「きんもくせい」の終刊とこれからのまちづくりへ前神戸市長 笹山 幸俊 |
都市直下型の阪神・淡路大震災という未曾有の震災から早くも7年余りが経過しました。 傷ついた被災地の震災からの復興事業も、 ようやく出口が見えるところまでたどり着くことができました。
そんなおりに、 「きんもくせい」が終刊を迎えるとのこと。 これまで、 震災を被った現場や被災者の生活再建の状況を全国に向けて発信を続けてきた唯一の情報誌がその役割を終えたということに感慨の深い想いがします。 ”きんもくせい”の花の香りが漂ってくるような紙面。 それぞれの地区での復興の進捗状況を生々しく伝える“声”が聞こえるような語り口。 こうした香りや声が聞かれなくなったことに一抹の寂しさを感じます。 発行を続けるためにスタッフの方々や、 原稿を書き綴った方々に、 また全国から支援を続けてこられた方々に、 「ご苦労様でした」とねぎらいの言葉を申し上げるとともに、 震災直後から延べ86号にわたり、 全国にこの震災復興の情報を発信していただけたことに、 あらためて謝意を表します。
思い起こせば、 大震災により傷ついたまちの復興に際して、 実際に行政が前に出て復興事業を実施する過程で、 言葉や文字では言い表せない難しさを痛感してきました。 それは、 被災の状況や、 被災者の方々の生活状態がそれぞれ異なる中で、 行政の行う事業は、 常に、 法律に基づき、 公平かつ平均的に進めなければならないという使命があったからです。 その結果として、 復興計画の策定や事業の実施に際して、 満足していただけた方と、 不満を感じられた方の両面がでてしまったからです。
震災で傷ついた生活基盤の復旧や復興は、 その被害の範囲が大きいほど被災者単独では行うことができず、 被災者と行政が一緒になって行わなければなりません。 特に、 2度と同じ被害の発生を繰り返さないという、 復興のまちづくりの観点から、 生活する上で重要な道路や公園などの共同で使う基盤の整備を進めた上で、 建物や営業等の復興を行う必要がありました。 逆に、 道路や防災公園などの施設だけを行政で整備することは可能ですが、 住民の生活基盤を再生する復興のまちづくりは、 そこで生活し、 業を営む住民等の協力なくしてはなしえないものでした。
そこで、 大規模な被災地域で必要な広域道路や防災公園などと併せて、 復興事業区域とその手法などの大枠だけを、 まず都市計画に定め、 つぎに、 地域の生活基盤となる道路や公園を、 被災地域のこれまでの歴史や被災者自身の考え方を反映した復興まちづくり計画を提案していただき、 都市計画に定める、 いわゆる「2段階都市計画」という仕組みを採用しました。
この背景には、 被災地域の住民等が単に行政の作る計画に参加をするというだけではなく、 住民自身が主体的にまちづくりを進めることができる仕組みを神戸市の制度として持ち、 それまで各地区で実践されてきたという事例があったからです。 つまり、 その仕組みは『まちづくり条例(神戸市地区計画及びまちづくり協定等に関する条例)』であり、 実践団体は『まちづくり協議会』でした。
住民主体のまちづくりの仕組みは、 実は、 1981年に全国で初めて定められた『まちづくり条例』の精神の中にきっちりと組み込まれてきました。 思えば、 そこに到達するまでに、 72年に土地区画整理事業に住民参加を実現した板宿地区をはじめ、 上沢、 東灘地区でも模索と実践が続けてこられました。 また、 73年に『コミュニティカルテ』、 78年に『環境カルテ』で、 既成市街地の住宅過密、 住工混在、 道路やコミュニティ施設の整備状況などの現状の診断結果を行政情報として公表しました。
まちの診断結果(疾患)を行政として公表したのは、 単なる治療を行政の手だけでするというのではありません。 まちの将来のあり姿を、 地域に住む住民自身が単に参加して考えるだけではなく、 計画の立案から実践までを、 地域住民が汗をかき、 責任を持って進めていくということでした。 実際に、 真野地区で住民主体のまちづくりが立ち上がりました。
それを、 行政として支援するために、 条例で手続き等を制度化した中で、 最も重要なのが『まちづくり協議会』です。 自分たちの地域を共通の課題を持ちまちを改善しようとする動機で集まってできた”人の集まりとしてのコミュニティ”が協議会です。 そこには、 地域住民以外にも、 そこで業を営む店舗や会社の人たち、 また運動に外から支援しようとする専門家も含まれます。 まちの診断結果(カルテ)を基本に、 課題を考え、 解決の方向を探る。 その間に、 まちづくりを進めようとする協議会の活動を地域の方々にPRし、 周知や認知をいただき、 課題の抽出や解決のための手法の評価を得るためのアンケートの実施に参加や協力を得る努力が続けられます。
こうしてまちづくりの活動に汗をかき、 地域の住民の大多数の賛同を得て、 責任を持って実践できる協議会を、 神戸市長が『認定』することで、 行政としても、 支援をすると共に、 まちづくりの中で行政の分担する部分には責任を持つことを条例が担保しています。 当然そこに至るまでにも『活動助成』や『専門家派遣』の支援をする仕組みが以前から制度化されてきました。 ここに、 まちづくりにおける『協働』が実現することとなります。 ここに貫かれている精神は、 まちづくりの実践する主体は、 地域住民であり、 決して市役所ではないということです。
震災復興の現場で各地区に結成されたまちづくり協議会では、 会長を始め役員の方々と住民のみなさんで、 昼夜を通した激しい議論がなされ、 地域の実情に応じた復興のプランが住民間の意見の調整を経て『まちづくり提案』として打ち出されました。 それを第2段階の都市計画に反映し、 被災地の住民と行政との協働の形で、 復興事業を始めることができました。 その後も、 節目節目で、 協議会を中心に新たな提案や、 被災地の元気付けイベントの実施など、 まちのハードの復興だけではなく、 生活の復興を求めた活動が続けてこられました。
それは、 条例では直接述べられていない「ものづくり」としての復興のまちづくりが、 条例の精神に内在する理念が形として表されたものであり、 制定から既に20年以上が経過した今日でも、 その理念の崇高さにあらためて敬服の念を感じるところです。
まちづくりは、 時間がかかるばかりか、 終着点はありません。 震災復興事業についても、 安全で安心を担保する公共基盤の道路や公園等の整備や、 生活基盤の住宅等の建設にようやく目処がつき、 事業として収束を迎える地区がいくつも出てきましたが、 まちづくりはやっと、 骨格ができあがった段階であり、 地域の個性を示す肉付けは、 まさにこれから地域で汗をかきながら進んでいくものと期待いたします。
最後になりますが、 あらためて、 阪神・淡路大震災で犠牲になられた方々へのご冥福と、 大切な家族を失った人々の心が安らかになられることを心よりお祈り申し上げます。
阪神・淡路大震災の直後、 建造物の被害状況調査にあたった学者、 研究者のグループから、 この震災の復興と街づくりには建築技能者の養成と確保が重要な課題であるとの提言がなされました。
建築技能者の養成は元々伝統的に徒弟制度に委ねられており、 現代の若者はこれになじめず、 建築の技能の後継者不足は深刻な状態になりつつありましたが、 技能を伝承すべき立場の人達も後継者不足に即応する余裕と方策がなく、 そのまま放置されておりました。
前期の調査活動をした学者グループの一人、 奥保多聞大阪芸術大学教授の呼びかけで、 私たちは震災復興を模索する神戸で、 建築技能者の不足を少しでも解消することを念願として、 平成7年11月に有志のボランティアによる「建築施工技術研究所」を設立し、 建築技能者の不足について真剣に討議し、 調査・研究を重ねて、 まず建築技能者養成の実行機関として、 “建築技能アカデミー”を平成8年10月4日神戸市灘区に開設いたしました。
そこでは建築の技能を、 木造軸組建築の大工技能と左官の環境施工技術、 内装施工技能のコースに分け、 設計とCADのコースを加えて5つのコースを設け、 それぞれ実技実習を講習できる教室を設営しました。
若者になじみ易いスクール形式をとり、 短期間で、 それぞれ必要な技術を基礎基本から一通り習得させられるカリキュラムを開発し、 少人数のクラス編成にして、 講師には現役の熟練技能者に委嘱して実技実習主体の技能養成講座を開きました。 3ヶ月で修了させる短期講座のため、 受講生募集とそのためのPRに最大の精力を費やしました。
主旨に賛同してくれた同窓生や知縁の多くの協力者が積極的に参加して活動を支えてくれました。 そのうち神戸市産業振興財団の後援を得、 また講師の斡旋や受講修了者の就業のために建築技能者にかかわりのある組織団体にも協力を求め、 社団法人甲南土建労働組合、 兵庫県左官工業協同組合、 兵庫県室内装飾事業協同組合、 兵庫県衛生陶器商組合、 兵庫県塗装工業協同組合(順不同)の6団体の後援を得ました。
日本で他に例を見ない初めての試みとして、 また、 アカデミー開講一周年記念として開いた永六輔氏の講演会で“職人の手と技”のPRをして貰ったこともあって、 近畿をはじめ各地から注目を集めました。
平成9年、 10年には国際ロータリー第2680地区からのご寄付をいただき、 日本計画行政学会計画賞を受賞(「建築技能アカデミー・就業構造の円滑な移行のために」)及び、 新産業創造プログラムにも認定されました。 その他篤志家の寄付等々各方面からのご支援を賜りました。
私たちはこれを大きな励みとして、 21世紀のまちづくりのため、 今後の雇用促進拡大と“自分たちの街は自分たちの手で”を理念に、 住民主体の街づくりに貢献し、 住環境の保全を図り、 以って地域社会の発展に寄与するために微力ながら邁進して参りました。
平成11年7月には「建築施工技術研究所」は兵庫県知事の認証を受けて特定非営利活動法人となり、 建築技能アカデミーの講座は労働大臣より教育訓練給付制度の指定も受けるに至り、 これまでに延べ743名の建築技能者の卵を育て、 送り出してきました。 このことは一つの成果として報告できると考えます。
しかし不幸にして、 昨年春、 建築技能アカデミーの教室が建物所有者のやむなき事情から立退かざるを得ない事態に見舞われました。 中々条件の合う移転先が見付からないまま推移し、 長引く不況で一般の経済活動も非常に苦しい環境になっている中、 ここで新たに教室の造営をして、 アカデミーの事業を継続することは全く困難であると判断し、 私たちの取組は前記したこれまでの成果をもって、 ここで一応の区切りをつけることにいたしました。
建造物はその国の文化であり、 その建築に携わる技能者は国の宝であり、 その国固有の技術は後継者に伝承されていかねばならないものです。 見直されつつあるものの、 まだまだ我が国では建築技能者に対する社会の認識は低いと云わざるを得ません。
建築技能者が自分の技術で造った建物が後世に残る素晴らしい職業であると誇りを持って云える、 そして生涯の仕事として家族を養い文化的な生活が保障される。 そういう職業であると世間に認められる社会になるよう啓蒙しなければならないと思います。
建築技能の伝承が課題である状況は去ったとは云えません。 建築技能アカデミーの試みが又いつか誰かによって継承されることを願いつつ擱筆といたします。
この町を幾度か訪ねている内に、 私は、 地方都市としては異例の多数の戦前のRC造建築群が作られた背景を知りたい思うようになり、 当時の文献等を調査してきた。 本稿は、 そのほんの一端である。
円山川河口沖と推定される震源に近い城崎町とその周辺では激しい上下方向の震動で、 豊岡町では横方向の揺れにより、 いずれも多くの家屋が倒壊した。 両町の中心街は、 その後発生した火災によりその大部分が灰燼に帰した。 震災の被害は城崎郡全体で、 死者数470名、 負傷者数820名、 全半壊家屋数2,139戸、 焼失家屋数1,696戸に達した。 (1)
建築技能アカデミーの試み
元NPO法人 建築施工技術研究所副理事長 山本 勝也
温故知新
−豊岡に見る約70年前の震災復興まちづくり−港まち神戸を愛する会 中尾 嘉孝
■はじめに
豊岡市及び城崎町とその周辺は、 1925(大正14)年に起きた北但大震災の被災地である。 その教訓からか、 特に豊岡市内には、 戦前期のRC造建築物が割合多く見られる。■北但大震災の被災状況
北但大震災は1925(大正14)年5月23日午前11時10分頃に発生した。
■「大豊岡」建設構想の起動
県庁では、 直ちに被災地に向けた支援措置を発動する一方、 平塚知事以下、 置塩営繕課長ら幹部職員が直後から現地に乗り込んだ。 震災発生から2週間目の6月2日には、 県知事を総裁とする豊岡町臨時復興部が設置された。 (2)
当時の豊岡町長・伊地智三郎右衛門は、 豊岡の復興にあたり「挙町一致」を掲げ、 町当局は当時としては先進的な市街地改造計画を実施に移すこととなった。 (3)これは、 震災前より同町で進行中であった耕地整理事業を踏襲し、 幅員十二〜八間による道路の新設及び拡幅整備と、 官公庁を集中する「中樞地區」の設置、 さらには用途地域の指定を柱とする、 「大豊岡」建設構想であった。 (4)こうした都市改造の実行については、 町税の増額が予想されたため、 住民の反発を招いていた。 震災は、 この計画を推し進める好機と、 町当局は考えていた節がある。 (5)
■「大豊岡」復興まちづくりの成果
豊岡町復興計画図 |
(1)グリッド状+放射線状道路の町割り
まず、 町割りである。 豊岡駅から繁華街「元町」地区へ続く「大開通」を始めとする既存路線の拡幅・直線化や、 同じく豊岡駅から北西に小田井地区へ至る「寿通」の新設を柱とする格子状の街路パターンが実現した。 また一部地区を除き、 街区の整理も行われた。
寿公園(ロータリー式交差点)の現況 |
(2)補助金による都市建築の不燃化。 防火帯の形成
一方、 市街地の再建はどうか。 県では、 各地から寄せられた義捐金の一部を財源として、 豊岡・城崎両町において、 民間のRC造による防火建築の建設促進を目的とした補助制度を創設した。 補助額は、 「建築延面積一坪ニツキ五十圓」であった。 (6)これは、 昭和2(1927)年竣工の豊岡警察署庁舎の建築坪単価の約半分に相当する。 (7)県当局の意図は主要街路沿線におけるRC造建築による防火帯の形成であった。 現実には各権利者の資力等の事情等で、 県の構想通りとはならなかったが、 最終的なこの事業の実績は、 豊岡町で48名、 建坪総数1,694坪、 補助金総額8万3千円余に達した。 (8)
大開通の協調再建ビル |
「北但大震災」復興建築の例 |
豊岡町庁舎(現豊岡市役所本庁舎) |
城崎町の復興プロセスなども含めて、 私達が「北但大震災復興」から学ぶべき事は、 まだ多くありそうである。
(1)『北但震災誌』(兵庫県編、 大正15(1926)年)p1〜4
(2)前出『北但震災誌』p129
(3)『乙丑震災誌』(木村発編、 豊岡町役場発行、 昭和17(1942)年)上巻p15
(4)前出『乙丑震災誌』下巻p2による。
(5)越山健治・室崎益輝『災害復興計画における都市計画と事業進展状況に関する研究』1999年度日本都市計画学会学術論文集p593
(6)前出『北但震災誌』p147
(7)前出『乙丑震災誌』下巻p20
(8)前出『乙丑震災誌』下巻p14
(9)前出『北但震災誌』p143
なお、 本稿の執筆にあたっては前出論文『災害復興計画における都市計画と事業進展状況に関する研究』から多くの示唆を得たことを特に記しておく。
記憶のための連作「野田北部・鷹取の人々」 チラシ |
記憶のための連作「野田北部・鷹取の人々」 チラシ |
3) 青池さんは1941年12月16日名古屋市生まれのもうじき還暦。 浜松に育ち、 1959年7月に高校に行くのをやめて東京に家出、 60年安保を走り回り、 新宿のジャズ喫茶ですごすこととなる。 64年浜松に帰り、 69年シネクラブをつくり、 黒木和雄さんなどを呼んで、 自分達でアート系映画をみる。 70年再び東京へ。 白か黒かで無い世界としての「映画」にのめり込んでいく。 「やさしいにっぽん人」「サード」など東陽一さんの助監督を経て、 1976年故郷浜松の凧上げ「合戦」が監督第1作。 77年障害児の「みんなともだち」、 78年教護院の「少年たちの四季」、 80年タイ国境地帯の「叫びと囁き―カンプチア難民の記録」、 87年朝鮮人従軍慰安婦の「海鳴り花寄せ―昭和日本・夏」、 90年スペインの自治共同体「ベンポスタ・子ども共和国」、 92年盲目難聴最後の「琵琶法師 山鹿良之」、 と続いて、 95〜99年記憶のための連作「野田北部・鷹取の人びと」となる(青池さん自身から送ってもらったプロフィールによるが、 「野田北部・鷹取の人びと」には「人間のまち」というサブタイトルが全14部に確かついていたような気がするのだが)。
4) 大震災直後に仙台から朝日新聞記者の大和田建太郎さんがやってきて、 真野地区に行きたいという。 関西以外からのまちづくりにそれなりに関心ある識者が、 まずは必ず言う。 天川さんがいいかげん怒って、 神戸はみんな壊れてる、 真野だけやない、 鷹取や上沢の下町も、 酒蔵や阪神間のお屋敷も、 みーんな潰れて、 なんとかせなあかんと、 皆してるのに!と。 そこで大和田さんは、 鷹取に出かけ大国公園を「発見」した。 その後、 たびたび、 野田北部地区を訪ねることとなり、 青池監督というのがおって復興まちづくり映画をとっている、 一度あったらどうか面白いぞ、 と言ってきたのが、 私が青池さんを最初に知ったきっかけである。 5月28日鷹取焼跡ガレキにひまわりの種まきで、 初めてお会いした。
その夏に青池さんはコー・プランを尋ねてくれ、 11月4日に港まち神戸を愛する会主催で第1回の「野田北部・鷹取の人びと」上映会(無謀にも朝日会館で)をすることになった。 まずは野田北部の人びと(主演俳優である)のための試写会が鷹取教会のペーパードームで行われる。 すぐ次に、 元町のこうべまちづくり会館で港まち神戸を愛する会が連続映画祭「連帯せよ!復興市民」をする、 というのが後に全14部の恒例となった。 11月28日にHAR基金(阪神淡路ルネッサンスファンド)の第1回公開審査会が行われ、 野田北部を記録する会は100万円の助成を受けることが決まった。 以後、 最後の99年9月第7回助成までに計5回414万円とHAR基金のダントツの助成先となった。
世界鷹取祭 ふっこちゃん |
震災後支援ネット活動の広報担当といっていい私にとって、 青池さんの活動は多くの面で私のやってきたことと重なる。 「きんもくせい」という自前の情報メディアのもつ力を最もよく理解してくれていたのも、 青池さんであろう。 なにせ、 同業者のようなもんだから。 彼が伝ようとしたことも、 私たちが伝ようとしたことも、 ただひとつである。 市民まちづくりを伝える、 全世界へ、 21世紀へ。
後書) 野田十勇士の連載は、 「報告きんもくせい」1999年6月号No.3の「前書・野田北部の人々の記憶」にはじまり、
その2・智将 林 博司
復興まちづくりにとりくむ原点
(99年11月号NO.8)
その3・代貸 焼山昇二
家族の絆に支えられた戦い
(99年12月号NO.9)
その4・校長 福田道夫
第2の人生をまち協に賭ける
(00年3月号NO.12)
その5・若頭 河合節二
明日のまち協を担う
(00年6月号NO.15)
その6・女将 高木邦子
今日も元気に街を行く
(00年8月号NO.17)
その7・神父 神田 裕
教会はまちづくりをめざす
(00年12月号NO.21)
その9・助っ人 森崎輝行
震災復興の孤独な戦い
(02年2月号NO.35)
塚原成幸さん 「山の道化師PACKMANと笑っていこう」(1999年12月オフィス・エム刊より) |
終刊に寄せて
■「きんもくせい」終刊に想うこと−六甲道から鶴橋へ−
有光 友興(環境開発研究所)●はじめに
「きんもくせい」は、 震災復興に関わる者、 まちづくりに携わる者にとっては貴重な情報源であると共に、 ネットワークメンバーの活動を知ることは、 常に励みとなり、 ライバル意識と頑張る意欲をかき立ててくれるものでした。 7年間に亘り編集、 発行を続けて下さいました「市民まちづくり支援ネットワーク事務局」の皆様には、 心より感謝と敬意を表します。 又、 連載、 寄稿された皆様には、 仕事を進めながらの文章づくり、 弛まぬ努力があったものと思います。 その持続エネルギーと情熱に感服し読ませていただきました。 感謝いたします。●六甲道再開発のこと
六甲道駅西震災復興土地区画整理地区から六甲道駅南地区事業をみる |
思い起こせば「きんもくせい」創刊当時、 市民まちづくり支援ネットワークを立ち上げられた皆様も、 私も、 皆んな自らの専門分野を「復興のお役に立ちたい」という思いで一杯だったと思います。 7年が経過し「きんもくせい」がおよそ、 その責務を果たしたと考えておられるように、 私も六甲道再開発でのコンサルの責務は終わったのではと思っています。 2002年4月六甲道再開発は、 14棟中9棟が竣工し5棟が工事中です。 2004年春には、 建物は全て完成し、 道路、 公園工事に着手します。 2006年には、 すべての街並みが出来上がり一新した六甲道を見てもらえます。 できる限りを注いだまちずくりです。 多くの方々のご意見、 ご批評をいただければ幸甚です。
神戸市と同じように非戦災老朽木造住宅密集地区を数多く抱える大阪市は、 平成8年「区レベルでの住民主体のまちづくり」を施策とし、 平成9年には「大阪市まちづくり活動支援制度」をつくりました。 住民も叉、 長田の燃え広がる様子をテレビで見て「同じような地震がもし大阪であったら鶴橋は長田と同じようになってしまう」と災害に強いまちづくりに立ち上がりました。
住民参加のまちづくりは、 六甲道のまちづくり協議会での住民の意思決定がすべて全体集会の投票で決した経験を踏まえて、 まちづくり研究会の活動をビデオに撮り各家庭で見てもらうなど工夫し、 全体集会を数多く開催するよう努めています。
では皆様、 健康にはくれぐれも留意されご活躍されることを祈念します。 お元気で。
記録には、 生きた記録と死んだ記録がある。 震災とその後の復興に関する記録をみると、 殆どが死んでしまっている。 死んでいるというのは、 そこに人間としての息づかいが感じられない、 ということである。 生きざまやこころざしを感じさせないものは、 困難を克服し時代を切り開くための情熱も知恵も与えない。 それゆえに、 無用の長物として本棚にかざられることなく、 ゴミ箱に直行してしまう。 立派に装丁された書物がごみ箱に捨てられるのをみると、 勿体ないと思わない訳ではないが、 それぐらいの厳しさがないとこの情報過多の時代は生きていけない。 座る場所もない私の研究室ではなおさらである。
ところで、 以外にしぶとく生き残るのが、 ミニコミ紙や瓦版のたぐいである。 「月間まちコミ」や「じゃりみち」、 「のびのびくらす」などは、 私にとって欠かせない存在となっている。 そこには生きた記録がしっかりと息づいているからである。 そのなかでも、 「報告きんもくせい」は超特別である。 専用ファイルという特別の待遇が与えられていることにも明らかなように、 これだけは歴史の証言としてまたまちづくりのテキストとして残しておくべき、 生きた記録誌と思っている。 まちづくりに携わる者の、 息づかいが素直に伝わってくることが嬉しい。 原稿料もでない気楽さが、 裏のない素直な気持ちを引きだしているのかもしれない。 紙面に金を掛けられない貧しさが、 かえって心の豊かさを生んでいるのかもしれない。
いずれにしても、 まちをどうつくったかという記録ではなく、 そこにどういう思いを抱いたかの記録が、 載せられている。 黄色の紙面から、 まちづくりの人間群像をかいま見ることができたし、 そこで共感しあうことができた。 遠くでしかみることができない後藤さんや久保さんを、 私にとって妙に近しい人に思わせたのも、 「報告きんもくせい」のなせる業であった。 といっても、 いまだ近しくお話ができない・・・。 その後藤さんや久保さんの職人芸というべき、 心の記録が暫く読めなくなるのは、 とても寂しい。 この点では、 何のための休刊か終刊か、 読者を無視した所業のようにも思える。
愚痴ついでに、 リフレッシュされた「○○きんもくせい」への期待も込めて、 見えなかった人間像について述べておきたい。 まちづくり支援ネットワークの情報誌であるゆえに仕方ないことかもしれないが、 まちづくりの主人公の顔が少ししか見えない。 行政という殻を脱いだ裸の行政技術者の顔もよくみえなっかった。 まちづくりの担い手としての、 市民、 行政、 専門家、 地域企業の4つのセクターの打々発止の紙上討論バトルは、 次への期待にとっておこう。 ともかく、 更なる飛躍に向けて、 じっくりと充電してください。
私の震災復興の支援活動は「きんもくせい」と共に歩んできたように思います。 「きんもくせい」に励まされて、 新しい活動展開を踏みだしたてきたとも言えそうです。
震災間もない2月10日創刊された「きんもくせい」の第3号(95年3月3日発行)に、 私は初めて投稿しました。 復興に向けての私の提言として『進み始めた復興まちづくり。 。 。 ハードな計画に偏りすぎているのでは』と題してです。 それから「きんもくせい」「論集きんもくせい」「報告きんもくせい」とスタイルを変えて発行されてきた「きんもくせいシリーズ」に、 私は合わせて30篇近く掲載の機会をいただきました。 その8割弱はコレクティブハウジングに関するものです。
お陰さまで、 全国初の公営コレクティブハウジング(10地区341戸)は独自の協同居住を育みつつあります。 コレクテイブハウジングという新しい住まい方が少しづつ受け入れられてきた背景の一面には、 コレクテイブハウジング事業推進応援団のサポート活動があり、 その応援団の継続した活動の背景には「きんもくせい」がありました。 また、 「きんもくせい」に掲載されたコレクティブの報告をインターネットで読まれた遠方からも問い合わせがあり、 コレクティブは今、 全国展開を始めています。
このように報告の機会を沢山いただいたことは、 私にとって沢山のメリットがありました。
ひとつは、 「きんもくせい」に状況を報告することが次なる新しい活動の展開に弾みをつけてくれました。 現状の報告文を書きながら、 次はこんな報告ができればいいなと思うと、 その方向への活動の展開に弾みがつきました。 ふたつめは、 報告文が掲載された「きんもくせい」を友人・知人に送り、 ご無沙汰しがちの友人たちと便りの交換ができました。 それは勿論、 被災地の復興情況を遠方の友人たちに発信でき、 震災について関心を持ちつづけてもらうよい手段でした。 次には、 自主的にではありますが、 次々と追われるように報告原稿を書いたことで、 文章を書くことが苦にならなくなりました。 最後に(いや「まず最初に」と言うべきでしょうか)、 何よりも私にとって、 貴重な旬の情報源でした。 「きんもくせい」に報告された沢山のまちづくりの事例から専門知識を吸収しました。 震災以来、 本業がほとんど開店休業中でも、 専門力を衰えさせることなく、 継続してスタンバイできる状況にあるのも、 旬の専門知識をちゃんと吸収しているという自負があるからです。
しばらくは、 「きんもくせい」に代わるべき私好みの情報源と専門知識を向上させる教材を探さなければなりません。
でも、 また、 スタイルを変えて「きんもくせい」が再登場され、 うれしさが届く日がくると確信しています。 小林郁雄さんはじめ「きんもくせいスタッフ」の皆さま、 本当にありがとうございました。
経済白書が「もはや戦後ではない」と宣言したのは昭和31年であったが、 きんもくせいの終刊を聞いて同じ感慨を抱いたのは私だけではあるまい。 もちろん、 震災復興が終わったわけではないが、 神戸復興塾が以前から主張しているように、 現在被災地が直面している問題は神戸阪神に特有のものではなく、 遅かれ早かれ全国の市町村が取り組むことになる問題である。 その意味で、 きんもくせいが発信してきた復興過程のニュースは、 まさに預言者のメッセージであったといえるのではなかろうか。
さて、 きんもくせいは終わったが、 その蒔いた種子はいくつも芽を吹こうとしている。 この4月にも大震災記念「人と防災未来センター」が開所し、 神戸市には「協働と参画のプラットホーム」が設置される。 基本構想の策定から5年をへて、 兵庫県はボランティア活動を支援する「ひょうごボランティアプラザ」の開設に踏み切った。 ここは県のセンターとしてボランティア活動の間接的支援を行うだけでなく、 「ひょうごボランタリー活動基金」(総額100億円)を活用して福祉、 環境、 まちづくり、 文化など多岐にわたり活動する市民団体に助成することになっている。
思いがけず、 私がプラザの所長を引き受けることになったが、 きんもくせいが切り拓いた参画と協働の道をさらに拡げ、 豊かな社会を実現するために立ち上がった市民団体を応援したい。 きんもくせい読者諸氏のお力添えをお願いする。
金木犀のかおりが匂いたつようなマンスリーレポートが届くと、 「今回はどんな学びがあるかな」「どんな情報が掲載されているのかな」と、 それがとても楽しみでした。
途中からの拝読ではありましたが、 紙面を通して多くの方々からの学びがあり、 感謝の気持ちでいっぱいです。
ソフトとハード、 この二つの流れが合流し、 さまざまなファクターが寄せ集められたときに初めて本当の「まちづくり」が可能になることを、 いつも確認しながらの購読でした。 ここから得た財産を糧に、 今後の活動を展開していきたいと考えております。
編集・発行に携わって下さった小林郁雄様をはじめ、 皆様に心からお礼を申し上げます。 また、 しばらくの休息後には「○○きんもくせい」の発行をお考えのようですが、 多くの愛読者と共にその日が来るのを待っております。 そして紙面での出会いを楽しみにしております。 (2002.3記)
「きんもくせい」は、 阪神・淡路大震災復興まち・すまいづくりの情報を全国の仲間に発信する貴重なニュースレターであった。
私は、 阪神間地域にこだわるまちづくりコンサルタントとして、 復興まちづくりに全面的に取り組んできたものであり、 「きんもくせい」においては、 この7年間に次の3回の連載記事を書かせてもらった。
・第1回目のシリーズ −新在家南地区復興まち・すまいづくりの実践報告−
・〔報告その1〕:(1995年7月11日) (第12号)
・〔報告その2〕:(1996年2月9日) (第24号)
・〔報告その3〕:(1996年9月30日) (第36号)
・〔報告その4〕:(1997年6月5日) (第48号)
このシリーズでは、 震災直後の1995年〜1997年の3年間に精力的に取り組んでいた新在家南地区における復興まち・すまいづくりについての定期的で詳細な実践報告を行った。 内容としては、 復興まち・すまいづくりの「作法」としての「まちづくり協定」の締結と運用の実態、 及び小規模住宅の共同再建事業の取り組み実態や問題点等についてのリアルタイムの報告であった。
・第2回目のシリーズ −復興まちづくりにおける成功と失敗例の実践報告−
(その1):ルールづくり白星・黒星(99年5月号)
(その2):市場共同再建の白星・黒星(99年8月号)
(その3):住宅共同再建の成就と挫折(99年11月号)
(その4):街かど花苑等の失敗と成功例(00年2月号)
(その5):細街路拡幅整備の挫折と成就(00年5月号)
このシリーズでは、 震災後5年を経過した1999年5月から2000年5月にかけて、 それまでに無我夢中で取り組んできたいろいろな復興まち・すまいづくりを、 今後につなげるため、 成功例と失敗例を並べつつ、 やや冷静に振り返ってみた。
・第3回目のシリーズ −私の阪神・淡路大震災復興まち・すまいづくり検証−
第1回:白地地区の復興まちづくりは戦災復興土地区画整理がベース(01年2月号)(50+No.23)
第2回:震災復興まちづくりは平常時(震災前)からの取り組みが有効だった(01年4月号)(50+No.25)
第3回:共同再建事業等の成就は震災復興特例施策のおかげ(01年8月号)(50+No.29)
第4回:環境整序型「地区計画」を主体とした住民参加まちづくり活動の普及(01年10月号)(50+No.31)
第5回:震災復興まち・すまいづくりで出来なかったこと、 しなかったこと(02年1月号)(50+No.34)
このシリーズでは、 震災後7年目の2001年2月から2002年1月にかけて、 ポスト震災復興まちづくりを見据え、 今回の阪神・淡路復興まちづくりで何が出来たのか、 何が今後につながるのか、 何が出来なかったのかを振り返ってみた。
言うまでもなく、 上記に書いた内容は私の独断と偏見に基づく内容が多く含まれているもので、 私自身の頭の整理のために書いたものであるが、 全国の仲間に発信する「きんもくせい」に載せてもらえることは書き甲斐のあることであり感謝している。 しかも、 毎回締め切りが過ぎてしか原稿が出来ない私に対して、 我慢強く対応してくれた「きんもくせい」の編集スタッフには2重に感謝の気持ちで一杯である。 ついでに原稿の仕上げ作業を手伝ってくれた我がジーユー計画研究所のスタッフにもここで感謝の意を表しておきたい。
「きんもくせい」は、 小林編集長によれば、 おおよその責務は果たせたとして、 ここで一旦、 終刊されるようであるが、 私も時を得ていると思っている。
しかし、 今、 20世紀の拡大成長期から21世紀の安定成熟期(≒零成長期)へ時代が急転回している時期でもあり、 阪神間地域においても、 既にあちこちでポスト震災復興のまちづくりが始まっている。 私自身は「○○きんもくせい」の再出発の時が、 以外と早く来るのではと思っている。 その時は、 第4回目のシリーズとして次のような内容が今考えられる。
−21世紀初頭の新しい公共によるまちづくりの実践−
(その1):密集市街地の住環境改善の取り組み
(その2):都心・中心市街地活性化への取り組み
(その3):郊外住宅団地の再生への取り組み
(その4):郊外鉄道駅前地区コンパクトタウンづくり
(その5):既成市街地の修復的住民参加のまちづくり
しかし、 この報告の内容づくりには1〜2年の実践期間≒「○○きんもくせい」の休憩が有効である。
震災の直後の復興方針をめぐる議論と多様な被災地実態に伴う活動の展開時期、 そして5年目の検証折り返し点を経て、 今日の複層化し潜在化した課題の時期まで、 一貫して復興まちづくり情報を送り続けた「阪神大震災復興市民まちづくり支援ネットワーク」事務局の営為に敬意を表して「きんもくせいの時代」と呼んでみたい。
それは、 「市民まちづくりの時代」であるだけでなく「協働模索の時代」「民主主義の問われた時代」「NPOの時代」でもあった。 もともとは、 都市計画家、 まちづくりプランナー、 建築家、 大学研究者等専門家のネットワークである「阪神大震災復興市民まちづくり支援ネットワーク」の機関誌として発行された「きんもくせい」が、 復興の状況を反映しその枠に留まらずボランティア活動や地域の担い手、 NPO団体、 海外震災支援などをとりあげてきたのは、 編集者・発行者の嗅覚の正しさを示すものだろう。
復興まちづくりには、 多くの重要な周縁分野がある。 地域通貨、 コレクティブハウジング、 ふれあい喫茶、 コミュニティビジネス等々。 まちづくりは人づくりであり、 ひいては「地域社会をつくる」ことに及ばざるを得ない。 見方を変えればまちづくりそのものが、 一つの周縁であることを「きんもくせいの時代」に我々は学んだのではないだろうか。
故草地賢一氏は、 かつて「大きな自然災害の被災者は、 避けがたく民主化を迫られる」と語った。 被災マンションの復興でも合意形成という形で、 その言葉は顕在化したし、 トルコ・台湾の復興でも社会の在り方が大きな陰を落としている。 被災者が自ら立ち上がって、 自分の力量に合った復興を行う。 これが、 まずは出発点であることを、 我々は、 海外被災地の復興過程から学んだ。 トルコも台湾も、 日本の経験に学んだといいながら、 仮設住宅から復興住宅へと一直線に進んだ日本に比べ、 より多くの試行錯誤の結果、 失敗した施策もあるが多様な道を歩んでいると言える。 また、 震災後、 5年目という時期に起こったトルコ・台湾の大震災は、 我々に大きな反省の機会を与えてもくれた。
周縁分野からまちづくりを遠望すると同時に、 海外被災地から神戸を遠望するという行為を通じて、 私たちは、 大きなパースペクティブの中に様々な主題を発見した。 それは人により、 「自律生活圏」であったり「住民自治」であったり「市民社会をつくる」「真のパブリック」と様々であるだろう。
神戸が被災したことで、 何か固有の文化、 或いは社会システムといったものを獲得できるとしたら「きんもくせい」は充分その証人となりうるだろうし、 その端緒は、 いろんな形で「きんもくせいの時代」に発しているに違いないと思う。
3月26日、 国立社会保障・人口問題研究所から「都道府県の将来推計人口」の発表があった。 2006年にも関西都市圏は人口ピークを迎えるが、 東京都市圏はまだ暫くの間は社会増で人口増が推測され、 その後に減少傾向になるとのこと。 日本の都市圏で初めての経験となる人口減少問題は、 東京圏に先駆けて、 関西圏でこの対応に取り組まねばならない。 果たして具体的にどう行動すべきなのか・・・??。
さらに、 1月発表された人口ピラミッドの変化(2000年・2025年・2050年)で、 2000年生産年齢(15〜64歳)の人口比率は約70%であるが、 将来とも活力ある日本を目指すには、 2025年までに生産年齢上限の65歳を75歳まで引き上げることができて、 初めてその可能性が生まれてくる。 即ち、 我々団塊の世代以降の人間は、 65歳でゆっくり隠居生活へという行動ではなく、 75歳まで働きつづけねばならなくなる。 もちろんピーク時よりは労働時間を減少しつつも・・・。
そこで提案であるが、 どっちみち働く必要があるなら、 より積極的に行動し、 見返りの額のみにこだわるのではなく、 その労働に「生きがい」もペアとして見つけたいと考える。 その辺りでNPO組織が力を発揮し、 社会的認識も高まることになるのではないか。 と思っている。
最後に、 「きんもくせい」を支えた皆様の毒舌を、 今後もいろんなステージで期待している、 そしてそれがこの読者の自己研鑚に繋がるものと信じている。
95年2月に始まった第1期が2年半、 97年8月からの第2期が1年半、 99年4月からの第3期が3年間、 常に現場感覚にあふれる内容を同時進行で時に生々しく活写しつつ、 様々な課題を抱える被災地区の復興への取り組みを紹介し続けた「きんもくせい」が2002年4月で終刊となる。 特定の復興テーマを巡って地道にじっくりと取り上げるシリーズ物の定着など、 市民レベルでの復興まちづくり情報の共有化に果たした役割は、 単なる被災地復興支援という枠組みを越えて全国的視点で見ても極めて評価が高い。 さらに、 きんもくせい英文キーワード集の刊行など国際的にも震災復興過程の共通理解に大きな足跡を残してきた成果も特筆ものである。 マスメディアでは取り扱いが一面的になリ過ぎたりして、 伝えきれない部分をカバーする媒体として、 この7年間刊行しつづけることができた底力は、 神戸の「まちづくり力」として胸を張れるが、 何よりふつうのミニコミ紙と違うところは、 発行を支えた多様な活動が存在する事である。 神戸ネットや阪神白地ネットにおける、 行政や専門家、 研究者の垣根を超えた市民レベルでの活発な議論を抜きに、 きんもくせいの存在意義を語ることはできないし、 みんなで支えてきた事にも大きな意味があるのだ。 サクラと同じで秋の花きんもくせいも散り際があっけないが、 秋はまだまだ先である。 あの芳香にもう一度エールを送りたいと願っているのだが・・・
私はあの震災後、 地域防災計画の改訂支援など防災対策のコンサルタント業務とともに、 阪神・淡路大震災の記録を残す調査に携わってきましたが、 その中に、 阪神・淡路大震災の教訓情報を集めるという調査があります。 あの大震災の教訓を次世代に伝えるとともに、 今一度震災対策全般にわたり見直してみるために、 教訓につながると考えられる情報を各種文献から数多く収集(引用・要約)し、 体系的に整理しようとしているもので、 「阪神・淡路大震災教訓情報資料集」としてホームページが公開されています。
「教訓集」ではなく「教訓情報資料集」なのは、 同じ事実からでも、 そこから読みとる教訓は時代や地域性等によって当然異なるため、 各々が対策を考えるうえでの材料提供に徹しようということからです。 あの震災から学ばなければならない分野はあまりにも幅広く、 重要な情報であっても漏れなくカバーすることは困難ですが、 事実関係、 それに対して様々な捉え方や意見があること、 それらの情報や文献の所在などを知ってもらうためのヒントが提供できればと思っています。
調査の当初から、 私たちはできるだけ地元の生の声を盛り込もうと、 各分野の関係者や住民・企業の方からの聴き取り調査、 アンケート調査、 文献調査を行ってきました。 現在も、 復興まちづくり等に関する新しい教訓情報について、 増補作業が進められています。 行政の記録誌や研究者の著作は、 うまくまとめてあるので利用しやすいのですが、 必ずしも現場の声や空気が伝わってこないといったことがあります。 また、 本当にたくさんの情報・文献がある中で、 どれがその時々の実態を適切に伝えているものかを判断し、 取り出すのは容易ではありません。
そうした中で道標になっていただいたのが、 室崎益輝先生(神戸大学)や小林郁雄さん(市民まちづくり支援ネットワーク)、 そしてこの「報告きんもくせい」「市民まちづくりブックレット」を始めとする市民まちづくり支援ネットワークが関わってきた文献です。
こうした調査を通じて改めて感じたのですが、 復興まちづくりの現場の声に学ぶ(特に「読む」)機会は決して多くありません。 復興まちづくりの現場に関わってこられた方は、 「実際にその場に関わらないとわからない」と仰るのもごもっともではありますが、 ぜひその取組過程を文献化していただき、 より多くの方に震災や復興まちづくりについての理解を深めていただくきっかけとして、 ご提供くださいますようお願いします。
これまでの一連の「きんもくせい」は、 そうした現場の情報提供の場として極めて大きな役割を果たしてきたと思います。 この「報告きんもくせい」の後、 これからの復興まちづくりの記録をどのように残し、 国内外に伝えていくかが当面の課題となりますが、 私たちは教訓情報の発信を通じて支援していくとともに、 新たな「きんもくせい」が早く登場することを期待しています。
震災後、 いろいろありました。 「きんもくせい」もそうですが、 震災前になかったものが生まれています。 私は行政の枠で生きているものですが、 その限られた枠の中でも大転換が生まれています。
へんな話ですが、 全国どこに行っても、 震災の話で話題の中心となることができます。 震災と全く関係ないという人はほとんどおらず「親戚の誰それがどこで震災に遭った」とか、 「どこそこで被災した人とどうした」とかいう情報交換の中で、 私の経験が役に立って会話が展開することがままあります。
また、 随分多くの方々を現地にご案内する機会がありました。 案内するからには何かを持って帰ってもらいたい、 そういう気持ちが通じて、 震災復興のある種の感動を持ち帰ってもらえるのはうれしいことです。
県と市町と住民の関係、 ことばで言えばありきたりの行政用語の羅列ですが、 ここに生きた血が通いはじめています。 折から地方分権、 行政の自治事務化という、 これまで国がやることを県や市町がかわりにやっていた行政を、 市町は市町なりに、 県は県なりに自らの考えで行うことを規定した地方分権一括法が平成12年4月1日に施行されました。
誰に命令されるでもなく、 自分が必要と思ったことをやり、 やったことには責任を持つ、 そういった行政の役割を明らかにした震災は、 自分の行動に対する責任の持ち方を変えました。
県は住民からは遠い存在で、 住民と接することなしに行う県の行政に歯がゆい思いをすることがありますが、 そういった県の行動にも変化がうまれつつあります。
震災で得たものを大切にして、 まちづくりを進めていく存在価値が共有されはじめているのではないでしょうか。
というよりも、 震災で人生が大きく変わった。 何をあたりまえのことをと、 思われるかもしれないが、 震災当日ははるか関東のつくばにいて朝のニュースでしか体験していない小生でも、 5日目に長田区の焼け野原の前で立ち尽くし、 あたりを見渡しながら「大きな災害現場に行くと人生観が変わるよと聞いていたが、 人生観というよりむしろ自分の人生そのものが確実に変わったのだ」と実感した。 おそらく、 実感のあまり無い多くの人(ほとんどの国民)の人生も何らかの影響を受けて変わらざるを得ないと、 思った。 そして、 その後その通りになっている。
小生自身もその後職場が大阪に変わり、 研究テーマも震災復興が中心となり、 そこから多くのことを学んだ。 色々な場面で小林さんや天川さんにお世話になり、 実に沢山のことを学んだ。 茶店きんもくせいでパンやワインをいただいた。 多くの素晴らしい人と出会った。 やはり、 きんもくせいで人生が変わったのである。
さて、 ニュースきんもくせいから学んだものは、 情報とはどのようなものかということである。
原則その1:情報は意思をもって発信され、 流れ、 たどり着く。 たどりついて(色々な意味で)役立つと思われるところに、 情報は流れていく。 役立つと思われないと流れてこない。
原則その2:多すぎる情報、 未消化な情報は受け取ってもらえない。 あるいは情報の海に埋没してしまう。 コンパクトで、 鮮度が高く、 インパクトがある情報が効果的である。 逆のことをすることによって情報をほぼ隠す、 あるいは分かりにくくすることもできる。
原則その3:継続は力である。 そして同時に終了のタイミングが難しく、 そこには美学というかセンスが求められる。
すなわち今後小生も何らかの情報発信をする場合、 確たる意思(戦略)をもち、 コンパクトで、 鮮度が高く、 インパクトがある情報を継続的に流し、 そして美しい終わり方をしようと思う、 きんもくせいのように。
この7年間を振り返って、 一番悔しいのは初動期になんの役にも立てなかったことだ。 世の中の人は出版社も新聞社も一緒だと思っている人さえいるが、 もちろん、 全然違う。 出版にはどんなに短くても数ヶ月の制作期間が必要だし、 それ以上に長い長い執筆期間が必要になる。 震災直後という非常時に、 悠長に本など書いてくれる人はいない。
都市計画決定をめぐる住民と行政の対立が大きく報じられ、 また対立を煽るかのような論説が目に付くようになったとき、 僕自身も本当のところを知りたかったし、 もっと地に足がついた議論も伝えたいと思った。 しかし、 そんな媒体は持ち合わせていなかった。
そんななかで何とか出来たのが「復興市民まちづくり」の発行。 たしか95年の4月にコープランを訪ね、 話し合ったところから始まった。 当時、 被災した各地では〈まちづくり通信〉が、 様々な立場から発行されていた。 だが、 それは地元以外ではまず手に入らない。 そういった生の資料を誰もが見られれば、 何が起こっているのか、 専門家が何をしているのか、 多少は様子が分かるに違いない。
そこでそれらの資料を生のまま合本し、 95年5月に第1巻を出した。 その後3ヶ月ごとに97年3月まで8巻を刊行したが、 第1巻は増刷になるなど予想を超える反響があった。 みんな何か手伝いたいという思いがあり、 現場の情報に飢えていたのだ。
一方、 そのころインターネットが手軽に使えるようになってきていた。 95年から試行をはじめ、 96年春には当社も試験的にページを開設し、 そのなかで「きんもくせい」WWW版の提供を始めたのが7月だった。 「きんもくせい」は創刊号に遡って掲載し、 「報告きんもくせい」50+36号(本号)まで画像付きで提供している。
また支援ネットワーク関連ページには、 「きんもくせい」のほか、 99年から支援ネットワークで刊行をはじめた「市民まちづくりブックレット」WWW版全7巻をはじめ、 復興まちづくりキーワード集日本語・英語版、 まちづくりフォーラムの記録など多彩な内容を掲載させていただくことができた。
これらは、 あわせてファイル数が約7000、 100Mバイトにのぼる資料である。 多ければ良いと言うものでもないが、 なかなかの量であるには違いない。 これらを丹念に読んでいけば、 震災当時、 まちづくりの現場で何が起こっていたのか、 専門家は何をしていたのかが、 かなり分かるはずだ。
しかし、 アクセス数はそれほど多いとは言えない。 支援ネットワークのトップページが1万7000、 きんもくせい、 報告きんもくせいがそれぞれ5000程度である。 もちろん、 世界中どこからでも、 いつでもアクセスできるWWWは、 それだけでもたいしたものである。 いつかどこかで誰かの役にたつに違いない。 しかし数こそは勝負のマスコミの端くれとして、 震災当初、 WWWのような手軽な媒体が使えれば、 もっと多くの人に読まれただろうにと思わずにはいられない。
とはいえ、 本当は媒体だけの問題ではなかったと思う。 やはり適切に情報を理解し、 編集し、 分かりやすくビビッドに伝えられるジャーナリストがいなければ、 読者は情報の海で溺れてしまうだけである。
権力批判を使命とするマスコミが3.17都市計画決定を厳しく取り上げ、 住民の怒りの声を大きく伝えたのは当然である。 しかし、 都市計画も区画整理も、 ほとんど初耳というなかで、 「人々の心を踏みにじる行政」という分かりやすい構図に安易にのっかりすぎていなかったか。 これはマスコミの責任でもあるが、 反面、 普段から良き批判者を育ててこなかった専門家サイドの問題でもある。 行政や地元権利者だけに通じるような世界に閉じこもっていなかったか。 都合の良い時だけ、 マスコミをおだてていなかったか。
震災はもはや遠い過去の話となってしまった。 しかしいつ起こるかもしれない非常時に、 状況をきちんと理解し、 人々に正しく批判的に伝えられるジャーナリストは、 やはり必要なんだと思う。 それは必ずしも大メディアである必要はもはやないだろう。 個別の問題にマニアックに取り組んでいる個人の方が興味深い情報発信が可能な時代である。 また大マスコミでなくても「きんもくせい」のようなディープな情報に容易にアクセスできるようになった。
「きんもくせい」のような地道な情報活動が、 そういったジャーナリストの精神と能力をもった人を地域地域に育てる一助となっているに違いない。 終わってしまうのは如何にも残念。 なんとか志を引き継ぐメディアを考えたいものだ。
ことしの1月17日、 未明の5時46分、 野田北部の人たちと大国公園で鎮魂と希望の蝋燭を灯したあと、 カトリック鷹取教会のミサに列なった。 かんちゃん(神田裕神父と書くとなんかよそよそしいので、 こう呼ばせていただく)の説経を聞き、 同席した人たちと平和の握手をかわした。 阪神大震災後のいつにかわらぬ、 わたしのこの日の朝のすごしかたである。 かわったのは、 わたしの側にキャメラとマイクがないことであるが、 この日をむかえる心もちはいつもおなじである。 ことしもまた、 わたしの一年はここからはじまる。
9時すぎにもういちど大国公園に立った。 そこから鷹取商店街を見た。 この地ではじめて撮った映像が甦った。 それは、 商店街の焼けただれたアーチから海運町三丁目の焼跡に、 手持ちキャメラでパン・ダウンしたカットである。 そこから、 わたしたち、 野田北部を記録する会の映像記録作業がはじまった。 映画は大国公園から歩きはじめたのである。
ことしの1月17日もわたしは大国公園から歩きはじめた。 ここ数年の例なら、 iウォークの群れのなかに、 わたしはいるはずなのだが、 ことしは同行無人であった。 「えい、 くそっ、 ひとりiウォークをやったるわい」と、 日ごろのわたしらしくもなく感傷的になりながら、 真野地区をへて御蔵へと進んだ。 しかし、 道中、 わたしは晴朗な気分になっていった。 まちの人たちは、 その辻この路地で、 きょうも、 日々の営みをはじめていて倦むところがなかった。 この人たちと、 ときに挨拶をかわしながら歩いた。 わたしは同行無人ではなかったのである。
わたしが野田北部から御蔵への道をとったのは、 それが、 iウォークの経路だったためばかりではない。 御蔵地区もまた、 阪神大震災後の「コミュニティづくり」における、 わたしの関心地であったからだ。 野田北部は復興まちづくりのトップランナーであり、 御蔵地区は一周おくれの走者といえばいえるかもしれないが、 はやいおそいが問題ではない。 両者のコミュニティづくりのスタイルが、 つまり、 「まちづくり協議会」を核にして、 その集団のダイナミズムを活かした方法が、 わたしにとってこのうえなくチャーミングなのだ。 自律した個人による協働というのは、 わたしの映画制作の基本であるが、 それは、 阪神大震災後のまちづくり協議会の活動と方法論的に重なり合う。
「まだ見ぬまち」をめざして、 大国公園から歩きはじめた、 阪神大震災後のわたしの映画づくりは、 台湾や御蔵で充電して、 いま、 東京・大久保にむかいつつある。 『きんもくせい』は、 そんなわたしを刺激してやまなかったマンスリーレポートである。 毎号ワクワクして読んだ。 心残りは、 「野田十勇士」の番外篇として、 わたしが「小林郁雄論」をかくチャンスがなかったことである。 しかし、 まあそんなことはどうでもいい。 多くの人の協働作業である『きんもくせい』の発行に、 あえて、 天川佳美さんと小林郁雄さんの名前をあげて感謝をしたい。 「世に伯楽あり、 然るのちに名馬あり」。 おふたりのどちらがどちらであるかはいうまでもないであろう。
「公園や緑地の整備はもうハードだけではないマネジメントの時代だよ」という声を始めとしてハードからソフトへと時代が変わってきている。 また、 「パブリックな空間」も公共空間だけではない「個人のみどり」すなわち「ガーデニング」がオープンガーデンなどおおきなうねりとして社会の中でまちづくりへと向けて花開こうとしている。 民におけるパブリックのあり方が問われているのだ。
参加、 参画、 主体という言葉がまちづくりにはよく使われている。 ワークショップなどはその典型かもしれない。 でも熊野に店を開いている料理人はいわば昔からのやり方であるメニューを示して「与える」、 「選ばせる」、 という選択の仕方ではなく、 客の好きなものを「注文」をつけてもらいながら共に山や野に入り食材を採るという「体験」、 「参加」を通して「食する」という行為をさらに味わい深いものにしようとしているように見うけた。 「食する」という行為と「まちづくり」は全く別個のものではあるのだけれども「参加」や「体験」の持つ効果と意義はどのような行為にでもそれを深め味わうには、 有効な経験だと示しているようだ。
まちづくりや花やみどりも参加し、 体験していくことでより深められ人の輪も広がっていく。 花やみどりはまちづくりの中で最強のツール。 人と人を和ませ、 自然に対する志向性が少しづつでも高まっていく。
よくぞ発信し続けてこられました−「きんもくせい」
震災復興市民まちづくり支援ネットワークの活動とニュースは、 みごと車の両輪でした。
顔が見えました。 同人や全国からの支援の様子が伝わり、 私はいつも元気をいただいた。
生きた情報発信。 貴重な歴史的実践記録集としての価値も創造されました。
水谷ゼミナールとともに神戸の若手プランナー、 デザイナーたちの層の厚味、 連携プレーを築かれたことも素晴らしい成果であり希望です。
お世話になった私の“きんもくせい賛歌”。 継続はやはり力を育むのですね。 事務局として地道に使命をまっとうされたコープラン、 学芸出版社、 発信者の皆さん、 ご苦労様でした。 ありがとうございました。
発表論文・報告リスト |
さて今回の受賞者のうち鍬田泰子さん(神大院)は、 台湾地震の人的被災にかんする詳細なフィールドスタディをまとめた。 海外での調査、 それも被災状況についての調査には多くの困難があったと思われるが、 阪神大震災の経験に裏打ちされた立派な労作である。 同じく台湾地震の復興計画策定過程とその課題を取り上げた王雲?さん(東大院)の報告も、 綿密な取材と適切な分析で極めて密度の高い成果をあげたと評価された。 木野村昭彦・渡辺豊士郎(阪大院)両氏は、 阪大グループが継続的に取り組んでいる芦屋の震災復興調査のデータベース化と、 それに基づく構造把握を試みた力作である。 完成度という点では物足りない点もあるが、 今後の展開が大いに期待される。
紙面の都合で他の7篇の紹介は割愛するが、 ともすれば震災にかんする関心が薄れがちな現在、 地道に実態調査に取り組む学生が少なくないことを喜ぶとともに、 指導する教官各位に深く敬意を表したい。
最後に、 5回にわたる報告会を主催した震災復興・実態調査ネットワークの斎木崇人、 大西一嘉、 小浦久子、 小林郁雄の4氏、 ならびに声援いただいた関係団体の皆さんに厚くお礼申し上げます。
当ネットワークの第42回連絡会が、 3月8日(金)、 こうべまちづくり会館で行われました。
今回は、 「新しいまちづくり協議会(その1)」として、 この1・2年の間に設立されたまちづくり協議会の中から、 神戸既成市街地の東部・中部・西部からそれぞれ1団体の中心メンバーの方に来ていただき、 まちづくり活動に関わるきっかけや現在抱えている問題点などについて報告をうけ、 議論が行われました。
(1)「青木南地区まちづくり協議会」(H12.11設立)の村上偉矩さん(会長)と酒井勇さん(副会長)からは、 青木フェリー埠頭の土地利用転換(商業施設の立地)や工場跡地の更地化・マンション化などの動きが協議会設立のきっかけになったこと、 古くからの住民と震災後の新住民との人間関係づくりに苦慮していること、 そして現在、 まちづくり協定の締結に向けて取り組んでいることなどの報告がありました。
(2)「三ノ宮南まちづくり協議会」(H12.11設立)の川口信弘さん(会長)からは、 都心におけるまちづくりの方向を検討する組織として自治会の中に設置された「まちづくり部会」の活動を通じて協議会を設立したこと、 構成員の大部分が企業であるなかで、 企業の意識向上と会員拡大が重要であること、 約54haという広範囲のなかで、 街のイメージを共有していくことのむずかしさなどの報告がありました。
(3)「月見山本町2丁目周辺まちづくりの会」(H12.5設立)の草野修さん(事務局長)からは、 中央幹線の整備にからむ高層マンション建設に対する反対運動に端を発してまちづくり活動に取り組むようになったこと、 「まちウォッチング」などを行い、 まず自分のまちを知ることから始まり、 さまざまな問題に取り組んでいこうとしていることなどの報告がありました。
報告の後、 今後のまちづくりを展望するなかで、 我がまちを感じることができる範囲や、 良好な人間関係を構築していくことのむずかしさ、 そのためには適切な情報提供と参加の意識づくりが重要であることなどについて議論が交わされました。 (コー・プラン/上山 卓)
今回のテーマは「団地再生」で、 4月6日(金)、 兵庫県立神戸学習プラザにおいて行われました。
まずコーディネータの野崎隆一さん(遊空間工房)から主題説明があった後、 3人の方から報告がありました。 テーマ/報告者は以下の通り。
(1)団地再生方策検討委員会/小森星児(委員会座長、 神戸山手大学学長)
小森さんからは、 兵庫県の「団地再生方策検討委員会」の座長として関わられ、 モデルケースとして調査の対象となった明舞団地(神戸市垂水区、 明石市)、 芦屋浜団地(芦屋市)、 三木緑が丘住宅地(三木市)に実際に足を運ばれた経験をもとに、 団地再生に当たっての様々な課題、 および世代交代を団地再生によって進めることの重要性等について語られました。
仲井さんからは、 昨年神戸で「新田園都市国際会議2001」が開かれたことをきっかけとして、 神戸新聞で今年の幕開けの企画をして8回連載された「郊外はどこへ?−新田園都市の可能性−」をもとに報告されました。 ご自身が担当された生野町(2002年2月号参照)と三木緑が丘住宅地について、 中山間地域とニュータウンという違いがあるものの、 今後の高齢化など課題は共通するのではないか、 それに対する方法として、 生野で生き生きと取り組まれている住民主体のまちづくりがヒントになるのではないか、 といったことを報告されました。
佐藤さんからは、 団地計画にコンサルタントとして関わられてこられた豊富な経験をもとに、 とりわけ大規模団地の先駆けとなった千里ニュータウンについて、 現在の問題点−高齢化、 住宅の老朽化、 近隣センターの衰退−や、 団地再生についての課題、 実際の住宅の建替え例や、 近隣センターの再生例などについてスライドを交えて報告されました。 (中井都市研究室/中井 豊)
また、 後藤さん、 久保さん、 石東さんをはじめとする連載や寄稿をいただいてきました数多くの筆者の皆様、 ありがとうございました。 原稿料はなし、 締めきりだけはやいのやいのといい、 すみませんでした。 さらに、 著作権もあやふやなままホームページに掲載し、 実質上転載フリーという状況で、 申し訳ありませんでした。 学芸出版社のご好意で、 すべてをWEBにのせていただきました、 前田さん本当にありがとうございました。
支援ネットワーク関連ページ
阪神大震災から7年間が過ぎ、 5年目の復興検証からも2年がたちます。 支援ネットワークの私たちなりの震災復興の記録を「報告」しようということで、 「きんもくせい」を復刊し3年間36号を発行いたしましたが、 おおよそ、 その責務は果たしたものと考えます。
終刊号は、 読者の皆様はじめ、 あらゆる方に紙面を解放しようと思い02年2月号とともに、 感想・今後への希望期待など募集しましたところ、 多数の寄稿をいただきました。 すべてを掲載するために、 発行が4月にずれ込んでしまいました。 遅くなってしまい、 すみません。
「報告きんもくせい」は終刊しますが、 ご購読いただいてきた全国の方々のリストは貴重なネットワークとして、 今後も活用させていただくつもりです。 また、 震災以来続けてきておりますニュース「きんもくせい」は、 7年間でそれなりのブランド力を持つようになりました。 それらを無にすることなく、 少し休憩してから新たな「○○きんもくせい」を考えようかなあというところです。 「主張きんもくせい」とか「率先きんもくせい」とか。
阪神大震災復興という前置詞ははずしても、 「市民まちづくり支援」という看板は、 ネットワークとしてこれからもかかげ続けていくつもりです。 それが安心安全快適なまちづくりの基本であり、 結局は震災復興からの窮極のメッセージであると思うからです。 (020415記)
1997年8月27日の第50号終刊号の時に書きました「お礼」のように次のことをお願いすることは決まっておりません。 皆様の最後に寄せていただいた言葉の中には続投を願って下さるものも数多くあり、 有り難く申し訳なく思いますが、 たぶん「きんもくせい」はこれで次の花が咲くことはないと思っています。
木も年を経て役目を終え、 枯れるのを待つことになりますが、 すぐ傍らの地上から新しい芽を出させそれがやがて葉をつけ、 枝をはり、 大きな木へと育って行くのを見守ることでしょう。
「きんもくせい」もその大役が残ってはいますが、 いつか、 それが果たせればと願いながらのお別れです。
ありがとうございました。
今回終刊号を迎えることになりましたが、 ご執筆いただいた方々、 それからご購読いただいた方々、 こんな若造が締切りを催促し、 そのうえ発行も遅れがちで、 その他にもいろいろご迷惑をおかけしたと思います。 本当にお世話になりました。 それから、 終刊号に投稿していただいたたくさんの方々、 ありがとうございました。 とてもうれしかったです。
3年間、 月1回の発行でしたが、 情報を発信しつづけることの大切さはもちろん、 その大変さもよくわかりました。 また、 「きんもくせい」が縁でいろいろな方とめぐり会えましたし、 僕にとっても貴重な経験だったと思います。 それと、 蛇足ですが、 「きんもくせい」を実家に送っていたところ、 両親から僕の働いている世界が少しは分かったような気がすると言われた時は、 全く個人的ですが、 少しうれしかったです。 (こんなとこにもきんもくせいの香りは届いていたのです。 )
今後どうしていくということは、 僕はまだ言えませんが、 情報を発信していくこと、 そして記録していくことをこれからも大事にしていきたいと思います。
ありがとうございました。
震災直後から50号までの「きんもくせい」、 その後の「情報・論集きんもくせい」では全般的な編集を、 「報告きんもくせい」では、 最終面を担当してきました。 「きんもくせい」は、 震災直後の錯綜した情報が渦巻く中で、 まちづくりにかかわる専門家が直接発信するメディアとして、 復興市民まちづくりの現場のいきづかいをできるだけ正確に、 わかりやすく書きとめることに特徴があったと思います。 この方針は、 ずっと一貫して今日まで続いているように思います。
これまで「きんもくせい」に対して様々な励ましのお言葉、 評価をいただきました。 本当にありがとうございました。 そのなかで、 “「きんもくせい」を目標に、 ライバルとしてニュースをつくってきた”、 という同じ復興まちづくりに携わる方からのお話は、 私にとって印象的なものの一つとなっています。
「きんもくせい」はこれで休止しますが、 これからもなんらかの形で、 神戸からの情報発信に関わっていけたらと考えています。
■ 阪神大震災復興 市民まちづくり支援ネットワーク 事務局
●「きんもくせい英語版」のインターネットアドレス:
神戸市民まちづくり支援ネットワーク・第42回連絡会記録
阪神白地まちづくり支援ネットワーク/第25回連絡会
(2)記者の目から見たオールドニュータウン/仲井雅史(神戸新聞文化部「郊外はどこへ?」取材班)
(3)団地計画の30年/佐藤健正(市浦都市開発コンサルタンツ代表取締役)
●神戸市民まちづくり支援ネットワーク、 阪神白地まちづくり支援ネットワークは、 今後も継続して活動する予定です。 神戸市民まちづくり支援ネットワークは、 奇数月の第1金曜日午後6時30分から、 主に神戸市内の取り組みについての報告と討議、 阪神白地まちづくり支援ネットワークは、 偶数月の第1金曜日午後6時30分から、 主に神戸市を除く阪神間、 その他の取り組みについての報告と討議を行っています。 参加ご希望の方は、 事務局(GU計画研究所/中川 tel.078-251-3593、 fax.078-251-3590)までご連絡ください。
「報告きんもくせい」終刊の辞
阪神大震災復興市民まちづくり支援ネットワーク
「きんもくせい」は月1回発行。
市民ブックレット(年4冊発行)と併せて年間購読料は5,000円です。下記ネットワークまでお申し込みください。
〒657-0024 神戸市灘区楠丘町2-5-20 まちづくり(株)コー・プラン内
TEL.078-842-2311 FAX.078-842-2203 E-mail:mican@ca.mbn.or.jp
銀行振り込み先、みなと銀行六甲道支店(普)1557327 郵便振替00990-8-61129
担当:天川佳美、 中井 豊、 吉川健一郎
◆ http://www.hyogo-iic.ne.jp/~INS93031/
(C) by 阪神大震災復興市民まちづくり支援ネットワーク
学芸出版社ホームページへ