きんもくせい50+15号
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まち協の自主解散(解散決議)を考える

芦屋中央地区震災復興まちづくり協議会 顧問弁護士 坂和 章平

 1。 当まち協は本年6月4日開催された第7回総会でまち協を解散する旨の決議をし、 自主的に解散した。 会員総数494名中、 本人出席44名、 委任状出席159名の総会での決議である。 まち協の解散をめぐっては、 事前の打ち合わせでも「時期尚早」「まだ事業は終了していないのになぜ・・」という意見もあったし、 総会の会場でも同じ意見が出された。 自主的解散をどう位置づけるかは微妙な問題である。 震災後各地でまち協が結成されたが、 本件は解散決議で自主的に解散した最初のケースであるため、 当まち協顧問弁護士としてその位置づけを考えたい。

 2。 当まち協は震災から約半年後の平成7年8月6日にやっと結成されたことからわかるように、 復興まちづくりへの住民の盛り上がりから結成されたものではなく、 コンサルの応援もなかった。 そのため事業計画についても行政提案に対する住民案の提示に至らず、 住民の意見をバラバラに提出しただけとなり、 これを一部受け入れた行政による修正案が平成8年6月18日最終の事業計画として認可された。 以降、 当まち協は仮換地について・供覧や個別説明会の実施・現地相談所の開設・アンケートの実施・数件の仮換地について修正の申入れ・公共施設の整備の要望等の活動を展開し、 現在仮換地指定約70%、 使用収益の開始約30%ながら現地換地分を含めると仮換地指定は実質98%完了した。 これにより事業の焦点はしだいに個人の補償問題に移行し、 まち協の行事への住民の参加は減少した。 つまり、 まち協として取り組むべき課題そのものが縮小したのである。

 3。 他方当地区では、 事業計画に反対する一部の住民が「住民の会」を結成し、 事業批判とまち協批判を展開した。 まち協批判のビラは役員の人格攻撃を含めた下劣なものも多く、 多くの役員は「消耗」し、 総会はその運営をめぐって「荒れた総会」となった。 まち協と住民の会の間を「取り持つ」ことを旗印とした「復興協議会」のメンバーも昨年の総会でまち協役員に選任されながら、 役員としての十分な役割は果たしていない。

 4。 この状況下、 私は当まち協の役割はほぼ果たし終えたとの認識により、 自主的解散の提案をした。 そもそも、 当まち協が震災復興土地区画整理事業について住民の意見を具申し、 施行者や行政と協議するための唯一の公認住民団体として成立した以上、 復興事業の終了とともにその役割を終えることは明らかである。 もっとも、 復興事業の終了とまち協の解散はイコールではなく、 「衣替え」したまち協への「変身」が望ましい。 つまり「震災復興」の「冠」をとり、 まちづくり全般を課題とする新たな組織(株式会社化もありうる)に生まれ変わることがベストであり、 他地区では一部その例も生まれている。

 しかし当まち協は残念ながらそこまでの「変身」能力はなかった。 逆に、 仮換地の指定が事実上98%終了する中、 一方ではまち協としての活動課題の縮小、 住民の参加意欲の減退(総会への出席も委任状出席が3/4を占める)が生まれ、 他方では「住民の会」が個人的な仮換地指定への不服申立とまち協攻撃を続ける現状を見れば、 早晩、 まち協総会すら不成立となる恐れもあった。 そうなればまち協は機能不全となり、 死に体となることは明らかである。 今般の当まち協の解散は、 いわば、 体力のあるうちに自ら身の処し方を決めたものであり、 決して望ましいものではないが、 当地区の実情下ではベストの選択であったと考えている。

 5。 残る事業についての住民意思の集約は、 今後自治会や商店会等が受け皿となってやるべきだし、 まち協の旧役員はそれぞれの持場で役割を果たすだろう。 当まち協は合理的手段を経て解散に至ったが、 当地区でのまちづくりの課題は多い。 震災後5年余りの復興まちづくりの実践と学習の中、 新たなまちづくりのための住民組織の誕生を期待したい。


 

新長田駅北地区(東部)土地区画整理事業まちづくり報告(10)*1

久保都市計画事務所 久保 光弘

IX。 ふれあい祭

1。 MACHIZUKURI

 ・司馬遼太郎さん(この国のかたち一)は、 外国には農業土木という言葉も学問も分野もないため、 日本農業土木学会ではNOGYODOBOKUと日本語のままつかい外国の学者もそれにならう人が多くなっていることを紹介している。 日本は、 歴史的に農業国家だった。 翻訳できない言葉とは、 独自性のある日本文化を示すものと言える。

 ・西村幸夫さん(都市計画 No.163)は、 バンコクの大学で講義をする際、 「まちづくり」の英訳に立往生し、 Community buildingとしたが自信がないと述べられている。 阪神大震災復興市民まちづくり支援ネットワーク発行の「復興まちづくりキーワード集」('99年1月発行)の翻訳では、 「まちづくり」を“Machizukuri”と日本語のままになっている。

 西村さんは、 この「まちづくり」について欧米と日本とで決定的に違う点を「欧米ではさまざまな市民活動が町並みの保全や開発計画の変更など、 おもに物的な成果物へ収斂してゆくのに対して、 日本では関心が活動プロセスや運動論の新展開など活動の継続自体、 あるいは活動している人間自身にまで拡がっている点である。 」とし、 日本では「もの」だけでなく、 「ひと」や「ことがら」の動向にも等しく関心を寄せる傾向が非常に強いと述べられている。

 ・この数年間、 町街区毎に林立した新長田駅北地区東部のまちづくり協議会をはじめ、 震災復興地域以外の協議会等を含めて十数協議会を支援してきたが、 それぞれの協議会の中に奇妙な共通点に感慨さえ覚える。

 例として少しあげると、 (1)これまでまちづくりの経験がなかった人々が、 なぜ短期間のうちに立派な協議会活動ができることになるのか。 (2)円滑な協議会活動をしているところは、 激しい議論を繰り返したうえで、 行きついたところで採決は拍手で決めているところが多い。 民主的と思われる投票や挙手等の採決をする場合は、 何となく協議会がギクシャクしている場合が多い。 (3)会長等役員の中に仕事や家庭を二の次にして協議会のために活動する人がおられることは、 めずらしいことでない。 (4)会議等では、 会長は独断的でなく、 全体への気くばりを重視し寡黙な場合も多い。 日常的に人間関係にとりわけ気をつかい協議会のため日夜活動されている。 等々。

 このようなまちづくり協議会で感じられるこの特質を半ば冗談(半ば本気)で「まちづくり本能」「まちづくり文化遺伝子」と言ったことがある。

 ・「まちづくり」とは、 「地縁性の再生」を意味するものだろう。 調査によるものではないが、 私の経験からいうとまちづくり協議会が育つところと難しいところがあるようである。

 地方部では元々伝統的な自治組織があるところが多く、 そこでは「まちづくり」は、 何も新しいものでもない。 都市部でみると例えば、 神戸市灘区では現在、 味泥、 灘中央、 大石南、 新在家の各地区でまちづくり協議会等により、 まちづくり活動が行われているが、 これらの各地区はいずれも伝統的集落があった地区である。 又、 長田はほとんどが大正時代の耕地整理でできた町であるが、 まちづくりが比較的育つ町であろうと思われる。 それは、 住工商のまちとして地縁性が強い町であるからだろう。 反対に新興住宅地で「まちづくり」は容易ではないように思われる。

 ・司馬さんは、 日本の中世に「惣」とよんだ集落の結束体をとらえ、 この惣こそ日本人の「公」(共同体)の原型といってよく、 いまなお意識の底に沈んでいると述べられている。 当時の権力は、 行政なしの徴税のみの存在だったらしく、 「惣は神聖でしかも濃厚に自治的だった。 オトナたちが惣の政治を寄合によってきめ、 若者連(若衆宿)は軍事をうけもった」らしい。

 司馬さんは「公」、 「公意識」というように「公」に「ムラ」のルビをうっておられる。

 米山俊直さん(都市と祭の人類学)は、 「コミュニティ」という言葉は、 1969年の行政文章が端緒で、 官庁用語として普及した一面があるとし、 あえて外来語を採用したのは、 日本語につきまとう従来からの語感がきらわれたためであろうと述べられている。

 翻訳しにくい言葉である「まちづくり」の深層を見極めることは、 これからの課題である。

2。 新長田駅北地区の祭・イベント

 ・震災前当地区は、 自治会活動すらあまり活発でない地区であり、 「ふれあい祭」のようなイベントもまれであった。 しかし、 まちづくり協議会の活動とともに多くの協議会で同時多発的に自発的な「ふれあい祭」が行われている。

1)各町街区単位の「ふれあい祭」

 ・平成8年から9年にかけて神楽5・6、 川西・大道4、 川西・大道5、 水笠通2等の協議会で震災でバラバラになった人々が顔を合わす機会として、 ヤキソバや焼肉等を用意した素朴な「ふれあい祭」が始まっている。

2)テーマをもつ「ふれあい祭」へ

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1 細田神楽ふれあい祭のフリーマーケット(H11)
 ・平成9年から10年にかけては、 まちづくり過程としては、 共同建替等、 隣接協議会との協力関係で事業を進めている時期であるが、 この時期、 協議会合同で「ふれあい祭」が行われている。

 ・平成9年に始まった細田4・5、 神楽3・4の3協議会合同のふれあい祭は、 平成10年も行われ、 平成11年の細田神楽地区の8町街区合併協議会設立後も継続し、 今や「細田神楽ふれあい祭」は、 毎年の恒例行事となってきている。 平成10年のふれあい祭では、 神楽5丁目の受皿住宅の新住民歓迎をテーマとし、 平成11年のふれあい祭では、 アジアギャザリーやシューズプラザの建設も決まったことから、 アジア・ブラジル料理コーナー、 アジアギャザリーコーナー、 靴販売コーナー、 ヴイッセル神戸コーナー、 フリーマーケット等、 住民のふれあいの場だけでなく、 来街者の参加も考えた規模の大きなふれあい祭に発展してきている。 また、 平成10年12月、 水笠通2・3丁目の2協議会は合同で共同建替の安全祈願祭にあわせて、 「ふれあいイベント」を開催している。 これは、 共同建替保留床の販売のPRを兼ねたもので大規模なイベントであった。

3)その他のイベント

 ・平成11年5月には、 「キラリ・ながた まちづくり夢フェスタ」という長田地域で取り組む祭が行われ、 細田神楽や川西大道の協議会は、 参画している。

 ・平成11年頃から細田神楽協議会は、 地域の一斉清掃である「クリーン作戦」を定期的に行うことを決めている。

 ・平成12年1月16日、 川西大道は、 池田南部連合自治会として「阪神淡路大震災犠牲者合同追悼式」を行っている。

3。 「まちづくり」の柱としての「祭」

 ・新長田駅北地区の「ふれあい祭」は、 行政もコンサルタントもあまり関与をしておらず、 ほとんどが住民の自主的なものであるが、 その企画力とパワーには驚くべきものがある。 祭は、 自主的なものであり、 住民だれもが喜んで楽しく参加できる場であり、 心の連帯の回復の場として、 「まちづくり」の中核にあるものといえる。

 ・平成2年頃、 神戸灘区味泥地区の「まちづくり」の始まりは、 伝統的な祭の活性化からの取り組みであったが、 その祭の活性化とともにまちづくり気運が同時的に高まった。 その頃の味泥地区の状況から学んで、 まちづくりの方法論として「良循環プログラム<スパイラルアップ>」をかつて提案したことがある。 新長田駅北地区のまちづくりをみていると、 ここでもこの方法論は、 適っているように思うので、 以下に載せておく。


■元気になるまちづくり
−良循環プログラム<スパイラルアップ>

 
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 ・インナーシティの現状は、 「縮み」(悪循環)の構造である。 まちづくりは、 「スパイラルアップ」すなわち「良循環」の流れをつくり出すものである。 まちづくりは、 図のように、 ビジョン軸、 事業軸、 祭軸の3本の柱が相互に連携、 相乗しながら展開されていく。 その流れの中でチャンスを取り入れ、 ビジョンが更新されていく。 すなわちオープンエンド型展開であり、 更新的推進プログラムである。 その「まちづくり」のパワーの根源は住民の自主的な「祭」にあるといってよい。

('00.6.12記)


 

神戸南京町地区

まち空間研究所 白井 治

南京町まちづくり計画

 神戸南京町景観形成協議会は、 南京町地区(元町通1〜2丁目、 栄町通1〜2丁目の約3.6ha)が平成2年10月15日南京町沿道都市景観形成地区に指定されたのを受けて、 平成3年、 神戸市景観形成市民団体(約130世帯)として認定された。 震災で中断されたが、 平成6年からまちづくり計画を検討中であった協議会は、 平成7年6月、 「グルメが基本」「本物志向」「街ごと楽しめる」といったまちづくりの目標を挙げ、 8m街路の電柱美装化、 細街路整備、 広場再整備、 夜景の演出、 銀行跡地の活用等の具体的な「南京町まちづくり計画」を策定し、 市に提案を行った。

細街路の整備

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 その中の短期計画の1つとしてあげていた細街路整備計画が、 市施行の細街路復旧工事(平成8年10月〜3月)にあわせて、 地元負担により道路表層部をアスファルト舗装から福建省直輸入の錆御影石張りや龍などを彫り込んだレリーフ石板の設置、 及び震災メモリアルのメッセージレンガ舗装に変更して、 平成8年度末に完成した(地図の薄い網掛け部分)。

 雰囲気を一新した細街路には新しい店舗もできてきて、 にぎわいも増している。 まちづくりに対する協議会の取り組みに対しては、 まちづくり功労者として平成9年度まちづくり月間建設大臣表彰を受けた。

南京町広場の再整備

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 平成10年度は、 平成9年に行った来街者に対するアンケートで、 ゆっくりと休息するための場所が少ないという意見が多くあったことや、 南京町広場北側の既存案内板の老朽化とその周辺での放置自転車・不法駐車などの問題から、 広場周辺について、 総合案内板の設置(老朽化した既設サインの改修)とともに、 街路樹の周りを石ベンチとプランターで取り囲む憩いのスポットづくりなどの再整備を行った。 案内板には、 「南京町の沿革」及び「春節祭」についての説明文も、 日英中韓4ヶ国語で表示した(写真5)。 これにより、 神戸市国際観光推進まちづくり助成による補助を受けることができた。

旧北拓銀行跡地

 地区の東端、 長安門脇の空地は、 南京町として玄関口にあたる重要な場所であるため、 廟や博物館とともに、 中華会館、 飲食店街、 まちかど広場など、 地区にふさわしい利用計画を協議会で検討し、 まちづくりに沿った開発を各方面打診にした。 結果的には地元企業によって、 平成11年の夏に2階建・大屋根の中華風外観を持った飲食物販店舗が建設され、 街角広場もあわせて整備されて、 旧居留地側エントランスにふさわしいゲート空間となった。

8m街路の電柱美装化

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6 電柱美装化整備前
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7 整備後
 平成8年度から継続して検討を行ってきた8m幅員のメイン街路の電柱美装化計画は、 平成11年度に南京町地区電線共同溝整備事業として進めることが、 神戸市として方針決定された。 市、 関西電力をはじめとする関係諸団体の協力体制のもとに進められた整備事業は平成12年6月完成した。

 この事業は、 南京町の東西約270m、 南北約110mのメイン街路の既設電柱を街灯兼用のスリムな美装柱に建て替えて、 引き込み以外の架空線をC.C.Boxにより地中化することで、 頭上をわたっていた繁雑な電線をなくし、 すっきりとした街並みとするものである。 美装柱には中華風のランタンデザインの街灯を地元負担により設置し、 異国情緒のある夜景を生み出している。 また、 地中化のためにやり替えとなるメイン街路の既設敷石を明るい色調の研ぎ出し平板舗装に全面リニューアル(広場部分は除く)して、 地区の景観を一新している(地図の濃い網掛け部分)。

 このリニューアルで町全体が明るい印象になり、 来街者には雨の日でも歩きやすくなったので、 高齢者や障害者の方も訪れやすい、 幅広い年代のひとに楽しめる「人にやさしいまちづくり」への第一歩を踏み出したといえる。 また、 南京町広場南側のメイン街路十字交差部分には、 新たな千年期を迎えるにあたって、 訪れる人々が幸福になるようにとの願いを込めて、 幸せを呼ぶ「招福四面童子」の意匠の彫り込みを施した板石(通称「招福石板」)を設置した。 さらに、 先年決定した各街路の名称(南京東路、 東龍街など)を彫り込んだレリーフを入口各所にはめ込み、 来街者に分かりやすい街路表示とするなど、 町を歩くだけでも楽しめ、 かつ幸せを呼ぶ「招福の町」をコンセプトに、 街は生まれ変わった。 これら積年の願いであった電線地中化完成と街路敷石リニューアルを記念して、 6月18日、 南京町二千年紀「招福開街祭」という記念式典も盛大に行われた。

今後の活動と課題

 メイン街路の電柱美装化の実現により、 細街路整備からの震災後の一連の景観整備は一段落といったところであるが、 西側楼門の改修や細街路の照明計画など、 まだやるべきことも残っている。 事業資金についても、 経済的に厳しい中での毎回の徴収努力となっており、 平成11年度には今後のまちづくり計画をより円滑に推進していくための「環境整備基金」の創設も行われたが、 まだまだこれからである。 また、 整備後の街路の使われ方や、 敷地側の個々の建物についての街並み修景の進化・個性化も今後の課題としてある。


 

社会の脊髄としての文化

海文堂書店/アート・エイド・神戸実行委員会事務局長 島田 誠

 神戸という街は、 めぐまれた地理的環境と世界に開かれた港を中心として発展してきた歴史的経緯から、 生活文化としては市民のライフスタイルそのものが文化としての豊かさを感じさせ、 阪神間としては豊かな芸術文化を育んできた街でもある。 しかしながら、 最近は、 こうした文化的風土が軽んじられる憂慮される傾向の中で震災をむかえた。

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「詩集・阪神淡路大震災」 95年4月刊 「詩集・阪神淡路大震災第三集 復興への譜」 97年1月刊 「アート・エイド・神戸」活動記録集 97年8月刊
 

 震災で傷んだ街と心を文化という観点から復興しようというアート・エイド・神戸の訴えは幸いにして大きな支持をいただいた。 もちろん単なる復旧ではなく新しい文化の創造という意味を孕んだ活動であったし、 その意味においては、 本当の使命はこれから果たさねばならない。


2−1 文化のもつ意味

 文化とは人間の骨格とりわけ背骨にあたり、 都市の背骨に他ならない。 人が人らしくあり、 生き生きと感動をもって暮らすために欠かせない要素である。 道路や、 港や、 公園の整備を都市のインフラ(基盤)と呼んでいるが、 本当は私たちを私たちたらしめている文化こそが何よりのインフラに違いない。 骨格をおろそかにして胃袋や、 筋肉や、 頭脳だけを鍛えようとして長じて身体的病理を抱え込み多大な治療を必要としているのが現代の日本である。 文化軽視による心の歪みや、 それからくる社会的な問題に後から対処することこそ、 文化への投資の何倍ものコストがかかることは自明である。

 あのユーフォリア(至福感)は一時の夢、 うたかたの幻であっても、 記憶の中に止め、 ときに芸術の力で一瞬にフラッシュバックしたい。 人間は忘れることによって生きている存在である以上、 風化を恨んでみても仕方がない。 わたしたち自身、 時の癒しによって心の病から救われているのだから。 しかし、 何よりも震災で私たちが学び、 そこから生み出したものを伝え続けたい。 それは生々しい記憶ということだけではなく、 人間が今いることの意味や、 繋がっていることの大切さを深いところで共有することになるのだ。

 芸術と触れ合うことにより、 人生を深く考えさせられたり、 深く心を動かされることにより、 生きていることを実感できる。 今、 流行のように言われる芸術による「癒し」や心理療法の手段は芸術が内在する力として当然である。 それは人格に強い影響をもつものである。

 勿論、 我が国に芸術文化を軽視する風土が、 もともとあったという訳ではなく、 四季折々の豊かな自然環境に恵まれ、 四方を海に囲まれた平和な島国のなかで、 たとえば江戸文化にみられる世界に誇りうる独創的にして絢爛たる芸術を生み出していた時代もある。 今、 私たちが述べようとしているのは、 戦後の価値観の変換の中から生まれてきた文化的状況への批判と克服への課題である。

 フランクフルト市の元文化担当官ヒルマー・ホフマン氏は「日本は芸術を大切にしない。 芸術への公的支援が当然のコンセンサスになっていない。 それは教育の問題で、 子どもの頃から、 芸術がいかに大切なものかを上手に教えていかなければ、 大人になってもそうゆうふうにはならない」と指摘している。 (注3


2−2 企業にとっての文化の大切さ

 戦後における文化的基盤の整備は国が担ってきた。 それは税金という形での財源提供を受け、 社会的資産の整備として学校、 図書館、 美術館、 スポーツ施設、 ホールの建設などがてがけられ、 経済の発展過程の中から、 徐々に企業がその存立の理念の体現として文化への投資を行うようになり、 国の税制上の支援もあった。 国家による文化振興と並行して、 日本独特の企業社会のもと巨大な守護神としての企業を中心とした文化振興へとステージが移ってきた。

 また、 まちづくりの観点から言えば、 企業が社員の福祉として文化を整え、 提供する時代は過ぎ去り、 高学歴で情報化時代の申し子であるわれわれにとって、 文化的環境に恵まれた土地が住みたい街、 働きたい街の必須の条件となった。

 私たちは高度経済社会に生活しており、 すべてが商品やサービスを媒介とした効率と消費に奉仕する仕組みのなかに生きている。 しかし、 よく考えてみれば、 車も服も住宅も生活用品も、 人生を豊かに生きる手段、 道具に過ぎない。 この道具を手にいれて、 どのように生き生きとした日常を創っていくかが目的なのである。 日本経済の大崩壊に直面しても、 今ひとつ深刻にならないのは、 基本的に、 こうした道具を人々が手にしてしまっていることによる。 道具が目的に適っていないことが問題なのである。 深刻なのは消費の不振ではなく雇用と老後への不安である。 今、 私たちが直面している事態は道具の過剰と、 この現実にたいする経済構造のズレである。 過去の時代に想像しえなかった超成熟社会となり、 少子高齢化の現実の中では、 さらなる道具の生産と消費の拡大は望むべくもなく、 張りのある日常、 生活の安定、 感動の追求を目的とした経済行動、 すなわち教育、 福祉、 文化を産業化し、 安定的な雇用を生み出していくことが重要である。

 道具の製造の優秀さを競っていた時代は去り、 人生を豊かに彩る目的に適った企業行動が求められる時代においては、 文化的感性こそが最も重要な要素なのである。

 また、 芸術文化の尊重は企業の存在証明としての最も重要な戦略たりうるのである。 カルティエは現代美術を中核にして、 その企業個性に沿う創造性と前衛性と知性をその存在証明とし、 ヒューレット・パッカードは現代美術・写真・音楽に取り組むことによって、 企業の若若しく、 創造的なイメージの創出に成功している。

 企業は20世紀に科学者を受け入れたように、 これからは芸術家を受け入れていくに違いない。

 今はデザインといった実用的必要に迫られての受容から始まっているが、 もっと根源的な社会を動かしていく理念、 精神の体現としての企業文化が不可欠なものとして認識されるに違いない。


2−3 市民社会における文化の在り方

 前段において、 国家中心の文化基盤の整備から、 企業社会へのステージの移行についてふれた。 しかし、 今や、 私たちはさらに次のステージに足を踏み入れている。 企業中心社会、 経済至上主義の中で組織や規格のがんじからめのために窒息しそうな自我を開放し、 主体的な自己を回復する必要がある。 マルクスが唱え、 サルトルが実存主義の立場から証明しようとした高度資本主義社会での自己疎外の概念は、 このごろ語られることは無くなったが、 一見巧妙に隠されているが、 その基本的疎外状況は変わらない。 そして、 その状況を克服し、 人が人として実現するためには文化と日常的に接し、 精神的な欲求を自足することが必要であり、 有効である。

 いま、 日本は文化を中心とした生活の大幅な質的、 数量的な拡大の直中にいる。 とりわけ、 神戸においては、 震災を境にして、 膨大なエネルギーと情熱をもった何十万という人々がボランティアとして文化を創りだし、 広めることに関わってきた。 生きていることを実感できる社会とは、 多様な個性を持ち、 多元的な文化の交流があり、 感動を享受できる社会である。 芸術文化とは、 その根源をなすものであり、 生産活動、 経済活動は、 その根底の上に立ってこそ道具であることから開放されるのである。

 しかし、 芸術文化とは、 そもそも個々の独創的な表現を追及するものであり、 公共の利益の概念に必ずしもなじまない。 その時代の概念を打ち破ることにこそ活動の本質があるといつても過言ではない。 したがって、 文化の育成を、 すべて行政の保護のもとに置くことは、 芸術の根を絶やすことになる。 市民活動の重要な由縁である。

 これから微細な存在である個人が文化を担う主体であるとすれば、 国家や企業が担ってきた役割を分担する意味において税制上の仕組みの変更が実現されなければならない。 それはアメリカ型の非営利活動の社会的な認知であり、 今回成立した特定非営利市民活動支援法、 つまりNPO法が積み残した税制上の恩典の実現である。 それはタックス・ペイアーとしての権利と義務の再構築である。 大衆社会への進展のなかでゆとりのある富裕層や、 草の根としての個人レベルでの貢献にまで裾野を広げた財政支援のシステムが必要である。

 アメリカでは建国以来の「小さな政府」の伝統により、 芸術分野を含む二万以上の非営利団体が組織され、 市民活動として支援してきた。 政府は寄付金控除として間接支援する。 企業がこうした活動に寄付する場合は税引き前利益の10%までが控除の対象として認められる。

 アメリカの美術館や交響楽団が国家や自治体ではなくパトロンによって支えられていることはよく知られているが、 アルビン・トフラーの「文化の消費者」(注4)によれば、 個人の大パトロンが組織に君臨する時代は終わり、 かれらのコントロールが崩壊したとし、 約33万人の個人と会社が、 国内のオーケストラの支援のために、 毎年寄付している。 そして、 その寄付の85%以上が100ドル未満の金額であるとある。 トフラー氏の著書が刊行されたのが1964年であるのでデータとしては今や古いが日本の流れとしては参考になる。 こうした市民参加が楽団運営に新鮮な力、 熱意、 アイデアのうねりをもちこんだきた。

 巨大な国家という枠組みのなかで、 企業が社会を構成する中心であり、 個人が従属するというヒエラルキーの構造が、 今、 逆転しつつある。 自立した市民が 責任も義務も併せ持ち「市民力」とも言うべき力を発揮しはじめており「静かなる市民革命」が進行しているのだ。

 地域の抱えたいろいろな問題を市民自身の手で、 あるいは行政とのパートナーとして取組む活動は、 自立した市民による、 あるべき社会を予感させる動きである。 政治、 財界、 官僚という鉄のトライアングルは、 巨大戦艦「日本丸」の推進エンジンであったが、 乗組員としての市民の立場で考えれば、 行政、 企業、 市民というトライアングルの内実を埋め、 豊かにしてゆくには、 分断され孤立した市民が、 こうした活動を通じて成長してゆくことが望ましい。

 価値判断から自由な創造活動を保証するためには、 こうした市民活動のような中間組織が社会的に認められその活動に対して市民が積極的に参加し、 その基金に対しては税金の恩典を与えることによって間接的に支援することが望ましい。 過去がなければ、 現在も未来もない。 過去の文化遺産を大切にすることは当然である、 とともに未来を切り開いていく創造活動を社会的に根づかせていく社会的なシステムの構築が望まれる。

 注3 季刊メセナ(企業メセナ協議会) NO・029 P10
 注4 アルビン・トフラー「文化の消費者」 けい草書房 監訳 岡村二郎 1997年7月30日

 

その5・若頭河合節二

明日のまち協を担う

まちづくり会社コー・プラン 小林郁雄

 1) 若頭河合節二は、 現在の野田北部まちづくり協議会の若きニューリダーの一人である。 ほかの多くのメンバー同様、 この地区で生まれ、 育ち、 被災し、 復興に取り組み、 今も住んでいる。

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 月刊の「野田北部まちづくりニュース」を編集し、 FMわぃわぃの「ネットワークまちづくりワンダーランド」の進行役を務め、 突然やってくるボランティアや見学者に応対し、 会長の命を受けて各地に飛ぶ。 その合間に、 節ちゃんは神戸の6割のシェアをしめる黒板会社(かつては市内の9割を押さえる創立50年の老舗)の仕事で学校を巡っている。

 2) 1961年(昭和36年)5月5日長楽町三丁目に生まれ、 鷹取教会の幼稚園、 千歳小学校、 太田中学校、 須磨高校と、 実家の神戸黒板株式会社で働くようになるまで、 兄貴分林博司と全く同じ経歴の正統野田北人である。

 しかし、 88年10月27歳で美恵子さんと結婚し、 いずれ隠居後に住もうと父の宏さんが83年に用意していた須磨ニュータウン北落合の戸建てに新居を構えることになり、 下町っこが突然郊外団地の90坪の土地に建つ40坪の豪邸の主となってしまった。

 宏さんが91年に亡くなったため、 ずっと団地に住むことになったが、 虫の知らせか野田北部地区のために働けという天の配剤か。 1994年12月大震災1か月前に会社のすぐ隣に建ったマンションを買い、 一家で連休で来ていたが長男の彰一君が風邪気味で1月16日の夜も泊まっていくことになって、 あの日の朝を迎える。

 3) 高校を出て、 浪人・ぷーたろう生活から入社し結婚するまでの1980年代の青春時代は、 年間300本の映画を見、 焼鳥屋野球チーム「スパローズ」に属し(みんな野球やゴルフやボーリングがホントに好きだなあ)、 機械好きのバイク乗りであった。 こけて膝を痛め、 カネボウ病院に入院したとこで検査技師をしていた美恵子さんを見つけるという、 まさに転んでも只で起きない節ちゃんらしい恋愛物語はここでは省略。 そうした二十代から、 すでに自治会にも出席し、 今につながる。

 4) たまたま、 野田北部地区に来ていてあの1月17日に泊まっていたことが、 節ちゃんの後半生を決定してしまうことになった。 震災救援・復旧復興・まちづくりに、 焼山・加茂・山崎・林の第一世代を追う大坪・赤壁といった若手のひとりとして、 その日から昼夜なく、 北落合に帰るヒマもなく、 活動開始継続する。

 直後から集会所に集まり、 安否確認・夜回り、 ガレキ撤去・避難所の世話を経て、 区画整理事業・地区計画への勉強・対応から、 「絞り出せ」夏祭りや「復興まちづくり」世界鷹取祭などのイベントに至るまで、 人生が変わったという。 「平板な人生だったから活劇のように面白い」と、 節ちゃんはちょっと口ごもりながらつぶやく。

 5) 海運町二・三丁目を中心にした区画整理事業(鷹取東第一)への取り組みが、 それに負けない街として野田北部の長楽町・本庄町への街並み誘導型地区計画をみんなで決め、 街なみ環境整備事業を利用したまちづくりへと進んでいった。

 その第一が、 長楽町三丁目の細街路美装化であった。 12路線までに広がった路地整備事業で、 どんな形になりどれだけ負担しなければならぬのか、 皆目見当も付かない状況の、 まず最初のとっかかりの苦労は、 大きかったと思う。 そこには、 震災復興まちづくりの経験が生きている。

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長楽町三丁目の路地整備
 しかし、 66歳になる母の淑子さんが神戸黒板の会社の隣組である「沿道の一軒一軒の人たちに話してくれたからできたんです」と、 節ちゃんはいう。

 21世紀になると40歳になる若頭は、 野田北部だけではなく、 長田区、 神戸市のまち協の明日を担う。


情報コーナー

 

報告

「協働のまちづくりをめざして−尼崎まちづくりフォーラム」
−阪神白地まちづくり支援ネットワーク第14回連絡会記録('00.6/9)−

 今回は、 尼崎市において「協働のまちづくりをいかに進めていくか」をテーマとして、 神戸山手大学学長の小森星児さんをコーディネータに、 尼崎に何らかの関わりのある6名のパネラーが討議するフォーラムが開催されました。 神戸商大教授の加藤恵正さんからは震災後の大規模空地が増加しつつある状況をとらえた今後のまちづくりの方向について、 評論家の河内厚郎さんからは演劇をテーマとした文化振興によるまちづくりについて、 建設経済研究所の頼あゆみさんからは自らの経験を通してみた市民まちづくりのあり方について、 兵庫県地域政策担当課長の佐藤哲也さんからは昨年県として初めてできたまちづくり条例について、 尼崎市理事の横山助成さんからはJR尼崎駅北地区の再開発推進での苦労話などについて、 阪神白地まちづくり支援ネット世話人の後藤祐介さんからは今後の尼崎市における協働のまちづくり推進の提案などについて、語られました。 会場は満杯で、熱気あるフォーラムとなりました。


これからのイベント

●第5回・神戸市民まちづくり支援ネットワークフォーラム

●日米震災フォーラム

●地域別公開フォーラム

<阪神地域>

<淡路地域>

<神戸地域>

<東播磨地域>

●被災地コミュニティ・ビジネス離陸応援事業/公開審査会

●2000年国際都市計画シンポジウム

●HAR基金・第8回公開研究会

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