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急造国家を大地震が襲った
921台湾大地震について

東京電機大学工学部建築学科教授 西山康雄

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西山康雄氏
 9月21日(火)午前1時47分、 台湾中部の集集鎮(JiJi)を震源とするM7.7の大地震が発生した。 死者およそ2,300名。 23(木)深夜、 テレビ東京のクルーとともに台湾第三の百万都市、 台中に入った。

 地震発生直後から、 なにを考え、 どのように推測しながら現地調査したのか。

 「非常時の都市計画」の初期プロセスでは、 まず、 「限られた情報から、 被災の全体像を、 すばやく、 大まかに描き、 復旧・復興のための基本方針を作る」という基本作業がある。

 

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家が壊れた。住宅復興、復興まちづくりだ(地元テレビのコマーシャルより 活断層上の建物が倒壊(99年9月26日、豊原郊外)
 
 直後から、 新聞・テレビで被害状況の把握に努めた。 現地調査を決意した23日(木)午後2時の被害想定はつぎの三点、 またその後の修正を記しておこう。

 ●被害想定(1):推計死者・行方不明者およそ五千名という、 台湾史上最大の悲劇である。

 ●被害想定(2):台中を含めた、 大都市被害であった。

 ●被害想定(3):シリコン・アイランドが被害を受け、 国際経済への影響は大きい。

 想定(1)は、 山岳集落との情報途絶、 また二重集計の訂正もあり、 「死者およそ2,300名」となった。 想定(3)は、 早い時期から、 「ハイテック工業は最悪の事態はまぬかれた」(23日ヘラルド・トリビューン、 香港)との報道もあり、 計画停電の解除された10月10日時点の経済損失は、 被害全体の1/7程度といわれる。

 問題は想定(2)である。 「初期情報は、 被害のもっとも激しい場所からは発信されない」。 テレビは台中からの映像が多く、 まずは「大都市被害である」と想定した。 しかし24日(金)朝の台中都心は静かで、 「どこでこれほどに被害が」と不思議に思えた。

 第一次調査期間はテレビ放映の都合上、 24日午前8時から午後6時まで。 さっそく早朝の地元テレビ、 NHK衛星テレビ、 新聞、 都市計画関係者の情報をもとに被災状況を確認。 調査目的は、 被害実態の把握と復興への提言、 調査箇所は、 (1)高層マンションの倒壊した台中郊外の大里、 (2)台湾省政府の建物が倒壊した中興新村、 (3)震源に近い山岳中心都市・埔里、 これに道中のインフラ被害と決めた。 多少の土地勘のある場所である。

 

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伝統的な騎楼の1階商店部分が倒壊(1999年9月26日、豊原) 地盤、手抜き工事か。なぜか90年代初めの高層マンションが多く倒壊(99年9月24日、大里)
 
25日(土)午後の生中継時点で判断した「被災の特徴」はつぎの三点。

 ■特徴(1):「時代状況」、 経済成長期の中小企業資本主義国家・台湾を直撃し、 勃興期社会一般にみられるムリ、 問題点があらわになった。 急激な都市化と中高層マンションの林立。 要するに市街地の建物と空地のバランスが失われている。

  「都市に空地を残すという発想は、 私たちにはすべてが見えているわけではないという自覚を前提にしている。 未知なるもののために余地を残すことで、 たとえば災害時に対応することができる」(大谷幸夫・東京大学名誉教授)。

 ■特徴(2):「被害の特徴」、 台中東郊外を走る二本の活断層に沿い、 郊外都市から山岳小都市、 山村にいたる地域が被害を受けた。 伝統的な日干しレンガの家屋、 一階を商店にしたショップ・ハウス、 中高層マンションの崩壊、 橋、 道路などのインフラ破壊、 また公共建築の崩壊も目立つ。 住宅復興、 インフラ復興、 公共建築復興が課題だ。 二重ローンの問題もある。 高層マンションのプロパン・ガスボンベが発火しなかったのは偶然か(埔里)。

 ■特徴(3):「建物の問題」、 耐震基準改定は日本に準じた97年、 その前は82年。 したがって90年代初めのブーム期の中層マンションが倒壊している。 さらに97基準は大都市のみの適用という二重基準の問題。 手抜き工事を含めた建築工法上の課題、 建築基準をいかに守るかという建築行政の問題がある。

 応急仮設住宅、 五千戸の建設も始まった。 市街地の三分の一が倒壊した震源地、 集集鎮などの市街地復興、 山岳集落移転計画は、 来年2月をめどに立案中という。 阪神・淡路大震災復興と今回の震災復興を交差させ、 互いに学ぶプロセスは始まったばかりだ。

 豊原郊外の逆断層に沿った倒壊現場で、 『方丈記』の一節を思い浮かべた。 「外へ走り出れば、 地面が裂ける。 羽がないから、 空を飛ぶわけにもいかない。 つくづく地震は恐ろしい」。


 

コレクティブハウジング報告
(その3)

落下傘部隊は地域のふれあいの核へと変身
神戸市営真野ふれあい住宅

石東・都市環境研究室 石東 直子

開店前はてんてこ舞い

 いっぺんゆっくり訪ねたいと思っていた真野ふれあい住宅の昼食会に出かけた。

 真野ふれあい住宅はつらいトンネルから抜け出て、 地域のお年よりたちの楽しみの場となってきているようだ。

 11時前に着くと、 もう数人のお年寄りが協同食堂のテーブルについてお茶を飲んでいた。 厨房では10名ちかくの人がお鍋をのぞき込んだり、 おかずを盛り付けしたり、 お茶を冷やしたりして、 和やかな協働調理作業が展開している。 11時をまわると次々と人が集まり、 入口のカウンターに置かれた箱に200円の食事代を入れて、 それぞれ思い思いの席につく。 足元のしっかりしないお年寄りもいて、 李さんや若いサポーターが厨房を離れて、 出迎えて席に誘導する。

 

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地域の人たちに向けての昼食かいなどのお知らせ お素麺のみそ汁、キュウリとチリメンジャコの酢の物
 
 今日のメニューは、 炊き込み御飯、 お素麺のみそ汁、 キュウリとチリメンジャコの酢の物、 デザートの水羊羹。 すべて手作りである。 大きなボールにキュウリもみが入っている。 これだけ沢山のキュウリを刻むのは大変だったと思う。 ザルには刻みネギの山。

 人がたくさん集まりだしたのに、 炊飯器のご飯が沸騰してこない。 大きな2升焚きの電気釜がふたつ。 11時にスイッチを入れたので、 もうそろそろ沸騰してもよさそうな頃なのに。 炊飯器に触れてみると、 ふたつともたよりない熱さである。 ぐずぐずしている(まさに煮えきらないんです)。 どうやらコンセントの具合が悪いらしいということで、 別のコンセントに移してスイッチの入れ直し。 12時の食事開始には11時にスイッチを入れると、 いつもほどよく炊き立てのご飯を食べてもらえるとのこと。 しかしもう11時半に近い。 今から焚き始めると12時までには間に合わないので、 厨房スタッフはあわてる。 すでに席に着いて待っている人達に、 今日はちょっと遅れそうということを告げて、 その間カラオケを楽しんでもらうことにする。 カラオケをセットすると、 やはりここにも歌いたがり屋さんがいて、 マイクが回る。 コレエダ・シスターは歌がとぎれることなく心くばり、 ひとりひとりにマイクを渡していく。

 

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東京から来た岡田君と飯田君。はりきりました! 1時間前にはもう来ている人もいます
 

席が足らない!

 12時ちかくになると、 参加者多くて席が足らなくなる。 和室と食堂の仕切り戸をはずして、 和室の掘りごたつの回りにも座ってもらう。 厨房前のカウンター席にも座ってもらう。 それでも食堂の外のベンチに座って、 4、 5名が待っている。 総勢で60名ちかくで、 50名分用意したお素麺が足らないということで、 追加して茹でる。 席に着いた人たちの中に真野ふれあい住宅のわたしの馴染みの顔が見当たらない。 ひとり、 ふたりしか。 李さんに尋ねると、 居住者は12時すぎに顔を出すか、 席が空いてきてから来る人もいるということだが、 いつも精々10名程度とのこと。 すでに厨房で4名が奮闘しているので、 後からは数名がでてくるのだろう。

 

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開店前の台所はてんてこ舞い 入口近くまでテーブルを並べました
 
 炊き込みご飯のお醤油の香りが漂い、 やっとご飯が炊き上がり、 小ぶりの丼に盛り上がるほどによそう。 「えっ、 こんなに沢山食べられるの?」とわたしは聞く。 「いつもこんなんよ。 お年寄りは食欲旺盛よ」とのこと。 次々に席に運ぶと、 待ってましたとばかり、 食事が始まる。 給仕スタッフは大忙し。 ご飯をよそう人、 テーブルに配ってまわる人、 お素麺におネギを乗せて出し汁を注ぐ人、 配る人、 お茶の追加に応える人。 ご飯がひと通りゆきわたると、 デザートの水羊羹を配っていく。 久しぶりにわたしもてんてこ舞いの輪に加わる。 カラオケのマイクをまだ離さない人もいて、 シスターは丁寧にマイク係を続けている。 窓辺に腰掛けて背中に陽を受けて暑いのに、 歌う人に優しい眼差しを注いでいる。 厨房スタッフのてんてこ舞いは任かしたよ!という風で動じない。 あぁ、 これがほんまもんのシスターの姿かなとわたしは感動する。

 「ごちそうさん、 ありがとう」の声が聞こえる。 ご飯が済むのは意外と早い。 もう帰る人も出てきた。 李さんは出口に出て見送る。 「また来てくださいね。 こんど17日はお誕生会ですから来てください」と。

 

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和室でおしゃべりしながら―たまには大家族のように もう一杯お茶はいかがですか 通りからなごやかな食事風景が見えます
 

うれしい外部ボランティアの支援

 地域の人たちがおおかた帰られて席が空いたので真野ふれあい住宅の居住者の何人かに声をかけてまわり、 給仕スタッフと一緒に食事を始める。 もうデザートは品切れになってしまっていた。 てんてこ舞いの後の食事は殊の外おいしい。 大釜で炊き上げた炊き込みご飯のおいしいこと。 お醤油の香ばしい香りと沢山の具のほどよい彩りと味加減。 「おいしいね、 おいしいね」と言い合いながら、 おしゃべりもはずむ。 みんながお代わりをしに席を立つ。

 『ひとりで食事をするよりは、 たまには大家族のように集まって食べよう』というコレクティブハウジングの理想の絵になる。 なごやかな、 やさしい気分が漂う。

 毎月の第2金曜日の昼食会は鷹取カトリック教会のコレエダシスターと高橋さんがやってくださっており、 いつも何名かのボランテイアと共に来られて準備をしてくださる。 今日は3名の女学生が参加。 それにコレクティブハウジングを研究テーマにしている千葉大と関東学院大の男子学生が2名加わり、 厨房は大いににぎわった。 真野ふれあい住宅の世話役は毎回ほとんど決まった4、 5人が担当している。 今日の炊き込みご飯の具は昨日から準備をしたそうだ。 ニンジン、 ゴボウ、 コンニャク、 ササミなど、 細かく細かく刻んであった。 たくさんのキュウリもみをつくるのも大変だったと思う。 いったい何本のキュウリを刻んだのかしら。 おしゃべりしながらゆっくり食事をして、 後片付けにはいる。 食器を洗う人、 それを拭く人、 つづいて食器棚に収める人、 テーブルを拭いてまわる人。 流れ作業が心地よい。 来月は何にしょうともう次回の献立の話が出る。 最後にシスターたちは床まで掃いて、 さよならと言って帰って行かれた。

 これだけのことを真野ふれあい住宅の人たちだけではとてもできない。 外部サポートを受け入れようと提案した李さんと、 それを快く了解してくださったシスターたちのお陰である。 第3金曜日のお誕生会も今日の昼食会と同じようなにぎやかさで、 こちらは日本パプテスマ教会の支援がある。

 参加費は昼食会は200円、 お誕生会は100円だが、 食材費だけでもオーバーするのに、 さらに真野ふれあい住宅の協同室使用のための光熱水費として1000円を出してくださるとのこと。 地域からの参加者の中には、 200円でこれだけのもの食べられへんわなと言う人もいるそうだが、 200円以上は出してもらえないような雰囲気だと言う。 いつまでも外部のボランテイアに全面的に頼っているのも限界があると思われるので、 何か自立の道を考えたいと、 県のフェニックス活動助成に応募することにした。


落下傘部隊は地域のふれあいの核へと変身

 「真野ふれあい住宅は真野地区に落下傘部隊のように降り立った」と言った人がいる。 住民主体のまちづくりの先進地区に、 地区住民の要望からでなく、 神戸市のモデルとしてのコレクティブハウジングが事業化された。 1998年1月の入居が始まってしばらくは真野地区のまちづくり推進会(協議会)でもどう対応したものか戸惑っていたようだ。 一方、 真野ふれあい住宅の入居者たちは真野地区に馴染みがない人が多くて、 かつ真野ふれあい住宅の自治会役員が協同居住の意味を理解していなくて、 居住者は住宅内に閉じこもりがちになってしまったが、 2年目を迎えて、 地域に根差した真野ふれあい住宅として脱皮しつつある。 1年間のつらいトンネルを抜け出たようだ。

 「地域の人が協同室に出入りしてくれるようになって、 真野ふれあい住宅の居住者は外から来た人たちだけど、 道を歩いてても挨拶ができるようになった」と、 世話役代表の李さんは言う。 今、 真野ふれあい住宅の協同室は地域の協同食堂・談話室に変身しようとしている。 まちづくり推進会や地区の自治会役員さんたちの対応にも少しづつ身内としての眼差しが感じられるようになったと言う。 この陰には、 李さんの大きな奮闘と世話役さんたちのバックアップが欠かせない。 コレクティブハウジング事業推進応援団はコレクティブハウジングのふるさとは真野ふれあい住宅だと思ってきたのでうれしい。 しかし私は、 李さんがあまり奮闘しすぎて疲れてしまわないかしらと心配している。 それを言うと彼女は「これは私の幸せよ」と言う。

 4月に昼食会がスタートした当初は20名程の参加だったが、 参加者はだんだん増えて現在は、 昼食会は総勢で50名から60名の参加があり、 お誕生会は40名前後になる。 ただ真野ふれあい住宅の居住者の参加が10名前後と少ないのは、 まだトンネルの中にいて出てきにくい人もいるようだ。 しかし、 時と共にこの気分も解決されるものと、 私はまた楽観視してしまう。 あるいは真野ふれあい住宅の居住者の参加が少なくても、 地域の中の真野ふれあい住宅になってきたのだから、 真野ふれあい住宅の居住者だとか、 地域の人だとかの区別をする必要がないのかも知れない。 どちらもみんな真野地区の住民なんだ。 それよりも来春の役員改選の後にもこのような状況が継続されることが大切だ。 むしろそのためには、 真野ふれあい住宅以外からの参加者が多い方が継続の源になるだろうと思っている。

 とにかく今は継続のための活動資金の確保の道を探さなくては!(9月10日記)。


 

酩酊論議の果てに。 。 。

都市調査計画事務所 田中 正人

 そのとき私は、 カウンターに飾られた花卉が見事な三宮の某飲み屋で、 なぜか素麺を肴にウィスキーを飲んでいた。 私はすこぶる上機嫌であったが隣席の知人はもっと上機嫌だった。 彼のことは、 ずいぶん前から顔だけは知っていたわけだが、 1時間程前に偶然この店で出くわし、 一献傾けるうちにいつしか話題は「(仮称)若手プランナーネットワーク(若手ネット)」へと至ることになった。

 今思えば結局それが、 私と「若手ネット」との出会いであり、 その知人こそ、 いるか設計集団・松原氏であった。


 そもそも私が都市計画を学ぼうとしたきっかけは、 都市計画なり都市開発という行為が「まち(=人が生活している場)」に介入するとき、 何が生じるのかを見定めたいといういささか傍観者的な関心だった。 無論、 当時は阪神大震災のような大災害が起ころうとは夢想だにしていなかった。 まして被災都市という特殊な空間で仕事をするなんて考えは想像力に欠ける頭では遥か射程の彼方であった。 しかしそれは起こり、 奇しくも私は「都市計画」と「まち」のせめぎ合いを、 まるでダイジェスト版を繰るかのように目にすることになった。 それを通して、 必ずしも一方通行的に「都市計画」が「まち」に介入するわけではないのだということを実感できたし、 何より「まち」が持つ底知れないポテンシャルを感じとることができた。 しかし同時にある一つの「まち」が際限なく破壊されていく過程をも目撃することになった。 その「まち」の崩壊プロセスは、 コミュニティの離散、 分裂、 断絶という最悪のスパイラルを描いていた。 権利者間の冷戦構造は果てしなく続くかのように思えた。 荒れ果てた空地の群と放置された倒壊家屋はそれを無言のうちに語りかけているようにもみえた。

 「ややこしそうなまちやなあ」と思われるかもしれない。 思われないかもしれない。 いずれにしろ「ややこしい」うちはよかった。 「ややこしい」というのは当事者が少なくとも共通の土俵に乗っていることの表象だから。 しかし震災復興という市街地再編の大きなうねりのなかで、 その土俵はあっけなく解体されてしまった。 もちろん「ややこしさ」はどこかへ去っていった。 そこに暮らしてきた多数の住民たちを道連れにして。

 かつて高石友也は歌っていた。

 ♪このまちが好きさ
      君がいるから〜

 我々がある「まち」を好きになるとき、 それは「君」がいるからであって、 何も幹線道路沿いのビルが指定容積を消化しているからではない。 2項道路沿いの建物がきちんと中心後退しているからだという人がいればそれはよほどの変人か、 都市計画家か、 あるいは変人の都市計画家である。 ともかく、 現実には多くの「まち」から「君」がいなくなってしまった。 それに対処すべく、 近年様々なコミュニティ育成プログラムが用意されてきた。 しかし仮にコミュニティが育ったとして、 ある種の「ややこしさ」は半ば宿命的に再生されるだろう。 生まれたての子猫がやがて爪を研ぐことを覚えるのと同じように。 そのとき「ややこしさ」そのものを排除してはならない。 「ややこしさ」の排除はコミュニティ内の排除や境界の(再)生産を帰結する。 ごく軽薄なこれまでの私の経験はそのことを示唆している。 弁証法的解決を試みよ、 爪を剥いではならないのだ、 と。

 先日、 地元の方から提案があった。 「新しいマンション住民の方々の歓迎会しましょうや」。

 私がこんなふうにセンチメンタルな気分に浸っている間にも「まち」は新しい対話を求めて動き出そうとしていたのだ。 まさしく、 恐るべし住民パワー、 である。

 喜ぶのはまだ早い。 対話は新たな対立を生むだろう。 しかし、 対立のなかにこそ答は見出される。 だから、 今夜も私は猫と真摯な対話を続けているのだ。 爪あとだらけの柱を見つめながら。


 「若手ネット」では時折まち歩きや見学会が催される。 その後は予定調和的に酒場へとなだれこむ。 夜更けの酩酊論議の果てにふと思うことがある。 今日見かけたあの玲瓏たる風景もまた、 排除された「ややこしさ」の残像にすぎないのだろうか‥‥と。 あるいは、 単に飲み過ぎてカタストロフの空想に酔っているだけなのだろうか?

 

被災地景観と建物のデザイン

新しい町並みの兆しを発見する

神戸大学 末包 伸吾

 震災後、 短時間に大量に建設されたプレファブ形式の戸建住宅。

 メンテナンス不要のサイディング・ボードを中心に、 バルコニーを中心にボーダーを配した均質な立面構成。 3階建ての箱形住宅の増加と金属葺き屋根による景観上のまとまり感の喪失。 敷際のリブブロックと黒色のアルミ製フェンス。 駐車場がこの連続感もとざしてしまう。 レッドロビン等やガーデニングによる均質な植栽の景。

 震災後に一斉に建ったことにもよるが、 向こう三軒両隣を配慮したつくり方がなされず、 住まい方や景観に寄与しない隣地境界との隙間。 ミニ開発的な建売住宅の方が、 左右の家の存在を配慮した構成がなされているという状況。

 特に狭小敷地の場合に、 上記の要素が集約化される傾向にある。 その結果、 様々な地域の特性を有していた被災地は均質な街なみを呈し、 さらに新建材の建物は、 地域性を形成する要因である時間性を拒絶するものとなっている。

 景観は地域性や時間性とともに醸成されるものであれば、 一般解としてその芽を見いだすことは、 現時点では困難である。 地域性や時間性からの乖離は近代の典型的な弊害である。

 ポール・リクールは、 人間の進歩である普遍化・近代化の道を進むために、 古い文化的過去を放棄する必要があるのか、 と問う。 彼は、 近代化すると同時にいかに源泉へと立ち戻るか、 古い眠れる文明を再興すると同時に普遍的文明に参加するか、 このパラドクスを止揚することが20世紀後半から21世紀にかけての課題であるとするが、 このパラドクスこそ被災地に突きつけられた問題なのである。

 普遍化へ傾斜を強める被災地に建つ建物に、 リクールの議論を基盤とした「批判的地域主義」をデザイン上の課題として啓蒙することも必要であろう。 しかし「批判的地域主義」は建築オリエンテッドな議論であり、 その道のりは遠い。 従って残された余地の一つは、 建物以外の部分すなわち非建築部分に「源泉」を喚起させる空間構成上の仕組みをつくりこむことではないか。

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規制緩和を受けた場合の街並みのシミュレーション
 私が所属する研究室で昨年、 「インナー長屋制度」による建蔽率緩和と「街なみ誘導型地区計画」による道路斜線と容積率の緩和がなされた野田北部をモデルに、 規制緩和を受けた場合の街並みのシミュレーションを行った。 その結果、 隣地境界線から50cmを壁面線とした場合、 道路側・背割り宅地側への非建築部分が極端に狭くなり、 「源泉」を仕組むことが困難であった。 そこで、 隣地境界と壁面の間隔を20cmとし、 建蔽・容積とも可能な限り利用しながら、 新たな「源泉」の芽を紡いでいくことを、 条件の厳しい間口4m奥行き11mの敷地において考えてみた(図)。

 この図に従えば、 4人の家族の居住スペースとともに、 時間を刻印していくであろう植栽スペースや背割り宅地間の路地的空間の等、 「源泉」の芽を創出することが可能となる。

 しかしその成立には、 民民境界を部分的ではあるが共同利用を可能とすることをはじめ、 協調的なつくり方のためコンセンサスが必要である。 非建築部分を主に、 ハードとソフトの提案が折り重なる地平を模索すること。 現代建築が直面している最も大きな課題でもある。


情報コーナー

 

阪神白地まちづくり支援ネットワーク/第10回連絡会記録
〜細街路拡幅整備の実践〜

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宝塚市川面地区の進捗状況('99.10)
 10月6日(水)、 神戸市勤労会館において、 阪神白地支援ネットの第10回連絡会が「細街路拡幅整備の実践」というテーマで行われました。

 まず渡辺忠さんから宝塚市復興事業として川面地区の用地買収による道路拡幅の報告があり、 中嶋知之さんからは神戸市の密集地区として灘区泉通5丁目での細街路整備についての報告がありました。 続いて岩崎俊延さんからは神戸市灘区神前地区における挫折を繰り返しながらも実現した事例の報告がありました。 最後に鷲尾健さんからは芦屋市若宮地区住環境整備事業として街区内を回遊する4m道路の整備についての報告がありました。

 その後、 フロアからの質疑および討論がすすめられました。


その他

復興市民まちづくり支援ネット 建築士会業績賞受賞

 「『復興市民まちづくり』(学芸出版社)の刊行及び支援活動」として、復興市民まちづくり支援ネットワークが、 日本建築士会連合会の業績賞(副賞30万円)を受賞しました。

東部白地まちづくり支援ネットワーク・第30回連絡会

阪神・路大震災 被災状況記録写真展「あの日を忘れない」

まちづくり設計競技の展示会・発表会「西出・東出・東川崎地区の更新計画」

1999安全・安心まちづくり女性フォーラム「復興まちづくりと2000年問題」

−大震災から59ヶ月目の私たちの対応−

南芦屋浜コミュニティ&アートプロジェクトドキュメント展 PartII

都市計画シンポジウム「旧居留地の過去・現在・未来」

−企業市民が担うまちづくりと今後の展開−

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このページへのご意見は前田裕資
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