きんもくせい50+14号
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アート・エイド・神戸の活動

連載アート・エイド・神戸/その1

海文堂書店、 アート・エイド・神戸実行委員会事務局長 島田 誠

 小林郁雄さんから、 「きんもくせい」に「アート・エイド・神戸」の活動を総括しろという指令である。

 しかも連載でゴールデンウィーク中に執筆しろとのこと。

 「きんもくせい」の読者のレベルは高い。 私のいつものエッセイ調では失礼だと思い、 つい文章が硬くなった。 面白くなかったら、 緊張のせいである。 お許し願いたい。

 

画像14s01 島田誠さん。1942年神戸市生まれ。神戸大学経営学部卒。三菱重工勤務の後、73年海文堂書店社長。78年ギャラリー開設。神戸高時代から合唱団で指揮、神戸大グリークラブで関西合唱コンクール2位。アート・エイド・神戸事務局長など文化支援やプロデュースで広く活動。著書も多い。
 

1−1 設立の経緯

 震災直後の、 高速道路も、 ビルも、 港湾も、 住居も崩壊し、 焼き尽くされ、 一人一人の生活も壊滅状態の中で、 私たちは文化による復興を目指して「アート・エイド・神戸」という運動を始めた。 まだ、 街は瓦礫のまま、 避難所に人は溢れていた。

 アート・エイド・神戸のネーミングについては神戸の文化を自分達の手で守るという決意と、 芸術家自身も神戸の復興のために力を結集するという願いを込めた命名である。

 ともかく2月15日に趣意書を書き上げ、 18日に第一回の実行委員会を開いた。

 ある人は「歌舞音曲は秋までは禁止だ」と言い、 別の人は皮肉に゛芸術で神戸が救えるの゛と聞いた。 「それは無理や。 でも人は空気だけでも、 水だけでも生きられへん」と答えた。 「心」の問題は、 どんな状況においても最も重要なことだ。 避難所では「ふるさと」の童謡に、 歌手も、 聞き手も涙し、 ここは自分たちの愛する故郷だと感じ、 自分の詩など無力であると筆をとらなかった詩人たちもアート・エイド・神戸の呼びかけで「震災詩集」を刊行、 その朗読会では、 「詩が、 言葉が、 こんなにも人の心に届くことを再発見した」と語った。


1―2 組織


1―3 事業計画

 資金は文化復興のために外国から寄せられた支援、 一般市民、 発表活動からの寄付、 詩集の販売、 継続的な企業からの支援などによる。 大切なことは、 この運動の中に、 文化の循環サイクルが生まれ、 創造が創造を生む、 創造の連鎖の萌芽があるということだ。


1―4 芸術関係者緊急支援制度

 そのシステムは、 ちょうど一年前の1994年の奇しくも1月17日に起こったアメリカ・ノースリッジ地震の時にアメリカのNPOが行った救援に学んだ。

 これはアート・エイド・神戸がスタートしてまもなくの3月20日の朝日新聞に「芸術家救援、 日米の落差」という記事を見つけたことによる。

 この記事はニューヨーク在住の芸術文化事業研究家の塩谷陽子さんの寄稿によるもので、 アメリカのシステムを紹介したのち「日本では考えられない」とした上で「バブルのはじけた今、 不幸な事故にあった芸術家たちに数件、 5万円なり、 10万円なりの救援金を交付していくことは、 低成長時代の日本にとっておあつらえ向きの、 しかも長期間できそうな芸術救援ではあるまいか。 (中略)拠出金一円当たりに対する受け取り側のありがたみ度を尺度にしたらコスト・パフォーマンスだって抜群なのだ。 だれか腰を上げてくれることを期待したい」とあった(注1)

 読んだ瞬間に、 これだと確信し、 すぐに伊勢田委員長に連絡、 実行委員会で決定した。

 今回の震災で住宅やアトリエや楽器や稽古場に大きな被害をうけた芸術関係者(照明や音響やマネージャなど裏方さんを含めて)のうち

この三件だけを要件とした。 これもアメリカの例に学んだ。

 募集の告知は新聞によった。

 私たちは2回目の支援から一年後に再び3回目の芸術関係者の支援募集に乗り出し、 サンフランシスコから寄せられた寄付¥1,75万に神戸文化復興基金から加えて、 平成4年4月、 22名に200万円の支援を実施した。

 芸術関係者緊急支援は全体として支援総額 ¥7,30万  総数82名となった。

 この制度はアメリカのNPOにならったものであるが、 実際に審査してみて対象人員については、 ほぼ網羅出来たかと思うが、 金額については、 いかにも少ない。

 支援を受けた側からは、 自分達を支えてくれた思いがけない制度として「砂漠で出会ったオアシス」のように感じたという感謝の言葉もいただいたが、 せめて30万円ぐらいの支援をしたい。


1―5 鎮魂と再生のために

 アート・エイド・神戸文学部門では、 現代詩を書く詩人たちが、 震災の体験を詩として発表した。 伊勢田委員長が中心になり、 和田英子さんら6名が呼びかけ人となり155人の詩人が参加した。

 心が揺れる日々のなか、 わずか震災3ヶ月後の4月17日に「詩集・阪神淡路大震災」は刊行された。 詩画工房が製作、 海文堂書店が発売元となり、 初版1500部。 定価は1000円であった。

 表紙は主体美術協会会員の長尾和先生の水彩画で「2月14日須磨大池町」という記載がある瓦礫と化した街に犬が佇む風景を使わせていただいた。

 この詩集は大きな反響を呼び、 最終的には、 この種の詩集としては異例の4000部まで増刷された。

 詩集の第二集は、 震災一周年の平成8年1月17日を期して出版された。

 第一集は、 震災直後のため、 家が壊れて県外へ避難されていた詩人たちや、 まだ創作活動へ戻る心のゆとりをもてない詩人もいた。 新たに23名の詩人が加わった。

 詩集、 第三集は、 震災2周年の平成9年1月17日に「復興への譜」として出版された。 表紙絵には行動美術協会会員の松原政裕氏の「生きるものたちへの讃歌」を選んだ。

 こうした詩集は実に大きな反響を呼び、 5月27日、 アート・エイド・神戸音楽部門主催のチャリティーコンサート「こころの響き・大江光作品集から」(朝日ホール)で詩人の自作朗読が試みられ、 満員の聴衆の涙と共感を誘った。

 この後、 たびたび朗読会が開催され、 詩人にとっても「朗読詩」という新たな認識を生んだ。 さらにらラジオ、 テレビを通じ発信され、 10月24日にはNHKラジオジャパンを通じて世界19カ国へと流れた。

 さらにアート・エイド・神戸音楽部門では、 作曲家に呼びかけ、 この詩集からの作曲を試み、 実に多くの歌曲、 合唱曲、 器楽曲が発表された。

 震災という共通体験を本に美術、 音楽、 演劇、 文学、 映画などのジャンルの異なる分野の交流・クロスオーバーが行われた。

 こうした詩人たちと、 画家との協力で生まれたのが詩画集「鎮魂と再生のために 長尾和と25人の詩人たち」である。 この25枚の水彩画と、 25編の詩は、 コープこうべに寄贈され、 今も地震の証言者として巡回を続けている。


1−6 基金の状況

 アート・エイド・神戸の運動は「文化的窒息状況を撃ち破り、 芸術の力で、 生きる勇気や希望を与える活動を出来るだけ早く立ち上げていく」ことが当初の使命であった。

 したがって緊急出動の短期決戦と考えていたので確たる資金計画があったわけではない。

 初期活動の資金40万円は公益信託・亀井純子基金から支援をうけ、 チャリティー美術展での売上が芸術関係者緊急支援制度へと結びつき、 音楽会や、 詩集の出版、 文化活動への助成制度へと展開していった。 (注2)

 こうして基金の状況を時系列で見てみると4年めから収入が激減している事が「良く分かる。

 いまや、 アート・エイド・神戸は事業や助成活動から、 次の段階へと役割を移すべき時に至っている。


1―7 アート・エイド・神戸の今後

 緊急出動のつもりで初めた「アート・エイド・神戸」の活動も、 その役割を変化させながら中距離走から、 いまやマラソンとなった。

 アート・エイド・神戸が果たした役割は

 こうした文化的シンボルとして、 また政策提案のシンクタンクとして、 あるいは文化コミュニティー財団構想の実現への運動体として、 他の市民活動と連携して新しいものを生み出していく触媒の機能を果たしたい。 ここでの貴重な体験をどう社会的資産として残していくかが課題なのである。 具体的には1999年9月から12月にかけて「芸術文化における市民力養成講座」(6回)を持ち、 それを受けて震災5年の文化的検証としてシンポジウム「神戸の文化これから」を開催した。 さらには、 これらの勉強を通して見えてきた課題を新しいフェーズで具体的に推進する取り組みをはじめている。


 

細街路拡幅整備の挫折と成就

阪神・淡路大震災復興まちづくりの実践報告
(その5)

まちづくりコンサルタント 後藤 祐介(ジーユー計画研究所)

はじめに

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細街路の拡幅(≒住環境整備)の取組一覧
 本稿は、 復興まちづくり実践報告(その5)として、 阪神・淡路大震災復興まちづくりにおいて、 細街路の拡幅(≒住環境整備事業)に取組んできた幾つかの事例について、 成就した事例と挫折した事例といった視点から報告する。

 この細街路の拡幅は、 白地地区を中心にまちづくりに取組んでいる私にとっては、 極めて難しい分野の取組み課題であった。 震災後5年を経過した現在、 8地区のプロジェクトに係わったうち、 6地区は挫折してしまい、 2地区のプロジェクトのみが成就しつつある状況である。

 この難しさは、 細街路拡幅は道路=公共施設そのものであり、 行財政と密接につながっていること、 特に、 土地区画整理事業地区のような重点事業地区以外の白地地区においては、 一般に行財政面で予算配分が微小であり、 事業資金的に苦しい面が背景にある。 成就しつつあるプロジェクトは、 西宮市、 芦屋市において白地地区でなく、 「事業地区」として位置づけられ、 行財政面で取組みが積極的な地区に限られている。

 細街路の拡幅整備事業(≒住環境整備事業)は、 これからのまちづくりにおける主要課題であるが、 いかに難しい課題であるか痛感しているところである。


1。 白地地区ではほとんど成就せず

(1)神戸市:新在家南地区

〈細街路拡幅整備の課題〉

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新在家南地区細街路等拡幅整備課題図
 新在家南地区では、 震災以前よりまちづくり委員会を立ち上げ、 住環境改善のために細街路の拡幅問題に取組んでいた。 拡幅箇所についても「まちづくり提案」に含めて、 酒蔵の道の拡幅とネットワークするかたちで数本の南北方向の道路を抽出していた。

〈取組み経過〉

 阪神・淡路大震災では、 地区内の約8割の家屋が倒壊した。 細街路拡幅課題箇所の沿道の家屋も殆どが倒壊し、 この震災が拡幅の好機と考えられた。 震災直後一早く関係地権者5人に細街路拡幅への用地提供を打診したが、 その回答は3人はOKで、 2人はNOであった。 反対の2人については、 その後約半年間説得を続けたが、 道路拡幅用地を含めて、 家屋を再建された段階で説得を断念せざるを得なかった。

 尚、 東西方向の酒蔵の道の拡幅(3.0m→6.0m)については、 現在も酒造会社と検討が続いている。

(2)神戸市:須磨区関守町1・2丁目地区

〈細街路拡幅の課題〉

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須磨区関守町1、 2丁目の細街路拡幅整備課題図
 当地区は、 山陽電鉄須磨駅北側の高台に位置する第一種低層住居専用地域(容積率150%、 建ペイ率60%)の高級住宅地であったが、 阪神・淡路大震災により家屋等は殆ど倒壊した。 再建にあたっては、 接道する道路の拡幅が2〜3 で、 少なくとも4.0m、 出来るなら6.0mに拡幅する課題があった。

〈取組み経過〉

 関係権利者4人のうちの一人のAさんから依頼があり、 まちづくりアドバイザー制度を活用して整備計画案、 整備手法を検討し、 他の3人との意向調整を図った。 事業手法としては、 最終案として神戸市建設局管理課所管の「狭隘道路環境整備事業」の適用により、 2.0mの細街路を4.0mに拡幅するため、 道路用地を神戸市に寄付する案にしぼられた。

 結果としては、 権利者の2社が大企業であったため、 道路用地を無償で神戸市に寄付する行為が組織として決裁されなかった。

(3)神戸市:岡本駅南地区

〈細街路拡幅整備課題〉

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整備計画断面図
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岡本地区細街路拡幅整備課題図
 岡本駅南地区では、 昭和57年よりまちづくり協議会を立ち上げ、 住民参加のまちづくりに取組んできた。 神戸市とのまちづくり提案やまちづくり協定の締結を行ってきたが、 その中で最大のまちづくり課題は地区東部における1.5mの幅しかない細街路を拡幅する南北道路の整備であった。 これは山手幹線と阪急岡本駅前を結ぶ駅前アクセス道路の整備計画でもある。

〈取組み経過〉

 阪神・淡路大震災では、 幸いにしてJR線以南に位置する岡本地区は比較的被害が小さかったが、 震災の教訓として細街路拡幅の課題は重要視され、 この南北道路の拡幅整備を中心に、 第2次まちづくり提案を作成し、 神戸市とまちづくり協議会が供働で権利者調整に取組んだ。 しかしここでは、 地元居住者(権利者)からは、 安全性を目的としたこの事業に一応の理解が得られたが、 一部の地区外居住の地権者(2人)から反対を受け成就しなかった。 反対された2人の地権者にとって、 土地建物は自宅等の自己利用でなく、 収益物件であり、 補償、 代替地等の問題で駅前地区であるだけに難しい内容を含んでいた。

(4)・(5)西宮市:広田地区、 上大市地区

〈細街路拡幅の整備課題〉

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広田地区細街路拡幅整備課題図
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上大市地区細街路拡幅整備課題図
 西宮市の両地区については、 旧西国街道(現国道171号)沿いの旧集落であり、 密集市街地としての細街路拡幅の問題をかかえていた。 阪神・淡路大震災では2地区とも家屋倒壊等の甚大な被害を受けた。

〈取組み経過〉

 復興まちづくりにあたって、 被害の大きな白地地区として、 「街なみ・まちづくり特定事業調査」を行い、 地元自治会に対し、 細街路拡幅を中心とした住環境整備事業への取組みを呼びかけた。 しかし、 呼びかけた時期が、 平成8年で震災後約1年経過していて、 自主再建が相当進んでいたため、 「時期既に遅し」との理由で取組みは断わられた。 このケースは、 震災復興まちづくりのタイミングの難しさを示すものであり、 宝塚市や伊丹市のように震災直後から取組んでいたらと反省させられる点である。

(6)尼崎市大庄中通2丁目

〈細街路拡幅整備の課題〉

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大庄中通2丁目細街路拡幅整備課題図
 当地区は、 尼崎市南部市街地区の密集市街地整備促進地区であり、 震災前から地区指定を受けていた。 大庄地区の中でも、 特に、 大庄中通2丁目は幅員4m未満の細街路に面する木造住宅が多く、 重点課題地区にあげられていた。

〈取組み経過〉

 震災復興まちづくりの一環として、 当地区を白地地区の住環境整備事業の取組みモデルとして抽出し、 まちづくり協議会を立ち上げ、 まちづくりの課題の検討、 まちづくり構想の策定等を行いつつ、 細街路拡幅事業の可能性を探った。 住民、 地権者の意向としては、 早急な細街路の拡幅や住宅の建替えに対する合意集約は難しく、 長期的なビジョンのまとめと、 その機会を待つことが望ましいとの意見が大勢を占めている。


2。 成就した細街路拡幅事業

(7)西宮市:JR西宮駅北地区

〈細街路拡幅整備の課題〉

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JR西宮駅北地区細街路拡幅整備計画図
 当地区は、 西宮市南部市街地の中央部のJR西ノ宮駅前に位置し、 旧くから市街化した地区で木造密集市街地状況を呈しており、 震災前から細街路拡幅整備及び老朽住宅の更新が必要な住環境整備課題地区としての取組みが行われていた。

〈取組み課題〉

 阪神・淡路大震災においても、 家屋等に甚大な被害を受け、 西宮市では震災後一早く、 行政主導で復興まちづくり=JR西宮駅北地区住環境整備事業に取組み、 地区住民の合意集約が得られた箇所において、 細街路の拡幅整備や公園・緑地、 コミュニティ住宅の建設等が推進されている。

(8)芦屋市:若宮地区

〈細街路拡幅整備の課題〉

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若宮地区震災状況図
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若宮地区住環境整備計画図
 当地区は、 芦屋市中央部の南北を国道43号と阪神電鉄に挾まれる地区で、 震災以前より幅員4m未満の道路が多く、 文化住宅や木造長屋が密集する老朽木造住宅密集状況を呈している地区であった。

 震災後、 芦屋市は一早く復興まちづくりとして、 細街路の拡幅や市営住宅の建設を中心とする、 住環境整備事業に取組むこととした。

〈取組み経過〉

 復興まちづくりにあたっては、 地元にまちづくり協議会を設け、 住民と行政が協働でまちづくりを進めることとした。 この中で、 事業手法を税制面を配慮して住宅地区改良事業を採択するものの、 実態は存置住宅と市営住宅の併用を基本とした「密集事業型」事業を行うこととし、 存置住宅ゾーンを中心に、 幅員2.0mの細街路の4.0mへの拡幅整備を行っている。


神戸市都心再生
復興まちづくりの仕掛け

 

 震災後、 神戸都心地域においても地域ぐるみのさまざまな活動が展開されています。 これらはどのようなきっかけで始まり、 今まで何を実践し、 神戸都心再生に向けてこれからどのように取り組もうとしているのか、 各地区に関わった数人が分担して6回シリーズで報告します。

 震災後2〜3年で、 商業や業務など従来型都心機能の8割復興の達成がいわれましたが、 長引く経済不況の中で、 以後はほぼ足踏み状態にあるように感じます。 また、 当時から業種間や地域間、 企業間での格差の問題が指摘されていましたが、 ますますその傾向は強まりつつあるようです。

 このように、 CBD(中心業務地区)に代表される従来型都心の視点からは閉塞感の強い神戸都心地域ですが、 一方で「市民の交流・交歓の場としての都心」という観点からは、 さまざまな動きが見られます。 従来はCBDの見本のような旧居留地でも商業・観光展開が活発ですし、 南京町はとても元気です。 三宮東や三ノ宮南など、 神戸都心の更なる東進化のきざしも伺えます。 さまざまな機能とアイデンティティをもつ地区が重なり、 都市の経済性よりも文化性、 純化性よりも多様性を重視する都心再生への動きです。


 

三宮地区

地域問題研究所 山本 俊貞

◆地区計画の決定

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三宮地区の区域
 震災から半月が経過した平成7年2月1日、 建築基準法第84条に基づく建築制限が神戸市内では森南、 六甲道駅周辺、 三宮、 松本、 御菅、 新長田駅周辺の6地区に指定された。 このうち三宮地区では、 道路をはじめとする都市基盤施設が既に整備されていることから、 都心復興の手法として「地区計画」で対応することとされ、 旧居留地、 三宮駅南、 税関線沿道南、 三宮西、 税関線東の5地区に分割した上で4月28日に都市計画決定されている。 当初、 1地区として整備計画を分割する案も検討されたが、 旧居留地を除いては地元組織がなく、 まちづくりに対する熟度を把握できなかったことから、 地区によって計画決定に時間差が生じうることも考慮し、 5地区に分割されたものである。

 震災直後の計画づくりは、 現況資料を揃えるだけでも一苦労で、 一方、 地元では店舗や事務所がまだ再開されておらず、 地権者不在ともいえる状況の中、 素案や案を立看板で広告したり、 全地権者に郵送するなど、 混乱の内の作業であった。

 

三宮地区・地区計画の決定経緯
 '95   1/17  阪神大震災             
     2/ 1  建築制限(84条)区域の指定     
     2/16  神戸市震災復興緊急整備条例の制定
 (震災復興促進区域の指定)
  2/28〜3/13 地区計画素案(整備方針)の縦覧    
     3/16  建築制限(84条)の解除       
  3/ 9〜3/22 地区計画素案(整備計画)の縦覧    
     3/17  重点復興地域の指定         
  4/ 4〜4/17 地区計画案の縦覧           
  4/19    市都市計画審議会           
  4/25    県都市計画地方審議会         
  4/28    都市計画決定(5地区 計 70.6ha)   
 

 なお、 神戸市震災復興緊急整備条例に基づいて3月17日に指定された重点復興地域には、 建築制限のされなかった税関線沿い新神戸までのJR以北区域(税関線沿道景観形成地域)も含まれ、 当初は順次、 地区計画が決定される予定であったが、 地元が未組織であることもあり、 現在に至るまで実施されていない。


◆再建の状況

 平成12年4月現在、 三宮地区の被害甚大ビル166棟のうち98棟(59%)が再建・補修済み、 5棟(3%)が工事中で、 残る4割弱の敷地は、 空地もしくは仮設建物や駐車場等の暫定的な利用となっている。 そして、 このような三宮地区における再建の動きは、 震災後4年ほどでほぼ沈滞化したが、 数10m²から500m²程度の小規模な敷地と、 概ね500m²以上の大規模な敷地でかなりの差が認められる。 即ち、 (1)小規模敷地については立ち上がりが早く、 建つものは震災から1年半〜2年後頃までに多くが完了もしくは着工しており、 それ以外の敷地は以後も大部分が放置されたままで、 建つものは建つ、 建たないものは建たない、 という2極化がみられる。 一方、 (2)大規模敷地については建物再建の企画・設計に長期間を要し、 2年を経過してもほとんどが未着工であったが、 震災後3年時点では大部分が着工しており、 それ以外でも仮設店舗や駐車場など、 暫定的とは思われるものの一応の利用は図られている。

 一方、 小規模な敷地については共同化の必要性がいわれ続けたにもかかわらず、 これまでに実現したものは3例にすぎず、 いずれも2〜3地権者という小規模なものである。 ビルの共同化を阻む要因としては、 被害の大きかった小規模敷地が必ずしも隣接している訳ではないことに加えて、 次のように整理できる。 (1)住宅の場合と同様もしくはそれ以上に、 地権者は権利関係が複雑になることを忌避する。 とりわけ戦後の混乱期に苦労して入手した経験をもつ地主は土地に対する執着が強く、 自分の土地に自分の建物を建てたいとする意向が強い。 さらに、 借地権の問題が複雑に絡む。 (2)大規模ビルの場合と同様、 共同化によって生まれる増床部分の処分先が不透明である。 (3)共同化によって建築規模が大きくなり、 その結果、 駐車場の附置義務が新たに生じ、 レンタブル面積の大幅増加につながらない(後に、 駐車場の隔地確保が震災特例として制度化されたが)。 (4)行政による支援策として総合設計制度や優良建築物等整備促進事業が用意されているが、 これらによって得られる増床や補助金の額よりも、 空地の確保による経済的デメリットの方が大きいという認識が強い。

 

「旧居留地連絡協議会」震災前後のエポック
1994(H.6)・1   「地域計画プロジェクト委員会」設立
1994(H.6)・10   「歴史の流れに未来を引き継ぐ/
  神戸旧居留地・景観形成計画」策定
1995(H.7)・1 ★阪神・淡路大震災          
1995(H.7)・2   「復興委員会」設立         
1995(H.7)・4 ●旧居留地「地区計画」決定       
1995(H.7)・10   「旧居留地/復興計画」策定     
1996(H.8)・10   「防災委員会」設立         
1997(H.9)・3   「旧居留地/都心(まち)づくりガイドライン」策定
1998(H.10)・1   「事業所のための防災マニュアル作成の手引き」作成
1998(H.10)     地区案内サイン(銘板)整備     
1998(H.10)     まちづくり功労賞(建設大臣表彰)受賞
1998(H.10)     神戸景観・ポイント賞 特別賞 受賞 
1999(H.11)    ■神戸・居留地返還100年祭     
 


街並みの変化

 三宮地区の地区計画が決定された5地区のうち、 旧居留地を除く4地区では地元組織がないこともあって、 空間イメージが確立・共有されないまま整備計画が定められた嫌いがある。 このため、 その内容も敷地面積や容積率等の最低限度規定、 6m未満道路の拡幅や主要道路沿いにおける建物1階部分のセットバックを目指した壁面線後退の規定程度に留まり、 震災前後の街並み変化に及ぼした大きな影響は感じられない。

 この中で旧居留地では、 企業100余社の集まりである「旧居留地連絡協議会」が震災前からまちづくりや景観形成にも取り組んでおり、 地区計画を念頭においた検討も始まっていた。 そして震災後は平成7年10月に「神戸旧居留地/復興計画」を、 平成9年3月には「都心(まち)づくりガイドライン」を策定し、 まちのあり方を地区内外に提案している。

 旧居留地における地区計画や地元組織が策定した復興計画等が目指す街並み形成の要点は、

とまとめることができるが、 総合的にみて、 多機能複合型都心の形成という方向の中で、 高質なまちなみ空間が形づくられつつあると評価できる。

 この中で公開空地の確保については、 建替・新築ビルの敷地規模によって様子を異にする。 旧居留地の地区計画は指定容積率の緩和とあわせて決定された。 ただ、 この緩和の適用を受けるには、 地区計画の各要件を満足し、 一定規模以上の公開空地を確保することが条件となっている。 敷地面積の最低限度が900m²と定められており(新たに分割した敷地でなければ、 900m²未満でも建築行為は可能)、 それ以下の敷地ではたとえ公開空地を確保したとしても容積緩和につながらないことによる。

 いずれにしろ震災後の旧居留地には公開空地が増え、 風格ある賑いを醸しだしている。 そして、 その多くはポルティコの形態をとっている。 壁面線を揃えた上で公開空地を確保するという両課題に対応するために、 その解答として採用された結果であるが、 震災前にはない流れであり、 地区の新たな特性となりつつある。


情報コーナー

 

「新しい町並みの兆しを発見する」
−阪神白地まちづくり支援ネットワーク/第13回連絡会記録('00.4/7)−

 震災5年を経て、 被災市街地の再建の現状を見ると「どこでも同じ風景になってきている」といわれています。 そこで、 これからの町並み形成を考えていくために、 形成されてきた町並み景観の実態を読み解くという観点から、 「再建市街地の実態を確認する」、 「再建市街地のなかで、 新しい町並み形成につながる事例を発見する」という2点を目的に、 震災復興・実態調査ネットワークによる調査が行われました。 その調査のメンバーの中から3名による報告会がこうべまちづくり会館で開催されました。

 辻信一さん(環境緑地設計研究所)からは、 「よく使われている敷地回りの材料−外構事例」というテーマで阪神間市街地(深江地区)をゴールドクレストやレッドロビンといった緑化材料を使用した外構等についての報告がありました。

 小浦久子さん(大阪大学)からは、 「住宅再建からまちづくりへ」というテーマで阪神間市街地(芦屋地区)の調査をもとに、 新しい生活風景につながる町並み要素等の報告がありました。

 三輪康一さん(神戸大学)からは、 「外構と敷地内空地の協調化・共同利用化・共同化」というテーマで再建住宅による震災後の下町地区の、 町並みの現状等の報告がありました。 その後、 会場を交えて、 「新しい町並みの兆しを発見する」という意見がかわされました。

(アップルプラン/天川雅晴)


(仮題)「市民まちづくりの可能性を探る」−尼崎まちづくりフォーラム−
(第14回阪神白地まちづくり支援ネットワーク連絡会)


●日本造園学会全国大会・2000年記念神戸分科会
「みどりのNPOフォーラム」


●“kobe Speaks 21c”フォーラムIII「花のふる神戸に」


芦屋市まちづくりシンポジウム
「住民参加のまちづくり・その方法と展望」

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