まちを見る眼神戸大学名誉教授 新野 幸次郎 |
先日、 坂東慧教授から大変刺激的なことをお聞きした。 坂東教授は、 神戸市の全世帯調査をその創設以来分析してみているが、 最近大きな変化が見られると言われる。 すなわち、 教授によると、 昨年の調査でえられた市民の要望を見ると、 従来のような居住区・地域による格差が少なくなり、 全市的に平準化がすすんでいるというのである。 教授はそれをニーズがどの地域でも多様化して集中性が弱まってきていること、 震災復興によって、 全市的に同じような住宅整備が進み都市構造が相似化・平準化してきた結果ではないかと言われるのである。
この坂東さんのとりまとめは、 まだ文書としては発表されていない。 したがって、 私がこの段階で坂東さんのご指摘をそのままとりあげるのは適当でないかもしれない。 しかし、 既に発表されている昨年度のアンケート調査結果の概要を、 4年前の平成8年度や平成3年度、 および平成元年度のそれと比較してみると、 坂東さんのご指摘は一つの重要な問題提起になっていると思われる。
震災がなくても、 どこのまちも絶えず変化している。 しかし、 あの大震災を経験し、 そこからの復旧・復興のために苦闘している神戸市のようなまちの構造が変化していることは、 こうした全世帯調査の結果で示されている市民の要望をみても判る。
しかし、 考えてみると、 地域特性がなくなるようなまちづくりはそれでよいのだろうかという疑問も生じないわけではない。 また、 地域の特性を把握できるアンケート調査をしようと思ったら、 この程度のアンケートで十分であるのかといった問題もあるように思う。
ところが、 いずれにしても、 坂東さんの問題提起は、 まちづくりを考えているものにとって極めて重要な意味をもっている。 なぜなら、 大震災のあと、 私たちはどのようなまちづくりをしようとしているのかを、 この際根本的に考えてみようとの呼びかけを含んでいるように思うからである。 しかも、 これからのまちづくりは、 誰かにして貰うまちづくりであってはならない。 こんなまちづくりを要望したいと考えるのなら、 そのために自分もこれだけの負担をいたしますからという決意も表明できるようになっていないといけない。
別な言い方をすれば、 こうしてほしいという政策需要をする人たちが、 みんなで、 そのためにこれだけの政策は供給しますよという覚悟をすることが望まれる。 まちを見、 まちを作る眼は、 こうして根本的に変化することを求められているのである。
3月初めにインドネシアのコレクティブハウジングを見てきました。 インドネシアのカンポンのフィールド調査を20年来続けておられる布野修司京都大学助教授をコーディネイターとする日本建築学会のアジア建築交流委員会の企画です。
カンポンの居住環境整備の手法として、 KIP(Kampung Improvement Program)があり、 居住地の道路、 上下水道、 ゴミ処理など最小限の基盤整備を行い、 後は居住者やコミュニティの自律した活動によって環境改善を図っていくというものであるが、 相互扶助が育まれたカンポンなので、 この手法はかなりの成果を挙げているようだ。
スラバヤで訪れたKIPが行われたYAYASAN KAMPUG PAKISの集会所には、 住民の生活改善のための10項目プログラムが貼ってあり、 その内容は相互扶助の促進、 衣食住の生活向上、 教育と技能の習得、 家族計画、 保健衛生の向上などであり、 フィジカルな環境改善と併せてソフト面の生活改善にも力が注がれている様子がうかがえた。
このKIPの手法では改善が極めて困難な稠密な不良住宅地区の居住環境整備としては、 クリアランス型再開発を行いその受皿住宅として登場したのがインドネシア型コレクティブハウジングで、 1980年代の半ばにスラバヤ工科大学のJohan SILAS教授によって提案された。
カンポンを積層したインドネシア型コレクティブハウジング
石東・都市環境研究室 石東 直子
◆Kampungの生活
布野氏の著書(注1)よると、 カンポンKampungとはインドネシア(マレー)語でムラ・集落のことであるが、 都市でも農村でも一般に居住地はカンポンと呼ばれ、 このカンポンと呼ばれる居住地の概念はインドネシア(マレーシア)の固有のものと言えるそうだ。 視察後のわたしの言葉で言い換えると、 都市のカンポンは密集住宅地のコミュニティ単位で、 民族や居住階層が異なる人たちが共生し、 居住者の相互扶助による生活が展開されており、 日本の下町地域とよく似ている。 そこは戸外空間を輻輳的に使って、 ほぼオールマイティの日常生活機能を内包した空間で、 コンパクトタウンとも言える。 わが国の下町が場所によってそれぞれ独自の雰囲気をもっているように、 訪れたいくつかのカンポンも多様であった。 軒先に植木鉢が並び緑が連なる落ち着いた庶民住宅地から、 人口密度1000人/haを越える地区、 さらに河川敷等を不法占拠してできた稠密地区もあった。 家の前の戸外空間は住宅の続きの生活スペースとして家事労働が展開されており、 あらゆる物売りが回ってきて、 子供たちが走り回り、 老人が腰を下ろし、 生業のための小さな店や作業場があって、 そして必ずモスクがあり、 強い生活共同体が感じられる町であった。 ここでの情景は30〜40年程前の、 子供たちの姿が多かった時代のわが国の下町風景を思い出させる。◆インドネシア型コレクティブハウジング
図1 コレクティブハウス・DUPAK |
コレクティブハウス・DUPAKの外観 |
ここでの人々の生活展開はカンポンそのものである。 コモンリビングには個人のソファやテーブルが持ち出されており、 そこでお茶を飲みラジオを聴いてるおっちゃん、 ひとり座っているおばあちゃん、 おしゃべりしている女性たち、 子供たちが走り回り、 水浴びしたスッポンポンの幼児が現れたり、 炊事場からの匂い、 テーブルひとつ広げて総菜屋を出していたり、 菓子屋や雑貨屋をしている住戸などがある。 このコモンリビングすなわち中廊下がカンポンの路地である。 開けっ放しの住戸を覗くと、 室内は小ぎれいに設えられており、 ゴロゴロと昼寝をしてるのも丸見えである。 1住戸に平均して4〜6人が住んでいるようだ。 住戸はただ居心地のいい食事と就寝スペースで、 その他の生活行為のほとんどがコモンスペースで展開されているように思える。
ひとつの建物の中に、 はちきれんばかりの日常生活が展開されており、 カンポンの外部空間(路地)を内部空間化した積層したカンポンの再生である。 このコレクティブハウスは「RUMAH SUSUN SEWA DUPAK/積層化された家・DUPAK(DUPAKは地名)」という名称である。
図2 コレクティブハウス・SOMBO |
コレクティブハウス・SOMBOの外観 |
カンポンの居住環境改善策としてコレクティブを提案し、 設計者でもあるSILAS教授は、 コレクティブについて次のように記している。 「カンポンの構成原理を自然のままに設計に反映すると共に、 経済上の制約から計画のコンセプトを、 個人のプライバシィの視点よりもコミュニティに視点を置き、 コモンスペースを充実させ、 水回りを1カ所にまとめて居住者たちがふれあう仕掛けをつくった。 ここでは居住者は個人空間、 セミプライベイト空間、 コモン空間という、 その時々で自分が居たい場所に身を置くことができると同時に、 コモンリビングではさまざまな日常生活が展開されており、 例えば結婚パーティでさえも、 誰もがひとつの大家族のように参加できる。 これは低所得層のためのプロジェクトとして始めたが、 中所得層にとっても注目される住まい方になるだろう」(注2)。
阪神・淡路大震災の被災地で、 全国初として登場した公営コレクティブ(ふれあい住宅)は新しく移り住んだ復興住宅での閉じこもりを防ぎ、 隣人たちと日常生活の中で自然な形でふれあうことができるようにと、 独立した住戸と大きめの厨房がついたコモンリビングをもった協同居住型集合住宅で、 時間をかけて住人たちの相互扶助が育まれることを期待している。 わたしはその協同居住のイメージを「いつでも誰かと会えるし、 いつでもひとりになれる」「ひとりで食事をするよりは、 たまには大家族のように集まって食べよう」というものであると説明しており、 平成の長屋の再生と言っている。
1980年代に入って建設され出した欧米等の近代的なコレクティブは自己のライフスタイルとして協同居住を選択した人たちが、 家事や育児の協働による合理化や集まって住むことの楽しさを求めた住まい方である。
3者3様のコレクティブ生活のスタイルであるが、 隣人たちとふれあって暮らすことの安心感と安全性、 相互扶助によるいきいきした生活の実現は共通の望みであり、 わが国では多様な形で推進されようとしており、 公営コレクティブはすでに数カ所の自治体が事業化に取り組んでいるようだ。
新在家南地区では、 皆が避難する新在家地域福祉センターの片隅で復興まちづくりの全体計画を討論しつつ、 小規模倒壊家屋の共同再建手法の勉強会に着手し、 数地区で共同再建の検討がスタートした。 1ヶ月後の平成7年3月には共同再建推進協議会が3地区で立ち上がり、 ディベロッパーの選考等、 具体的な事業化の取り組みが始まった。 このスピードが共同再建事業を成就に導いたことは言うまでもない。
全壊した深江ショッピングセンターや湊川中央小売市場でも平成7年の2月から共同再建事業に関する組織的取り組みを再開した。 これらの地区では市街地再開発事業や優良建築物等整備促進事業に関する基礎的な勉強は一通り出来ていた。 このように震災前の平常時から取り組んでいた地区においては極めて早い時期からコンサルタントと地元住民による復興まちづくりに、 組織的に取り組むことが出来た。
住棟の入り口の屋台店・総菜屋さん(SOMBO)
各戸ごとに区画された台所スペース(SOMBO)
2戸で1区画が共用のバス・トイレスペース(SOMBO)
コモンリビングに面してある礼拝堂(モスク)(SOMBO)
コモンリビング(SOMBO)
コモンリビングで住人が総菜屋をしている(SOMBO)
◆インドネシア、 神戸、 欧米のコレクティブハウジング
ジャカルタの旧空港の跡地利用として、 再開発されたカンポンの従前居住者用住宅・KEMAYORAN
1ヶ所にまとめられた台所スペース(KEMAYORAN)
住戸の内部(KEMAYORAN)
コモンリビング(KEMAYORAN)
(注1)布野修司著「カンポンの世界・ジャワの庶民住居誌」1991年 PALCO出版
(注2)Johan SILAS発表論文「RECONSTRUCTION AND COLLECTVELIVING the case of renewal in Surabaya」
第2回アジアの建築交流国際シンポジウム論文集 1998年 日本建築学会等
(付記)この文章を書くにあたっては、 上記の(注1)と(注2)を参考とした他に、 山本直彦氏(京大大学院生布野研究室)に教えを乞いました。 ありがとうございました。
震災復興まちづくりは平常時(震災前)からの取組みが有効だった
ジーユー計画研究所 後藤 祐介
はじめに
前回の[私の復興まちづくり検証第1回]では、 阪神・淡路大震災の復興まちづくりが阪神地域の戦前からの区画整理事業(≒耕地整理事業)及び戦後の戦災復興土地区画整理事業がベースになっており、 このことは東京で真剣に検討されている震災対策から見た場合、 「阪神地域は“事前復興”が50年以上も前から取り組まれていることになる」ことを述べた。 今回は、 もう少し身近な話として、 私が平常時の震災前から取り組んでいた住民参加のまちづくりが震災復興まちづくりに極めて有効だったことを述べ、 「平常時からの住民参加まちづくり災害時の有効性」について、 阪神・淡路から全国へ送るメッセージとしたい。1)平常時からの住民参加のまちづくりの取り組み
私は、 阪神地域で震災以前から住民参加まちづくり協議会の支援を中心に活動していたコンサルタントで、 神戸市内では岡本地区、 深江地区、 新在家南地区で、 神戸市まちづくり条例に基づくまちづくり協議会を応援していた。 また、 市場再開発の取り組みとして、 神戸市内で湊川中央周辺地区(兵庫区)、 二宮市場(中央区)、 深江ショッピングセンター(東灘区)の応援をしていた。 今回のマグニチュード7.3という兵庫県南部地震では、 これらの地区は全て大きな被害を受けた。 これらの地区の住民の安否については、 大変心配なことであり、 震災直後から地元を回り、 各地区の役員等の安否を確かめるとともに、 被災状況を見て回ったが、 深江地区と新在家南地区は、 家屋倒壊も死者も多く、 深江ショッピングセンターは約50軒の市場が全壊していた。2)復興まちづくりの早期着手
私自身は、 阪神・淡路大震災の被災者であり、 自宅の損壊、 事務所の倒壊に対応しながら、 震災1週間後の平成7年1月25日から、 震災前から取り組んできたこれらの地区の復旧、 復興まちづくりに取り組み始めた。 特に被害の大きかった新在家南地区、 深江地区、 深江ショッピングセンター、 湊川中央小売市場等では2月のはじめから復興まちづくりに関する話し合いを組織的に再開した。3)平常時からの取り組み・早期取り組みの成果
平常時(震災前)からの取り組み地区における復興まちづくりの成果等(1/2) |
平常時(震災前)からの取り組み地区における復興まちづくりの成果等(2/2) |
深江地区と新在家南地区では、 平成7年〜8年に震災復興まちづくりを適正に誘導するためのまちづくり「手法」としての「まちづくり協定」を神戸市と締結し、 個々の住宅再建が進む中で、 協定運営委員会を設け、 組織的誘導を図って来た。
岡本地区では、 神戸の復興まちづくりの先進地区を目指し、 電柱の美装化や石ダタミ舗装の整備、 民営の岡本好文園コミュニティホールの建設や倒壊家屋跡地を活用した立体駐輪場の整備が実現出来た。
新在家南地区では、 住市総補助事業による小規模住宅の共同再建が4件、 民借賃、 特優賃等の公的支援を受けた民間賃貸住宅の建設が3件竣工し、 深江ショッピングセンターの優良建築物整備事業による共同再建及び、 湊川中央小売市場周辺の第1種市街地再開発事業も竣工した。
また、 岡本地区、 深江地区、 新在家南地区では、 神戸市のまちづくりスポット創生事業支援制度を適用し、 震災空地を活用した街かど広場をそれぞれの地区で整備し、 花と緑のフェアーや青空市場、 ガレージセール等を開催し、 まちの活性化、 美化に努めて来た。
阪神・淡路大震災復興まちづくりにおける事業地区では行政と住民の意識と知識の違いによる組織的な対立があり、 白地地区においては個人主義、 利己主義の行き過ぎが目立った。
一方で、 平常時からの住民参加のまちづくりは大変な時間と手間のかかる「地道な」活動であり、 効率の良い取り組みにならなかった場合が多かった。 私自身、 コンサルタントとしてなかなか進まないまちづくり支援を続けていた。 既成市街地、 特に密集市街地における住民参加のまちづくりは「進まない」「難しい」「効率が良くない」「仕事というより遊びのようなもの」と思っていた。
しかし、 今回の阪神・淡路大震災の復興まちづくりでは、 その「地道な遊び」が極めて有効だった。 時間をかけて育ててきた人間関係・信頼関係、 各種まちづくり施策の勉強の積み重ねが生き、 まちづくり協議会の一般的自治会を越えたまちづくりに対する意識力と知識力が発揮されたように思う。
情報コーナー
阪神白地まちづくり支援ネットワーク
第19回連絡会記録
連絡会の様子(2001.4.6、 於:兵庫県立神戸生活創造センター) |
◆『地域デザイン研究会』/鎌田徹さん報告
89年に公共団体やコンサルタント、 建設などの分野の方々によって設立された団体を、 2000年に法人化した。 「地域コーディネータ活動」「研究・教育・啓発活動」「情報提供活動」の3つを柱としており、 ひらかた市民フォーラム開催への支援など、 各分野の専門家が集まった利点を活かした活動を展開している。
◆『コミュニティ・デザイン・センター』/野嶋政和さん報告
前身である京都大学農学研究科環境デザイン学研究室の活動を経て2000年に法人化。 阪神大震災などにおける地元まちづくり支援活動や行政と住民のパートナーシップ型空間づくり活動を展開している。
◆『神戸まちづくり研究所』/森栗茂一さん報告
震災後、 長田の地で学者やンサルタント、 住民が集まって、 勉強会や様々な実践活動を展開してきた「長田のよさを活かしたまちづくり懇談会」を出発点に、 まちづくりプランナー、 様々なボランティア組織のメンバー、 学者、 マスコミ関係者などが集まり96年に神戸復興塾を結成。 この人的資源をベースに持続的に復興まちづくりに取り組むため、 99年に「神戸まちづくり研究所」を設立。
コメントとして、 小林郁雄さん(コー・プラン)から、 NPOが事業をすることの必要性、 事務所の場所を確立させる必要性などが出されました。 また、 なぜNPOでなければならないのか、 といったことを巡って様々な議論が行われました。
■ 阪神大震災復興 市民まちづくり支援ネットワーク 事務局
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担当:天川佳美、 中井 豊、 吉川健一郎
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