メインページへ
前ページの図は、 ある冬の日の朝にSさんの家の中の様子をありのままに記録したものです。 まだ誰も起きてこないうちに書き留めたので、 前夜の家族の暮らしの余韻が残っています。 居間には、 正月以来放ってあったものがあふれ、 何をするにも何を探すにも手間がかかり、 心地良い場所など見当たらなかったということです。 そこで、 家族共用のものと私用のもの、 生活の基本となるものと付加価値的なものに分けて座標系にプロットしてみたのが下の図です。 これを見ると、 家族の共用室にも個人の私物がたくさん持ち込まれ、 居間はあらゆる目的で使われていることがよくわかります。
公私の場の区別があいまいで、 まるで住具に埋もれて生活しているようなこうした状況は、 日本の住宅ではよく見かける光景ですが、 これが日本の住まいの特質なのでしょうか。 外国の住まいではどうなのでしょうか。 また、 日本の住まいは、 昔からこのような使われ方をしていたのでしょうか。
明治時代に生物学の研究をするためにアメリカから来日したエドワード・S・モースは、 日本人の生活様式や住まいにも深い関心を示しておびただしい記録を残しましたが、 西洋的なインテリアの概念ではとうてい説明がつかないために無数のスケッチを描いてこれを補っています。 特に興味深いのは、 彼が日本建築の様式よりもむしろ住文化の本質を理解しようとしていたことです。
最初に彼の目にうつった日本の家は、 部屋の中に立派な家具や調度品が何もないため、 とても貧相に見えたようです。 しかし、 彼は、 部屋の中に何も置かないのは貧しいからではなく、 和室本来の美しさを損なわないために努力してそうしているのだと考えたのです。 実は、 モースの気づいた美意識こそ、 日本住宅特有の室内装飾の考え方であり、 私たち現代人が忘れてしまっている和風本来の住まい方の原点なのです。
図 何も置かない部屋と何も置けない部屋
自分の家の和室に置かれている住具の中で、本来しまっておくべき場所の決まっていないものをリストアップしてみよう。また、過去一年間、放置されたまま使われなかったものも調べてみよう。
図 『類聚雑要抄』に見られる東三条殿の室礼
ところが、 明治以降、 とりわけ戦後には住生活の洋風化が進み、 和風の造りをした住まいの中に洋風の家具や耐久消費財が次々と入り込み、 ものの豊かさの陰に日本的な美意識は忘れ去られてしまいました。 同時に、 押入や物置も満足につくれない住宅事情の中で、 かつては家族で共用していたものも人数分用意されるようになり、 家中に私物があふれるようになりました。 本来、 日本住宅の板張りや畳は、 何でも受け入れる白いキャンパスのようなものなので、 強烈な色彩の絵具には抵抗するすべもありませんでした。 畳の部屋にじゅうたんを敷き、 床の間にクリスマスツリーを飾る。 木に竹を継いだような状態のまま、 ものばかりが増えていく。 これが今、 私たちが住んでいる住まいの実態です。
小コラム 『方丈記』に記された草庵生活
しかし、 室礼の歴史を振り返ってみると、 一つの空間ですべてが賄えたわけですから、 そこには日本人なりの「合理性」があったはずなのです。 そもそも私たちにとってリビングとダイニングの違いは置かれている家具の形が多少異なっている程度のことで、 机の上が空いていればどちらでアイロンがけをしてもワープロを打ってもいいわけです。 リビングには応接セットを置くものだと決めてかかっている節もありますが、 実際はそこで何をするのかはっきりしたイメージはありません。
ただ、 部屋ごとの明確な機能分化がない代わりに、 かつての住まいには、 持ち込んだものは元に返すという大原則がありました。 ですから、 茶の間の卓袱台(ちゃぶだい)の上では何をやっても許されたのです。 それが戦後の高度経済成長の中で、 消費生活のみを楽しんで物質的豊かさを求めるあまり、 押入にしまえないものを部屋中に置き去りにして、 住生活を豊かにすべく考えられた室礼の本質を曲げてしまったのです。
図 住宅における転用性
自宅で、場合によってさまざまな用途に使われている部屋を探し、その使われ方を時間の流れに沿ったフローチャートにしてみよう。
高い住宅価格や慢性的な土地不足といった制約の多い住宅事情の中で小規模な住宅を建設する場合には、 おそらく融通性のある日本的合理主義を学ぶことで、 空間の利用法について有益な示唆を得ることができるでしょう。 そうすれば、 小さな空間であっても十分心理的余裕を生み出すことで豊かさを演出できるはずです。
さらに、 和風の原理の研究から、 見せかけの洋風でもどっちつかずの折衷でもない「進化した和風」とでもいえる新しいコーディネートのあり方や、 ものの豊かさを前提としない、 西洋的なインテリアコーディネートの概念を超えた新たな「シツライズム」を発見することができるかもしれません。