被災者復興支援会議の“応援団”スタート円卓支援会議(ワンツー・ラウンドテーブル)神戸新聞編集局 調査研究資料室 松本 誠 |
兵庫県の第三者機関として震災後の被災者支援と復興政策についての提言機能を果たしてきた被災者復興支援会議のI、 IIにメンバーとして加わった人たちを中心に、 「円卓支援会議」(ワンツー・ラウンドテーブル)と呼ぶフォーラムが5月から始まった。
被災者復興支援会議は震災から半年経った1995年7月17日、 設立された。 被災者一人ひとりの生活再建を支援していくために、 被災者と行政の間に立って被災者の生活実態や意見、 要望をつかみ、 生活再建に関する支援策や課題の整理を行政と被災者に提言、 助言してきた。 メンバーは被災者の生活復興に関連するさまざまな分野の有識者12、 3人で構成した。 メンバーの活動をサポートするために、 県は専任の事務局のほか関係各部課長級職員10数人で構成するプロジェクトチーム(PJ)を編成し、 メンバーと行動を共にしてきた。
円卓支援会議の構想は、 IIの最終提言フォーラムが行われた3月中旬、 フォーラムに参加したI、 IIメンバーの懇談会の中で生まれた。 I、 IIの支援会議OBメンバーが果たすべき役割を議論する中で、 復興6年間に提起してきた問題をフォローし、 支援会議IIの最終提言の内容が具体的な施策として展開されて実を結んでいくように、 広く一般の市民にも呼びかけて議論を行う場をつくろうということになった。
3月下旬にあらためてI、 IIのメンバー有志10人近くが集まって「支援会議ワンツー・フォーラム」の計画を議論した。 この間に、 支援会議IIIのメンバー構成作業が進み、 I、 IIのメンバーの一部がIIIのメンバーとして再登板することになり、 OB会というよりも支援会議IIIの「パートナーシップ・フォーラム」という性格が色濃くなった。 IIの“遺言”的な最終提言を実現し、 IIIの活動が成果を上げることができるように、 応援団フォーラムをやろうという趣旨が加わった。
メンバーの一人の社会学者の言葉を借りると「ステークホルダー」のような存在という。 「支援会議を我がことのように思っている数少ない集団」という意味で、 被災者復興支援会議が目標としている機能を支援会議のメンバーだけにまかせるのではなく、 志を同じくするさまざまな組織やグループの人たちが、 支援会議とパートナーとなるさまざまなフォーラムを開き、 支援会議に木を植えたり、 支援会議の機能を活用していくことをめざすことになった。
第1回 円卓支援会議「中間支援組織」 010525 |
席上、 支援会議IIに続いてIIIの座長を続投することになった室崎益輝・神戸大学都市安全研究センター教授は「IIIでは支援会議と一緒に歩いていく関係をもつグループを無数につくっていきたい。 復興をなし遂げる状況は複雑さを増しており、 支援会議とネットワークを組んだ行動部隊やサポーターが必要になっている」と、 円卓支援会議への期待を語った。
まず、 中間支援組織がなぜ必要であるか。
「いつまでも“支援”ではあるまい」という意見もあったが、 インターミディアリーとして未だ独り立ちできない人や集団に対して、 共に伴走したり応援したりしながら軽い“お節介”をやいていく機能が必要である。 支援する側が必ずしも「助ける側」として固定するわけではなく、 場合によっては「助ける側」と「助けられる側」が入れ代わることもある。 いわば、 現在の固定した関係を変えていくための“通訳装置”でもあるわけだ。 機能的には、 コミュニティなどの地域密着型や専門的なアドバイスを行う専門機能型がある。 こうした機能はまた、 市民と行政、 市民と市民をつなぐコーディネート役も果たすことが期待されている。
2つ目の論点は、 個人と公共(行政)の隙間をうめる組織や仕組みが求められていること。 中間支援組織の機能に着目すれば、 行政は(1)しごとのアウトソーシング (2)政策提言や助言 (3)総合的な活動拠点の整備 (4)活動助成制度−などを積極的に行っていくことが求められている。
3つ目は、 多様で、 細やかな地域のニーズへの対応ができるような組織や仕組みが求められている。 中間支援組織は、 さまざまな資源や人を有効につないでいくブローカー的な役割を果たす。 裏方として“兵たん”機能を果たしたり後方支援に徹するなど、 社会のさまざまな仕組みが機能していくために裏方的にさまざまな役割を果たしていく。
さまざまな実践事例も紹介された。 震災後の住まいの復興では、 コレクティブハウジングの居住者が時を得て自らの組織化をはかり、 入居前から支えてきたコレクティブ応援団からの自立をめざしている例。 インドのNGOは、 住民自らをエンパワーメントすることに活動の目標とさまざまな仕組みづくりに努力していること。 被災地の障害者が震災後、 さまざまな支援グループの応援を得ながら「生活の場サポートセンターひょうご」を立ち上げ、 小規模作業所など県内の障害者の生活の場を結ぶネットワークと中間支援組織を発足させた。 そして、 行政や企業などに依存してきた体質を払拭し、 「自前主義」にもとづく新しい活動主体を立ち上げている事例など、 被災地を中心に新しい市民社会の担い手の動きが加速していることが話し合われた。
次回は、 8月31日(金)午後6時30分から学習プラザ(交通センタービル4階)で「率先市民主義」をテーマに開く。 ゲストスピーカーにはIのメンバーの京都大学防災研究所の林春男教授などを予定。
神戸新聞社 松本誠氏
震災直後、 数多くのさまざまなマスコミ関係者が事務所を訪ねてきた。 朝日新聞、 NHK、 フジTV、 共同通信、 噂の真相、 週刊プレイボーイなどなど。 神戸新聞の松本さん(左の写真中央)が1995年の7月5日にカメラマンと一緒に来られたが、 何を話したのか、 すっかり忘れた。 ただ、 ほとんど震災の話ではなく、 不思議な人だなあという印象だけが残っている。 それから6年、 不思議な人と親密な時を共にしてきたが、 不思議のままである。 <小林郁雄記>
新長田駅北地区(東部)土地区画整理事業まちづくり報告(14)久保都市計画事務所 久保 光弘 |
・土井幸平先生は「黒地地区の復興プロセスでは、 <都市計画>と<まちづくり>の二つの考え方が正面からぶつかりあった。 あれは鮮烈な印象を人に与えた。 そこから何が生まれるか。 都市計画は何を生み出すかですね。 兵庫県の打ち出した2段階都市計画論についてもそこを見極めて評価する必要がある。 」とし、 「実際の都市計画は実に細かいところまで決め過ぎている。 フレームや枠組みを造る都市計画は必要だし、 一方で地域の事情に応じたやり方は、 地域に任せてほしいという方向がはっきりした。 」としたうえで、 2段階都市計画をきっかけに「骨組みの都市計画と身近なまちづくりとその両方の役割を区分」して考える方向に向かうべきという指摘をされている。 1)
・この「都市計画」と「まちづくり」の概念を区分することは、 これからの都市計画の体系を考えるうえで重要である。 越澤明先生は、 「コー・プランの小林さんは<まちづくり>を<地区の環境改善を持続的に行う住民主体の活動である>と明快に定義されました。 一方<都市計画>は何かと言いますと<整備によって都市または地域全体の社会資本、 都市環境を改善する>と同時に<土地や建物の使い方についてルールづくりを法律によって行う>ことが本質だと思います。 」として「その重ならない部分を行政、 専門家、 地域住民の誰がきっちり考えるのか現在あいまいになっています。 」と指摘されている。 2)
・このように都市レベル、 地域レベル、 地区レベルの3つのレベルでとらえると「都市レベル」と「地区レベル」のそれぞれの構想の位置づけについては明確になってくる。
都市レベル(全体構想):都市レベルは、 広域的で長々期の都市骨格づくりであることから、 全体構想は広域的、 長期的視点で市民の意見を聞きながら主として行政が責任をもって対応すべきものそのように考えると地域別構想とは、 「全体構想とまちづくり構想(まちづくり提案)をつなぐツール」として位置づけられ、 次のように捉えられる。地区レベル(まちづくり構想):地区レベルは、 まちづくり協議会等により住民主体でまちづくりを行うレベルであり、 住民総意によるまちづくり構想を行政にまちづくり提案し、 それを行政が支援するもの
地域レベル(地域別構想):地域別構想は、 都市全体の視点を含めた地域の基本的な枠組みについての市民(住民)コンセンサスを得るとともに、 地区まちづくりを生み育てる役割を担うツール
都市マスとまちづくり構想の関係 |
この争点については、 今後震災直後の「リアリティ」、 すなわち都市計画に対する人々の認識、 住民の感情と関心の対象、 手段の選択肢とその可能性等から整理しておくことが大切である。
・いづれにしても2段階都市計画は、 都市計画とまちづくりをつなぐツール、 すなわち地域別構想のあり方を提示したものであるが、 同時にこの震災復興は、 地域別構想レベルへの住民参加が未だ進んでいなかった時期のできごとであった。
(1)都市計画事業等の整備予定の公表(神戸市:H12.4)
神戸市は地域の都市計画道路など都市計画事業等の整備予定やまちづくり課題をミニニュースで公表し、 地区まちづくり推進の働きかけを行っている。 それに応じてまちづくり協議会等でまちづくり計画がまとまった場合には、 神戸市は都市計画の決定や変更を行うとしている。
(2)職住共存地区整備ガイドプラン(京都市:H10.4)
都市再生の先導地区を職住共存地区として、 職住共存のまちづくりの目標とともに職住共存の8つのまちづくりアクションプランを定め、 地区まちづくりの誘導を行っている。 特にこのまちづくりアクションプランの中の「職住共存地区地域協働型地区計画」は、 行政が地区計画の方針を定め、 地区まちづくりによって地区整備計画をつくるという仕組みとなっている。
・既成市街地の密集地区における将来像は、 平常時であれば修復的まちづくりの方向性をもつものが一般的であるが、 震災等災害が起これば区画整理事業等復興事業の選択も起こる。 この場合将来像は異なる。 地域別構想のステージは、 災害復興の場合の計画シミュレーション等、 計画トレーニングを住民参加で行うこと等、 様々な「場」を提供するステージであってもよい。
<参考文献>
1)土井幸平・江川直樹(1999)「都市型集合住宅の再生から都市づくりへ震災復興にみる都市づくり手法の課題に関する事例調査」P49〜50、 日本都市計画学会、 住宅・都市整備公団関西支社
2)越澤明(2001)「都市計画は自信をもて」、 市民まちづくりブックレットNO.7、 神戸市まちづくり連絡会・阪神大震災復興市民まちづくり支援ネットワーク
3)久保光弘(2000)「3段階2層性の住民参加まちづくり体系」関西における市町村都市マス90市町村アンケート調査結果報告書P.92〜93、 (社)日本都市計画学会関西支部自主研究「都市マス研究会」及び都市マス研での久保コメント
・この論評の対象となっている内容については、 報告きんもくせい00年9月号 新長田駅北地区(東部)土地区画整理事業まちづくり報告(11)に詳しく述べているのでここでは概要とこの内容を提示した主旨について説明しておく。
神戸市街地の基底部に古代条里制地割があり、 とりわけ長田を中心としている神戸西部市街地は、 その形態を整然と残している。 これは、 大正期に始まった当地域の市街化を前提とした耕地整理によるものであるが、 同時代に摂津国八部郡条里復元研究が始まっていることから、 耕地整理にあたっては、 条里遺構に「注意」が払われて行われたはずである。 大正時代の人々のこの「注意」こそ、 条里制に沿った市街地形成の重要な契機をつくったものであることを、 我々の時代に関西の市街化区域農地等の条里地割が開発で無意識のうちに多く失われたこととあわせて心に留めておく必要がある。
震災復興は、 歴史的にみても市街地が大改変される可能性が大きく、 神戸市街地の基底にある都市原型といえる条里制地割に「注意」すべきである。 条里制地割の構造を読み解き、 それを新らたな意匠で再生し、 将来に残すことが大切である。
・我々プランナーは、 地域整備にあたっては、 この時代のあらゆる手法を駆使して取り組もうとする。 これは、 古代のプランナーも同じであると考えるのが自然である。 条里制地割の読みときは、 条里制と同じ時代の風水的手法、 方位線等の手法と関連して考えることは、 プランナーにとっては自然な方法といえる。
これによって少なくとも我々が「注意」しなくなった周辺自然環境との関係に再び「注意」することを促すことになる。 このような観点から報告きんもくせい00年9月号に「条里制からみた長田市街地構造図」を示したが、 これは長田地域の基底にある古代地域計画と現代の地域計画のレイヤーを重ねたものである。 そしてこれを基にする新しい都市計画・まちづくりの展開として、 私は道路デザインの他、 (1)条里制地割のシステム性に留意したまちづくりシステム、 (2)環境共生、 (3)地域アイデンティティの形成の3つを挙げている。 地域アイデンティティの形成は、 「コンパクトシティ」といいかえて良い。
・それでは、 細野論評に対する私の意見を述べてみたい。 (1)当地域の条里制研究のスペシャリストである落合重信は、 八部条里西部地区の条里地割方位が正南北に対して、 37°西1)と測定の報告がされているが、 その方向の理由については、 私の知る限りでは、 言及されていない。 2)条里地割方位が高取山・葛城山方位線が基軸となっている説は、 私独自の仮設であり、 異論があって当然であり、 議論を深めることは大賛成である。
(2)細野さんのいう「条里制が古代の<耕地整理>であったこと」という意味は、 単に農業土木として、 技術的、 ハード面の事業でソフト面(信仰)とは関係ないという指摘だろうか。
松岡正剛が、 「そもそも人間の歴史は、 最初からハード技術とソフト技術をつなげあって発展してきた。 (中略)つまりハードの情報化はソフトの編集化とともに歩んでいたはずなのだ。 それが分断され始めたのは、 近代国家が出現してからである。 」3)と指摘しているようにハードとソフトを分けての思考は現代人の性向のようであり、 山田安彦がいうように「いにしえにおいては、 地域の招福のためには自然の摂理に背かないように地域計画の理念を樹立していた。 」4)とみて良い。 灌漑用水等のハード面、 機能面は当然のことであるが、 それだけでなく山田がいうように「自然の中に神の創造した摂理」があるとして条里地割についても「生産豊穣と息災を祈願するために、 神の意に添うように摂理条理に合致するよう象徴化」5)したものという見方がある。 平城京等都城計画において風水的手法で信仰的側面すなわちソフト面が計画に取り入れられていることは、 大方の認めるところであるが、 共同体の秩序と結合を強固にする必要がある農耕基盤の整備に際してソフト計画(信仰的計画)がないという見方は、 むしろ不自然である。
(3)条里の方位については、 大和条里においては、 正北の方位であるが他の地域によっては、 正北を中心に西又は東に偏向がみられる。 この方位の偏向についての説として私の知る限りでは、 磁石説と地形説がある。 前者、 磁石説は、 条里の方位がまちまちなのは、 磁石を使って北をとったからで磁石は地磁気の永年変化で動いているため偏向ができるというものであるが、 磁石の使用が立証されていないこと、 地磁気の永年変化と条里施工時代の不整合や地磁気の永年変化にあらわれない25度以上偏向のある条里地割が説明できない等、 否定的な見解がある。 6)それよりも当時天測法により方位に関する技術が高いことを考えれば磁石をもち出すまでないように思うのだが。 後者、 地形説は、 条里の方位は正北を基本に土地の傾斜に基づくとするものであるが、 それに対して、 地表の傾斜は統計上あらゆる方向を示しているはずなのに兵庫県下の条里方位の偏向は、 一定範囲の方向に集中しているとしてこれにも否定的な見解がみられる。 7)狭いエリアで条里が計画されたならば地形に従うこともわかるが、 例えば兵庫から須磨に至る広範囲で行われたわが八部郡条里では、 徴地形の変化があるにもかかわらず、 広範囲で一定方向の条里方位が「地形の傾斜の方向による」では理解できない。 つまり、 条里方位に関する地磁気説、 地形説は定説ではない。 いずれもこれらの条里の方位に関する説は、 ハードの視点からのみのとらえ方であり、 又当時の風水的手法、 方位線手法など横断的にもとらえていないことが不思議である。
(4)一定の地域ごとに条里の方位が異なることこそそれぞれの「地域のアイデンティティ」であるという見方が私の見方である。 すなわち、 古代の地域計画には、 ソフトすなわちビジョンもコンセプトもあるという見方である。 (今日とその性格は異なるが)
もっとも今日のプロジェクトであってもアイデンティティもビジョンもコンセプトもないものはざらにあるから、 いにしえのプロジェクトにビジョンやコンセプトが無いものがあってもおかしくないわけであるし、 表層的なビジョンやコンセプトは、 時代を経て消えさるものもある。 しかし、 いにしえのプロジェクトに対し、 そのアイデンティティ、 ビジョン、 コンセプト、 を探ろうとしないのはいにしえのプランナーに対して失礼だし、 今日のプランナーの怠慢である。
少なくとも、 古代はハードとソフトが一体であり、 自然や方位などにおそれうやまう信仰(「信仰」というといかがわしく思うのであれば「思想」といいかえてよい)というおろそかにできないソフトのある古代にいいかげんなプランニングは今より少ないと考えてよい。 これは、 長年プランナーとしていろいろな土地をみてきた私の実感でもある。 日本の村や街の歴史は、 災害の歴史ともいえ、 その度に記録は失われており、 又、 かつての都市計画手法はシークレット性もあって表にでないことから我々プランナーは、 土地を読む技術力をつけるより仕方がない。 その場合、 各種の学会情報等が大切であるが、 それは実証手続があるから後向きで、 そう多く直接的に役に立つ情報を提供してくれない。 それではどうするか。 それは周辺の基礎知識をもっていにしえのプロジェクトのいにしえのプランナーの立場に立ってプランニングしてみることだ。 このような作業をすることが、 「サスティナブル」な都市の創造につながることでもある。
(5)というわけで、 改めて「高取山・葛城山方位線説」を述べておく。
古代ナガタノクニが大和朝廷の勢力下に組入れられるとともに、 高取山を神として崇めてきた長田の神祭りが祭神を大和国葛城山麓に祭られていた事代主とするようになる。 8)おそらく当地域の条里プロジェクトは、 その後に行われ、 葛城山麓の豪族やそれに従ってきた人々もナガタノクニの人々とともにこのプロジェクトに従事したのだろう。 この大事業に人々は、 生産豊穣や息災の願いをこめたはずであり、 ナガタノクニの神の山高取山と「田の神である事代主」9)の葛城山の加護を願うのは自然である。 そのための手法は、 山田が想定するように「信仰する山岳を見通して、 その方位を崇拝したり、 神聖化する。 その山岳を目標として、 その山を見通す方位を遠望しうる位置に生産の場なり、 信仰施設を配置する」10)という方法がとられたのであろう。 高取山と葛城山を結ぶ方位は、 まさにそのような方位であるとともに、 さらに「生産霊が鎮座すると信じられた辰巳隅信仰」11)の方向である。 このようにみていくと、 まさに「高取山・葛城山方位線」は、 この地域の条里プロジェクトのコンセプトデザインの基軸をなすものといえる。 このことは、 1/25,000の地図で高取山山頂と葛城山山頂とを結ぶ方位が、 当地域の条里方位とピッタリと一致することで証明される。
<参考文献>
1)渡辺久雄(1968)「条里制研究」P473、 創造社
2)落合重信(1995)「条里制」日本歴史叢書、 日本歴史学会編集、 吉川弘文館
3)松岡正剛(1996)「知の編集工学」P96、 朝日新聞社
4)山田安彦(1993)「古代方位信仰と地域計画」P26、 古今書院
5)上掲文献1)、 P123
6)上掲文献2)、 P121〜122
7)上掲文献1)、 P443〜444
8)落合重信(1978)「ながたの歴史」P21、 長田区役所広報相談課
9)門脇禎二(1984)「葛城と古代国家」P170、 教育社
10)上掲文献4)、 P168
11)上掲文献4)、 P167
報告(I)〜(4)は「きんもくせい」(創刊号〜50号)を、 (5)は「論集きんもくせい」第4号を、 (6)〜(13)は「報告きんもくせい」第3〜24号を参照してください
すまい・まちづくりに携わる人材の育成のための研修(CA2000)無事修了そしてCA2001開講される |
西川氏(神戸市住宅局長)の祝辞 010312 |
実践コース修了者のひとこと 010312 |
CA2000の全体報告に続き、 理論コースと9月に開講しました実践コースの修了証授与式が行われ、 西川靖一神戸市住宅局長より祝辞が述べられました。 その後、 修了者と講師から感想を交えて各コースを振り返りました。
CA2000の最終的な受講者数および修了者数は以下のとおりです。
ca2000の受講者数および修了者数 |
活動案内コース第1回/後藤氏 010614 |
・期間:平成13年6〜8月(第2・4木曜日 全6回)
・場所:こうべまちづくり会館
(2)マンション管理コース
マンション管理の実務、 法律から管理支援の仕組み、 住まい方を含めたコミュニテイ論まで、 マンション管理に関することをわかりやすく講義する基礎的な研修をおこなう。
・期間:平成13年9〜11月(第2・4火曜日 全6回)
・場所:すまいるネット
(3)すまい・まちづくり徹底学習コース
すまい・まちづくりの専門家(まちづくりプランナー・建築家・学識経験者・行政担当者など)の実際の活動業務から経験的なすまい・まちづくり理論をゼミ形式で行う特別研修をおこなう。
・期間:平成13年6〜12月(第1・3木曜 全12回)
・場所:茶店きんもくせい
(4)すまい・まちづくり徹底実践コース(6講座)
すまい・まちづくりの現場で実践的な活動を行う(緑のまちづくり、 住民のまちづくり、 まち協の支援、 建築の調査、 建築の現場、 事務所探訪の6講座)。
・期間:平成13年6〜12月(不定期―各講座で実施)
・場所:まちづくり地域、 コンサルタント事務所など
5月2日までの応募期間を経て、 各コースの受講生は、 活動案内コース54名、 マンション管理コース50名、 徹底学習コース36名、 徹底実践コース18名となりました。
そして、 6月14日にこうべまちづくり会館で開講式を行いました。 受講申込者合計115名のうち、 82名の出席者があり、 昨年度の報告と今年度のガイダンスの後、 すまい・まちづくり活動案内コースの第1回として、 西川靖一(神戸市住宅局長)、 後藤祐介(ジーユー計画研究所)、 重吉信雄(元・兵庫建設社長)の3氏より講義が行われました。 (吉川健一郎)
入居システムは、 入居預かり金(15年償還で1500万円)と月利用料と食費(希望に応じて)です。 月利用料は生活支援の専属スタッフ人件費、 事務費、 共用部水光熱費、 建物維持管理費、 地代・公租公課等で105,000円/月です。 住戸内の水光熱費は自己負担です。 食事は希望者にはあしや喜楽苑から配食サービスがあり、 1日3食利用の場合は50,000円/月ですが、 希望に応じて昼夕の2食や夕食のみの方もいます。
2階から5階に15戸の住戸があり、 その広さは25〜29m²で、 住戸内には便所とシャワー、 ミニキッチンがあってバルコニーがついています。 住戸前の廊下は談話コーナーとして設えてあります。 1階は協同生活ゾーンで厨房と食堂兼広間、 和室、 ロビーとフロント、 各住戸用収納等があり、 食堂から続くテラスは気持ちのよい憩いのスペースです。 上下足の履き替えはロビー奥のエレベーター前にあり、 共同の内玄関になっています。 5階には2つの共同浴室と洗濯場があり、 6階はオーナーの住宅です。 建物設計は竹山清明さんで、 随所におしゃれな工夫があります。
居住者はオーナー夫妻も含めて17人で、 男が5人、 女が12人です。 最高年齢が94歳で、 平均年齢は80歳ぐらいになるそうです。 介護保険制度による要支援が1人、 要介護度1が5人おられ、 このグループハウスの事業主体であるあしや喜楽苑からホームヘルプサービスを受けています。 重度の要介護になっても受け皿がある(希望すれば特別養護老人ホーム「あしや喜楽苑」に入所できる)ということが大きな安心感で、 この点が第一の入居理由だったという居住者も少なくないようです。 ほとんどの人が昼食と夕食は配食サービスを受けていて、 あしや喜楽苑から届く食事を家庭的な食器に盛りつけ直して、 みんなで一緒に食堂で食べます。
まだ自分の部屋が片付いていないので、 おしゃべり相手を誘って協同室に出てくる人は少ないようですが、 入居者のひとりが先生になってお習字クラブができました。 これから季節の行事などを通して、 協同居住の楽しさを徐々に育んでいきたいとNさんは話されています。
Nさんを含めここには4人の専属スタッフ(あしや喜楽苑の職員)がいます。 Nさんは近くに住んでおられて、 このグループハウスづくりにも参画されており、 現在はあしや喜楽苑の非常勤職員で、 ここの管理業務(食事のチエック、 見学者や業者との対応など)を担当されております。 他の3人のスタッフのうち1人はここにお住まいで昼間はあしや喜楽苑勤務ですが、 夜間の緊急時の対応を担当され、 他の2人が朝から夜までの生活支援サービスを2交替制で分担しています。 生活支援サービスは協同居住を育むためのコーディネイター的な仕事で、 個人の介護サービスではありません。
このグループハウスの誕生は震災直後に芦屋市呉川町に設置された「高齢者・障害者向けケア付き仮設住宅」に端を発します。 当仮設住宅の運営を芦屋市から委託された「喜楽苑」の市川禮子苑長の熱い想いが実を結びました。 高齢期を生き生きと暮らすための協同居住を支援する住まい=グループハウスを居住者参画型でつくりたいと、 震災後2年目ぐらいから呼びかけて会合を続けてこられ、 石東もこの会合に参画していました。 一方、 芦屋市民のNさんは、 福祉に関心をもち市政で学び、 市川さんの理念に賛同し、 友人のFさん(このグループハウスの地主)を誘ってケア付き仮設住宅でボランティアをされており、 グループハウスづくりに当初からかかわってこられました。 当初は土地入手が難航し長時間を要しましたが、 区画整理の換地を受けられたFさんの土地提供の申し出があり、 実現に至りました。 現居住者の何人かは計画づくりに参画してこられましたが、 完成まで待てずに他の施設に入所された方もいるようです。 計画案のワークショップでは各住戸に風呂を設置する希望もあったようですが、 結局はシャワーのみになったようです。
私がお邪魔した午前中は、 協同リビングには居住者の姿はありませんでしたが、 テラスから差し込む光が気持ちよく、 食堂に配置された4つのテーブルは友達家族がなごやかに食事をする雰囲気が伝わってくるような大きさです。 建物全体に清潔な落ち着いた感じがただよう素敵な共生の住まいです。 周辺の住宅再建が少しづつ進み、 東寄りの三八通り商店街にはしゃれたレストランや喫茶店が開店しはじめ、 町中の生活が楽しめます。
被災地に咲いた民間の<生活支援型グループハウス>
「きらくえん倶楽部大桝町」と「グループハウス健寿荘(やすらぎ荘)」
石東・都市環境研究室 石東 直子
◆「きらくえん倶楽部大桝町」/居住者参画型の住まいづくりに終生の安心確保
JR芦屋駅の南に広がる震災復興土地区画整理事業区域に、 6階建16戸のグループハウスが、 2001年4月にオープンしました。 震災前にアパート経営をされていた地主さんが土地を提供し、 ご自身の住宅再建(6階が地主さん住宅)も合わせて事業化されたものです。 グループハウスの事業主は、 高齢者総合福祉施設「あしや喜楽苑」を経営している社会福祉法人で、 50年の定期借地で建物を建設しました。
きらくえん倶楽部・1階平面図
きらくえん倶楽部・2〜4階平面図
きらくえん倶楽部・5階平面図
きらくえん倶楽部の外観
1階の食堂(右手に和室がある)
2〜5階の住戸前廊下(談話コーナー)
◆「グループハウス健寿荘(やすらぎ荘)」/介護保険制度をフル活用した下町ハウス
健寿荘・1階平面図 |
健寿荘・2〜4階平面図 |
入居システムは、 入居一時金50万円と利用料(居室代、 共益費、 管理費等を含む)が8万円/月ですが、 この額の支払いが困難な人には相談に応じているとのことです。 食事代は1食300円でほとんどの人が3食利用しています。 なお、 毎月の利用料が5万円から6万円位に減額されている人も少なくないようです。 各居室内の水光熱費は自己負担です。
現在の入居者は20室(うち親子入居と夫婦入居が1組づづ)22名で、 男は5人です。 最高年齢は101歳で平均年齢は70歳代後半だそうです。 入居者の多くが介護保険制度の要支援や要介護の認定を受けており、 NPO法人コスモスが介護サービスに当たっていますが、 集住のメリットを活かして介護保険制度を有効活用しています。 NPO法人コスモスは県から居宅介護支援事業者と訪問介護事業者に指定されているので、 入居者の介護サービス計画をつくる人(ケアマネージャー)と介護サービスをする人(ホームヘルパー)が同組織なので連携がしやすく、 利用者の希望にそったサービスが提供できるということだそうです。 グループハウス健寿荘には平日は看護婦さんが常駐し、 介護の必要な人にはホームヘルパーが24時間体制で介護サービスを提供しています。 ひとつ屋根の下に住む複数の要介護者の介護時間を合算して、 24時間のケアーが提供できるということでしょうか。
このグループハウスの誕生は、 住みなれた町に住み続けたいという被災高齢者たちの切なる願いを受けて、 「老人ホームでもない、 施設でもない、 共同の住まいをつくりたい」というTさん(地元の社会福祉連絡協議会会長)の想いから始まりました。 Tさんたちは震災直後に住宅復旧ボランティアセンターを結成して、 屋根にブルーシートをかけたり、 壁を修理したりする住宅の応急復旧活動を始めました。 活動には地域の人に加えて全市から全国から多くの人が集まったので、 まずボランテイアの宿泊所をつくり、 彼らのための炊き出しも行っていました。 その炊き出しグループが「在宅支援グループ・コスモス」を結成し、 現在のNPO法人・コスモスへと発展しました。 一方、 Tさんの想いを受けた地主のKさんは震災で全壊したアパートの再建としてグループハウスを建設し、 NPO法人コスモスが1棟借して管理運営にあたっています。
町中の住まいは便利で、 隣には銭湯があり居酒屋があり、 前の公園は自分たちの庭のように使えるのも好条件です。 1階の協同スペースはデイサービスセンターのような賑やかさで、 テレビあり、 カラオケあり、 本棚があり、 居住者が若き日に創られたという見事なケース入り日本人形が飾られ、 誰でも気軽に出入りできそうな下町の雰囲気が漂っています。 車椅子使用の重度要介護の女性が食事の介添えサービスを受けておられたり、 折り紙に夢中になっている女性、 上階から下りてきた伝い歩きの男性は何だかきげんが悪そうで、 職員がすぐ寄っていき手を差しのべていました。 隣の厨房からはスタッフの声が響き、 この協同スペースには居住者や職員たちの目がいっぱいあって、 誰でもここにいると安全な人の目がそそがれています。 ここには、 介護が必要になっても住み慣れた地域で気ままに住み続けられている生活がありました。
このようなグループハウスの建設には現在のところ公的助成制度はなく、 ただ被災地では阪神・淡路大震災復興基金による「被災者向けコレクティブハウジング等建設事業補助」があるのみです。 復興基金による事業補助制度はいつまでも継続されるものではないので、 ぜひとも被災地からグループハウス建設のための公的助成制度を立ち上げてほしいです。 制度設定のためのノウハウは既に多く蓄積されているはずです。
いま全国で仲間と暮らす住まい方を求める人は増えており、 この5月には200人近くの参加者が集い「共生型すまい全国ネット」が東京で設立総会をもち、 私も副代表のひとりになりました。 公営のグループハウスを望む声も大きく、 とくに被災地の公営住宅は高齢者率が高く、 生活支援サポートのあるグループハウスづくりは緊急課題で、 建物を新設しなくても既設住宅の改善で十分に対応できそうです。
もちろん、 高齢者だけを対象にしたグループハウスよりも、 多世代が共に住み、 相互のサポート合いができればより理想的です。 私はいづれ機が塾する時が来ると確信をしていますが、 それまで待たれへん!という声が日々大きく響いてきます。
報告(1) 「尼崎都心歴史文化ゾーンの再生への取り組み」 岩崎光正さん(尼崎市都市計画部まちづくり担当)
報告(2) 「大阪都心の再生へ向けての取り組み」 小浦久子(大阪大学)
報告(3) 「神戸都心の再生に向けての取り組み」 倉橋正己(神戸市都市計画局アーバンデザイン室)
■ 阪神大震災復興 市民まちづくり支援ネットワーク 事務局
●「きんもくせい英語版」のインターネットアドレス:
健寿荘の外観(正面道路の手前が金楽寺北公園)
1階の協同スペース(協同食堂兼居間)
2〜4階の居室前廊下(奥は談話コーナー)
◆結びにかえて/民の声
2つのグループハウスは芦屋の住宅地と尼崎の下町という地域特性による独自のスタイルの暮らしが展開されています。 でも、 どちらも町中にあり、 小規模であって、 生活支援サポートがあるということが、 孤独にならないで安心して暮らせ、 町中の文化ストックを気軽に楽しめるという自由な生活があります。 これらの誕生には想いを実現させたいという熱いエネルギーとそれに賛同した方々の優れた人材がありました。
情報コーナー
阪神白地まちづくり支援ネットワーク
6月8日(金)、 兵庫県立生活創造センターにおいて阪神白地まちづくりネットワーク連絡会が行われました。 今回のテーマは「都心の再生(復権)−アーバン・ルネッサンス−」。 まず、 ネットワーク世話人の後藤さんより、 ご自身が手がけられている阪神尼崎駅南側の再開発計画や最近の情勢等を題材にして主題解説が行われ、 引き続き報告が行われました。
第20回連絡会記録
市民の主体的な活動の展開や都市デザイン戦略等によって、 尼崎市の主に南部地域の資源のネットワーク化によるまちづくりをめざす「新歴史・文化ゾーンの再構築」の考え方について報告されました。
船場の建築線や御堂筋のまちなみ誘導など、 大阪都心部での景観形成施策の紹介ののち、 IT関連のまちづくりの動きとオフィスビル需要の変化、 古いビルのリニューアルの動向などといった大阪都心の最近の動きについての興味深い報告がありました。
神戸都心のなかでも三宮から元町にかけての4つの地区−−旧居留地、 栄町・海岸通ゾーン、 三ノ宮南(磯上)、 三宮裏線(三宮中央通り)−−についての最近の動向についての詳しい報告がありました。 栄町・海岸通ゾーンでは、 古いビルを活かしたおしゃれなショップが目立ち始め、 注目されるゾーンになり始めたことや、 三宮裏線(三宮中央通り)では、 住民主体で通り名を決めたり、 沿道利用や景観のルールづくりを検討していることなどが報告されました。 (中井都市研究室 中井 豊)
イベント案内
神戸市民まちづくり支援ネットワーク/まちづくりフォーラム
<パネラー>御蔵地区/宮定章(まち・コミュニケーション)、 真野地区/宮西悠司(神戸・地域問題研究所)、 住吉浜手地区/山本和代(遊空間工房)、 新在家南地区/後藤祐介(ジーユー計画研究所)
<コメンテータ>本荘雄一(神戸市企画調整局総合計画課)、 難波健(都市環境デザイン会議)
<司会>小林郁雄(神戸市民まちづくり支援ネットワーク)
「第1回世界震災復興ドキュメンタリー映像祭」記録ビデオ上映(港まち神戸を愛する会総会)
まちづくりマーケット
目次へ
「きんもくせい」は月1回発行。
市民ブックレット(年4冊発行)と併せて年間購読料は5,000円です。下記ネットワークまでお申し込みください。
〒657-0024 神戸市灘区楠丘町2-5-20 まちづくり(株)コー・プラン内
TEL.078-842-2311 FAX.078-842-2203 E-mail:mican@ca.mbn.or.jp
銀行振り込み先、みなと銀行六甲道支店(普)1557327 郵便振替00990-8-61129
担当:天川佳美、 中井 豊、 吉川健一郎
◆ http://www.hyogo-iic.ne.jp/~INS93031/
(C) by 阪神大震災復興市民まちづくり支援ネットワーク
学芸出版社ホームページへ