だんじりは、 基本的に神社の祭りの時に出すものでしたから神社ごとにあります。 灘区には、 五つの神社に七台のだんじりが、 東灘区には、 九つの神社に三一台のだんじりがあるわけです。
祇園祭自体の始まりは八六九年ですが、 この祇園祭に山鉾が登場するのが、 一三〇〇年代に入ってからです。 元享元年(一三二一年)と史料には記されています。
当時は、 堺の商人が裕福でしたので、 彼らが京都の文化を堺に持ち込みました。 その時に、 山鉾からだんじりに発展したのではないかと考えられています。 他の地域では、 高山祭りで有名な高山や、 滋賀県の近江にも祇園祭りから発展した山車(だし)があります。 東京も江戸時代までは、 山車が全盛でした。 祇園祭の影響を受けた山車が各地にあるのです。 祭りに出されるこれらの山車を大きな概念では風流(ふりゅう・ふうりゅう)と言いますが、 各地に小京都があるように、 祇園祭を模した風流が全国各地にあるのです。
それがこの大阪湾沿岸では、 だんじり(地車)という形になっています。
だんじりは堺から泉大津、 岸和田、 尼崎に伝わりました。 尼崎に伝わったのは一七一〇年ぐらいです。 この東灘はかつては尼崎領でしたので、 陸路を伝って尼崎から伝わってきたのではないかと考えられています。
だんじりに関しては、 兵庫の方が先と考えられ、 江戸時代、 兵庫の津は人口二万人を超え、 大いに賑わっていました。 そうした中、 祭りも盛んで、 一七三八年(元文三年)、 和田宮のだんじり祭りに、 南浜の庄屋が岡方の庄屋を招待したという記録が残っており、 このことから神戸市でだんじりらしきものが登場するのは一七二○年頃だと考えられます。 兵庫の場合は、 大阪方面から直接船で伝わってきたものと考えられ、 灘・東灘にだんじりが伝わったのは、 これよりもう少し後の一七四○年代だと考えられます。
灘のだんじりは、 五月の若葉の雰囲気に溶け込むように、 ゆったりとしたテンポで曳かれています。 ここが、 岸和田のだんじりと大きく違うところで、 だんじり囃子もテンポが緩やかです。 最近は若者の好みが入り、 太鼓の縁をたたくなど、 ややテンポが速くなっていますが、 本来は保久良地区や住吉の空区といった、 あの辺りの、 ゆったりとしたテンポが本来のものです。
このことにより、 御輿は担げない時期が長くなったこともあります。 例えば小路地区などです。 神輿は昭和二十二年から昭和五十三年まで三十年間中断がありましたが、 その間だんじりは昭和四十年から四十五年までの六年間だけです。 これは、 神輿とだんじりの必要動員数の差によるものです。
昔は一つの地区に住んでいる人数が少なく、 百人か二百人くらいでした。 戸数にすると三〇から四〇戸です。 ちょっと信じられないのですが、 そんな人数でもだんじりは曳かれていました。
御輿は、 基本的に神事ごとで神社のものです。 ところが、 だんじりは、 氏子のものであり、 祭りを楽しむ風流なのです。 楽しむことにより、 神様も喜んでくださる、 というところがあります。 だんじりは、 大人から子供まで参加でき、 三世代で楽しめます。 こうしたことが、 昔からだんじりが盛んな要因であると考えられます。
だんじりとは
台数
まずだんじりの台数についてです。 神戸市には子どもだんじりを除くと、 だんじりが四三台あります。 そのうち灘区と東灘区には三八台があります。 あと兵庫区に二台、 北区に三台あります。
ルーツ
そもそものルーツは京都の祇園祭です。
東灘に伝わった時期
神戸の兵庫区から岸和田の先まで、 大阪湾一帯には、 約八百台近いだんじりがあります。 一位は岸和田で約八〇台。 二位は大阪で七五台、 三位が堺の六九台、 四位が東大阪の五五台、 そして五位に神戸がランクされております。
だんじり囃子
神戸にだんじりが多いのは、 だんじり囃子が神戸の文化にあっていたからだと思われます。
だんじりと御輿
だんじりと御輿の違う点は、 だんじりは曳き、 御輿は担ぐという点です。 御輿は結構重たく、 担ぐには四○人ずつ二チーム要ります。 ところが、 だんじりの場合は、 宮入り以外は基本的に曳いておけばいいので二〇人程いればいいのです。
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