きんもくせい50+12号
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防災につながる
パターンランゲージの創造

神戸大学都市安全研究センター 室崎益輝

 阪神・淡路大震災以降、 被災地では100を超す「まちづくり協議会」が結成され、 市民主体のまちづくりの芽が育ちつつある。 そのなかで、 合意を得た市民提案が限定的ではあるが都市計画に反映され、 新しい街の姿が形になりつつある。 そこに、 私は被災地発のまちづくり文化の胎動を敏感に感じとっている。 といっても、 私はこの震災後のまちづくりの成果に、 及第点をつける気にはとてもなれない。 というのは、 ソロバン勘定的なミクロな利害を優先するあまりに、 コミュニティ環境的なマクロな課題が疎かにされた、 との思いがあるからである。

 このマクロな問題の中で、 防災性のある環境を実現するという課題は、 震災の教訓を踏まえたまちづくりである以上、 何にも増して優先されるべきものであった、 と考える。 にもかかわらず、 関東大震災後の復興あるいは戦災後の復興に比べて、 これほど防災が軽んじられた復興都市計画はなかったのではないか、 と思わずにはいられない。 防災の専門家としての非力を、 再び痛感しているところである。 確かに、 ソフト面では防災福祉コミュニティなどの成果があがっており、 全く前進がないわけではない。 しかし、 強大な自然の暴力に対して、 近隣の助け合いや草の根のバケツリレーだけでは、 とても勝ち目がない。 ソフトにハードがともなわないと、 自然とは勝負にならないのである。

 といって、 嘆いていても始まらない。 防災が軽んじられる原因を明らかにして、 その是正をはかる努力をしなければならないのである。 防災が軽視され後回しにされた理由は大きく2つある。 その1つは、 優先順位の問題で、 とりあえず元に戻りたい、 防災はその後でという気持ちが、 被災者のなかでは強かった。 もう1つは、 性能設計の問題で、 防災性のあるまちのつくり方を、 市民も行政もさらには都市計画の専門家も、 知らなかった。 後者の問題点は、 17メートル道路を巡る不毛の議論に象徴されている。 コンクリートで固めることや、 強大な道路を整備することが防災だと錯覚している愚かさが、 ここでは弊害になっているのである。

 それでは、 どうやってこの愚かさを克服することが出来るのであろうか。 私は今、 アレグザンダーの「パターンランゲージ」に傾注している。 総合性をもった空間言語としてのパターンランゲージ、 市民が共有できるデザイン言語としてのパターンランゲージに、 活路を見出そうとしているのである。 それは、 アメニティがありコミュニティがあれば結果としてセキュリティがついてくるという空間の総合的な関係を、 体現するパターン化されたデザイン言語が必要、 と思うからである。 屋根勾配のそろった町並み、 蔵がたち並ぶ背割り線、 せせらぎが流れる桜並木、 虫籠窓とうだつがハーモニーを奏でる壁面など、 防災性を与えるパターンランゲージは無数に存在する。 こうした例をあげるまでもなく、 文化として昇華し日常性に溶け込んだ、 防災につながるパターンランゲージを無数に創造することが、 今こそ必要なことはない。

 そのうえで、 都市計画専門家はもとより、 市民ともどもそのパターンランゲージの意味を理解しあい、 それを使って議論しあうことである。 そうすれば、 不毛の議論はなくなるであろう。 17メートルの道路に10メートルのせせらぎ水路のある桜並木を対置すること、 コンクリートジャングルに家並の揃った木造タウンハウスを対置することができれば、 防災も景観もコミュニティをも同時に考えることができ、 結果として市民がうけいれることができる潤いと温かみのあるまちづくりが可能となろう。

 さて、 この防災パターンランゲージづくりには、 防災の専門家とまちづくりの専門家の共同作業が欠かせない。 防災につながるまちづくりは、 これからが本番である。


 

新長田駅北地区(東部)
土地区画整理事業まちづくり報告(9)

VIII。 新長田駅北地区東部景観形成市民協定「いえなみ基準」

久保都市計画事務所 久保 光弘

1。 経緯

1)ビジョンづくりの契機の難しさ

 ○震災復興での住民・事業者等にとって最大の関心は、 一日も早い再建である。 区画整理の賛否の議論も根本にはこの切実な心情がベースになっている。

 したがって、 まちづくり協議会で当初から将来のまちづくりビジョンを正面きって話合うということは、 現実には難しい。 協議会は、 まず区画整理の事業計画の前提となる最低限のまちづくり提案の合意形成が図られるかどうかであり、 これが最大の難関である。 そして、 一担事業計画が決まれば、 さらに早い仮換地が最大の切実な課題になる。 (現在もそうである)。

 震災復興土地区画整理の特徴は、 道路・公園等の公共施設整備と建築再建が時間的に連続していることであり、 そしてこの再建した建物の用途や景観がそのまま将来のまちの性格や発展性を方向づけてしまうことである。

 ○そのためには、 その間に協議会は、 発展的なまちづくりを行うためにビジョンをつくることが必要である。 しかし、 早期の仮換地、 再建を追い続けるという直線的で重い課題の中で、 将来のまちの発展のためのビジョンづくりという次元の異ったテーマを持ち込むことは容易でない。 たとえコンサルタントが、 将来につながるまちづくりビジョンづくりの必要性を示しても、 住民が耳をかすことがなければそれで終ってしまう。 むしろ震災復興における住民の心理的状況からいってそれが普通と言ってよい。

 ○将来のビジョンづくりというテーマを話合えることのできるタイミングは、 おそらく「事業計画に一応の目安がつき、 仮換地が余り進んでいない間」のわずかなチャンスしかないようである。 なぜならば、 事業計画が決まる、 すなわち仮換地の準備に一応の目安がつくまではそれが精一杯であり、 仮換地がある程度進めば、 協議会への参加も少なくなり、 また今更再建の方向づけを話合うこともないといったことになりやすい。

 ○当地区でビジョンづくりが可能となったこととして次の点があげられる。

 上記(3)については、 各協議会が設立される直前の平成7年5月頃から始まった長田の市民や地域外の人々も加わり自由参加で行われた草の根的な「長田の良さを考える会」の活動にそのルーツがあったように思う。 この会は、 現実的なまちづくり協議会活動が始まる以前に、 市民が主体となって広い視野で色々な議論を行い、 長田まちづくりビジョンを神戸市に「杜の下町構想」(平成7年6月)として市民提案した。 このことは、 当地区から参加した一部の人々の頭に残っている。 そして、 その内容は、 断片だけれども協議会でも話され継承してきたことが、 まちづくりビジョンの種火にもなっている。

 ○といえども、 平成10年に「シューズギャラリータウン構想」「新長田駅北地区東部景観形成市民協定いえなみ基準」「アジアギャラリー構想」など、 まちづくりビジョンをたて続けに神戸市に提案しているが、 その提案に至るまでいづれの提案も検討には一年前後の月日を要している。 その中でも特に「いえなみ基準」は、 景観形成市民協定を締結し、 神戸市に認定を受けるまで一年半近くかかっている。

2)いえなみ基準の経緯

 ○協議会でいえなみルールを最初に議題として取り上げたのは、 平成9年4〜5月頃、 細田神楽地区の4協議会(当時)及び川西大道地区の2協議会であり、 この時期はこれらの6協議会が合同で産業地区創造懇談会(後に「シューズギャラリータウン構想」を提案)を設立した時期でもある。

 ○平成9年8〜12月にかけて細田神楽地区、 川西大道地区に続き、 水笠通3丁目協議会、 松一協議会、 水二協議会でもそれぞれいえなみルール(当時「いえなみ憲章」と言っていた)について各協議会毎に検討を始めている。 ちなみに、 水二協議会は全域が都市計画公園となる区域である。

 ○平成10年3月に「いえなみ憲章」を検討していた9協議会(その後一部協議会の合併により6協議会となる。 )は、 「いえなみ憲章に関する正副会長会」を設置した。 「いえなみ憲章に関する正副会長会」は、 3月〜7月にかけて都合4回開催され、 それぞれの協議会案の調整、 「いえなみ憲章」を「いえなみ基準」に改名すること、 「いえなみ基準」を神戸市都市景観条例の景観形成市民協定に位置づけること等について検討している。 そして、 各協議会は「景観形成市民協定いえなみ基準」の締結についてそれぞれの協議会の総会で諮り、 承認を得た。

 ○平成10年8月に、 6協議会は合同で「いえなみ基準」を神戸市都市景観条例による景観形成市民協定としての認定を神戸市に申請し、 平成10年10月認定を受けた。

 ○以後、 いえなみ形成等についての活動は、 協議会合同の「新長田駅北地区東部いえなみ委員会」によって行われている。

 新長田駅北地区東部においては、 平成11年6月に新たに御屋敷通1丁目協議会が景観形成市民協定及びいえなみ委員会に加わった。 その他の未参加の協議会も現在検討が行われている。 なお、 新長田駅北地区西部においても平成12年2月同様の景観形成市民協定が締結された。

3)「復興ビジョン」が行きついた先の「いえなみ基準」

 ○いえなみ基準の元々の考え方は、 再建する場合個人にとって良い建物、 良い相隣関係をつくることについての情報提供をするということであった。

 そしてルールといっても強制するものでなく、 地域の「いえとまちをつくる作法」というものであり、 一人でも二人でも役に立ち、 守ってもらえばいいではないかということからスタートしている。

 いえなみ基準の内容検討において当初各協議会で聞かれた反対意見としては、 (1) 強制でないと言っても自分の首をしめるようなことにならないか。 (2) 住民間でルールをつくることは、 かえって住民間でもめるもとをつくるのではないか。 積極的な意見としては、 (1) 小さな家も建てやすくする工夫を知りたい。 (2) たとえ板葺の屋根であってもそろっていることで美しい。 (3) 陸屋根で雨もりのメンテナンスに困った。 (4) お年寄も多くなるので、 住宅内のバリアフリーのことも知らせたい。 (5) 真黄色なド派手な家が近くにできたら困る等々。 全般的には、 守っても守らなくても良いのであったらあっても良いという程度が当初の状況であった。

 ○いえなみ基準(当初はいえなみ憲章)が意義があるものとみられるようになってきたのは、 併行して行われていた住商工のビジョンづくりとの関係である。

 住宅再建については、 零細な住宅の再建には隣家との間をつめるなど新しい町屋の再生、 具体的には協調的建替の推進が課題であった。 また共同建替については、 地区ぐるみで取り組んだものだけに地区との一体感を必要としていた。 工業系ビジョンづくりについては、 見える工場、 アンテナショップなど、 靴のまちの発展をめざした「シューズギャラリー構想」、 商業系ビジョンづくりは、 外国人との共生や商業の活性化をめざした「アジアギャラリー構想」が進行していた。

 これらは、 いずれも個々の再建における協力関係に根ざすものであり、 「いえなみ基準」というものに集約されていくものであったのである。

 ○また当時、 神戸市は「神戸市民の安全の推進に関する条例」を検討中であり、 それに関わる行政、 専門家より防災や防犯といった安全面からいえなみ基準に対する意見をいただき、 それがいえなみ基準に折り込まれた。


2。 「いえなみ基準」の内容

1)「いえなみ基準」の概要

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新長田北地区東部景観形成市民協定「いえなみ基準」のイメージ
 ○いえなみ基準の概要は以下のとおり
 ○いえなみ基準は、 冊子「いえなみ基準−いえとまちをつくる作法」(全39頁)にまとめられている。 これは、 個人それぞれの再建がまちづくりへの参加であるという視点からの建築ガイドライン、 建築マニュアルを意図してつくられている。


3。 行政の支援

1)景観形成市民協定

 ○いえなみ基準は、 先に述べたように地区のビジョンを目標とする建築ガイドラインとして各協議会で検討されてきた経緯があり、 また地区住民の関心度合からみて、 まちづくり条例(神戸市地区計画及びまちづくり協定等に関する条例)によるまちづくり協定とすることは未だ難しいと思われた。 といってしっかりとした位置づけのないままでは継続性に欠けるものとなる。 そのような課題を感じていたときに、 神戸市アーバンデザイン室から景観形成市民協定があることを教えてもらった。

 ○景観形成市民協定は、 神戸市都市景観条例に定められている。 まちづくり協定がまちづくり団体と神戸市長との協定であるのに対して、 景観形成市民協定は、 地区住民間の協定である。 そのため景観形成市民協定は自由度が高く比較的容易に締結できる。 そして、 その実効力の度合は地区の住民次第という性格をもっている。

 この景観形成市民協定は、 神戸市都市景観条例の平成2年改正で定められたものの、 これまで実施事例がなく、 当地区が景観形成市民協定認定の最初となった。 (当地区とともにトアロード地区、 栄町通地区、 魚崎郷地区等4地区が同時に認定)

 ○この景観形成市民協定の特質は、 地区計画と比較するとわかりやすい。 地区計画は、 (1)地元がまちづくりとして取り組んでも、 決定後は行政による規制となり、 地元まちづくりの関与は無くなる。 (2)原則全員同意の性格から最低限のルールになりやすい。 一方、 市民協定は、 (1)住民間の申し合わせであり、 ルールを守ることについての強制力はない。 (2)強制力がないことから比較的目標とすべきルールができる。

 このことは、 例えば、 地区計画による景観形成が50点と固定されるのに対して、 市民協定による景観形成は、 30点程度に終わるかもしれないし、 人々のまちづくり意識が高まっていけば80点にもなるというものである。

 その意味では、 市民協定は、 住民主体のまちづくりの本質にふさわしいルールづくりと言える。

 このような住民主体のまちづくりのツールを既に平成2年に行政が用意していたことの先見性を評価したい。

2)街なみ環境整備助成

 ○いえなみ基準は、 元々助成制度と関係ないところから検討をはじめたものである。 しかし、 行政が「街なみ環境整備事業」の活用により、 いえなみ基準に基づく建築や敷際に対して助成支援を決めたことは、 協議会の活動の成果として住民に評価されるとともに、 いえなみ基準の実効性を高めるものになった。

 ○助成は、 いえなみ基準を遵守した建築物に対して以下の工事費(補助率2/3)について助成される。

 ○この街なみ環境整備事業助成は、 平成11年4月から実施された。 助成事業の適用期間は、 景観形成市民協定認定日(平成10年10月)から平成18年度(予定)までである。


4。 いえなみ委員会の活動

1)いえなみ委員会の役割

 ○神戸市に景観形成市民協定の認定申請と同時に6協議会(現在7協議会)合同で、 各協議会から選出された委員で構成される「新長田駅北地区東部いえなみ委員会」(委員長 横山祥一 水笠通3協議会会長)を発足させた。

 ○いえなみ委員会の目的は、 いえなみ委員会運営規約で、 (1)協定(いえなみ基準)の運営に関する事項。 (2)新長田駅北地区東部全体にまたがるまちづくり課題の検討があげられている。 (1)は、 いえなみ委員会本来の役割である。 景観形成市民協定は地区住民間の協定であることから、 地元の取り組み如何がその成果となり、 いわば「地区の自治能力」が問われることになる。 (2)は、 当地区の各協議会の成り立ちが町丁単位であったことから、 地区全体を一つとしてまちづくりを進める必要性からの役割といえる。

 ○特にこのいえなみ委員会設立の意義深い点は、 継続的なまちづくりの基盤としての期待である。 景観形成市民協定は、 将来とも継続される性格のものと考えれば、 いえなみ委員会も継続されるべきものとなり、 その意味では、 いえなみ委員会の設立によって継続的なまちづくりのシステムが形づくられたと言って良い。

2)神戸市景観形成市民団体協議会への参加

 ○いえなみ委員会は、 北野、 山本、 旧居留地、 南京町、 トアロード、 魚崎郷、 栄町通の各地区とともに「神戸市景観形成市民団体協議会」に参加した。 他の各地区は、 神戸における代表的な特徴あるイメージや景観を有している地区であり、 いわば「守り育てる景観形成」であるのに対して、 当地区は良いイメージや景観を有していたわけでもなく、 「これから創る景観形成」である。

 この参加を通して、 「住工商混在をまちづくりの資源としてとらえ、 その展開として取り組む当地区の景観形成は、 これまでにない神戸の新しい特色をつくりだす。 」といった自負が生まれてくることを期待したい。

 ○いえなみ委員会は、 組織の位置づけを明確にし、 自主的な活動の財源を確保するため、 平成11年10月神戸市に都市景観条例に基づく景観形成市民団体認定申請を行った。 同時にいえなみ委員会は、 しみん基金KOBEに活動助成の申請を行い半年間の助成について承認された。

3)いえなみ基準・建築事前報告書(表VIII−2参照)

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表VIII−2 いえなみ委員会での建築事前報告書の取り扱い
 ○個々の建築が街の形をつくっていく。 いいかえれば、 個々の人々が建築することは、 実質的なまちづくりへの参加である。 このため、 建築を行う人々には、 具体的に役立つまちづくり情報が得られ、 まちづくりの視点から専門家のアドバイスも得られるような仕組が必要である。 また、 いえなみ委員会(各まちづくり協議会)は、 地区のまちづくりを進めるうえで、 個々の建築の動きや内容をリアルタイムで知ることが必要である。

 このような考え方のもとに、 一定条件の建築物の建築主には、 建築する前に「建築事前報告書」をいえなみ委員会に提出することをお願いしている。

 ○建築事前報告書の提出をお願いする建築物は、 (1)大規模建築物(延床面積500m²以上、 又は建築高さ15m以上)(2)街なみ環境整備助成やその他補助、 助成を希望する建築物等となっている。

 建築事前報告書は、 いえなみ基準の適合性が判断できる最低限の資料で、 提出書類の様式はいえなみ委員会発行の冊子「いえなみ基準・建築事前報告書提出のお願い」で定めている。

4)アドバイザー部会

 ○いえなみ委員会は、 提出された建築事前報告書に対応するためにアドバイザー部会(部会長 迫水和典)を設置している。 そして、 まちづくりの視点をもつ建築家森崎輝行氏(森崎建築設計事務所)と造園家松下慶浩氏(環境緑地設計研究所)にアドバイザーとして参加してもらっている。

 ○アドバイザー部会は月2回開催され、 提出された建築事前報告書に対して必要に応じてアドバイスを行っている。 特に大規模建築物の場合は、 建築主(ほとんどは設計者)と面談している。 現在まで着工した大規模建築物(8件)は、 すべていえなみ基準を遵守して建築されている。


5。 コミュニティアーキテクト/コミュニティビルダー

 ○いえなみの形成は住民の理解だけでなく、 設計事務所、 工務店、 ハウスメーカーなどの協力がないとできない。 ハウスメーカーは、 地域性に関係ない自社製品の販売に力を入れているし、 建築設計者もまだ地域のまちづくりの視点で設計することに不なれである。 いえなみ景観は単に建築主だけでできるものでなく、 外部から参加する建築業者等の活動如何が大きな影響力をもつ。

 コミュニティアーキテクトやコミュニティビルダーとしての建築業者がこれからは大切である。

 同時に住民が「いえなみ」といった社会性をもった視点から建築に関心をもつことも大切である。

('00.3.10記)


 

「神戸まちづくり研究所」誕生!

神戸まちづくり研究所・事務局長 野崎 隆一

 「神戸復興塾」を母体として、 昨年7月に設立総会を行いNPO法人申請をしていました「神戸まちづくり研究所」がこの3月1日に兵庫県より認証されました。 復興塾は組織として残しながら、 調査研究活動における責任体制をより明確にし、 持続的・計画的に復興まちづくりにとりくもうというのが設立の趣旨です。 「復興塾」として行ってきた「こうべ i ウォーク」や「海外NPO視察ツアー」や各種講座は、 これまで通り「復興塾」の活動としてやります。 「まち研」は、 「復興塾」の事務受託や調査・研究・出版など責任体制の必要な事業面を担当することになります。 組織としてはルーズであっても活動面ではアクティブな「復興塾」の良さを温存しながら、 法人であることを前面に出した方が良い場面は、 「まち研」の名前で活動するという体制で行こうと考えています。

■政策提言します。

 
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 現在、 基本的に「まち研」の構成員はすべて「復興塾」の塾生です。 しかし、 今後は明確な研究テーマを持った新しい研究者の参加を求め、 独立独歩の市民シンクタンクとして、 被災地復興まちづくりの経験を活かしながら、 より広い調査研究活動を展開したいと考えています。 また、 調査研究に留まることなく、 そこから得られた内容を活かすための提案や政策提言もやるつもりです。

■ネットワークします。

 
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 震災復興に関わる研究グループや、 トルコ・台湾等、 海外の震災復興組織とネットワークを構築し、 情報支援・情報収集を行います。 また、 震災で失われた生活世界の再建のため、 市民レベルでの支え合うネットワークを構築する必要があります。 NPO系団体と地縁系団体等、 これまで接点のなかった団体間のネットワークの推進を「まちづくり」という枠組みを視野に入れて考えていきます。

■まちづくりを手伝います。

 
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 「現場の知」を重視する専門家集団としてベンチャー精神を活かしながら、 まちづくりや地域活性化を促進するイベントや事業にアイデアを提供し、 まちづくりの啓発普及と支援活動を展開します。

 震災により多くのものが失われましたが、 神戸では復興過程で生まれた市民活動がその社会的定着を目指して健闘しています。 それらを支える中間支援組織として、 資金助成で応援する「しみん基金KOBE」が生まれました。 「まち研」も市民活動を「知」の面で応援するシンクタンクとして復興まちづくりの支援を続けていきたいと考えています。

 「神戸まちづくり研究所」関係者を紹介します。


 

その4・校長福田道夫
第2の人生をまち協に賭ける

まちづくり会社コー・プラン 小林郁雄

 1) 校長福田道夫は、 野田北部まちづくり協議会の留守番である。 いつ何時JR鷹取駅前の浪松老人憩いの家に同居するまち協事務所に行っても、 福田さんの巨体に会うことが、 ほぼできる。 運転手でもある。 まち協の仮設訪問から長野県への遠出はもちろん、 愛知県一宮市からの年2回到着する支援花苗が届いた時は軽トラックにパレットを乗せる自作の棚を揺らせて、 福田さんの運転である。 本業が運転のプロだったから、 なんぼ引退したといっても31年間の腕に狂いはない。

 
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 2) 大正13年(1924)7月9日須磨区青葉町(といっても長田区浪松町の隣の区境)に生まれ、 昭和13年本庄町4丁目、 17年に海運町2丁目と引っ越してはいるが、 いづれにせよ鷹取駅の周りだ。 それから震災まで53年間家主は4人交替したそうだが、 海運町に住んでいた。 その平屋の四軒長屋の南端だったが、 もちろん震災で全壊全焼、 1995年8月まで鷹取中学の避難所にいて、 学園都市の仮設住宅に移った(とは言っても、 ほとんど、 まち協事務所で寝泊まりしていた常駐校長である)。 1999年4月にできたエヴァ・タウン海運(民間買取従前居住者用市営住宅)に入居したから、 今もまた海運町2丁目の住人である。

 3) 「どこからどう見ても校長だけど、 どうして校長ということになったの?」『わしゃ、 三好青海入道じゃあ、 ないんかい?』「野田十勇士としては、 そうだねえ。 ちゃう、 そうじゃなくて、 校長!」『なに、 鷹取中にいる時、 中溝先生が避難所の面倒をよく見てくれてね。 住民同士も仲ようせなあかん、 もめごとの起こらんようにと。 それでついたあだ名が校長』「中学の避難所を仕切って校長ですか、 まともですねえ。 でも、 まち協のみんなも校長、 校長、 言うてますねえ。 最年長だけど元気そのもの、 おまけにその巨体にみんな頼っているからですね」

 4) 父岩吉さんを市電の交通事故で早くに、 母よしのさんも昭和25年に亡くなる。 昭和26年美智代さんと結婚。 まじめに働かねばと、 運転免許をとり、 ダンプの練習。 そして、 昭和32年(1957)三菱石油のタンクローリーを運転する菱華運輸に勤め、 昭和63年(1988)昭和とともに定年退職。 長年住んでる海運町2丁目の町内会長に選ばれた。 ちょっとした行き違いで、 参加していなかった野田北部連合自治会に戻るのが最初の仕事だった。 再加入の途端に副会長にされ、 浅山会長の暖かい扱いに感激したという。 とはいうものの震災までは少し距離を置き遠慮してた。

 
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 5) 「震災の時、 ちょうど起きて洗面所に行ったところだった。 洗面器と壁に挟まれたが、 ちょうど天窓があるところで、 うまく外に出ることができた。 家族も皆無事」「避難所の鷹中でぼーとしていたら、 小野ちゃんが来てほしいと呼びに来てくれて、 5日目位から集会所(対策本部)に顔を出すようになった」「裸一貫で焼け出されたけど、 この助かった命を野田北部のために一生懸命役立てたい。 浅山会長に惚れこんで、 これまでやってきたから、 最後まで腰を据えてここで頑張りたい」「エヴァ・タウンの管理人もしてるから、 3班制で月に3回ほど土日に、 ふれあい喫茶をやってる。 朝9時半から11時半迄、 コーヒーとパンと卵で100円。 毎回50人ほどが来てる」。

 校長はやっぱり「まちの校長」なんだなあ。


 

復興まちづくりセミナー2000・報告

〜震災復興まちづくりの5年と今後〜

中井都市研究室 中井 豊

 私たち震災復興市民まちづくり支援ネットワークは、 震災後ほぼ3年を経た段階でのとりくみを総括する報告として「復興まちづくり報告97」(この記録は、 『震災復興が教えるまちづくりの将来』(学芸出版社)としてまとめています)を開催しました。 今回は、 震災5年を期して、 ひょうごまちづくりセンター・こうべまちづくりセンター(行政)、 まちづくり協議会連絡会(住民)、 市民まちづくり支援ネットワーク(専門家)がゆるやかに連携した報告会を3日間にわたって行ないました。 全体のプログラムは右頁の通りです。 今回の3日間を通したテーマは、 「震災5年で何ができたか?今後どのような方向に向かおうとしているのか?」です。 この3日間で何が語られてきたか、 その概要を報告したいと思います。

 

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復興まちづくりセミナー2000」'00.3
 
 1日目は、 まず前半でひょうごまちづくりセンター、 こうべまちづくりセンターから、 これまでの5年間の支援実績を詳細なデータをあげながら報告されました。 後半では座談会が行われ、 マンション再建、 共同再建、 まちづくり協議会による復興といったことに対して、 <取り組みの主体である住民>、 <住民を支援するコンサルタント・弁護士>、 <これらの活動を支える行政>、 <都市計画の研究者>といったそれぞれ異なる立場の方々が参加しました。 支援事業が果たしてきた重要な役割、 支援に際してのコツ、 今後の支援事業の方向などが語られました。

 なお、 午後6時からは同じ会場で、 神戸市民まちづくり支援ネットワークの第2回連絡会を行いました。 テーマは「神戸の区画整理史」で、 元神戸市職員の小原啓司さんからは、 明治期からの区画整理事業(新道開鑿・地域更正)から現在に至るまで、 大変詳しい説明を行っていただきました。 同じく神戸市職員の浅井活太さんからは、 東灘山手の区画整理事業について、 ご自身が長年にわたって関わってこられた経験について語っていただきました。 久保光弘(久保都市計画事務所)さんからは、 新長田駅北地区で実践されている“条里制としての区画整理”について語っていただきました。

 2日目は、 神戸まちづくり協議会連絡会(通称:まち連)主催で行われました。 前半では、 5地区のまちづくり協議会から報告が行われ、 各地区とも実感あふれた報告で、 様々に工夫と努力といった単純な言葉では言い尽くせないほどの5年間の取り組みが語られました。 後半では、 今後のまちづくり協議会の方向といったテーマで話し合われ、 自治会づくり、 NPOとしての新たな展開、 まち協としての継続・発展など、 震災復興で重要な役割を果たした神戸のまちづくり協議会が、 5年を経て時代の流れや地域の実状をふまえながら新たな展開を歩み始めていることが報告されました。

 3日目は、 市民まちづくり支援ネットワーク主催で、 9地区・3ネットワークから報告がありました。 これらは、 多くが2年前でも報告されており、 具体的なかたちとなって着実に復興まちづくりが進められている状況が示されました。 また、 御蔵地区、 若手ネットといった前回ではなかった報告があり、 新しい支援形態・動きが復興まちづくりを通じて生まれていることも今回の報告の特徴となりました。 締めくくりに、 大学研究者、 行政、 NPO、 支援ネットのそれぞれの立場の方々が参加した座談会が行われました。 各パネラー及び会場も交えて、 復興まちづくりで出来たこと、 今後の課題などを熱心に語り合いました。 とてもここではまとめることができないくらいの議論でした。 いずれ出版されるであろう記録集にご期待下さい。

 

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座談会「市民まちづくりで出来たもの」風景 '00.3.5
 

「田中良平さんからの復興まちづくりセミナー2000への質問とお願い」

 

 3日間の復興まちづくりセミナーの最も熱心な聴衆のひとりが、 森南の住人、 田中良平さんです。 「神戸。 苦渋のまち並から」(ドメス出版刊)の著者です。 前回(97年11月)も含め何故、 森南地区の報告に触れないのかという苦言を頂きました。 今回の報告の主旨と疑問への絶好の材料と思いましたので、 田中さんのご了解を得て、 ここに転載します。

 いくつか反論したいことはありますが、 ここでは控えて、 読者の皆さんのご意見をうかがいたいと思います。 (小林郁雄)


■メールによる田中さんからの質問と意見、 小林からの返信(000227)

田中:

 ●フォーラムを可能な限り傍聴しご報告と意見を伺いますが、 ただ、 過去5年間、 わがまち森南地区がまったく疎外されているのは、 なぜなのでしょうか?
小林:

 ○今回のテーマは、 「震災5年、 復興まちづくりで何ができたのか?」です。 県や市、 マスコミなどの復興5年検証のもって回った論調は性に合いません。 ということで、 端的に「何ができたか」です。 残念ながら、 森南は何もできてません。 復興10周年に期待します。

田中:

 ●あれだけ行政と対立し、 行政には汚点を、 住民とコミュニティーには深い傷を残し、 ある面では神戸復興における社会現象の一つを代表したと言えるでしょう。 だから単なる記録価値ではなく、 復興の内外事情など現実面から総括する意義は高いと思いますが・・・。

小林:

 ○社会現象としては、 お説のとおりであると、 思います。 汚点や傷を舐め合い、 後悔や反省をする必要性を感じる人たちが、 すべきことは多々あると思いますが、 私や支援ネットの仕事であるとは、 思いません。 NHK、 岸本先生、 塩崎先生あたりは(もちろん間野さんもだ)、 義務として5年の総括を、 芦屋西部、 西須磨なども含めてすべきでしょうね。 田中さんが仕掛けられたら、 いかがでしょう?もちろん、 そのような催しがあれば、 喜んで参加します。


■田中さんからの報告2000参加後のメール(000306)

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森南土地区画整理事業 98.5時点
 皆様お疲れ様でした。 フォーラムの席で野崎さんがいみじくも提起されましたね、 「お上に関わりなく民間にも、 『公』の領域を考えるべき」と。 過去5年、 森南は何もできていないことこそ異様で、 「市民まちづくり支援」を冠する支援ネットの皆さんが、 『公』のスタンスで森南を総括し、 将来への提案を残して頂きたいのです。 すでに辻さんと言う皆さんのお仲間が関与されていますし。 また過去、 この地区に関わられた理論的指導者全員集合で総括する小林案に大賛成です。 ただ僕は渦中の住民であり、 まち協役員経験もなく、 何がどうしてこうなったかも不明。 労は惜しみませんが仕掛人には不適切です。 復興実務に練達の支援ネットが主催されるか、 「神戸復興の知的集団として、 義侠心に富む行動集団」を掲げて発足された小森星児先生の神戸まちづくり研究所にシンポを仕掛けて頂ければ、 理論と心の復興も検証した『神戸アピール』として全国への貴重な提言となるに違いありません。

 次に、 5周年記念の各シンポでも、 とかく東神戸は話題から疎外されていたようです。

 決して地域文化の質の上下や、 市民の生活レベルの差を言いつらうのではないけれど、 西宮から御影あたりまでは、 かつて明治末から昭和15年ころへかけて、 日本でユニークな市民文化を育てたところ。 阪神間モダニズムとか呼ばれたが、 呼称は何であれ貴重な文化です。

 このような文化が復興のプロから見捨てられてしまうのは、 どういうことでしょうか。

 僕達住民は血を流しました。 それを自慢する気は毛頭ないが、 何かを残したいと思ったからです。 方法論や戦略が分からず、 理論的な幼稚さはぶざまとしか言いようがありませんでした。 だからその道の理論的指導層や、 実務プロの皆さんに、 教えて頂きたいのです。


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●小野幸一郎神戸離脱送別会

●コレクティブ研究成果もちより勉強会


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