きんもくせい50+31号
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創発する神戸〜シビルディフェンス/コミュニティビジネス・プラットホーム

俳優 堀内 正美

 僕は大学在学中に俳優になり、 今年でデビューして28年目になります。 神戸には17年前に転居して来ました。 そして神戸に来て11年目に、 あの阪神淡路大震災と遭遇し、 震災後ボランティアグループ「がんばろう!!神戸」を作り、 活動を始めました。 そして気が付けばもう6年半が経っていました。

 表題の『創発』とは、 最近のマネジメント論でよく引用される言葉です。 組織のあり方をトップダウンで決めていくのではなく、 構成員それぞれが経営に対する高度な問題意識のもとで横関係のネットワークを組み、 誰が指示をするわけでもなく豊かでダイナミックな組織動態が、 ボトムアップに生じてくる過程そのものを意味しています。 ここで重要になってくるのは、 創造的な自己実現を果たすため、 ネットワークを組んでやっていこうという構成員一人ひとりの意識の問題なのです。

 さて、 神戸においては、 あの震災による人的・経済的ダメージが、 震災以前からの構造的不況と複合し、 「雇用」「福祉」「教育」「環境」「文化芸術」などのジャンルで問題が山積みし、 世界の中でも「都市問題先進都市」になってしまいました。 つまりこれらの大都市の課題となっていくであろう様々な問題を神戸が先取りしてしまった感があります。

 現在、 神戸市が置かれている財政的危機、 出口の見えないデフレと不況、 市民生活における閉塞感に対して、 対処療法的発想ではそれを乗り切る事は出来ないでしょう。 これらの問題点を解決していくためには民間の自助努力は勿論のこと、 「神戸市民」ならびに「神戸市職員」の意識改革がいま求められています。 そして意識改革を、 神戸市の今後の都市戦略の転換にどう結び付けていくのか。 ここでは、 「神戸が創発していくための諸条件」の一部について述べてみたいと思います。

 いまの神戸の行政システムに求められるのは、 「従来型の組織」からプラットホームをベースにした「ネットワーク型組織」への転換を図ることです。 現在のシステムではあまりにもその業務が細分化されていて、 相互に関連があるはずの業務が見えなくなっています。 また、 組織転換の前提として、 職員一人ひとりが自主的・自律的に業務をこなし、 自らの業務内容をきちんと自己評価していくというやり方を身につけなければなりません。 実はこのやり方は、 ボランティアの行動原理とほとんど同じであるということに注意してください。 すなわち、 自律的に行動し、 やるべき事を自己決定し、 結果について自ら責任を負うということです。

 地域においては、 被災経験を通じて「突然やってくる自然災害」と「来るべき少子高齢社会」という「予知できない危機」と「予知できる危機」が見えました。 神戸市は震災後「防災福祉コミュニティ」を作り、 それらに備えているといいますが、 その発想はいまだ本庁にぶら下がっている9区(地域)の中での小学校区単位でやってもらうという考え方であり、 各地域の危機意識と対応のためのしくみが、 その地域の中だけで完結している組立てとなっています。 そこには、 積極的に他の地域と連携していこうという発想がありません。

 あの震災発生後、 全国全世界から支援していただいた経験の中から得た教訓は、 それぞれの地域が「困った時はお互いさまスピリット」を、 他の地域(外)に向かうベクトルとして持たなければならないということではなかったでしょうか?
 このような地域を現地で支援していく行政組織は区役所であり、 決裁権を本庁から区役所に大幅に委譲する必要があります。 そして、 地域が相互に対応できるシステム及び地域間ネットワークづくりが急務です。

 そこで、 神戸市内中学校(86ヶ所)に「シビルディフェンス・プラットホーム」の構築とそれらを結ぶ「地域間ネットワーク」づくりを提案したいと思います。

 さらに、 現在進行している「空港」や「医療産業都市構想」の雇用創出面ですが、 「川上型知識集約産業が川下の雇用を生む」という考え方は果たして通用するでしょうか。 かつて、 装置集約型産業は産業ヒエラルキーにより、 多くの雇用を生みましたが、 知識集約産業の形態はネットワークなので、 一部の知的エリート以外の雇用にはあまり有効でない可能性があります。

 そこで地域資源(モノ・コト・ヒト)を生かしたコミュニティビジネスプラットホーム(CBP)を立ち上げ、 そこで「MADE IN KOBE」という付加価値を最大限活用し、 「高齢者市場」をめざし、 ユニバーサルデザインに基づいた「福祉関連製品」などの開発を促進するのです。 この仕事の中核となる従事者は、 従前から神戸の地で仕事をしてきたテーラー、 ケミカル関係者、 その他の業種、 そして匠をめざす若者たちなどです。 CBPは時代に対応した再教育と、 マーケット発掘のコーディネートを行います。

 私は震災後「がんばろう!!神戸」「仮設住宅自治会づくり」「被災者仕事づくり」「市民支援基金」「引越しプロジェクト」「震災モニュメントマップ運動」「希望の灯り設立と全国リレー」「神戸21世紀・復興記念事業」などで市民のみなさんや行政マンとある時は激しくやりあいながら問題意識を共有し、 「協働と参画」をキーワードに活動を続けてきました。 これまでに述べてきた事は、 ふと「こんなことを神戸でやったら面白いだろうなあ」という、 いわば素人市民政策をまとめたものの一部です。

 これらの市民政策を実現するのに、 いままでの行政システムを通じて実現するというやり方はもう必要ないのではないでしょうか。 なぜなら、 これからの神戸は、 誰が指示するでもなく「創発」していくのですから。


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堀内正美氏
 
 「ほりうち まさみ」。 当時の名刺はひらがなで書かれていました。

 私が堀内さんを知ったのは、 愛知県一宮市からの花苗が最初に届いた時でした。 5万8千株という途轍もない数に、 一時花苗を置く場所にすら困り、 あちこちへ電話して配って下さる人々を募っている時、 兵庫県の「被災者復興支援会議」メンバーのお一人、 品田充儀さんに「がんばろう!!神戸」をご紹介いただいたのが、 出会いでした。

 いろいろな人々や団体へ配っていただくべく延々と電話をし、 ほとほと数の多さに困り果てていた時に堀内さんは「あ、 いいですよ、 いくらでも」と事もなげに引き受けて下さり、 ほっとして「ところで、 ほりうちさんて、 歌手か俳優さんと同じ名前ですね」と寝ぼけたことを言う私に「はい、 俳優です!」と。

 あれから5年7ヶ月。 今年の神戸21世紀・復興記念事業での市民の活躍は堀内さんの力でしたね。 「市民活動はやめ。 がんばろう!!神戸もやめ」なんておっしゃらずに、 『まだまだがんばろうよ!!!神戸』。

<天川佳美・記>





 

環境整序型「地区計画」を主体とした
住民参加まちづくり活動の普及

ジーユー計画研究所 後藤 祐介

 ・はじめに

 私は、 この6年間に、 地元型まちづくりコンサルタントとして、 阪神・淡路大震災復興まちづくりに関わってきたが、 この取り組みの中の一つの副産物として、 西宮市における“環境整序型「地区計画」を主体とした住民参加型まちづくり活動”の普及があげられる。

 本稿では、 このことの背景、 状況、 要因等を考察し、 今後の「ポスト震災復興」としての成熟安定社会のまちづくりにおけるこのことの意義を考えたい。

 1. 背景 ― 震災復興における住民参加まちづくりの類型

 阪神・淡路大震災復興まちづくりは、 既述のように阪神間地域においては、 戦前の耕地整理事業、 戦後の戦災復興土地区画整理事業等がベースになり、 これらの区画整理事業を補完するものとして、 今回は、 JR鉄道駅周辺を中心とした都市の中心部に絞って震災復興土地区画整理事業や第2種市街地再開発事業が実施された。 これを「事業地区(≒黒地地区)」と略称する一方で中心市街地に広がる戦災復興土地区画整理事業地区では、 倒壊した建物の個別、 自力復興に委ねる地区として「白地地区(≒非事業地区)」と称している。 この白地地区における復興まちづくりは、 生活道路、 公園等の都市基盤施設が整備済みであることを前提に、 個々の家屋がより健全に再建され、 震災以前より勝るとも劣らないまちに復興させる取り組みが、 ここでの“環境整序型「地区計画」を主体とした住民参加型まちづくり”である。

 2. 状況 ― 西宮市における住民参加まちづくりの普及状況

 阪神・淡路大震災において西宮市は、 南部市街地で甚大な被害を受けた。 しかし、 この地域では、 殆どが戦前の耕地整理や戦後の戦災復興土地区画整理事業が実施されていたため、 今回の阪神・淡路大震災復興まちづくりにおける事業地区は、 北口北東地区と森具地区の2地区のみで、 他は自力復興を基本とする「白地地区」の扱いとされた。

 ところが、 この広大な面積を占める白地地区において、 震災後、 多数の家屋倒壊による、 急激、 膨大な宅地供給により、 良好な交通、 自然環境条件等を背景に、 中高層の耐火、 耐震性能を持つ「マンション建設ラッシュ」が起こった。 西宮市は元々阪神間の環境良好な低層戸建て住宅地主体の近郊住宅地であり、 この「マンション建設ラッシュ」による住環境等の混乱の回避が必要であった。

 震災後6年目の平成13年現在、 南部市街地の約20地区でこのような取り組みが行われている。 環境整序型「地区計画」の主な内容項目としては、 先述のように郊外住宅地としての環境整序が目標であり、 建築物の高さ制限を中心に、 建築物の用途の制限、 宅地分割の制限、 壁面後退等が議論されている。

 3. 要因 ― 西宮で環境整序型まちづくりが普及したわけ

 このように、 西宮市内で環境整序型「地区計画」による住民参加型まちづくり活動が普及した要因としては、 主に次の3点があげられる。

 第1に、 西宮市民(住民)の文教住宅都市に住むことの誇りと、 環境意識のレベルの高さがあげられる。 即ち、 自分が“良好な住環境の状態で住み続けたい”とする気持ちの住民が多いことである。

 第2に、 西宮市の都市計画行政の対応における「地区計画」制度の運用にあたって、 建築物の高さ制限の項目で、 “「地区計画」決定時に存する建築物は震災時等においては、 現在の高さまで再建築は可能”とする特例的な措置を設けたことがあげられる。 このことは、 震災直後の復興まちづくりの時期の対応として極めて有効であった。

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西宮市における復興まちづくり協議会一覧
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西宮市における復興まちづくり協議会等位置図
 第3に、 都市計画としての「地区計画」を積極的に展開するため、 住民参加型まちづくり協議会の設立を促進し、 提案しやすくするよう、 まちづくり活動助成やコンサルタント派遣制度等の支援制度を県の施策と市の施策とを合わせ、 いち早く対応したことがあげられる。 なお、 このような環境整序型「地区計画」制度の運用について、 震災復興時に迅速に対応が図られたことは、 行政組織の対応というより、 行政担当者(西宮市都市計画担当の猿渡氏や小林氏等)の先見性のある裁量によるところが大きかったと私は思っている。

 私は地元型まちづくりコンサルタントとして、 現在進行形の地区を含めて6地区で専門コンサルタントとして支援してきた。 最初の地区は、 震災直後の平成7年の秋から取り組んだ安井地区であり、 まちづくりコンサルタントとして石東氏達と西宮市の被災地におけるボランティア的活動を行っていた時期に、 白地地区に対するまちづくり支援の「御用聞き」を行い、 巡り会ったのがきっかけで、 その後、 兵庫県、 西宮市のまちづくり支援制度を適用して頂き、 行政の「高さ制限」に対する特例的措置が有効に働き、 平成10年3月に「地区計画」の都市計画決定に到達することが出来た。 この安井地区「地区計画」の具体的内容については、 紙面の都合上別添とするので参考にされたい。 (次ページ参照)

 ・おわりに

 今、 ポスト震災復興まちづくりの時期において、 この“環境整序型「地区計画」を主体とする住民参加まちづくり活動”は継続しそうな気配である。 このような活動は、 神戸市や芦屋市域でも展開されつつあり、 「本物」であるように思える。

 このことは、 現行の一般的な都市計画用途地域・地区制度を中心とする環境保全制度では阪神間市民レベルの「より良い環境に住みたい」とする住民環境意識を満足されないことを現しているのであり、 今日、 国レベルの政治サイドで既成市街地の都市再生がテーマになり、 ややもすればイージーに規制緩和策が執られる中で、 この西宮市をはじめとする阪神間地域における“環境整序型「地区計画」制度の普及”は比較的まともな市民・住民の「本音」を表している現象の一つなのである。



〔参考〕西宮市安井地区における環境整序型「地区計画」の概要


 (1)地区計画策定の経緯

 安井地区は、 西宮市南部市街地の中心部に位置する交通至便な住宅中心の市街地であり、 震災直後から比較的大きな敷地に大規模マンションの建設が続発した。 地元住民の良好な住環境保全の願望から、 自治会として、 中高層マンション建設反対運動を展開したが、 現行法制度には勝てず、 各自治会長は疲労し困惑した。

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安井地区「地区計画」図
 そこで、 12の単位自治会が連合して、 中高層住宅の高さ制限を主眼とした「地区計画」に取り組むため、 平成7年11月安井まちづくり協議会が結成された。

 その後、 平成8年10月にまちづくり構想(案)の作成、 平成9年に「地区計画」(案)を作成し、 平成9年9月の臨時総会で「地区計画」(案)を市当局へ要望することを決議し、 平成10年3月に「地区計画」の都市計画決定をみた。 この間、 地域住民の意向を反映するため、 3回のアンケート調査を行った。

 (2)安井地区「地区計画」の評価

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安井地区「地区計画」の地区整備計画
 ○阪神・淡路大震災復興まちづくりの中で、 いわゆる白地地域において、 住民の自主的なまちづくり意欲から立ち上げた、 まちづくり協議会であり、 約4,200世帯という大世帯にもかかわらず、 環境整序型「地区計画」を学習し、 「合意集約」を図った。

 ○地区計画で定めた内容項目としては、 表に示す4項目であるが、 特に、 地区の細かい区分を前提に、 建築物の高さ制限について12m、 15m、 18m、 20m、 30mといったキメ細かい高さ制限の合意集約が得られた。

 ○これは、 「文教住宅都市西宮市」ならではの住民と行政の協働作業の成果といえる。

・安井まちづくり協議会の概要
・地区面積: 約67.6ha・世帯数:約4,200世帯
・基本目標: 安全、 快適でうるおいのあるまち
・経過概要: H7.11:まちづくり協議会設立
 H8.10:まちづくり構想(案)策定
 H9.7:「地区計画」案の説明会
 H9.10:「地区計画」案市へ要望
 H10.3:安井地区「地区計画」の計画決定





芸予地震報告

県立広島女子大学 間野 博

1. 3/24 芸予地震と斜面居住地「両城地区」

 卒業式の翌日のことだった。 マグニチュード6.4、 最大震度6弱の地震が安芸灘で発生、 広島県、 愛媛県、 山口県を中心に広域に亘って被害をもたらした。 4月4日現在で、 死者2人、 負傷者259人、 全壊33棟、 半壊174棟となっていたが、 最終的な被害の全貌は知らない。 特に家屋被害はその後かなり増えたはずだが、 数県にまたがることもあり、 多分集計されていないのではないかと思う。

 

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fig.1 fig.2 fig.3
 
 今回の地震では斜面市街地の被害が目立った。 斜面の上の方では、 石垣が崩れ敷地の底がえぐれ家が宙に浮いてしまう一方、 崩れた石垣と土砂が下の家になだれ込み、 紙一重で人命を落とさずに済んだ例(fig.1)、 同様に石垣が崩れ家の基礎が浮いた形になると同時に、 崩れた石垣と土砂が下の幼稚園の壁を打ち破り、 窓からなだれ込み、 間一髪、 園児を飲み込むところだった例(fig.2)、 お寺の立派な石垣が崩れた例(fig.3)など石垣の崩れによる被害が多かった。

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「両城地区」遠景
 
 ここでは、 特に被害が集中した呉市の斜面居住地の内、 「両城地区」の被害実態について報告する。 我が研究室は昨年、 斜面居住地整備に関する研究を、 斜面居住地が延々と広がる呉市の市街地の中の代表的地区である両城地区を対象として始めていたので、 翌日早速現地を見に行った。 両城地区は今回の地震で最も被害の大きかった地区の一つであった。 ここから両城地区に日参する毎日が始まった。

2. 両城地区の被害実態

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両城地区被害分布図
 3/25、 3/29に行ったプレ調査で、 (1)建物被害だけでなく石垣等の敷地被害とセットで見る必要があること、 (2)被害は個別性があり、 隣同士でも全く被害の状況が異なるので、 小さな被害まで含めた調査が必要である事が分かった。 そこで、 各敷地ごとに敷地(法面)、 建物、 塀垣それぞれの被害を把握することとした。 把握の方法は、 (1)全敷地目視調査、 (2)全世帯アンケート調査、 である。 アンケート回答者のうち協力の得られた30世帯については訪問面接調査を行った。

 (1)目視+アンケートの結果
 何らかの地震被害のあった世帯は289世帯で全世帯の6割強である。 建物被害が212件ともっとも多く、 塀垣被害(157件)、 法面被害(140件)、 の順である。 石垣、 建物は大きな被害が多く、 塀垣は軽微なものが多かった。

 (2)届け出と客観的被害
 市が把握している被害は67件(5/8時点)であるから、 実際の被害はその4.3倍あったということである。

 (3)敷地*建物*塀垣
 3側面の重複状況を見ると、 「法面+建物」は102件で法面被害件数の72.9%を占めていて法面被害が建物被害の原因となっていることが推測できる。 「法面+塀垣」は84件とやや少なくしかも塀垣被害件数の53.5%と因果関係は強くないと推測できる。

 (4)アンケート結果の特徴
 住宅の各部の被害の中で多かったのは「壁」で地震直後注目された「屋根」より多い。 敷地の被害は半数に上り、 石垣被害を上回っている。 石垣については自分の敷地よりも隣の敷地の被害が多く指摘されており、 斜面地における被害者・加害者の特殊な関係が現れている。

3. 芸予地震の特徴

 当初は屋根の被害が目立っていたが、 実は石垣被害の方が深刻である。 石垣は敷地を支えている。 これが崩れると敷地が沈み家が傾き住めなくなる。 しかも、 斜面居住地では敷地の幅が短く石垣に接して家を建てざるを得ないので、 高い石垣が崩れると下の家がつぶれる。 今回崩れなかった石垣も弱っていることは間違いがなく、 次の地震に耐えられるかどうか分からない。 地震が来なくても、 大雨が降って敷地に水がしみこむと地中が膨張して石垣が崩れる危険がある。 だから地震の後、 大雨が降る度に住民は修理した石垣が崩れないか怯えている。 しかも、 自分の石垣もさることながら、 敷地に面する隣地の石垣が崩れないかの不安もありながら、 それを隣地所有者に要求することも憚られるのが実状である。 はっきりした被害がなくても不安はずっと続いているのである。 この石垣を中心とした法面崩壊が甚大被害の原因になっていて且つ、 それが地震の後に尾を引いている点が芸予地震の特徴と言えよう。

4. 復興の課題

 呉の原風景は明治時代から形成された斜面居住地の石垣と煉瓦塀の町並みである。 今それが失われつつある。 そして、 被災者だけでなく斜面居住地の災害の怖さを知った住民が去っていく。 残った住民も解消されない不安の中で暮らしている。

 第一の課題は、 古い石垣の保全技術を早急に確立することである。 石垣で宅地化した市街地は、 呉だけではなく日本全国至る所にあるにもかかわらず、 古い石垣の科学的解析はほとんどなされていないそうである。

 第二の課題は、 やむなく移転した敷地の跡地整備方針の確立である。 これまでの例ではベッタリとコンクリートで覆われたおぞましい景観破壊になる恐れがある。 宅地として利用が無理なら、 「新しい自然」としてよみがえらせる道を探るべきである。

 第三の課題は、 これらを含め、 住民が「住民参加の防災まちづくり」に取り組む必要がある。 被災地のあちこちで「まちづくり協議会」が作られ、 「計画づくりからの住民参加」同時に「コミュニティの強化」による「まちづくりへの参加」が進められている神戸に学ばねばならないと思っている。

 終わりに

 近々再度、 住民アンケート調査を実施する事になっている。 地震が住民の定住意識や自分たちの街に対する評価にどのような影響を与えたかを探ろうというものである。 結果をまた報告できるかもしれない。


 

桜口・備後町3丁目まちづくり協議会
−ポスト「復興まちづくり」素描−

都市調査計画事務所 田中 正人

 ●はじめに

 「よその地区に負けんような復興のシンボルタワーでも建ててください」。 桜口・備後町3丁目まちづくり協議会事務局長のI氏は僕にそう訴えた。 我々は未だ瓦礫の残る旧八幡商店街を並んで歩いていた。 当時の僕はまだ、 まちづくりの「ま」の字も知らない駆け出しのプランナーだった。 それでも、 シンボルタワーをつくることが復興まちづくりではないということはかろうじて知っていた。 1995年、 暮れも押し迫った12月中頃のことだった。


 それから6年近くが経過した。 瓦礫は姿を消し、 地区には新築住宅が建ち並んでいる。 幹線道路は中高層ビルに囲まれ、 硬質なスカイラインを見せている。 戦前からあったと言われる大きなシイノキは、 巨大地震には耐えたが巨大資本の波にはあっけなく呑み込まれ、 大規模マンションに席を譲った。 震災前に暮らしていた大半の世帯は各地に離散し、 一方でそれをはるかに上回る世帯が転入を続けている。

 ●コミュニティの変容

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協議会区域図
 桜口・備後町3丁目地区は、 JR六甲道駅の南に位置し、 西側と南側に市街地再開発事業地区が隣接している。 震災のあった1995年の11月にまちづくり協議会が発足した。 当時、 住宅市街地総合整備事業(住市総)エリアに属し、 いわゆる「灰色地域」のまちづくりとしてスタートした。

 震災では8割以上の家屋が全半壊し、 その後の物的な復興プロセスを通じてコミュニティはドラスティックな変化をみせた。 震災時、 150であった世帯数は現在350に及んでいる。 そのうち震災前から継続して居住している世帯はわずかに30を数えるのみである。 残る320は震災後の新たな転入世帯が占めている。

 ●協議会活動の変容

 コミュニティが刻々と変化を続ける中でのまちづくり活動は困難をきわめた。 協議会という存在の周知を図る努力は徒労に終わった。 組織の代表性を問うことさえナンセンスだと思われた。

 地区のコミュニティ基盤が動揺している一方で、 まちづくりへの緊急対応という要請は奇妙にリアリティを帯びていた。 周辺の地域が再開発という「特権」を付与されている中で、 自らの地区だけが取り残されるのではないかといった不安や焦り、 もどかしさなどがそういった空気を醸成していた可能性は高い。

 揺れ動くコミュニティの中で、 協議会は「復興」というタームを唯一の拠り所としてまちづくり計画・再建計画のための集会やルールづくりのアンケート・ヒアリングなど、 事業や計画に直結した活動を集中的に行った。 そしてそれは、 ささやかではあるけれど一定の成果を生んできた。

 しかし「復興」というタームがコミュニティを結びつけ、 自己組織化の運動をカタライズするというメカニズムは、 当然ながら長くは機能しなかった。 そこには地区の復興とともに自己組織化の運動が減退していくという逆説があった。

 協議会は、 概ね隔月で「復興まちづくりニュース」という名称のコミュニティ紙を発行していた。 1999年11月発行の第23号を最後に、 その名称から「復興」の文字が消えた。 それは、 ある意味で「復興」に翻弄され続けてきた協議会が再びスタート地点に立ち、 新たなコミュニティとともにまちづくりの活路を見出していこうとする意思表示でもあった。

 協議会は「復興」から「交流」へとまちづくりの力点を移し、 緑化活動、 研修バス旅行、 食事会、 お花見、 文化講演会などのイベントを積み重ねてきた。 そしてそれらを通じて、 わずかずつではあるにせよ、 着実に新たな人的ネットワークが構築されてきた。

 ●「復活・八幡の夜店」プロジェクト

 協議会が行った最近のプロジェクトとして、 「復活・八幡の夜店」がある。 地区の東端には旧八幡商店街が位置しており、 そこでは長年にわたって「夜店」が開催されてきた。 しかし商店街組合が解散する前年(1993年)を最後に「夜店」は休止となった。

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震災前/震災後の「夜店」の比較
 「復活・八幡の夜店」――。 魅力的な提案だった。 だがたいていのイベントがそうであるように、 実現までの道のりは決して魅力的ではなかった。 スタッフの絶対数は限られていた。 「夜店」の経験者はひとりもいない。 資金はゼロに等しい。

 協議会は、 「まちづくりニュース」の紙面や個人的なネットワークを通じて「夜店」のスタッフを募った。 趣旨に賛同した20代〜30代の若手、 露店の経験者などが集まり、 ようやく展望が開けた。 「プランナーズネットワーク神戸」のサポートは地元をさらに活気づけた。

 最終的に模擬店など14店が並ぶことが決まった。 しかし、 果たして当日に人が来てくれるのかどうかは誰にも分からなかった。

 「夜店」は午後4時に幕を開けた。 まもなく人が集まりはじめ、 仮設の裸電球が灯る頃には路上は地域の人で溢れかえった。 僕の頭には、 昭和40年代、 もっとも賑やかだった頃の八幡商店街の風景が浮かんだ。 人出は「夜店」が終了する午後8時まで衰えることはなかった。

 

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ふだんは人もまばらな旧八幡商店街に多くの人が集う
 
 成功の要因はいくつかある。 場所を提供してくれた地元企業の存在は何より大きい。 若いボランティア・スタッフは「協力」の枠を軽々と飛び越えて主体的な役割を果たしてくれた。 神戸新聞やインターネット・メールマガジン「naddist」がPR記事を掲載してくれたことによる効果も無視できない。

 ただいずれにしても、 協議会が積み上げてきた6年間の地道な活動がなければ、 たとえこれらの要因がそろっていたとしても、 今回のような結果に至ることは到底あり得なかっただろう。

 ●おわりに

 僕はいつか自分の言葉で「まちづくり」を定義したいと思ってきたし、 今も思っている。 その試みがうまくいったためしはない。 しかし、 最終的に落ちつくところはいつも同じだ。 それは、 まちづくりとは地域という単位における民主性をより高次において実現するためのムーヴメントでありプロセスである、 という認識である。 ポスト「復興まちづくり」はその実践の場であったし、 僕の立脚点はいつもその地平にあった。

 まちづくり協議会方式というシステムは単なる代表制民主主義の一形態ではないし、 直接民主主義の偏狭的実現でもない。 既存の意思決定の方法論を批判的に受け入れ、 そこに潜在する瑕疵や矛盾やある種の暴力性を乗り越えていくところにまちづくりの本質はある、 と思っている。 そういった態度のないところで、 いくら「まちづくり」という言葉を振りかざしても、 それはただの茶番にすぎない。


 「僕らみたいにひとつもモノをつくらへんまちづくりがあってもええやないか」。 「夜店」の後片づけが終わる頃、 事務局長I氏は言った。 僕は、 「ね、 シンボルタワーつくらなくてよかったでしょ」と言うかわりに、 黙ってI氏の言葉に頷いた。 我々は6年前と同じ、 旧八幡商店街の路上にいた。

 ひとつもモノに関わらないまちづくり――。 そんなものに対して、 行政はこれからも支援をしてくれるのだろうか? これが本稿における最大の論点である。

(2001.10.1.記)


 

率先市民主義
〜第2回円卓支援会議(ワンツー・ラウンドテーブル/1−2RT)より

被災地NGO恊働センター 村井 雅清

 

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村井雅清氏 ゲストスピーカー(手前は平野昌氏、奥は林春男氏) 第2回円卓支援会議「率先市民主義」 010831



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「率先市民主義」林春男著、2001年4月、晃洋書房
 
 第2回円卓会議が8月31日夜、 平野昌さん(三重県職員)と林春男教授(京都大学防災研究所)をゲストに迎え、 三宮の学習プラザで開かれた。 林さんはこの5年間静岡県で行われてきた防災総合講座の中で防災ボランティア講座を担当し、 そこで語られてきた現場ボランティアの様々な話を「率先市民主義」という本に最近まとめられた。 その「率先市民主義」をキーワードに、 まず平野さんに三重県の市民防災の取り組みを具体事例として紹介していただいた。 (以下に平野氏他3氏共著の小論文「市民防災への新しいアプローチの可能性について」より引用して説明します)
 98年10月に1ヶ月間三重県各地で開催された「みえ歴史街道フェスタ」で500人以上のボランティアが参加し、 30を越えるイベントの運営をした。 最終イベント「グランドフィナーレ」では、 災害救援ボランティアのメンバーが中心になって会場にボランティアセンターを開設し、 彼らのノウハウを活用して運営を行った。 これは災害の被災地に開設されるボランティア受付と全く同じコーディネーションのやり方である。 この経験を元に同年12月、 公共性の高いイベントに対して主催者側の依頼により運営支援を行う「ハローボランティア・ネットワークみえ」(ハボネット)を設立した。 現在メンバーは約400名で、 昨年9月の東海豪雨災害では、 普段の活動の延長として救援活動を企画・実行し、 改めてイベント支援活動のノウハウが災害救援にも役立つことを再確認した。 つまりイベント支援は防災訓練としての性格を持つばかりでなく、 通常の防災訓練よりも気軽に参加でき、 また年1、 2回が限度の防災訓練と違って頻繁に行われているイベントの支援は防災訓練の量的な拡大も可能となるのである。

 さらに、 災害ボランティアが抱える課題の中にも、 イベント支援によって解決可能なものがある。 まず、 地元との顔の見える関係づくりでは、 イベント支援ボランティアが地元の祭りやイベントに助っ人として加わることで、 普段から自治体関係者をはじめとする地元のキーパーソンと繋がることが出来る。 さらに広域のネットワーク化はかるために県内各地域でのイベントの相互支援を行って、 普段からの繋がりを持つように努めている。 また、 災害救援に不可欠なとっさの判断力・行動力を磨くことについても、 イベントにトラブルはつきもので、 規模はさておき不測事態に満ちあふれているイベント会場が格好の機会を提供する場であることは明白である。 「私たちはイベントを楽しく支援して、 まちに新しい知恵を残す」と言うことがハボネットのモットーだそうだ。

 ここで「率先市民」という言葉(平野さんの造語とのこと)の説明をすると「自らの持つ専門性を背景に、 自ら進んで専門性を活かしつつ社会的に意味のある活動に参加しようとする有意の人々」というような意味である。 市民は誰も「生活者」「社会人」「地域人」として何らかの専門性を持っている。 市民自らそれに気づき、 その専門性が社会の中で積極活用されるなら、 市民力は上手に、 早く、 気軽に向上していくのではないか。 防災を考えることは必ずしも正面から防災を問いかけることではなく、 それと意識させないまま防災に誘う社会的な仕掛けで、 その具体的仕掛けとしてイベント支援を重視している。 さらにその担い手は自分自身の率先市民性に気付いたものであり、 その掘り起こしが市民防災への新しい実践プログラムたりえるのではないかと提起している。

 後半で、 林さんから「KOBEの人はその後のまちづくりや高齢者の見守りを通しての市民力をつけてきたかも知れないが、 災害を想定して防災力をつけるための訓練なり、 取り組みはなされてこなかった。 もう一度KOBEに大規模災害が来たらどうするのか?」という厳しいご指摘を頂戴した。 そもそもこの1−2RTは、 被災者復興支援会議1、 2のOB会議という意味合いが強かったように理解しているが、 それだけに参加者にとってこの指摘は「ちょっと待ってよ!」と一言二言あったが、 議論の時間が充分なく、 ストレスが貯まったままになったのは(被災者復興支援会議からは)部外者の私だけだろうか?
 とは言え、 KOBEの人は私も含めて「今、 またあのような大災害が来たらどうなるのだろう?あの時と何一つ変わっていないのではないか」と言う不安を持っているのも事実だろうと思われる。 (ちなみに林さんは、 被災者復興支援会議1のメンバーで、 本人曰く「私だけが唯一被災地外のメンバーだった」とのこと)
 他方、 これまで6年9ヶ月間にわたるKOBEでの様々な取り組みは災害対応から出発したものの、 「自立と連帯」をもとに「参画と協働」が保証された新しい社会の形成を目指しており、 その培われた市民力は「市民防災力」と言うより、 総合的な「地域社会力」という「くらしと地域の一体化」の取り組みに活かそうとしているものである。 林さんも「率先市民主義」の本の最後に「・・・率先市民としての活動は災害時だけの特別な活動でなく、 毎日の行き方を通して、 自分たちの生活をいかに安全にしていくかに関わるものだと考えています」と締めくくっておられる。

 私は最後に小林郁雄さんが「普段のセーフティネットに尽きる」とおっしゃったのが耳にこびりついているが、 今改めて「セーフティネット」の本来の意味について議論を深める必要を感じる。 兵庫県は今、 「ひょうご安心人材訓練センター」(仮称)の構想を進めている。 ここで議論されている「セーフティネット」にも、 1−2RTとして注目しておく必要があるのではないかと思う。



情報コーナー

 

水谷ゼミナール第54回記録  テーマ:「界隈性を意識したまちづくり」

 10月19日(金)こうべまちづくり会館6階において、 第54回水谷ゼミナールが行われました。 今回のテーマは、 9月の水谷ゼミナール10周年記念フォーラム「水谷博士論文−再び、 町住区をめぐって」でディスカッションされた「界隈性」を受けて、 最近のまちづくりについて、 以下の4地区の報告がされました。

 須磨寺周辺地区は、 古い門前町の賑わいを取り戻すべく、 商店主や地域住民による勉強会を2年前から始め、 須磨の歴史観光資源である須磨寺と綱敷天満宮を結ぶ通りを「智慧の道」と名付け、 その通りを中心に「須磨寺楽市」(フリーマーケット)や「光の回廊−智慧の道」などのイベントやまちの診断シリーズとしてマップづくりなど様々な取り組みがなされています。

 淡路町岩屋地区における「淡路和歌の路」は、 明石海峡大橋開通に伴い整備計画を行政が手がけ、 その後さらなる推進・活性化のための勉強会が若手職員中心につくられ、 ワークショップによる推進プラン作成など徐々に住民との協働も進み、 さらには周辺の淡路景観園芸学校との連携による橋の欄干の飾り付けもされています。

 みなと元町は最近情報誌等でも取り上げられ、 注目を浴び始めているエリアで、 今までにない人々の流入に伴い、 新たなショップのオーナーや不動産業者などとの懇談会を重ねながら、 クラシカルモダンを地区のコンセプトに、 神戸の東西都市軸に対して、 新たに4本の南北のシンボルロードづくりが始められています。

 阪神尼崎駅周辺の商業集積ゾーンの中にある新三和商店街は、 火災で焼失した敷地にまちの中心核となる施設「新三和コート」を計画し、 さらに「バザールの場」としての広場をスポット的に設置し、 それらを露地によりネットワークすることにより界隈性を高め、 かつての賑わいを取り戻す試みが始められています。 (コー・プラン/吉川健一郎)


イベント案内

●神戸市民まちづくり支援ネットワーク/第40回連絡会

●まちづくり塾・2001

●第1回 ひょうご・まちづくり活動団体交流会

上三角
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