京都ダウン症児を育てる親の会(トライアングル)会報


(2011年8月号 掲載)
牧口 一二さんの講演会(2011.6.19)のテープおこしです。

歩かれへんけど歩いてる

……素晴しきかな、障害者の世界…… 

牧口 一二

(牧口さん、電動車椅子で登場して、椅子を高くする)

 この電動車椅子ね、なかなかのスグレモノで座席が上がるんです。このように高くしていったら後ろの方の顔もよく見えます。上から目線ではないんですよ(笑)、人間というのは言葉だけじゃなくて、顔の表情でも語ってます。これからしばらくの間、お付き合いいただくわけですけど、ボク、ひょっとしたらウソを言うかもしれません。そのときに顔の表情に出てくるんです。だからボクの表情で、「あ、今、あいつウソを言うたな」とか、「ウソついて格好よく見せようとしてるな」とか、そういうことをどうか見抜いてください。

 この車椅子ね、このまま動いてくれるといいんですけど、上へあげてしまうと動かないんです。安全面を考えてくれてるんでしょうね。日本はね、だいたい障害者をあまやかしすぎ、というか変なところに親切でね。こういう道具がね、安全、安全第一と。「そこまで心配してもらわんでええ」ということがいっぱいあるんですよ。エレベーターがそうでしょ、車椅子マークの付いたほうのボタンを押してみてください。閉まるのに時間がかかる。後で「しまった、押してしもた」と思ったり。上の健常者用のボタンならもっと早く開け閉めできるのに。危険防止なんでしょうけど、障害の程度によるわけで、ボクにはありがた迷惑ということが結構あるんです。まぁエレベーターのドアがゆっくり、というのは、そのほうがいいかもしれませんけどね(笑)。

 いま節電で大騒ぎですね。本当は原発がなくても電力はあると思うんです。難しく考えなくても、みんなが普通に生きればね。たとえば、夜は寝たらええんです。夜中の2時、3時まで起きててテレビ点けてるほうがおかしい。夜中のテレビはやりすぎやね。民放もこぞって同じ番組をやってる。タレントもみんなあちこち回してるだけや。この際、ボクたちはもう一度、自分の生活を省みるということをやる時期にきていると思います。

どこかトボケタお袋に育てられて
 今日は、障害についての話を聞いてもらおうと思います。ボクは1937年生まれで、もうすぐ74才です。ボクが障害をもったのが1才の頃で、ちょうど日本が戦争をはじめる時でした。ご存知の方もおられるでしょうが、盧溝橋(ろこうきょう)事件といって中国の橋で日本の軍隊が戦争をしかけたて、そして戦争が起こった。その年の12月に新聞が「勝った、勝った」と大騒ぎした。ボクはそれを大人になって知るんですが、そのときに南京大虐殺があった。国内にはそんなことはぜんぜん知らされなくて、日本国民がみんな「勝った、勝った」と喜んで提灯行列をしていたわけですけど、中国の人たちを大量に虐殺していた。戦争というのはそういう恐ろしいことなんだ、人間が人間でなくなることなんだということです。

 ボクは日本が戦争に負けたときの玉音放送を覚えているんです。福井の山奥に、ボクと妹と母親の3人で疎開していました。親父は大阪で仕事をしてて、2つ上の姉は学校から集団疎開で奈良の吉野に行ってましてね、大阪が危ないって言われても、ボクたちはどこにも逃げていくところがなくて、縁故の縁故の縁故の友達の縁故の友達の……といった福井県大野郡の山奥に行ったんです。まったく縁もゆかりもない人の家にお世話になりました。庄屋さんのお家だったんですけど、だからお袋がもの凄く苦労したみたいです。慣れない畑仕事をして、山奥ですからマムシが出てくるんですね、マムシが怖かったという話をしてました。その庄屋さんのお家に納屋があるんですが、そこに大蛇がとぐろを巻いてて、時々カエルを食べに出て来てました。そういうところに疎開してて、ボクはだいたい庭で遊んでたんですけど、ある時、ご近所の大人が神妙な顔して入ってくるんですよ。庄屋のおうちにですね。雰囲気がいつものと違う。「何かな〜」と縁側から大広間のほうを見ていると、大広間でみんな正座して、庄屋さんがみんなの前に座布団を置きはるんです。その上に何を置くかと思うと、ラジオを置くんですね。玉音放送です。何を言ってるのかボクは分からないけど、みんな神妙に聞いてはるんです。そのうち大人の人がぼろぼろ泣きだすんですよ。一通り終わって、お袋がボクの所に来たから、「お母さん、何かあったん?」と聞いたんですね。すると お袋が、「あんな、今、日本が戦争に負けて、赤鬼と青鬼が攻めて来てな、子どもと女の人から食べていくんや」と言うんです。これは、後で考えたら、「鬼畜米兵」と言われていたことを子どもにわかりやすく説明しようとしたのかもしれません。でも、本気でそう思っていたのかもしれない。それほど日本が閉鎖された社会の中で生きていたという事です。つまり 本当の情報は与えられなくて、みんながお上のいう事をそのまま鵜呑みにして生きていた、そういう時代。まぁ、だいたい戦争はそういう時代に起こるんですけどね。

 後で、お袋がああいうふうに言ったのは、鬼畜米兵の事やったんやと思ったんですね。お袋は「青鬼と赤鬼」と言いましたね。しかも 「女と子どもから食べていくんや」と聞いたんです。その時、ボクは7才か8才位でしたが、子ども心に覚悟を決めていたんですね。「お袋が食べられる前に、ボクが前に出て先に食べられてやろう」と。その時のボクの気持ちというか覚悟は、ほんと忘れられないですね。

 そういう時代に生きてきましたから、ボクは戦争というのがどうしても虫が好かないのです。障害者として、1才の時から足が動かない人生をもらったでしょ。お袋はのん気者で、全然気にしないで育ててくれたんです。ボクが大人になって障害者の運動を始めてから、障害を持った子どもを育てて、しんどい事がいっぱいあって自殺を考えたとか、心中を考えたとかの親の手記がよう出てくるのですよ。ボクも、お袋はボクと一緒に死のうと思ったのかな、と気になって、時々聞いてたんですよ。「お母さん、ボクが障害を持った時にどない思った?」と。すると、「さぁ〜、そんな前のこと忘れたなぁ」と言うのです。その「忘れた」がね、ほんとうに忘れたのか、それとも嫌な思い出やから忘れたくなってるのか、子どもに言いたくないのか、その3つの、どれか分らんのね。分らんから時々聞くんですよ。今度は違う事を言うてくれへんかな〜と思 って聞くのですが、いつも、「忘れたなぁ、そんな小さい頃の事」というのです。ボクのお袋の、 トボケっぷりからすると「忘れた」も割に当たってるかも。そこのところが、ボクがあまり問題を持たないで生きてきた証拠かもしれないなぁと思ったりするんです。

精神と肉体がバラバラになった体験
 大人になっても、そんなに問題ってあるのかな、と思っていた。ボクなんて、足が動かないことくらいでしょ。足が動かんぐらい、ほんまに大したことない。障害者の中に入れてもらうのも申し訳ないくらいやね。ボク、障害者になるのが嫌ではないんですよ。どちらか言うと、障害者と言われるの好きね。好きなんやけども、障害者ヅラして生きてるのがちょっと申しわけないなと、どこかで思ってるんですよ。だから、ボクは普通の人より障害者運動に入るのが遅れてますねん。もうちょっと自覚があったら良かったんやけど、なんか障害者の立場でもの言うのは恥ずかしくて、障害者の立場でものを書くのも馴染まなくて、正直なところ、ボクは自分を障害者とあまり思っていませんでした。そういう育て方をしてもらって、大人になってみたら、世の中にはいろんな障害を持った人が生きてくれてるのね。嬉しかったですね! ボク一人と違うというわけですから。本当に嬉しくて、早く仲間に入りたくて、どこかに障害者のグループはないかとお袋に言うてたんですよ。そしたらある時に、お袋が「関西テレビで障害者の人達が出てた」と言うのです。「女の人が車椅子に乗っていてな、会長でな、手でこぎながら車いす動かしてはったで」と言うんです。

 当時、まだ車椅子で町に出る人は珍しい時代でした。しかも、女の人というわけです。相当な人やなぁ、とボクは直感でそう思ったんですね。ぜひ、その人と連絡を取りたいと、「どこのテレビやった?」と聞くと、「確か、関西テレビの『小川宏モーニングショー』でやっていたわ」とのこと。そんな番組、知っている人います? あっ、手が挙がった。ボクとそう年が変わらへんね(笑)。もう 70才超えてはんの?(笑)  そうじゃない? あの番組、結構続いてましたもんね。それで、関西テレビに電話したんです。「まごころの集い社」というてね、鷲谷京子という女性を紹介してもらったんです。それで、ほんとうに嬉しかった。けど、「まごころの集い社」というグループ名が嫌やったね。「トライアングル」ぐらいやったらよかったのに(笑)。 「まごころ」なんて、ボク、どっちかいうたら大嫌いなんですよね。「愛」って言葉も使うの照れくさいでしょ。それと同じ感覚です。「わぁー、いややなぁ〜」思ったけど、まぁ、女性が一生懸命に作られた会だろうから、と思い直して行ったんですよ。

その頃、ボクは就職をしてましてね。就職をする時も大変な思いをしまして、こんな足ぐらいで就職できないとは思いもしませんでした。その話を始めたら、それだけで日が暮れてしまうので、やめておきますが。それで、会社の同僚に、この日は大事な人と会いたいから、ちょっと早引きさせてくれと頼んでね、指定された時間に会長さんのお家まで行ったんです。「若い人が入ってくれて嬉しい」と大歓迎してくれて。ボクも若いときがあったんですよ(笑)。「次の会合はいつですか?」と聞いて、行く約束をしました。次の会合は、会長さんの家の近くの小学校の理科室ってことで、ボクは嬉しくてルンルン気分で行ったんですよ。そこには、みんな障  害者の人が集まってはったんです。当時ですから、まだ、ほとんどが車椅子なんか乗ってない。ボクみたいに松葉杖をついて歩いてる人とか、ちょっと背が低い人とか、カリエスで背筋が曲がってる人とかね。ほんと、今でいうたら、障害者の中に入れられへんようなタイプの人。そういう、障害の軽い人は問題がないのかというと、軽いは軽いなりの問題がある。だから、みんなで助け合って、励まし合って生きていこうと思っているグループに入ったのです。

 ボクは仲間が出来たということで嬉しくてね。そしたら会長さんが、「牧口さんという新人で、まったく男前やないけど歓迎会でもしたろやない」と言って、「時間のある人、一緒にお寿司食べに行こう」と言ってくださって、ボクも「ええ!そんなことしてもらえるのですか?」と大喜びしたんですね。会場の小学校は、玉出と粉浜を結ぶ商店街の中にありましてね、学校を出たら商店街なんです。20人近い障害者がぞろぞろと商店街を歩くわけね。ボクは一番後ろを歩いていたんですよ。入りたてやし、遠慮もあるしね。そういう状態になったとたん、何が起こったかというと、ボクの体に矢が刺さってくるんです。周りを歩いている買い物客の視線なんです。それが痛いの。「なんやこれ!」と自分でも思うんやけど、とにかく顔を上げていられないほど恥ずかしい。ボクは顔を伏せて、松葉杖ついて、「早くお寿司屋さんに着かないかなぁ」とついて行ったんですよ。やっと、お寿司屋さんの前に来て、順番に入ってボクが最後に入って、友達がドアを閉めてくれた。そのとたんに、ホッとしたの。あの体験は忘れられへんのです。あの突き刺さった矢はなんやったか、分かります? それまで、ボクはずうーっと松葉杖で人生やってきたんですよ。皆からジロジロ見られて当たり前の生き方してきたわけです。そのボクがね、仲間を求めて自分から仲間のところに行って、みんなと一緒に食事に行こうと誘ってもらって、大喜びしてて、商店街に出たとたんに、グサッと通行人の矢が刺さってくるんですよ。なんなんでしょう、これ。

 つまりね、ボクの中にあった“優越感”なんです。「ボクは学校出てる。学校もそこそこの成績で出てる。他の障害者とは違うんだ」と、どこかで思っているんですよ。だから、障害者という世間からいう弱い立場の集団の中に自分が混じっていることが我慢出来ないのね。ボクの思いとは裏腹にボクの体が我慢できない。だから、こんな現象が起こる。自分で徐々に分かってくるんですよ。俺はなんというものの考え方、いけない考え方をしているんや、というのが分かってくるんです。分かってくるけど、体がいうこときいてくれへんのです。

 その時からです。人の話を聞いて、「分かった」と思わないでおこうと決めたのは。頭の中で分かってても体で分かってなかったら何にもなれへんということを、その時いやという程、思い知らされたわけです。人のことを分かるとか、「あー同じや」と思えるのは、お腹の底から思えないと分かったとは言えない。口先とか、見せかけなら、いくらでも嘘をつける、騙せるわけです。人間は、そういうややこしい生き物なんです。だから人の話を聞いて、分かったなんて絶対に思わんといてください。自分で感じて、体も分かった時に初めて「ほんまかウソか」が分かるんやと思います。

 ボクはね、それを幸いにも若いころに気づかせてもらった。だからといって、そういう貴重な体験をさせてもらったからといって、ボクが物事を全部分かった人間になったかというと、そうはいかない。それは、常に自分に言い聞かせないとあかんことでね、「ほんまにお前は分かっているのか?」 「体中で分かっているのか?」ということを、自分で自分を問いかけるしかないのです。その作業はめんどうくさくてもしなければいけない。そうでないと、人間は腰が浮いてしまうし、嘘がつけるし、信念が持てなくなる。今の日本が、ほんまにそんな状態。政治家を見てください。誰が信念持ってもの言うてくれてる? 私たち庶民に向かって。悲しいけど、向いてヘンでしょ。昨日の海江田さん、「原発は安全ですから運転してください」と、平気な顔して言ってる。あれね、私たち庶民を前にして言おうとしたら絶対に言えない言葉よ。じゃ、あの言葉は誰に向いて言ってるわけ? つまり、企業に向かって言ってる。企業が「電力がいる」と言うから、だから、仕方なしに言わされてはるわけでしょ。しかも、節電とか、原発やめたら電気代が千円ずつ上がるとか、マスコミなどでそんなこと言うてますやん。マスコミも情けない。あんなのは原発を残すためのキャンペーンですよ。なんでそんな嘘をね、みんなに振りまかなあかんの? マスコミもなってない。一社でもいいから、信念持って自分の本当の事を言え。言えてないでしょ。言うたら、自分とこの新聞がつぶれるとみんな思ってる。ボク、こんな民主主義おかしいと思う。あーまた、話しがどこかにそれてるね(笑)。

 今の社会を見てて、ついカッカとなってしまうんやね。昨日の海江田さんの、のうのうとしたものの言い方。あの表情見ててね、今、放射能で「危ない危ない」言ってるでしょう、ボク、あの人放射能より怖いわ。ほんまに。人間がね、人に向かって平気な顔して、顔づらも変えないで嘘がつけるなんてね、こんな恐ろしいことないですよ。私たちは見抜かなあかん。見抜く力ぐらい持たないと、えらい目に遭うという思いがつい出てしまう。ボク、こういう激しい話は今日するつもりはなかったんですよ。つい出てしまって。ごめんなさい。つい、思ったこと言う。小学校3年生、4年生とボクと一緒。ボクねえ、3年生、4年生、大好きね。もともと、ボクが小学校めぐりを始めたきっかけが、そこなんですね。

小学生たちとオシッコ・ウンチで大騒ぎ
 訪問した小学校が、900校を超えてると思います。中学校で600校ぐらい行きましたね。なんで小学校が大好きになったか、というと、障害者の運動をやってる全盲の友がおりまして、そいつが講演をやってたんです。ボクはまだ遠慮を知ってる人間で控え目やし、今みたいには破廉恥でもなかったんです。ボクみたいな人間が、障害者の立場で分かった風にもの言っていいのかな、ずうーっとそう思っていたんです。で、全盲の友が、ある朝になってボクのところに電話かけてきて、「牧さん今日、空いてるか?」と言うんですよ。もちろん、会社に行く予定やったんよ。彼は、「今日、小学校で講演を頼まれてるんだけど、どうしても熱が下がらへん。今から中止というのも可哀そうやし、代わりに行ってくれへんか」と言うんですね。大人にやったら、ボクの分らん話でも聞いてくれるやろうけど、小学生にどんな話をしたらいいんかな。
「何でもええから喋って来い」と言うんですね。しょうがないから、彼の代役で、彼を助けるつもりで、松葉杖ついて行ったんですよ。枚方の小学校だったんです。その時、体育館で待っててくれたのが、3、4年生。これが以後、病みつきになるきっかけだったんです。

 ボク、松葉杖ついて、子どもたちが待っている前へ、トコトコ行ったんですよ。で、「こんにちは!」と言ったとたんに、話しなんか全然させてくれへんの。質問攻め。「おっちゃん、何でそんなのついてんの?」 「これか?松葉杖いうて、足が動かん人がつくねん」と言うたんですよ。そしたら、「足、どうしたん?」 「小さい頃な、病気になってな、足が動かへんようになったんや」 「ふーん、おしっこどうするん?」 「おしっこは、ボクは男やから、チンポコあるよ。松葉杖ついて立ったまま出来るよ」 それで許してくれると思ったら、次は「ウンチは?」(笑)。 これね、ウンチって結構難しいのですよ。ボク、小さいころからウンチは苦労しながらやってきたんです。子どもが率直に聞いてきたら、ちゃんと答えたい訳ね。そうなら、実演することになって、松葉杖ついてね、松葉杖の真ん中にグリップがあるでしょ、そこへ腕を入れて脇を乗せると、ボクはしゃがめるんです。そんな姿勢でウンチやる。そのやり方をみんなの前でやったんです。こうやってウンチするとポーズをやったらね、拍手が沸くんです(笑)。

 ウンチのポーズやってね、子どもたちから拍手もらったの初めてね。だけど、嬉しかった!子どもの率直さに。ボクもだんだん乗ってきて、「ボクもみんなのおしっこの仕方が見たいから、おしっこのポーズできる人、出て来い」と言ったんですよ。と、30人ぐらい出てきて(笑) 。それが、小学校の3、4年生ね。それで、ずらーっと並んだんですよ。「みんなの前でおチンチン出すのはあかんから真似だけしよう。手の指で自分のチンチンと似た大きさの指を決めろ」と言ってね(笑) 。「小さい人は、小指がいい。太い人は親指かな、嘘つくなよ」とか言って、「はーい、おしっこのポーズ」と言ったら、みんな一斉に指を出してやってるんですよ。ところが、一人だけ、ウロウロしてる子がいる。なんでかなと思ったら、女の子やったんです(笑)。女の子が思わず乗って出てきたんでしょうね。出て来て、いざ「おしっこのポーズ」と言われたとたんに、自分の性に目覚めて出来なくなっちゃった。「女の子やったらしゃがんでやったらええんよ」と言ったんだけど、その子は「いや」と言うて、やらへんのです。そしたら、横の男の子が「こうやってするねん」としゃがむんですよ。もう、可笑しかったの、愉快やったの。

 今日の講演のタイトルね、これも実は、3、4年生がボクにくれた言葉です。その日もいつもと同じように子どもたちの前に立ったんです。立つなり、挨拶もしないうちに、「おっちゃん、どうしたん?」と、一番前の男の子。「おっちゃん、足が動かんのよ。だから、松葉杖ついてるんや」 「あ、歩かれへんの?」 「うん、まあな」と言ったけど、「歩かれへんの」と簡単にかたづけられたら、ちょっとシャクにさわって、「まあな」と答えたものの悔しかったから、その子の前を松葉杖で右に左に動き回ったんです。そこで、「ボク、いま何をした?」と彼に聞いたんです。そしたら、「歩いた」 と言う。「そうやろ、いま歩いたやろ。キミはさっき、歩かれへんと言ったけど、おかしくないか?」と問い直したんです。と、そのとたん、「なんもおかしくないよ。おっちゃんは歩かれへんけど歩いてるねん」と、売り言葉に買い言葉の素早さで、なんともステキな言葉がボクに帰ってきたんです。「うまいこと言うなぁ〜」と、思わず彼に言うたんですよ。こんな素晴らしい言葉を、子どもが瞬間に発するんや。これね、ボクたち障害者を全部言い当ててますよ。“見えへんけど見えてる” “聞こえへんけど聞こえてる” “分からへんけど分かってる” みんなそうでしょ。

 つまりね、人間の価値とは、そんなヤワなもんと違うんですよ。 “出来る、出来ない”、なんてどうでもいいんです。いろんな方法で出来る。いろんなやり方がある。そんなこと、知ればいいだけの話であって、「出来ない」と決めつける人より、ずーっと豊かですよ。障害者問題は、ほんまに楽しい問題や。そういう問題を我々に投げかけてくれたのは、神様かなとボクは思ってますねぇ。実は、隠したらいかんから言いますけど、ボクはキリスト者なんです。ところが、普段はキリスト者とは言わないんですよ。なんでかというと、言った途端に、「ああ、やっぱり」とか、「だから、こんなふうに考えるのか」と思われてしまうんですね。そうしたらね、ボクが伝えたい本質が全然違うとこにいってしまってですね、宗教の話になってしまう。それが嫌やから。今日はそんな顔してる人いないから、喋らしてもらうけれどね。

「小児まひ」仲間にもいろいろありまして
  ボクが,障害者運動を始めた時に、脳性まひの人たちの「青い芝の会」という運動に出会ったんです。皆さんの中で、「青い芝の運動」というのをご存じの方いらっしゃる? 脳性まひの人たちが起こしてくれた運動なんです。よくぞ起こしてくれた。強烈やったのは、ボクがキリスト者になってから、会の仲間に入って運動をはじめようと思った時にね、青い芝の人たちが、「親は敵だ」と言い出したんです。もう一つ強烈だったのは、「愛と正義を否定する」でした。堪えたぁ〜、ほんまに堪えた。ボクね、脳性まひ者の青い芝の運動をもの凄く尊敬してたんですよ。ボクはポリオなんですが、ポリオと脳性まひを同じものとされることがよくあるんです。両方を含めて「小児まひ」という言葉でくくられてしまうことがあるからなんですがね。ところが、小児まひといっても、ポリオと脳性まひは全然違う病気なんです。原因も違うしね。私は伝染病。脳性まひの人は、出産の時のいろんな手違いで起こる症状。根本から違うんです。ところが、両方とも運動神経がまひする病気で、知覚神経は生きてて、運動神経がやられて体が不自由になっていく。しかも、子どもの頃に罹りやすいから、「小児まひ」という言葉で言われるようになったのね。だけど、脳性まひの人は筋肉も思うように動かなくなる。脳性まひの人が喋ると、「うううううう。」と、聞き取れない言葉になってしまう。それと、体がくにゃくにゃでしょう。だから、ぱっと見た人は、物が考えられない人だと思ってしまうのです。ボクは小児まひの仲間がそういう誤解をされているのは辛いわけです。「辛いやろうな」と思っているから、彼らが発する言葉は「ホントや」と思えるわけ。だから「愛と正義を否定する」と言われたときも、ホントやと思った。ものすごく美しい言葉やと思った。「親が敵だ」と言った時も、ホントやな、美しい言葉やなと思ったんですよ。思ったけども、ボクの日常生活とは矛盾するわけ。ボクが「親を敵や」と思ったことは一瞬たりとてない、ほんまにない。

 ここに来られているみなさんの中で、「何で私を障害児として産んでしもたん?」と子どもから言われた人います? まぁ、この中にはおられないかな。たまにはね、そういう人もおられるらしい。だけどね、ボクはそんなものの感じ方、考え方をする子には育てられなかった。ホント、ボクにはありがたい親やった。親父もそうだったし、親父よりもお袋の世話になっていますけどね。「何でおれを生んだんや」とか、「何でこんな体にした」とか思ったことは一度もなかった。それを思えば思うほど、「親が敵だ」とは言いたくない。ボクは口が裂けても、そんな言葉を自分の口から吐きたくない。だけど、彼らが何を言おうとしてるかは分かる、感じてはいるんですね。それがちょうど、ボクがキリスト者になろうとしている頃だったんです。愛と正義をキリスト教から取ったら何にも残らない。困ったなぁ〜。ボクは洗礼受けたところだのになぁ。そやけど、仲間の「愛と正義を否定する」という言葉もすごく分かるし、信じれるしなぁ、と思うわけです。この矛盾で、ものすごく悩んだ時がありました。

 「親が敵だとは、どういう根拠から出てるんですか?」と聞きたいんですけれど、ボクは学友たちに助けられて、グラフィックデザイナーの仕事にやっとありついた時やったんです。そんな時に、青い芝の会を訪ねて行くとしますね、「お前、なにしとんのや?」と訊ねられたら、「あの、グラフィックデザイナーなんです」というと、「あー、資本主義の奴隷か」と言われる気がするの。資本主義がどやこやとか、労働運動がどやこやとか、激しく言い合ってたそういう時代なんです。今やったらそんなこと言う人は少ないけど、当時はそういう時代。ボクが高校生の時に、60年安保。それから10年して、70年安保。その間がそういう時代だったんです。青い芝の事務所に行って、「お前、資本主義の奴隷やったら顔を洗い直してから出てこい」と言われたらどうしようと思うわけです。障害者ってね、なかなか仕事にありつけへんのですよ。それを奪われたら、ボク、どないしていいかわからへんのです。だから、怖くて行けなかった。

 青い芝で建前論だけじゃなく、本質で柔らかなものの考え方ができる人は誰かおらんかなと友達に言い続けたんです。そしたら、青い芝と親しい友が「一人紹介してやる」と言ってくれた。ボクよりずうーっと若い青年でしたが、その青年が、「俺でいいなら、話し聞いたるで」と言ってくれて、私の家に招いてね、ビールが好きな人で、一生懸命注いだんですよ、本音が聞きたくてね。夜中の3時頃、「おれ、眠たい」と言いだしたから、「キミと今までずうーっと話してて筋が通ってるけど、グッとくるものがないんよね。迷いはないんか? 迷ってること何でもいいから言ってくれないか?」と聞いたんです。彼はしばらく考えてて、「やっぱり親かな〜」とぽつんと言うたんです。「親が敵だ、いうお前がやっぱり親のことで一番悩んでるんか?」と言うたら、「そりゃ親やもん」と言うんです。「あー、俺、お前と一緒に運動出来るわ」と言ってね、青い芝への垣根が無くなったんです。それから怖くも何とも無くなりました。その代わり、言語障害を聞きとるのが大変苦労しました。やっぱり、毎日付き合ってる人は、何であんな言葉が分かるんかな、という言葉を、みんな聞きとるんです。ボクには分からへんの。運動も激しい時やから、「分かるまで聞け!」と言われるわけね。「分かりました!」と言うのですが、それが、分からへんのや。それでも、一生懸命聞くようになりました。今でも彼らとばったり会って話しするでしょ、やっぱり分からへん。「もう一遍、言ってくれ」というと、「お前、俺としばらく付き合いがなかったからなあ〜」と嫌味を言いよるんよ(笑)。 だけど、脳性まひの障害を持ってる人って、素敵やね。揺れる身体が一つの美ですね。健常者の舞踊家でね、自分の体を真っ白に塗ってね、脳性まひみたいな踊りしてる人おりますでしょ。脳性まひの人、あんなん練習せんでも出来ますやん。凄いね。というのが、 ボクの見てる障害者の世界。

ボクの障害をあらためて自己紹介します
 ボクの障害を簡単に言います。生後1年の時に、ポリオという伝染病にかかって、運動神経が麻痺しました。具体的にいうと、右足が完璧に麻痺してまして、付け根から全く動かない。左足は自分の意思で動かせるんですが、こっちも後遺症があってね、一本足では五秒も立てない。松葉杖を使うようになったのが10才なんですが、それまでは、地面を這って遊んでました。立てなかったのね。それから、左手と指が一番みなさんに近い状態。指も順に動かせるしね。右の掌は開かないのです。こうやって、振ってたら開いてくるのですが、自分の力では開きません。でも、生まれつき右ききだったみたいです。友達と野球やるでしょ。ボールを左手のグローブで取ってね、右手で放ろうとするんですが、右手で球が持てない。だから、左手のグローブをはずして左手で放るのね。で、右手でお箸を持てるようになりました。鉛筆も右手で書くんですが、力を入れたり抜いたりのセーブが利きませんから、一番いやだったのは書道の時間。書道は力を入れて、抜かないとあかんでしょ。抜く力が無いんですよ。ズバッといっちゃうのね。初めは大きな字を書いていたら、「牧口、元気な字やなあ」と言われてたけど、高校生になると「お前の字は幼稚やなあ」となる。きれいな字とか、はねる字や力を抜いた字とかは苦手でした。そういう右手をしています。それがこの頃になって、二次障害かな、だんだん手の動きが鈍くなってきて、今は、お箸を持っておうどんを食べられません。

 今日もお昼、おうどんをいただいたのですが、フォークを注文して食べました。ボクがよく行く大阪のビルの八階に、ちょっと有名で値段の高いうどん屋さんがあるんですが、急に食べたくなって、一人で天ぷらうどんを注文してお箸で食べ始めたら、そこの店員の女性がね、ボクの前をウロウロし始めるのね。で、遠慮勝ちにジロジロ見るんです。何か気になるんだけど、言いにくいなぁって顔してるの。ボクが「何かあったんですか?」って聞くと、「あの〜、フォークお持ちしましょうか?」と言うんです。それぐらいお箸からツルツル落ちていたんですね。ボクは何とかして食べようと思っていたんですけど、見かねたんでしょうね。「おうどんをフォークでね〜。木のフォークはある?」って聞いたんですよ。「そんなのありません」 「それなら、リハビリと思って頑張るわ」 「いいんですか〜」とかいう出会いがあって、それからボクは、自分から「フォークありますか?」と言ったら、お互いに楽になる話なので、どこでも「フォーク」と言ってます。
また、話しがどんどん横道にそれてしまいますね、すみません。

  ボクが「あーやっぱり障害者なんだよね」と思うとき
 さてさて、ボクの両手両足のことは分かってもらえましたか? 口はこれだけ達者です。目はまだ眼鏡なしで新聞が読めます。耳はツレが、「何べん呼んだら、返事するんよ」と、よう言われます。家、広いもんでね。2DKです(笑)。耳がちょっと遠くなってるかな。

 さぁ、そんなボクですが、ボクが日常生活で困っていること当ててください。どうですか?  ボクがお訊ねしている意味がわかります? もしもボクが困っていることを思いつかなかったとしたら、ボクは障害者でしょうか? 障害者とはどんな人のことをいうのでしょう? じっくり考えてみてください。 一番大事なことですから。障害者は見かけと違いますよ。見かけや能力の問題と違うと思います。一人の人間としてこの世の中で生きる時に、死ぬほど困る目に遭ったとき、その人は障害者と言われる。それ以外は障害者と違うんですよ。誰や、こんな“障害者”なんて、ええ加減な漢字あてて、私達に名前付けたんは! ほんと、おかしいでしょ。

 皆さんは障害者について、いろいろ考えてこられた人達でしょ。障害者問題を懸命に考えてきたタイプだと思うんですよね。それで、ボクの問いに対する答えは? 難しい? きっと、そういう視点が持てなかったからでしょうね。世間が言ってる“障害者”というレッテルに対して、それほど疑問を感じないで、「ああ、そうなんだ。私達もそのジャンルなんだ」と思って来たのでしょう。一つだけ困っている事があるんやけど。でも、この一つを当てるのは難しいやろうな。ボクも偉そうなことは言えません。人のことなんか分からへんよね。自分のことしかね。

 私が死ぬほど困ること、それは、突然、物事の流れが普通の流れと変わった時に困ります。つまり、ハプニングが起こったり、臨時のことが起こったら、ボクはたちまち、いわゆる“障害者”になってしまう。例えば、乗ろうとしてた新幹線が突然止まる。もう、ボクはお手上げ。まったく乗れません。何で乗れないか分かってくれますか? そんな状態なったことないでしょうからね。想像できないですか? 新幹線が止まるでしょ、それに乗ろうとしていたお客さんたちがいっぱいいるでしょ。極端な話、その日は新幹線が動かなくなったとします。ボクは東京駅に行って乗ろうとしたのだけどダメだった。しかたがないから、ホテルを探さなあかん。それで、慌てて電話帳を繰って探すわけですよ。探せばあるでしょう。けど、障害者と分かったとたんに、急のお客さんはなかなか泊めてくれないのです。これが、まず私が体験することね。普通の人だったら、そこそこ何とかいけるんでしょう。探しに探して、やっと見つかったと思ったら、だいたいラブホテル。男一人でも入れてくれる。それでも泊ったほうがいいから、泊るでしょ。あくる日、ちょっとでも早く帰りたいから早く起きて、始発に乗ろうと駅に行くと、ボクより早い人がいっぱいプラットホームに溢れてるわけです。前の日に足止め喰らった人たちでいっぱいになっているわけね。いつも座席指定を取っておくんですが、16両編成の全部が自由席に変わるんです。そしたらどうなります? 列車が着いたとたん、ワーと座席の奪い合いが始まるわけでしょ。ボクはそんなところ行かれへん。近づくこともでけへん、身の危険を感じる。1つ遅らす、2つ遅らすとなると、列車はどんどんやってくるけど、乗りたい人もどんどん上がってきて、列車に乗れる人数よりホームに上がって来る人数のほうが多い。ボクは気が遠くなるだけ。「いつになったら乗れるねん」となるわけです。だから、その日は棒に振ってしまう。

 もしも飛行機が急に飛ばなくなったら、切符を払い戻さなあかん。早い人はサーッと並ぶから、ボクが行くと一時間以上待たされることはざら。松葉杖で立って待てないから、ほとぼり冷めるまでコーヒーでも飲んでおこう、ということになる。コーヒー飲んで「やっと空いたかな〜」と行くと、「ただいまで終わりました」となるわけです。「臨時バスが終わりました」となってしもて、タクシー飛ばさなあかんことになるんです。

阪神淡路大震災で、ボクの価値観が変わった
 ボクは今、大阪の公団の14階建の7階に住んでいるんです。結婚前は、2DKの団地に両親と姉と弟と妹とボクと6人で暮らしていた頃もあるんですよ。8畳の間と4畳半があるんですね。8畳の部屋の中央にこたつ置きましてね、八方から足を突っ込んで寝るんですね。懐かしいな〜。で、結婚した当初は、その2DKに両親と同居していた時期がありましたが、ツレにしたら地獄やね。で、頭が上がらんようになって、いまに至ってます(笑)。

 そんな時期があって、やっと団地が当たったんです。ツレが抽選に行ってね。意気揚々と帰ってきて、「団地の7階に決めた」と言うんですよ。「何で7階に決めたん?」と聞いたら、「地震が起こった時に、14階は高いから、真ん中でポキンと折れたら7階が上に残る気がした。直下型地震で上からバシャンと潰れた時は、3階ぐらいまでは潰れて、7階は大丈夫という気がした」とね、面白いですね。そういうことでボクは7階に住んでいるんです。団地はワンフロアに19所帯あって、それが14階でしょ。もしも、下から火が出たとします。フロアの片方の端にエレベーターが2機と非常階段。反対側はエレベーターなしの非常階段。火が出たらどちらかの非常階段に走ると思うんです。そうなった時に、ボクがどうするかということ。じつはボクは諦めていたんです。水臭いなぁと思われる方がおられるかもしれませんが、ボクも人間でしょう。逃げたくて、松葉杖ついて非常階段で下りて行こうとしますね。ボクの降りるスピードと健常者の逃げるスピードは全く違います。最初の何人かはボクの横をすり抜けて通ってくれたとしても、いつまでもすり抜けてくれませんよね。ボクにぶつかる人が出てくる。で、ボクがもんどり打ってこけますね。こけた途端に松葉杖が飛んでころがり、それに引っかかってこける人が出てくる。つまり、ボクがみんなと一緒に逃げようとすることで、事故が大きくなることが目に見えてるわけです。それならボクの常識として、みんなが逃げられた後で、ゆとりがあったら逃げようか、ということになるわけです。ずうーっとそう思ってた。その時に阪神淡路大震災が起こったのです。

 あの時にテレビで忘れられないシーンを見ているんです。どこの放送局だったか分からないんですが、2日目の頃やったと思う。瓦礫があって、そこをテレビカメラが映してた。瓦礫がゴソゴソ動き出して、下から男の人が這いあがってきたんです。おそらく、その家の主かな。上に出るなり、下に向かって自分の家族の名前をワーッと呼んでいたんです。呼びながら、必死になって瓦礫を剥がしていました。「あー」と思って見ていたんです。ところが、いくら呼んでも下から応答が無いんです。そんな時に隣の家あたりから、「助けてー」と声がしたんです。そのお父ちゃんらしき人、どうしたかというと、「助けてー」と声を聞いた途端にね、自分の家族が埋もれているのがわかっているのに、その手を止めて隣の所に飛んで行って、隣の瓦礫を剥がし出したんです。ボク、あの時涙出ました。人間、凄いことが出来るんや、と思った。私たち、自分が大事、自分の家族が大事と思ってませんか? いざとなったら、余計それがひどくなると思ってるでしょ? 違うかもしれない。人間って、助かる可能性のある人を助けようとするようです。他人も自分の子どもも関係なくなるみたいね。この人間の凄さ、全部が全部そうやとは思わないですけど、8割ぐらいはそのような気がします。後の2割はね、どんなになっても自分中心から抜け出せない人がいるんだと思う。そんなの、全部が全部そうはならないですよ。ボクはそう思う。それをテレビの画面から目の当たりにしたんです。「あの人、凄い!」と思ったんです。それからは水臭い考え方はやめようと思いました。助かるかどうか分からへんけど、ボクも助かりたいから、廊下までは出よう。そして、叫ぼう。 「足が動かんのですけど、助けて欲しいんです。誰かボクを助けてくれる力持ちはおりませんか? 誰かボクをおぶって助けてくれませんか?」と、とにかく言ってみよう。その時に、ボクの横を走り抜けながら、「ごめんな。俺は子どものことでいっぱいや」と言われたら、「どうぞ、どうぞ。子どもさんを大事にしてください」と、すぐに言える自分でおりたい。通り過ごした人がいても、その人を怨むということはしないでおこう。だけど、ひょっとしたら、「俺が背負ってやるぞ」と言ってくれる人がいるかもしれません。「そんなら、お願いします」という感じの、そういう人間の関係を作っていきたいなぁと思うのです。これが、人間が生きるということじゃないのかと思うんです。

なんともステキな障害者の世界なり
 最初に戦争が怖い、いやだと言ったのは、戦争が起こるとね、やっぱり障害者は「邪魔もの」と言い出すんですよ。「役立たず!」 「邪魔もの!」とかね。もっとひどいのは「穀つぶし」 「無駄飯食い!」。これが人間なんですよ。これが人間の残酷な面だけど、それもみんな窮地に立ってるということでしょ。戦争という状況の中で、食べ物が無いわけですよ。自分の家族に分け与えるお米もない。そんな時に、「何で、あの人おるねん。一口多いなあ」。ボク、一口多い人間です(笑)。やっぱり急場になったら、障害者は人間では無くなってしまうんやろなという恐怖感がボクにはあるんです。そんな時に、地震が起こったりすると、ボクは震えるんですよ。だから、阪神淡路大震災の時は、「あー、神戸の障害者たちはどうしてる?」と思いました。友達もおるしね。あの時、電話が通じなかったけど、FAXが通じた。1つ目のFAXは、屋根が落ちて障害者の女性が死んでしまったというものでした。第2報にびっくりしました。「ふだんの助け合いのネットワークからいち早く届いた救援物資の食料を選び出して、大きな鍋を出して、炊き出しを始めてるんです。今、寒いやろう。地域の人に豚汁を配ってるねん。いつも、お世話になります言うてな」。その2発目の情報に、どれだけ勇気づけられたことか。ああいう時って、障害者は立つ瀬ないなぁと思っていた一人ですから、「やってくれてるやない!」と思ったんです。ボクの体の中からむくむくと力が湧いてきました。じっとしていられへん、なんかやらなあかんなと思ったんです。で、すぐに難波に行きました。

 いつもの障害者仲間と、「おい、こんな時に障害者はなんにもできないって言われたらシャクやろ。なんかやろう。世の中の役に立つこと何でもいいからやろう、何やろか?」と言った時、「カンパの箱ならあるで」と。「おお、それやろう! マイクもあるし、ノボリもある」。すぐにグループで高島屋の前に立ったんです。ふだんは私たち、バケツを並べるんです。丁寧なカンパ箱でやったら、お金入らへんのです。カンパ箱をていねいに胸のところに掲げていたら、目が合うでしょ。カンパしたいと思ってる人も、やめとこと思ってしまうようです。一番いいのはバケツ。バケツを並べるんです。そうすると、「チャリン」と音がするんです。現代人は「チャリン」に弱いよね。これはボクが言いだしたんではなくて、滋賀県の止揚学園の福井達雨さんが言ってました。「道を歩いていて、チャリンという音で振り向かない人はいない」と本に書いてある(笑)。それをカンパに利用したんです。チャリンと鳴ったとたんに、みんな入れるの。しばらく素通りがあって音がしない時は、仕方ないからバケツ蹴りますねん(笑)。バケツ蹴ったら、ジャリンと音がするんですよ。そしたらまた連鎖反応で入れてくれるのね。

 あの時はカンパ活動を2時間やったんですよ。いちばん人の多そうな、お昼の2時から4時ぐらいまで。いつもなら、小銭でチャリン、チャリンですけど、あの日は違いました。みんな向こうから、ポケットに手をつっこんで、お札を持って来るの。こちらは何にも言ってないのに向こうから来るんですよ。じーっと座っているだけで、パッパッとお金が入って来る。しかもお札が。2時間で60万円集めました。これをどうやって役立てようという話しになってね、情けないことにボクらにはすぐ役立てる力が無くて、ある新聞社に託したんです。託したんやけど、何となく気分がすっきりしないんです。それで生まれたのが、『ゆめ風基金』なんです。「同じ助けるんやったら、障害者の人を助けようやないか」ということでね。

 これは、逆に小さい話に聞こえるかもしれないけど、そうじゃなくてね。障害者は緊急事態が起こったら、みんな後回しにされる。耳の聞こえない人や、目の見えない人はコミュニケーションで困るでしょ。ビラが分からへん、アナウンスが聞こえへん。おにぎりを配るのにみんなが並んでいても、何で並んでいるのか分からないですよね。それで何となく仕切っているような役所の人に聞きに行く。すると、「今それどころじゃないんです」と言われる。「それどころやない」とはどういう事なんかというと、「全体の事を考えてください」という事になってしまう。だから、個人的なことはほとんど聞かれなくなってしまう。悲しいけど、仕方ないと言えば仕方ない。起こりうること。それなら、自己防衛するしかないでしょ。車いすの友達が、避難所に行ったら、避難所には車いす用のトイレがなくて、半壊してる自宅まで戻ってしまったという人が何人もいてる。今度の東北の地震でも同じケースが起こってる。まだ、同じようにやってるわけ。今度は、「あなたの来る所やない」と言われている。なんということや、これ。そういう状況です。

 世の中を変えないとあかんのですが、そんなに簡単に変わらへん。20年、30年では変わらへん。ボクたちは障害者運動やってきて、まだ40年そこそこ。だけど、やっと地域に障害者が住んで、障害を持っていることが恥ずかしいことではなくなった。町をうろつくことが、どうのこうのといわれることがなくなった。けど、まだまだ意識を変えるのは大変な仕事。みんながちょっとずつ、ちょっとずつ自分自身の意識を変えて世の中を変えていくしかないのね。遠いようですが、それをやっていくうちに何とかなる。ボクたちが誇りに思わないかんのは、ボクたちが一人でもたくさん参加していけばいくほど、世の中が人間らしい世の中に変わる。人間らしくなっていく。それは断言してもいい。「牧口さん、どうしてそんな大きな口をきけるんですか?」と言われたら、徹夜してでも説明してあげる。それぐらいね、障害者って豊かなんです。「人間はいろいろ生きてるよ」と私達は言いたがってるんです。神さんから、ボクはキリストやから神さんになってしまいますが、神さんか誰か知らんけど、よくぞ身体障害者と精神障害者を世に与えてくれたなと思っています。

 身体障害者だけやったら、世の中の障害者問題はもうとっくに解決している。だって、やらないかんこと分かっているもの。そうでしょ。ボクの場合は足の代わりを見つけたらしまいや。ボクが生活しにくいことを、しやすくしてくれたらいいわけや。目が見えない人は、目が見える代わりがあればいいわけ。耳が聞こえない人は、耳の代わりが見つかればいいわけ。そんな難しい問題と違う。ところが、精神障害の人がいてくれるおかげで、「人間ってどうなっているのかなぁ」と思うわけですよ。知的障害はちょうどその真ん中にいるんだけどね、これもまた微妙な神の思し召しや。ボクから言えば、やっぱりみんな割り切ったらあかんねん。微妙な真ん中がいなければあかんわけや。どっちつかずの人たちもいてくれて、私達もいる。割り切れることばっかりと違うんやな、空気自体が大事なんやなという事が分かってくる。知的障害とか精神障害とか自閉症とか言われてる友達の、なんと空気を読むのの早いこと。一瞬のうちにその場の空気を読んじゃう。だから、敏感すぎてああなっているのかなと思いますね。特異な才能が出てきたりね。10年先のカレンダーが分かるという人がおるんやけど、どうして分かるか分からへん。『きらっといきる』というテレビ番組をやっていたら、そんな人、たくさんおりますねん。それほど素晴らしい世界なんです。障害者の世界は。(ひとまず終わり)

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