室崎:
では、 まず第1部の「まちづくり協議会の立ち上げの検証」から始めます。 まちづくり協議会の立ち上がりも、 いろんな要因により様相が違いました。 被害の程度、 あるいは震災前からまちづくりに取り組んでいたかどうかによっても内容は違ってくるようです。
最初は、 震災前からまちづくりに積極的に取り組んでおられた地区からご発言いただこうと思います。 トップバッターは、 深江地区まちづくり協議会の佐野さんです。
深江地区まちづくり協議会は平成元年に準備会を開き、 平成2年に結成しました。 平成4年には当時の住民9千200世帯へのアンケート調査を行い、 平成5年6月にまちづくり協議会の認定を神戸市から受けました。 その年の8月にはまちづくり構想の提案をしています。
平成6年には3回目のアンケートを実施し、 まちづくり協定の検討に入り、 平成7年2月に神戸市長とまちづくり協定を締結する予定だったのですが、 1月17日の震災によって中止になってしまったわけです。
深江地区は、 阪神高速が倒壊した地域であり、 地区全体が大きな被害を受けました。 被災面積が27万4千m²、 地区での死亡は259名、 全・半壊家屋は4千230棟で、 被災地区の中でも大きな被害でした。
まちづくり協議会の役員も震災当時はバラバラになって、 それぞれの町内で被災者のお世話に追われました。 私も東灘小学校で、 市場からもらったお饅頭を1個ずつ配ったものです。 東灘小学校には1千100人の被災者が集まっており、 学校外にも2千人を超す被災者がいて、 それぞれから救援物資が欲しいという申し入れがあり大混乱でした。 一般の救援物資が入ってきたのは、 1月20日になってからです。
まちづくり協議会の活動では、 1月27日から2月5日までの間に地域内の倒壊家屋の調査をいたしました。 2月11日には役員会を開き、 震災復興計画案づくり、 防災強化のための計画案、 民間賃貸制度、 住宅建設促進などの検討をし、 3月6日には幹事会を開き地区のみなさんに状況をお知らせすることにしました。 相談業務も6月には実施しています。 6月1日には、 深江地区の震災の状態を伝えるまちづくりニュースを8千部配布しました。 そういった活動をいたしました。
続いて、 やはり震災前からまちづくり運動に取り組んでこられた真野地区の報告を伺いたいと思います。
山花(真野地区まちづくり推進会):
真野地区では昭和30年代から公害反対運動が起こりました。 真野は公害に悩まされた地区で、 その反対運動がまちづくりの原点になっています。 また、 長屋が多い所ですからほとんど緑もなく公園もない。 子供を遊ばせるところがないから子供の交通事故も多く、 公園が欲しいという運動もしました。
その次に行ったのが、 地域医療、 地域福祉です。 一人暮らし、 寝たきりの老人もずいぶん多かったところです。 昭和50年代でしたが、 一人暮らしの老人が誰にも看取られずに孤独死したという事故が新聞紙上をにぎわしていた頃で、 そこから地域での医療、 福祉の問題に関わっていきました。
真野地区の人口がピークに達したのは昭和35年で、 人口1万3千377人を数えています。 それを境に1万人を切って、 9千人、 8千人と人が減っていったのです。
どうしてだろうと支援の先生方に相談したところ、 「真野には人が暮らす器がない」ということでした。 その頃の長屋は12坪(40m²弱)に数人が暮らす生活でした。 私もそうした中で育ちました。 しかしその頃になると結婚した若者は家を出ていき、 一回町を離れると戻ってこなくなったのです。
やはり人が暮らせる器づくりをしなければならないと、 昭和52年に「まちづくり懇談会」、 昭和53年に「まちづくり検討委員会」をスタートさせました。 昭和56年には「まちづくり推進会」と名称を変え、 いよいよ家づくりに入っていきました。 そこから16年かけて約250戸の家が建ちました。 コンサルタントの先生にも頑張っていただき、 我々と共に手づくりでまちをつくってまいりました。
そして、 今回の震災。 その時の真野の人口は5千500人に減っていましたが、 人口が減った割りには世帯数はあまり減らず2千700世帯でした。 あの十数秒の地震の後、 半壊1千400軒、 全壊600軒、 かろうじて無事だったのが700軒です。 長屋は根元がやられて、 ほとんどが駄目でした。 8〜9割の家が使い物にならなかったのです。
16年かかって出来たのが250軒、 たった十数秒の地震で壊れたのが2千軒。 真野全体がよくなるには、 いったい何年かかるんだろうと、 頭の中が真っ白になってしまいました。 その中から、 震災後の復興まちづくりにとりかかっています。
ただひとつよかったと言えることは、 長年にわたってまちづくり運動をしてきたおかげで、 地域のコミュニケーションが深まっていたことです。 震災の時にそれが一気に花開いたようで、 パニックにもならず整然と協力しあうことが出来ました。
また今回の地震は幸か不幸か、 早朝の5時46分、 家族が全員家にいたところを襲われたのですが、 これが日中だったらどうなったか。 ご主人は会社、 奥さんは買い物、 子供は学校とバラバラの中、 どこに連絡すべきか、 どこに行けばいいのかと右往左往する事態になったことでしょう。 何かあったらどうすべきかを、 日常の家庭で話し合っておく家庭内コミュニケーションが必要だろうと思います。
地区全体としても、 今まで以上にコミュニケーションの輪を広げたいと思っています。 プライバシーの問題もありましょうが、 災害時に一番大事なのは隣近所のことをよく知っていて、 すぐに助け出せることのできる関係なのです。 早急に行動を起こせたのは、 そうした隣近所の人たちです。 ですから今後も、 地域コミュニケーションを核にしたまちづくりに力を入れていきたいと考えています。
論点を深めるために、 私の方から少し質問をさせていただきます。 まず、 深江地区についてですが、 震災後のまちづくりはうまくいっているとお考えですか。 うまくいっているとしたら、 その理由は何なのかをお聞かせください。
佐野:
どこまでが「うまく」なのかはよく分かりませんが、 現在我々が行っている運動は「グリーンを増やそう」というもので、 花や植木を地域に植えてもらう運動です。 その運動を通して地域の人同士のコミュニケーションが増えていっています。
震災後の平成10年7月の調査によると、 深江地区の住人の25%が他地域から引っ越されてきた人でした。 その人たちはまだ地域になじみがありません。 そうした人たちとどうコミュニケーションをとっていくかがこれからの課題ですが、 グリーン運動を通じてまちづくりの輪を広げていきたいと思っています。
室崎:
グリーンを増やそうというのは、 震災前のまちづくり運動にもあったことですか。 それとも、 震災をきっかけに生まれたものでしょうか。
佐野:
震災で一番びっくりしたのは、 ブロック塀が多数倒れたことでした。 それが、 グリーンを増やそうというきっかけのひとつです。 以前から「ブロック塀の代わりに生垣にしてください」と訴えてはいたのですが、 なかなか出来なかった。 震災をきっかけに、 緑については強く訴えるようになりました。
また、 わずか数本の木が家の類焼を防いだ例もあったことから、 地域の人に呼びかけて緑を増やそうということになったのです。
室崎:
グリーンについては震災が大きな動機になったわけですね。
では、 震災前のまちづくりの取り組みは、 震災後のまちづくりにあまり影響していないということでしょうか。 それとも、 震災前の計画はどこかに生きているのでしょうか。
佐野:
はっきり言うと、 震災前は計画はいろいろ立ててはいたものの、 実際には何も出来なかったのです。 道路からの1メートルのセットバックもできなかった。 震災後に家を建てたとき、 初めてセットバックをしてもらえるようになりました。 だから、 震災前の計画を引き継いだ面はあると思います。
室崎:
震災前に議論していたこと、 例えばセットバックの問題は比較的スムースに生かせたということですね。
もうひとつ伺いたいことは、 計画を作るシステムや人々のネットワークなど、 ソフト部分については震災後もそのまま生かされたのでしょうか。
佐野:
まちづくり協議会は、 会長を中心に理事会などで構成されていますが、 震災後は若手の30〜50代の人に復興委員、 協定委員になってもらい、 若い人の意見を十分採り入れて、 計画を見直しました。
では次に、 真野地区について伺います。 以前からまちづくりの評価が高く、 震災後は全国から見学者が来るくらい「うまくいった」と言われていますが、 それには地区の人の努力以外にも、 支援ネットワークやボランティアという有利な条件があったと思います。 それについて、 どうお考えなのか。 また、 あえて問題点があれば、 その話をお聞かせください。
確かに真野地区は、 行政にも守られ有識者のご支援も随分といただき、 感謝しております。 神戸市がよく「協働のまちづくり」と言っていますが、 これは住民・企業・行政が一体化して行うまちづくりのことです。 真野ではこれがうまくいったおかげで、 まちづくりが進んだのではないでしょうか。
震災の時も地元の企業が率先して駆けつけ、 社員を泊まりがけで出してくれたり、 水を回してくれました。 昔は、 公害問題で企業と住民はにらみ合っていたのです。 しかし、 長年にわたるまちづくり運動のおかげで「企業も住民のひとりなんだ」というお互いの認識が出てきた。 それに行政の支援も加わった。 それが震災時に生きたと思います。
もちろん、 我々は今の真野で満足しているわけではありません。 真野にもコレクティブハウスが出来ていますが、 もっと一杯出来て欲しい。 しかし、 真野さえよければいいと思っているわけでもありません。 こうしたまちづくりが、 神戸市、 兵庫県、 全国へと広がればいいと思います。
それとまちづくりにおける難点と言えば、 リーダーの問題があります。 今までは、 毛利、 岸野という人物が大きな存在だったのですが、 現在ではふたりともいなくなりました。 その後継者をどうするか、 今模索しているところです。 それを早く解決して、 新しいまちづくり組織にしていきたいと思っています。 ただ、 まちづくりの姿勢としては今までと変わりません。
山花さん、 せっかくの機会ですからもっと本音で話しましょうよ。
山花さんに伺いたいのですが、 地震直後に真野地区にも行政から区画整理の話が来たと思うんです。 その時、 まちづくり推進会がそれを蹴ったので取り止めになったという噂があります。 区画整理をしようという話が部分的にでもあったのか、 行政から話が来たのか、 推進会ではどうしようとしたのか、 その辺のいきさつを教えてください。
山花:
地区の面的整備については震災前から話はありました。 震災後も、 行政の方が来られました。 しかし、 真野の住人としては少し前にそういう経験もしたことから、 それはお断りしたいと決めたんです。 「住人の命は住人で守ろう」とお断りしました。
というのも、 真野は零細企業、 自営業が多い地区で、 日銭が入らねば生活できないところなんです。 その点、 震災後もすぐにみかん箱の上に魚や野菜を並べて商売することも出来たのですが、 区画整理などが入ってしまうと、 かえってまちづくりは遅れてしまったのではないかと思います。
もちろん、 区画整理を断ったことについては、 住民から随分怒られました。 勝手なことをしてと。 しかし、 結果的にはそれでよかったと思っています。 「自分の町は自分で守ろう」という真野の姿勢が、 住民にも浸透していたおかげだとも感じています。
小林(コープラン):
区画整理については、 推進会が話をつけたわけですか。
宮西(真野地区のコンサルタント):
事実関係を言うと、 真野に都市計画の関係者が来たのが震災後3日目です。 民間再開発課の前の係長が来ました。 その時、 どうしようかという話はしました。 ただ、 その時点でも区画整理という発想は僕の頭にはなかったし、 「密集事業」をベースとして既にやっていたことを継続するかどうかを考えていました。
例えば、 真野地区ではその事業に加わる人のために、 事前に受け皿住宅を作っていたんです。 普通なら、 真野地区で火事があったら住宅を失った人は優先的にその住宅に入ることが出来るのですが、 震災の場合も受け皿住宅に入れるのか、 どのように受け皿住宅を使うか。 また道路に引っかかった場合には普通なら買収するわけですが、 倒壊した建物を解体除却した場合には移転補償はどうなるのかといったことを話したのですが、 その時点では何も分かっていない状態でした。
神戸市で真野の区画整理の検討をしていたということですが、 ほとんどの住民にとっては寝耳に水で、 そういった話は真野地区にはほとんど流れて来ませんでした。 現実には、 震災後20日ぐらいしてから推進会で密集事業や地区計画の継続について話し合いがもたれ、 そこで基本的には継続の方向で行こうと決まりました。 ですから、 神戸市から正式に区画整理の打診があったかどうかは、 私自身は知りません。
室崎:
これについて、 神戸市の立場としてはどうだったのでしょうか。
当時、 神戸市にとって最大の課題はいかに町を復興させるかでした。 市はそれを推進するためのまちづくりの手法をいろいろ検討していました。
真野地区は昭和40年代からまちづくり活動が活発になってきて、 神戸市も昭和51〜53年にかけてまちづくりの助成を行っていました。 真野以外にも問題のある地区はいろいろありましたが、 真野の場合、 土地利用の問題、 住宅と工場の混在、 公共施設も少ないことから「地区計画」を主体でやろうということになっていました。 これは、 区画整理や再開発の手法と違って、 6メートル道路や受け皿住宅も作っていくもので、 まちづくりとしては時間のかかる手法です。 その反面、 地元のコミュニティが育ってくるという利点もあり、 真野はそうしたまちづくりを進めてきました。
区画整理を真野地区に打診したかについてですが、 私の記憶ではありません。 震災後、 まちづくりについて話し合った際には、 区画整理ではなく住環境整備事業、 あるいは改良事業的なものも取り入れようと検討しました。
震災前に神戸市が認可していたまちづくり協議会は12ありました。 ところが、 震災後にそのまち協がちゃんと機能していたかというと、 どうも活動してなかったように私には思えます。 神戸市は全国的にはまちづくりの先進都市だったかもしれませんが、 実際にはまちづくりはうまくいってなかったのではないか。 だから、 震災後にまち協が活動できなかったのではないか、 と思うのです。
真野地区の場合、 多少はまちづくりをしてきましたが、 それまでの計画は地区の住民それぞれの生活に影響を与えるような内容ではなかったのです。 大枠の計画しか議論せず、 個々の人が影響を受ける計画をまちづくりの中でやってこなかった。 だから「まちづくりなんて私には関係ない」という姿勢になってしまった面もあったのではないかと思います。
室崎:
今の宮西さんのお話はひとつの論点だろうと思います。 ただし、 多少の反論があります。
ひとつひとつのケースを見ると、 確かに宮西さんの言われたことは当たっていますが、 震災後にそれなりの成果を出しているとすれば、 それは震災前からまちづくりの経験をしていたからだと思います。 神戸全体でまちづくりを見た場合、 それまで真野が果たしてきた成果がいろんな所で花開いたということがあるのではないかと思っています。
しかし、 これは第2部でみなさんにお話しいただいた方がよろしいでしょう。 ここではまちづくりのプロセスでの教訓、 どんな条件があればまちづくり協議会はうまく動くかに論点を当てたいと思います。
どなたかこれについて、 ご意見はありませんか。
中島(松本地区まちづくり協議会):
少し論点が違うかもしれませんが、 組織に属していたかどうかで助かる度合いが違ったことを指摘しておきたいと思います。 当時、 ほとんどの家ではテレビが映らずラジオだけが情報源でした。 ほとんどのまち協はウロウロするだけだったのです。
しかし、 組織に属していた人は違った。 例えば警察官は警察官を助けに来たし、 消防署員は消防署員を、 宗教団体はその信者を助けるという風に動いたのです。 無差別で人を助けていたのは、 表だって口に出せない団体だけでした。
僕らの目の前で、 マスコミも含め組織がどういう風に動くのかを見せられて、 むかつきながらもその怒りからまちづくりへと動いていったのです。
室崎:
ちょっと待ってください。 今、 中島さんが言われたことには2つの論点があると思います。 ひとつは組織について、 もうひとつはまちづくりを進めていく上で、 マスコミは有益だったかどうか。 ヘリコプターがガンガン飛ぶのは報道の自由だという一方、 生き埋めになった人を助けるのに邪魔になった。 その点では有害だったわけです。 しかし、 AM神戸が流した安否情報は、 命綱になったという意見があります。
今日はメディア関係の方も出席されていますので、 ここで復興にメディアはどう関わるべきかについて話し合いたいと思います。
震災前から活動していた
まちづくり協議会
深江地区
−震災前後の活動を比較して−
真野地区
−地区の特徴とまちづくり−
震災前後のまちづくりの変化
−深江地区−
密集事業か区画整理か
−真野地区−●協働のまちづくり
山花:●区画整理をめぐる噂は本当か
小林(コープラン):●正式な打診はしていない
鶴来(神戸市助役):
震災前のまちづくりは評価出来るか
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