生き生きとした街の復興を目指して鳴海邦碩 |
震災後、 復興の展開に関する調査が数多く行われた。 こうした調査を行っている人たちに復興カルテの作成を呼びかけ、 復興の定点観測を開始し、 既に3巻が発行されている(注)。 震災後5年目に入った今年も調査が行われる予定である。
震災復興は、 短期間に公共事業の大掛かりな導入によって行われてきた。 復興の目的が「生き生きとした街の復興」にあることは誰しもが認めるところであるが、 復興の現場の実態をみると、 このことはなかなか困難な課題であることがわかってくる。 その典型的なケースが、 低家賃住宅が供給されないこと、 小売店舗、 サービス販売店舗、 飲食店をはじめとする小規模事業所の再建が遅れていること、 などである。 住宅が建っても空き家化していることや、 新しい住宅が建つことによって、 居住者の入れ替えが促進されていることも、 その範疇に入るだろう。
復興カルテでは、 復興によって、 本来都市らしさの原点である多様性、 多面性が生み出されていないことが、 随所において指摘されている。 この都市らしさを如何に形成していくかが、 復興の課題であり、 それがひいては日本のまちづくりの課題にもつながる。
これまで繰り返し指摘してきたことだが、 被災地はいわば平常時の日本経済に組み込まれている。 そのことを顕著に示しているのが、 被災地およびその周辺で展開されている膨大な量の住宅供給である。 このことが、 復興を目指すさまざまなアクションにバイアスをかける結果になっている。 つまり、 平常時経済に基づく力のある活動が被災地で展開すると、 弱い経済活動を駆逐してしまいかねないのである。
また、 公共の論理で、 いわば実直に対策を展開すると、 均一性、 画一性を助長してしまうことである。 公共事業はそもそもこうした性質をもっているわけだが、 公共事業が本来の「生き生きと街を甦らせる」目的から逸れた結果をもたらしてしまいかねない、 という事実がある。
公共性の新たな枠組みや福祉や援助に関する新しい枠組みの必要性については、 各方面で認識されていることろである。 その点からいえば復興の現場はその最先端に位置しているとみることができる。 これらを如何に克服すべきはなかなか困難な課題であるが、 新たな復興のまちづくりのために、 模索と挑戦が続けられなければならない。
新長田駅北地区(東部)
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全国的にみて在住外国人の半数は、 韓国・朝鮮人であるが、 特に兵庫県は、 大阪府、 東京都に次いで韓国・朝鮮人の在住が多い。
神戸市においても在住韓国・朝鮮人は、 神戸市在住外国人の約6割を占めている。
神戸市内で在住外国人が最も多いのは、 中央区とそれに並ぶ長田区である。 中央区は中国人が最も多く、 次いで韓国・朝鮮人であるが、 インドや米国、 英国等欧米人も居住する多彩な地域性を有しているが、 それが南京町、 トアロード、 北野町、 旧居留地といった特色のあるまちを生みだす文化的土壌となっている。
一方、 長田区は、 現在、 在住外国人の8。 5割強が韓国・朝鮮人であり、 次いでベトナム、 中国となっている。
● 長田における本格的な市街地形成は、 大正期の耕地整理に始まる。
耕地整理による都市基盤の形成に伴い大正後半からゴム工場を始めとして多様な業種や大工場から中小・零細工場まで、 多彩な工業地域が形成されていったが、 この時期にその労働力として多くの人々が移住してきた。
この新しい町には、 西日本など地方からの移住はもちろんのこと、 奄美大島出身者も多い。
韓国・朝鮮からの渡航制限が撤廃された大正11年以降韓国・朝鮮からも就労のための移住があいついだ。
この地域(旧林田区)の韓国・朝鮮籍住民は、 昭和元年約1、 400人(全市の約50%)、 その4年後(昭和5年)には3。 5倍の約5、 000人(全市の約42%)となっており、 この時期に急速に増加している。 長田下町文化は、 色々な地域から移住した人々の生活文化がふれあい複合して、 その独自性、 個性をつくってきている。
● ゴム産業そして、 それから発展したケミカルシューズ産業等、 地域産業が地域活力のバックボーンともいえるが、 それに対する韓国・朝鮮籍住民が荷なってきた力は大きい。
戦前・戦中をゴム産業等の下積労働者として働いてきた韓国・朝鮮籍住民から戦後の復興期に多くのゴム産業経営者が生まれ、 この結果業界に精神的な粘りを吹き込んだといわれている。
このゴム産業はケミカルシューズ産業の前身であり、 今日のケミカルシューズ産業には、 韓国・朝鮮籍住民が多く就業しており、 日本人と韓国・朝鮮籍住民が一体となって長田の地域産業の牽引力となっている。
● 長田は、 まち全体がくつの工場といわれるように多くの工程が、 分業化されまち全体にネットワークされており、 職住近接のまちをつくっている。 新たな外国籍住民も多くが地域産業に就労している。
このような背景の中で外国籍住民は、 日本人住民と混住して共に一つのコミュニティをつくってきた。
現在、 長田区には、 長田区人口の1割、 約8、 500人の外国籍住民がいるが、 長田区全体にわたってまんべんなく分散して暮らしている。
チャイナタウンのように外国人居住に一般的にみられる集住化する形態でなく、 「地域の中に融け込んで混住」していることが大きな特徴といえる。
従って長田は、 中華衛のように顕著な特徴はないが、 韓国料理店、 焼肉屋等がまちに自然に融け込み、 またよく注意してみると韓国漢方を取り扱う薬局がある等特徴ある下町をつくっている。
● 下町とは、 住商工がうまく調和して活力のある町と定義するならば、 このような下町は、 高度経済成期を中心に都心から多く失われていった。
現在、 都市の活力という視点から都市におけるミックスドユース、 すなわち下町の重要性が見直されている。 その意味では、 長田は新しい目で再評価されなければならない街である。
この長田下町を継続させた力は、 長田の市街地形成の初期から定住し地域産業を粘り強く支えてきた韓国・朝鮮籍住民に負うところが大きいと思えてならない。
● 大正後半から長田に移住した韓国・朝鮮の人々の二世は、 今や壮年となり、 地場産業等の会社経営者や自営業を営んでいる人も多いが、 復興まちづくりには、 これらの人々が多く貢献されている。 新長田駅北地区においても協議会役員を始め、 いくつかのまちづくり協議会の会長・副会長、 産業関係懇談会の座長等、 事業に忙しい中、 多くの方々が地域の復興に取り組まれている。 また、 新長田駅北地区土地区画整理審議会の地権者代表委員8名のうち2名が韓国・朝鮮籍住民である。
この地区のまちづくりに関わってきて日頃私が感じていることは、 これらの人々が共通して色々な立場の人々への配慮、 現在だけでなく将来を見すえた考え方など幅広い見方をされていることである。
その情熱は、 長田をふるさととして思うその強さではないだろうか。
今や三世・四世の時代へとなりつつあり、 地区のコミュニティでは、 日本人も韓国・朝鮮籍住民も区別なく一体であるが、 その中に多様な考え方や文化が内在していることこそ、 長田復興の強さであるにちがいない。
南信吉さんは、 自社の一室を復興のための集会場として提供した。 そしてそこに集まった人達が世話人となって自由参加による「長田のよさを生かしたまちづくり懇談会」(北野正一 神戸商科大学教授らが世話人)が95年4月末に発足した。 長田区内にはまだほとんどまちづくり協議会が発足していない時期であり、 長田全域の住民有志ををはじめ地域外からも参加があり、 毎回100人近くが集まり幅広いかつ熱心な議論が行われた。 この懇談会は、 議論された長田まちづくりの方向を「5項目の提案」としてまとめ、 95年6月神戸市に提出したが、 この中の1項目に「国際都市神戸の顔としての長田アジア通り」がうたわれている。
さらに南信吉さんは、 96年1月、 テーマ協議会としての「神戸アジアタウン推進協議会」発足の契機をつくられた。 この神戸アジアタウン推進協議会(会長 神田裕)によって96年7月、 新長田駅北地区内の細田町5丁目の工場跡地で「くつの街ながたアジア自由市場」を二日にわたって開催された。 約2000m2の敷地に大小のテントを並べ、 12ヶ国の料理屋台、 民芸店、 雑貨店、 くつ店等30の出店とともに特設ステージにバンド演奏や韓国舞踊などが行われた。 二日で1万5千人が集まったと新聞は伝えている。 これは、 アジアタウン構想を一般にPRするとともに人々に元気づける大イベントであった。
この時のアジアタウン推進協議会のパンフレットには、 「アジアタウン構想とは、 長田のもつアジアらしさを活かしながら、 商工住の活性化の動きをつくり、 新しい文化の発信拠点として街を再生させること」とうたわれている。
● 震災から4ヶ月ばかりの95年5月、 校庭で「長田マダン」(在日三世達が中心となって90年から毎年開催され、 朝鮮半島に古くから伝えられている農楽〈村祭り〉や舞踊を結集した祭)が行われ、 復旧に取り組む人々を元気づけている。 これは、 韓国・朝鮮の人々のアイデンティティとしての祭である。 震災前、 一部にコリアタウン構想があがっていたと聞くが、 震災後浮上してきたのは、 コリアタウン構想でなく、 アジアタウン構想であったのはなぜか。 そこに長田におけるオールドカマーズである韓国・朝鮮籍住民の思いがあるように思う。
長田区にはベトナム籍住民をはじめ、 たいへん多くの国籍のニユーカマーズが居住し、 その多くはケミカルシューズ産業等地域産業に携わっている。 震災直後からこのニューカマーズに対する支援等、 オールドカマーズ等の人達に負うところは大きい。 多言語放送局・FMわぃわぃや神戸定住外国人支援センター等である。
一方では地域住民と一体となった街の活性化への思いも強い。
この双方への理解をもつ長田オールドカマーズの意識が「アジアタウン」という言葉となったのであろう。
先の「くつの街ながたアジア自由市場」のパンフレットにアジアタウンのめざすものとして「共生社会の実現」があげられている。
今後、 グローバル化や少子化の中でさらに多国籍新住民が増加し、 地域で活動する機会が増えると予測されるが、 そのような地域社会の中でこのようなオールドカマーズの人々の活力や能力はたいへん重要になるだろう。
共生とは「ともいき」という仏教用語から発展したものらしい。 日本の大乗仏教思想、 すなわち、 かつて日本人の生活思想であった「山川草木悉皆成仏」や「自利利他」と通ずるものである。
それはさておき、 「共生」という理念を語るにとどまる限りまちは変らない。
まちづくり協議会は言うまでもなく、 様々な立場、 意見をもつ人々の集合体であり、 話合いの結果、 おおかたの住民支持、 すなわち地元の支持が得られない限りどのような望ましい構想であっても根づかない。 むしろ地元に支持され、 少なくとも将来育て発展できる糸口となる構想が必要である。 地区協議会は地べたからの構築である。
以下、 新長田駅北地区におけるアジアタウン構想に関する取り組みの経過を追って行きたい。
● アジアタウン構想については、 震災直後からマスコミに時々報じられることもあって関心をもっておられる方もあり、 当初に一部まちづくり協議会役員会で話題として出たこともある。 しかし、 最初にまちづくり協議会として取り上げられたのは、 96年7月、 細田町5丁目神戸化学センタービル跡地での「くつの街ながたアジア自由市場」の開催の時であった。
その開催について、 開催地にある細田神楽地区のまちづくり協議会(当時、 細田4丁目・5丁目まちづくり協議会、 かぐら復興協議会、 神楽町4丁目まちづくり協議会が合同で活動)に事前に知らされないまま、 新聞報道されたことにより、 まちづくり協議会で物議をかもした。 細田神楽地区のまちづくり協議会役員会は、 主催者である神戸アジアタウン推進協議会と周辺環境対策等の議論を重ね、 結果としてまちづくり協議会は、 周辺の自動車誘導など地元としての協力を行っている。 そして8月、 細田神楽地区の3つのまちづくり協議会会長は、 まちづくり協議会、 アジアタウン推進協議会、 小中学校・PTA関係者、 青少協関係者、 シューズ組合関係者等に呼びかけを行い、 アジア自由市場についての反省会を開催し、 参加者から意見を聞いている。
主催者側の細心な開催運営の配慮もあって、 その時環境面、 また地区の活性化の面から良い評価としての意見が多かった。
● まちづくり協議会では97年頃から、 まちづくりの視点から産業の復興に向けての産業地区創造懇談会やいえなみ基準づくりなどまちづくりビジョンを共有するための取り組みを始めている。 この産業地区創造懇談会におけるシューズギャラリー構想の検討の過程において「シューズギャラリーを設置するためには、 アジアタウン構想等と連携して集客力を高めることが必要」というケミカル産業企業関係者の意見も出ている。
しかし、 当面の、 そして切実な仮換地問題がほとんどの住民・地権者の関心事であり、 併行して進めるこの時期の将来構想づくりはたいへん難しい。 アジアタウン構想もいずれ取り上げるべき課題と考えられていたが、 手がつけられていなかった。
そのような状況の中、 当初からアジアタウン構想に理解を示していた神戸市は、 98年1月、 新長田駅北地区における「アジア文化交流タウン構想」を発表し、 当地区がそのような方向でまちづくりを行っていく場合は、 神戸市所有地(約400m2)を先導的役割をはたす店舗等施設として整備すること等、 支援を行う考え方があることを示した。
当地区は、 長田区のその他の地区と同様に外国籍住民が1〜2割程度の混住であるところからアジアタウン構想について話し合う契機をつくることに難しさもあった。 その契機を神戸市がつくられた意味は大きい。
これに対して、 JR新長田駅に近く商業との関わりが考えられる細田神楽まちづくり協議会と松一まちづくり協議会は、 合同で地区住民、 地権者等の自由参加による「アジア文化交流タウン検討懇談会」(座長 南 研泰)を発足させた。
● この神戸市による「アジア文化交流タウン構想」は、 新聞各紙に報じられたが、 その内容として「第二の中華街(南京町)をイメージ」し、 「それぞれの街の門には楼門など建設」となっている。
たしかにアジアタウンの事例として中華街のイメージをとりあげるのは一般にはわかりやすい。
しかし、 地区の状況からみるとそのイメージは、 大きなギャップがある。
例えば(1)華橋の人たちによる中華街のような外国人集住のまちでないこと。 (2)区画整理事業であり従前居住者等地権者が換地をうけること。 いいかえればここでのアジアタウンは、 ポートアイランドのような新開発地につくるテーマパークではないこと。 (3)震災前、 駅前であっても街区内は住宅がはとんどであり、 換地後も住宅として再建があること。 (4)シューズギャラリー構想のイメージとどう調和するか等々である。
新聞に発表されたアジア文化交流タウン構想のイメージは、 地区住民に多くの疑問又は心配を与えるものになったが、 結果からみて人によって様々なイメージでとらえていたアジアギャラリー構想について住民が議論できるたたき台となったことは確かである。
● このアジア文化交流タウン構想に対して、 対象となる地区の協議会だけでなく、 周辺北側、 五位池線の西側のまちづくり協議会からも疑問、 心配、 反発の意見も多くあった。 その意味では関心が高かった。
その主な内容は、 (1)住みたい良い街にしたいと思っている。 ゴチャゴチャした街になることは困る。 (2)治安が悪くならないか。 夜も安心できる街にしたい。 (3)街のイメージが悪くなるのではないか。 (4)地区のイメージをアジア色一色に染めることを望んでいない。 (5)自分たちがここから出ていかなければならないのか。 (6)仮換地が進まないことに不安。 アジア文化交流タウンの先導的役割としての神戸市用地は、 仮換地に充てるべき。 等々である。
これらの意見についてアジア文化交流タウン検討懇談会での論議を整理すると、 (1)これらの意見は、 生活環境を守るという自然な感情もある。 誤解や偏見もあるかも知れない。 と言っても他地区に比べるとある程度以上の理解もある。 住民の生活の視点でおおかたに受入れられる段階の構想にして、 将来序々に深い理解が得られるようにすべき。 (2)在日外国人の為の構想として一般に印象を与えてしまっている。 当地区の活性化、 まちづくり全体の視点を協調すべき。 (3)アジアタウンと言った場合、 人それぞれのイメージをもっており、 それが誤解のもとになっている。 地区の生活環境づくりに根ざしたイメージをつくること、 等であった。
● このような状況の中でアジア文化交流タウン検討懇談会は、 9ヶ月、 9回の懇談会を開催し、 98年10月、 神戸市の「アジア文化交流タウン構想」に対する地元案としての「アジアギャラリー構想」をまとめた。 この間、 懇談会での検討内容を対象となる細田神楽、 松一まちづくり協議会役員会を始め、 新長田駅北地区東部のおおかたの協議会役員会、 新長田駅北地区全体の会長会である新長田駅北地区まちづくり連合協議会等において各々説明し、 理解を求めるとともに意見を聞いている。
このような経緯を経て、 98年8月アジアギャラリー構想案(20頁の冊子)を6まちづくり協議会の全住民、 企業、 地権者、 その他まちづくり協議会には役員会に、 合計1、 500部配布し、 意見を求めたが、 特に意見がないということで、 ほぼこの構想案が最終案となった。
(1) JR新長田駅南側の再開発事業の影響等により、 当地区が「駅裏」にならないよう、 JR南側の再開発事業とは異なった特色ある、 人の流れのあるまちとして商業等の活性化を図っていく。
(2) 美しい環境づくり、 商業の活性化、 外国籍住民が集住化するまちづくりでないこと、 安心と安全のまちづくりの四つを基本に「地区に根ざしたまちづくり」として取り組む。
(3) 具体的には、 新長田駅北側周辺を「アジア・アンティーク街(アジア古美術街)」を基本とした文化性のある商業ゾーンをつくっていく。 これには、 土地建物の所有者等の賛同を得て、 東西・南北のコミュニティ道路(14m)沿い等を中心に展開していく。 これによって既存商業等の活性化も促進していく。
(4) アジアギャラリー施設(アジア・アンティーク店、 比較的高級なアジア料理店、 アジアツーリスト等)は、 景観形成市民協定「いえなみ基準」を基本とするとともに、 地区の生活環境や景観に調和したものとしていく。
(5) 神戸市に、 細田町7丁目内の神戸市所有地の一部(約400m2)を「アジアギャラリー構想」を先導する商業施設「アジアギャラリー・パイロットショップ」として活用していただくよう要望する。
アジアギャラリーのイメージ |
● 以上、 詳しくは、 アジア文化交流タウン検討懇談会発行の冊子「アジアギャラリー構想」を参照されたい。
(1) 長田の「混住」の特質を生かす:先に述べたように長田は、 外国籍住民と日本籍住民とが共に協力してケミカル産業という地場産業を育て、 これによって共に一つのコミュニテイ、 いいかえれば「混住としての外国人居住」の形態となり、 日常生活を通して互にふれあい共生を育んできたところに特徴がある。 アジアギャラリー構想は、 日本人、 外国人が共に参加する長田の特徴にあった新しい地場産業づくりとコミュニティづくりといえる。
(2) 基軸としてのアジア・アンティーク(古美術):一つの流れができればおそらく、 アジアの飲食店は自然に立地していくだろう。 単に飲食だけでなくもう一歩進めて、 日常生活を通して異文化を理解するテーマが必要でないか。 このような視点からアジア・アンティーク街提案がとり上げられた。 アジア古美術の背景となるまちとして、 全国に長田以上のところはないのではないか。 住宅とも共存できる。
そして何よりも当地区で比較的広い土地の地権者であり、 常時懇談会に参加されていた澤田尚久さんが、 この業界の知識が豊かで、 自らもやっていこうという意志をもっておられることがこの構想に現実性を与えた。 大地主・企業のまちづくりへの参加は、 たいへん大きな力となる。
(3) ステレオタイプなアジアイメージは異文化理解をゆがめる:アジアらしさと言ったとき、 注意しなければならないのは、 安易にオリエンタリズムなイメージ、 ゴチャゴチャしたイメージ等、 ステレオタイプなイメージに結びつけられやすく、 それが本当の異文化理解を妨げ、 ゆがめてしまう可能性があることである。 本物の商品を展示することこそアジアらしさではないか。 そのような議論の中でアジアギャラリー施設となる建築物は、 現代建築様式を基本に、 地区の「いえなみ基準」に基いて緑豊かな洗練された美しいまちなみづくりに貢献するものがふさわしいと考えられた。
「アジアギャラリー神戸・パイロットショップ」コンペ当選案 |
● 計画では3階建延床面積約660m²であり、 そのデザインについては、 その後、 新長田駅北地区東部のまちづくり協議会で構成する「いえなみ委員会」との調整の結果、 いえなみ基準に基づきコンペ当選案に一部傾斜屋根がつけられることになった(図2)。
事業者の話では、 「長田に文化を」という視点からアジアアンティークを主に、 水準の高いものを考えたいとされている。
予定では、 6月着工、 11月完成をめざしたいとしている。
「自然との共生」は、 今日の都市環境創造のたいへん大切なキーワードである。 この「自然との共生」は、 これまでの西欧的思想の延長線上では限界があるといわれ、 そのような背景の中で東アジアの「風水思想」が注目されている。 「風水思想」をキーワードにして、 環境共生、 コンパクトシティとしての長田の都市環境創造に取り組むことは、 「アジア文化交流のまち:ながた」にふさわしい。 このような意味から「アジアギャラリー構想」の提案冊子には、 参考資料として「風水思想と新長田地域」がのせられている。
まち・ひと・かさ・ねこetc.
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執筆のお鉢がまわってきてしまいました。 文にすることは自分をみつめるいい方法なので、 若手ネットとかまちづくりについて、 私なりに思うところを記してみたいと思います。
若手ネットは私がまちづくりの仕事に関わるようになった年に発足(?)しました。 何となく私は若手ネットと共に歩んできたようです。 そしてネットで出会った人々は私にとって仲間であり、 (しかも私は末っ子のくせに一番生意気で、 きつい性格のやつ)でもあります。 この世界に飛び込んでからかなり早い時期に、 このようなネットワークが立ち上がったことで、 同じような年代の人たちだから話せることがあったり、 他事務所の仕事のことを知って自分でも気づかなかった自分の考えを発見することもあり、 これは私にとっても幸運でした(これはホント。 人との出会いは大切、 一生モノ)。
もともと私のまち(づくり)への興味は、 私自身が自分のまちに強い愛着を持っていることとまちの面白さに気づいたことからはじまっています。 大学では設計も少々学びましたが、 「まちは底が知れない。 まちを知ることでもっと楽しく、 快適に暮らすことが出来る。 」と思うようになって興味の対象が建築を含めた「まち」に移ってきました。 「まちづくり」は「住んでいる人が、 何らかの形で自分のまちへの興味を持つこと」を表現する言葉のひとつとして使わせてもらっています(私なりの言い回しがまだ見つからないので)。
それから震災があって、 まちづくり協議会なるものの姿がかなり一般的に知れ渡るようになりました。 「まちづくり協議会でどんな人がどんなことをどれくらいしているのか…これは実地で勉強する方が絶対面白い。 」というわけで今の仕事を選択したのです。
さて、 実際に私が主に関わっている仕事は、 一言で言えば“まちづくり協議会のお手伝い”というもので、 今現在6つの協議会と面識があります。 といっても関わりだして長くて2年ちょっと、 短いところはまだ3ヶ月程度です。 働き始めて2年というひよっこの私では、 大したこともできないので、 まず話をしてみて、 名前と顔を覚える、 覚えてもらうことからという感じです。 同じ「まちづくり協議会」といっても、 6協議会に6種6様の性格があり、 人を知ることが原点だなと思いました。
まちには人がいて、 人がいるからまちなのですが、 人がいる限り、 生活しにくいこととか危険なことはいっぱいあります。 一ついい点があっても悪い点も必ずあるし、 誰かが楽すれば、 そのしわ寄せがどこかへ行く。 だからといって何もしないのがいいというわけでもなく、 いいことも悪いこともやり方、 考え方一つで、 180度変えて受け止めることができるのも人で、 まちはそういう受けとめかたができるモノのひとつです。 ゼロもマイナスもプラスにする可能性がわんさかと眠っています。 そうやって見ると、 これだけ面白いモノもないと思うし、 そういう面白さを感じるだけで、 何となく気持ちが豊かになるような気がします。 私の場合はそのひとつが「猫」なんですが(まちで猫(野良含む)に出会うとしばらく幸せです。 ペット的にでなく、 そのまちで生活しているという十猫十色の雰囲気を感じることが面白く、 うれしいのです)。
そういう点で若手ネットから派生した“M-net”のまちあるき(神戸市灘区東灘区のまちをほぼ一日中みんなで歩いて震災前、 後の両方のまちなみを観察・検証をしてます)は個人的な観察+第三者の目や意見によって、 思わぬ発見をすることもあり、 刺激になるのでよく参加しています。 雨の翌朝の晴れた日に歩いたときには、 通りのあちこちに傘を干す光景が見られ、 カラフルな傘がまちをデザインして、 更にその家の家族の雰囲気も写しているようでした。 今まで何気なく見ていたまちの光景に、 生活を感じるデザインと、 その面白さを見つけることができたことは、 一つの収穫でした。 まち(のデザイン)はとても流動的で、 複合的で、 だから生活が映し出されるし、 永遠に魅力的であると思います。
八百屋猫(灘区)と定食屋猫(兵庫区) |
このネットにしても、 もっと多種多分野の人に参加、 発言してもらって、 わいわいやっていければいいなというのが、 楽観的私見でしょうか。 そうやっていくうちに、 まちに対しても、 自分に対しても、 見えていなかったモノが見えてくる(ゼロがプラスになる)瞬間をたくさん経験できるように思えます。
一方で自分には「まちで何がしたいのか」と問いかけ続けていく気がします。 答えがでなくても、 そうすることで得るモノはたくさんあるようなので…。
写真(1) 神戸市灘区(楠丘町) |
写真(2) 神戸市灘区(灘中央地区) |
沿道の人からも「いざという時に避難することもでき、 歩いていても気持ちがいい。 将来うちが建て替える時も花壇にしたいし、 みんながそういう空間をつくるように協力したほうがいいのではないか。 」という意見がでている。
今後の道路空間を構成する一つの手法としてその「兆し」がみられる事例である。
自治体によっては、 道路後退に伴い擁壁の除去までも求めているところもある。 しかし、 塀の後退により生まれた石積上部の数10cmのところにプランターを置く(さらには上部のコンクリートをはつり地植えの植栽を施す)ことにより、 対面の植込(この部分も後退空間)と一体となった、 おもしろい断面の豊かな空間に育っていくと考えられる。
写真(3) 神戸市灘区(灘中央地区) |
まちづくりフォーラム「ハンブルクNPOのまちづくり」の様子 |
野田北部地区12ケ町 |
1914年より神戸西部耕地整理事業が始まり、 野田村北部も野田開発事業として幹線道路整備、 教育機関建設、 神社仏閣改修などがすすめられ、 1924年双子池(約4.2ha)を埋め立て、 その中央に大国神社(1971年神社焼失し跡地を再整備し、 現在は大国公園)が1932年に完成した(野田開発事跡記念写真帖より)。
大正時代より村民の自律した活動(野田村協議会1915〜1931)によって整備されたこの地区は、 その発祥からしてコミュニティによって造られた大国公園が象徴するごとく、 住民の連帯の中に成り立って来たのであり、 大震災に立ち向かったまちづくり協議会の面々は、 まさに野田十勇士である。 信州長野大学のボランティア達、 六文銭小室等さんも、 何か真田十勇士と縁を感じる所である。
1999年3月発行¥2000円 |
次号より、 野田十勇士の遍歴を辿る。 もちろん初回は、 総帥浅山三郎会長である。
連絡会風景。 6/4、 於:神戸市勤労会館 |
太田さんからは、 区画整理や再開発事業と住宅地区改良事業との合併施行について、 改良住宅のスライドを交えながら報告されました。
また、 兵庫県まちづくり部まちづくり政策課からは、 今年度から始まるまちづくり支援事業の説明がありました。 次回は8月開催予定。
情報コーナー
神戸東部白地まちづくり支援ネットワーク/第4回まちづくりフォーラム
《詳しい内容が決まりました!》
<第I部>「岡本のまちづくりと好文園コミュニティホール」
まちづくりから/西崎敬四郎(美しいまち岡本協議会)、 建築主から/戸沢正雄 (TOZAWAコートオーナー)、 建築設計者から/高月昭子(計画工房INACHI)
<第II部>「神戸東部地域の民間文化施設」若手ネットから/松原永季(いるか設計集団)
<第III部>リレートーク「まちづくりと民間文化施設」
コーディネータ/野崎隆一(遊空間工房)
リレートーク/「沢の鶴史料館」西村隆治(沢の鶴)、「世羅美術館」世羅臣繪(画家、世羅美術館)、「和田ホール」和田憲昌(和田興産)
コメンテータ/「街文化の研究」角野幸博(武庫川女子大)、 「東灘文化協会」庵原豊治(イハラ楽器)
<第IV部>意見交流
第40回水谷ゼミナール
「兵庫県の里山を守る取り組み」田中康(ヘッズ)、 「農都ネットの取り組み」高畑正(神戸市)、「丹波みどりの地域づくり」林まゆみ(姫路工業大学)、「地域づくり生野塾」小林郁雄(コー・プラン)
フォーラム「これからの地域づくりと環境保全」
ほんまちラボ設立2周年記念パーティ
1000人の仮設市街地づくり「サバイバル・キャンプ・イン99」
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■ 阪神大震災復興 市民まちづくり支援ネットワーク 事務局
〒657-0024 神戸市灘区楠丘町2-5-20 まちづくり(株)コー・プラン内
TEL.078-842-2311 FAX.078-842-2203 E-mail:mican@ca.mbn.or.jp
担当:天川佳美、 中井 豊、 吉川健一郎
●「きんもくせい英語版」のインターネットアドレス:
◆ http://www.hyogo-iic.ne.jp/~INS93031/