忘災?そして防災?!防災&都市づくり計画室 吉川 仁 |
阪神・淡路大震災とその後の年月は、 本当にこれからの都市に大事なものは何かをはっきりさせ、 それをガレキに花を咲せるように少しづつ動かせることも理解させてくれたような気がする。 その意味でも「きんもくせい」の役割は大きいものがある。 最近、 二、 三、 気になっていること書かせていただく。
このことは個人的には日々考えながら過ごしているが、 震災後5年もたつと気になることもある。 東京でも震災後、 防災都市づくりや復興の機運が急激に盛り上がったが、 今になると財源など理由を付けて力が抜けてきている。 全国でも、 地域防災計画をちょっと変えた程度が多いだろう。 結果、 みんなが気が付かないふりをしているけれども、 現実はなんら変わっていない。
防災だけではない。 高齢化や弱者のこと、 地域の活力低下や更新停滞、 施設や建物の老朽化、 共同住宅建替、 公共ストックの薄さ、 自然を無視した都市環境、 多エネルギー消費など様々な問題が顕在化した。 今、 それらはなかったことにという意識が蔓延しているような気がする。
被災地ではそうでないことを願うけれども、 行政やプランナーがあまりにも災害を知らない気がする。 防災というものをどう扱うか(何百年に一回だから考えなくてよいという問題ではない)、 どういう状況でどんな条件で被害がでるか、 それを起こさない対策をどう組み合わせるか(1つだけでは防災にならない)等々技術論に陥るのでなく基本的なことも考えてほしいと願っている。
各地のマスタープランでは、 都市防災は部門別計画とされていることが多い。 しかし、 防災で都市づくりという発想よりも、 「防災」は計画評価に使うべきだと考えている。 ある計画を展開した結果、 どのくらいの災害リスクになるかを明らかにし、 ソフト対策や今後の課題を進める、 結果として高い災害リスクを選択する都市づくりもありかなと思っている。 もう少し、 震災が与えてくれた宿題を考え続けるつもりである。
新長田駅北地区(東部)土地区画整理事業(8)注久保都市計画事務所 久保 光弘 |
図8−1 震災復興区画整理事業新長田駅北地区(東部)の共同建替え事業(完成又は着工済) |
通常、 共同建替は、 底地地権者どうしの事業であり、 対象敷地以外の地権者が参加するものでない。 その点、 区画整理事業と連動して共同建替を行えば、 事業区域内において共同建替希望する地権者がすべて参加することができる。 これは区画整理のメリットの一つである。
・ 多くの事業制度と同様に区画整理事業も現実の事業として活用される中で新しい運用が生まれ、 それが制度として更新されたり、 新しいバリエーションの制度をつくることを重ねてきた。
そのことを考えれば、 手法としての区画整理事業は、 まちづくりのビジョンに対して新しい可能性を今でも有している有効なツールであるとみることができる。
・ しかし、 区画整理事業は、 地権者の権利を扱う換地操作を伴う事業であることから、 行政の能力に負うところが大きい。 その点神戸市は、 多くの先駆的事業をこれまでに手掛けてきている。 「区画整理と連動した共同化」に類する事例についてみれば、 既に昭和40年代後半から住民参加方式により、 西区池上地区、 北別府地区、 岩岡地区において地権者の土地利用意向に基づき、 「共同住宅区」「集合農地区」といった土地利用計画を事業計画に反映させた新市街地区画整理事業を行い、 「特定土地区画整理事業制度」の先駆けをつくっている。
また、 それと近い時期に西農協が関わった西区玉津農住団地においては、 区画整理により短冊換地を行い、 かつ地権者間に相互の借地契約を結ぶ形で共同住宅の建設を実現している。
このような行政の技術的蓄積があってこそと思うが、 神戸市は、 当初より区画整理と連動した共同建替について積極的な支援の姿勢をもっていた。
図8−2 共同建替のプロセス | 図8−3(a) まちづくり提案(共同建替適地等)の推移 新長田駅北地区(東部)まちづくり提案図(平成8年9月現在) | 図8−3(b) まちづくり提案(共同建替適地等)の推移 新長田駅北地区(東部)まちづくり提案図(平成11年11月現在) |
・ 以下当地区において土地区画整理と連動した共同建替がどのように進んでいったのか、 ここではそのプロセスを4つの段階に分けて整理しておきたい
・ 当初、 区画整理の観念的是非論、 目の前の現実問題、 復旧問題に終始し錯綜した状態であったのは、 いずれの地区も同じであっただろう。 この混迷からできるだけ早く抜けるのは、 区画整理事業はあくまでも「手段」であり、 まず復興の「目的」を明らかにするべきということ。 区画整理が是か非かは、 「目的」に適うか適わないかで具体的に判断すれば良い。
そのような中で「まず取り組まなければならないのは、 住宅の再建から」という声が強くなってきた。 これは、 産業経営者の中からも聞かれた。
区画整理は、 照応の原則から原位置に近い換地が原則であるが、 それも踏まえたうえで「土地利用適地」は、 地権者の意向と行政の換地操作上の条件が適合した場合等、 できるだけ土地利用計画上の考慮をお互いにしようという「住民どうしによる柔やかなルール」である。
これは、 区画整理事業にあたって神戸市が相当大きな面積の用地買収を行うことや、 まちづくり協議会という住民合意システムが前提となって、 その可能性が考えられた。
「土地利用適地」の典型が「共同建替適地」である。
・ 同時に換地は、 「原則、 みんな(すべての地権者)は動くもの」であるというPRが行われた。
これによって「共同建替適地」は、 各協議会とも日照、 景観を配慮して、 街区の北側、 幹線道路沿い等計画的配置が可能となった。
これによって、 各まちづくり提案単位毎に共同建替適地を含む土地利用適地を設定し、 換地の目安も考慮して生活道路、 児童公園の配置が定められた。
なお共同建替適地の標準は、 各提案単位とも、 環境形成、 事業条件、 事業の可能性等を想定し、 当初、 仮に1ヶ所1,500m2が目安とされた。
その過程で「共同建替適地」の概念は、 地権者に認識されていった。
共同建替適地にまず仮換地される地権者が確定されなければ、 その他の個別仮換地が進まないということもあって、 各協議会で熱心な取り組みが行われた。
・ また共同建替に対する支援体勢として、 当初(Step1)の段階から、 共同建替等について三好庸隆氏(PPI)、 貴志義昭氏(RIA)に参画してもらっていたが、 この共同建替勉強会を機に数社の共同化支援コンサルタントが参加した。 各協議会とも日曜毎に連続して5回程度の共同建替勉強会が行われている。
水笠通3丁目まちづくり協議会での勉強会を例にとれば、 第1回「共同化の効果と生活再建」、 第2回「共同ビルに入るには」、 第3回「共同建物の費用について」、 第4回「移転等色々な費用はどうなるのか」、 第5回「共同ビルでの生活と今後の進め方」となっている。
この共同建替勉強会を通じて共同建替参加者の募集を始めている。
・ また共同建替勉強会と併行して、 全住民・地権者を対象に「個別・協調建替勉強会」を神戸復興住宅メッセの協力を得て行われた。 この両方の勉強会に参加していた人も多く、 このことによって住宅再建に対する総合的な理解に役立ったのではないかと思う。
・ 共同建替勉強会等でうかがわれた参加意向者状況やアンケート調査等によって、 各協議会において、 おおむね1,000m2以上の共同建替参加者地積が確保できるかどうかを目安に共同建替事業の可能性が各協議会で検討された。
・ 一方、 共同建替事業を推進すると決めた協議会は、 他協議会からの参加者も含め、 できるだけ多くの共同建替適地を確保するため活動されている。
・ この過程で、 工業地域にある細田神楽地区では、 工業地区として共同住宅等の容積率が押さえられていた地区計画の一部改正を提案するとともに、 共同建替適地をよりJR駅に近い位置に変更する等をしている。
また、 全域近隣公園に都市計画決定した水二協議会は、 近隣公園と共存できる共同建替を進めようと勉強会や共同建替参加者の募集が行われてきたが、 結局隣接する水笠通3丁目協議会と一緒に水笠通3丁目共同建替事業を推進することになった。
共同建替参加希望者は、 色々な事情による迷い、 詳細に詰めた段階での問題の発生、 参加希望者が借地権者である場合の地主との調整の難しさ等、 共同建替参加者の状況は流動的に変化する。
共同建替参加者の意思決定ができる条件を整え、 共同建替事業をまとまった規模としてまとめ上げるには、 共同化支援コンサルタントの実力と努力によるところが大きい。
・ 松野通1丁目共同建替は、 他地区と同様に共同建替準備会は順調に推移していたが、 この段階以降共同化支援コンサルタントとしての機能が著しく低下した。 この原因は、 その共同化支援コンサルタント会社の経営破綻によるものとわかり、 他の共同化支援コンサルタント(環境整備センター)と交替した。
環境整備センターの懸命なフォローアップにより、 実現の見通しができてきたものの大幅に規模は縮小した。
特に区画整理区域の共同建替は、 共同建替参加者のみならず、 区画整理全体の進捗への影響を与えるだけに、 我々コンサルタントの責任は大きい。
・ デベロッパーは、 比較的着工が早い又は駅に近い共同建替は民間、 着工が比較的遅い又は駅から離れた共同建替は、 神戸市住宅供給公社となっている。
この調整にあたっては、 共同建替組合だけでなく、 まちづくり協議会(特に会長)や行政もずい分努力した。
・ それぞれの共同建替祈願祭には共同建替組合のみならず、 まちぐるみで取り組んだ共同建替事業として、 まちづくり協議会から多くの方が参加している。 特に水笠通3丁目共同建替安全祈願祭は、 まちづくりイベント、 保留床販売イベントを同時に行い、 当日に販売戸数の半数の予約をとるという快挙が行われている。
混乱の多い緊急時では新しい制度ができても、 これまでの経験済手法で代替できるものであれば従来手法で対応し、 未体験な手法による問題の発生等危険性は避けた方が良い。 緊急時に必要な手法は、 日常時にこそ一般化し、 経験しておかなければならない。
・ 当地区の共同建替を通して、 被災市街地復興特別措置法「復興共同住宅区」についての所感は以下のとおり。
市民が支える市民の活動〜第2回こうべ i ウォークにむけて〜神戸復興塾 田村 太郎 |
あの日からまもなく5年です。
私事ですが、 当時私は23歳でした。 詳しいいきさつは省きますが、 1997年から「神戸復興塾」の事務局をお引き受けし、 ただいま28歳です。 震災救援・復興のなかから生まれた市民活動は、 中味で勝負で、 当時は年齢も性別も関係ありませんでしたが、 世間が日常へ回帰していくなかで、 若いことで「なめられてる」と感じることが多くなりました。 被災地でうまれたさまざまな市民活動を自分の未熟さとダブらせるのは失礼かもしれませんが、 ここ数年、 行政とのパートナーシップ論はなかなか深まらないし、 企業の社会貢献も下火です。 最近とくに、 市民活動が行政や企業から「なめられてる」と感じる場面に、 何度も遭遇します。
私個人の最近の経験から、 それは自分が未熟だからであって、 成長のためのハードルであると、 気がつきました。 資金面での困難や、 被災地発の大きなうねりを生み出せないもどかしさなど、 被災地に広がる市民活動が抱える課題もまた、 次へのステップのためのハードルなのかもしれません。 解決策を他に委ねてばかりいるのではなく、 自分自身で道を切り開いていかねばなりません。
行政とのパートナーシップを考えるとき、 財源もオルタナティブをもっていることの重要さを感じます。 「神戸復興塾」がサンフランシスコのNPOを視察し、 その底力に驚嘆したのが1998年夏。 市民の手によるチャリティーイベント「エイズウォーク」が1日で3億円集めるのには、 とりわけびっくりしました。 地に足つけた活動をしていれば、 金はあとからついてくる、 財団や行政が助成金をくれる、 といった発想ではなく、 市民活動に必要な金は市民で集めるという発想。 これは神戸に必要な考えだと、 見よう見まねで取り組んだのが、 「第1回こうべ i ウォーク」でした。
主催者の予想はさておき、 「成功しまい」というあらかたの予想には反して、 当日は3000人を越える参加者と250万円の寄付が集まりました。 また、 同時期に準備を始め、 ウォークに集まった募金を全額託した市民のための市民の基金「しみん基金KOBE」も1999年11月に第1回の助成先を決定しました。 市民が支える市民の活動は、 やってみたら、 できました。 理念を描き、 実行し、 モデルをつくって全国に発信してゆく。 次の5年に向かって私たちが忘れてはならない視点だと思います。
2000年1月16日(日)午前10時〜午後1時、 「第2回こうべ i ウォーク」は第1回と同じく、 神戸市長田区の大国公園でスタート受け付けを行ないます。 今回、 真野地区と元町・三ノ宮商店街が新たにルートに加わり、 また久二塚の再開発や御蔵の共同再建など第1回ではまだ目にすることのなかったポイントも登場します。 ゴールは前回同様、 三宮・東遊園地です。 第1回に参加された方も初めての方も、 遠方の方も近隣の方も、 震災からこれまでいちども神戸へ足を運んだことのない人も常連さんも、 みなさんお誘い合わせのうえ、 奮ってご参加ください。
震災後、 被災市街地では3階建住宅が急激に増えた。 ある調査によれば、 その数は震災前の2倍に及ぶという。
市街地に建ち並んできた3階建住宅群を都市景観のなかで捉えてみると、 どのような変化が感じられるだろうか。 新たな兆しを見いだすことができるだろうか。
大国公園を出発(第1回iウォークの様子(99年1月17日))
FMわぃわぃが実況中継(第1回iウォークの様子(99年1月17日))
コース案内役のボランティア(第1回iウォークの様子(99年1月17日))
■こうべ i ウォークに関するお問い合わせ
「第2回こうべ i ウォーク実行委員会」事務局
神戸復興塾内 TEL: 078-326-7887 FAX: 078-326-7890
新しい町並みの兆しを発見する
「都市景観としての3階建住宅」神戸市 浜田有司
■3階建住宅の建ち並ぶ景観
写真(1) 灘区友田町 |
写真(2) 灘区桜口町 |
写真(2)は灘区桜口町における建て売りの3階建住宅群である。 前面道路幅員はおおむね6m。 細部に違いはあるものの、 壁面線、 高さ、 デザインはほぼ統一されている。
写真(3) 灘区篠原南町 |
写真(4) 灘区篠原南町 |
写真(4)は灘区篠原南町における震災後の3階建住宅群である。 前面道路幅員はおおむね8m。 この辺りの敷地は、 南部地域に比べれば、 やや間口が大きい。
写真(5) 灘区楠丘町 |
しかし一方で、 建売連続住宅に見るように、 ほぼ総ての要素が揃っていたとしても、 必ずしも良い景観とは感じられない。 篠原南町に見る「統一感とリズム感のバランス」と言えるようなものが望ましいかもしれない。
もうひとつ、 都市景観を考える視点として重要視されている前面道路幅員と建物高さの関係(いわゆるD/H)について見ると、 D/H=1を境にその値が大きくなれば開放感が高まり、 小さくなれば閉鎖感が強まるという一般論がここでも当てはまるように思う。
具体的には幅員6m程度の道路に面して3階建住宅が建ち並んだ場合(写真(1)(2))はかなりの建て詰まり感があるのに比べ、 道路幅員が8m程度に広がれば(写真(4))、 むしろ空疎な感じが無くなる。 ただし、 写真(1)(2)(3)では受ける圧迫感に相当な開きがあり、 建て方の違いによる影響も大きい。 また、 写真(5)のような住宅専用地域の景観と市街地住宅景観では求めるものも変わってこよう。
今後は、 これまであまり見慣れてなかった3階建住宅が連続する市街地住宅地の景観を、 都市景観としてどう捉えるのかを考えていく必要があろう。
代貸焼山昇二
家族の絆に支えられた戦い連載【野田十勇士】その3
まちづくり会社コー・プラン 小林郁雄
焼山さんとお母さん/991213 |
野田北部地区の建物被災状況表 |
倒壊家屋からの救出、 入院患者の移送、 住民の安否確認、 遺体の搬送、 火災からの避難、 中学校避難所への誘導、 行方不明者死亡者の確認作業、 救援物資の避難所への配送など、 段ボール箱を切り開いて書いた「復興対策本部」の看板をつけ、 鷹取駅前に止めたライトバンでの震災直後3日間の活動である。
野田北部まちづくり協議会復興対策本部名簿 |
とりわけ焼山さんたちがまず苦労したのは、 解体撤去であった。 特に焼失した海運町の自衛隊による瓦礫処理であり、 「基礎部分を残し境界線を是非残して欲しい」「記念となる品を掘り出して欲しい」という2つの要望をし、 連日100人体制での3月18日から4月13日までの1カ月間の撤去作業は、 それに良く答えてくれたという。
次の段階での大課題は、 鷹取東第一地区土地区画整理事業への地元対応であり、 区画整理に負けない隣接地区の街なみ環境整備であった。
3) こうした野田北部地区復旧復興へのまちづくりの戦いに彼を駆り立てたのは何か?
「母は腰骨を2か所骨折しておりました。 家族全員助かったのが不思議なくらいです。 着の身着のままで大国公園へ避難しましたが、 そこで母から思いもかけない言葉を耳にしたのです。
『昇二、 野田北部の為に頑張れ!』 私の心はその時、 一つに決まりました。 復興できるまで頑張ろうと・・・」と、 焼山さんは記している(だから、 今回の顔写真はお母さんと一緒なのだ)。 その『野田北部の記憶(震災後3年のあゆみ)』(1999年3月、 野田北部まちづくり協議会刊)に、 奥さんの範子さんの寄稿pp41〜43を含め、 pp46、 59〜60、 68、 69と焼山さんの記録が続く。 いかに重要な役割を担って、 まちづくり協議会復興対策本部渉外部長として活躍していたかは、 その一事でわかる。
紅梅軒は地震では倒れなかったが焼失した/950117 |
焼山さん夫婦を励ます会/960626 |
2年半後1997年9月に引っ越し、 今、 焼山さんは姫路市別所にある小さく少し古いが庭つき戸建住宅に、 家族5人犬1匹オオクワガタ262匹と住んでいる。
1948年宍粟郡一宮町に生まれたが、 幼くして母と別離し、 12歳の時神戸市長田区で再会する。 この原稿を書くためにJR曽根駅で会って焼山邸で酒を酌み交わし鴨鍋を御馳走になりながら、 箸を止めて伺った話の半分以上はその波瀾万丈の少年時代。 これはもう、 焼山さんに本を書いてもらう他ない。 ついでに、 師匠小野ちゃんゆずりのオオクワガタ262匹の飼育や錦鯉などもまた、 ここで触れる余裕はない。
5) 千歳小、 太田中を出てから元町のレストランで1年修行し、 その後は病気がちの義父と母の看病をしながら、 紅梅軒を切り盛り30年やってきての震災であった。
たまたま1階奥で寝ていて、 放りあげられるような揺れで腰骨を骨折した母のウメノさんは、 大国公園→鷹取中→神戸元町の病院からやっと3日目に姫路の病院に入院でき、 3月退院後は姫路の親戚で1月余り世話になり、 今はもうすっかり元気、 念願の庭いじりに鉢植に精を出す毎日。 高校生だった姉のさやかさんはもう二十歳、 姫路のジーンズショップで働いている。 小学4年だった弟の茂明君は中学3年。 奥さんの範子さんは姫路の老舗呉服屋さんに通い、 昇二さんも姫路バイパス(日本道路サービス)での変則的な勤務時間帯に慣れないままだが、 元気にやっている。
左から昇二さん、 茂明くん、 範子さん、 さやかさん、 前がウメノさん、 姫路の自宅で/991213 |
情報コーナー
■ 阪神白地まちづくり支援ネットワーク/第11回連絡会記録
〜(震災復興)土地区画整理事業と(住民参加)まちづくり〜
シューズギャラリー見学工場のイメージ |
■ 阪神大震災復興 市民まちづくり支援ネットワーク 事務局
〒657-0024 神戸市灘区楠丘町2-5-20 まちづくり(株)コー・プラン内
TEL.078-842-2311 FAX.078-842-2203 E-mail:mican@ca.mbn.or.jp
担当:天川佳美、 中井 豊、 吉川健一郎
●「きんもくせい英語版」のインターネットアドレス:
◆ http://www.hyogo-iic.ne.jp/~INS93031/