コンテナから仮設市街地へ(株)首都圏総合計画研究所 濱田 甚三郎 |
応急仮設住宅が足りない、 いつまで避難所暮らしを強いるのかが問題視されていた95年3月初め、 仲間の建築・都市計画プランナーや学生達とC・V・W(コンテナ・ビレッジ・ワークショップ)を立上げ、 中古コンテナを改造した仮設建物を供給しようとしたことがありました。 C・V・Wは結果的には3個のコンテナを改造したモデルホームを真野地区と新神戸の駅前に設置したに止まりました。 自前の仮設建物にコンテナを使ったケースが散見されましたが、 それを使われた方々にいささかのヒントを提供できたのであれば、 私たちの活動も無駄ではなかったかもしれないと考えています。
C・V・Wの立上げに先立って「仮設市街地づくりを支援しよう」という小文を私は書きました。
主旨は、 「被災地は広大で地域によって被災状況が異なっているから、 今すぐ本格復興に着手する区域と、 少し時間をかけて暫定復興をはかる区域に区分し、 暫定復興の区域では3年程度を目途として仮設市街地をつくり、 その後本格復興にシフトしていく。 仮設市街地は住宅だけでなく、 店舗や事務所・工場などが多くの仮設建物で構成される。 仮設市街地をつくる方法は被災建物をなるべくすぐに壊さず、 修理してしばらく使うことと、 応急仮設住宅の代替物を多様に工夫してつくり出すこと、 コンテナもその一部となる。 」というものでした。
「仮設市街地」の考え方は、 97年に東京都がまとめた都市復興マニュアルに再登場することになります。 被災地域の人々がなるべく地域に住み続けながら被災地の復興にあたる必要がある。 そのためには仮設住宅だけでなく、 仮設の働く場所やサービス施設も必要である。 住宅に限ってみても、 想定される被害住宅数と供給可能な応急仮設住宅数の開きがあまりにも大きく、 応急仮設住宅一辺倒では東京はとてももたない。 などがその考え方を導入した主な理由です。 使えるものは何でも使って、 被災後の空間をしつらえ、 復興までの時間をかせぐ。 そのためには当然、 自己所有地を始めとして民間の土地も使い、 自力仮設も公共が応援していくスタンスが重要だ。 という問題提起をしたのです。
この「仮設市街地」の考え方を市民レベルで検証してみようと実行委員会を組織し、 「1,000人の仮設市街地づくり」というイベントを昨夏4日間、 東京立川の昭和記念公園の一角で実施しました。 多様な材料を使った仮設建物で構成される仮設市街地をつくり、 そこでの暮らしを経験して、 復興を考えてみようという目論見でした。 幸い延べ1,300人の参加者を得て、 多くの人々との交流を深め、 問題意識の共有化が進められました。 このイベントにトルコ人が参加していた関係で、 トルコ大地震後、 彼の要請を受けてトルコ復興支援実行委員会を立上げ、 簡易トイレの送付、 テント村の冬対策の提案などささやかな支援を続けることになりました。
コンテナから始まって仮設市街地にこだわりつづけてきた5年半。 台湾やトルコの被災地を見るにつけ、 仮設市街地の考え方の重要性をより強く認識する一方で、 我が国で大都市災害が発生した場合その考え方を着地するために幾多の課題があることをかみしめているところです。
図X-1 条里制地割の単位 |
・神戸市西部市街地の条里制研究は大正10年頃、 神戸市史編集員 岡久殻三郎が応保2年(1162年)の年号が入った条里断簡図を発見した頃から始まり、 喜田貞吉、 天坊幸彦、 落合長雄・落合重信らによって摂津国八部郡(ヤタベゴウリ)条里図復元として研究が行われてきている。
旧長田村の上卅六(サイロク:新湊川に「三六橋」がある。 )、 下卅六、 一ノ坪、 二ノ坪、 十ノ坪、 旧野田村の市ノ坪は条里坪名が残存したものとみられている。
・ここで留意すべきことは、 明治19年頃の陸地測量部地図をみると条里制遺構とみられるものは認められるものの必ずしも完全な形でないところもあり、 この耕地整理においては、 条里制復元という意志をもって事業を行ったこと、 すなわち単に区画の整理でない「文化的な事業」とみることができる点である。 先に述べたこの地域の条里制研究が始まる時期とこの地域の耕地整理が行われる時期とほぼ重なっている。
・条里制の起源は大化改新以前とみられ、 11世紀頃まで行われていた。 この条里制の実施は、 北は秋田平野から南は大隅半島におよび、 条里田面積は約60万ha、 1960年代のわが国の平坦地水田面積の約60%に及んだとみられている。 いわば日本最初の「全国総合開発計画」とでも言うべきものであり、 日本を属地主義の「農業国家」に宿命づけるとともに、 日本の伝統的な町割のシステムの原形をつくった。
この条里制地割は、 高度経済成長期を中心とする都市化の波の中で多く失われてきたことを考えると、 この地域の大正期に耕地整理を行った人々は、 後世に大きな遺産を残したというべきであろう。
・「高取山・葛城山方位線」は、 ほぼ山陽電鉄西代駅から本町筋、 新湊川河口に至るルートであり、 この街路沿いには、 かつて高等工業学校(神戸大工学部の前身)、 長田警察署、 (林田)区役所が立地したことがあり、 現在も長田郵便局、 長田電報電話局等がある。 この街路沿いには店舗が立地し、 とりわけ本町筋はかつて西新開地の名で親しまれ神戸市内で有数の商店街を形成した。 このかつての目抜き通りは、 言うまでもなく正面に高取山の頂上が見える。
図X-2 条里制からみた長田市街地の都市構造 |
・かつて日本は、 自然と一体となった生活環境をつくっていたが、 その計画手法に風水思想が取り入れられていた。 「風水」というといかがわしく思われる方には「風土」と言いかえたい。 長田の先人達は、 今日に自然と共生した都市環境を創造するための基盤を遺してくれているのである。
・神戸西部市街地は、 耕地整理により条里制の区画単位である坪=町(チョウ)を基準に概ね109m間隔に幅員約8mの道路が配置されている。 これによって形成された約100m角の街区を私は「町(チョウ)街区」と呼んでいる。 この「町街区」は、 以下のような特徴をもっている。
(1)町街区を基本に町名がつけられ、 コミュニティの基礎単位となっている。 (2)一般的な町街区では表地(街区の表通り)に主に店舗や事業所等が立地し、 裏地(街区内部)は、 主に住宅が立地し、 町街区単位で用途が複合している。 (3)種々の性格の町街区(公益的施設集中街区、 工場街区、 用途複合街区など)がモザイク状に配置され、 変化ある市街地を形成している。 (4)町街区の表地が連続して、 それぞれ特徴をもつ「通り」を形成している。 (5)町街区単位で時代とともに土地利用の変容があり、 市街地が変化してきた。
・ここで注目すべきことは、 グリッドパターンの街路形態が、 土地利用の変化にもかかわらず機能を持ち続けてことである。 集落型市街地や戦後の新市街地等では、 土地利用の変化等、 時代の変化に伴う整備で主要な街路配置まで変わらざるを得ない場合があることを考えれば、 この伝統的なグリッドパターンの街路形態は、 時代の変化にフレキシブルに対応できる「システム」であることがわかる。
・この震災復興まちづくりでは、 住民参加システムとしてのいわゆる「2段階都市計画決定方式」の採用が大きな特徴である。 これが比較的うまく機能したとみられているのは、 震災復興都市計画事業が広く行われた神戸西部市街地がいわゆる「条里制都市」であり、 その特徴であるグリッドパターンのもつシステム、 特にこのシステムの中の階層性(「町」、 その上の単位を「里」といったように)と合致したからである。 この点を見落してはならない。
図X-3 安全安心街区とコミュニティ道路 |
・当地区の大部分のまちづくり協議会は、 この安全安心街区内の通りを「生活の中心となる通り」「歩行者が快適に通行できる通り」等、 コミュニティ道路又は、 コミュニティ道路的な道路として当初のまちづくり提案を行っている。 特に細田線南側の細田神楽地区等の協議会は、 コミュニティ道路を幅員14mとし、 歩行者優先の「公園のようなみち」とし、 「せせらぎ」の設置を提案している。 これを受けて、 平成8年7月神戸市は2次都市計画決定として、 コミュニティ道路(14m)主要区画道路(8m:コミュニティ的な道路)の決定を行った。 同時に神戸市は、 まちづくり協議会のまちづくり提案に基づき区画整理事業の事業計画決定(1次)を行った。
・当地区における「当初まちづくり提案」以降の道路に関する「まちづくり提案」は、 おおむね以下のように整理される。
(2)第2段階は、 市における仮換地の進捗に伴い「適正な換地敷地の形成」「仮換地の早期実施」の必要性等による「町街区内区画道路の一部変更提案」であり、 各協議会単位で平成11年夏から平成12年夏にかけて行われた。 当地区は、 住工商混在地区であることから権利者動向や土地利用動向が町街区内道路配置に与える影響が大きく、 市の状況説明に基づき、 各協議会は現実的な対応を行った。
以上(1)(2)に示すように町街区内の区画道路は、 事業の進捗とともに変更を伴うものであり、 その都度事業計画の変更が行われた。
(1)細田神楽松一道路部会:平成11年2月、 細田神楽まちづくり協議会(会長 野村勝)は、 道路部会を発足させ、 コミュニティ道路(14m:アジア通り、 ギャラリー通り)の検討を始めていたが、 平成11年9月以降は、 隣接する松一まちづくり協議会(会長 岸能且)との合同による細田神楽松一道路部会(部会長 松浦宏治)が結成され、 毎月部会が開催されている。 当部会はこれまでに「JR通り(都市計画道路兵庫駅鷹取線)周辺関連整備計画提案」(市に平成12年1月提案)、 「コミュニティ道路基本計画提案」(市に平成12年7月提案)をまとめ、 現在、 松野通1丁目、 神楽町6丁目の町街区内を通る「みちひろば」について検討中である。
(2) 新長田駅北地区東部いえなみ委員会:新長田駅北地区東部の7つの協議会で結成するいえなみ委員会(委員長 横山祥一)は、 景観形成市民協定「いえなみ基準」に関する運営とともに新長田駅北地区全体にまたがる課題の検討を行っている。 道路に関しては、 「通りのテーマ」(主要な街路のネーミング)を検討するとともに「主要区画道路・区画道路の整備標準についての提案」(市に平成12年6月提案)をまとめている。
図X-4 「通り」のテーマ |
図X-5 アジア通り(南北コミュニティ道路)イメージ |
図X-6 コミュニティ道路平面図 |
図X-7 コミュニティ道路標準断面図 |
・このアジア通り、 ギャラリー通りの検討は、 約一年半の期間を要している。 特に車道幅員やせせらぎについて、 道路部会のメンバーが芦屋市や加古川市等のコミュニティ道路やせせらぎをビデオでとり、 検討材料にする等活発な議論が行われた。 又、 電気・電話の電線の地中化が実現するよう、 協議会会長、 道路部会長は関西電力に要望に行ったりしている。 「杜の下町」のシンボルとなる通りとするためには、 せせらぎの管理を配慮した技術的検討、 環境共生を配慮した緑の形成等優れた環境デザインが不可欠なことから、 この検討の後半から専門家である松下慶治氏(環境緑地設計研究所)が参加している。
・提案書から提案内容の要点を抽出すると以下のとおりである。
図X-8 JR通りのイメージ(新長田駅北口前の歩道から交差点を望む) |
図X-9 JR通り整備計画提案全体イメージ(北側からJR線方向を望む) |
(1)大道通、 川西通、 御屋敷通、 水笠通を東西に通る約8m道路(安全安心街区内道路)は従来通り一方通行とし、 両側に歩道(1.75m以上)をとり、 車道+停車帯は4.5mとする。 バリアフリーを考慮して車道と歩道の段差を少なくする。
(2)各町街区(おおむね100m四方)は、 いわば「街の部屋」であることから、 用事のない車の進入を抑制するとともに、 車のスピードを抑制するため町街区の入口部分の区画道路に「イメージハンプ」を設置する。
葺合地域のまちづくり活動
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この葺合地域は、 明治20年代から30年代にかけて耕地整理などで市街化されたが、 昭和20年の空襲で壊滅的な破壊を受け、 戦後、 平成12年までかかって戦災復興土地区画整理事業が行われていた。 しかし、 三宮駅周辺の再開発区域を除き住民が主体となったまちづくり活動が活発化するのは震災後からである。
まちづくり組織区域図 |
「インフィオラータこうべ」は、 2年目以降、 市内各所での春のイベントとして定着した感がある。 商業地域でのまちづくり活動では、 イベントの実施が有効な手段であることが多いが、 中央区役所と連携しながらインフィオラータは発案され、 三宮東まちづくりの会を構成する商業関連組織や近隣の婦人会等住民組織、 神戸芸術工科大学、 関連企業等が協力するなか実施されており、 新たなパートナーシップの一つの形態を示している。
旧西国街道の碑 |
今後は、 これまでの活動に加え、 あじさい通りをより親しめるようにしていくことや、 「インフィオラータこうべ」発祥の地として、 この新しいイベントを神戸のまちに定着させていく活動が期待されている。
結成直後の平成10年4月には、 第2回インフィオラータに協賛して、 あじさい通りに連なる旭通4丁目の市有地で「青空デパート」(フリー・マーケット)と旭通2丁目の市有地で「子供花塗り絵」を実施し、 以後継続して実施している。
また、 地域住民を対象に阪神グリーンネットの協力を得ながら寄せ植えの講習会や花苗の配布を行うなど、 地道な活動も進めている。
平成12年には、 最後の戦災復興土地区画整理事業の完了を記念する広場(まちづくり魅力スポット)が整備されるとともに、 地区内住民からの美緑花会議への寄付により「旧西国街道・ぬのびき花街道の道標」が新生田川沿いに設置された。 なお、 まちづくり魅力スポットについては、 あさひ・くもい美緑花会議が管理している。
なお、 会の活動を広報する「あさひ・くもい美緑花新聞」は、 計9回発行されている。
西国街道あずままちかど広場 |
旧吾妻小学校北西角 |
平成11年度には、 まちづくりを生涯学習の一環として受け止め、 「地図づくりとまちづくり」「バリアフリー」「まちの景観」「オープンスペース」などをテーマに勉強と現地での検証を繰り返しながら「まちづくりマップ」を作成し、 まちづくり推進のための基礎的資料とした。
このほか、 東部新都心と既存の市街地との連絡のために国道2号に横断歩道の設置を働きかけるなどの活動、 平成12年には春日野道商店街と旧西国街道の交差点付近に高札風の「説明版」を設置するなど多様な活動を進めている。
平成12年度には、 地域まちづくり構想をとりまとめるべく住環境整備を中心とした勉強会活動を展開していく予定である。
ライトアップされたインフィオラータ(2000年) |
灘区まちづくり推進課の山中泰能氏からは「区のまちづくり」というテーマで発表がありました。 現在神戸市の区役所にはまちづくり推進課が設置されていて、 建築職職員が7区、 土木職職員が8区に配属されています。 うち事業推進係に技術職が2名配属されています。 このまちづくり推進課の取り組み事例の一つとして「灘中央地区まちづくり協議会」の活動の紹介がありました。 この灘中央地区には住宅地区と商店街が含まれており、 住宅部会と商業部会が合わさって協議会を形成しています。 水道筋商店街では平成12年7月18日に「エコタウン宣言」を行っており、 エコタウン事業としてショッピングバックの推進を行っています。 まちづくり推進課の取り組みの事例でもう一つ「灘百選〜灘の魅力再発見〜」の紹介がありました。 平成12年3月時点で6,135票集まっており、 今後は来年の区制50周年を目標に灘区のガイドブックという形で発表したいと考えておられるそうです。
区役所は住民に一番近い窓口でありながら行政の中では権限が乏しく、 行政内でも市役所の出先という考え方が強いそうです。 今後のまちづくりを考えていく上で区役所の機能を改善していく必要があると思われました。
神戸市住宅局住環境整備課の太田耕司氏から「制度が先か?まちづくりが先か?」というテーマで発表がありました。 まず、 すまい・まちづくりに関する既存事業の紹介と行政の事業予算の確保や執行のシステムや流れが紹介されました。 「制度が先」の例として野田北部地区、 「まちづくりが先」の例として長田南部地区のまちづくりの事例がOHPなどで紹介されました。 野田北部地区はたくさんの事業・制度を活用したまちづくりで、 それに対し、 長田南部地区は事業をあまり活用せず行われているまちづくりです。 どちらがいいのかはまだ疑問として残っているようです。 また、 現在建設省に提案している「事業計画区域要件の緩和」についての報告もありました。 事業計画区域要件の緩和を要望するもので、 実現すればスポット的に密集事業などが行えるようになります。
フロアー討議では京都市都市計画局都市づくり推進課の若手職員の方が2名来られていたので、 京都市でのまちづくりも合わせて意見交換などがありました。 神戸市と京都市それぞれ行政としてまちづくりに関わっている方のまちづくりに対する思いや苦悩などが感じられました。 (神戸大学大学院生 中村幸枝)
情報コーナー
第34回神戸市民まちづくり支援ネットワーク記録
9月8日(金)こうべまちづくり会館において、 「(若手)神戸市職員が考えるこれからのまちづくり」をテーマとして行われました。
イベント
「トルコ・台湾復興支援を都民の手で」
〈パネルディスカッション〉トルコ/Mebuse Tekay (Civic Coordina-tion Center)、 台湾/邱明民(台湾希望工房工程グループ)、 神戸/村井雅清(被災地NGO協働センター)、 東京/上原泰男(東京災害ボランティアネットワーク)、 コーディネータ/原昭夫(東京都世田谷区)
西山夘三と日本のすまい展-20世紀住まいのアーカイブス-
〈大阪会場〉
〈東京会場〉
阪神白地まちづくり支援ネットワーク連絡会
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