きんもくせい50+3号
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生き生きとした街の復興を目指して

鳴海邦碩

改行マーク震災後、 復興の展開に関する調査が数多く行われた。 こうした調査を行っている人たちに復興カルテの作成を呼びかけ、 復興の定点観測を開始し、 既に3巻が発行されている(注)。 震災後5年目に入った今年も調査が行われる予定である。

改行マーク震災復興は、 短期間に公共事業の大掛かりな導入によって行われてきた。 復興の目的が「生き生きとした街の復興」にあることは誰しもが認めるところであるが、 復興の現場の実態をみると、 このことはなかなか困難な課題であることがわかってくる。 その典型的なケースが、 低家賃住宅が供給されないこと、 小売店舗、 サービス販売店舗、 飲食店をはじめとする小規模事業所の再建が遅れていること、 などである。 住宅が建っても空き家化していることや、 新しい住宅が建つことによって、 居住者の入れ替えが促進されていることも、 その範疇に入るだろう。

改行マーク復興カルテでは、 復興によって、 本来都市らしさの原点である多様性、 多面性が生み出されていないことが、 随所において指摘されている。 この都市らしさを如何に形成していくかが、 復興の課題であり、 それがひいては日本のまちづくりの課題にもつながる。

改行マークこれまで繰り返し指摘してきたことだが、 被災地はいわば平常時の日本経済に組み込まれている。 そのことを顕著に示しているのが、 被災地およびその周辺で展開されている膨大な量の住宅供給である。 このことが、 復興を目指すさまざまなアクションにバイアスをかける結果になっている。 つまり、 平常時経済に基づく力のある活動が被災地で展開すると、 弱い経済活動を駆逐してしまいかねないのである。

改行マークまた、 公共の論理で、 いわば実直に対策を展開すると、 均一性、 画一性を助長してしまうことである。 公共事業はそもそもこうした性質をもっているわけだが、 公共事業が本来の「生き生きと街を甦らせる」目的から逸れた結果をもたらしてしまいかねない、 という事実がある。

改行マーク公共性の新たな枠組みや福祉や援助に関する新しい枠組みの必要性については、 各方面で認識されていることろである。 その点からいえば復興の現場はその最先端に位置しているとみることができる。 これらを如何に克服すべきはなかなか困難な課題であるが、 新たな復興のまちづくりのために、 模索と挑戦が続けられなければならない。

<注『街の復興カルテ』:1996年度版・1997年度版は兵庫県・21世紀ひょうご創造協会より発行、 1998年度版は阪神・淡路大震災記念協会発行>

 

新長田駅北地区(東部)
土地区画整理事業まちづくり報告(6)

V。 アジアギャラリー構想

久保 光弘(久保都市計画事務所)

1。 長田下町文化を支えている異文化

 兵庫県は、 東京都、 大阪府、 愛知県等に次いで在住外国人の多い地域であるが、 その兵庫県在住外国人の約半分が神戸市に住んでいる。

改行マーク全国的にみて在住外国人の半数は、 韓国・朝鮮人であるが、 特に兵庫県は、 大阪府、 東京都に次いで韓国・朝鮮人の在住が多い。

改行マーク神戸市においても在住韓国・朝鮮人は、 神戸市在住外国人の約6割を占めている。

改行マーク神戸市内で在住外国人が最も多いのは、 中央区とそれに並ぶ長田区である。 中央区は中国人が最も多く、 次いで韓国・朝鮮人であるが、 インドや米国、 英国等欧米人も居住する多彩な地域性を有しているが、 それが南京町、 トアロード、 北野町、 旧居留地といった特色のあるまちを生みだす文化的土壌となっている。

改行マーク一方、 長田区は、 現在、 在住外国人の8。 5割強が韓国・朝鮮人であり、 次いでベトナム、 中国となっている。

 長田における本格的な市街地形成は、 大正期の耕地整理に始まる。

改行マーク耕地整理による都市基盤の形成に伴い大正後半からゴム工場を始めとして多様な業種や大工場から中小・零細工場まで、 多彩な工業地域が形成されていったが、 この時期にその労働力として多くの人々が移住してきた。

改行マークこの新しい町には、 西日本など地方からの移住はもちろんのこと、 奄美大島出身者も多い。

改行マーク韓国・朝鮮からの渡航制限が撤廃された大正11年以降韓国・朝鮮からも就労のための移住があいついだ。

改行マークこの地域(旧林田区)の韓国・朝鮮籍住民は、 昭和元年約1、 400人(全市の約50%)、 その4年後(昭和5年)には3。 5倍の約5、 000人(全市の約42%)となっており、 この時期に急速に増加している。 長田下町文化は、 色々な地域から移住した人々の生活文化がふれあい複合して、 その独自性、 個性をつくってきている。

 ゴム産業そして、 それから発展したケミカルシューズ産業等、 地域産業が地域活力のバックボーンともいえるが、 それに対する韓国・朝鮮籍住民が荷なってきた力は大きい。

改行マーク戦前・戦中をゴム産業等の下積労働者として働いてきた韓国・朝鮮籍住民から戦後の復興期に多くのゴム産業経営者が生まれ、 この結果業界に精神的な粘りを吹き込んだといわれている。

改行マークこのゴム産業はケミカルシューズ産業の前身であり、 今日のケミカルシューズ産業には、 韓国・朝鮮籍住民が多く就業しており、 日本人と韓国・朝鮮籍住民が一体となって長田の地域産業の牽引力となっている。

 長田は、 まち全体がくつの工場といわれるように多くの工程が、 分業化されまち全体にネットワークされており、 職住近接のまちをつくっている。 新たな外国籍住民も多くが地域産業に就労している。

改行マークこのような背景の中で外国籍住民は、 日本人住民と混住して共に一つのコミュニティをつくってきた。

改行マーク現在、 長田区には、 長田区人口の1割、 約8、 500人の外国籍住民がいるが、 長田区全体にわたってまんべんなく分散して暮らしている。

改行マークチャイナタウンのように外国人居住に一般的にみられる集住化する形態でなく、 「地域の中に融け込んで混住」していることが大きな特徴といえる。

改行マーク従って長田は、 中華衛のように顕著な特徴はないが、 韓国料理店、 焼肉屋等がまちに自然に融け込み、 またよく注意してみると韓国漢方を取り扱う薬局がある等特徴ある下町をつくっている。

 下町とは、 住商工がうまく調和して活力のある町と定義するならば、 このような下町は、 高度経済成期を中心に都心から多く失われていった。

改行マーク現在、 都市の活力という視点から都市におけるミックスドユース、 すなわち下町の重要性が見直されている。 その意味では、 長田は新しい目で再評価されなければならない街である。

改行マークこの長田下町を継続させた力は、 長田の市街地形成の初期から定住し地域産業を粘り強く支えてきた韓国・朝鮮籍住民に負うところが大きいと思えてならない。

 大正後半から長田に移住した韓国・朝鮮の人々の二世は、 今や壮年となり、 地場産業等の会社経営者や自営業を営んでいる人も多いが、 復興まちづくりには、 これらの人々が多く貢献されている。 新長田駅北地区においても協議会役員を始め、 いくつかのまちづくり協議会の会長・副会長、 産業関係懇談会の座長等、 事業に忙しい中、 多くの方々が地域の復興に取り組まれている。 また、 新長田駅北地区土地区画整理審議会の地権者代表委員8名のうち2名が韓国・朝鮮籍住民である。

改行マークこの地区のまちづくりに関わってきて日頃私が感じていることは、 これらの人々が共通して色々な立場の人々への配慮、 現在だけでなく将来を見すえた考え方など幅広い見方をされていることである。

改行マークその情熱は、 長田をふるさととして思うその強さではないだろうか。

改行マーク今や三世・四世の時代へとなりつつあり、 地区のコミュニティでは、 日本人も韓国・朝鮮籍住民も区別なく一体であるが、 その中に多様な考え方や文化が内在していることこそ、 長田復興の強さであるにちがいない。


2。 アジアタウン構想

 私が震災後、 最初に長田の人々とまちづくりについて話し合うことができたのは、 震災の3ヶ月後の95年4月、 靴底製造会社を経営する韓国籍住民の南信吉さん達である。 復旧のままならぬ状態の中、 将来の復興のことを考えておられることに驚くとともに感銘したことを鮮明に覚えている。

改行マーク南信吉さんは、 自社の一室を復興のための集会場として提供した。 そしてそこに集まった人達が世話人となって自由参加による「長田のよさを生かしたまちづくり懇談会」(北野正一 神戸商科大学教授らが世話人)が95年4月末に発足した。 長田区内にはまだほとんどまちづくり協議会が発足していない時期であり、 長田全域の住民有志ををはじめ地域外からも参加があり、 毎回100人近くが集まり幅広いかつ熱心な議論が行われた。 この懇談会は、 議論された長田まちづくりの方向を「5項目の提案」としてまとめ、 95年6月神戸市に提出したが、 この中の1項目に「国際都市神戸の顔としての長田アジア通り」がうたわれている。

改行マークさらに南信吉さんは、 96年1月、 テーマ協議会としての「神戸アジアタウン推進協議会」発足の契機をつくられた。 この神戸アジアタウン推進協議会(会長 神田裕)によって96年7月、 新長田駅北地区内の細田町5丁目の工場跡地で「くつの街ながたアジア自由市場」を二日にわたって開催された。 約2000m2の敷地に大小のテントを並べ、 12ヶ国の料理屋台、 民芸店、 雑貨店、 くつ店等30の出店とともに特設ステージにバンド演奏や韓国舞踊などが行われた。 二日で1万5千人が集まったと新聞は伝えている。 これは、 アジアタウン構想を一般にPRするとともに人々に元気づける大イベントであった。

改行マークこの時のアジアタウン推進協議会のパンフレットには、 「アジアタウン構想とは、 長田のもつアジアらしさを活かしながら、 商工住の活性化の動きをつくり、 新しい文化の発信拠点として街を再生させること」とうたわれている。

 震災から4ヶ月ばかりの95年5月、 校庭で「長田マダン」(在日三世達が中心となって90年から毎年開催され、 朝鮮半島に古くから伝えられている農楽〈村祭り〉や舞踊を結集した祭)が行われ、 復旧に取り組む人々を元気づけている。 これは、 韓国・朝鮮の人々のアイデンティティとしての祭である。 震災前、 一部にコリアタウン構想があがっていたと聞くが、 震災後浮上してきたのは、 コリアタウン構想でなく、 アジアタウン構想であったのはなぜか。 そこに長田におけるオールドカマーズである韓国・朝鮮籍住民の思いがあるように思う。

改行マーク長田区にはベトナム籍住民をはじめ、 たいへん多くの国籍のニユーカマーズが居住し、 その多くはケミカルシューズ産業等地域産業に携わっている。 震災直後からこのニューカマーズに対する支援等、 オールドカマーズ等の人達に負うところは大きい。 多言語放送局・FMわぃわぃや神戸定住外国人支援センター等である。

改行マーク一方では地域住民と一体となった街の活性化への思いも強い。

改行マークこの双方への理解をもつ長田オールドカマーズの意識が「アジアタウン」という言葉となったのであろう。

改行マーク先の「くつの街ながたアジア自由市場」のパンフレットにアジアタウンのめざすものとして「共生社会の実現」があげられている。

改行マーク今後、 グローバル化や少子化の中でさらに多国籍新住民が増加し、 地域で活動する機会が増えると予測されるが、 そのような地域社会の中でこのようなオールドカマーズの人々の活力や能力はたいへん重要になるだろう。


3。 新長田駅北地区の取り組み

 住商工の共生、 多文化・多民族共生、 自然との共生など「共生」は、 長田のキーワードでもあり、 今日的世界的なキーワードでもある。

改行マーク共生とは「ともいき」という仏教用語から発展したものらしい。 日本の大乗仏教思想、 すなわち、 かつて日本人の生活思想であった「山川草木悉皆成仏」や「自利利他」と通ずるものである。

改行マークそれはさておき、 「共生」という理念を語るにとどまる限りまちは変らない。

改行マークまちづくり協議会は言うまでもなく、 様々な立場、 意見をもつ人々の集合体であり、 話合いの結果、 おおかたの住民支持、 すなわち地元の支持が得られない限りどのような望ましい構想であっても根づかない。 むしろ地元に支持され、 少なくとも将来育て発展できる糸口となる構想が必要である。 地区協議会は地べたからの構築である。

改行マーク以下、 新長田駅北地区におけるアジアタウン構想に関する取り組みの経過を追って行きたい。

 アジアタウン構想については、 震災直後からマスコミに時々報じられることもあって関心をもっておられる方もあり、 当初に一部まちづくり協議会役員会で話題として出たこともある。 しかし、 最初にまちづくり協議会として取り上げられたのは、 96年7月、 細田町5丁目神戸化学センタービル跡地での「くつの街ながたアジア自由市場」の開催の時であった。

改行マークその開催について、 開催地にある細田神楽地区のまちづくり協議会(当時、 細田4丁目・5丁目まちづくり協議会、 かぐら復興協議会、 神楽町4丁目まちづくり協議会が合同で活動)に事前に知らされないまま、 新聞報道されたことにより、 まちづくり協議会で物議をかもした。 細田神楽地区のまちづくり協議会役員会は、 主催者である神戸アジアタウン推進協議会と周辺環境対策等の議論を重ね、 結果としてまちづくり協議会は、 周辺の自動車誘導など地元としての協力を行っている。 そして8月、 細田神楽地区の3つのまちづくり協議会会長は、 まちづくり協議会、 アジアタウン推進協議会、 小中学校・PTA関係者、 青少協関係者、 シューズ組合関係者等に呼びかけを行い、 アジア自由市場についての反省会を開催し、 参加者から意見を聞いている。

改行マーク主催者側の細心な開催運営の配慮もあって、 その時環境面、 また地区の活性化の面から良い評価としての意見が多かった。

 まちづくり協議会では97年頃から、 まちづくりの視点から産業の復興に向けての産業地区創造懇談会やいえなみ基準づくりなどまちづくりビジョンを共有するための取り組みを始めている。 この産業地区創造懇談会におけるシューズギャラリー構想の検討の過程において「シューズギャラリーを設置するためには、 アジアタウン構想等と連携して集客力を高めることが必要」というケミカル産業企業関係者の意見も出ている。

改行マークしかし、 当面の、 そして切実な仮換地問題がほとんどの住民・地権者の関心事であり、 併行して進めるこの時期の将来構想づくりはたいへん難しい。 アジアタウン構想もいずれ取り上げるべき課題と考えられていたが、 手がつけられていなかった。

改行マークそのような状況の中、 当初からアジアタウン構想に理解を示していた神戸市は、 98年1月、 新長田駅北地区における「アジア文化交流タウン構想」を発表し、 当地区がそのような方向でまちづくりを行っていく場合は、 神戸市所有地(約400m2)を先導的役割をはたす店舗等施設として整備すること等、 支援を行う考え方があることを示した。

改行マーク当地区は、 長田区のその他の地区と同様に外国籍住民が1〜2割程度の混住であるところからアジアタウン構想について話し合う契機をつくることに難しさもあった。 その契機を神戸市がつくられた意味は大きい。

改行マークこれに対して、 JR新長田駅に近く商業との関わりが考えられる細田神楽まちづくり協議会と松一まちづくり協議会は、 合同で地区住民、 地権者等の自由参加による「アジア文化交流タウン検討懇談会」(座長 南 研泰)を発足させた。

 この神戸市による「アジア文化交流タウン構想」は、 新聞各紙に報じられたが、 その内容として「第二の中華街(南京町)をイメージ」し、 「それぞれの街の門には楼門など建設」となっている。

改行マークたしかにアジアタウンの事例として中華街のイメージをとりあげるのは一般にはわかりやすい。

改行マークしかし、 地区の状況からみるとそのイメージは、 大きなギャップがある。

改行マーク例えば(1)華橋の人たちによる中華街のような外国人集住のまちでないこと。 (2)区画整理事業であり従前居住者等地権者が換地をうけること。 いいかえればここでのアジアタウンは、 ポートアイランドのような新開発地につくるテーマパークではないこと。 (3)震災前、 駅前であっても街区内は住宅がはとんどであり、 換地後も住宅として再建があること。 (4)シューズギャラリー構想のイメージとどう調和するか等々である。

改行マーク新聞に発表されたアジア文化交流タウン構想のイメージは、 地区住民に多くの疑問又は心配を与えるものになったが、 結果からみて人によって様々なイメージでとらえていたアジアギャラリー構想について住民が議論できるたたき台となったことは確かである。

 このアジア文化交流タウン構想に対して、 対象となる地区の協議会だけでなく、 周辺北側、 五位池線の西側のまちづくり協議会からも疑問、 心配、 反発の意見も多くあった。 その意味では関心が高かった。

改行マークその主な内容は、 (1)住みたい良い街にしたいと思っている。 ゴチャゴチャした街になることは困る。 (2)治安が悪くならないか。 夜も安心できる街にしたい。 (3)街のイメージが悪くなるのではないか。 (4)地区のイメージをアジア色一色に染めることを望んでいない。 (5)自分たちがここから出ていかなければならないのか。 (6)仮換地が進まないことに不安。 アジア文化交流タウンの先導的役割としての神戸市用地は、 仮換地に充てるべき。 等々である。

改行マークこれらの意見についてアジア文化交流タウン検討懇談会での論議を整理すると、 (1)これらの意見は、 生活環境を守るという自然な感情もある。 誤解や偏見もあるかも知れない。 と言っても他地区に比べるとある程度以上の理解もある。 住民の生活の視点でおおかたに受入れられる段階の構想にして、 将来序々に深い理解が得られるようにすべき。 (2)在日外国人の為の構想として一般に印象を与えてしまっている。 当地区の活性化、 まちづくり全体の視点を協調すべき。 (3)アジアタウンと言った場合、 人それぞれのイメージをもっており、 それが誤解のもとになっている。 地区の生活環境づくりに根ざしたイメージをつくること、 等であった。
 このような状況の中でアジア文化交流タウン検討懇談会は、 9ヶ月、 9回の懇談会を開催し、 98年10月、 神戸市の「アジア文化交流タウン構想」に対する地元案としての「アジアギャラリー構想」をまとめた。 この間、 懇談会での検討内容を対象となる細田神楽、 松一まちづくり協議会役員会を始め、 新長田駅北地区東部のおおかたの協議会役員会、 新長田駅北地区全体の会長会である新長田駅北地区まちづくり連合協議会等において各々説明し、 理解を求めるとともに意見を聞いている。

改行マークこのような経緯を経て、 98年8月アジアギャラリー構想案(20頁の冊子)を6まちづくり協議会の全住民、 企業、 地権者、 その他まちづくり協議会には役員会に、 合計1、 500部配布し、 意見を求めたが、 特に意見がないということで、 ほぼこの構想案が最終案となった。


4。 アジアギャラリー構想

1)アジアギャラリー構想の概要

 松一まちづくり協議会(会長 岸能且)、 細田神楽まちづくり協議会(会長 野村勝)から地元案として98年10月、 神戸市に提出された「アジアギャラリー構想」の概要は以下のとおりである。

(1) JR新長田駅南側の再開発事業の影響等により、 当地区が「駅裏」にならないよう、 JR南側の再開発事業とは異なった特色ある、 人の流れのあるまちとして商業等の活性化を図っていく。

(2) 美しい環境づくり、 商業の活性化、 外国籍住民が集住化するまちづくりでないこと、 安心と安全のまちづくりの四つを基本に「地区に根ざしたまちづくり」として取り組む。

(3) 具体的には、 新長田駅北側周辺を「アジア・アンティーク街(アジア古美術街)」を基本とした文化性のある商業ゾーンをつくっていく。 これには、 土地建物の所有者等の賛同を得て、 東西・南北のコミュニティ道路(14m)沿い等を中心に展開していく。 これによって既存商業等の活性化も促進していく。

(4) アジアギャラリー施設(アジア・アンティーク店、 比較的高級なアジア料理店、 アジアツーリスト等)は、 景観形成市民協定「いえなみ基準」を基本とするとともに、 地区の生活環境や景観に調和したものとしていく。

(5) 神戸市に、 細田町7丁目内の神戸市所有地の一部(約400m2)を「アジアギャラリー構想」を先導する商業施設「アジアギャラリー・パイロットショップ」として活用していただくよう要望する。

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アジアギャラリーのイメージ
(6) 平成10年1月に提案した「シューズギャラリー(タウン)構想」と、 この度の「アジアギャラリー構想」により、 「ギャラリータウン−くつの工房とアジア・アンティークのまち」を形成し、 長田の特徴を人々に魅力あるものとして感じてもらい、 多くの人々が訪れ、 産業や生活に活力があるまちへと発展していくことをめざす。

 以上、 詳しくは、 アジア文化交流タウン検討懇談会発行の冊子「アジアギャラリー構想」を参照されたい。

2)アジアギャラリー構想の特徽

 アジアギャラリー構想の検討の過程を踏まえ若干の補足をしておく。

(1) 長田の「混住」の特質を生かす:先に述べたように長田は、 外国籍住民と日本籍住民とが共に協力してケミカル産業という地場産業を育て、 これによって共に一つのコミュニテイ、 いいかえれば「混住としての外国人居住」の形態となり、 日常生活を通して互にふれあい共生を育んできたところに特徴がある。 アジアギャラリー構想は、 日本人、 外国人が共に参加する長田の特徴にあった新しい地場産業づくりとコミュニティづくりといえる。

(2) 基軸としてのアジア・アンティーク(古美術):一つの流れができればおそらく、 アジアの飲食店は自然に立地していくだろう。 単に飲食だけでなくもう一歩進めて、 日常生活を通して異文化を理解するテーマが必要でないか。 このような視点からアジア・アンティーク街提案がとり上げられた。 アジア古美術の背景となるまちとして、 全国に長田以上のところはないのではないか。 住宅とも共存できる。

改行マークそして何よりも当地区で比較的広い土地の地権者であり、 常時懇談会に参加されていた澤田尚久さんが、 この業界の知識が豊かで、 自らもやっていこうという意志をもっておられることがこの構想に現実性を与えた。 大地主・企業のまちづくりへの参加は、 たいへん大きな力となる。

(3) ステレオタイプなアジアイメージは異文化理解をゆがめる:アジアらしさと言ったとき、 注意しなければならないのは、 安易にオリエンタリズムなイメージ、 ゴチャゴチャしたイメージ等、 ステレオタイプなイメージに結びつけられやすく、 それが本当の異文化理解を妨げ、 ゆがめてしまう可能性があることである。 本物の商品を展示することこそアジアらしさではないか。 そのような議論の中でアジアギャラリー施設となる建築物は、 現代建築様式を基本に、 地区の「いえなみ基準」に基いて緑豊かな洗練された美しいまちなみづくりに貢献するものがふさわしいと考えられた。


5。 現在の状況等

1)アジアギャラリー神戸・パイロットショップ

 まちづくり協議会から「アジアギャラリー構想」の提案を受けた神戸市は、 神楽町7丁目の市有地をアジアギャラリー構想を先導する「アジアギャラリー・パイロットショップ」にあてることを決定した。 アジアギャラリー・パイロットショップは、 民間事業者が市から20年の定期借地権(事業用借地権)として用地を借りうけ、 その建築・運営にあたるもので、 その事業者募集をコンペ方式とした。

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「アジアギャラリー神戸・パイロットショップ」コンペ当選案
改行マーク事業者募集コンペは99年1月から実施され、 3月、 事業者を澤田興産に決定した。

 計画では3階建延床面積約660m²であり、 そのデザインについては、 その後、 新長田駅北地区東部のまちづくり協議会で構成する「いえなみ委員会」との調整の結果、 いえなみ基準に基づきコンペ当選案に一部傾斜屋根がつけられることになった(図2)。

 事業者の話では、 「長田に文化を」という視点からアジアアンティークを主に、 水準の高いものを考えたいとされている。

改行マーク予定では、 6月着工、 11月完成をめざしたいとしている。

2)アジアギャラリーセミナー

 アジア文化交流タウン検討懇談会は、 「アジアギャラリー構想」を策定した後、 「アジア文化交流タウン懇談会」に名称を改め、 アジアギャラリー構想の理解をより深めていくため、 自由参加によるアジアギャラリーセミナーをシリーズで開催している。 第1回目は、 大阪外大助教授 森栗茂一先生により「住みたい故郷のために〜松一に生まれて」、 第2回目は、 神戸市博物館学芸員 岡泰正先生により「アジア古美術について」であった。 特にアジアギャラリー施設について、 岡泰正先生が「みやげもの屋はおかないこと。 」「こだわりをもって」というアドバイスは、 たいへん大切なこととセミナー参加者に受けとめられた。

3)土地の有効活用と在来店舗の活性化

 当地区には、 従前の木賃用地、 その他の転用用地等は、 仮換地後土地の有効活用が課題となるが、 それらの土地所有者には、 できるだけアジアギャラリー構想の主旨にふさわしい活用がなされるよう促進していくこと、 またそれとともに地区外からもアジアギャラリー構想の主旨にあったテナントが来てもらえるよう、 PRすることがこれからの課題である。

改行マークそのことが、 地区の在来商業者の再建にも良い影響を与えることになる。

4)環境共生としての風水思想

 当地区では、 「杜の下町」をまちづくりの基本理念としている。

改行マーク「自然との共生」は、 今日の都市環境創造のたいへん大切なキーワードである。 この「自然との共生」は、 これまでの西欧的思想の延長線上では限界があるといわれ、 そのような背景の中で東アジアの「風水思想」が注目されている。 「風水思想」をキーワードにして、 環境共生、 コンパクトシティとしての長田の都市環境創造に取り組むことは、 「アジア文化交流のまち:ながた」にふさわしい。 このような意味から「アジアギャラリー構想」の提案冊子には、 参考資料として「風水思想と新長田地域」がのせられている。

(99。 6。 10記)


 

まち・ひと・かさ・ねこetc.
〜ゼロがプラスになる瞬間

中川啓子(ジーユー計画研究所)

改行マーク執筆のお鉢がまわってきてしまいました。 文にすることは自分をみつめるいい方法なので、 若手ネットとかまちづくりについて、 私なりに思うところを記してみたいと思います。

改行マーク若手ネットは私がまちづくりの仕事に関わるようになった年に発足(?)しました。 何となく私は若手ネットと共に歩んできたようです。 そしてネットで出会った人々は私にとって仲間であり、 (しかも私は末っ子のくせに一番生意気で、 きつい性格のやつ)でもあります。 この世界に飛び込んでからかなり早い時期に、 このようなネットワークが立ち上がったことで、 同じような年代の人たちだから話せることがあったり、 他事務所の仕事のことを知って自分でも気づかなかった自分の考えを発見することもあり、 これは私にとっても幸運でした(これはホント。 人との出会いは大切、 一生モノ)。

改行マークもともと私のまち(づくり)への興味は、 私自身が自分のまちに強い愛着を持っていることとまちの面白さに気づいたことからはじまっています。 大学では設計も少々学びましたが、 「まちは底が知れない。 まちを知ることでもっと楽しく、 快適に暮らすことが出来る。 」と思うようになって興味の対象が建築を含めた「まち」に移ってきました。 「まちづくり」は「住んでいる人が、 何らかの形で自分のまちへの興味を持つこと」を表現する言葉のひとつとして使わせてもらっています(私なりの言い回しがまだ見つからないので)。

改行マークそれから震災があって、 まちづくり協議会なるものの姿がかなり一般的に知れ渡るようになりました。 「まちづくり協議会でどんな人がどんなことをどれくらいしているのか…これは実地で勉強する方が絶対面白い。 」というわけで今の仕事を選択したのです。

改行マークさて、 実際に私が主に関わっている仕事は、 一言で言えば“まちづくり協議会のお手伝い”というもので、 今現在6つの協議会と面識があります。 といっても関わりだして長くて2年ちょっと、 短いところはまだ3ヶ月程度です。 働き始めて2年というひよっこの私では、 大したこともできないので、 まず話をしてみて、 名前と顔を覚える、 覚えてもらうことからという感じです。 同じ「まちづくり協議会」といっても、 6協議会に6種6様の性格があり、 人を知ることが原点だなと思いました。

改行マークまちには人がいて、 人がいるからまちなのですが、 人がいる限り、 生活しにくいこととか危険なことはいっぱいあります。 一ついい点があっても悪い点も必ずあるし、 誰かが楽すれば、 そのしわ寄せがどこかへ行く。 だからといって何もしないのがいいというわけでもなく、 いいことも悪いこともやり方、 考え方一つで、 180度変えて受け止めることができるのも人で、 まちはそういう受けとめかたができるモノのひとつです。 ゼロもマイナスもプラスにする可能性がわんさかと眠っています。 そうやって見ると、 これだけ面白いモノもないと思うし、 そういう面白さを感じるだけで、 何となく気持ちが豊かになるような気がします。 私の場合はそのひとつが「猫」なんですが(まちで猫(野良含む)に出会うとしばらく幸せです。 ペット的にでなく、 そのまちで生活しているという十猫十色の雰囲気を感じることが面白く、 うれしいのです)。

改行マークそういう点で若手ネットから派生した“M-net”のまちあるき(神戸市灘区東灘区のまちをほぼ一日中みんなで歩いて震災前、 後の両方のまちなみを観察・検証をしてます)は個人的な観察+第三者の目や意見によって、 思わぬ発見をすることもあり、 刺激になるのでよく参加しています。 雨の翌朝の晴れた日に歩いたときには、 通りのあちこちに傘を干す光景が見られ、 カラフルな傘がまちをデザインして、 更にその家の家族の雰囲気も写しているようでした。 今まで何気なく見ていたまちの光景に、 生活を感じるデザインと、 その面白さを見つけることができたことは、 一つの収穫でした。 まち(のデザイン)はとても流動的で、 複合的で、 だから生活が映し出されるし、 永遠に魅力的であると思います。

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八百屋猫(灘区)と定食屋猫(兵庫区)
改行マークそして、 「まちづくり」は都市計画や建築の分野だけのものではなく、 むしろ他分野とどれだけ融合できるかがとても大事であると感じています。

改行マークこのネットにしても、 もっと多種多分野の人に参加、 発言してもらって、 わいわいやっていければいいなというのが、 楽観的私見でしょうか。 そうやっていくうちに、 まちに対しても、 自分に対しても、 見えていなかったモノが見えてくる(ゼロがプラスになる)瞬間をたくさん経験できるように思えます。

改行マーク一方で自分には「まちで何がしたいのか」と問いかけ続けていく気がします。 答えがでなくても、 そうすることで得るモノはたくさんあるようなので…。


 

新しい町並みの兆しを発見する
具体例1「2項道路の新たな空間」

上山 卓(コー・プラン)

改行マーク前号、 このコーナーで<これまでに見つけた「兆し」>の一つとして、 2項道路に面した敷地で再建された住宅と道路の間に生まれた新しい空間が紹介された。

改行マーク密集市街地では2項道路が至るところで見られ、 震災前は、 どちらかといえば防災や住環境面からそれをいかに拡幅するかに四苦八苦していた。 そして、 大部分が各敷地所有者の個別事情で建物が更新されるため、 地道な取り組みのなかで展開していた。

改行マークところが、 震災で一瞬にして数多くの建物が倒壊し、 至るところに道路と敷地の境界が曖昧な空間が生まれた。 そして、 沿道の再建が順次行われたことにより、 いままでには見られなかった新たな空間が生まれた。

改行マークそこで、 <現場から発見した>3つの事例を通してその空間を紹介し、 景観面での展望の一端を探ることにする。


模範解答の道路

改行マーク写真(1)は事務所の近所の道路である。 震災で8割以上の建物が倒壊し、 その再建が一斉に行われた。 そして、 私道復旧に対する支援制度などが活用され、 幅員4mの両側に側溝を備え、 表層はアスファルト舗装という、 まさしく建築基準法上模範解答の道路空間が生まれている。

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写真(1) 神戸市灘区(楠丘町)
改行マークこのような空間は被災地の各地でみられる。 今後は、 確保された通行機能を損なうことなく、 植栽や飾花などの敷際空間の設えの工夫が行われることにより、 うるおいのある通りとして育てていく取り組みが求められる。


部分的に後退した空間の工夫

改行マークその一方で、 モザイク状に住宅が再建されているところも至るところでみられる。 写真(2)は路地のほぼ真ん中の住宅だけが倒壊し再建された事例で、 約2m幅の震災前からの通行機能を損なうことなく、 後退した塀との間に花壇を2軒連続して設えている。

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写真(2) 神戸市灘区(灘中央地区)
改行マーク路地の入口が狭く、 一方が階段のため、 自動車が通行できないことを考えると、 公道の幅員4mの歩道部分や歩行者専用道路に植込などが設えられているのと同じ空間と考えることができる。

改行マーク沿道の人からも「いざという時に避難することもでき、 歩いていても気持ちがいい。 将来うちが建て替える時も花壇にしたいし、 みんながそういう空間をつくるように協力したほうがいいのではないか。 」という意見がでている。

改行マーク今後の道路空間を構成する一つの手法としてその「兆し」がみられる事例である。


震災前の要素が残った空間

改行マーク写真(3)は、 石積が震災前からの通りの重要な空間構成要素となっており、 しかも従前の側溝がその前面に残存した事例である。

改行マーク自治体によっては、 道路後退に伴い擁壁の除去までも求めているところもある。 しかし、 塀の後退により生まれた石積上部の数10cmのところにプランターを置く(さらには上部のコンクリートをはつり地植えの植栽を施す)ことにより、 対面の植込(この部分も後退空間)と一体となった、 おもしろい断面の豊かな空間に育っていくと考えられる。

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写真(3) 神戸市灘区(灘中央地区)
改行マークこれらの事例はその一端にすぎない。 通りはその沿道の人々の基礎的な生活空間である。 どのような通りなのか、 沿道の人が震災により生まれた新たな空間をどのように意識するか、 どのように維持していくかが重要である。 「近隣住環境計画」制度の創設など行政側の新たな取り組みも始まっており、 住環境・コミュニティの再生と町並み景観がうまくつながることが期待される。


 

個別専門家ネットワーク型組織の
NPOをめざす

神戸復興塾

改行マークイギリスのバーバリアンズというラクビークラブをご存じですか。 オールブラックスなど南半球の国代表チームのイギリス遠征に際し最終試合を戦うのが恒例となっている名門であるが、 出場するのはその都度選抜された代表選手級のプレーヤーで、 勝敗よりもラクビーの魅力を堪能するのが目的である。 しかし、 このクラブがNPOであることはあまり知られていない。 その代表的イベントはクリスマスの前後に各地で開催するチャリティーゲームで、 収益を慈善事業に寄付している。 震災後、 神戸に遠征したが寄せ集めの弱点をつかれて神戸製鋼に敗れたのがこのチームで、 チャリティの目的は大成功であったと聞く。

改行マーク神戸復興塾も、 バーバリアン型の組織である。 もちろん、 メンバーは決してバーバリアン(野蛮人)ではなく、 バーバリのコートが似合う人の方が多いが、 いろいろな分野で活躍している義侠心に富む専門家が見事なチームワークを発揮する点では共通している。 こういうネットワーク型組織は震災後いろいろな分野で誕生したが、 われわれのように特定の目的や共通の利害を持たない異業種交流型ネットワークは珍しいのではないか。

改行マークそれだけにこれから連載する復興塾レポートも個々のメンバーの活動が中心になるが、 最初は塾全体の活動を紹介する。 対外型イベントとして継続できそうなのが「こうべあいウォーク」とサンフランシスコ研修ツアーである。 前者は準備不足のまま今年の1月17日に初めて実施したが、 天候にも恵まれ大きな成果を挙げた。 しかし、 震災メモリアル事業のままでは先細りが懸念され、 市民活動支援型募金イベントとしていかに定着させるかが課題であろう。 そろそろ来年のあいウォークの準備に取り掛かる時期だが、 持ち込み企画を歓迎します。 なお近日中に森栗さんの尽力で報告書がでる予定。

改行マーク塾呼び物の海外ツアーは、 昨夏のサンフランシスコNPOの視察に引き続き、 この6月13日に第2回視察団が出発した。 今回の主たる目的は、 市民ラジオ局やローカルTVなど市民自らが発信する草の根メディアの役割を探ることで、 参加者も多士済々であった。

改行マーク塾内の勉強会は月1回のペースで実施しているが、 5月は阪神・淡路コミュニティ基金の3年間を振り返るというテーマで今田忠さんを囲む討論と、 ハンブルグからの報告者を招いたまちづくりフォーラム(出席者63名)が開かれた。 フォーラムの内容は上田国手の神技によりニフティのPATIOに掲載されている。 専門家としてハンブルグのまちづくりに献身的に従事している人々が、 60年代の学生運動に通底する社会改革の継承者であることがわかってその息の長さに感動した。

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まちづくりフォーラム「ハンブルクNPOのまちづくり」の様子
改行マーク最後に報告2件。 京都市消防局から助成を受けた「災害復興期におけるNPOの役割」がようやく刊行された。 また、 昨年の室崎委員の日本建築学会賞、 田村事務局長の毎日国際大賞受賞に引き続き、 今年は小森塾長が神戸新聞社会賞、 小林委員が関西まちづくり賞(都市計画学会関西支部)を受賞した。


 

前書・野田北部の人々の記憶

小林郁雄(まちづくり会社コー・プラン)

改行マーク戦国時代末期永禄10年(1567年)信州上田に生まれた真田源次郎信繁は、 長じて真田左衛門佐幸村と名乗り、 慶長5年(1600年)関が原の戦いに急ぐ徳川秀忠を上田城で翻弄足止め西軍に味方したため、 敗れた豊臣残党として紀州九度山に転封され蟄居した。 慶長19年(1614年)大坂冬の陣に参戦すべく、 太閤秀吉遺児秀頼のたてこもる大坂城に、 赤地に六文銭を染め抜いた旗印をかかげ馳せ参じた。 宿敵徳川家康との敗れることのわかっている戦さではあったが、 狸親父に一泡吹かせんと、 勇名とどろく真田十勇士とともに神算鬼謀・豪胆計略の限りを尽くし戦ったという。

改行マーク明治になって徳川倒幕とともに、 主に支配されてきた大阪中心に徳川の時勢をからかい、 揶揄する大衆文芸が彷彿とし、 その代表といえる大正期の講釈師元本「立川文庫」の最重要ヒーローは真田十勇士であった。 猿飛佐助、 霧隠才蔵、 三好清海入道・為三入道、 穴山小助、 由利鎌之助などなど、 荒唐無稽だが自由奔放、 軍師幸村のもとチームワーク堅き面々の血沸き肉踊る活躍に、 多くの児童少年が固唾を呑んで読書見聞する日々を過ごしたものである。

改行マークさてそこで、 野田十勇士である。

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野田北部地区12ケ町
改行マーク阪神大震災で焼失倒壊壊滅した野田北部地区は、 神戸市長田区の西のはずれ、 JR鷹取駅の南に位置する。 面積12.9ha、 人口2610人、 1031世帯(1990国勢調査)で、 高齢化率(65歳以上人口率)は既に19.3%と老人の街であった。 1993年1月に発足した野田北部まちづくり協議会に属する12ケ町のうち、 東の海運町は焼失し震災復興土地区画整理事業(鷹取東第1地区)、 中央の本庄町・長楽町は倒壊激しく住市総地区に指定され街並み誘導型地区計画と街なみ環境整備事業、 西の浪松町は被災はそれほどでもなく地区指定の無い白地区域である。

改行マーク1914年より神戸西部耕地整理事業が始まり、 野田村北部も野田開発事業として幹線道路整備、 教育機関建設、 神社仏閣改修などがすすめられ、 1924年双子池(約4.2ha)を埋め立て、 その中央に大国神社(1971年神社焼失し跡地を再整備し、 現在は大国公園)が1932年に完成した(野田開発事跡記念写真帖より)。

改行マーク大正時代より村民の自律した活動(野田村協議会1915〜1931)によって整備されたこの地区は、 その発祥からしてコミュニティによって造られた大国公園が象徴するごとく、 住民の連帯の中に成り立って来たのであり、 大震災に立ち向かったまちづくり協議会の面々は、 まさに野田十勇士である。 信州長野大学のボランティア達、 六文銭小室等さんも、 何か真田十勇士と縁を感じる所である。

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1999年3月発行¥2000円
改行マーク5年目を迎える被災地で今、 県市の復興総括検証が進められているが、 さまざまな事実記録以上に、 記憶すべきはこの未曾有の震災に立ち向かった人々の、 生身の声であり、 姿である。 それが野田十勇士を記す基本であり、 青池監督のVTRと通ずるところである。

改行マーク次号より、 野田十勇士の遍歴を辿る。 もちろん初回は、 総帥浅山三郎会長である。


 

阪神白地まちづくり支援ネットワーク
第8回連絡会記録

〜 密集市街地住環境整備事業の展開 〜

改行マーク今回のテーマは、 「密集市街地住環境整備事業の展開」で、 次の3人の方々から報告がありました。

 鷲尾さんからは、 若宮地区の4つの街区で計画されている市営住宅について、 区画整理を適用しなかったことによる早い事業進捗や、 周囲の戸建住宅と調和させたデザインなどが報告されました。

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連絡会風景。 6/4、 於:神戸市勤労会館
改行マーク石原さんからは、 農漁村型密集地という古くからの地縁・血縁社会での事業の経緯とコミュニティー住宅の概要が報告されました。

改行マーク太田さんからは、 区画整理や再開発事業と住宅地区改良事業との合併施行について、 改良住宅のスライドを交えながら報告されました。

改行マークまた、 兵庫県まちづくり部まちづくり政策課からは、 今年度から始まるまちづくり支援事業の説明がありました。 次回は8月開催予定。


情報コーナー

 

神戸東部白地まちづくり支援ネットワーク/第4回まちづくりフォーラム

改行マーク《詳しい内容が決まりました!》


第40回水谷ゼミナール


フォーラム「これからの地域づくりと環境保全」


ほんまちラボ設立2周年記念パーティ


1000人の仮設市街地づくり「サバイバル・キャンプ・イン99」

上三角
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