きんもくせい50+6号
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シチリアで想う
震災都市KOBEの
「まちの記憶」

映画監督 青池 憲司

 

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 シチリア島東部のまちカターニャから高速バスで約1時間半、 南東部のまちノートに着きます。 人口2万数千人、 建築や都市計画の専門家には、 バロック様式のまちとして知られているようですが、 わたしは殆ど予備知識がなく訪ねました。 まちの入口でバスを降りると、 うっそうと茂る並木道があり、 燃える太陽をさえぎって、 涼しい影を投げかけています。 そこを抜けていくと、 まちのシンボルである鷲の紋章を掲げたレアーレ門があり、 ノートの中心をつらぬくヴィットリオ・エマヌエーレ通りが始まります。 通りの両側には明確な都市計画に従ってつくられた、 バロック様式の建物が建ち並んでいます。

 「1693年の大地震でこのまちは崩壊した」。 シチリアを歩いていると、 いたるところでこんな記述を目にします。 ノートのまちでもこの言葉に出会いました。 住民は破壊のあまりのひどさに同じ地での再建をあきらめ、 10キロほど南に現在の新しいまち、 バロック様式の計画都市ノートを築きました。

 ヴィットリオ通りには商業的建築物と宗教的建築物、 市役所や劇場などの公共的建築物が向き合うように配置されていて、 その間を大小の広場がつないでいます。 じつに魅力的です。 しかし、 それにもまして印象的だったのは、 そこでの「人の居方」でした。 ちょうど夕刻のこととて(20時ごろ)、 酷熱の日射しはやわらぎ、 まちの人たちが通りの散策をたのしんでいます。 話しに熱中する老人たちも、 サッカーボールの蹴りあいに夢中の子供たちも、 ベビーカーに幼な子をのせた家族づれも、 ときに異性に眼差しを放って行き交う若者たちも、 それぞれにされど一体となって、 まちのなかにいます。 人とまちが混然としたこの情景は大いに気に入りました。 これは「祝祭」のひとときです。

 わたしもその人なかにまぎれこんで、 旅人を自覚しつつ、 かりそめの住民をよそおって、 まちを歩きました。 私の体内に満ちてきたのは、 被災地KOBEへのはるかな思いでした。 再生途上にある野田北部・鷹取のまち。 まちには住居が新築再建され、 新しい公園や道路ができ、 物理的にはよろこばしき復興が進んでいます。 元の住民が帰ってきて、 新しい住民がやってきます。 ともにどのような「居方=住まい方」でまちをつくっていくのでしょうか。 その模索と実践が積みかさなって、 まちの記憶となり、 それによって住民は生き、 その記憶は継がれ変革され成熟していきます。 KOBEは、 いま、 その始まりのときなのだと思います。


 

全焼地区・長田区御蔵通5・6丁目における

共同再建住宅と「コミュニティプラザ」構想(下)

まち・コミュニケーション 小野 幸一郎

○「保留床なし」へプラン変更、 事業化へ

 97年の暮れから98年のはじめ、 つまり震災から丸3年が過ぎたこの時期、 被災地は「床余り」といわれる住宅の供給過剰が表面化し、 民間・公共を問わずデベロッパーは軒並み「保留床」を抱えることに対して消極的になりはじめました。 特に民間デベロッパーは顕著で、 大阪のある民間デベロッパーに打診をした時に「今、 神戸に手を出す業者はいない」と断言をされたりもしました。

 県や市の住宅供給公社もデベロッパーとしての事業からは撤退を表明し、 実質、 住都公団だけが残った格好になったわけですが、 当然ながら公団も、 よほど良い条件でない限り、 保留床は抱えたくないという意向に変わってきました。

 そんなわけで、 「低層型囲い込み案」(前号参照)の保留床買い取りについても公団は当初から消極的な態度だったのですが、 2月に入り、 基本的には買い取りできないというハッキリとした見解が示されました。

 実は建設組合では、 準備会の時から「保留床買い取りの危機」については話されており、 もし参加者の身近な人で分譲マンションの物件を探している人がいたら声をかけるようにしていました。 そうしたら2件ほど(自分の思うように部屋をデザインできることに惹かれ)興味を示す方が現れ、 基本的に参加を表明されました。 また、 一度「離脱」を表明した世帯(前号参照)をなんとか引き戻せないかと、 様々な模索を試みた結果、 (株)兵庫商会の田中保三社長のご尽力などもあり、 土地を地主から権利割合で買い取ることができ、 共同化に「復帰」することになりました。

 そんな中での「保留床買い取り拒否」。 武田先生は買い取り可能にさせるための変更案の図面を引かれましたが、 宮西悠司先生を交えての協議の結果、 保留床なし・権利者分+2軒分の床数で計画を練り直す方針を定め、 建設組合の理事の了承をえました。

 保留床なしで行く決断の要素になったのは

と、 こんなところがあげられると思います。

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「共同化逆風新聞記事」98年3月6日の神戸新聞より
 こうして紆余曲折を経た共同化住宅案は、 以後公団との折衝と組合会議を重ねる中で次第に形を成していき、 (株)武田設計が中心となって公団への企画提案、 建設業者の選定、 神戸市への住宅市街地総合整備事業申請を経て、 公団の機関審査を無事クリア、 99年1月に建設組合全参加者と公団とで土地売買・住宅譲り渡しの契約が行われました。

 そして99年1月15日、 仏式による「出発式(地鎮祭)」が行われ、 99年12月の完成に向けて無事着工されました。

○「コミュニティプラザ」構想−地域を支える拠点

 「みくら5」と名付けられたこの共同化住宅は、 一軒一軒全て間取りが違う「オーダーメイド」で、 各世帯の家族構成や居住者の個性に応じて様々な工夫を凝らしています。 設計を担われた(株)武田設計の苦労は並々ならぬものがあるのですが、 その詳細については今回は割愛させていただきます(ゴメンなさい!)。 又の機会にご紹介できたらと思います。

 さて、 「みくら5」は現在順調に工事が進み、 間もなく「棟上げ」を迎えようとしているわけですが、 現在ここの1階にて構想中の「コミュニティプラザ」(仮称)について最後に触れさせていただきます。

 この共同化には先程から名前が挙がっている、 地元企業である(株)兵庫商会が法人として唯一参加されているわけですが、 1階部分の約85m²相当の権利床は、 兵庫商会の正業である自動車部品販売で利用するのではなく、 高齢者が地域で安心かつ元気に暮らしていくための「宅老所・寄り合い所」のようなスペースとして運用する意向を、 当初よりオーナーである田中社長はもたれていました。 何人かの識者のご意見を聞き、 一時は社会福祉協議会や既成の社会福祉法人に委託するなどの案もありましたが、 「福祉」というジャンルだけに固定化せず、 また出来る限り外側からの束縛のない運営体制をつくっていくことを目指す方向で、 現在全く新しい事業主体を立ち上げるべくその準備会づくりをはじめています。

 ここには武田先生・宮西先生をはじめ、 建設組合の柴本理事長、 そして御蔵の地域活動を熱心にされている方々にも加わっていただき、 また東灘区魚崎地区で建設中の民間コレクティブハウスの「集いのスペース」の運営を担われる「てみずの会」の桑原美千子さんや長田区内の地域型仮設でLSAをされていた坂本由紀子さんにもアドバイスを戴く予定です。

 このスペースで目指すのは…

などがあげられます。 それぞれの活動は事業化を目指し、 数年ががりで「コミュニティビジネス」としての自立・独立を目指す予定です。

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1階平面図。 斜線があるのがプラザ予定スペース
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「みくら5」模型写真

*  *  *
 共同化住宅「みくら5」は、 震災後の御蔵における住宅再建のシンボルであると同時に、 震災を契機に始まった「まちづくり」が生んだひとつの財産として存在し続けます。 そして「みくら5」の完成は、 共同再建事業のゴールであると同時に、 これからのまちにとってのひとつの出発点といえます。 読者諸兄諸姉の皆さまも是非、 「プラザ」にお知恵をお貸し下さい!

 

新長田駅北地区(東部)土地区画整理事業まちづくり報告(7)

VI。 新町家

久保都市計画事務所 久保 光弘

1。 当地区の「表家」と「裏長屋」

 ・大正期に条里制地割を基本に行われた耕地整理を都市基盤としてゴム工場等の工場とともにその労働力となる移住者を対象とした住宅として大地主や借地人による借家経営である「長屋」が建設された。

 耕地整理による約100m四方の街区では、 幅員8mの通りに面して店舗や比較的規模のある事業所等を主にいわゆる「表家」として、 街区の内側は「裏長屋」という形が、 この町の基本的な形態となる。

 この裏長屋では、 ゴム靴等の作業所を兼用しているものもあり、 かつては臭いやゴムを練るための白い粉が町中にただよっていたといわれる。

 やがて昭和40年代に民間貸工場が通りに面してつくられるようになるが、 裏長屋で作業所をしていた人の中には、 貸工場に移り、 さらに自前の工場をもつに至る人々もいたという。

 ・この表家、 裏長屋という町の構造や裏長屋から生業としてのスタートを行い、 徐々に表家により広い借家を得、 やがて自立した経営者になっていくという経営者のプロセスは、 江戸期の商都大阪等の町の構造や町が育てる商人の姿とたいへん類似している。

 長田の町は、 生業と居住が一体となった町のしくみや長屋という建築様式など伝統を継承したタイプの町であった。 それとともに密集して住むための作法や人情等、 心の伝統をも継承したまちであった。 これがゴム産業やケミカルシューズ産業の発展を支えていた。

 地域産業の継承、 発展が単に産業政策だけでなく、 居住と生業が一体となった町のしくみと切り離せない関係にあることを示している。

 ・震災前に既にケミカルシューズ産業が衰退化の傾向にあったのは、 外部との経済競争力だけでなく、 地域産業を支える町のしくみにも既に行詰りがあった点を見逃してはならない。

 例えば

 ・長田下町を支えてきた裏長屋も変容し、 以下のように環境面や権利関係等により錯綜した様相となってきていた。

 ・地域産業のある当地区の復興は、 「居住と生業が一体となった町のしくみ」を区画整理との連動の中でどう再構築するかが課題であり、 住宅の復興は、 その観点からも考えていく必要がある。


2。 区画整理と連動した大阪の長屋

 ・長田の耕地整理地区での裏長屋は、 大阪においてもみられる形態であるが、 その当時の専門家から既に「耕地整理地区内での裏宅地発生の実態から過密不良住宅化」等裏長屋の問題が指摘されていたようである(寺内信「大阪の長屋」INAXALBUM7)。

 裏長屋は下町を支える民間賃貸住宅であるものの都市基盤上の問題をかかえていたが、 大阪市では、 この問題を乗越えた長屋が広範囲に普及する。 それは、 大正の終りから戦前にかけて組合施行区画整理と連動した長屋建設であり、 そこには、 総合的なまちづくりシステムがみられる。

 ・寺内信先生(大阪工大教授)は、 前掲の「大阪の長屋」の中で、 「戦前の大阪市はいろいろな意味で黄金期であった。 それを支えていたのは長屋建住宅」であるとし、 「大阪の近代長屋を評価するとすれば、 それは市街地整備と連動していたということであろう。 開発可能な区域全域にわたって連担する区画整理を行い、 そこに借家としての長屋を建ててゆく。 その総合したところに意義があるのである。 (中略)大きな長屋を建てれば高級住宅地になるし、 長屋の寸法を詰めれば職人の町にもなる。 地域の特性を盛り込んで区画整理が行われたし、 造られた街区では、 決して無理な建て方ををしていない。 そのことは〈まちづくり〉にとって大きな成果と自慢できるものである。 」とされている。

 この著書の中で区画整理地区における長屋の具体的な調査結果があげられているが、 壁面後退についての興味深い報告がされている。

 「区画整理地区は街区が整然としているので長屋が建つと家並が揃う。 道路から1尺5寸後退した建築線の位置で長屋の塀が連なり、 塀型の2階建は2階部分の壁面は、 道の塀により9尺以上後退するので道路空間より開放された感じになる。 街区の規模、 建物種類の組合わせなどちがいがあっても土地区画整理地区では、 類似の共通する長屋住宅地を形成している。 」

 その他、 区画整理と連動した長屋には、 区画整理による街区と長屋敷地(奥行)との関係への考慮が行われ、 前庭型・塀型等の外構タイプ、 垂木・出桁等の構造タイプ、 間取りタイプ等長屋プランの標準タイプがあり、 地域が共有する社会性、 計画性のあるまちづくりが、 当時行われていたことがわかる。


3。 新町家

 ・「区画整理と連動した大阪の長屋」は、 区画整理によるまちづくりの可能性を示す事例であるが、 そこには、 中世以降の都市型住居である「町家の思想」が継承されている。

 「町家の思想」とは、 ざっぱくに言えば以下のようなものであろうか。

 ・震災復興土地区画整理まちづくりの特徴は、 道路、 公園等の公共施設整備と同時に建物再建が行われることにある。 とりわけ住宅再建に対してまちづくり協議会がついやしてきた時間はぼう大であるが、 その結果住宅を個々のものとしてでなく、 まちづくり全体として、 すなわち、 まちを構成する要素として取り組んできたことの意味は大きい。 建物を再建する個々の人々もまちの構成要素、 まち全体に対する接点として参加しようとしている。 これこそが「町家の思想」の継承ではないかと思う。

 ・また、 震災復興においては、 「共同建替」「協調建替」「協調的建替」を震災復興地域が共有する住宅タイプとしてとりあげられ、 行政から支援されたことも大きな特徴である。 協調建替は長屋、 共同建替は立体長屋、 協調的建替は町家型戸建というべきものであり、 それぞれ町家の現代版となる可能性をもっている。

 ・当地区の場合は、 町家といっても伝統的景観の保存地区でない。 また、 自動車社会、 住宅等の供給形態、 居住環境、 居住水準に対する意識の変化、 持家化、 防災意識等大きな変化がある。 従って下町や町家を形態的に継承することは不可能であるが「下町の思想」「町家の思想」を継承することは大切である。

 このことから「新下町」「新町家」をキーワードに社会性をもつ都心居住の形態をつくっていくことがこれからの課題であるが、 この住民主体の復興まちづくりにその萌芽があるかもしれない。

 その視点を含めて、 新長田駅北地区東部の住宅再建の状況を以下に報告したい。


4。 区画整理に連動した当地区の住宅再建

 ・当地区における住宅再建の取組みは、 おおむね
の2つに集約される。

 ・以上のような取組みの中で現在までの住宅再建についての状況を報告しておきたい。

4−1 共同建替

 ・新長田駅北地区東部においては、 現在、 大道通5丁目、 御屋敷通1丁目、 水笠通3丁目、 神楽町4丁目の4ヶ所で大規模共同建替が着工している。 その他、 小規模共同建替が1ヶ所検討中である。

1)共同建替の必要性

 ・共同建替については、 当初より大きくは以下の理由によりその必要性が認識されていた。

 ・上記について現段階での状況を報告する。

〈(1)に関して〉

 ・現在着工中の大道通5丁目共同建替、 水笠通3丁目共同建替、 神楽町4丁目共同建替の3つの共同建替についてみると、 各共同建替参加地権者の8〜10割が持地地権者であるが、 その従前土地所有面積は、 7〜10割が70m²未満である。

 ・一方、 共同建替参加地権者の住宅取得予定は、 3つの共同建替とも3LDKが最も多く、 5.5〜7割程度を占めている。 3つの共同建替参加地権者合計は、 59人であるが、 小規模タイプの2DKは1人、 2LDKは4人と非常に少なく、 逆に大規模タイプの4LDKは12人、 5LDKは3人いる。

 これを入居予定の59世帯の家族構成でみると、 「親と子供」の2世代家族が大部分であり、 単身住まいは5世帯と少ない。 一方三世代家族が4世帯ある。

 ・このような状況から共同建替は、 小規模持地地権者が共同建替により居住水準の改善を図るという特性がうかがわれる。 個別建替の場合、 建築敷地は区画整理により減歩が生ずるに比べて、 共同建替は床の買増しができるという利点が生かされていると言える。

 当初、 当地区に多い単身高齢の地権者にとっても共同建替は経済的有利さがあるとPRしたが、 共同建替参加にはたいへんな労力や理解が必要であること、 生活様式のちがい等々、 単身高齢者の共同建替への参加は、 困難さがあることがうかがわれた。

〈(2)に関して〉

 ・新長田駅北地区東部における現在工事中の4つの共同建替で保留床を含めて260戸の住宅が供給されることになり、 平成12年中までには、 それぞれ居住が始まる。

 1世帯あたり3人とすると共同建替入居者は780人であり、 震災前(H7.1.4現在)の新長田駅北地区東部人口、 約4,800人の16%にあたる。

 ・各協議会のスタートの時点において、 区画整理についての学習とともに共同建替を含めた住宅再建についての学習が併行して行われた。

 当初、 共同建替の保留床として公営住宅を導入し、 地元の借家人が住めるようにしようと考えており、 これには、 借家人の人々に期待された。 しかし、 区画整理、 共同建替が当初の予想以上に時間がかかること、 それに伴い公営住宅供給との時間的ズレが明らかになるとともに、 共同建替保留床への公営住宅の導入は不可能となり、 その結果共同建替の保留床はすべて分譲となった。

 ・水笠通3丁目共同建替は、 平成10年12月着工と同時に63戸の保留床の分譲販売が行われたが、 ほぼ1ヶ月で完販した。

 デベロッパー(岡エンジニアサービス)の話では、 保留床入居者世帯主年齢は、 20才代が20%、 30才代が39%で
 30才代までの若い世帯主が6割を占め、 また保留床入居者の現在の居住地は、 長田区が1/3、須磨区が1/3、 その他の地域が1/3となっている。

2)共同建替実現は町ぐるみ

 ・当初1〜2町単位の各まちづくり協議会毎で共同建替の勉強会が行われ、 最初のまちづくり提案では、 各協議会とも共同建替適地が盛り込まれている。 その後、 各協議会が共同建替参加者を募る経過の中で、 一定敷地面積(おおむね1,000m²以上を目安)の共同建替参加者敷地が確保できない場合、 隣接する協議会と協力し、 共同建替適地の集約が行われていった。

 このことによって、 共同建替参加希望者は、 すべて近隣エリアにおいて共同建替に参加することができることになり、 これまでの近隣のつきあいも継続することが可能になった。

 例えば水二まちづくり協議会の区域は、 全域(水笠通2丁目)、 都市計画公園に都市計画決定された区域である。 この協議会においても共同建替勉強会が行われ、 共同建替参加者が募られ、 隣接する水笠通3丁目まちづくり協議会と協力し、 水笠通3丁目共同建替住宅の建設を実現している。

 神楽町4丁目共同建替住宅は、 工業地域を中心とする細田・神楽地区の当初の各協議会(その後合併)が協力して建設を実現したものである。

 ・共同建替適地は、 次項で述べるように地区環境形成上から計画的配置が行われた。

 このことは、 各街区とも共同建替適地へ飛び換地される地権者の確定がされないと、 一般の仮換地が定められないし、 共同建替適地にある底地の地権者で共同建替に参加されない地権者は、 移動してもらわなければならない。

 区画整理における共同建替建設は、 単に共同建替参加者だけでなく、 まちづくり協議会も多大なエネルギーをついやさなければできないものであり、 町ぐるみの協力があればこそ実現できたものといえる。

3)共同建替の建築形態と共同建替適地の配置

(1)建築形態
 ・これからの下町づくりにおいては、 中層高密度型共同住宅を視野に入れなければならないだろう。 震災直後の平成7年5月頃の「長田の良さを考える懇談会」においても「長田のこれからの共同住宅は高層化でなく中層化が望ましい。 」との声が聞かれた。

 この頃、 灘区味泥地区では、 地元まちづくり組織・味泥復興委員会の協力により、 都通4丁目地区共同建替計画(竣工式平成11年2月14日)が進められており、 中層高密度住宅(5階建)の計画案が具体化されつつあった。

 この計画を参考にして考えると敷地が1,500m²越えても中層高密度住宅として可能な容積率は、 二百数十%程度であろうと考えられた。

 ・当地区は、 指定容積率300%の地区が多く、 かつ震災後の生活再建が重視される背景からインナー型市街地総合設計制度導入の可能性もあり、 共同建替の建築形態は、 高層化となることはさけられないと考えられた。

 (一般的な話として、 今後将来の下町像の視点から現在の容積制や総合設計制度について再考する必要があろう。 )

(2)共同建替適地の配置
 ・震災直後から行われた味泥地区まちづくりの経験から共同建替参加希望者は、 そんなに多くないだろうと予想された。 したがって、 これまでの当地区の状況から多くの低層個別住宅等と高層化の可能性のある共同建替住宅とがどう共存しうるかが課題であった。

 そこでまちづくり提案に盛り込まれた共同建替適地の配置は、 日照など良好な地区環境の形成の観点から「街区の北側で広い道路又は公園に接する位置」を原則とし、 その後の共同建替適地の集約もこの原則が守られた。

4)まちと一体化した共同建替住宅

(1)通りに面して店舗
 ・各共同建替住宅は、 メインになる通りに面して1階に店舗を配置し、 まちの連続性が図られるように配慮された。

 ・共同建替住宅に同じ共同建替の店舗取得者が入居するケースや、 近隣のケミカル関連経営者の親族が入居するケースなどが見られるが、 これは職住近接の新しい形態として注目される。

(2)いえなみの連続性
 ・共同建替住宅は、 当地区の「いえなみ基準」の推進モデルでもある。

 いえなみの連続性を図るため、 配慮された主な点は、

等々である。

(3)まちを共有するスペース
 ・共同建替が町ぐるみで行われたことから、 各共同建替組合も地域への貢献という意識が生まれた。

 例えば、 水笠通3丁目共同建替住宅敷地に、 震災前町内にあった地蔵尊が移設されることになった。 大道通5丁目共同建替住宅には屋上庭園がつくられるが、 共同建替組合の方は、 そこで近隣の皆様とも夏にビールでも飲みましょうと話されている。

 ・共同建替住宅は、 魅力ある公共空間を形成するための役割ももっている。

 例えば、 水笠通3丁目共同建替住宅は、 都市計画公園に面しており、 防災公園としての機能強化の役割をもつとともに、 大きな公園に対する監視機能、 防犯機能をもつことになる。 1階店舗に喫茶店やパン屋さんが入居し、 アメニティも高められる。 またこの共同建替住宅、 都市計画公園に隣接して、 町内にあった保育所が移設されることになり、 現在建設中である。

 神楽町4丁目共同建替住宅には、 コミュニティ道路(14m)に面して1階に店舗がつくられ、 コミュニティ道路沿道ににぎわいがつくられることになる。

4−2 協調建替

 ・協調建替については、 共同建替とともに平成7年の当初から勉強会を行うとともにPRを行ったが、 地権者の反応は少ない。 協調建替は、 長屋の現代版というべきものであるが、 持家住宅として隣家と壁を共有する建築形態は、 特別な場合を除き難しさがあり、 あまり一般化できる再建形態ではないように思われる。

4−3 協調的建替

 ・平成9年6月、 補助事業(小規模共同建替等事業)として協調的建替がスタートした。 協調的建替のイメージは、 「いわゆる連棟式の建て方(協調建替)に準じる建替で、 各住戸で外壁を作るが、 全体として一定ルールに従って建築され、 景観的には一棟の建物のように見えるもの」としている。

 これは、 町屋型戸建というべきものであり、 将来とも社会性をもつ住宅タイプとして通用するものと考えられる。

 ・しかし、 協調的建替の補助要件は、 3階建、 3戸以上がまとまってルール化することとなっている。 区画整理地区では、 再建しようと思う地権者は、 一日も早い仮換地を望んでおり、 仮換地と同時に各個人が自宅設計にとりかかる。 このような現状から、 隣地と協調的建替について意向をまとめるというチャンスは、 現実的に難しいと思われる。

 ・当地区において、 まちづくり協議会が関与し協調的建替に取り組むケースは、 水二まちづくり協議会のように街区全体が都市計画公園となるため、 隣の街区へ集団移転するような場合に限られている。

 水二まちづくり協議会では、 協調的建替参加希望者を集約し、 計画的に協調的建替ブロックとして仮換地を行うべく、 現在勉強会と意向集約が行われている。

4−4 いえなみ基準による協調的建替

 ・協調的建替が制度化された頃、 当地区では、 住工商それぞれの側面から「いえなみ基準」の必要性が浮上しつつあった。

 個別建替についてみれば、 当地区は、 先に述べたように狭小敷地が多い。 当地区の工業地域、 準工業地域の指定建ぺい率60%の区域においては、 平成9年2月の地区計画の決定によって、 最低画地規模を定めるとともに当該区域の全敷地について建ぺい率を角地並みの70%適用がされるようになった。 さらに一歩進めて、 隣り合う家屋どうしの間隔を狭め、 逆に家屋と道路の間や裏側に余裕をもたせるなど、 当地区の特性を生かしたルールが必要でないかと考え始められた。 これは、 協調的建替の考え方と同じと言って良い。

 ・協調的建替制度が定まりつつある頃、 その運用について行政関係者に「土地区画整理区域では、 協議会総会等の議決によって一定のルールを地区単位又は街区単位のルールとして定め、 市長と協定を結んだ場合、 一戸であっても協調的建替助成の対象とできるようにしたらどうか。 」と提案したが、 これは難しいということであった。

 しかし、 平成10年10月、 景観形成市民協定「いえなみ基準」が市長に認定され、 それに伴いいえなみ基準に基づく建築物に街なみ環境整備事業助成が適用されるようになり、 当初考えていた上記の意図はおおむね達成されることになった。

 いわば「いえなみ基準による協調的建替」(街なみ環境整備事業による協調的建替)である。

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写真VI−1 併用住宅(○○ミシン:川西通4丁目)
 特に併用住宅が多い当地区において作業所、 店舗等のシースルー化に対しても助成されることになっており、 長田らしい町家ができていくものと期待される。

4−5 公営住宅

1)受皿住宅 

 ・区画整理事業のために市に土地を売却した地権者等を対象とした受皿住宅として神楽町5丁目に市営神楽住宅101戸が建設され、 既に入居が終っている。 (受皿住宅は新長田駅北地区全体では2ヶ所合計143戸)

2)借上げ型公営住宅

 ・借上げ型公営住宅制度が平成8年度に終ることから平成8年度末から平成9年1月にかけて、 当地区の地権者に呼びかけ、 借上げ型公営住宅の希望者を募った。 10人程の地権者から希望があり、 調整が行われたが、 仮換地の見通しが難しいため、 断念せざるを得なかった。


5。 課題−賃貸住宅

 ・震災直前(H7.1.14)、 新長田駅北地区東部には、 約2,100世帯あったが、 そのうちの約6割、 約1,300世帯は借家世帯であった。

 これらの多くは、 長屋等であり、 震災で失われた。 また残った建物についても区画整理を契機に借家契約を解消するものもあるであろうから、 おそらく当地区において借家住宅は極度に減少すると予測される。

 下町の民間借家が新しく流入する人々を受け入れ、 起業者を育て、 地域産業を支えてきたことを考えるとこれは、 大きな問題である。

 換地された土地に、 民間賃貸住宅が建設されるよう促進することが必要である。

 ・マクロな視点から震災後の住宅供給の過剰が伝えられ、 民間賃貸住宅建設についての支援策も終息の感がある。 しかし、 長田については、 「地域産業を支える町のしくみ」という観点から住宅政策を見直していただくようお願いしたいと思います。

('99.8.31記)


 

恐るべし住民パワー

遊空間工房 山本和代

 先月、 8月29日の日曜日に盛大な夏祭りが開催された。 「住吉浜手まちづくりサマーフェスタ」。 住吉浜手まちづくりの会(まちづくり協議会のこと。 以下まち会)が主催し、 今年で2回目である。

 まち会の範囲は四方を43号線と工場に囲まれた地域で、 買い物や病院へ行くには少し不便な所だ。 「少しでも良い環境を子供たちに残したい」という目的で平成9年に設立され、 遊空間がアドバイザーとして関わり、 3年目になる。

 私が仕事としてまち協と関わったのは住吉浜手が初めてだったので、 他のまち協もこんな風でこれが普通なんだろう、 とずっと思っていた。 が、 最近、 そうではないと感じてきた。

何事にも楽しんでいる

 まち会では毎月第1日曜日クリーン作戦を行っている。 地区内の公園に集まり朝10時から2時間ほど掃除をする。 今年の6月の役員会で「真夏になると10時でも暑いので少し時間を繰り上げよう」という意見が出て、 「朝は主人や子供で忙しい」というお母さんの反論もあったが、 結局、 7〜9月のクリーン作戦はなんと朝8時から行うことになった。 掃除なのでしんどいとは思うが、 そこまでして掃除をするので、 実はとてもおもしろい何かがあるんじゃないかと私は考えてしまった。

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写真1 ちんどんや五人衆。
 さらに「サマーフェスタ」も住民の熱の入れようがただ者ではない。 夏が近づくと、 話し合いは「サマーフェスタ」一色になる。 そしてその宣伝のためにちんどんやにもなるのである(写真1)。

豊富なキャラクター

 まち会メンバーは実にいいキャラクターがそろっている。 前出のちんどんやをやってしまう方々をはじめ、 フェスタ当日は、 ポン菓子をその場でつくり(写真2)、 子供好きのおじさんは子供向けゲームコーナーを開く(もちろんゲームコーナーの台は手作り!)。 何もかも自分たちでする。 他にもいろいろあるが、 とにかく何かを取り組むにあたって、 個々の得意分野を十分に発揮している。

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写真2 ポン菓子づくり
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写真3 月1回の役員会
 まち会が設立される以前、 地区内で産廃問題の反対運動が活発な時期があった。 世界の環境に対する政策の現状や化学物質の規制数値などオタクなみに詳しく知っている人もおり、 まち会の役員会では時折専門的、 かつグローバルな話になったこともあった。 一方、 話がこじれ、 堂々巡りが繰り返された時は、 よくしゃべる元気なおばちゃんの一言で丸く収まる場面もある(写真3)。

できる範囲で少しずつ

 まち会の取り組みは、 主に福祉問題などのソフト面重視の傾向が強く、 ハード面の課題もいくつかあるが、 なかなか本格的には進んでいない。 道路交通問題など大きな問題も抱えている。 しかし、 今まちのために何をしなければならないか、 という考えを常に持って実践していると思う。 アンケート2回とまちなみウォッチングを実施し、 まち会の実績を徐々に増やしつつある。 たとえ、 その歩みは遅くても着実に成長している。

だれのために‥‥?!

 こんなまち会でもいいのだろうか、 と思ったこともあるが、 実は自分も楽しんでいることにも気づいた。 毎月1回の役員会に出席するのが楽しみで、 もしかしたら逆に元気をもらっているような気がするのだ。

 元気のない方、 欲しい方は一度住吉浜手を訪れて下さい。 ラテンの乗りのおばちゃんパワーに出会うと、 たちまち元気が出てきますよ。


 

連載【景空調査6】
新しい街並みの
兆しを発見する

具体例4「街並みのポイントづくり:
敷き際の形状によるすき間や角地のデザイン等」

オオバ 伊勢博幸

1.土地区画整理事業の実施

 西宮市の森具地区では、 旧来の集落を中心とした密集市街地が震災により相当被害を受けた。 このため現在森具地区震災復興土地区画整理事業が事業中である。

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図(1) 森具地区の設計図
 本地区では本地区の骨格を形作る2本の都市計画道路が、 地区内で曲線を描いていたこと、 また既存の耕地整理の道路法線と斜めに計画されていたことから、 土地区画整理事業であるが街区形状が長方形でない部分が作られ、 やや変形の敷地が発生している(図(1))。

 ところが、 道路の曲線のために街並みが見える、 変形敷地のために敷地内に修景空間が生まれるという効果を生みだした。

2.変形敷地と角地の活用

 この地区においても他の地区と同様にプレハブ住宅が建ち並び単調な街並みをつくっている部分も多く見られる。 しかし、 このまちでは、 と思えるところは先ほどの変形敷地の活用であろう。

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写真(2) カーブする道路に面したすき間のデザイン
 道路が曲線を描く部分では、 道路に沿って生垣を設け、 連続した緑を演出している。 (写真(2))

 道路側に塀等で囲った庭を確保する余裕がない敷地では、 敷地内の植栽を塀・フェンスの中に行うのではなく、 塀・フェンスの外に植栽を施す例が多く見られる。

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写真(3) 道路に面したすき間のデザイン
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写真(4) 道路に面したすき間のデザイン
 すなわち、 塀を作らずに外壁と敷地境界の間(敷き際)を演出している。 この例では、 緑を活かし、 また、 住宅をみせる演出となっている。 (写真(3))

 実は変形敷地でなくても、 敷地を有効活用し、 同じような演出をしている例もある。 (写真(4))

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写真(5) 角地のデザイン
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写真(6) お地蔵さんの祠の再建
 これが角地となると、 両方の道路に面して植栽を設け、 さらには自動販売機まで修景してしまうものまで見られる。 (写真(5))

 このまちでは、 集落に昔からあったお地蔵さんの祠も、 これまでお世話をしていた方々の努力で街角に戻ってきている。 (写真(6))

3.評価と反省

 すき間空間の活用は、 街並みのなかで、 建物と敷地が美しく見える効果を生みだしている。

 本地区の地区計画の内容検討時に、 みんなが合意できる内容にしようということで、 緑化、 外壁後退に関する事項が除かれることになった。 しかし、 その結果出来てきたまちをよく見ると、 当時まちづくり協議会の勉強会に積極的に参加されていた方々の住宅ではいろんな工夫がされているように思える。 森具地区のまちづくりに係わったものとしては、 もっと多くの人達に、 敷地の緑化や建築について工夫、 提案をしていくことが必要だったのではないかと反省している。


情報コーナー

 

阪神・淡路ルネッサンスファンド(HAR基金)
最終公開審査会開かれる

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公開審査風景
 95年11月の第1回以来、 今回の7回目で最終となる助成団体を決める公開審査会が、 9月5日こうべまちづくり会館で行われました。

 今回は21団体の申請があり、 2段階の審査を経て右に示す13団体、計500万円の助成が決定しました。

 当初通り5年間で助成を終えることについて、 広原盛明委員長からは、 震災直後のような緊急性はなくなったこと、 この5年間にNPOの法制度ができ他の組織からも助成を受けられる仕組みができていることなどを述べられ、 HAR基金の果たしてきた役割について総括されました。

 なお、 審査会の冒頭に、 トルコ地震の被災地に、今回の助成総額550万円から50万円を送ることが決められました。

活動テーマ/活動グループの名称/助成金額(万円)

〈第6回助成団体の報告及び第7回助成団体の決意表明の会〉


東部白地まちづくり支援ネットワーク
第29回連絡会記録

 今回のテーマは、 「灘区白地のまち・すまいづくりの現況」で、 灘区(阪急以南)の住宅の現況と住宅以外の現況の二部構成で、 約300枚におよぶスライドを中心に報告がなされました。

 住宅の現況では、 震災後に再建された戸建住宅の特徴と多世帯住宅のシェアの仕方や住戸構成から見た集合住宅の現況、 そして単体としてではなく、 群として住宅を見た特徴的な事例について報告がされました。

 住宅以外の現況では道路際に着目し、 緑化空間や駐車スペース、 線路際空間の使われ方、 そして敷際を彩る住民手作りの小モノや地蔵のあり様にまで報告が及びました。 次回は11月に東灘区の報告がされます。


その他

阪神白地まちづくり支援ネットワーク/第10回連絡会

第31回ランドスケープ復興支援会議

上三角
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