自分がまちとどういう関わりがあったのか。 自分というものが神戸というまちに育ったから、 いまの何かがあるんだろうと思いますが、 そういう意味で、 まちと私との関わり、 あるいは、 もう一歩踏み込んで、 このまちに私はこれを言いたいということがありましたらご披露いただきたいと思います。
僕は一般区民のふりをしていますが、 実は「まちおたく」なんですよね。 アニメおたくとかなんかと同じように、 まちが子供の時から好きだったんです。 だから、 普通の人の思い入れとは全然違うと思うんです。 三宮にたまに行っても、 普通だったら居留地のビルがいいなあなんて思うのかもしれないですけど、 僕は、 新聞会館の富士山をスケッチしたり、 この横の写真屋さんの上にあったペンタックスの広告搭を覚えていたり、 なんかそういう建築付随物ばかりを愛でるという性格だったんです。 そういう奴が灘に来たらどうなるかというと、 子供の時というのは、 半径二百メートルが全宇宙なんですね、 情報なり生き方なり、 何でもまちから得ていたように思うんですけど、 そういうことが最近、 希薄じゃないかなという気がします。 それでいいのかもしれないけど、 僕は住んでいるところにもう少し濃密に関わってほしいと言いますか、 気にしてほしいなあなんて思います。 そうすれば僕も、 話のあう人が増えると思うんですけど、 なかなかそんな奴がいないもんで…(笑)。
私は昭和十一年、 須磨海岸の近くの若宮町で生まれました。 今日は、 藤本ハルミさんのドレスを来ているんですが、 波に千鳥の柄で、 これが私の原点なんです。 私は夢野台高校の出身で、 玉川さんも夢野台だということが今日わかったんですけど、 藤本さんも先輩で(県立第二高女卒)船長さんの娘さんなので、 非常に外国人的発想で服を作るんですね。
私は料理屋の娘です。 住友別邸があって、 その隣にビオフェルミンの百崎別邸があって、 その隣の以津金という料理屋ですが、 六十畳の間があったり、 なかなかいい料理屋でした。 やはりそこで育ったことが影響していて、 いまでも三味線をやったり、 波に千鳥の服を着たりしているんですね。 うちの紋がそうだったんです。 あの辺の寿楼とか延命軒とか、 みんな波に千鳥がマークなんですよね。 それほど昔は千鳥がいたのだ、 ということですね。
このあいだ、 明石大橋ができて、 舞子アジュールのそばにあるペルーラというホテルに行って感動したんです。 渚に千鳥の足跡があって、 漁師さんの船があって…。 そういう記憶と、 海で泳いだという記憶が重なって、 やはり神戸の人は都会育ちなんだけど、 自然が常にそばにあるんだなあと思ったんですね。 ですから、 自然描写に強いというか、 風景が自分の中に育まれているというか。 まあ、 日本人全体の感覚だと思うんですけど、 特に神戸の場合は、 都会なのに自然があるという、 ややビレッジというか、 そういうところがいいんじゃないかなと思うんですね。
私は、 戦争の時、 岡山に疎開したんです。 岡山の西大寺という、 吉井川のほとりのおばあちゃんの家に預けられたんです。 そこでいじめにあいましたし、 小学校三年生ぐらいで田植えもしましたし、 稲刈りもしました。 それで肋膜になってぶっ倒れて、 一学期休んだんですが、 その時に、 岡山のしつこさといいますか、 土となじむ農村生活というのが身につきました。 ですから、 神戸っ子の軽い部分と岡山の重たい部分がくっついたわけですね。 ずっといじめられていたので、 恋しい恋しい、 早く帰りたいと思いながらも、 五年いたんです。 ですからいま、 震災後四年目になりますけど、 震災でよそへ疎開した子供たちが帰ってくるのに、 五年掛かるんじゃないかと思っています。
うちも神戸へ帰ってきて、 東山町でまた料理屋をしたんですけど、 やはり場所を見つけて仕事を始めようと思うと、 五年掛かっているんですよね。 県外に一度出てしまうと、 戻ってくるのにかなりの時間がかかるなと思うんです。 でも、 その恋しい恋しいが昂じて、 『神戸っ子』という本を作ったわけです。 一度離れてみたから神戸というまちが鮮明に浮かび上がったんですね。
私が疎開する前、 須磨の料理屋も営業できなくなって、 焼けるまでの三年間、 福原の桜筋にいたんです。 その頃、 桜筋にはまだ三階建の御女郎屋さんが並んでいて…遊びに行った思い出をお持ちのかたもあるかもしませんが(笑)、 私は、 そういう日本的な建造物に触れながら育ってきているんです。 ですから、 木の文化の中で育ったというのが、 非常に大きいと思うんですよね。 そういう中で育った情操感覚というのは、 神戸の中でも、 異色じゃないかと。 ハイカラにはちょっと程遠いんですね。 ただ、 須磨にいた頃も、 社交ダンスが流行っていて、 母親なんかも畳を上げて稽古をしていましたから、 やはりハイカラの波は行っているわけです。
神戸に帰ってきてから、 中学を卒業して、 夢野台高校に入ったんですが、 やはり新開地にはよく行きました。 帰ってきた時には、 新開地の映画館がまだ全部ありました。 それがいま、 何も無くなっているというのは、 我々は新開地文化をなおざりにしてきたということですね。 最後の松竹劇場でまだ吉本が漫才もやっていたわけですよ。 それも無くなってしまったということは、 あまりにも放っていたなという気がして、 いま、 そういうことをもう一度やらなくちゃいけないという使命感、 義務感を感じます。 今度、 国際会館が四月にできるんですけど、 やはり三宮において、 国際会館が潰れたということは大きいんですね。 あれが建たないと三宮の活気が戻らない。 ですから、 いかに文化的装置が大事かと思うわけです。
私は三十七年間、 小さな雑誌でやってきましたので、 大きい判になかなか移れないんですね、 気持ちが。 それで、 十二月号で編集長を降りることにしました。 やっぱりできないんですね。 ということで、 これはちょうど小磯良平先生の没後十年目の特集なんです。 先生のおうちへずっと通っていましたし、 御影のええしのうちですから(笑)、 私の育ったところとは雲泥の差です。 先生のところは三田藩主九鬼家ご家老の家で、 そこに料理屋の娘が行くんですから、 えらい違いなんですけど、 それだから、 モダニズムがよくわかったんです。 ですから、 憧れの中でこういうものを作ってこれました。
その代わり、 兄が能をやっていること、 私が三味線音楽をやっていることをひた隠しに隠してきました。 ハイカラでないと京、 大阪には負けると思って、 ハイカラ文化で勝負してきました。 三十七年続いた小さい版が、 大きい版に替わって、 ちょうどその最後に淀川先生が亡くなられて、 ピリオドを打たれたということです。
淀川先生は柳原の出身で、 私とよく似た立場なんです。 ですから、 先生と非常に気が合うんですよ。 チントンシャンで育ってますからね。 メリケンパークに映画の記念碑を作ったり、 兵庫大仏の再建、 神戸の映画百年祭とか、 いろんなことに力を貸していただきました。 先生は最後に、 震災後の汚い神戸は見たくないと言われました。 これはとてもショックでしたね。 でも、 それも無理ないかなと思いました。 正直なんですね、 あの人は。 体もお悪かったのでとうとう来ていただけなかったんですけど、 小磯先生ともお別れする、 淀川先生ともお別れするということで、 十二月号で淀川長治特集をやって終わろうと思っています。 黒沢監督が亡くなられ、 三船敏郎さんが亡くなられ、 やはり戦後五十年の決算みたいなものが来ているなあと思います。 また、 続きは後で。
いま、 小磯良平さんの話が出ましたけど、 私は小磯良平さんが一回生だったという兵庫区の平野小学校の出身なんです。 私は兵庫区の中でも、 半径二キロから、 生まれてこのかた、 動いたことがないという兵庫区っ子なんです。 東山魁夷さんも、 運河のところの釣具屋さんの息子さんだそうで、 兵庫区というのは本来、 文化のすごく豊かなところだと思うんですけれども、 何か殺伐とした兵庫区にいま、 かなり不満を持っているんです。
昔、 私の家は廻船問屋をしていて、 兵庫の港に生活の拠点を持っていたそうなんです。 それがどういうわけか、 ひいおばあちゃんあたりから、 福原の芸者なんですね。 これはどうも廻船問屋が潰れて、 娘が売りに出されたんでしょうね(笑)。 どういう悲惨な家庭の事情があったのかは知りませんが、 そういうわけで、 私のひいおばあちゃん、 おばあちゃんは、 福原で大きくなりました。 私の母親の代から足を洗ったみたいなんですが、 私は兵庫区の夢野に生まれまして、 いま平野ですから、 わずか二キロ程しか移動していないんです。
私の住んでいるところは、 清盛の福原京の遺跡がすぐ近くの大学病院の下から出ているという場所ですし、 近くに温泉があり、 昔は梅林もあったという文化的に豊かなところです。 けれども、 地下鉄はよそ向いて通りますし、 神鉄は西の方から南へ降りますし、 どうもこの平野という一帯は取り残されて、 文化も商売も根付かない。 いま、 非常に苦しい思いをしているんですけど、 兵庫区で育ったという都市の記憶で言いますと、 私の細胞の中にも、 古い兵庫区の記憶がどこかにあります。 いまからまた、 歴史的にも、 文化的にも思いを寄せて探検していけば、 慈さんの「naddism」じゃないですが、 きっとおもしろい掘り出し物に出会うんじゃないかなと。 そういうような兵庫区への深い思いは持っております。
トアロードのことを言い忘れていたので少しお話させていただきます。 震災のちょっと前、 フラワーロードにいたんですけど、 家賃が高くなって(笑)…。 バブルでどんどん上がって、 六十万円。 それで悲鳴をあげて、 トアロードに行ったら、 安かったんですよ。 同じような広さが、 三十五万円から四十万円ぐらい。 そうしたら、 商売人の方から、 「神戸っ子さん、 トアロードの表通りに移って、 えらい出世したな」と言われたんです。 私たちは、 フラワーロードの方が、 市役所の裏やし、 観光地やし、 なんて思っていたんですけど、 私たちのスポンサーである商売人の方々から見れば、 トアロードの方が一等地だったわけですね。人とまちとのつながりから
まちから生き方を学ぶ
慈:原点は「波に千鳥」
小泉:小さな「神戸っ子」への思い
私は『神戸っ子』というのを三十七年もやっていて、 淀川先生にも三十七年間、 毎月映画評論を書いていただいたんです。 この本のスタイルにこだわって、 小磯良平先生のお宅にも伺ったりと、 いろいろ神戸のモダニズムを勉強しました。 その中で今度、 三十七年目に、 経済的理由からなんですが、 大きな判(B5判)になるんですよ。 四百五十号で小磯先生の特集をして、 この小さい形とさよならすることになりました。古い兵庫の記憶
玉川:変わりゆく・トアロード
小泉:
トアロード(1999年撮影) |
実は突然、 梁健偉さんという建築家が現われまして、 僕はミシガン大学へ行っていた。 そこでは、 クラフトアートフェアというのがある。 千軒くらいのテントを学校内に出して、 アーティストが出てきて売る。 これが定着していて、 もう三十六年もやっているんだと。 僕はそれをトアロードに持ってきたいんだと言われまして、 それじゃあやろうかと。 トアロードでないとでけへんという思いで、 千軒ではなく、 五十軒で(笑)スタートしたわけなんです(梁さんは異人館の塗装家さんが実家です)。
アーティストが出てきてものを売るというのは、 非常に質の高いものが売れるということなんですね。 それがトアロードにとってはすごくいいことなんですけど、 やはりテントというのは、 記憶に残らないな。 五十軒ぐらいでは一つのイメージにつながらない。 千軒あればいいでしょうけど。 トアロードというのは山から海への坂道で、 非常にいいストリートなんですけど、 やはり下へ行かないとお客さんが来ない。 テントは本当は上の方へ置きたかったんですけど…。
ところが今年、 「工房のまち」というのができて、 観光バスが二十台、 三十台入るという現象が起き、 とたんに、 お客さんがあの辺をうろうろするようになったんです。 そこから今度は、 NHK跡をどうしようとか、 北野ホテルをオープンしようとかいう話に広がってきたんですね。 「工房のまち」とか「クラフトアート」というように、 テーマが一つに統一されたということも非常によかったと思うんです。 これからも、 国際交流をやりながら、 まちづくりをしていこうとしています。
北野☆工房のまち(旧市立北野小学校)(昭和6年竣工、 設計:神戸市営繕課) |
慈さんは、 しばらく東京に行っておられたということで、 神戸を離れて神戸の良さを改めて感じられたと思うんですが、 いかがでしょうか。
慈:
神戸と東京では、 まず地形が全然違います。 うしろに六甲山が無いと座り心地が悪い。 ちょうど椅子の背もたれみたいなものですね。 大阪もそういう意味ではあまり好きなまちではないんですけど、 何か拠り所が無いというのが視覚的にも居心地が悪いですね。 ですから、 神戸は非常に地形的にいいなというところがあります。
押田:
前回、 森栗さんが、 モダンというのは日本国中がそういう時代だったんだから、 神戸だけが特別ではなかったと言われました。 それに対して、 たつみさんが、 やっぱり阪神間には阪神間の特性がある。 その時に強調されたのが、 やっぱり六甲山でしたね。 私自身も仕事で、 神戸を長年離れていましたけど、 やはり神戸で思い出すのは、 六甲山のあの白い坂道なんですね。 東京に行きましても、 道は黒いですよね。 神戸のまちは道が白い。 従って、 東京の連中は雨が降ると長靴を履いて出勤しますが、 神戸の我々は、 あまり長靴を履かない。 普通の短靴を履いて行って、 泥が付いても砂ですから、 乾いてパッパッと払ったらおしまいです。 東京では、 海水浴場へ行ったって、 海岸が黒いですからね。 神戸へ帰ってきますとあの白い道と、 白い砂浜。 あれが私も大変好きでした。