きんもくせい50+10号
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草地賢一追悼文
ありがとう・さようなら

アート・エイド・神戸実行委員会事務局長 島田 誠

 草地さんが突然、 逝ってしまった。

 私の一つ上の兄貴分であり、 ちょっと待ってよと呼びかけたい哀切の念は深まるばかりである。

 草地さんとのお出会いは震災直後に計画された岩波新書「神戸発・阪神大震災以後」の共著者としてまだ粉塵舞い散る中を海文堂に来ていただいて以来である。 草地さんは「阪神大震災地元NGO救援連絡会議」を立ち上げ、 わたしは「アート・エイド・神戸」を立ちあげていた。

 NGOの事務所が栄町通4丁目の毎日新聞社の3階に置かれていて海文堂とは至近であり、 さらには震災半年後に始まった兵庫県の被災者復興支援会議のメンバーとして3年半の間、 数限りない場を共にさせていただいた。

 震災前までは私は文化のフィールドでのみ発言をしてきたが、 以後は否応なしに様々な市民活動と関わり沢山のことを学ばせてもらった。 草地さんが繰り返し言っていた「(官から)いわれなくともやる、 いわれてもしない」というボランティアの立場は、 私が1993年に自分の著書で自らに命名した「蝙蝠(こうもり)」の立場と似通っており、 毅然として選び取る「中間」の存在に自信を与えてくれた。

 草地さんが奇しくも岩波新書で被災地から帰っていくボランティアの人々に贈る言葉として書いておられる言葉が、 今、 残された私達への遺言でもある。

 自分のコミュニティーのなかに、 市民参画型、 市民提案型の草の根民主主義を拡大してほしい。 そのためにはボランティアが、 チャリティー(慈善)にとどまることなく、 ジャスティス(公正)の実現のためになってほしい。 コミュニティー形成、 つまり市民社会の創造や開発を、 ボランテタリズム(異議申し立て、 主権在民)をベースに実現していくことを共に実践したい。

 キリスト者としての微動だにしない信念と、 フィールドワーカーとしての並外れた粘り強さと活動力、 それに草地さんにとって念願であった兵庫県立姫路工業大学教授としてのボランティア学の体系化が加わり、 最強のリーダーたり得た氏を喪ったことは痛恨の極みだ。

 しかし私が神戸における文化分野の先駆者、 佐本進氏(前シアター・ポシェット館長)のご葬儀で誓い、 その後の私を律してきたように、 震災5周年を直前に非業の“戦死”を遂げられた草地さんの信念を受け継ぐものとして、 私達ひとりひとりが“戦士”として時代に立ち向かわねばならない。 氏が生き急がざるを得なかったように社会の改革も急務なのだ。

 私が昨年末に出した3冊目の著書の「あとがき」に「毅然と選びとるインターミディアリー」としての「蝙蝠同盟の結成」を書いた。 草地さんの教えである。 ご冥福をお祈りします。

2000年1月9日

 

長田中央市場の再生ものがたり
時流に流されない対面販売で再生

石東・都市環境研究室 石東 直子

 長田神社の参道に並ぶ長田商店街にある長田中央市場が1999年の春、 再生しました。 わたしは長田小学校卒業で、 級友の多くが長田商店街やこの市場にいて、 放課後よく遊びに行った幼き日の思いでの場所です。 市場の再生ものがたりを、 長田中央小売市場協同組合の代表理事と副理事に伺いました。


◆震災が再開発を加速した
−キャラバン隊で郊外の仮設住宅町へ

 長田中央市場は敗戦後の闇市から「長田更生市場」として始まり、 その後「長田中央小売市場」と名を変え、 1955年〜1965年代(昭和30〜40年代)には全盛を迎えました。 しかし、 その後は大型店の出店や周辺商店街が近代化を進める中、 市場は衰退の傾向にあり、 1988年に商業近代化委員会を発足させ再開発を目指してきました。 94年12月に長田中央小売市場協同組合を設立したばかりの95年1月に、 阪神・淡路大震災によって市場は全壊し、 再開発の動きに加速がつきました。

 被災時、 組合員は88人おり、 市場は全壊しましたが火災にあわなかったので、 倒壊建物の下敷きにならなかった冷蔵庫の商品は助かりました。 その冷蔵庫の中から商品を運びだして、 組合に提供してもらい、 近くの公園で炊き出しをしました。 今まで買い物にきてくれていた地域の人たちへのお返しの気持ちです。 95年1月末、 近くで仮設店舗を建て、 2月13日にオープンしました。 仮設店舗での営業は88名の組合員のうち53名が参加し、 協同仕入れ協同販売にして給料制にしました。 当初は避難所からの来客も多く、 96年2月からはしあわせの村をはじめとする郊外の仮設住宅町へキャラバン隊として移動市場に出かけました。 車2台に何から何まで積んで、 4人グループで出かけ、 一日に20万円程の売上があって、 とくに新鮮なお刺し身は好評でした。 よう繁盛しお客の列ができ、 4人では目が届かず、 商品の盗難も多かったです。 「あの人いつもお金はらわんともって行きようで」と教えてくれる人がいて気がつきました。

 97年に入って、 協同経営の仮設店舗は次第に売上げが落ちてきました。 さらに協同経営で平等な給料制でしたが、 よく働く人とそうでない人との不満などがではじめ、 97年8月に倒産にして解散しました。 その後1カ月は無給で営業し、 それからはブロック別営業を始めました。 7つのブロックに分けて、 業種別に会社にしたり個人店にしたりと、 それぞれ自由な営業形態で商売を続けてきました。


◆再生事業の経緯

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長田中央市場の全景 市場入口 空店舗対策としてイベント業者に貸している(今日は包丁研ぎ屋さん)
 

 55年(昭和30年)ごろから改善会を発足させ、 その時々の情勢により、 月々に1万円とか、 2万円とか、 5000円とかを積み立ててきたので、 戸当たりおおよそ900万円ほど貯まっていましたが、 震災で自宅が倒壊した人もあり自宅修繕費が必要となって、 その積立金を使うことになったので、 市場再建の資金は残っていませんでした。

 市場再建については、 震災の年の秋に85人の組合員が参加して復興委員会を設立して準備を開始しました。 96年11月に組合員に市場再建に参加するか否かの意見を聞き、 参加者は50万円の参加意思決定料を振り込むことになり、 35人が参加を申し込みをしました(後に4人が脱会しました)。

 再建計画のコーディネーターは(株)環境再開発研究所(白國高弘所長)が担当し、 デベロッパーにカサベラインターナショナル(株)がなり、 等価交換方式で事業を進めることにし、 97年1月に優良建築物等整備事業の採択、 97年8月に中小企業高度化事業の認定を受けましたが、 その後予想外のことがあって竣工までに時間がかかりました。 まず従前の土地が河川敷だったので、 土地の払い下げのための手続きに時間を要しましたが、 神戸市から4億円で払い下げをしてもらいました。 阪神銀行と神戸信用銀行が無担保で、 連帯保証人だけで資金を貸してくれたのはありがたいことでした。 また当時は復興建設のラッシュで建設会社の調整がなかなかつかなかったり、 工事を始めると文化財がでてきたので調査をしたりで、 着工は97年10月ですが、 竣工は1年半遅れて99年3月になりました。 ここより1年前に北寄りにある食遊館がオープンし、 客足がそちらに向いてしまったようで、 竣工の遅れは今も痛手を感じています。

 再生建物は地上10階建てで、 1階が市場で2階は市場の事務所と倉庫に加えて歯医者さんの開業、 3階から上が79戸の共同住宅です。 共同住宅は58戸は分譲住宅で、 21戸は神戸市の民間借り上げ賃貸住宅です。 市場の営業形態は昔ながらの対面販売とし、 店舗区画数は31区画で2区画が空店舗のままオープンし、 29店の営業で現在に至っていますが、 1店が近く閉店します。 なお、 29店のうち2店は外から参加した人です。

 震災時88人いた店主のうち27店主が再生した市場で商売を再開しました。 その他の人は10人ぐらいは別の場所で商売をしているそうですが、 約50人がリタイアしました。 高齢のため商売を諦めた人もいますが、 無利子の高度化資金を借りても返済が難しいということで諦めざるをえなかった人も少なくないです。 当初、 コンサルタントは組合員の50人ぐらいが再建市場に入るだろうということで中小企業高度化事業の申請をしてくれましたが、 そのヒヤリングによって辞退者がでました。 高度化資金を受けるには、 高度化資金の返済金を除いて、 坪あたり3万円の経費が必要ということなので、 対応できない業種が諦めざるをえなくなりました。 例えば、 粗利の少ない受け売り業種(豆腐屋さんや日用雑貨店)などです。


◆昔ながらの対面販売方式の商売にこだわった訳

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店内風景1
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店内風景2/天井から“ちびっ子の絵”が展示
 再生市場の営業形態は時流のセルフ化にしないで、 昔ながらの対面販売方式です。 市場は昔のようにごったがえした方がええ、 お客の顔を見て声を聞いて商売したいという思いがありました。 市場のルールだけをきめて、 個人のプライバシーを大切にして商売をしたい、 売上をオープンにして、 お尻をたたきあって商売をしたくないと思う人が集まっています。 しかし一方、 セルフ化が難しい理由もありました。 ひとつは同一業者が多いということと、 人数(店数)が多いということです。 セルフ化はせいぜい10店ぐらいまでのようです。

 数軒先の長田公設市場はセルフ化して食遊館と名づけて、 ここより1年前にオープンしましたが、 客足は多く、 セルフ店の方が今流の客の好みのようです。 セルフ化に対抗するためには、 専門店ならではの特殊な商品をそろえなければなりません。 例えば、 現在は肉屋が3店ありますが近く1店が閉店するので、 震災前にあったようなホルモンなどの特殊な肉屋がほしいです。 お客さんからの要望もあるようです。 セルフ店に勝てるような勉強が必要なので、 これからの商売のやり方などの講座がほしいです。

 現在のいちばんの悩みは空店が2店あることです(近く3店になる)。 当面の空店対策として、 売上げの18%をもらってイベント業者に貸すことにしています。 今日も研ぎ屋さんが入っていますが、 店頭での商売ならOKとのことです。 今はやりの100円ショップの導入も検討したのですが、 売り場面積が狭いのでダメのようです。 また駄菓子屋がないので小さな子供連れの客を呼び寄せにくいです。


◆商売繁盛の状況は? 販売促進の方策は?

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店内風景3/ひと休みコーナーもある
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車イスのおばあちゃんも買い物を楽しむ
 3月のオープン時は2万人ぐらいの客が入り、 震災前の8〜9割の売上で順調でした。 しかしそれも8月ごろまでで、 9月に入ってからは下降線をたどっています。 現在は震災前の3〜4割減です。 その大きな原因は復興が戻りきっていないということと、 以前の客が遠くの災害公営住宅に移り住んだこと、 市場内の店舗数が少なくなったので、 売り出しをするにも共同経費の負担が大きくなったということなどがあります。 現在は月曜から土曜まで何かの売り出しをやっています。 例えば、 曜日毎に魚の日、 肉の日、 総菜の日、 青果の日を決めており、 木曜は全店1割引の日、 土曜日は三角くじの日で現金が当たります。 さらに初めての試みで女性理事をおき、 販売促進委員は知恵を絞っています。 市場を身近に感じてもらうようにと、 近くの幼稚園児に絵を描いてもらって市場内に展示して、 両親やおじいちゃんおばあちゃんに見にきてもらう「ちびっ子の絵の展示」を今やっています。 また、 チラシの効果は大きく、 夏は3万枚、 通常は1.7万枚を月に3回入れています。 しかし、 チラシを見なかったという人もいるので、 チラシが無駄にならないように配布の工夫もいりそうです。 (災害公営住宅では新聞を取っていない人も少なくないようですよ)。 北寄りの食遊館は週に2回のチラシを入れているようです。 もうすぐ初めての年末を迎えるので、 どのような仕入れをしたらいいものか迷っています。 震災後は客層の入れ替えもあるので、 買いやすいかどうかの調査を中小企業診断士に依頼し、 宮川町と池田町の婦人会に協力してもらうことにしています。 現在の店主の平均年齢は50歳半ばぐらいで、 代替わりした若い店主もいます。

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活用したい市場の外の川沿いプロムナード
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店舗配置図(うなぎの寝床のような店舗)
 市場の建築的な問題は、 使い勝手が悪いということです。 店内に大きな柱があり見通しが悪く(10階建の建物の1階のため柱は大きい)、 またひとつひとつの店の区画は、 川沿いの細長い敷地ということもあって、 間口はあるが奥行きがありません。 店舗配置もまずいと感じる点があります。 以前の位置と違うので、 昔からのお客さんに見つけてもらえないということもあります。 なお、 店舗配置は建設の話し合いの中で一番時間がかかりました。 コンサルタントが専門的な視点で決めました。 「店主たちの参加はできなかったの?」という問いに対しては、 店舗の位置は売上に影響するので、 組合員が決めると一生の問題になるので、 第三者に任さざるをえなかったと思うとのことです。 2階の共同倉庫は希望する店に1間幅ぐらいのロッカーを2,500円/月で貸し倉庫としています。

 震災後、 長田商店街と食遊館と長田中央市場との結び付きは強くなったので、 北側の新湊川にかかる長田橋の改修工事の完成を待って、 共同行事をやっていきたい(橋の工事完了は2001年ということです)。


◆わたしの希望と期待

 ウナギの寝床のように細長い店内は、 両側に小さな店が並んでいます。 奥に進むと少し膨らんでいて中ノ島のようにも店が位置しています。 裸の野菜やお魚が目に飛び込んできました。 店内は明るく清潔で、 「やぁー ままごとのようなお店や」というのがわたしの第一印象です。 天井からたくさんの「ちびっ子の絵」がぶらさがっており、 賑やかさを添えています。 なかなかのアイディアです。 お客の姿は多くないです。 まだ午後4時前なので夕餉の買い物にはちょっと早すぎたのでしょうか。 車椅子のおばあさんが店員さんとしゃべりながら品定めをしています。 奥にあるお好み焼き屋には3人のおばあちゃん客がはいっています。 八百屋、 お魚屋、 肉屋などは3〜4店づつあり、 お総菜屋、 コロッケ屋、 乾物屋、 漬もん屋、 お豆腐屋などは1〜2店あります。 和洋菓子店、 化粧品店、 衣料品店、 カメラ屋もあります。 「今晩 なにしよう....」と、 グルリと一回りする間に、 お店の人に声かけられて、 迷っていた夕食の献立が自然に決まってしまうような気がします。 若い店員さんも目につき、 おしゃれな、 気持ちのいい市場です。

 ここを出て、 ちょっと先のセルフ化して再生した食遊館をのぞきました。 お客は多いです。 店頭には新米が積まれて威勢のいい声をあげて客を呼び込んでいます。 「う〜ん!!」。

 近年の市場の近代化再建では多くがセルフ化になっています。 わたしたちは商品を自由に手に取り、 ひとりで迷いながら選んでカゴにいれて黙って買い物をするのに馴れてしまいました。 レジでの長い列にも黙って並び、 店に来てから出るまで、 ものを言わずに買い物するのが、 邪魔くさくなくていいという人が増えました。 コンビニや回転ずしに人気があるのもそういうことでしょうか。 買い物だけでなく、 家庭内も含めて日常生活の多くの場面で対話は少なくなっています。

 わたしの経験ではセルフサービスの店では自分の馴染みのものだけを買ってしまう傾向にあり、 新しい商品の発見や料理の創意が加わりにくいです。 セルフ店では買い物を楽しむというのではなく、 求める商品を早く見つけてサッサとお店からでてくるという買物スタイルです。 でも、 商品について尋ねたい時はちょっと不便です。 近くにいる店員さんに声をかけても、 自分の店の商品でない場合は、 さあーという頼りない返事がかえってきたりします。

 対面販売の市場は高齢化や小規模家族化社会に対応した店だと思います。 品物が必要な量だけ買えていいということだけでなく、 人と話をする機会が少ないひとり暮らしの高齢者たちには、 お店の人と話ができるのがうれしいと喜ばれています。 単身世帯が全世帯の1/3近くを占めるようになった都会では、 パックされた商品より、 にんじん1本、 トマトひとつ、 コロッケの揚げたてふたつと隣で高野豆腐とひじきの煮付けをちょっとづつという買い物ができればうれしいです。 お店の人と対話しながら、 おいしい食べ方、 保存の仕方を教われるのも対面販売ならです。 わたしは少しづつ販売方式がまた歓迎されるようにになると思っています。

 空店舗対策やお客を呼ぶためには新しい発想も必要です。 空店舗は小人数が向かい合ってなごやかに食事ができるようなミニ食堂にしてはどうでしょうか。 近くの高齢者たちが「今日はここでご飯を食べよう」と集まってくるようなコモンダイニングです。 市場で働く人たちのお昼や夕食もここでするような協同食堂にして、 各店から食材を出し合って、 労働力も出し合って協同で経営する。 ワーキングコレクティブです。 あるいは、 バンコクなどではやっているクーポン食堂もいいと思います。 市場の中で好きなものを買ってきて、 コモンダイニングで好き好きに食べます。 飲み物やおうどんなどの簡単な販売コーナーを付けます。 震災後の仮設店舗での協同経営の経験をお持ちですよね。 また、 夜は居酒屋にでもなればいいですね。 新しいものにちょっと挑戦したいという人もいると思います。 奥のお好み焼き屋には常連客がボチボチできたのではないでしょうか。

 それともうひとつ、 わたしの希望は、 近くにお店がなくて不便な生活をしている災害公営住宅にぜひキャラバン隊を復活させて移動市場にでかけてください。 日常生活店舗がなくて困っている災害公営住宅は少なくないです。

 最後の注文は、 「市場の入口をもっと派手に」ということです。 長田商店街に面した入口は人を引き込むには地味すぎる(上品すぎる)ようです。 店頭にはスペースがあるので、 昔の市場の面影を再現するもよし、 おしゃれな帆布のアーチを張り出すもよし、 すてきなガーデニングで人を立ち止まらせたり、 椅子とテーブルを置いてカフェテラス風でもいいでしょう。 さらに市場の北側の川沿いのプロムナードは朝市や夜店を開き、 楽しい出店ストリートに活用できそうです。 クリスマスセールと年末大売り出しに向けてがんばろう! お正月の長田神社の参拝客にも積極的にアピールしよう!なお、 市場の上階にある79戸の居住者には電話注文もOK、 配達もOKにしたりして、 とくに手厚いサービスをして逃がさんようにね!
 わたくしめのつたない希望や注文でごめんなさい。 2000年が長田中央市場にとっていい年でありますように!

(1999年11月末 記)


 

「ココライフ魚崎」
民間コレクティブハウスの誕生

遊空間工房 野崎 瑠美

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2000年1月10日の神戸新聞より
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外観(南東からのぞむ)
 「ココライフ魚崎」は震災5年目にようやく完成することが出来ました。 初めての民間コレクティブハウスとして注目され、 その住まい方と運営についての今後が期待されています。 ここに至るまでの長い道のりは多くの方の理解と協力の結集であったと、 改めて感謝しています。

 コレクティブハウスは、 震災後の高齢者の住まいの問題の解決のために、 既に復興公営住宅のなかで数カ所実現され、 居住者の孤立感を補う試みとして評価されています。 それぞれの人が自立して生活しながら、 共有空間をもってお互いに助け合って暮らすといった今までになかった居住形態はまだ日本人の感覚に慣れないために最初はとまどいがあるでしょうが、 これからの社会の特徴的な問題としての高齢化、 小子化、 女性の社会進出といった課題に対する解決策の一つであることは確かだろうと思います。

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1階平面図兼配置図
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断面図
 「ココライフ魚崎」は、 東灘区の住吉川の東岸、 全国的に有名な進学校、 灘高の南に位置し、 落ちついた昔からの住宅街の中に出来ました。 この地には震災前、 子供達が独立した後、 高齢のご夫妻が南欧風の洋館に愛着を持って長年住んでおられましたが、 5年前のあの大震災はこのご夫妻の人生を覆してしまったのです。 前の年に葺き替えたばかりの赤い洋瓦は1階を押しつぶし、 ご主人は梁の下敷きになって亡くなられ、 近所の人に助け出された奥様は、 灘高の体育館の遺体安置所で放心したまま、 ぼろ切れのようになって蹲っていたと聞いています。 その後、 この方は大阪の長女宅に同居され、 徐々に落ち着きを取り戻されましたが、 震災の傷が癒されるまでにはかなりの時間が必要でした。 神戸の住民は殆どの人が元の地域に戻りたいというのが願いです。 この方も時間の経過と共に、 次第に元の土地で暮らしたいという思いを強くされ、 一軒家ではなく、 安心出来る共同住宅を建てたいという相談を受けておりました。

 様々な計画を模索する中、 兵庫県の復興基金コレクティブハウジング建設基金の補助を受けて共有スペースを持つ高齢者用の共同住宅を建設すべく、 住都公団などの民賃制度を利用しての賃貸住宅用の事業プランを作成しましたが、 地主を安心させられるものではなく、 結局定期借地権付の分譲住宅の事業形態を取ることで了解を得ることができました。

 一方で、 「なかまと住まう研究会」は震災後97年から(社)長寿社会文化協会の助成を受け、 C.S.神戸(コミュニティサポートセンター神戸)がグループハウスの可能性を探って、 月例の研究会を開催。 オブザーバーとして出席したことから手水仮設(東灘区の手水公園に建設された地域型仮設)の住民と生活支援員の方との接点を持つようになりました。 仮設での絆を持ち続けたいという高齢者の願いをこの共同住宅の建設の中で実現することも、 もう一つの大きなファクターとして加わったのです。

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交流室
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2階共用テラス
 住宅地として普通の規模の80数坪の土地に、 採算性と建築基準法をクリアーし、 居住性の良い共同住宅を計画することはかなり厳しい課題でした。 また今までにない共有空間としての交流室、 グループハウス、 職員室などの建設費の負担は、 県のコレクティブハウジング基金の他に、 仮設の方の自立支援として災害復興グループハウス整備事業の補助金を受けることが出来、 それがこの計画を安定させてくれた大きな力となりました。 この補助金は、 震災を教訓とした新しい住まいを実現させなければという、 多くの方の熱い思いが結実した成果と言えます。

 住戸構成は、 1階に家族のように住むグループハウス4室と2階から4階はコレクティブハウス7戸の独立した分譲住宅となっています。 設計上の特徴として、 1階に台所と食事室を備えた交流スペース、 常駐するNPOの職員室・浴室、 グループハウスの方々が集うロビー、 2階に緑地帯を持つ共用のテラス、 4階にも屋上庭園など交流のための共有空間を多く取り入れています。 そこでは、 おしゃべりのためのベンチや洗濯機、 大きな流し台などを設置して出来るだけ顔を合わせる機会を作るようにしています。 建物全体はバリアフリーを配慮し、 交流室には近隣の方も入りやすくして、 地域コミュニティに溶け込むよう工夫しています。

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■運営の基本方針
 「ココライフ魚崎」の最も特徴的なことは、 1階のグループハウスとそれを運営する「てみずの会」というNPO(特定非営利活動法人)についてです。 「てみずの会」は「手水仮設」での人と人との出会いから生まれています。 現在「てみずの会」は介護士や看護婦など十数人の専門家がチームを作り、 グループハウスと上階のコレクティヴハウスの方達をサポートする体制を整えています。 これからここを拠点として、 地域の高齢者を支援する機能を持つものと期待されます。

 このプロジェクトの成立のために事業計画を何回も立て直し、 さまざまな問題点を解決することで精一杯の3年間でしたが、 振り返って民間コレクティブ実現のために何が課題であったのか整理してみますと、 大きく3つのことに集約されます。

 第一に、 最も難しいのは土地の提供者の問題。 コレクティブハウスを建てることにどれだけメリットがあるかを明確にして、 どれだけ安心感を与えられるかということにかかっています。 それは、 時には相続を当てにしているであろう肉親との軋轢をはねのけられるほどの本人の強い意志を固めてもらうために重要なことです。

 第二に、 入居者の問題。 その共同生活が入居者の個々の要求を満たすことができるかどうか、 それは立地や居住性や運営やコストの問題でもあります。 コレクティブハウスが高齢者のための問題ではないと考えるなら、 当然もっと発展的に出来ていくものと思いますが、 そのためには思いを同じくする入居希望者のつながりを作っていくことが必要です。

 第三に、 所有権ではなく利用権としての共有空間を、 公的な助成制度がその暮らし方をどれだけ後押ししてくれるかにかかっています。 緊急課題としての高齢者の住まいだけではなく、 これから社会を支える子供達が多くの人達の愛を受け、 豊かな暮らしのイメージをそこで作っていくために社会全体で支えていかなければならない課題です。 21世紀に向けてますます多様な生き方が予想されますが、 個々の人間が安心して住むことが出来る多様な住まいが用意できるよう、 公的な補助金などの整備を期待しています。 助成制度による誘導が、 次の民間コレクティブハウス成立の鍵を握っていると言えるでしょう。

(現在、 2階の1DKタイプのコレクティブ分譲住宅が1戸残っています。 一人暮らしの方には安心できる住まいです。 関心をお持ちの方はご連絡下さい。 )


情報コーナー

 

■あの震災から5年−震災関連ブック・映像の紹介

 巷は、 震災5周年を迎え、 官も民も慌ただしい限りのここ数日ですが、 支援ネットワークの周辺はわりあい静かな6年目に入りました。

 5周年ということで、 震災関連書籍も多くなっており、 簡単な紹介をしたいと思います。

●「市民まちづくりブックレット」(阪神大震災復興市民まちづくり支援ネットワーク)500円〜1、 000円+税
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ブックレット表紙
 震災復興まちづくりから、 普通の市民まちづくりへの展開をめざし、 99年2月刊行。 現在5号まで発行。 (本支援ネットワーク関連ホームページでも、 おおむねの内容を見ることができます)。

●「復興まちづくりキーワード集」

 (阪神大震災復興市民まちづくり支援ネットワーク/きんもくせいインターナショナルプロジェクトチーム)2、 000円+税
 復興市民まちづくり支援ニュース「きんもくせい」を読むことを目的として、 復興まちづくりのキーワードを抽出・解説するとともに、 これの海外発信を目的として英訳を行っている。

●「記憶のための連作 野田北部鷹取の人びと」全14巻(監督/青池憲司、 販売/岩波映像)

 個人:各6,000円、 セット84,000円  ライブラリー:各12,000円、 セット164,000円
ドキュメンタリー監督の青池さんが、 長田区野田北部地区へ友人見舞いに駆けつけたことがきっかけで撮りつづられた復興まちづくり記録。 “生のまちづくり教科書”とも言うべき大作。

●「神戸新聞の100日」(神戸新聞社) 857円+税
 地域ジャーナリズムとしての戦いを克明につづったノンフィクション。

●「忘れない1.17 震災モニュメントめぐり」(震災モニュメントマップ作成委員会、毎日新聞震災取材班)1、 429円+税
 被災地に建立された120の震災モニュメントを解説した本。 これとは別にマップも作成されており、 これらをめぐるイベントも行われている。


■お知らせ

●Memorial Conference in Kobe

●神戸市民まちづくり支援ネットワーク・第31回連絡会

●「新しい下町へ−何ができたのか?展」

●芦屋市美術博物館/特別展「震災と表現」

●兵庫県立近代美術館/特別展「震災と美術−1.17から生まれたもの」

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このページへのご意見は前田裕資
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