、 育ったのは芦屋、 東灘ですが、 どうも東灘、 芦屋、 西宮、 あの辺りは、 別のような気がしてしょうがないんですね。 で、 小泉さんに言われたんですけど、 大体、 神戸一中というのはけしからん。 皆、 神戸から逃げてしまいよる。 その点、 二中は立派やと。 私の息子も、 間違って灘校へ行ったおかげで、 東京へ行って、 海外へ行ってしまって、 全然帰ってこない。 しかし、 息子が結婚したアメリカ育ちの女の子は本山第三小学校の出身なんです。 息子は第一小学校なので、 それが奇縁で結婚したわけですが、 神戸を離れていても、 やはり心のどこかに神戸への思いがあるんじゃないかという気がします。
最後に、 福祉の面で考えると、 保育所など幼児の福祉、 老人の福祉、 この二つの問題が神戸は目茶苦茶遅れています。 むしろ、 県の直接の西宮などのほうが、 はるかに進んでいる。 東京のほうでも武蔵野などは、 非常に優れている。 新しいまちづくりでは、 そういう弱い人たちの視線に立って、 そういう人たちが豊かな生活ができるようなまちにしていただきたい。 どちらかというと、 ハードは二の次だという感じがします。
押田:
震災直後に、 我々は本当にやさしい気持ちになって、 それまで口をきいたこともない近所の人たちとも助け合ってあの何日間かを過ごしました。 けれども、 もう三年経ちますと、 あの時の気持ちが薄れていますね。 私自身はそう思います。 あの時のやさしさは、 俺の体のどこへ行っちゃったんだろうと、 時々思い返すことがあります。 あの時に、 神戸市民みんなが持った気持ちをどこまで持ち続けたらいいのかと思いました。 先程からのご指摘にように、 やはりちょっと薄れてきつつあるんじゃないか。 それも、 都市の記憶の一つとして忘れないようにするためにはどうしたらいいのかと私も考えています。
私は東灘区の森南町に住んでいます。 被災した時は、 一丁目のマンションの十階に住んでいたんですけど、 平成四年まで住んでいた二丁目の木造住宅が全壊しました。 その頃はまだ主人も元気で、 お花なんかもいっぱい植えていました。 以前は、 そんなお花の写真を撮る程度でしたけど、 震災直後、 壊れた家を見たとたんに、 これは絶対に写しとかないかんと思って、 撮り始めたんです。 震災直前に建てられた建物で残っているものもありますが、 森南町の木造住宅は、 ほとんどが全壊しています。 森南町一〜三丁目と、 本山中町一丁目を含めて、 約百人近くの方が亡くなられました。 朝でもにこっと笑って挨拶してくださる娘さんとか、 お花を作って、 「奥さん、 こんなきれいな花が咲いたよ」と言ってくださる奥さんもおられました。 それらの方々が皆、 地震の瞬間に命を奪われたわけです。 それがすごく残念で、 近くの家を一軒一軒写し回ったんです。 国道二号線の宮地病院というところの手前に、 写真屋さんが一軒だけ開いていたので、 そこで使い捨てカメラを買い、 写してはまた新しいカメラを買うということをくり返したんです。 栄光教会、 解体中の大丸、 東灘区、 灘区、 中央区で撮りました。
都市の記憶というのは、 もう私のその震災直後の写真の中でしか生きていません。 まだ空地がたくさんあって、 一〇〇%どころか、 何十%ぐらいの復興しかできていません。 私は地震に対してすごく怒っているんです。 心の中で。 なんであんなにたくさんの人を亡くして、 たくさんの家を壊したか。 自分でも意外な程、 真剣に写しています。 わたしの都市に対する記憶はそれだけしか残ってないんです。
それから先程の東灘区のことですが、 神戸市に合併したのは昭和二十五年でして、 その前は、 本山村森と深江と青木の三ヵ村でした。 だからそりゃまだ、 ままっ子扱いみたいなところはあるかもわかりませんけど(笑)、 仕方ないですね。
押田:
いま発言くださいました大仁さんは、 ずっと定点観測的に被災地の写真を撮り続け、 新聞、 テレビにもよく出ておられるご本人でございます。 私もしばらく震災記録情報センターの仕事を手伝いましたが、 その時にもたくさん写真を持って来られまして、 大仁さんの撮られた写真の一部は、 神戸大学の震災ライブラリーのほうにも収まっています。 いわゆる新聞社の写真カメラマンとか、 あるいは米田さんや高橋さんの写真も立派ですけど、 そういうプロの写真ではなくてアマチュア…本当に普通の奥さんが、 撮り続けている写真というところに非常に意味があると思っています。 ここまで続けてこられたんですから、 五年目、 十年目とずっと撮り続けられると思いますので、 また皆さんも応援してあげていただきたいと思います。
神戸から明石に移って二十四年ほどになります。 明石はあまり報道にのらなかったんですが、 非常に酷い被害を被っています。 市役所にどんどん電話をかけるんですけど、 一向に報道にのらなかった。 長田とか東灘だけが一斉に全世界に報道されて、 外国からもどないなっているんだということを言われました。
神戸栄光教会(大正12年竣工、 設計:難波停吉) |
私の息子は、 生まれたのは神戸の灘区ですが、 西須磨小学校、 鷹取中学と進んで、 明石にかわったんです。 震災の後、 歩いて回って、 これは自分も何とかお手伝いしないとあかんと考えたようです。 息子は東京に住んでいるんですが、 今年一月十五日、 ジュネスミュージカルシンフォニーという、 これはユネスコ傘下の、 ボランティアで、 青少年たちの情操教育を進める国際機関の日本版として震災で関東に移住された方を励まそうということでコンサートをやりました。 たまたまドカ雪だったんですけど、 神戸からいろんな食材を持っていき、 パーティーも非常に盛り上がりました。 そういう経緯もあって、 関東の大学のオーケストラから選ばれた五十何人の方が、 どうしても神戸に一度行きたいと。 それが来年の一月十三日、 神戸の子供たちを招待して励ましたいと言ってくれたそうです。 一昨日もサンテレビが関東へ取材に行かれました。 N響の首席奏者も無料で出演してくれるそうです。
今日お見えになっている小泉先生や玉川ゆかさんも関係があるんですが、 西宮の中西先生という方に、 震災をイメージした曲を作っていただきました。 やっぱり私も子供の時に、 音楽で感動を憶えましたので、 ソフト面で感動を与えるような何か…音楽だけじゃないんですけれども、 そういうことをもっと精力的に進めていかないと、 人の輪が広がっていかないのではないかと。 もちろん震災の曲を作って、 大きな舞台でやるという団体もあります。 そういうことを推進していくようなスタッフを育てていただけたらなと思っています。
押田:
いろいろな方が、 いろいろな立場でそういう試みをやっておられる。 その活動がいちいち新聞に出たり、 テレビに出るわけではありませんが、 あちこちでいろんな方が努力をしておられるんですね。
私的なことを申しますと、 私も栄光教会のレコードコンサートによく通いました。 父が少しレコードを持っていたもんですから、 戦争中に兵隊さんにレコードを貸していたんですね。 戦争が終わって兵隊さんがレコードを返しにきました。 家は焼けて蓄音機がないのに、 レコードだけが残りました。 それを栄光教会でのレコードコンサートにお貸ししたような記憶もあります。 音楽で心が和む人、 絵画を見て感動する人、 詩を聞いて感動する人、 いろいろあるんだろうと思います。 そういうことをやってくださるのが、 芸術畑の方々だと思っています。
Gさん:
一回目から、 ずっとこのシンポジウムのスタッフとしてやっております。 私も慈さんと同じような経歴を偶然、 持っているんです。 高校までは神戸で、 大学は関東の方に行きましたが、 震災の一年後に戻ってきました。 別になごり惜しいとも思わず家を出ていったんですけど、 震災をきっかけにいろいろ考えるようになりました。 戻ってきて、 こういう会を開いたり、 自分で絵を描いたり、 自分の中に記憶を作っていくということをやっています。
当日配られた「Happy Kobe」ポストカード((◎C)K. YAMAMOTO) |
押田:
継続は力なりと申します。 実は、 私あたりは、 三回やって、 次のことは考えていないんですが、 若い層から、 続けるべきだという力強い発言があり、 私もうん、 うんと思いながら聞いておりました。
押田さんから、 震災後のやさしさというお話が出ました。 私も、 震災直後のやさしさって何やったんかなとずっと思い続けています。 みんながすごくやさしかった、 あの二〜三日が忘れられません。 その後は、 避難所に行って、 思い出したくもないような場所の取り合いのけんかとか、 ちょっといなくなっているあいだに毛布がなくなっているとか、 おにぎりひとつで隣の人と気まずくなるとか、 非常にいやなことが押し寄せたんです。
人が一瞬、 やさしさを失った時というのは、 やっぱり国から、 行政から、 何の助けも来なかった時なんですよね。 みんながやさしかったのは、 これだけのひどい震災に遭って、 これだけの豊かな日本で、 きっと助けがくると思って辛抱強く待った、 あの二〜三日じゃなかったのかなと思うんです。 でもその後は、 何の手立てもなく、 瓦礫一つ片付ける手もない。 そしたら、 とにかく自分の持っているものを確保しようと、 一転して自己防衛に走ってしまった。 やさしさとか思いやりとかを一瞬のうちになくしてしまったあの時の思いを、 すごくいまも引きずっています、 私たちは、 ちゃんとした国家の中に生きているんだから、 国は、 国民が困った時には、 当然助けてくれるべきだと私は思っています。 だから、 あの一瞬のやさしさということについて、 皆さんどうお考えなんでしょうか。
Hさん:
私は年をとっていますので、 戦災と今度の震災をつい比較するのですが、 戦災の当時はこの震災よりも、 もっと激しかったような気がします。 それで、 その記憶というものが全然残っていない。 あの時は、 とにかく日本中が同じような状態で、 どこも助けてくれる人はいなかったということですね。 まだこの震災では、 周りがそんなに被害を受けてないので、 毛布とかいろんなものが多少なりとも集まったということなんですね。 だから、 戦災の時を考えますと、 今度の震災というのはまだ我慢ができたのかなと思っています。 それももう無くなった記憶ですね。 私なんかまだ生きているんですけど、 この生きている人間が知っているようなことが、 都市としては失われているんじゃないかという気がします。
Iさん:
私もそれに同感です。 実は、 私たちはあのすごい経験をどこかで忘れたいんですよね。 やさしかったけれども、 二度と繰り返したくないじゃないですか。 逃げたいということと、 そうじゃなくて忘れたらあかんということの両方があるんですよね。 必ず次の世代に伝えていかなきゃいかんという義務感みたいなものと、 一方では自分自身、 傷を受けているものですから、 早く忘れてしまいたいというか、 逃げたい…そういう矛盾が自分の心の中にあるわけです。
慈さんとGさんにお聞きしたいんですけど、 お二人は地震に遭ってないんですよね。 だから逆に、 自分が神戸出身なのに遭えなかったというコンプレックスみたいなのが、 共有したいということへのエネルギーになっているんじゃないかなと思います。
それからもう一つ、 小泉さんにも質問なんですが、 『神戸っ子』というハイカラな雑誌を作りながら、 ご自分は大和楽という古風なものを隠しつつやっておられる。 そういう自己矛盾みたいなものを感じながら、 神戸らしさを主張していく。 神戸らしさと言っても、 古い伝統とか歴史があって、 その上にハイカラがないと、 地に足が付いてないような感じがするんです。 黒澤明とか淀長さんとかが亡くなって、 戦後五十年という時代の変わり目みたいな時に地震もあった、 自分の作った雑誌の編集長も辞められる、 すごい総括をされているんではないかなと思ったんですが、 そのあたりを聞かせてください。
慈:
震災の時は、 かみさんのお父さんから、 神戸がすごいぞと、 僕に電話がありました。 七時半、 八時頃はテレビの映像も空撮ばかりで、 すごいけども、 壊れてないところもあるなあという感じで、 そのまま会社に行ったんですよ。 そしたら、 会社の人たちの方が焦っていて、 帰れと言われたんですけども、 連絡が取れない。 ただ、 ずっとぼーっとしてて、 まだ、 自分のことだと思えないところがありました。
次の日にやっと連絡が取れ、 避難所にいるということなんで帰ったんですけど、 帰った時はもう、 ショックとかいうのを完全に越えちゃっていましたね。 いきなりそのビジュアルしかないわけですから、 何とも言えない感覚ですよね。 その感覚が僕の地震の体験なんです。
その後も、 一ヵ月に一回、 一週間ぐらい休みを取って、 ボランティアで帰ってくるということを一年間続けました。 帰って来たら皆さんやっぱり地震の話なんかをされるんですけど、 何か、 よれないんですよね。 僕が何か言っても、 「お前、 おらんかったやろ」と。 それでまあ、 協議会のほうをお手伝いするようになったんですけど。 多分、 地震がなかったら、 「naddism」も作ってなかったと思うんです。 「naddism」というのは、 別に地震に絡んでないんですけどね。 でも、 地震がなかったら絶対できなかったと思っています。 地震がなくて、 神戸に戻ったとして、 寺をやっているかというとやってない。 地震とは絡んでないけれども、 かなり地震に負っているということです。
小泉:
地震の後、 私たちに代わって動いてくれた人たちの中には、 外国に行っていたり、 あまり被害を受けてなかったり、 そういう人が多いんです。 私たちは、 直後は必死で家を捜したり、 避難所にいたりしてたわけですから、 そんなことできないですよね。 自分のところが落ち着くまでにものすごく時間がかかってます。 だから、 あまり被害のなかった人たちが私たちを勇気づけてくれたし、 引っ張っていってくれてよかったと思っています。
震災後、 『神戸っ子』は、 三月号を初めて出し、 皆さんから激励文をいただきました。 その号は、 米田さんが写された、 建物などの壊れた写真を載せたんですけど、 次の号からは一切載せていない。 載せられないんですよ。 だから、 私はジャーナリストではないなと思いました。 十五日に座談会をしたスポンサーの菊正宗さん、 澤の鶴さん、 櫻正宗さんが全壊しているわけですよ。 しかも、 何人かの方々が亡くなっているんです。 その座談会は載せましたけど、 全壊した写真は載せられなかったですね。 櫻正宗さんがきれいになって伺った時に、 「いやあ、 載せてくれなかったのは、 やさしいからやわ」って言っていただいたんですけど、 本当に載せられなかった。 あまりにも無残で、 心が痛んで、 どうしようもなくて。 それ以降は立ち上がっていく神戸だけを載せていこうと思ったんです。
その頃は、 割合にハイな状態で私たちもがんばっていたんですけど、 三年目ぐらいから、 スポンサーがどんどん落ちて、 いま、 三〇%落ちてしまっているんです。 いろんな修理とか何かにお金が掛かって、 やっぱり一番にカットしていくのは、 広告なんです。 長いことつき合ってくれていた専門店も、 ファッション業界もお休み。 ということで、 ここで転換しなくちゃいけないと。 少し版も大きくしたら、 新しいスポンサーもギャランティーが高いんちゃうか、 というようなことに(笑)…。 非常に経済的な理由なんですよ、 大版に変わるのは。
「神戸っ子」(小さい版) |
「神戸っ子」(大きい版) |
非常に大変な時期ですが、 歯を食いしばってやっていますし、 オピニオンリーダーという立場も貫いていこうと思っています。 神戸空港も、 私共は、 創刊以来推進派です。 空港推進ということで、 これから書かへん、 降りると言われた方も何人かあります。 三十五万票の中には、 「いらない」という人が多いと思うんですけど、 一つの夢をかけてきたので、 主義は曲げません。 これからは、 いままで続けてきたこと…地域文化とかいろんなことをまとめていくのが、 私の役目だと思っています。 司馬遼太郎さんに、 創刊時代、 二年ぐらい書いていただいき、 対談もしていただきました。 その『ここに神戸がある』という素晴らしい本を一月十七日、 復刻版的に出すことになっています。 陳先生の原稿もありますし、 淀長さんの三十七年間の原稿も本にしていませんので、 いっぱい宝物が放ってあります。 ですから、 これからそういうことをまとめていきたいと思っています。 それが私にとって、 神戸の記憶を留めることになっていくんじゃないかと思っています。
私は、 シンポジウムを仕掛けている立場ですが、 第一回目の「都市の記憶」シンポジウムのとき、 神戸の復興に、 大体十年はかかるだろうと。 いま、 その半ばに差しかかっているところだけれども、 その時の我々の一番強い思いは、 やっぱり神戸は神戸らしく復興してほしいという願いでした。 その「らしさ」を捜し続けるということが都市の記憶じゃないかということでやってきたんです。 けれども、 神戸らしさって何なんやと。 いままで何となく我々も神戸で暮らしてきたけれども、 よく考えてみると、 神戸のアイデンティティーというあたりが一番あやふやなんですね。
私自身も小学校から大学まで神戸市内でした。 大学は神戸大学なんですけど、 反アカデミズムみたいなところがある大学でして、 わりと皆、 卒業すると外へ、 商社とか銀行に勤めて、 他へ出てしまうわけです。 神戸のハイカラな雰囲気で育ってきたわりには、 地元へ残って神戸らしさを継いでいくことがない、 という風土が非常に強い。 だからいま、 復興の前半が終わりつつあるところで、 もう一回、 神戸ってどんなまちやったんやろということを掘り起こして、 自分の中で持っている神戸のアイデンティティーとはこんなもんなんやという話をしていただきたいと思うんです。
神戸全体については、 小泉さんに話していただければありがたいんですが、 神戸にもいろんな場所がありますね。 玉川さんが育った兵庫の町、 慈さんの灘、 私の育った東灘、 それぞれが地域のアイデンティティーを持っていて、 神戸も一色じゃないですよね。 だから、 まちづくりや復興も、 そのアイデンティティーを生かして、 こういう方向でやりたいんだという姿勢を示さないといけないんじゃないかと思っています。 神戸空港の話が出ましたけど、 神戸は大体、 行政主導の伝統がここ数十年続いていて「民」の力が弱いんですよね。 このあいだ、 神戸市の人とのお話で、 神戸は行政がやりすぎやと言われるけど、 「民」の力が弱いから、 行政がせざるをえんというてました。 大阪やと、 大阪市が何かやろうとすると、 商工会議所がわーっと文句を言う。 こうせなあかん、 そんなんちゃうでと口をはさんでくる。 その点、 神戸はおとなしい。 もしかしたら、 ちゃんとしたアイデンティティーを持っていないために、 そういうことになるんじゃないか。 全体の話と個別の話があると思うんですけど、 その辺のことをパネリストの方にお聞きしたいのですが。
玉川:
五十年ほど神戸を見てきましたけど、 神戸を離れると、 あまり強烈な印象のあるまちではないんですね。 お互いにそれほど深く干渉しないから、 引っ越してきても住みやすいし、 また出ていっても誰も追いかけて文句は言わない。 深く根ざさない、 流れていくまちというイメージを私は神戸ついては持っています。 ファッションとか、 現代の先端をいくような雰囲気もすごく好きです。 他所へ行った時には、 そういうことも自慢しますし、 海も山も自慢をするんですが、 いざ、 そこへ根ざした神戸の文化って何やろということになると、 私もちょっと自信がありません。 ただ兵庫区についていうと、 やっぱり古いまちですし、 ずいぶんたくさんの史跡もあります。 いまから神戸らしさというものをもう一度、 掘り起こして作っていける、 そういう力は、 きっとできていくんじゃないかなと思うんです。
さきほど言われましたように、 神戸というまちは、 地方からやって来た人が多く、 根っからの神戸っ子というのは少ない。 他所から来ても暮らしやすい、 深くお互いに干渉しないまちということで、 わりと居着いてはいるんですけど、 そしたらそのまちに責任持って…、 自分がこのまちを作っていこうと、 積極的な形でまちと関わってきた人はあまりなかったんじゃないですか。 ただ、 今回の震災で、 自分のまちが壊れた、 ほんなら私のまちどないするんやということで、 あちこちでまちづくりをやろうというエネルギーが出てきている。 きっといまから、 そういうエネルギーが、 自分たちのまちをつくっていく新しい力となって結集していくんじゃないかと思います。
神戸がぬるいところというのは、 僕もよくわかっていて、 特に灘区がそうです。 水道筋商店街というところ、 そこの買い物のしやすさっていったらない。 大阪なんかに行きますと、 がんがん「気」みたいなものが来るんですけど、 そこは、 のほほーんとしていて。 「神戸は田舎やから、 こういう方が買い物しやすい人もおる」という商店主さんが多い。 だからぬるいまち…温泉も熱いのが好きな人もいるし、 ぬるいのが好きな人もいるんだから。 そのぬるさを強調してうまくやっていけば、 いいんじゃないかな、 なんて。 無理して大阪みたいに熱いお湯にする必要はないと思うんですよ。 まあ、 水道筋の人たちは絶対そんなことできないですしね(笑)。
押田:
私も東京を始め、 いろんなまちに住みました。 くにを聞かれて、 神戸やというと、 皆さんがええとこですなあと言うんですね。 神戸のどこがええんやと聞くと、 何かええとこらしいですなと。 神戸がよかったのは、 神戸の港に揚がってきた商品を全部神戸で買う力を持っていた頃なんですね。 戦後、 港に揚がったものを神戸でよう買わへんわけですね。 そのままトラックで、 大阪や東京へ行ってしまう。 神戸市民一人当たりの所得は低く、 どんどん下がって、 いまや、 地方都市並みになりました。 それで何で神戸がええねん、 と言うと、 いやいや、 景色がええとか住みやすいとか言ってくれる。 私の小学校の時には、 郷土史という授業があり、 緑の山、 青い海、 神戸は天然の良港に恵まれ…云々、 とこうなんですね。 人は何もしていないみたいですが、 六甲山も皆で植林して、 はげ山を緑の山にした。 港だって、 天然の良港だけじゃない。 港を造るために、 たくさんの人が苦労して、 ここまでのものにしたんだと。 それをどうして小学生に教えなかったのか。 だから、 やっぱりぬーっとしてるんですね(笑)。 天然の良港に恵まれて…。 いま思うと、 小学校の時から、 自分のまちに対する教育が間違ってたんじゃないかなという感じが私はしています。
小泉:
梁さんという建築家がトアロードになぜ出てきたか…といいますと、 元々、 異人館の塗装屋さんなんですよ。 いまは弟さんが継いでますが、 代々の塗装屋さんです。 昔は異人館が二百軒以上あって、 だからそのころは、 職人さんが二十人ぐらいで、 神戸の代表的な異人館を直していたんですね。 そこの長男に生まれて、 三菱の建築をするところに行っていたんです。 震災後、 見てみたら、 自分とこのトアロードが一番ひどい状態やということに気がついて帰ってきたんです。 神戸の人は、 神戸を放って、 出て行って、 あっと思って帰ってきた…というのが現状じゃないでしょうか。 気合いを入れてやらんとあかん、 根性据えてトアロードをやろう、 という気に皆がなってきた。 でも、 トアロードのまちの人もまだ、 本当に知らん顔なんですよ。 信じられんほどぬるま湯(笑)。 トア「「「っとしてね。 ほんま、 トア「「「ロードです。
トアロードの景観形成条例を十一月一日にいただいたんです、 やっとやっと。 そうしたら、 高架のちょっと上にリンリンというのができたんですよ、 すごい看板でね。 大阪の会社なんですね。 震災後、 神戸に出てきているのは大阪や博多なんですよ。 そういう人たちは元気のパワーがいっぱいあるけど、 控えるということを知らない。 パワー全開の建物ばかりでは、 道頓堀のようになってくる。 そうなると、 やっぱり神戸は負けますわね。 これからは、 大阪と博多との戦いやと思いますね(笑)。 あれを制さなくては、 神戸の「ふわー」が無くなる。
どこか控えながら、 まちの調和を保っていくというのは、 別の意味で、 神戸のいいところだと思います。 抜きん出た人は出ないかもしれないけど、 皆が控え合って住んできたというのは、 いいハーモニーを保ってきたということですね。 ほかからそのドワーッが出てくると、 それに皆がやられて、 まちも何も無茶苦茶になってしまう。 これは恐いですよね。 これをどうするか…元気元気なまちはできるかもしれないけど、 せっかく保ってきた神戸のにおいとか、 いいものが無くなってしまうから、 これからそれとの戦いやと私は思っているんです。 景観形成条例をやっと作っていただけたので、 トアロードもがんばろうと思っております。
押田:
若い女性を見たら、 そのまちがよくわかると言います。 東京は競争のまちだから、 若い女性もいい旦那を見つけようとぎらぎらしている。 だから、 東京の女は目つきが悪い。 大阪の女性は、 ちょっと付き合うと、 給料なんぼとすぐ聞く。 京都の女性は家で押えつけられているから、 外へ出ると、 一番羽を伸ばしている。 神戸は何かというと、 宝塚やと。 いつか白い馬に乗った王子様が迎えに来てくれると思って、 ぼーっとしていると(笑)。 だからそれがそのまま神戸のまちなんです。
Kさん:
先程から、 神戸はふわーっとしているという話がでていますが、 やっぱりソフトでスマートというのが、 神戸のカラーじゃないですか。 ファッションにしても、 何にしても、 えげつなさがないんです。 JRと阪神と阪急と昔から電車が三本走っていますよね。 この三本の線のカラーっていうのは昔はものすごく違っていたんですが、 最近、 だんだん同じようになって、 均質化が進んでいるようですね。 都市間もどうかすると、 さっきのお話のように、 大阪が来る、 博多が来るということで、 だんだん同じようになっていくんじゃないかなと思います。
八年程前に、 ロンドンタクシーを走らせたんです。 当時は、 アーバンリゾートフェアで、 旧居留地あたりの建物が目立ってきて、 まちづくりなんていう言葉が出始めた頃です。 旧居留地のまちなみに合った乗り物を走らせることができるのは、 タクシー屋だろうなと思ってやったんです。 まあ、 いけたかななんて自己満足する反面、 神戸のまちにロンドンタクシーなんて、 コピー商品を走らせて、 自分なりにいやーな部分も抱えていました。 しばらくして震災があり、 そういうタクシーを走らせることを躊躇しまして、 一年ばかり止めました。
私も旧居留地を含め、 トアロードを何とかしたいな、 あの辺りでやっぱりロンドンタクシーを走らせたいなとずっとイメージしていたんです。 そこへ東京の航空会社から、 三都物語で、 何か神戸らしい所が出ないですか、 ロンドンタクシーで出ないか、 という問い合わせがありました。 向こうさんは神戸らしいところというけれど、 そんなところはもう神戸にはないんじゃないかと思っていたんです。 私の生まれは長田区のJR沿いで、 ハイカラというのがよくわからない。 長田の町で生まれ育ちましたから、 大丸がまぶしくてしょうがなかったし、 北野に行ったこともないし、 芦屋とか苦楽園、 あの界隈でしかハイカラは残ってないだろうと思いました。 それで、 伊丹空港から、 阪神間の酒蔵とか、 苦楽園はどうだろう。 そういうコースを提案しましたら、 東京の航空会社が違うと言うんですよ。 三都物語だから、 西宮や芦屋じゃなくて、 神戸だ、 神戸だ、 とおっしゃるんです。 よーしと、 三案作ったんです。 有馬温泉を巡って、 布引の滝を見てと言うと、 それも古風でだめ、 神戸だと言うんですよ。 それで苦し紛れに、 神戸はファッショナブルなまちなんで、 北野のヴィーナスブリッジからトアロードを通って旧居留地まで、 ここを五時間掛けて観光しちゃいましょう、 神戸しかないお店がありますから、 海まで五時間掛けて行きますよと言ったら、 そうです、 それが神戸なんですと言うんですね。 ところがどっこい、 私のプランがそのまま企画されてびっくり。 でも、 とても持たない、 五時間もどうしてトアロードで持ちますか(笑)。 お客さんには明石海峡大橋をご案内したりして、 ちょっとごまかしたりしてるんですけどね…。
でも、 どうしようかと悩んだ時、 人間はそれをバネにいろいろ考えるんです。 これはそれぞれの店舗の方々にご協力をいただこうと思いました。 ようこそいらっしゃいました、 神戸はすごく住みよい、 いいまちですと。 その神戸のいい部分を五時間の滞在型のプランで、 味わっていただこう。 店舗の方々との出会い、 ふれあいを十二分に満喫していただこう。 トアロードの店舗の方、 大丸を含め旧居留地の店舗の方々とのふれあいが堪能できれば、 これほどおもしろい旅はないだろう。 京都、 大阪にはない味が出せる。 そう思いまして、 もう一度それを東京に提案したんです。 そうしたら、 そんな旅はいままでなかったんで、 ぜひやってくれという答えでした。 私も、 もう風呂敷を広げてしまって、 神戸はやれますよ、 震災の時でも、 あれだけ人のふれあいを大事にするまちですから、 十二分にお客さんに楽しんでいただけますよと。 そういって、 いまも風呂敷を広げたたままなんですけどね。
これは観光なんですけど、 観光という切り口でも、 十分成り立つ、 立ち上がることのできるまちというのが、 それこそアイデンティティーを持った、 いいまちだと思うんです。 ロンドンタクシーはいま三台ですけど、 タクシー屋が車を転がすことで、 何かまちづくりが見えてきたなと思います。 どのような立場であれ、 どのような職業であれ、 自分が参加できたなということに、 いま、 充実感を持っています。
どういう風に集約したらいいかと迷っていたんですが、 ロンドンタクシーを走らせていらっしゃるLさんのお話の中に、 神戸のいい所、 これからやらなくちゃいけないこと、 みんな入っていたように思います。
お三方から、 まとめとか、 言い残したことを一言ずつ、 お願いします。
慈:
アイデンティティーの話の続きになりますが、 僕もいま、 まちづくりの方をやっています。 商業地は先ほど言われたことでいいと思うんですけど、 住宅街の方が、 どうしようかという感じなんですね。 「naddism」を後二〜三十年続ければわかるかな、 三十年後にわかりゃいいやなんて、 思っているんですけどね(笑)。 先ほどGさんが言われたように、 がんばって続けていって、 これを中心にいろんなものが派生していけばいいなと思っています。
小泉:
司馬先生が最初に来られた時に、 神戸にはハイカラの伝統があるとおっしゃったんです。 中西勝さんの髭を見て言われまして、 つまり髭を生やしていても、 違和感のないまちやということだそうです。 アカデミーバーへ行った時に、 そういう話をされました。 うちのまちに来たら髭は違和感があるよと。 ほんまに東大阪では髭はあきませんわ。 やっぱりダンディーが似合う、 神戸はそういうまちなんです。 だから、 男も女も洒落のめして歩こうやないかと。 私は、 トアロードが神戸のハイカラロード、 神戸の花道やと思っていますので、 まずメインストリートをしっかりイメージング、 仕上げていくということをやっていこうと思っています。 やっぱり古い所にも投資していくということが大事です。 神戸市は新しい所へばかり投資し続けてきました。 でも、 少しの投資で古いまちなみ、 古い所がよみがえるわけです。 工房のまち一つでわかりますね。 そして、 そのほうが市民も喜ぶんじゃないかと思うんです。 そういうことを大事にしながら、 新しいまちづくりをやっていきたい。 フロンティアスピリッツというか、 挑戦する精神を忘れないでいきたいと思っております。
玉川:
先程の水道筋の市場じゃないですけど、 平野市場も非常にぬるい雰囲気の市場で、 その中でずっと営業を続けています。 それと同時に震災後、 私たちが人の和の中で立ち上がってきたことが、 やっぱり忘れられないんですね。 私の詩が作曲されて歌われたということを一つのきっかけに、 「創作グループ965の会」というのを作りました。 これには音楽家とか絵描きとか詩人とアートフラワーをやっている友達とか書家とかいろんな人がいるんですけど、 自分たちの創作しているもの、 文化でもって、 地域の人とつながっていこうと、 震災後、 ずっと続けています。 年に一回コンサートを持ち…これにはGさんのいわれたことと関係するんですけど、 そういうことを続けていきながら、 ソフトの面でがんばっていきたい。 同人誌として、 『プラタナス』という雑誌も発行していますので、 もしそういうところでものを書いて、 みんなと一緒にやりたいなという方は、 またどうぞご参加ください。
押田:
「都市と記憶」の三回目、 「人とまちとが共有するもの」というテーマで、 いろいろとお話を交わすことができました。 まちが人をつくり、 人がまちをつくっていく。 両方で切磋琢磨していかんといけない。 人の記憶というのは、 いくら頭のいい人がたくさん記憶しても、 その人が死んだら終わりです。 記憶じゃだめだ、 記録をしなくちゃいけないと言って、 小松左京さんが、 毎日新聞に一年間ずっと記録を書きましたが、 取材の一部を、 私も鞄持ちで一緒にやり、 会うたびに記録、 記録と言っていたんですが、 それはそれとして、 記憶という死んだらなくなるものに一つのロマンがあるような気がして、 やはり記憶も大事だと思っています。 小松さんのお母さんは東京の方で、 関東大震災に遭って関西に来られ、 しょっちゅう地震の話をして、 地震は恐い、 だからいつ地震がきても困らないようにどうしなくちゃいけないか、 ずっとしゃべっていたと言うんですね。 それを小松さんはずっと聞いていて、 『日本沈没』のヒントにもつながったと言われていました。 同じ時に、 小松さんのお友達で、 杉山貞夫という関学の先生は全く逆なんですね。 やっぱりお母さんは東京の方だけど、 絶対震災の話をしない、 言うのもいやだ。 思い出すから絶対口にしたくない、 周りの人にも言ってほしくない、 と言い続けておられたようです。 たまたま、 中学の二人の先輩のうち、 小松先輩のお母さんは言い続けられ、 杉山先輩のお母さんは絶対言わなかった。 どっちが正しいとか良いという話ではなく、 それぞれ人の思いがそこにあってのことだろうと思っています。
私もファッションに絡んだ仕事をちょっとしたことがありましたけど、 大阪の人たちに言い続けたことは、 「おしゃれしようと思ったら、 高いブランド品を買って、 着ればいい。 だからお金さえあれば、 ある程度のおしゃれはできるんだと。 けど、 同じブランドの洋服を着て歩いても、 大阪の女の子が歩いとんと、 神戸の女の子が歩いとんとは、 ちゃうで。 つまり着こなしが違う。 着こなしというのは一つの文化や。 これはいくら大阪が金積んだってまねでけへんで」と。 これが、 大阪の人間と議論するときの私の切り札でした。 娘が出かける時に、 ちょっとそのショールをこう掛けたらかっこいいでしょ、 というようなことを神戸のお母さんは教えるんですね。 また、 道を歩きながらかっこいい人を見かけると、 今度あれをまねしようなんて思うんですね。 そういうことが、 神戸のおしゃれを保ってきたんだろうと私は思っています。
「都市の記憶」というと、 どうしても震災の話になりますが、 震災できえてしまったよき神戸は、 記憶という名のもとに、 一人一人の皆さん方の心の中に、 いろんな形で残っているんだろうと思います。 「都市の記憶」というと、 都市を擬人化したような言い方かもしれませんが、 私どもが、 「都市の記憶」という言葉でシンポジウムを続けていることをご理解いただけたんじゃないかなと思います。 横から助け船を出してもらったりしながら、 何とかこの時間まで有意義な時間が持てました。 ありがとうございました。
では、 司会者の方へマイクを戻しますので、 よろしく(拍手)。
司会:
長時間ありがとうございました。 冒頭に申し上げましたように、 前におられるパネリストの方ばかりでなく、 会場の皆さん全体がパネリストのような雰囲気で終えることができましたこと、 非常にうれしく思っております。 会場の方から紹介のありました、 来年一月十三日の神戸のコンサートに、 皆さんぜひ参加いただきますよう、 PRさせていただきます。 それから、 玉川さんは、 十一月三十日から十二月四日まで連続五日間、 NHKで朝七時から、 「関西ふれあいラジオ」という番組に出られます。 今日のお話以外にもたくさんお話されると思いますので、 ぜひお聴きください。 さらに、 「神戸っ子」さんからの司馬さんの『ここに神戸がある』の出版を楽しみにしております。
それでは名残り惜しいんですけど、 また来年のいま頃に第四回目があるか無いか、 ぜひあってほしいんですが、 皆様の応援でまた開けますように祈念しつつ、 これにてお開きにさせていただきます。 どうも皆さん、 ありがとうございました(拍手)。