きんもくせい50+24号
上三角
目次へ

 

私が神戸に通うのは……

東京消防庁 細川 顕司

 私は1978年1月の伊豆大島近海地震以降、 宮城県沖地震、 千葉東方沖地震、 釧路沖地震などの被災地を見てきました。 「災害は自分の目で現場を見なければ真実が見えてこない」ことを経験上知っていたからです。

 でも、 これまでは、 それぞれの被災地ヘ一度足を運んだだけでした。 「一度だけで何がわかる?」と言われると返答に窮しますが、 だいたいそれで間に合っていました。 しかし、 兵庫県南部地震の現場へ足を踏み入れた私は「これは通うしかない。 都市の地震災害を学ぶのにこれ以上のフィールドはない」と感じました。 以来、 時間を見つけては被災地入りし、 1年に4〜5回のペースは今も変わりません。

 『きんもくせい』のことは学芸出版社から出た『阪神大震災復興市民まちづくりVol.1』で知ったのか、 フェニックスプラザで目にしたのが最初だったのか記憶が定かではありませんが、 その存在を知ってすぐに送っていただくようお願いして今に至っています。 地震から1年半くらいで東京の書店から震災コーナーが消え、 神戸へ行かない限り「震災のその後」はほとんどわからなくなっていましたから、 貴重な情報源のひとつです。 (日本は本当に「高度情報化社会」なのでしょうか?)

 仕事やヤボ用をやりくりして神戸通いをする私を見て、 チロリン村のマスターや美代子さんは「向こうにいい人いるんじゃない?」と言い、 喫茶たんぽぽで顔を合わせる仲間には「京都あたりでデートじゃないの?」と冗談半分にヒヤカシの声をかけられてきました。 そう、 あれから6年も通っているのですから、 いいヒトもできました。 小林郁雄さんとは99年7月に勉強会で話していただいたのが出会いでした。 2000年1月、 あるイベントの会場で、 それまで文字でしか知らなかった天川佳美さんにもお会いできました。 つい先頃は、 考えると気が変になりそうな面倒臭いイベント「第1回世界震災復興ドキュメント映像祭」を企画開催され、 私も2月19日、 20日と参加させていただき、 望外の御世話になりました。

 こうして見、 聞いたことを、 私は機会あるごとに東京近辺の仲間や地域住民の人たちに伝えています。 東京に限らず、 大阪の人だって、 1.17の地震のことなど遠の昔に忘れています。 残念ながら、 被災地の人が学んだ教訓を積極的に知ろうともしていません。 ただ、 「阪神地区には地震がない」と信じていた阪神地区の人々も、 それ以前の地震から学んでいなかったのですからおアイコです。 人間は痛い目にあわないとその気にならない、 いえ、 痛い目にあってさえもすぐに忘れる動物のようです。

 でも、 そろそろおアイコが止めになるよう「被災地からの発信」を粘り強く統けていただきたいと切に願っている私です。


 

「第1回世界震災復興ドキュメンタリー映像祭」を終えて

まちづくり会社コー・プラン 天川 佳美

 2月20日(火)映像祭の最終日、 1906年のサンフランシスコ(60分)、 1923年の関東大震災(20分)、 そして青池憲司監督の「野田北部鷹取の人びと第1部」(85分)を上映し、 この日までに見に来てくださった人約500人、 アンケートに回答をくださった数169枚、 15日間の映像祭は終了しました。

 1月29日から2月20日まで上映日は15日間ですが、 23日間いろいろなことがあり、 私にとっては苦しく楽しい、 まるで初めての体験に浸った日々でした。

 

画像24s01
長田区上映会会場アスタスクエアの入口(2001.1.30)
 2001年1月29日(月)、 長田区「アスタスクエア」13:00。 JR新長田の南へ歩いて10分ほどの再開発真っ只中、 ここに場所を決めたのは森崎輝行さんでした。 しかも1月中に始めること、 が条件でした。 再開発事業を担っておられる森崎兄いならではの案です。

 アスタスクエアはもとはパチンコ屋さん。 建物を、 そのまま再利用して演劇や講演、 音楽会(?)などイベント会場として使っていこうという試みです。

 初日のお客様は22名、 実行委員の野崎隆一さんの挨拶で映像祭は始まりました。

 昨年11月11日の青池監督の映画会の後にこの企画は始まり準備をしてきたこと、 たくさんの方々の支援をいただき12本のフィルムを集めることができたこと、 これから15日間この映像祭で皆様とともに震災復興をもう一度考えたいと言う挨拶でいっせいに報道陣のカメラが回り始めました。 『お客様より報道陣の方が多いやん』と、 私はそのとき初めて気づきました。 なんと、 私は緊張していたのです。

 映画と言っても国内外の震災の映像を見る。 こんな企画をまだまだ復興途中の場所で叱られへんやろかと実のところは心配で心配で、 初日私の心臓は張りさけんばかりにドキドキと波打っていました。 大変な被災をされ、 身も心もずたずたになった6年間、 「こんなひどいもん見れるかい!」と席を立って行かれる夢を何度も見ました。 でも実際に映画が始まり、 震災の模様が映し出されると帰られる人はなく、 じっと身動きもされず画面を見入っておられる様子。 会場の一番後ろに立っていた私は皆さんの背中がまるで何かを語っておられるように見えました。 そしてその日の映画が終わり皆さんが帰られるとき、 ありがとうございましたと声をかけていると逆に「ありがとう」と声を掛けてくださり、 「ご苦労様です」と労ってくださる方もありました。

 

 上映前にフィルムのおおよその説明をし、 気分の悪くなられた方はどうぞ途中でも外に出ていただいてかまいませんからご自由にご覧くださいと伝えました。 これはこのときだけでなくこれから先ずっと上映会の間中、 映像の始まる前に必ずお伝えしました。 丁寧に、 傷つけることのないようにと、 充分に気をつけて声を掛けるようにしました。

 

画像24s02
兵庫区上映会での台湾の映像を見る人達(2001.2.13)
 日本の映像は、 関東大震災、 南海地震、 福井地震(十勝沖地震と南海地震も含む構成)、 新潟地震、 北海道南西沖(奥尻)地震。 そして阪神大震災は、 青池監督の「野田北部鷹取の人びと」の1部、 14部と総集編の3本。 海外のものはサンフランシスコが2本、 中国唐山大地震、 トルコ西部(コジャエリ)地震2本、 台湾(921集集)大地震の4ヶ国6本。 これだけを組み合わせて一地区5日間ずつ、 長田区、 兵庫区、 灘区で上映をしました。 それぞれに1日は青池監督の映像を見て、 その後実行委員のメンバーと会場に来られた方々も交えて、 シンポジウムを開きました。

画像24s03
兵庫区上映会のシンポジウムでのワークショップ(2001.2.11)
画像24s04
灘区上映会でのシンポジウムの様子(2001.2.17)
 長田では東京から早稲田大学の佐藤滋さんに、 AM神戸の山口一史さん、 区役所の石井修さん、 地区の河合節二さん、 司会は森崎さんで「住民のまちづくり」を語っていただきました。 兵庫区では神戸大学の室崎益輝さん、 神戸100年映画祭の小林義正さん、 兵庫区の角本直樹さん、 司会は辻信一さんでワークショップ形式で「映画のまち神戸新開地」と題して映像とまちづくりを語りました。 最後の会場灘区では王子動物園の動物科学資料館の中にある動物園ホールで、 上映会もシンポジウムもやりました。 当然のこと「動物たちと震災」。 これは実行委員ではなんともならず、 動物科学資料館館長権藤眞禎さんに助けていただき日本動物福祉協会阪神支部の松田早苗さん、 兵庫県食肉衛生検査センター(前兵庫県生活衛生課動物担当)の菊地豊彦さん、 神戸市獣医師会の市田成勝さんにお願いしてご参加いただきました。 権藤さんにはこのシンポジウムのメンバーをお願いしただけでなく実は中国唐山地震のビデオをお借りすることからすっかり、 大変お世話になりました。 灘区でのシンポジウムは司会を天川がすることになっておりましたが、 そんな無謀な事ができるはずはなく、 ここは京都大学の林春男さんにお任せしてしまいました。 結局3回のシンポジウムは3人の実行委員長の方々(佐藤先生、 室崎先生、 林先生)にすっかりお役目をお願いしてしまうあたりは、 天川の面目躍如というところでしょう。

 すべての上映日にアンケート用紙を用意したところ多くの方が回答を寄せてくださいました。 その中には、 「震災を思い出すのも嫌だと思っていたけれど、 この映画会に来てよかった」というのがあり、 ほっとしました。 また、 灘区では「野田北部が身近に感じられた」と言う意見もあり、 西と東でなかなか行き来の少ない神戸の特徴を、 なんとか交流したいと願った3ヶ所の上映会の成果でもありました。

 「英語でわからんかった」とか「言葉がわかったら、 もっとよかったのに残念」との回答もありました。 『しゃーない』と自分自身に言い聞かせるように、 その時は「すみません、 英語で分かりませんね、 準備不足でごめんなさい。 」と謝りました。 結局は兵庫区での上映では、 見に来てくださった人の中で英語を訳せるかたを探し、 ビデオを一時停止して英語を解説していただくことにしました。 そして灘区では以前アメリカの震災復興調査の時に通訳をお願いしたホーグ慈子さんに訳文を作っていただき、 私が“活動弁士”をやりました。 これまた私にとって初めての苦しみと楽しさを教えてくれた経験でした。

 映像は100年経っても決して滅びない、 それどころかますますその意味を充実し多くのことを教えてくれました。 私たち被災したものは体験者として何かを次へ伝えるために、 何かを発信し続ける大切さを忘れてはいけないとこの映像祭ではあらためて学びました。  全国各地の被災地の人達とのつながりを通して、 それらの人々の変わらぬ熱い想いを大切にしていくことがこれからの私達の宿題です。

 この映像祭にフィルムをお貸しくださった多くの方々、 またお借りするのに、 力を貸してくださった方々、 報道によって知ってくださり応援をいただいた方々、 そして何よりこの映像祭にご参加くださったすべての方々に心からお礼申し上げます。

 ありがとうございました。


 

新長田駅北地区(東部)
土地区画整理事業まちづくり報告(13)

久保都市計画事務所 久保 光弘

XII. 制度(その1)

1. 歴史的視点からの復興検証の必要性

 ・ 日本における既成市街地再整備のほとんどが災害や戦災の復興区画整理で行われてきた事実がある。

 既成市街地再整備での区画整理の適用は、 関東大震災の復興に始まり、 戦災復興、 各地の災害復興で行われ、 阪神・淡路大震災においても、 課題地区の大部分は区画整理で行われてきた。 このことをどう評価するのか、 区画整理の施行に際して繰返し行われてきたと思われる議論や反対意見は何なのか、 その中で継承され発展させてきたものは何なのか、 さらに今回の阪神・淡路大震災でこれまでに比べて何が前進したのか等、 これからも全国のどこかで起こる震災市街地の復興において、 無用な混乱を少なくするために歴史的な視点を踏まえた復興まちづくりの検証を研究者にお願いしたい。

 ・ このことに関して、 所感を述べる。

 (1)今もなお道路が未整備な密集市街地における復興市街地整備手法は、 区画整理が依然主流と考えて良い。

 この震災復興において、 集落市街地等に適用された「密集住宅市街地整備促進事業」は特筆すべきものであるが、 これとて都心密集市街地で主流的手法として活用しがたいであろう。 後藤祐介さん(きんもくせい 01年2月号)が言われるように白地地区での修復的復興手法は、 戦災復興区画整理があればこそである。 再開発事業は、 その事業のしくみから言って今後、 共同建替事業でみられるような小規模分散型となっていくのではないだろうか。

 要するに都市の密集市街地の面的な復興整備手法は、 区画整理に替わる手法が今に至っても無いということである。

 (2)歴史的にみて復興区画整理は、 いずれも施行時において激しい反対があった。 そしてそのはるか後には、 区画整理が行われたことを評価されたり、 挫折して放置されたことが悔まれたりしている。

 関東大震災(大正12年)の復興区画整理では、 1割減歩(今回の震災復興区画整理においても当初1割減歩と言われていた)を、 財産権の侵害とした憲法違反論争等の大反対運動があり、 戦災復興区画整理においても根強い反対運動があったことが記録されている。 この中の論点には、 今日にも通ずるものがあり、 その中には区画整理手法のなかで改善として行われているものもあれば、 復興区画整理毎に繰り返されている論点もあろう。 これらに共通して存在する課題は、 「将来を考えた復興の視点」と「被害者である生活者の視点」とにギャップがあるということであり、 そのいずれかを選択すると言った安易な問題ではない。 そのギャップの改善こそが、 それも具体的手法としての改善こそが最大の、 そして追い続けなければならい課題である。

 (3)制度とは、 「団体を運営したり社会の秩序を維持したりするためのきまり」(新明解国語辞典)である。

 この社会的なきまり、 すなわち制度は、 震災など緊急時に急につくられても主流とはなり得ず、 使い慣れたり、 蓄積されたものが、 緊急時に使われるものであることを今回の震災復興で実感した。 震災前の制度の蓄積が左右するということである。 関東大震災における復興区画整理の適用は、 大正8年都市計画法で郊外地の市街地整備手法として区画整理手法の制度化が行われていればこそであった。 これまでの復興区画整理を通じて今回の復興区画整理の特徴を挙げれば「協働まちづくり」ということになろうが、 これも昭和56年神戸市まちづくり条例として協働まちづくりの制度化があればこそである。

 前書きがやや誇大になり過ぎた。 上記の視点も踏まえ、 新長田駅北地区東部で活用された諸制度についてコンサルタントの視点から所感を述べたい。

2. 協働まちづくり

 ・ 震災を前後して「住民参加まちづくり」から「住民主体まちづくり」の言葉がつかわれ、 最近は「協働まちづくり」に定着した感がある。 「協働まちづくり」は、 震災地域外の自治体でも近頃良く耳にするようになったが、 言葉よりもむしろその社会的なしくみ、 すなわち制度化が大切であることは言うまでもない。

 神戸市には、 協働まちづくりの仕組を総合的に示した「神戸市地区計画及びまちづくり協定等に関する条例」(昭和56年、 平成元年改正)いわゆる「神戸市まちづくり条例」、 地区の自主的なまちづくり活動費の支援を定めた「神戸市まちづくり助成制度」(昭和52年)、 まちづくりの技術的支援を定めた「神戸市まち・すまいコンサルタント派遣制度」(昭和54年)といった明確なまちづくり支援システムの制度化とそれに伴うまちづくり経験があり、 これが震災当初から迷うことなく「まちづくり協議会」をベースとした復興まちづくりが行われた大きな要因である。

 当地区においても地区の有志が震災直後から協議会結成に向けて動いたのは、 まちづくり制度があったからであり、 行政もコンサルタントもそれまでのまちづくりの経験を通してまちづくりのトレーニングを受けてきた。

 ・ この復興まちづくりを通して協働まちづくりのしくみはより具体的になってきたと思える。 協働まちづくりのしくみとして、 ほぼ共通の認識となったと言って良い構図は、 「まちづくり協議会(市民・事業者)」「行政」「まちづくりコンサルタント(専門家)」がそれぞれの立場で協力してまちづくりを進めるという三角形の構図である。 上記の三者は、 それぞれ立場が異なり、 自ずとそれぞれの役割と責任が異なっており、 それを明確にする論点が協働まちづくりの基礎にあると言って良いだろう。

 このことは、 行政の役割をより明確にするということでもあるが、 震災復興を通して言えば広域的、 長期的視点からの政策の判断、 市民のニーズに対応した生活やまちづくりを支える制度の柔軟な活用などは大切な役割と言える。

 ・ コンサルタントも独立した職業的人格が求められる。 すなわち、 コンサルタントのスタンスは住民側、 行政側いずれかの立場でなく、 「専門家としての知見」に基づき、 視点の異なる両者の意見を調整することであり、 またまちづくりに関する技術的支援を行うことである。

 このことは、 コンサルタントへの業務発注形態とも当然関わることであるが、 神戸市は、 その実務体制を整え実施している。 例えば当地区の区画整理に関わる私の場合で言えば、 業務発注は、 事業セクション(区画整理セクション)からでなく、 「神戸まち・すまいづくりコンサルタント派遣制度」により、 毎年、 各まちづくり協議会からこうべまちづくりセンターへコンサルタント指定要望書が提出された後、 まちづくりセンターからコンサルタントへ業務発注という形態で行われている。

3. 神戸市地区計画及びまちづくり協定に関する条例

画像24s05
主なまちづくり提案と行政の対応
 ・ このいわゆる「神戸市まちづくり条例」は、 まちづくり主体として「まちづくり協議会」を位置づけ、 協議会は市長にまちづくり構想など「まちづくり提案」をすることができ、 それを実現していくための「地区計画」や「まちづくり協定」等の「ルールづくり」を行い、 その実践を住民と行政が協力して進めていこうという極めて具体的でわかりやすいまちづくりのしくみが定められている。 「まちづくり提案」にもとづいて「ものづくり」として行政が公共事業の実施等により支援する場合もある。 この条例文は、 ある程度フレキシビリティのあるものと思われるので、 まちづくりの実態に合わせて運用していくことも必要であろう。

 当地区においてこの条例の活用上で留意された点として以下の事柄が挙げられる。

 (1)条例では、 まちづくり協議会を「住民等の大多数」により設置され支持されているものとされているが、 区画整理やルールづくりにおいては、 権利者の利害に関わること、 また利害の違い、 意見の違い等から複数組織ができやすい背景にあることから「協議会員は<地区内の住民、事業者、土地建物所有者、借地人等、地区に関わるすべて>とし、 地区の総意をつくる地区唯一の場が協議会である。 」として住民総会によって設立された。 初期には協議会とは別の組織も生まれたが、 結局は協議会に収斂した。

 (2)「まちづくり提案」は、 区画整理事業の進行やまちづくりの進展に合わせて、 協議会役員会でまとめられた計画はすべて総会又はそれに替わる方法で諮った「まちづくり提案」として神戸市に提案されている。 これは、 協議会員相互のまちづくり計画の周知や共有、 実行という役割も大きく、 当然行政とのまちづくり計画の共有でもある。 まちづくり提案に対して行政は、 区画整理の事業計画への反映を初め、 諸制度を活用した支援をする等、 たいへんタイミングの良い対応を行ってきたと思う。   ('01.03.10記)

(次回へ続く)


 

住民主体のまちづくりと市民活動支援

都市基盤整備公団 田中 貢

はじめに

画像24s07
講義をする井上氏(後姿は広原先生)
画像24s08
講義後のフリーディスカッション
 先月から『公団まちづくり研究会』で、 「これからの住まいづくり・まちづくりをどう考えるか」を全体テーマとして議論している。 今月は「住民主体のまちづくりと市民活動支援」について、 広原盛明教授(龍谷大)と井上隆文課長(神戸市市民活動支援課)にご講演願い、 その後、 聴衆者側から質問、 異論をぶつけさせて頂いた次第である。 以下にその顛末の一部をご紹介します。

 <紙面に限界あり、 当日の話題を何点かしぼって発表させていただく。 また広原先生・井上課長の講演内容も私の主観的な見方でその一部を記載させていただく。 なお、 講義内容の詳細は別途報告書を作成する予定である。 >
 

 13.2.4朝日新聞の記事「神戸『復興記念』に疑問」では、 広原先生は、 神戸から感謝の気持ちを全国に発信するための各種イベント実施について、 「感謝の気持ちを集客の材料にするのが見え隠れし抵抗感がある」と指摘している。

 また、 著書「震災・神戸都市計画の検証−成長型都市計画とインナーシティ再生の課題」(1996年自治体研究社刊)では、 行政と市民、 行政と事業者、 あるいはそれらの三者の間に「協働」が成立するにこしたことがないが、 それはあくまで市民や事業者に行政への「批判・反対の自由」が保証された上でのことであって、 そうでない場合には「翼賛的協働」陥る危険性がある。

 さらに、 本日の講演でも「協働」は贔屓の引き倒しにならないか。 頑張る者ほどよけいに、 その気にさせ、 ますます荷をかけることにならないか。 との指摘をされている。

画像24s06
協働のしくみ
 その中で行政が担うべき役割分担は、 イーコールパートナーから、 地元のまちづくり活動を支えるイネイブラーの役割にとの要請である。 井上課長もその点については図のモデルでこれからの社会は、 市民という大きなくくりを、 広義のNPOなどの「共同体」と行政・企業が、 支えていく方向となるだろうとの見解を示している。 ただし、 行政には公平の原則、 継続性、 安定性という課題から、 それぞれに一定の限界があることも理解してほしいとしている。

 NPOはコミニティの存在が前提条件であり、 地域のコミニティがうまく回っていない状況下に、 いくら自治会やまち協を形式的に用意できても、 そこからは自主的な住民活動が展開しない。 むしろ全員でなくてもいいから、 小規模単位の仲良し会が輻輳してできることにより、 重層的な厚みのあるコミニティができれば、 井上課長の言う「カオスの縁」という豊かな生命の息づく領域が実現できそうである。

 青木仁さんの著書「快適空間をつくる」では、 私たちは週に5日40時間生産者として働き、 それ以外の「7日×24時間−40時間=128時間」は生活者として過ごす。 そして65歳以降は約20年間100%生活者でいる。 そこで、 「生産者」と「生活者」の立場で議論すると敵対関係となるが、 その立場を越えて、 全員が共有できる「生活者」としての立場に立ちさえすれば利害は完全に一致する。 そこで共通の立場に立って全員のための最適解を求めたい。 市民と行政という立場も全く同じである。

 市民と行政が互いに、 親密な関係ができても、 なれあい的な関係とならず、 適度な緊張関係を保持しながら、 共存共栄路線でのまちづくりを目指す。 それが地域の社会的エネルギーをパワーアップすることにつながり、 活力ある社会実現につながる。 との思いである。

 

 広原先生は、 ドイツでは「進歩としての縮小施策」があり、 これからは量から質の時代に変わってきているし、 ダウンサイジングの時代になりつつある。 都市化から成熟都市へまちの様相が一変している。 日本においても、 時代のその変化を読み込みまちづくりを実施する必要がある。 戦後ずーっと右肩あがり傾向の社会を経験してきて社会の規範も変化すべきであり、 そのためには制度や仕組みの改革行為の以前に、 われわれの頭の切替をまず最初に行うべきである。 即ち価値観(価値を計るモノサシ)の変更をしっかりと行わなければならない。

 

 人と人とのネットワークは、 単純な関係でなくそれぞれまちに必要な人たちが、 それぞれ自分の居場所を明確に用意できなければならない。 千里ニュータウンや香里団地での最盛期には、 1/3の者が入れ替わった。 その時代は家族単位での入れ替えだが、 今は家族は個別化して、 家庭で向き合う相手がいないという状況である。 最近、 岐阜の県営住宅などでは夫婦別室や各部屋の直接つながる専用玄関に人気があるとの新聞報道もある。 家族という単位ではなく、 同級生、 お茶友達、 仕事仲間などのくくりで、 家族以外の輻輳した関係ネットワークの充実が迫まられてきている。 その例として子供が、 同級生などとの同種の空気を求めて、 夜中に家を抜け出し暴走したりということもその現れでありそうである。 結果ふれあいを求めながらも、 家族単位ではなく、 違う形のふれあいをどう構築するのかが今求められてきているようである。

 別な見方では豊中庄内の木賃密集地では、 住居費に金をかけず、 きままな一人暮らししながらも、 他人との交流を求めて一杯飲み屋に毎晩通う老人もいる。 彼らにとっては、 住居と一杯飲み屋がセットで用意されないと、 いくらきれいな使い易い安価な住宅を作っても歓迎されないしろものとなる。 そのあたりは住宅づくりで気をつけねばならない事項である。


さいごに

<本日学んだこと(総論)>
 

 市民と行政とその周辺の企業が互いに、 それぞれの持てる力や技を充分に発揮して、 互いに相手の立場を認識しながら、 無理せず、 自然に当然のごとく行動を起こし、 そしてそのために汗をかくことが楽しくなる仕組みを考えたい。 そして、 そういうやり方が、 ハッピィーな市民社会実現への随一の手段であるハズである。

 だが、 危機管理という一点については当該地の住民合意がうまく進まなくても、 誰からどういう妨害があろうと市民の生命財産を守れねばならない行政の立場もあることも認識したい。


次回ご案内

 第3回の3月分は、 坂和章平弁護士と山下淳教授(神戸大学)を講師に予定しています。 きっと法律屋の思考回路が、 大いに我々に刺激を与えてくれるものと期待しています。 議論内容はまた本欄をお借りして掲載させていただきます。


 

西宮浜復興団地のコミュニティ形成の現状と課題

復興団地コミュニティ調査研究会西宮浜ワーキンググループ 檜谷 美恵子(大阪市立大学)

はじめに

 災害復興公営住宅には、 震災で住まいを失い、 避難所、 応急仮設住宅を経てようやく恒久住宅に入居がかなった被災者が居住している。 その多くは、 高齢の単身世帯や夫婦のみで構成される小世帯である。 災害復興公営住宅が集中する復興団地は、 その建設経緯も対象とされた居住者層も、 高度経済成長期に計画された団地とは大きく異なっている。

 高齢化への対応という点では、 復興団地はオールドタウン化しつつある従来のニュータウンより格段に進んでいる。 住宅のバリアフリー化やLSA(ライフサポートアドバイザー)派遣等、 さまざまな配慮が計画段階からなされたからである。 だが、 「オールドタウン」には、 団地居住をみずから選び、 長年住みつづけてきた人々が多数居住している。 これに対して、 復興公営住宅には、 震災という予期せぬ災害さえなければ、 団地居住を選択しなかったであろう人々、 震災で住まいを失っただけでなく、 「住まう」という営みを支えていたさまざまな資源を失った人々が居住している。 抽選ではずれたために意中の公営住宅に入れず、 やむをえず現住宅に入居した人も少なくない。 こうした事情は、 団地のコミュニティ形成に大きな影を落としている。

 本稿では、 西宮浜ワーキンググループで実施した居住者へのインタビュー調査を通じて浮かび上がってきた諸課題のなかから、 復興団地の特性がコミュニティ形成に及ぼす影響と、 それを踏まえた今後の課題を指摘することにしたい。 なお、 西宮浜ワーキンググループのメンバーは谷元ゆきえ(大阪市立大学大学院)、 平田延明(京都大学大学院)、 柴田和子(龍谷大学大学院)、 篠田美紀(大阪市立大学)、 高田光雄(京都大学)と筆者の6名である。


調査の概要

画像24s09
西宮浜団地の調査実施街区
 西宮市南部に位置する人工島(約150ha)上に造成された西宮浜復興団地は、 震災前、 リゾート地として開発する計画があったが、 阪神・淡路大震災後、 予定を変更し住宅団地として計画されたものである。 周辺には既成市街地から移転してきた中小企業の事務所ビルや倉庫、 工場などが立地している。 団地の総面積は31ha、 総計画戸数は3、 574戸で、 総人口約1万人のニュータウンを目指して建設され、 1998年3月に第1期入居が始まった。

 調査ではまず、 団地の概況を把握するため、 住宅管理を担当する市や県の職員、 また、 住民組織の代表者に面接し、 聞き取り調査を実施した(1999年6月)。 次に、 市営住宅、 県営住宅、 公団住宅の居住者計30名を対象にインタビュー調査を実施した。 対象者の選出方法は、 自治会や老人会、 住民による自主的な組織のメンバーやその紹介者によるものと、 現地での直接依頼との2種類がある。 個人面談調査の実施期間は1999年11月から2000年1月までで、 インタビューは半構造化面接の形式を取り、 一人あたり1時間から3時間を要した。 同期間中に、 団地を担当するLSA(ライフサポートアドバイザー)2名と、 市の高齢者福祉や自治振興の担当者、 福祉協議会、 また、 団地内に立地する学校や公民館等の各種施設においても聞き取り調査を実施した。


被災高齢者が集中する公営住宅街区

 西宮浜団地では、 分譲住宅と賃貸住宅、 また賃貸住宅のなかでも公団住宅と公営住宅はそれぞれゾーニングで分離されており、 災害復興公営住宅街区には被災高齢者が集中して居住している。 公営住宅街区の居住者による次の発言はそうした状況のもとでのコミュニティ形成の困難さを示している。

 「お年寄りを親切にしたり、 家に招き入れると、 用もないのにしょっちゅう尋ねてこられたりするので困ります。 誰かに頼りたいという気持ちが強いのでしょう。 家族生活もありますし、 全面的に頼られると困るので、 かわいそうだと思っても、 家には絶対あげません。 」

 一方が他方にたいして一方的に支援するといった、 互恵性を確認できないような状況のもとでは、 近隣との付き合いにたいして否定的にならざるをえない。 また、 仮設住宅を経て現住宅に入居したという経緯が、 居住者の団地管理への取り組み姿勢に及ぼす影響も無視できない。

 「入居当初は、 仮設のときの甘えを引きずっていて、 なんでもやってもらえるという意識の人が多かったので、 たとえば集会所のような団地内の施設を自主管理するということを、 ほかの入居者に理解してもらうのが大変でした。 」

 現在の入居者構成は将来への不安とも連動している。

 「ここは普通の団地とは違います。 これから急激に身体が不自由になる人が増えると、 どうなるのでしょう。 」

 高齢者に偏った居住者構成は、 近所づきあいにおいても、 相互扶助をめぐる利害関係がただちに意識化されるという問題を内在させている。 また、 こうした問題と向き合い、 解決をはかっていくために利用できる資源が限定されるという点においても、 コミュニティの内発的な力をそいでいる。


住宅管理と自治

画像24s10
市営住宅管理運営委員会の役員有志が企画した年末のもちつき大会
 公営住宅では制度上、 住宅管理を担う住民組織として、 管理運営委員会の結成が義務付けられており、 市営住宅、 県営住宅では、 入居開始と同時に、 自治会を兼ねた管理運営委員会の設立が目指された。 しかし、 調査を実施した1999年末時点で、 自治組織的機能をもつ管理運営委員会が結成されていたのは市営住宅のみであった。 市の住宅管理課の担当者は、 役員候補者を探すなど、 結成に向けたはたらきかけを行うとともに、 結成後も、 規約の策定や総会、 役員会の議事進行などを支援していた。 一方、 県営住宅では、 管理事務所から居住者による団地管理を支援するために派遣される「いきいき推進員」、 委託された管理推進員と、 自発的な居住者グループによる管理協力活動が展開されていた。 公団住宅では、 専門事業者が日常管理業務を遂行しており、 緊急連絡員をのぞく一般居住者は、 管理活動には関与していなかった。

 自治組織の結成は、 その構成員である居住者が、 団地管理を共通の地域生活問題として意識し、 行動する契機となる。 次の発言は、 共同管理活動に特別の関心や利害をもっていなかった居住者が、 消極的ではあるけれども、 共同管理をすすめるための労力提供を相互扶助の一形態とみなし、 活動に協力する意義を見いだしていることを示している。

 「自治会の役職は、 本当はやりたくなかったのですが、 全員が順番でやらなければならない決まりになっている、 と聞いて引き受けました。 やりがいは感じませんが、 ほっておけなくなったので続けています。 」

 住民による組織的な対応がすすんでいない場合には、 管理形態や管理問題の顕在化の程度が居住者の反応を規定している。 団地管理問題が顕在化している県営住宅に住む居住者は、 自治会結成の意義を次のように認識している。

 「違法駐車が多くて困っています。 団地内の敷地は、 警察の取り締まり対象ではないらしく、 警察もきてくれません。 個人的に注意をするのも難しいので、 自治会があればと思います。 役所に苦情をいっても個人では取り合ってもらえません。 自治会ができると、 そういう面でもよくなると思います。 」

 団地管理が住民の共同事務として顕在化していない公団住宅では、 民生委員の選出や連合自治会の結成など、 組織化を促す社会的要請はあっても、 それらが切実な問題として住民に意識されていない。


行政施策にたいする意見

 公営住宅に居住し、 住宅管理を担っている役員層が表明した現行制度へのもっとも大きな不満は、 共益費の徴収事務である。 居住者はこれを「本来なら行政がすべき事務を、 住民に押し付けている」と捉えている。 共益費の徴収事務は、 次のような問題を惹起している。

 「共益費を払わない人、 また生活が苦しくて支払えない人がいます。 同じ居住者という立場なので、 支払えとはいえません。 お金の問題が絡むと、 近隣関係が悪くなります。 」 この指摘は、 コミュニティ形成にたいする行政(住宅管理者)側の期待と住民側の期待とのズレを示している。 行政側は、 行政事務補完的な団地共同管理を遂行する主体としてのコミュニティ形成を期待しているが、 住民は良好な近隣関係、 居住環境の維持・保全、 相互扶助等をつうじて地域生活の質を高めることがコミュニティ形成の目的だと考えており、 共同管理はそのための契機として位置づけられている。

 また、 団地共同管理活動や住民の相互交流を促すインセンティブとして提供される補助金や補助事業は、 複数の役員経験者から、 交流助成事業は役員をやれば「もうかる」といった類の誤ったイメージを増幅させる、 と指摘された。


まとめ

画像24s11
公団賃貸住宅の様子
画像24s12
市営住宅の様子
 復興団地のコミュニティ形成をめぐって表出している諸問題は、 年齢、 所得、 家族構成等の点で均質な入居者を一度に集中居住させることにより、 コミュニティの構成員を著しく偏ったものにしてしまったことと結びついている。 このために、 相互扶助的なシステムを内在させた共同管理や自治活動が停滞もしくは機能しないという状況が生み出されている。 相互に互恵性が確認できない状況のもとでは潜在的な扶助の担い手層があらわれにくく、 あらわれても過度の負担を負う。 負担が大きいため引き受け手がますます制約される。 この悪循環により、 相互扶助を想定すること自体が困難になっている。

 管理運営委員会による住宅管理は、 居住者の共同意識を高め、 管理活動への参加を促していることから、 居住者の組織化をすすめる住宅管理制度や、 付随する行政からの働きかけは、 コミュニティ形成に有効であると考えられる。 ただし、 共同管理や住民交流事業への補助金給付は居住者の共同にマイナスに作用する場合がある。 また、 コミュニティ形成にかかわる行政施策の総合化が求められる。

 相互扶助は、 地域生活の質を高め、 連帯感や共同意識を醸成する。 コミュニティ形成の目的をここに求めるのであれば、 団地の入居者構成を変化させるための取り組みが必要である。 同時に、 自治組織立ち上げへの支援、 現在の入居者構成に即した柔軟な管理制度の運用、 また、 共同管理や扶助の担い手層への負担を軽減するための支援措置、 とりわけLSAのいっそうの活用をはかることが求められる。


第4回 被災地実態学生発表会 開かれる

 

 1月28日(日)、 震災復興・実態調査ネットワーク主催による第4回目の「被災地実態についての学生発表会」が、 コミスタこうべ(旧吾妻小学校)において行われました。

 8つの論文と1つの設計が発表され、 各賞が以下のように決まりました。

〔講評〕蓄積の重み/審査委員長 小森 星児(神戸山手大学長)

画像24s14
発表した学生たちに講評を述べる小森委員長の後ろ姿
 今年も9件の力作が集まり、 例年通り選考に苦労した。 結果としてみると、 研究室や学会が数年にわたって継続的に調査している分野から優秀作が選ばれたことになる。 滞貨一掃と冷やかす声も聞こえないではなかったが、 蓄積された研究成果の重みという点から見て、 この3点は傑出していた。 報告者本人の努力もさることながら、 同じテーマを地道に追求してきた調査チームの息の長い研究方針に、 まずは敬意を表したい。

 優秀作のうち、 阪大グループの高橋、 山下両君は芦屋市の被災地域の再建状況を丹念にフォローし、 宅地細分化と併合化が同時に進行しているダイナミックな土地利用の変化を明らかにした。 その結果、 過去8回の定点観測を総合すると、 震災復興は平常時の3倍から5倍の速度で進行した土地利用更新によりほぼ収束したという。 いかにも実態調査と呼ばれるにふさわしい手堅い分析手法から導かれた結論は説得的であるが、 土地建物の変化は分ったものの、 住民の姿が見えてこないのが物足りない。

 共同建替の効果を検証した東大グループの野沢君の報告は、 明確な調査目的と綿密な分析手法の点で完成度の高い内容であった。 住環境の劣悪なインナーシティを直撃した今回の震災は、 多くの高齢者を含む大量の犠牲者を生んだが、 共同建替による復興は住宅および住環境の改善に大いに寄与すると期待された。 この研究は地区のさまざまな条件によって共同建替の効果がどう変わるか、 多数の実例を通じて詳細に分析している。 その成果については脱帽するのみであるが、 どのような支援措置、 即ち融資、 補助、 規制緩和などの組合せが望ましいか提言を期待したい。

 都市住宅学会関西支部は災害復興公営住宅における自治活動の実態調査を精力的に推進しているが、 今回の平田君の報告は西宮浜団地でのインタビュー調査の結果をまとめたものである。 この種の調査は、 従来、 関係者へのヒアリングや住民アンケートをもとに進められてきたが、 あえて手間のかかるインタビューに限定したのがこの報告の最大の特色である。 サンプルが少数なので入居者の全体像をつかむわけにはいかないが、 その代わり見逃されがちな意見も丹念に拾い、 さまざまな知見を得ている。

 以上3点の報告は大掛かりな実態調査の一部で真似することは難しいが、 着眼点がよければ興味ある成果をあげるのも不可能ではない。 銭湯が防災や福祉面で果たす役割について調査した門川君の報告がその例である。 経営面の分析がないので説得力に問題はあるが、 オリジナルティに富む研究が出てくるのを歓迎したい。

 この他にも紹介したい報告が多いが、 紙数の関係で割愛せざるをえない。 若々しい発表者の皆さんに改めて激励の挨拶を贈ると同時に、 長時間にわたり熱心に審査に当られた同僚諸氏にお礼を申し上げて結びとしたい。


情報コーナー

 

神戸市民まちづくり支援ネットワーク
第37回連絡会記録

 3月9日(金)、 こうべまちづくりセンターにおいて、 神戸市民まちづくり支援ネットワークの第37回連絡会が行われました。 今回は、 「まち住区・コンパクトタウンの展開・実践の検証」をテーマに、 3地区の具体的なまちづくり事例の報告がありました。

 (1)「灘中央地区のまちづくり」/コー・プランの上山卓さんから、 「エコタウン」など東の庶民の台所である水道筋の商業者と周辺の住民等が一緒にまちづくりに取り組んでいる灘中央地区のこれまでの活動の紹介と、 「人材バンク」を中心とした今後の活動の展望について、 (2)「住吉浜手地区のまちづくり」/遊空間工房の山本和代さんから、 国道43号以南の酒蔵地帯の一角で活動を展開している住吉浜手地区の協議会設立から対象範囲の拡大に至るまでの経緯と、 さまざまなイベントなど「できること」からの実績づくりについて、 (3)「六甲道駅北地区のまちづくり」/都市調査計画事務所の長嶋弘之さんから、 JR六甲道駅地区の土地区画整理事業の実施を通じたまちづくり協議会活動の紹介と、 「新しいコミュニティ」の形成に向けての取り組みや今後の課題について、 報告がありました。

 そして、 報告を受けて、 今後のまちづくりにおいて、 まちなかのサスティナブル・コミュニティをどのように醸成していくかをテーマに、 “わがまち意識”の重要性や、 地域における協議会の位置づけや既存組織との関係、 今後の展開など地域の組織がかかえているさまざまな問題などについて意見が交わされました。


イベント案内

阪神白地まちづくり支援ネットワーク/第19回連絡会

プラザ5「1周年まつり」

西山夘三と日本のすまい展

上三角
目次へ

このページへのご意見は前田裕資
(C) by 阪神大震災復興市民まちづくり支援ネットワーク

阪神大震災復興市民まちづくり支援ネットワーク・ホームページへ
学芸出版社ホームページへ