きんもくせい50+8号
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災害は常に社会構造の最弱点を衝く
トルコ派遣団報告

遊空間工房 野崎隆一

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野崎兄
 8月17日午前3時、 トルコ北西部の人口集中地域をM 7.4の地震が襲った。 日本建築家協会兵庫支部からトルコ建築家協議会(C. A. T.)にあてた見舞いの手紙に返事が来て、 私を含め神戸から6名の建築家が出かけることになった。

 出発に際して、 派遣チームで確認しあったことがある。 神戸での経験について語ることを除いて、 一つは先入観を持たずに出かけること、 もう一つは注意深く目と耳を使って情報を集めることであった。 トルコ・台湾の震災に関する報道を見ていると、 「日本では考えられない……」という定冠詞を付けた言い方、 あるいは、 それを思わせるような記事が、 いかに多いかに驚かされる。 そのように捉えることで、 他国の災害は支援と同情の対象にしかならない。 しかし、 被害の背景を注意深く調査すれば、 必ずそこには教訓が隠されているはずである。 従って、 我々は、 何かを教えに行くのではなく、 彼らの状況から学べるものを見つけ共に対策を研究するためにいくのだという姿勢を確認して出発した。

 実際、 国情の違いを超えて、 阪神・淡路とトルコ・マルマラの間には多くの共通点を見いだすことが出来た。


■政治的背景 POLITICAL BACKGROUND

 現在のトルコは、 1922年にケマル・アタチュルクによって建国された共和国である。 アタチュルクは、 スルタン制の廃止、 完全な政教分離、 一夫多妻制の廃止等の近代化策を断行し定着させた。 アタチュルクは、 今でも国民的英雄で偶像崇拝に近いといえる程あらゆるところに肖像・彫像が見られる。 国としては、 ECへの加入はまだだが、 早くからOECDの加盟国であり、 NATOの一員でもあり、 ヨーロッパに近いと言える。

 しかし、 トルコへ行く飛行機の中で見た新聞には、 7カ所の刑務所でマルクス主義政治犯達が看守を人質にとって立てこもっているという記事が載っていた。 また、 周りをイスラム原理主義の活動する国々に囲まれ、 国民の95%を占めるイスラム教徒への影響に脅かされている。 このバランスを保っているのは、 アタチュルクの遺志を継ぐ強大な軍隊である。 従って、 こうした緊張関係のもと、 民主化はなかなか進まない。


■被災地の背景BACKGROUND

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写真1:エフェソスの遺跡(BC2000年)
 この地方は、 1950年代の近代化政策の中で農業から工業への転換が進められた地域である。 1955年に工場立地の際に義務付けられていた従業員住宅の建設が免除となった。 その後、 加速度的な人口流入の中で土地の不法占拠や無届け建設が相次いだ。 1980年代に入り、 経済の自由化が進むと人口流入の速度も倍加し、 行政のコントロールの及ばない状態が常態化するに至った。 建設マフィアと呼ばれる会社が横行し、 集合住宅をどんどん建設し、 行政はそれを追認しインフラは後から整備するという状態が今日まで続いていた。 トルコ建築家会議所(C. A. T.)は、 地盤の悪い土地の大規模開発に反対して、 許可を出した行政を相手に裁判に持ち込んだケースもあるが、 判決のでる頃には、 建設が終わっているということで実効性はなかった。 我々がイスタンブールから被災地に向けて走る高速道路からも、 延々と続く建設中の住宅群に驚かされた。 工場の誘致は今でも積極的に行われており、 トヨタ進出の時には、 政府は国有地の開発に対する制限を撤廃する法律を上程している。 その一方で、 地盤的に不安定で本来は不適当な土地での開発も進んでいる。 ホンダの工場のあるデリアタン地区は「川の床」という意味だそうだ。

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写真2:アダパザール郊外の集合住宅
 地震災害は、 社会機構の最も弱い部分を衝いて犠牲者を出す。 阪神・淡路では、 再整備の遅れたインナーシティの木造密集地域がそうであった。 トルコ・マルマラでは、 これらの野放し状態で増え続けたスプロール住宅群が犠牲になった。 いずれも、 ある時期に起こった急激な都市への人口集中が原因であることは、 共通している。


■復興の課題RECOVERY PROBLEM

住宅復興HOUSING RECOVERY

 被災した建物のほとんどが集合住宅である。 公営住宅の比率は5%位と低く、 ほとんどが区分所有型の集合住宅である。 トルコにおける所有権の形態については、 詳しくわからないが、 日本のマンション再建の方式を修正して応用する方法が考えられる。

 しかし、 土地の資産価値の占める割合は、 それほど高くないであろうことや、 そこに潜むであろう遊牧民的発想の伝統を考えると、 必ずしも同じ場所での再建にこだわる必要はないのかもしれない。 いずれにしても、 阪神・淡路のように1棟毎に再建組合を作って住民主体の復興を目指すか、 行政が土地の権利を買い取ってしまうのか、 民力と国力のバランスを見ての判断が必要と思われる。

 また、 周辺部の新市街で被害が集中していることを考えると、 旧市街の被災住宅は再建組合方式をとり、 新市街では行政が土地を買い取り再開発を行うのが良いのかもしれない。 いずれにしても、 持ち家への指向が非常に高いことから考えて、 キーポイントは融資制度だ。 銀行の融資は5年返済が一般的で金利も高く、 実際には借りれない。 一方、 公的融資制度は最長20年のがあるようだが、 金利も高く利用者は少ないらしい。 融資を受けて自力復興へ被災者を誘導出来るような、 インセンティブが必要だと感じた。

地域社会COMMUNITY

 トルコで今回見え難かったのは、 地域社会の在り方である。 ほとんどが地方から出てきた人達だから、 地縁的な結びつきは弱いのではないか。 住む場所を選ぶなら近所つき合いの良い所を選べという格言があるくらいだから、 地縁性は結構強いのではないか。 もともと遊牧民だから、 土地への執着は無いのではないか。 我々代表団の中でも意見はまちまちであった。 しかし、 長い復興の過程では必ず何らかの支え合いが必要となる。 現段階で、 少し希望が持てるのは、 仮設住宅用地が被災地の周辺に充分あることである。 神戸で起こったコミュニティの解体、 被災住民の切り放しはなんとしても避けたいものだ。

市民社会 CIVIC SOCIETY

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写真3:陥没したギョルジュクの海岸
 トルコ社会は、 一般的に地縁性より血縁性が強いと言われている。 言い換えれば、 市民社会がまだ未成熟であるということなのかも知れない。 それは、 神戸に集まったようなボランティア達の姿が我々の訪問中あまり見られなかったことでもわかる。

 イスタンブールの建築家達も含めたCCC (Civic Coordination Center)は、 その意味では貴重な存在であると言える。 CCCは、 3年前国連主催の「ハビタットII」の開催を支えた人々を中心に震災後結成されたNGOである。 現在、 CCCによって生まれた地域NGOであるDEKMAKという団体は、 デリンジェ地区のテント村で日本のNGO(緊急救援委員会)と協力して、 仮設市街地の構想を実現しようと活動している。 仮設集会所、 仮設学校等を中心にそこに支え合いの地域単位を創出しようという試みだ。 また、 現地からの報告では、 CCCの支援を受けた別のグループが被災して身寄りを失った女性達の自立を支援するプロジェクト「女性の村」を立ち上げてもいる。

 このような活動が成果を挙げ、 社会的に注目を集めれば、 こうした動きは広がっていくだろう。 いずれにせよ、 神戸の経験からしても、 復興の90%以上は被災市民が自力で担わざるを得ないことも事実である。 それを可能にするには、 市民の自立的な活動を支援する仕組みが最重要であるのは自明のことである。 災害復興の過程は、 避けがたく市民の権利意識を高め民主化を進める。 トルコ政府が、 どの時点で自分の力量の不足を自覚し、 こうしたNGOの活動への積極的支援に踏み切るかで、 復興の様相は大きく変わってくるだろう。 しかし、 10月28日のニュースでは、 イスラム教系NGOによる仮設住宅支援に対し、 政府がその活動を牽制していることが報道されており、 前途の困難さが予見される。

 阪神・淡路においても、 トルコのような政治的緊張は少ないものの、 震災復興が落ち着いて行政がイニシアティブを回復するにつれ、 NPOとのパートナーシップはかけ声ばかりで進んでいない。 行政とNPO/NGOの間の双方による信頼関係醸成のための努力が、 まだまだこれから必要であることは、 トルコ・日本とも共通の課題といえる。


■ふたたび神戸RETURN TO KOBE

 震災復興の5年を終えようとする時期に、 県や市の検証を傍目に見ながら自分の5年は何だったのか?と自問自答する1年だったように思う。 しかし、 トルコ訪問とそこで被災地の建築家達に自分の活動経験を報告するという作業は、 自分の立脚点を劇的に変化させたと確信している。 ヒサイという煉獄から外へ出て、 「阪神・淡路」を相対化出来た所からしか個々の検証は始まらない。 検証は自己満足のためではない。 トルコ、 台湾そして来るべき国内被災地との連帯のためでなければならない。 そこに初めて「神戸発」の意味が生まれるのではないだろうか。 トルコはそれを教えてくれた。


 

阪神・淡路大震災復興まちづくりの実践報告(その3)

住宅共同再建の成就と挫折

(株)ジーユー計画研究所 後藤 祐介

はじめに

 阪神・淡路大震災復興まちづくりにおいて、 倒壊した小規模住宅の共同再建は、 建築系プランナーである私にとって、 主要課題の一つとして、 震災直後から積極的に取組んできた。

 この取組みは、 経過的に2期に分けることができる。 第1期は、 平成7年1月17日の震災の直後からの数ヶ月であり、 この時期、 私は神戸市灘区新在家南地区において密集した小規模宅地の共同再建に取組み、 その件数は10件近くを数えた。

 第2期は、 震災後1〜2年経過した時期で、 とりあえず復旧が進み、 いろいろな共同再建施策が考えられるようになった段階での新たな掘り起こしや、 震災復興土地区画整理事業の進捗に伴う事業地区内での飛び換地や集合換地による共同再建の立ち上げである。

 私はこの時期、 主に西宮市の北口北東復興土地区画整理事業地区で、 共同再建の立ち上げに取組んだ。

 本稿では、 これらの住宅共同再建の取組みについて、 成就した事例と挫折した事例に分け、 報告する。


1。 成就した住宅共同再建事業

1)新在家南地区

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新在家南地区共同再建箇所位置図
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成就した住宅共同再建一覧
 新在家南地区では、 平成11年11月現在、 3棟が完成し、 1棟が工事中である。 既に完成した3棟が成就した主な要因は、 震災直後の「早期取組み」があげられる。 これらの3棟ついては、 平成7年の2月〜5月時点で共同再建事業に関係する地権者の合意形成は100%近くできていた。 即ち、 各地の公的仮設住居に分散移住するまでに、 おおむねの合意形成が図られていた。

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新在家南町3丁目−A 共同再建完成写真 新在家南町3丁目−B 共同再建完成写真 新在家南町3丁目A・B 共同再建完成写真
 

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新在家南町2丁目−C 共同再建完成予想図
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新在家南町4丁目−D 共同再建完成写真
 現在、 工事中の遅れた一棟については、 同じく早期取組みを行ったが、 法的な権利者確定の問題、 抵当権抹消の問題等のため大変な時間が掛かった。 しかし、 最終的に成就したのは、 早期取組みにより、 当初から地権者の90%に近い合意形成があったからである。

2)鹿ノ下通3丁目地区

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鹿ノ下通3丁目地区 共同再建箇所位置図
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西宮北口北東地区 共同再建箇所位置図
 神戸市灘区鹿ノ下通3丁目地区の共同再建は第2期の掘り起こし型であり、 敷地面積300m未満の小規模共同再建支援制度が適用された。 この共同再建事業は、 新在家4丁目D地区共同再建の権利者による「口コミ」をきっかけとした立ち上げであった。

3)西宮北口北東地区

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鹿ノ下通3丁目 共同再建完成写真 北口北東−A 共同再建完成予想図 北口北東−B 共同再建完成写真
 

 北口北東地区は、 震災復興土地区画整理事業地区における共同再建であり、 平成11年11月現在、 1棟が完成し、 1棟が工事中である。 これらの共同再建事業は、 復興土地区画整理事業が進み始めた平成8年頃から、 権利者の意向を集約し立ち上げた第2期の事業である。 既に完成した1棟については、 敷地面積が300m2未満の245m2で、 小規模共同再建支援制度が適用された。


2。 挫折した住宅共同再建案

1)新在家南地区

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新在家南町3丁目−E共同再建案
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新在家南町4丁目−F共同再建案(右)
 新在家南地区では、 共同再建に取組んだが成就しなかった取組みが2件ある。 第1期と第2期が1件づつであるが、 いずれも、 地権者の一部の人の要請で共同再建に取組みはじめたが、 権利者全員の合意形成が図れなかった。 その要因は、 成就した事例とは紙一重であり、 少しのタイミングのずれ、 感情のずれの違い、 誤解等によるものであった。

2)深江地区

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深江駅周辺−A共同再建案
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深江駅周辺−B共同再建案
 神戸市深江地区では、 阪神深江駅周辺で第2期に2件取組んだが、 2件とも成就しなかった。

 一つは、 まちづくり協議会の要請にもとづき3軒の小規模共同再建に取組んだが、 事業の採算性が見込めずもう少し時期を待つこととなった。

 一つは、 まちづくり協議会とABB型の借地権者からの要請で取組んだが、 地主の合意が得られなかった。

3)西宮北口北東地区
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西宮北口北東−C共同再建案
 西宮北口北東土地区画整理事業地区では、 成就した2棟の他にも、 もう1件共同再建に取組んだが、 これは、 相隣環境問題(中高層住宅問題)と事業の採算性等との問題で延期→中止となっている。

 

成就しなかった住宅共同再建案一覧
   所在地等    敷地面積権利者数計画戸数備 考
新在家南町3丁目−E約260m24人8戸一人が反対
 〃 南町4丁目−F約440m23人18戸容積率300%
深江 深江駅周辺−A約280m25人16戸容積率400%
 〃 深江駅周辺−B約500m24人13戸借地権者3人
西宮 北口北東−C 約500m26人13戸  

おわりに

 阪神・淡路大震災の復興すまいづくりにおいて、 私が取組んだ共同再建は、 7件が成就し、 5件が成就しなかった。 成就しなかった5件は、 成就した7件と紙一重の差であり、 「感情のすれ違い」といった理由が主であった。 深江地区では、 まちづくり協議会の要請といった外部からの要請で取組んだがうまくいかなかった。 2期に入ると、 事業の採算性に関する保留床としての住宅需要にかげりが見られるようになり、 また、 従後の維持管理のわずらわしさもあり、 震災直後、 私自身、 復興まちづくりの重点課題として積極的に取組んだ住宅の共同再建も、 時間の経過とともに気力が薄らいできたのも事実である。


 

その2・智将林博司

復興まちづくりにとりくむ原点

まちづくり会社コー・プラン 小林 郁雄

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990410撮影
 1) 海運町3丁目が灰燼に帰そうとしていたあの時、 そこにいなかったことが野田北部まちづくり協議会の智将林博司の出発点である。

 林さん(当時46歳)はその日、 温泉町湯村温泉にある新日鐵広畑の保養所で、 震度5の地震に飛び起き、 激しい揺れだったが何事もなかったので再び寝入った。 1月16・17日のさんぱつ屋の連休を利用して、 久しぶりの友人と雪の中、 カニを食べに来ていたのである。

 その頃留守宅では、 クラブの早朝練習のため起こそうと奥さんの澄子さん(40歳)が、 表の間に寝ていた長男徹君(16歳)の所に行った瞬間、 一瞬のうちに家は倒壊し瓦礫と化した。 幸い表の間からはすぐに外に這い出ることができたが、 裏の間で寝ていた長女由利さん(15歳)と次男の勤君(8歳)は、 瓦礫に埋まってしまった。 至る所で真っ暗闇のなかでの救出が続けられ、 やっと近所の人たちの助力もあって、 瓦礫から掘り起こした時、 かすかに声の聞こえていたお姉ちゃんは息をひきとっていた。 チビちゃんもほとんど窒息状態であったが、 すぐ北側にある高橋病院での懸命の人工呼吸によって、 一命をとりとめた。 やがて迫ってくる火の手に一帯は燃え尽きた。

 何も知らずに遅い朝を迎え、 ロビーのテレビの前に群がる泊まり客の頭の間から、 神戸長田の悲惨な映像を見て飛び上がった。 すぐさま湯村を出て11時の列車で豊岡を経由し香寺へ、 そこから友人の車で明石を経て、 大混乱の国道2号線を舞子に着いた時、 すでに翌18日になっていた。 こんどはバイクに乗り換え、 ようやく野田北部にたどり着いたのは深夜3時頃であった。 ほぼ丸一日たった灰燼の街に驚く暇もなく、 多くの地区の人達が避難していた鷹取中学にもいなかった家族を捜し、 ようやく娘の遺体とともに須磨区民センターにいる妻子と再会できたという。

 2) 海運町3丁目鷹取商店街の西入口のところで、 散髪屋をしている林さんは、 大きな身体でやさしい目元といつもニコニコしている口元が、 温厚な人柄を示している。 時折見せるキラリとした知性と、 ほとんど見せない鋭い眼光を知る人は少ない。

 清水一家の大政というところが、 まち協での役どころである。 とは言うても次郎長以下大政小政森の石松それぞれの役割とパーソナリティに詳しい訳ではないので、 なんとなくあの茫洋として頼りがいのありそうな感じが、 大政かなあといったところ。

 林さんは震災前より鷹取商店街活性化委員会などを通じて、 商業者と自治会住民の間に立ってまとめてきた中心であり、 1993年1月の野田北部まちづくり協議会結成後も、 旭若松連合に属する人が多い商店街とのパイプ役であった。

 自分たちの家族生活再建をほったらかして、 多くのまち協役員が地区での救護救援から復旧復興に取り組んできた。 震災直後に大活躍した加茂さん・山崎さんや焼山さんはやがて3カ月〜1年後にやっと野田北部を離れ、 それぞれ三木・西宮・姫路で自分たちの生活再建を図ることになった。 一方、 河合さん・小野さんや福田さんたちは、 その後を引き続いて今でもなお、 地区を支えている。 そうした多くのまち協の人々の流転変化を、 ずーっと現地で支えつないできたのも、 林さんであった。 復興対策本部事務局長の所以である。

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海運町3丁目(撮影:950128)
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震災直後から1年間の役員会・学習会・勉強会等の集会リスト。
 『野田北部の記憶(震災後3年のあゆみ)』(1999年3月刊)に、 「震災以後、 あらゆる学習会、 相談会を行って来ましたが、 あまりにも回数が多く内容については殆ど記憶が薄れて思い出すのが難しい会合もあります」と、 林さん自身が記しているが、 1995年の1年間に開かれた72回の集会(月平均6回毎週どころか2週に3回平均で会議をもっていたことになる)のすべてを行ってきたのである。

 震災時、 店と家ともどもに焼失してしまって、 舞子の友人宅に1カ月、 ひよどり台に1カ月と異例の遠隔地居住を経験した。 仮設の店が出来るまでの5〜6月には友人の板金屋の手伝いに行くという経験もした。 24歳から続いている軟式野球チームペガサスの同僚たちも含めて、 こうした多くの友人達の助けや力がどれほど大切だったことか。 それにも増して、 地域の商店街やまちづくり協議会の仲間たちのつながりがどれほど重要なものなのか。 それが、 野田北部復興まちづくりの核心であることをいちばん大切に思っているのが、 FMわぃわぃの野田北部まち協がつくるレギュラー番組「ネットワーク・まちづくりワンダーランド」のディレクタであり、 さんぱつ屋の林さんである。

 3) 鷹取幼稚園−千歳小学校−太田中学校−須磨高校と、 ず〜〜と海運町3丁目の家から通学し、 大学入試に落ちたため、 父英司さんとの約束で老舗のさんぱつ屋の後を継ぐことになり、 兵庫理美容学校へ行き、 自店でインターンをすませた。 昭和52年に広島県福山の散髪屋の娘さんと結婚して、 一時若松町11丁目の新婚文化に住んだが、 なに、 すぐ隣の町である。

 3階建の店と家を一緒にした今の建物は、 震災前に店のあった所で、 1995年8月わずか半年後にインドネシアからの義捐ベニヤで造った仮設店舗の場所でもある。 どちらも野田北部地区コンサルタントのまちづくり建築家で中高同級生森崎さんの設計である。

 という次第で、 林さんの自慢は生まれてこの方、 何があろうと海運町3丁目にいることである(自慢するほどのことでもないか)。

 生涯をすごしてきたその海運町3丁目の表の店と路地の奥にあった家ともどもに震災で倒壊し、 焼失してしまった。 1995年7月、 基礎だけを残して撤去された家の跡地で、 青池VTR第4部の主役として、 亡くなった娘の由利ちゃんのことを語っている。 ず〜〜といつでもそこにいたのに、 あの時だけその場所にいなかった林さんの「自分の手で助けてやりたかった・・・。 まァ、 くやしい、 ね」というつぶやきを忘れない。 その覚悟と決意を秘めて、 今日も復興まちづくりに取り組んでいる。


情報コーナー

 

神戸東部白地まちづくり支援ネットワーク/第30回連絡会記録
〜東灘区白地まち・すまいづくりの現況〜

 前半は東灘区の御影/住吉/魚崎・西岡本/岡本・本山/森・深江の5地区において行われた、 (仮称)若手プランナーネットワークによるまちなみ現況調査の報告がありました。 「緑の景」「住宅の景」「小モノの景」「集合住宅の景」「アプローチの景」「道の景」「その他の景」「おすすめの景」の8つのテーマごとに、 5台のスライドを駆使して5地区の現況を同時に並べて映し出すという斬新な方法で行われました。

 後半はフリーディスカッションが行われ、 今回は5地区を並べて発表することでそれぞれの「地区性」を表せることができたが、 地区分けが“縦割り”だったため、 同じ地区内でも南北で「地区性」に変化があったことや、 今回のまち歩きではあえてテーマを持たずに写真をとっていったためテーマで比較できるような写真をとっていないことなど、 いくつかの反省点も挙げられました(神戸大院生 中村幸枝)。


これからのイベント案内

●神戸復興塾/第18回勉強会

●阪神白地まちづくり支援ネットワーク・第11回連絡会

●もうひとつの働き方を求めて

〜コミュニティビジネスの今(先進事例に学ぶ)〜

●阪神・淡路大震災5周年記念事業

「街の復興カルテ研究発表会」

◆まちづくり設計競技「西出・東出・東川崎地区の更新計画」の応募作品図録が販売されています

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このページへのご意見は前田裕資
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