きんもくせい50+9号
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忘災?そして防災?!

防災&都市づくり計画室 吉川 仁

 阪神・淡路大震災とその後の年月は、 本当にこれからの都市に大事なものは何かをはっきりさせ、 それをガレキに花を咲せるように少しづつ動かせることも理解させてくれたような気がする。 その意味でも「きんもくせい」の役割は大きいものがある。 最近、 二、 三、 気になっていること書かせていただく。


●気付かない幸せもあるのかな

 被災後に真野に回ったら宮西氏に顔がこわばってると言われた。 で、 そのとき考えていたのは、 被害の量はものすごかったけれども、 様相は、 それまでの災害から容易に想像できることがほとんどという気がした。 で、 それまでの私は、 大阪や神戸を見ても、 いまさら災害とかいってもしかたない、 ただ真野などのとりくみは結果として防災になるだろう程度をつぶやくスタンスでいた。 しかし、 被災地の花束を前にすると、 オオカミ少年であってもおかしいと言い続けてなければならなかったのではないか、 極論すれば、 知らないうちに未必の故意に加担してたんじゃないかという念を抱いていたということである。

 このことは個人的には日々考えながら過ごしているが、 震災後5年もたつと気になることもある。 東京でも震災後、 防災都市づくりや復興の機運が急激に盛り上がったが、 今になると財源など理由を付けて力が抜けてきている。 全国でも、 地域防災計画をちょっと変えた程度が多いだろう。 結果、 みんなが気が付かないふりをしているけれども、 現実はなんら変わっていない。

 防災だけではない。 高齢化や弱者のこと、 地域の活力低下や更新停滞、 施設や建物の老朽化、 共同住宅建替、 公共ストックの薄さ、 自然を無視した都市環境、 多エネルギー消費など様々な問題が顕在化した。 今、 それらはなかったことにという意識が蔓延しているような気がする。


●防災をちゃんと考えてほしい

 防災とか安全とかは、 そのまちや都市、 生活や社会などが守るべき価値を持っていてはじめて必要になる。 この考え方からみるとちょっと首をかしげることも少なくない。 命が大事・防災最優先という考えを押しつける人もいる。 逆に防災とか考えたらおまんまのくいあげという発想をする人もいる。 どっちもおかしい。

 被災地ではそうでないことを願うけれども、 行政やプランナーがあまりにも災害を知らない気がする。 防災というものをどう扱うか(何百年に一回だから考えなくてよいという問題ではない)、 どういう状況でどんな条件で被害がでるか、 それを起こさない対策をどう組み合わせるか(1つだけでは防災にならない)等々技術論に陥るのでなく基本的なことも考えてほしいと願っている。

 各地のマスタープランでは、 都市防災は部門別計画とされていることが多い。 しかし、 防災で都市づくりという発想よりも、 「防災」は計画評価に使うべきだと考えている。 ある計画を展開した結果、 どのくらいの災害リスクになるかを明らかにし、 ソフト対策や今後の課題を進める、 結果として高い災害リスクを選択する都市づくりもありかなと思っている。 もう少し、 震災が与えてくれた宿題を考え続けるつもりである。


 

新長田駅北地区(東部)土地区画整理事業(8)

久保都市計画事務所 久保 光弘

VII。 共同建替のプロセス

 ・ 震災後、 神戸市での共同建替事業による建設戸数は約4,450戸あるが、 そのうち復興区画整理事業区域内では、 住宅戸数は997戸、 店舗等区画数は98区画あり、 おおむね1/4を占めている(平成11年10月現在)。

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図8−1 震災復興区画整理事業新長田駅北地区(東部)の共同建替え事業(完成又は着工済)
 新長田駅北地区の共同建替は、 住宅戸数450戸、 又店舗等区画数は52区画あり、 全復興区画整理事業区域での建設戸数の半分近くを行っていることになる(図8−1)。


1。 「区画整理と連動した共同化」の系譜

 ・ 共同建替は、 震災復興の一つの切り札であった。

 通常、 共同建替は、 底地地権者どうしの事業であり、 対象敷地以外の地権者が参加するものでない。 その点、 区画整理事業と連動して共同建替を行えば、 事業区域内において共同建替希望する地権者がすべて参加することができる。 これは区画整理のメリットの一つである。

 ・ 多くの事業制度と同様に区画整理事業も現実の事業として活用される中で新しい運用が生まれ、 それが制度として更新されたり、 新しいバリエーションの制度をつくることを重ねてきた。

 そのことを考えれば、 手法としての区画整理事業は、 まちづくりのビジョンに対して新しい可能性を今でも有している有効なツールであるとみることができる。

 ・ しかし、 区画整理事業は、 地権者の権利を扱う換地操作を伴う事業であることから、 行政の能力に負うところが大きい。 その点神戸市は、 多くの先駆的事業をこれまでに手掛けてきている。 「区画整理と連動した共同化」に類する事例についてみれば、 既に昭和40年代後半から住民参加方式により、 西区池上地区、 北別府地区、 岩岡地区において地権者の土地利用意向に基づき、 「共同住宅区」「集合農地区」といった土地利用計画を事業計画に反映させた新市街地区画整理事業を行い、 「特定土地区画整理事業制度」の先駆けをつくっている。

 また、 それと近い時期に西農協が関わった西区玉津農住団地においては、 区画整理により短冊換地を行い、 かつ地権者間に相互の借地契約を結ぶ形で共同住宅の建設を実現している。

 このような行政の技術的蓄積があってこそと思うが、 神戸市は、 当初より区画整理と連動した共同建替について積極的な支援の姿勢をもっていた。


2。 共同建替のプロセス(図8−2・8−3)

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図8−2 共同建替のプロセス 図8−3(a) まちづくり提案(共同建替適地等)の推移 新長田駅北地区(東部)まちづくり提案図(平成8年9月現在) 図8−3(b) まちづくり提案(共同建替適地等)の推移 新長田駅北地区(東部)まちづくり提案図(平成11年11月現在)
 

 ・ 以下当地区において土地区画整理と連動した共同建替がどのように進んでいったのか、 ここではそのプロセスを4つの段階に分けて整理しておきたい

1)Step1−協議会設立から当初「まちづくり提案」まで

(1)「まず住宅復興から」の声

 ・ 区画整理事業の都市計画決定を受けて始まったまちづくりは、 どうしても感情的反発もあって区画整理事業に対する各人の思い込みによる抽象的な是非論に落ち入りやすい。 これには、 マスコミ情報等も影響していたことは否定できないだろう。

 ・ 当初、 区画整理の観念的是非論、 目の前の現実問題、 復旧問題に終始し錯綜した状態であったのは、 いずれの地区も同じであっただろう。 この混迷からできるだけ早く抜けるのは、 区画整理事業はあくまでも「手段」であり、 まず復興の「目的」を明らかにするべきということ。 区画整理が是か非かは、 「目的」に適うか適わないかで具体的に判断すれば良い。

 そのような中で「まず取り組まなければならないのは、 住宅の再建から」という声が強くなってきた。 これは、 産業経営者の中からも聞かれた。

(2)私道に面する住宅地権者の理解

 ・ 当地区は、 100m四方の街区で構成されているが、 その多くの街区内は、 幅員が狭い私道である。 建築基準法の勉強や当時支援していた味泥地区で私道に面した敷地の再建の困難さの実例等を通して、 区画整理についておおかたの理解が得られていった。

(3)住宅再建についての勉強とPR

 ・ 住宅再建の共同建替、 協調建替、 個別建替それぞれの概要について役員会、 説明会等での勉強会とともに、 まちづくりニュース等でPRが行われた。 特に共同建替については、 当時進みつつあった味泥地区の共同建替(都通4丁目共同建替)の事業計画を借用し、 事例テキストとしたことが、 より具体的理解に役立ったと思う。

(4)「共同建替適地」というキーワード

 ・ 各協議会のまちづくり提案検討にあたっては「土地利用適地」という計画概念が導入された。

 区画整理は、 照応の原則から原位置に近い換地が原則であるが、 それも踏まえたうえで「土地利用適地」は、 地権者の意向と行政の換地操作上の条件が適合した場合等、 できるだけ土地利用計画上の考慮をお互いにしようという「住民どうしによる柔やかなルール」である。

 これは、 区画整理事業にあたって神戸市が相当大きな面積の用地買収を行うことや、 まちづくり協議会という住民合意システムが前提となって、 その可能性が考えられた。

 「土地利用適地」の典型が「共同建替適地」である。

 ・ 同時に換地は、 「原則、 みんな(すべての地権者)は動くもの」であるというPRが行われた。

 これによって「共同建替適地」は、 各協議会とも日照、 景観を配慮して、 街区の北側、 幹線道路沿い等計画的配置が可能となった。

(5)土地利用計画を考えた生活道路の配置計画

 ・ 新長田駅北地区(東部)は、 ほとんど1町を単位(100m四方の街区)として協議会が生まれ、 それぞれまちづくり計画を検討してきたが、 住工混在地区での土地利用適地の検討や児童公園の配置等で1町単位では対応できず、 川西通大道通の2協議会、 細田町4・5丁目、 神楽町3・4丁目の3協議会は、 それぞれ合同で、 まちづくり提案をつくる方向に移行した。

 これによって、 各まちづくり提案単位毎に共同建替適地を含む土地利用適地を設定し、 換地の目安も考慮して生活道路、 児童公園の配置が定められた。

 なお共同建替適地の標準は、 各提案単位とも、 環境形成、 事業条件、 事業の可能性等を想定し、 当初、 仮に1ヶ所1,500mが目安とされた。

(6)まちづくり提案と事業計画決定

 ・ 土地利用適地を含めた「まちづくり提案」は、 各まちづくり協議会総会の議決を経て、 神戸市長に提出され、 ほとんどそのまま区画整理の事業計画として決定された。

 その過程で「共同建替適地」の概念は、 地権者に認識されていった。

2)Step2−共同建替適地の変更による
「まちづくり提案の変更」まで

(1)共同建替勉強会

 ・ 「まちづくり提案」提出後、 各まちづくり協議会は、 平成8年夏頃までに全地権者を対象として「共同建替勉強会」が開催された。

 共同建替適地にまず仮換地される地権者が確定されなければ、 その他の個別仮換地が進まないということもあって、 各協議会で熱心な取り組みが行われた。

 ・ また共同建替に対する支援体勢として、 当初(Step1)の段階から、 共同建替等について三好庸隆氏(PPI)、 貴志義昭氏(RIA)に参画してもらっていたが、 この共同建替勉強会を機に数社の共同化支援コンサルタントが参加した。 各協議会とも日曜毎に連続して5回程度の共同建替勉強会が行われている。

 水笠通3丁目まちづくり協議会での勉強会を例にとれば、 第1回「共同化の効果と生活再建」、 第2回「共同ビルに入るには」、 第3回「共同建物の費用について」、 第4回「移転等色々な費用はどうなるのか」、 第5回「共同ビルでの生活と今後の進め方」となっている。

 この共同建替勉強会を通じて共同建替参加者の募集を始めている。

 ・ また共同建替勉強会と併行して、 全住民・地権者を対象に「個別・協調建替勉強会」を神戸復興住宅メッセの協力を得て行われた。 この両方の勉強会に参加していた人も多く、 このことによって住宅再建に対する総合的な理解に役立ったのではないかと思う。

(2)各協議会での共同建替事業の可能性の判断

 ・ 共同建替勉強会や、 個別・協調建替勉強会の内容は、 それぞれまちづくりニュースで特集し、 広く地権者にPRが行われた。

 ・ 共同建替勉強会等でうかがわれた参加意向者状況やアンケート調査等によって、 各協議会において、 おおむね1,000m以上の共同建替参加者地積が確保できるかどうかを目安に共同建替事業の可能性が各協議会で検討された。

(3)隣接協議会間での調整

 ・ 共同建替事業が難しいと判断された協議会は、 区域内の共同建替希望者を隣接協議会の共同建替事業への参加をあっせんするとともに、 協議会総会に諮り、 共同建替適地の廃止による「まちづくり提案の変更」を神戸市に提出し、 神戸市は区画道路等の事業計画の変更が行われた。

 ・ 一方、 共同建替事業を推進すると決めた協議会は、 他協議会からの参加者も含め、 できるだけ多くの共同建替適地を確保するため活動されている。

 ・ この過程で、 工業地域にある細田神楽地区では、 工業地区として共同住宅等の容積率が押さえられていた地区計画の一部改正を提案するとともに、 共同建替適地をよりJR駅に近い位置に変更する等をしている。

 また、 全域近隣公園に都市計画決定した水二協議会は、 近隣公園と共存できる共同建替を進めようと勉強会や共同建替参加者の募集が行われてきたが、 結局隣接する水笠通3丁目協議会と一緒に水笠通3丁目共同建替事業を推進することになった。

(4)共同建替準備会の結成

 ・ 共同建替事業を推進する協議会は、 共同建替準備会に至るまで協議会が呼びかけ、 「共同建替準備会の集い」、 「共同建替希望者懇談会」等が行われたり、 共同建替に関心のある大規模土地所有者に個別に声をかけ、 以降個別連絡をとったりしている。 そのような過程を経て、 共同建替準備会が結成された。

(5)共同建替規模等の変更に伴う
「まちづくり提案の変更」及「事業計画の変更」

 ・ 共同建替適地規模の目安がついた協議会は、 協議会総会に諮りそれにあわせた「まちづくり提案の変更」を神戸市に提出し、 神戸市は区画道路の変更等「事業計画の変更」を行った。

3)Step3−共同建替適地の敷地の確定まで

(1)共同建替参加者の意思決定

 ・ 共同建替準備会の結成とともに、 共同建替参加者とより詳しい面談等意向の詳細な把握、 地主と借地権者との調整等ひんぱんに行われた。

 共同建替参加希望者は、 色々な事情による迷い、 詳細に詰めた段階での問題の発生、 参加希望者が借地権者である場合の地主との調整の難しさ等、 共同建替参加者の状況は流動的に変化する。

 共同建替参加者の意思決定ができる条件を整え、 共同建替事業をまとまった規模としてまとめ上げるには、 共同化支援コンサルタントの実力と努力によるところが大きい。

 ・ 松野通1丁目共同建替は、 他地区と同様に共同建替準備会は順調に推移していたが、 この段階以降共同化支援コンサルタントとしての機能が著しく低下した。 この原因は、 その共同化支援コンサルタント会社の経営破綻によるものとわかり、 他の共同化支援コンサルタント(環境整備センター)と交替した。

 環境整備センターの懸命なフォローアップにより、 実現の見通しができてきたものの大幅に規模は縮小した。

 特に区画整理区域の共同建替は、 共同建替参加者のみならず、 区画整理全体の進捗への影響を与えるだけに、 我々コンサルタントの責任は大きい。

(2)本組合の設立

 ・ 震災地域での住宅需給状況からデベロッパーの確保や補助金の確保等が遅れれば、 共同建替事業が難しくなるという気配が濃くなってきたこと、 区画整理全体の換地への影響等から、 各協議会は、 最終的な共同建替参加の締め切りを設定し、 本組合を設立している。

 ・ デベロッパーは、 比較的着工が早い又は駅に近い共同建替は民間、 着工が比較的遅い又は駅から離れた共同建替は、 神戸市住宅供給公社となっている。

(3)共同建替適地の底地権者との調整

 ・ 一般の共同建替事業は、 底地権者が共同建替参加者であるのに比べ、 当地区の共同建替適地の底地権者の多くは共同建替参加者でない。 このため、 最終的な大きな課題は、 共同建替適地に位置する底地権者との調整である。 底地権者にとっては、 仮換地先等個人的課題とまちづくりへの協力という両面に迫られただけにその苦労はたいへんだったと思う。

 この調整にあたっては、 共同建替組合だけでなく、 まちづくり協議会(特に会長)や行政もずい分努力した。

(4)共同建替区域の確定

 ・ 最終的な共同建替区域の地積や形状の確定が行われるとともに、 「共同建替適地の変更」に基づく「まちづくり提案の変更」が行われている。 この段階では、 共同建替適地の変更は微少なものであり、 区画道路等の変更を伴わないためほとんど「事業計画の変更」は行われていない。

4)Step4−共同建替住宅の着工

(1)共同建替区域の仮換地

 ・ 共同建替区域の仮換地は、 いわゆる「短冊換地」として行われた。

(2)共同建替住宅の着工

 ・ 共同建替住宅の着工は、 先行した御屋敷通1丁目を除けばおおむね平成10年末から平成11年春にかけて行われている。 (安全祈願祭:水笠通3丁目共同建替・10年12月、 神楽通4丁目共同建替・11年1月、 大道通5丁目共同建替・11年5月)

 ・ それぞれの共同建替祈願祭には共同建替組合のみならず、 まちぐるみで取り組んだ共同建替事業として、 まちづくり協議会から多くの方が参加している。 特に水笠通3丁目共同建替安全祈願祭は、 まちづくりイベント、 保留床販売イベントを同時に行い、 当日に販売戸数の半数の予約をとるという快挙が行われている。


3。 復興区画整理と連動した共同化(まとめ)

 ・ 神戸市は、 復興土地区画整理の共同建替において、 被災市街地復興特別措置法による「復興共同住宅区」が採用されなかった。 このことについては、 現場のコンサルタントからみて妥当であったと思う。

 混乱の多い緊急時では新しい制度ができても、 これまでの経験済手法で代替できるものであれば従来手法で対応し、 未体験な手法による問題の発生等危険性は避けた方が良い。 緊急時に必要な手法は、 日常時にこそ一般化し、 経験しておかなければならない。

 ・ 当地区の共同建替を通して、 被災市街地復興特別措置法「復興共同住宅区」についての所感は以下のとおり。

(’99。 12。 10記)


 

市民が支える市民の活動

〜第2回こうべ i ウォークにむけて〜

神戸復興塾 田村 太郎

 あの日からまもなく5年です。

 私事ですが、 当時私は23歳でした。 詳しいいきさつは省きますが、 1997年から「神戸復興塾」の事務局をお引き受けし、 ただいま28歳です。 震災救援・復興のなかから生まれた市民活動は、 中味で勝負で、 当時は年齢も性別も関係ありませんでしたが、 世間が日常へ回帰していくなかで、 若いことで「なめられてる」と感じることが多くなりました。 被災地でうまれたさまざまな市民活動を自分の未熟さとダブらせるのは失礼かもしれませんが、 ここ数年、 行政とのパートナーシップ論はなかなか深まらないし、 企業の社会貢献も下火です。 最近とくに、 市民活動が行政や企業から「なめられてる」と感じる場面に、 何度も遭遇します。

 私個人の最近の経験から、 それは自分が未熟だからであって、 成長のためのハードルであると、 気がつきました。 資金面での困難や、 被災地発の大きなうねりを生み出せないもどかしさなど、 被災地に広がる市民活動が抱える課題もまた、 次へのステップのためのハードルなのかもしれません。 解決策を他に委ねてばかりいるのではなく、 自分自身で道を切り開いていかねばなりません。

 行政とのパートナーシップを考えるとき、 財源もオルタナティブをもっていることの重要さを感じます。 「神戸復興塾」がサンフランシスコのNPOを視察し、 その底力に驚嘆したのが1998年夏。 市民の手によるチャリティーイベント「エイズウォーク」が1日で3億円集めるのには、 とりわけびっくりしました。 地に足つけた活動をしていれば、 金はあとからついてくる、 財団や行政が助成金をくれる、 といった発想ではなく、 市民活動に必要な金は市民で集めるという発想。 これは神戸に必要な考えだと、 見よう見まねで取り組んだのが、 「第1回こうべ i ウォーク」でした。

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大国公園を出発(第1回iウォークの様子(99年1月17日)) FMわぃわぃが実況中継(第1回iウォークの様子(99年1月17日)) コース案内役のボランティア(第1回iウォークの様子(99年1月17日))
 

 主催者の予想はさておき、 「成功しまい」というあらかたの予想には反して、 当日は3000人を越える参加者と250万円の寄付が集まりました。 また、 同時期に準備を始め、 ウォークに集まった募金を全額託した市民のための市民の基金「しみん基金KOBE」も1999年11月に第1回の助成先を決定しました。 市民が支える市民の活動は、 やってみたら、 できました。 理念を描き、 実行し、 モデルをつくって全国に発信してゆく。 次の5年に向かって私たちが忘れてはならない視点だと思います。

 2000年1月16日(日)午前10時〜午後1時、 「第2回こうべ i ウォーク」は第1回と同じく、 神戸市長田区の大国公園でスタート受け付けを行ないます。 今回、 真野地区と元町・三ノ宮商店街が新たにルートに加わり、 また久二塚の再開発や御蔵の共同再建など第1回ではまだ目にすることのなかったポイントも登場します。 ゴールは前回同様、 三宮・東遊園地です。 第1回に参加された方も初めての方も、 遠方の方も近隣の方も、 震災からこれまでいちども神戸へ足を運んだことのない人も常連さんも、 みなさんお誘い合わせのうえ、 奮ってご参加ください。


 

新しい町並みの兆しを発見する
「都市景観としての3階建住宅」

神戸市 浜田有司

 震災後、 被災市街地では3階建住宅が急激に増えた。 ある調査によれば、 その数は震災前の2倍に及ぶという。

 市街地に建ち並んできた3階建住宅群を都市景観のなかで捉えてみると、 どのような変化が感じられるだろうか。 新たな兆しを見いだすことができるだろうか。


■3階建住宅の建ち並ぶ景観

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写真(1) 灘区友田町
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写真(2) 灘区桜口町
 写真(1)は灘区友田町における震災後の3階建住宅群である。 前面道路幅員はおおむね6m。 それぞれ個別に建てられていることから、 壁面線、 高さ、 デザインなどまちまちである。

 写真(2)は灘区桜口町における建て売りの3階建住宅群である。 前面道路幅員はおおむね6m。 細部に違いはあるものの、 壁面線、 高さ、 デザインはほぼ統一されている。

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写真(3) 灘区篠原南町
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写真(4) 灘区篠原南町
 写真(3)は灘区篠原南町における震災後の3階建住宅群である。 前面道路はおおむね7m。 それぞれ個別に建てられたものではあるが、 壁面線、 高さ、 屋根の形状などある程度そろっている。

 写真(4)は灘区篠原南町における震災後の3階建住宅群である。 前面道路幅員はおおむね8m。 この辺りの敷地は、 南部地域に比べれば、 やや間口が大きい。

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写真(5) 灘区楠丘町
 写真(5)は被災のほとんど無かった灘区楠丘町の2階建主体の住宅群である。 前面道路幅員はおおむね6m。 住宅専用地域であり、 前面の塀、 植裁などで建物本体は道路境界よりさらに奥まって建つ。


■都市景観として捉える

 一般的に、 個々の建物の壁面線、 高さ、 デザインなどがあまりにバラバラだと、 全体の景観としては雑然とした印象を受ける。 これは比較的共通した形態パターンを持ちやすい住宅についてもやはり当てはまると言えよう。

 しかし一方で、 建売連続住宅に見るように、 ほぼ総ての要素が揃っていたとしても、 必ずしも良い景観とは感じられない。 篠原南町に見る「統一感とリズム感のバランス」と言えるようなものが望ましいかもしれない。

 もうひとつ、 都市景観を考える視点として重要視されている前面道路幅員と建物高さの関係(いわゆるD/H)について見ると、 D/H=1を境にその値が大きくなれば開放感が高まり、 小さくなれば閉鎖感が強まるという一般論がここでも当てはまるように思う。

 具体的には幅員6m程度の道路に面して3階建住宅が建ち並んだ場合(写真(1)(2))はかなりの建て詰まり感があるのに比べ、 道路幅員が8m程度に広がれば(写真(4))、 むしろ空疎な感じが無くなる。 ただし、 写真(1)(2)(3)では受ける圧迫感に相当な開きがあり、 建て方の違いによる影響も大きい。 また、 写真(5)のような住宅専用地域の景観と市街地住宅景観では求めるものも変わってこよう。

 今後は、 これまであまり見慣れてなかった3階建住宅が連続する市街地住宅地の景観を、 都市景観としてどう捉えるのかを考えていく必要があろう。


 

代貸焼山昇二
家族の絆に支えられた戦い

連載【野田十勇士】その3

まちづくり会社コー・プラン 小林郁雄

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焼山さんとお母さん/991213
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野田北部地区の建物被災状況表
 1) 代貸焼山昇二は、 野田北部の復興まちづくりの最も先鋭であった。 震災以後まさに寝食を共にした父であり兄である浅山会長を支え、 1996年6月26日「焼山さん夫婦を励ます会」でまち協役員を勇退するまでの1年半、 野田北部地区復旧復興への毎日であった。

 倒壊家屋からの救出、 入院患者の移送、 住民の安否確認、 遺体の搬送、 火災からの避難、 中学校避難所への誘導、 行方不明者死亡者の確認作業、 救援物資の避難所への配送など、 段ボール箱を切り開いて書いた「復興対策本部」の看板をつけ、 鷹取駅前に止めたライトバンでの震災直後3日間の活動である。

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野田北部まちづくり協議会復興対策本部名簿
 海運町4丁目の国道2号に面した野田北部集会所に1月19日夜復興対策本部を本格的に開設し、 7月18日駅前の浪松老人憩いの家に移転するまでの半年間、 全焼壊滅した海運町2・3丁目、 70〜80%とほとんどが倒壊した本庄町、 他に比べて被害が少ないといっても約半数の建物が全壊している長楽町、 駅前線東のこの9カ町を中心としたまちの復興への戦いが開始された。  
 2) 〈地区1200世帯の避難先確認・住所作成、 仮移転調査、 倒壊家屋調査、 補修家屋調査、 土地権利調査、 借地借家権調査、 住宅意識調査、 商店街復興意向調査、 復興まちづくりニュース発行〉に始まり、 塚原成幸さん率いる長野大学災害支援ボランティア、 早稲田大学佐藤研究室の復興フロンティアなどの熱い協力を得て、 〈仮設住宅調査、 区画整理事業各種説明会・議事録作成、 受皿住宅調査、 地区計画等に関する勉強会・議事録作成、 建替説明会等に関する資料作成、 共同・協調住宅等に関する資料作成〉へと続いていく。

 とりわけ焼山さんたちがまず苦労したのは、 解体撤去であった。 特に焼失した海運町の自衛隊による瓦礫処理であり、 「基礎部分を残し境界線を是非残して欲しい」「記念となる品を掘り出して欲しい」という2つの要望をし、 連日100人体制での3月18日から4月13日までの1カ月間の撤去作業は、 それに良く答えてくれたという。

 次の段階での大課題は、 鷹取東第一地区土地区画整理事業への地元対応であり、 区画整理に負けない隣接地区の街なみ環境整備であった。

 3) こうした野田北部地区復旧復興へのまちづくりの戦いに彼を駆り立てたのは何か?
 「母は腰骨を2か所骨折しておりました。 家族全員助かったのが不思議なくらいです。 着の身着のままで大国公園へ避難しましたが、 そこで母から思いもかけない言葉を耳にしたのです。

 『昇二、 野田北部の為に頑張れ!』 私の心はその時、 一つに決まりました。 復興できるまで頑張ろうと・・・」と、 焼山さんは記している(だから、 今回の顔写真はお母さんと一緒なのだ)。 その『野田北部の記憶(震災後3年のあゆみ)』(1999年3月、 野田北部まちづくり協議会刊)に、 奥さんの範子さんの寄稿pp41〜43を含め、 pp46、 59〜60、 68、 69と焼山さんの記録が続く。 いかに重要な役割を担って、 まちづくり協議会復興対策本部渉外部長として活躍していたかは、 その一事でわかる。

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紅梅軒は地震では倒れなかったが焼失した/950117
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焼山さん夫婦を励ます会/960626
 4) 長田区海運町3丁目のうどん屋紅梅軒2階の住居で被災し、 母は姫路、 子供達姉弟は垂水、 本人は野田北部集会所で会長と寝泊まりし、 妻は毎日転々という2カ月余の別離生活。 散髪屋の林さんが申し込んでくれた姫路市御着の雇用促進住宅に、 3月末ようやく家族一同同じ屋根の下で住むことができるようになった。 浅山会長も4月〜10月に同じ住宅に入居して、 共にJR鷹取まで通った。

 2年半後1997年9月に引っ越し、 今、 焼山さんは姫路市別所にある小さく少し古いが庭つき戸建住宅に、 家族5人犬1匹オオクワガタ262匹と住んでいる。

 1948年宍粟郡一宮町に生まれたが、 幼くして母と別離し、 12歳の時神戸市長田区で再会する。 この原稿を書くためにJR曽根駅で会って焼山邸で酒を酌み交わし鴨鍋を御馳走になりながら、 箸を止めて伺った話の半分以上はその波瀾万丈の少年時代。 これはもう、 焼山さんに本を書いてもらう他ない。 ついでに、 師匠小野ちゃんゆずりのオオクワガタ262匹の飼育や錦鯉などもまた、 ここで触れる余裕はない。

 5) 千歳小、 太田中を出てから元町のレストランで1年修行し、 その後は病気がちの義父と母の看病をしながら、 紅梅軒を切り盛り30年やってきての震災であった。

 たまたま1階奥で寝ていて、 放りあげられるような揺れで腰骨を骨折した母のウメノさんは、 大国公園→鷹取中→神戸元町の病院からやっと3日目に姫路の病院に入院でき、 3月退院後は姫路の親戚で1月余り世話になり、 今はもうすっかり元気、 念願の庭いじりに鉢植に精を出す毎日。 高校生だった姉のさやかさんはもう二十歳、 姫路のジーンズショップで働いている。 小学4年だった弟の茂明君は中学3年。 奥さんの範子さんは姫路の老舗呉服屋さんに通い、 昇二さんも姫路バイパス(日本道路サービス)での変則的な勤務時間帯に慣れないままだが、 元気にやっている。

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左から昇二さん、 茂明くん、 範子さん、 さやかさん、 前がウメノさん、 姫路の自宅で/991213
 淋しかった少年時代を思いかえせば、 こうして家族一緒に住めることが、 何よりの幸せである。 あの生活苦しい1年半の間、 何ひとつ不平不満を言わずに野田北部まちづくりに専念させてくれた家族の絆に、 今なお尽きせぬ感謝をしている。 と、 しみじみ焼山さんは語り、 「幸せの尺度は自分で測るものだ」と、 つぶやくのであった。


情報コーナー

 

■ 阪神白地まちづくり支援ネットワーク/第11回連絡会記録
〜(震災復興)土地区画整理事業と(住民参加)まちづくり〜

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シューズギャラリー見学工場のイメージ
 復興土地区画整理事業区域では、 多様な市民まちづくりの取り組みが行われていますが、 今回は次の3地区からの報告が行われました。 (1)築地地区(尼崎市)/山口憲二さん(まち計画山口研究室)から、 復興区画整理地区で唯一行われている住宅地区改良事業との合併施行に関する内容についての報告がありました。 (2)中央地区(芦屋市)/吉川健一郎さん(コー・プラン)から、 ワークショップによる空地緑化の取り組みなどについての報告がありました。(3)新長田駅北地区・東部(神戸市)/久保光弘さん(久保都市計画事務所)から、 「シューズギャラリー構想」「アジアギャラリー構想」「いえなみ基準」といった産業復興や地区の特徴づくりをめざした取り組みについての報告がありました。


情報コーナー

●阪神・淡路大震災 5周年記念シンポジウムin神戸
「震災復興の総括・検証」あの日から5年

●第2回こうべi(あい)ウォーク

●阪神・淡路大震災 5周年記念事業総合フォーラム
長寿社会シンポジウム

●Memorial Conference in Kobe

〈震災検証会議関連行事〉

●震災検証会議開幕記念フォーラム
「絆を求めて−阪神・トルコ・台湾から−」

●震災対策国際総合検証報告会

●震災対策国際総合シンポジウム
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