きんもくせい50+5号
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検証と情報公開

神戸復興塾塾長 小森 星児

 震災5周年を前に、 あちこちで復興過程の検証が始まった。 兵庫県は国際的な視点から実施するとして内外の専門家を動員し、 神戸市はテーマごとに地元の関係者を集め、 市民団体もさまざまな分野で活動してきたボランティアに呼びかけ検証に乗り出すという。

 こうした権威主義的な用語が適当かどうかは別にして、 検証自体は必要な作業であろう。 しかし改めて辞典を引くまでもなく、 検証とは裁判官や警察が直接現場の状況を調べたり関係者から事情を聴取して証拠固めすることであって、 政策の適否の判定や効果測定のためのアプローチに過ぎない。 もし政策評価を意図しているのであれば、 採用されなかった代替手段や、 定量化が容易でなく検証の対象になりにくい要素についても考慮する必要がある。

 もともと復興過程は広範な領域にわたり、 関連する政策や制度も多様である。 このため、 関係者の利害も輻輳し、 、 客観的な視点や尺度を設定することは困難である。 いかなる評価の手法も、 特定の価値観や専門家の判断基準に左右されることを忘れると危険である。

 こうした事情を考慮して、 アメリカでは議会が公聴会を開催する仕組みが確立されている。 大統領といえども証言を拒否できないことは最近の事例でよく知られている通りであるが、 関係者や専門家を喚問し、 必要な資料を提出させる権限なしに検証が不可能であることがよく分かる。 今回、 兵庫県や神戸市が検証を実施するのは、 恐らく政策の具体的な内容に精通しているが意思決定過程を明らかにしたがらない官僚による内部評価では不充分であると考えたからであろう。 そうとすれば密室に閉じこもる審議ではなく、 情報を公開し、 大学やシンクタンクなど公共政策の調査研究に実績のある組織の参加を求めるべきではないか。 こうした外部機関の能力が高まれば、 それを活用する行政当局の政策立案能力も強化される。 行政不謬の神話が崩壊したのが震災の教訓であったとすれば、 まず情報を公開してさまざまな角度から問題点を探索するのが順序であろう。

 神戸復興塾も、 最近、 NPO法人『神戸まちづくり研究所』設立に踏み切った。 この研究所でも、 われわれの流儀で復興過程の検証に取り組むことになるが、 ここでも情報の偏在や歪みがもたらした混乱を取り上げることになろう。 なにしろ「まちづくり」については住民の側の情報があまりにも乏しく、 立ち上がりに無駄な時間とエネルギーを空費したという悔いが残る。 またコミュニティが培ってきた生活世界の再建という目標が行政にも理解されず、 施設優先の標準メニューで塗りつぶされたのは、 住民のもつ情報が適切に伝わらなかったことに原因がある。 情報の公開だけでなく、 その利用についての検証も必要である。


 

全焼地区・長田区御蔵通5・6丁目における共同再建住宅と「コミュニティプラザ」構想(中)

まち・コミュニケーション 小野 幸一郎

○まちづくり支援機構への支援依頼と候補地の変更

 共同化の候補地にしていた御蔵通6丁目北ブロックには「大地主」が2件ほどおられます。 個別のヒアリングをするなかで、 そのうちの1件の大地主と借地人の借地権を巡る「争議」に巻き込まれました。

 御蔵で長らく船舶関係の事業をしていた借地人は、 震災後は社屋の再建もままならず自宅にて事業をされていました。 ヒアリングで話を伺った際、 共同化への協力する気持ちはあるものの御蔵での社屋再建のメドはなく、 正直な話、 借地権を「現金化」したいという意向でした。 しかし、 一度地主と話をした際、 買い取りには応じるものの、 金額的にはとてもじゃないが納得のいく数字ではなく、 それ以降交渉していないということでした。

 一方、 地主からもヒアリングの席では共同化事業については一定の理解をえられていたので、 共同化の流れの中で「権利交換」をすることで、 地主・借地人双方にとってメリットのある着地点を生み出せないか模索を試みました。

 ところがいざ地主に借地人の話を持ち出すと、 地主の反応は非常に冷ややかで、 権利交換についても難色を示し始めました。 この時点で私たちだけでは事態の解決を図るのは困難だと悟り、 「阪神・淡路まちづくり支援機構」へ支援を要請し、 また、 この件が長引くことを懸念して別の候補地の検討を開始し、 神戸市の(区画整理のための)買収地が多い、 御蔵通5丁目北ブロックが有力候補として上がりました。

 結果、 支援機構の助力で借地権問題は分筆し借地権者持ち分の土地を市が買収することで一応の解決を見、 また共同化の候補地も、 地元企業である(株)兵庫商会の参加により、 5丁目に変更になったのでした。

○第1次覚え書き調印、 事業計画の煮詰め

 候補地が御蔵通5丁目にほぼ確定になった頃、 事業の具体化に向けてのご相談を、 真野地区において共同再建の総合的なコーディネートをされていました宮西悠司先生にいたしました。 そして、 今後考えられる様々な事態をフォローしていただける事務所として(株)武田設計をご紹介いただきまして、 所長であられる建築家の武田則明先生にお願いしたところ快諾して下さりました。

 97年9月7日。 共同化準備会の参加者による共同化推進の為の第1次覚え書きの調印が11件の方々でなされました。 ここから具体化の作業が実質始まりました。

 この時点では当面の課題として以下があげられます。

 小島先生からバトンを継がれた武田先生が中心となって、 これらの課題への取り組みがなされます。

 土地の形状は市の区画整理課より、 当初はかなり凸凹の図面を提示されましたが、 その後協議を重ね、 出来る限り四角に近い形で仮換地が行えるようにしました。 協議の過程で、 覚え書きに調印した1件(事業者)が離脱をしたり、 また候補地の隣に自力仮設で居住していた借地権者へ共同化参加を強く呼びかけ、 地主にも直接面会に行きました。 そうした結果、 地主と借地権者で借地権割合についての文書が(かなり地主に有利な条件で)取りわされていた事が分かり、 地主との権利分割による分筆後の借地権者の土地が大変狭小となるため、 共同化へ参加する運びとなりました。

 そんな紆余曲折の末、 共同化敷地の形状はほぼ固まり、 次は武田先生による建物のプランを準備会で検討することになります。

○具体的な建設計画案と建設組合設立

 武田先生からは総合設計制度を活用した「高層案」と既存の容積を目一杯使った形の「低層案」の2種類の案が提示されました。 共に保留床はあります。 そのうち低層案は「囲い込み式」の建物で、 通路がロの字型に回り込み、 囲い込まれた建物の真ん中部分は「小広場」として活かせるというもので、 参加者の関心をかいました。 採算性・土地から部屋への権利交換の割合等も織り交ぜ検討した結果、 準備会は低層案を採択、 その案で住宅・都市整備公団との折衝を始めました。

 被災地の多くの共同化に関われている、 住都公団復興事業本部事業推進課の専門役・田中貢氏には、 まだ準備会が立ち上がる前から小島先生を介して事業化に向けての相談をさせていただき、 御蔵の地にも何度か足を運んでいただいていました。 それは、 私たちとしてはデベロッパーとして、 住都公団にかんでもらう道筋だけはつけておきたかったというのがあったからです。 なんと言っても住都公団の割賦金には年齢制限がないのが最大の魅力でしたから(その替わり余分な「事務費」がとられますが…)。

 さて、 また同時進行で各参加者の事業参加への最終確認とどれくらいの・どんな部屋が欲しいのか、 その聞き取りも行われました。 ところがその過程で、 また1件、 「離脱」の危機を迎えました。

 この参加者は実は借地人で、 地主から権利を買い取る方向で検討していたのですが、 それに伴う融資の問題があるのに加え、 所得証明から割り出される公団割賦の限度額が取得したい部屋を確保するには足りないということが判明しました。 それらの事情で共同化に参加するためには複数の融資を利用しなければならず、 そこまでして共同再建はしたくないという意向でした。 何度か協議の末、 準備会は離脱の旨を受けました。 しかし、 仮換地の想定は既にその借地人の土地も折り込み済みであったため、 またもや敷地の形状が変わることになる訳です。

 そんな状況の中、 年を越した98年の1月17日、 震災から3年を経て正式に共同再建組合を設立、 理事長には当初から関わってこられた柴本氏が就任し、 第2次覚え書きに9世帯(企業含む)が署名・捺印し、 実現に向けまた一歩前進した訳ですが…。

 住都公団との折衝の中で、 公団は低層案の保留床は買えないとの見解を示し、 私たちは騒然となりました。 (つづく)
 

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建築計画を検討する準備会の様子 模型写真(低層型囲い込み案)
 

 

阪神・淡路大震災復興まちづくりの実践報告(その2)

小売市場共同再建の白星・黒星

(株)ジーユー計画研究所 後藤 祐介

はじめに

 本稿は、 復興まちづくり実践報告(その2)として、 私が阪神・淡路大震災復興まちづくりにおいて、 建築物等の共同再建事業に取組んできた幾つかのプロジェクトのうち、 小売市場の共同再建への実践例を失敗例も含めて報告する。

 私は、 阪神・淡路大震災復興まちづくりにおいて、 地元在住のまちづくりプランナーとして、 ルールづくりによるまちづくりの他、 狭小住宅の共同再建や密集市街地における住環境整備事業、 個人の賃貸収益事業等の推進を支援してきたが、 これらのカテゴリーの一つに小売市場の共同再建への取組みがあり、 次の3つのプロジェクトをコーディネーターとして支援する機会があった。 (但し、 3地区とも、 震災以前から共同再建の勉強会を行っていた地区である。 )

 

○復興まちづくりにおける小売市場共同再建の取組み
小売市場名    所在地   面 積 構成員事業手法
1.二宮市場    神戸市中央区3,200 約60人優建  ●
2.湊川中央小売市場神戸市兵庫区3,300 約90人再開発 ○
3.深江ショッピングセンター神戸市東灘区2,700 約50人優建  △
※優建:優良建築物等整備事業  再開発:市街地再開発事業
 

 関西における小売市場は、 一つの屋根の下に細い通路に面して小売店舗が軒を連ねて密集した独特の雰囲気を持つ小売商業店舗群(一般に30〜80店舗で構成されている)であり、 商店街等と併存する場合も多く、 生活中心商業ゾーンの中核的役割を果たしてきた。

 特に、 震災前の神戸の市街地におけるコミュニティ核としての小売市場の占めるウエイトは高かった。

 復興まちづくりにおいても、 「まちの元気アップ」のためには、 この小売市場の健全な再建に期待するところが大きい訳であるが、 私が支援した3つのプロジェクトについては悪戦苦闘の連続であり、 震災後5年目の時点で1勝1負1引き分けになりそうである。

 本稿では、 これらのプロシェクトの実践経過を自分自身のために整理し、 レポートすることとする。

〈小売市場共同再建の困難さ〉

 小売市場の共同再建は、 神戸の「まちの元気アップ」のためにも大変期待されるところであるが、 次のような要因が積み重なり共同再建への合意形成は大変難しい場合が多い。

 一般に、 権利者の数が多く、 1人1人が異なる業種の店主であり、 考え方もバラバラである。

 小売市場の再建のためには、 ハード面としての建物づくりとソフト面としての商業振興サイドからの粘り強い支援が必要であり、 これを可能とするような支援体制を確立するよう啓発することが本稿の目的の一つでもある。


●● 断念した事例 ●●
二宮市場における共同再建計画

1)取組みの経緯

 二宮市場は、 神戸の都心に近い三宮からすぐ北の約2〜300mの所に位置し、 約60店舗からなる比較的大きな市場である。 しかし、 老朽化している建物が多く、 近年、 空店舗も増えつつあったことから、 阪神・淡路大震災が起る直前の平成6年11月から、 私は神戸市都市計画局民間再開発課を通じて、 二宮市場の再開発についてのアドバイザー派遣の要請を受け、 市場の有志の人達と再開発の勉強会を始めていた。

 平成7年1月17日の震災では、 全・半壊が約40%、 一部損壊が約40%で、 小売市場全体は壊れなかった。 しかし、 甚大な被害を受け、 引き続き共同再建の可能性を検討することとなった。

2)事業化計画の概要

 当小売市場は、 敷地形状や接道条件等から高度利用地区の指定にはなじまず、 事業手法としては市街地再開発事業の適用を断念し、 優良建築物等整備事業の適用を図ることとした。

 施設構成基本計画としては、 近隣商業地域、 容積率300%の条件を前提に、 1階は市場の再建空間としての店舗、 2・3階を駐車場とし、 4階以上を都心居住型住居とする案を作成した。

 

○二宮市場共同再建計画の概要
所在地 神戸市中央区琴野ノ緒町3丁目  地区面積:約3,700m
被災状況全・半壊約30軒(40%)、 うち解体15軒
用途地域近隣商業地域、 容積率300%、 準防火地域
敷地面積3,255m、 延床面積:約11,300m、 店舗面積:約1,600m
構造・階数:鉄骨鉄筋コンクリート地上14階、 住宅戸数:約120戸
 
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二宮市場区域図
 
 
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二宮市場位置図 二宮市場共同再建断面計画(案)
 

3)事業化へのネック

 当小売市場の事業化へのネックは、 何といっても権利者の合意集約であった。 即ち、 三宮都心に立地し、 保留床処分等には可能性があったが、 その前に小売市場の権利者の中の共同再建反対者が1〜2割あった。

 第1次基本計画段階及び第2次基本計画段階における権利者の意向集約結果は次のとおりであった。

◎第1次基本計画(案)の意向集約結果(H7年12月)
  共同再建を前向きに検討したい:20人( 32.3%)
  条件によっては検討する   :27人( 43.5%)
  共同再建に参加したくない  :15人( 24.2%)
      計       :62人(100.0%)
 

◎第2次基本計画(案)の意向集約結果(H8月5年)
  共同再建は止むを得ない   :48人( 77.4%)
  共同再建には参加しない(現状維持):14人( 22.6%)
      計       :62人(100.0%)

4)事業化断念の理由

 私は、 次のような理由から当小売市場の再建事業の支援を一時中止することとした。

5)今後の課題

 現在、 一時中断しているとはいえ、 一方で約8割の人が共同再建を密かに望んでおり、 これらの人々に答えたい気持ちはあるが……。 近いうちに、 新しい事業手法の展開や補助制度が生まれれば、 私としても是非とも再挑戦したいと考えている。


●● 事業化に成功した事例 ●●
湊川中央小売市場共同再建事業

1)取組みの経過

 当小売市場は、 戦後のヤミ市の時代からの市場で、 建物の老朽化が著しく、 私は震災前の平成2年からアドバイザー派遣制度により地元有志による再開発の勉強会を行っていた。 そして、 平成4年11月には市街地再開発事業の施行を目指し準備組合を発足させていた。

 震災では、 市場全体(111店舗+住宅)のうち、 全壊21店舗、 半壊72店舗の甚大な被害を受けた。

 震災直後の平成7年2月に復興再開発の意向集約を図り、 2人の反対を除く95%の合意を見て、 市街地再開発事業に取組むこととなった。

2)事業計画の概要

 当地区は、 神戸の台所である湊川五連合の中心部に位置し、 地区面積5,400 、 敷地面積3,300 で、 大倉山線と福原線の一部を含む市街地再開発事業として、 平成8年11月に都市計画決定された。 その後平成9年8月に組合設立、 平成10年3月に権利変換計画認可、 平成10年7月に工事着工し、 平成12年4月オープン・入居を目指して、 現在工事中である。

 保留床は、 住宅都市整備公団と神戸市が連携し、 震災復興市営住宅として公団に取得してもらった。

○湊川中央小売市場再建事業の概要
所在地  神戸市兵庫区荒田町四丁目   地区面積:0.54ha
用途地域 近隣商業地域、 容積率:400%、 防火地域
敷地面積 3,300 、 延床面積:約15,000 、 商業床:5,000 
構造・階数SRC造地下1階地上13階、 住宅戸数:約150戸
被災状況全壊21(19%)、 半壊72(65%)、 一部損壊18(16%)
 
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湊川中央小売市場位置図
 
 
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湊川中央小売市場再建1階平面図 湊川中央小売市場完成予想図
 

3)事業化推進の要因

 当小売市場の共同再建事業が比較的円滑に推進できた要因としては、 次のことがあげられる。

4)今後の課題

 老朽化した市場の共同再建という視点からは、 一応の成功と見られるが、 小売市場再建の目標である「まちの元気アップ」という視点からは「湊川五連合」グループの中心核として、 ソフト面での団結と健全な運営が期待される。 そのため、 ビル管理運営法人として「みなとがわ未来(株)」が既に設立されている。


△△△ 失敗と成功の間を迷走している事例 △△△
深江ショッピングセンター共同再建

1)取組みの経緯

 深江地区は、 神戸市の東端に位置し、 近年、 阪神間の住宅地として発展してきた地区で、 文化住宅も多く、 神戸市が昭和60年頃から密集住宅市街地整備促進地区として取組んできた。 私は、 昭和62年頃から約50軒の店舗付木造住宅からなる深江ショッピングセンター共同再建の勉強会を支援してきた。

 平成7年1月の阪神・淡路大震災では市場全体が全壊した。 その後、 同年7月に「深江北町4丁目地区共同建替推進協議会」を設立し、 復興の共同再建に取組んだが、 権利者間の不協和により迷走を続けている。

 

○深江ショッピングセンター共同再建の概要
所在地 神戸市東灘区深江北町4丁目 
用途地域近隣商業地域、 容積率:300%、 準防火地域
被災状況全て全壊(54棟)
敷地面積2,700m、 地区面積:約3,000m
事業手法優良建築物等整備事業
 
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深江地区位置図 深江ショッピングセンター区域図
 

2)事業計画の変容

 共同建替推進協議会設立後4年が経過したが、 当地区の共同再建計画は次のように変容してきている。

 即ち、 協議会設立後4年間で区域は東面のコープ側の協力が得られなくなり、 店舗はセルフ化を前提とした共同店舗の計画が無くなり、 ディベロッパーは商社系から公的、 又、 民間住宅系へ迷走している。

3)迷走する要因

 深江ショッピングセンター共同再建が迷走する要因としては、 次のことがあげられる。


4)今後の課題

 地区東面のコープ側への顔だしは無くなり、 セルフ化を前提とする共同店舗も無くなった。 今後は個店対応のみとなる。 この点では、 深江ショッピングセンターの共同再建は失敗に終わったといえる。 しかし、 当地区の市場内通路は2項道路にも認定されておらず、 このまま共同再建事業が立ち上がらないと、 個々の宅地は無接道宅地となり、 価値のない土地となってしまう。 そのため、 何が何でも共同再建だけは成就し、 できれば1階の個人店については、 深江地区の生活都心にふさわしい街なみとなるよう、 魅力的な個店の展開を図ることが残された努力目標である。


 

神戸で生まれ育った私だから

(株)環境整備センター 根津昌彦

○若手ネットとの出会い

 若手ネットの最近の活動にはなかなか参加できないながらも、 今回仲間の一員として執筆依頼をいただいたことに御礼申し上げます。

 私が若手ネットの仲間に混ぜていただいたのは、 中学高校時代の同級生、 遊空間工房の山本さんと、 うちの会社に以前アルバイトに来てもらっていたコー・プランの吉川さんの2人に声をかけてもらったことに始まります。

 当時私は、 うちの会社他4社の都市計画・再開発系のコンサルタントで震災復興のために立ち上げた会社に半出向し、 半分は本体の仕事をするという2足のわらじを履いていましたが、 どっちの会社の仕事も復興関連の仕事でしたので、 ほとんど毎日のように、 東灘区、 長田区、 芦屋市の共同建替えやマンション再建の現場に足を運ぶという生活でした。

○コンダクターがコーディネーター

 もともと環境整備センターは大阪府下の自治体の仕事が8割がたを占めており、 残念ながら震災前は阪神間での仕事を行っていませんでした。 私の思いの中には、 いつか阪神間で仕事ができればと思っていたのですが、 震災復興という形で私の生まれ育ったまちでの仕事に携わることになるとは思いもよりませんでした。

 平成7年4月に立ち上がった震災復興のための会社に出向してからは、 10数名の出向スタッフで、 次々とくる再建相談に対して、 事業化モデル案作成から関係者の合意形成、 融資・税務相談まですべてを一手に引き受けて、 無我夢中で被災地を走り回っていました。 その結果、 10件以上の建替え事業が完成し、 ひとつの役割を果たすことができたように思います。

 中学時代には野球部のキャプテンと生徒会長を、 高校時代には100名を超える合唱部のリーダーを、 大学時代には同じく100名の男声合唱団の指揮者をしてきた私にとって、 皆さんの悩みを解決し、 思いを形にしていくという、 まちづくりコーディネーターの仕事は天職だろうと思っています。 しかし、 震災後の1年間は技術的にもまだまだ未熟でしたので、 とにかく神戸で生まれ育ったという地の利と、 一日も早く阪神間のまちがもとにもどるようにという思いだけで仕事に取り組んでいたように思います。 震災以降に配った名刺の数は、 ざっと1,000枚。 頂いた名刺の数も500枚近くあります。 今振り返ってみて、 何百人もの権利者の方と話しをしながら、 それぞれの方の再建に微力ながらも力添えができたことを嬉しく思い、 またいくつもの事業の中で多くを学ばせていただいたことに感謝しています。

○これから先の私

 震災を契機に、 阪神間では急速に「まちづくり協議会によるまちづくり」が広がり、 それにあわせてコンサルタント派遣制度も各自治体に整備されてきました。 我々まちづくりの専門家としての立場が社会的に認知されてきたと同時に、 専門家に対する評価の目も厳しくなってきているように感じます。 若手ネットのメンバーは、 これまでも地元からの信頼を受けて、 多くのまちづくり活動を展開してきていますが、 これからもそう在り続けるために、 次に我々がなすべきことは何かを議論していければと願っています。

 最後に、 震災から4年半が経過し、 国レベルでは数々の震災特例制度が期限切れを迎えつつありますが、 現在も長田区や尼崎市の震災復興事業の現場に足を運んでいる一人として、 これからが正念場であると強く感じています。 区画整理区域内のあるお婆ちゃんが、 「はよせな死んでしまうわ」と笑いながら話してくれますが、 早く「やっと落ち着いて暮らせるわ」と笑顔でいってもらえるよう、 神戸で生まれ育った私だから、 もうひとがんばりしていきたいと思います。


 

新しい町並みの兆しを発見する−具体例3

「外構と敷地内空地の協調化・共同利用化・共同化」

神戸大学 三輪 康一

○密集市街地の敷地条件

 被災した密集市街地では、 再建された戸建住宅の敷地は狭小で間口が狭いものが多い。 たとえば現地調査(1997)では再建戸建住宅敷地の間口が5m未満の割合は灘区味泥地区で29.0%、 長田区野田北部地区では36.2%であった。 インナーエリアでは程度の差こそあれ同じ傾向であろう。 このような狭小敷地の間口側に住宅の開口部と玄関をとり、 空地とさらに駐車スペースを確保した上で敷き際に門塀を設けるのはデザイン上相当のワザが必要であるが、 実際にまちなみを観察する限り、 やはり敷地計画上かなり無理をしているという印象は否めない。

○外部空間の共同・協調化へ

 このように敷地条件あるいは接道条件が悪いところでは、 共同化・協調化が有効であるといわれ、 震災直後からその需要が大量に発生すると思われたが、 実際に権利者の立場になれば土地、 建物の共有の難しさ、 将来の建替え時の不安などさまざまな隘路があって、 実現にいたらないケースも多かった。

 しかし、 先のように密集市街地で戸建住宅としてのまちなみを成立させる条件は極めて厳しい。 それなら、 外構・外部空間の協調化や共同利用化、 共同化はどうだろうか。 この場合は、 床面積不足や接道不良の解消というのではなく、 もっぱら敷地内空地の一体的有効利用と景観形成上の効果に期待するところが大きいからである。 限られた狭い敷地のなかで、 駐車スペース、 緑化スペースの確保を、 個々の敷地単位でやるより2軒で、 さらには数軒で歩調を合わせた方が、 空地利用の面でも景観的効果でも有利ではないだろうか。

○いくつかの兆し

 これまで実例から発見したそれらの「兆し」は、 あまりにも少なく、 果たして一般化するかといえばやや心許ないが、 それでもいくつか注目したい事例もみられる。

 

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写真(1) 神戸市兵庫区荒田町 写真(2) 神戸市灘区神前町 写真(3) 神戸市灘区灘南通
 
 写真(1)は、 3軒の住宅が塀を共有している事例である。 その素材とスケール感が、 沿道に方向性を与えている。

 つぎの写真(2)は、 隣接あるいは向かい合う3軒の住宅が外構などに素材としての木をアクセントとして使用している例である。 奥の右側の3階建住宅は、 トレリス風の木製パネルでバルコニーと玄関周りをしつらえ、 その隣のRC4階建ではバルコニーの手すりが木製縦桟、 玄関の開き戸も木製である。 向かいはプレファブ2階建であるが、 やはり同じ木製トレリス状の低い柵が廻っている。 いずれもディテールでの使用にとどまり、 使い方も異なるが、 3軒のそれぞれの個性が素材の表出という点で調和し、 界隈をつくっている。

 写真(3)の例では、 道路側に捻出した僅かなオープンスペースを宅地ごとに狭い間口幅で囲い込むのではなく、 隣地に対しても沿道に対しても敷地内空地を解放している。 その結果、 2軒分の間口が沿道に広がりを与えている。 このような道路前面でのオープンスペースの解放はある程度間口が大きく、 横に広がりがなければ、 その効果は少ない。 この例ではそれを隣地と連携することでスケールメリットを活かしている。

***
 かつての下町には、 狭小過密の負の条件を相隣間で助け合う生活スタイルや空間の巧みなしつらえによって住み易さに転化する知恵や工夫があった。 そして、 それを映して現れる景観にこそ私たちは共感できたのである。 同じ意味で、 震災後のまちなみにも、 新しいスタイルが生まれることに期待したい。 外構・外部空間の協調化や共同利用化、 共同化はその一つの方向である。


 

尼崎市営コレクティブハウジング久々知住宅

仮設住宅体験のない居住者たち

石東・都市環境研究室 石東 直子

◇肝っ玉母さんの心境で

 3月に入居が始まった久々知住宅のLSA(生活援助員)さんからSOSが続いていたので、 南本町ふれあい住宅の前会長のUさんにもお願いして、 2人で訪ねた。

 入居後4カ月がすぎ、 自治会役員も決まったが、 居住者は自治会運営やコレクティブハウジングでの住まい方の意味が分からず、 若いLSAさんが悪戦苦闘している。 全戸22戸のうち、 19戸が単身世帯、 3戸が2人世帯で全戸にシルバーハウジングプロジェクトがかかっており、 LSAが月曜から金曜の9時から17時まで常駐しているという恵まれた条件だ。

 被災地にできた10番目のコレクティブなので、 わたしは居住者の多少のいざこざにはもう悩まないという肝っ玉母さんになりました。 昔の子だくさん時代のお母さんのような気分です。 20代から40代にかけて次々と子供が生まれ、 下の子が生まれるころには母は年をとってきて体がついていかないので、 上の子に接したように細やかな育児ができません。 しかし、 母親が手抜きしても、 上の子たちの何人かは下の子の面倒がみれるように成長してきました。

 ということで、 長子役の南本町ふれあい住宅の前会長に、 南本町ふれあい住宅の体験談を話してもらうために同行をお願いしました。

◇しらーとした雰囲気に迎えられる

 久々知住宅の立派な協同室には花が活けられており、 よそゆきの客間という雰囲気で、 22名の居住者が2筋のテーブルを挟んで向かい合って、 おしゃべりもなく静か座っていた。 なんだか今までのふれあい住宅の訪問とは雰囲気がちがい、 しらーっとした感じだ。

 紹介されて、 わたしは20分ほど話の時間をもらった。

 「被災地にコレクティブハウジングができた背景/いま10地区341戸が建設されて入居/コレクティブハウジングとはどんな住まい方、 寮ではない、 施設ではない、 下町の気楽なふれあいと助け合いの生活/協同居住のルールはみんなで決めるが必要に応じて変更していくのがよい/入居当初はいざこざがあって当然(他所のふれあい住宅のいざこざの事例も紹介)、 時が経つにつれて住宅ごとの独自のふれあい生活が育まれる/いくつものふれあい住宅のサポートを続けていて分かったことは、 具体例を紹介しながら、 今日の日和は明日まで続かない、 また今日の嵐はかならず台風一過の晴れ間が見えてくる」というようなことを、 冗談も交えて話した。 入居者の反応は笑いもうなづきもなく、 しらーっ。

 次に南本町ふれあい住宅のUさんが、 「震災時の個人体験、 ポートアイランドの仮設住宅のこと、 そこで会長をしていたこと/南本町ふれあい住宅に入居した時は老人ホームかと思ったが、 入居後1年半になり、 こんないいとこはないと思っている/隣接の一般の災害公営住宅の居住者からはコレクティブを羨ましがられている/会長としての自治会運営のこと/南本町ふれあい住宅の協同居住の決めごとの紹介/知らない人が集まって来たのだから合衆国みたいなもの、 自室に閉じこもらないように協同スペースに出てくるようなしかけ、 兄弟姉妹という気持ちで居住者にはいたわりの声をかけあう」というようなことについて熱弁をふるった。 居住者の反応は静か。 熱弁がからぶりに終わったよう。

◇仮設住宅の体験がない人ばかり

 ここの会長はかなりワンマンなようだ。 その背景には、 市の職員が独断でやった方がいいと言ったとか。 行政は早く自治会を立ち上げたいばかりに、 しばしば無責任なことを言う。 現居住者24人(女14人)の平均年齢は69歳だが、 半数が60歳代で若い。 会長の独走に対して陰では監獄にいるようだと不満を言っている人もいるが、 意見としては言わない。

 この住宅の募集は尼崎市の仮設住宅が解消した後に行われたので、 入居者に仮設住宅の居住体験がない。 仮設住宅での助け合いやふれあい生活の貴重さを身をもって感じた経験がなくて、 むしろ震災後に移り住んだ馴染みのないマンションやアパート等で近隣とのふれあいがなく過ごしていた人が多いのかもしれない。 久々知住宅にも仮設体験のある人が幾人かでもでもいるとコレクティブの出足が弾むのだが。 。 。 。 。

 しかし、 肝っ玉母さんとしては久々知住宅には別の個性があると信じている。  (8月10日記)


 

その1・総帥浅山三郎

街と店をつなぐ大国公園のように

まちづくり会社コー・プラン 小林郁雄

 1) 野田十勇士の総帥は、 野田北部まちづくり協議会会長・浅山三郎である。 飲んだくれであった。 今は飲まない浅山さんが地域の活動に本格的に関係するようになったのは、 命を縮める酒を断った1989年1月からの3か月の入院の後である。 1990年4月野田北部自治連合会会長になり、 1993年1月まち協会長となった。

 

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 私が最初に浅山さんに会ったのは、 1992年7月〜93年1月に「鷹取商店街・魅力ある街づくり事業調査」の実施プラン策定を、 森崎輝行さんと専門委員として協力した時である。 鷹取商店街地域活性化委員会(小林伊三郎さんが会長だった)が中心であったが、 地域住民代表として自治会・子供会・婦人会などの会長も策定委員会に参加し、 報告書「いきいき下町商店街計画」の中心提案である<地域と共に生き続ける商店街をめざすべきだ>と主張していた浅山さんを鮮明に覚えている。 この商店街と自治会の関係が、 震災後多くの商店街関係者が浅山まち協と歩調を合わせて、 復興まちづくりに取り組んできた要因の一つであると推測している。

 2)昭和12年(1937)2月15日、 岡山県鏡野町の材木屋の次男に生まれたというから、 まだ、 当年62歳である(何で次男なのに三郎なんだろう?)。 18歳で大阪に出て3年、 札幌で6年、 再び大阪で4年、 主に建設関係の仕事をしてきた。 昭42(1967)パーマ屋さんの文枝さんと結婚、 昭51(1976)より長楽町二丁目の四軒長屋の一戸に住むようになり、 飲みすぎで死ぬ寸前だった飲んだくれからまち協会長になって、 阪神大震災を迎えることになる。

 1995年1月17日未明震災による火炎が南東から地区を襲い、 海運町までを焼き尽くしてきた火の手は、 地区のシンボル◇形の大国公園で止まった。 というより、 公園とその南北の幅8mのコミュニテイ道路を延焼阻止線とする消火活動の成果であり、 午後になって変わった風向きによる。 当時の痕跡は公園の楠の幹の東側に、 今でも鮮烈に残っている。

 3)生き埋めの隣人の瓦礫からの救出、 高橋病院の患者たちへの救援、 鷹取駅前の憩いの家(10時半頃300人)から鷹取中学(4時頃2000人)への避難誘導、 鷹取駅構内への六遺体の安置、 といった地震当日の活動のその夕方、 浅山さんを始めとして、 紅梅軒の焼山さん、 酒屋の加茂さんたちが、 立ちあげた「まち協震災対策本部」は駅前の一台のワゴン車であった。 本部は二日後の01/19夕方、 海運町四丁目の野田北部集会所に移し、 七月末までの半年間、 そこに寝泊まりしたままの復興に向けた戦いが開始されたのである。

 

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写真・後藤正/950910
 
 復興まちづくりは、 人に始まり、 人に終わる。 途中で、 歴史経緯、 行政規則、 経済環境など種々の要因しがらみが、 まちづくりにはまとわり付くが、 結局は関係する人の問題である。 震災復興の検証・編纂などで軽視され、 容易に忘れ去られるのが、 そこで苦闘した人間の生き様である。 まちづくりは、 それら多くの人々の苦闘時間の積分結果である。

 野田十勇士は、 長田区野田北部地区の震災復興まちづくりという戦いに、 浅山まち協会長のもとに集結したたぐい希な人間関係である。 しかし、 多分、 被災地のあらゆる所で、 三銃士・七本槍・ナイン・イレブンなどが復興まちづくりを支えてきたであろうし、 今も支えているハズだ。

 野田北部では、 その象徴としてまち協浅山会長がおり、 地区中央の大国公園がある。


 

情報コーナー

 

阪神白地まちづくり支援ネットワーク・第9回連絡会記録
−コミュニティ・ビジネスの実際と課題−

 震災と不況のダブルパンチに見舞われている被災地のなかで、 社会性と経済性を併せ持った「コミュニティ・ビジネス」という新しい取り組みが始まっています。 今回の連絡会(8/6、 於:県立神戸学習プラザ)では、 これらを実践されている3氏から以下のようなテーマで報告をしていただきました。

 東さんからは、 神戸市長田区の新長田駅南地区(再開発)で、 震災直後に協議会を立ち上げ、 大規模な仮設店舗(パラール)や駐車場の整備・管理運営を行ってきた経験や、 これからの事業としてNPO法人やまちづくり会社をつくり、 多様な商業活性化施策に取り組む構想のお話がありました。

 中村さんからは、 最も震災被害の大きかったエリアの一つである神戸市東灘区で活動しているNPO法人CS神戸の取り組みが報告されました。 多くのグループとのネットワークを築きながら、 地域の多様なニーズをビジネスとして成立させる先進的な取り組みのお話がありました。

 高田さんからは、 トアロード(神戸・三宮の代表的な通りの一つ)のまちづくりの報告がありました。 震災後1年目にまちづくり協議会を結成した後に、 「トアロードまちづくりコーポレーション」を設立し、 空き店舗の経営やNHK神戸放送局跡地を活用したカフェなど、 ユニークな事業を展開していることが紹介されました。 次回は、 10月1日(金)の予定。


○「野田北部・鷹取の人々」完結

 青池憲司監督が、 震災直後から3人のスタッフとともに撮り続けているドキュメンタリー「人間のまち野田北部・鷹取の人々」の13作目ができあがりました。 これで、 4年半にわたる復興過程を克明に記録し続けた連作がひととおり完結することになりました。 あと2作は総集編とするとのことです。

 なお、 この連作は1本6,000円で販売されています。
 ★問合せ:野田北部を記録する会(TEL.FAX 047-359-7274)。

○被災地に8回目の花のプレゼント!

 今年の夏も愛知県にある角田ナーセリーネットワークから、 23,000株の花の苗をいただきました。 阪神グリーンネットを通して、 まちづくり協議会や復興公営住宅20箇所に配られました。

●神戸東部白地まちづくり支援ネットワーク/第29回連絡会

●若手ネットワーク勉強会

●第7回HAR基金助成事業・公開審査会

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