京都ダウン症児を育てる親の会(トライアングル)会報
(1998年8月号 掲載)
講 演
「楽しくなる子育ての話」(前編)
−山田真さんの講演のテープおこし−
おはようございます。日曜日の朝早くにお集まりいただき有難うございます。私は東京の八王子というところで仕事をしていますが、京都は好きな街で、講演だけで来るのはもったいない気がしますが、今日は雨でしっとりとしていい風情を味わわせてもらっています。今日はいろいろな方を対象に「子育て」について幅広い話をという事で、あまり風呂敷を広げるとどっちつかずの話になるのではないかと心配ですが、自分が日頃思っている事を話していこうと思います。
先々週の水曜日でしたか、松田道雄さんが亡くなられまして、新聞社からいっせいにコメントや原稿の依頼がその日のうちに来ました。こういう時には新聞社がコメントを依頼するのに順番がありまして、一番が毛利さんで、次が私で、その時に毛利さんは海外旅行中だったので私の所へ集中して電話があったようです。京都新聞からも原稿の依頼が来まして、京都新聞から話があるのはめったにないことです。あらためて思ったのは、松田さんがお書きになった「育児の百科」というのは多くの読者に読まれたと思うのですが、それぞれのお母さん達の中には膨大な数の松田さんがいるだろうし、松田さんのようにたくさんのお母さん達と対話をなさった小児科医はないだろうということです。つい2〜3年前に大阪のお母さんから私の所に電話がありまして、「私は子どもの時にずっと松田さんに診てもらっていて、大人になって母親になっても何かあると松田さんの所に電話をして教えてもらっていたのだけれど、今回電話をしたら、自分も医者をやめて長いし、新しい事もわからなくなったので、山田さんにでも聞いてみたら…」と言われたのでこちらへ電話をしたという話でした。本当に亡くなられるまで、ずっとお父さん達やお母さん達に電話や手紙で相談をしてらしたと思います。
そういう人なのですが、小児科医の中では評判が悪いのです。毛利さんも評判が悪いし、私も評判が悪いと思います。東京であるお母さんが子どものかかりつけのお医者さんの所へ行って、その医師の言う事が納得いかなかったので「毛利さんの本にこんな事が書いてあります」と言ったら、「あんな頭のおかしいやつの意見を信じるような親はもう診ない」と怒られたという話です。頭のおかしい医者ということになっているようです。だから小児科医などは松田さんの本を読んでいないと思いますし、松田さんの言った事は小児科医の中には広がっていないというのは非常に残念なことだと思います。
松田さんのされた仕事を毛利さんが継いで、私なんかがバトンタッチして、みなさんにお伝えしていこうと思っているのですが、松田さんはいつもお母さんの味方でした。日本では多くの小児科医はお母さんやお父さんの味方ではなく子どもの味方だというのです。小児科なのだから子どもの味方でいいのでしょうが、実際は子どもが育っていく上で、幼児期は子ども自身はそんなに悩んだりしていませから、もっぱらお母さんやお父さんが悩んでいるのですから、お母さんやお父さんを励ましてあげた方がいいのですよ。ところが小児科医は子どもの味方だって言います。実際は子どもの味方にもなっていないのですけれど。本当に子どもの味方だったら、水イボのようなくだらないものをむしり取るようなおそろしい事をするはずがないです。
水イボについてはすごい話がありまして、水ぼうそうを水イボと間違われて全部むしり取られた子を今までに3人ぐらい見たことがあります。非常にかわいそうなのは、雑誌に出ていた例ですが、水イボと間違われて乳首を取られた女の子がいるそうです。乳首を取られてしまうと大変です。乳腺はありますが出口がないから乳汁がうっ滞するのです。私は男なので、たまった気持ちはわからないから想像で言うしかないのですが、ものすごくつらいはずで、だからそれに耐えられないから、もう乳腺も取ってしまったようです。水イボくらいのことで乳首を取られるとは、何とも言えない話です。話がそれますが、水イボについては大阪の医師会医は水イボは取らないと説明しているようです。大阪の医師会はわりあい独自にいい事をしていまして、以前から国全体のやり方とは違う事を独自で出しています。水イボは小児科医と皮膚科医とで調査してみますと、皮膚科へ行った場合は90何%は取っています。小児科へ行った場合には73%ぐらいは水イボは取っていません。小児科医は普通は取らない。小児科医は水イボで商売しているわけではありませんが、皮膚科医はほとんど水イボ的なもので商売しているので、取るのが当たり前だと思っているのでしょう。小児科医はあまり子どもを泣かすのは好きではありませんので、泣かすには相当の根拠がないといけないと思っているので、それで水イボも取らないのだと思います。あんなもの、大人だったら絶対に取らないですよね。自分にできていたら、ちょっとかゆくて見た目が悪いぐらいで、跡が残らなくて放っておいても大丈夫なものだと言われたら、普通は放っておくのが本当です。それが子どもだと、見た目が悪いとか、人にうつるとか言われて取るのですけれどね。
だから、一応、小児科の方は少しは子どもの為と思っているのかもしれません。最近の小児科医は、やたらおこるとか、あまり子どもの味方と言えるかどうかわかりませんが、取り合えずは子どもの味方だという事で、お父さんやお母さんを非難するんです。国もそうですが、何かと言うと親のせいにする。学校へ行かない子どもも、最近になってようやく学校や教育にもいくらかの問題があるというようになりましたけれど、それでも大きくは家庭の責任だと言っていますよね。つい最近は、文部省は子どもがキレルのは食生活がおかしいからだとか、朝ごはんを食べていないからだとか言い出したりして、とんでもない話だと思います。だいたいそういう風に、教育だとか子どもの生きていく環境をとんでもないひどいものにしてしまった事を抜きにして、家庭のしつけで克服できるとか、親がきちんとするべきだと、いつも言うわけです。それは国だけではなくて、小児科医もそう言ってきました。他人の責任にする事は非常に楽であって、病気が治らない時も、病気が治らないのは私の腕が悪いわけではなくて、お母さんの看護の仕方が悪いのだと言うと、自分の責任はのがれてしまうのです。
ぼくは自分の信条として、“手遅れ”とは言わないことにしています。ぼくは本の中で「熱は3日ぐらいは病院に行かなくても大丈夫」と書いています。5日ぐらいでも大丈夫な事が多いのですが、5日と書いて本当にみんな5日待たれるとやばいケースもあるかと思って、3日と書いています。3日ぐらい待っててもいいというのを拡大解釈して、いくら待っててもいいと思っている人もいて、熱が出て1週間ほどして病院へ来たというケースもあり、さすがにちょっと手遅れだと言いたい気がしますが、それでも1週間遅れてもたいしたことにはなりません。多少、薬を飲む期間が長くなるくらいで、なんとかなるものです。もうほとんど手遅れというのはありません。落語に何でも手遅れと言う医者がいて、風邪をひこうが、お腹が痛かろうがみんな手遅れと言う。子どもが階段から落ちて連れて行くと手遅れと言うから、今落ちたばかりだと言うと、「落ちる前に連れてこなければ」といった笑い話がありますね。その手の話で、何かと言うと、お母さんがチキンとしなかったのじゃないかと言う。病気なんていうのはキチンとしていなくても治るものは治るし、いくらキチンとしても治らないものは治らないもので、キチンとするかしないかではないのですね。
日本には安静主義というのがあって、病気は安静にすると治ると思っています。大人は普段は働きすぎで休みたくても休めないから、せめて病気の時に安静にするのはいいことかもしれません。子どもにとって学校は大変な所ですから、学校を休むという事は意味があるかもしれません。しかし、家の中では安静にしていなくてもいいのです。日本の安静主義というのは非常に大事に大事にするということで、何でも安静にして来たのは病院の体制が悪いからです。日本の病院は、行くとすぐ点滴を一日中つけれらます。あれは患者さんを動かさないようにする為です。患者さんは動くと何かともんくを言うのですよね。寝かされているとあきらめてしまう。点滴をやっている間はしょうがないと思ってしまう。外国のお医者が日本に来て、こんなに全部の患者がメシが食えないのかとびっくりしたそうです。普通は食事がとれない人が点滴をするのですから、点滴をしている人が点滴のビンをひきずって廊下を歩いているのを見るとびっくりするみたいです。あれは呼び鈴を押さないように、看護婦さんを呼ばないようにと、看護婦さんや医者の数が絶対的に少ないので、呼ばれたら困るから、最初から点滴で押さえつけておくということです。
子どもを一生懸命寝かせようとするお父さんやお母さんがいて、医者の方も「家から一歩も出してはいけない」とか言っている。僕らが子どもだった頃は病気でも平気で外へ出ていたものです。親の目がそんなに行き届きませんでしたから。僕は岐阜の田舎で育ちましたから、まわりは農家が多かったのです。農家というのは家中で朝から畑に出ているので、病気の子は家にいて、お兄ちゃんなんかが見ているのですが、お兄ちゃんは勝手に遊びに出てしまうので、お兄ちゃんについて出てしまう。水ぼうそうだろうが、おたふくだろうが、一緒に遊んでいましたね。おたふくというのはほほにこうやくを貼るのですね。イヒチオールというコールタールみたいな薬がありまして、今はあまり見かけないですが、それをベタっと貼って遊んでいるのですよ。はれているのですが、私は一応こうやくを貼って治療をしていますので、おゆるしいただきたいというか、他の子どももそれをゆるすというか、儀式みたいなものです。また、病気の時に寝るというのを楽しんでいる子もいました。昔は病気の時にしか食べられない食べ物があって、メロンやバナナ、カルピスをいつもより濃くして飲めるとか。普段は面倒を見てくれないけれど、風邪をひいて熱が出たらお母さんが頭に何かのっけてくれて、おかゆなんか作ってくれて、一人で食べられる。お母さんを独占できるとか、いつもはみんなでゴチャゴチャになっているけれど、一人を楽しむ時間があって、病気を治す安静ではなくて、病気を使ってその時を楽しむというようなことがありました。そういうのがイヤになったら外で遊んで、外で遊んでいるから治らないかというと、そういう事はなくて、外へ出て遊んでもちゃんと治るのです。
WHO(世界保健機構)が子どもの病気治療指針を出しているのですが、咳が出る子どもは外で遊べと書いてありますね。身体をどんどん動かした方がむしろ身体の抵抗力が活性化すると。からだが思うように動かない時は別です。だるくて身体が動かない時は動かなくていいのですが、そうでなくて、動きたければ、動いた方が病気はよくなるのですね。子どもは無理をしませんから。本当はだるくて寝ていたいけれども、しなければならない事かあるから起きてるということは、幸いに子どもはしないですね。子どもは先の事も過去の事も考えないことになっていて、今寝ていればあさっていいことがあるからと言われても、今起きている方がいいし、あさってのことは何百年も先のことを言われていることと同じで、そんな先のことを言われても大事になんか出来ない。少し大きくなって、「明日はディズニーランドに行くから」という話にでもなれば少しはおとなしくするかもしれませんが、よほどの事がないかぎりは今が楽しければいいということで、そういう意味では、子どもはその時々の気分に忠実に生きているということです。その忠実な生き方をかえることはないのです。
お母さん方はよく、「ちっとも咳が治らないんです」とか言われます。咳なんか治らないものです。だから軽い咳なんかで病院へ来てはいけないんですよ。特にこんな梅雨どきに、朝方に温度が変わる時間に咳込むのは、子どもの粘膜は敏感で、風邪をひいてしばらくの時は、ずっと咳が続いたりしますから、昼間元気に遊んでいるのであれば、病院に来てはいけないんですね。来てもらっても効く薬がないのです。でも、何か出してりゃそのうちに治るだろうと思って医者も薬を出しているわけです。普通それでも、お母さんも「あまり効かない」とは言われませんから。耳鼻科のお医者さんの悪口を言ってはいけないでしょうが、耳鼻科って長いですよね。耳鼻科って、お医者さんがもういいとは言わない科ということになっているようで、親の方で何かの理由で、経済的に続かないとか、時間的に続かないとか、イヤになってしまうとか、そういうので勝手にやめると、それで治ったということにされているのでしょうね。病院の方では事情がわかりませんから 100%治ったことになっているのでしょうが、実際はやめているのです。咳なんかちっとも良くなりませんしね。
私は東京の八王子で仕事をしているのですが、そこは外国人のお母さんが特に多くて、フィリピンだとか東南アジアの方から日本に来て結婚して子どもを産んでというお母さんが多いのですが、その人たちは非常にはっきり物を言うのです。「こんなに毎日一生懸命病院に来て薬を飲ませているのに、ちっとも咳が治らない、どういうワケか」と言われます。日本語が上手くできないものだから、そういう言い方になるのでしょう。「どういうワケか」と言われると、「オー、それはもっともだなぁ−」と思います。だから何故良くならないかという理由をちゃんと説明しないといけないのですが、ただ良くならないのですよ。鼻水なんかがずっと続いているのも、風邪をひいているわけではなくて、アレルギー性鼻炎だから、これも治らないわけです。1シーズン治らないこともあります。「どうして治らないのか」と怒るようなお母さんは日本にはいませんが、やはりつらそうに「どうして治らないのでしょうか?」と聞かれると、「お母さん、何かしませんでしたか」と医者は聞くし、すると、大抵のお母さんは反省するのです。お父さんは時々連れて来ても、あまり反省しませんね。お母さんは反省しやすくて、「あれがいけなかったのかな」「上の子が幼稚園へ行く時に連れて行ったしな」とか、「薬を8時間ごとに飲ませなければいけないのに、8時間15分になったし」などと、いろいろ考えて、落ち込んでしまいます。
よくお母さんが「風邪をひかせてしまいました」と来られます。風邪はひかせてしまったのではなくて、子どもが勝手にひいてしまったんですよね。親の不注意でということはないのです。「布団をかけて寝てないものですから寝冷えをしました」とか言われますが、布団をかけて寝てないのは、たまたまその日だけ布団をかけていないわけではなくて、毎日、布団をかけないで寝ているのです。他の日には風邪をひかなくて、その日はひくのです。だから布団をかけないという条件以外にも風邪をひいた原因があるのです。でも、そういうことになると、あの時、自分が起きて、ちゃんと布団をかけてやればよかった、と思うわけです。そんな事は全然なくて、オネショの子なんて、一晩中、水びたしの中で寝ているのですが、風邪ひかないですよね。あれは寒いだろうと思いますよ。だから冷えて風邪をひくなんてことはなく、抵抗力さえあれば、冷えたって大丈夫なのです。
子育てがうまくいかないのは自分の責任だと思っているお母さんが多いです。それを応援する小児科のお医者さんがいなかった。松田さんは、応援する最初のお医者さんでした。お母さん達に好きなように生きていい、仕事をしたい人はしていいし、主婦したい人はしていい。それぞれの生き方で、お母さん達がいきいきと生きていれば、子どもはちゃんと生きていくものだと松田さんは言ったと思うのです。
日本は豊かさの幻想みたいなものがあって、過剰な消費をいろんな所でしています。医療についても過剰な消費をしている。絶対に薬なんかも使いすぎだし、検査もしすぎです。大人のケースで、ちょっと頭が痛いからといって、脳外科でCTやMRIを撮るなんて国は他にはないです。ものすごい贅沢というかムダをしています。普通は頭が痛い時、CTを撮るべき病気、脳腫瘍とか、くも膜下出血の疑いという時には、その病気の症状があって、それを医者がちゃんと判断してからレントゲンを撮るのです。子どもが頭をぶつけた時に、直後に病院へ行って撮ったレントゲンとか、まったく何の役にも立ちません。何時間かたってからのレントゲンなら意味がありますけれど。直後のレントゲンでわかるのは骨折しかありません。骨折は、ただ折れているだけで、自然にくっつくこともあるので、中で出血するかどうかかが問題なのです。出血するというのは、何時間かたって血液のかたまりが出来て、それがレントゲンで見えるわけです。そうなるまではレントゲンを撮っても意味がない。頭をぶつけた時は何でもないのに、何時間かたって急に嘔吐したとか、頭が痛いとか、泣いているとか、時間を経過して急に様子がおかしくなったら、その時に病院に行けということなのですが、そういう事をあまり教えてもらっていなくて、行ってすぐにレントゲン撮ったら安心する、となっています。ものすごい医療費のムダ使いです。
アメリカのガーウッドという医者がお母さんと一緒に書いた本を、今、翻訳している最中で、そのうちジャパンマシニストという会社から出します。その本、結構おもしろいのです。お母さんと医者が協力して作っているところがいいのです。その本を作ったお母さんの子どもさんの話なのですが、夜中に子どもがTVを見ていて急に吐き出した。お母さんが育児書を見ると、腸重積とか虫垂炎だとか怖い事がいっぱい書いてあって、とても不安になって医者に電話をするのです。アメリカなどは病院にすぐには行かずに、まず電話をかけるのです。すると主治医が出て、「今、サムが何をしているか」と聞くのですね。「今はセサミストリートを見ています」と言うと、あ、それなら大丈夫だと言うのです。それから話が始まって、お母さんとしては「えー、最初の質問がこれか」、育児書には子どもが何をしているかを見ろとは書いていない。だけど医者としては、腸重積とか虫垂炎とかは、まず痛みの経過中にTVを見る気分にはなれない。そういうふうに間があいている状態でまず一安心。もうほとんどその時に、風邪による胃腸炎と診断がつくのです。いきなり吐いて何度も何度も吐き出すというのは、ウイルス性の胃腸炎といって風邪から来ているものです。それで、そのお母さんは、今の育児書は役に立たないということで、お医者さんと一緒に本に書き始めて、出来上がった本が出ているのです。
その本にお医者さんが書いているのは、親が自分の子どもの熱でガマン出来なくなるのは40度くらいだけれども、自分が病院に診察に来いと言っているのは41.1度以上だということです。実際に私はアメリカでしばらく生活したお母さんが、赤ちゃんの熱が40度になって病院に連れて行ったけれども、これなら家で見るものだと強くさとされて帰されたと話をされていまして、それはそうだと思います。これは本にも書いてありますが、大人がとんでもない熱が出るのは肺炎であるとか、腎盂炎であるとか、大変な病気があり、単なる風邪で40度も熱が出ることはありません。しかし、赤ちゃんや幼児の場合は、40度の熱が出るのは病気が限定されます。例えば1才前後の赤ちゃんが40℃の熱を出したとすると、これは風邪か突発疹か中耳炎かの3つぐらいしかありません。髄膜炎とかは、すごい熱が出ると思われるかもしれませんが、今、ちょうど八王子で髄膜炎が多発したというとこで4月から6月まで、髄膜炎の子が30人ほど来て、ちょっとパニックになっているのですが、そこでの報告だと、髄膜炎になっている子の平均の体温は37度台の後半だという事です。髄膜炎にはウイルス性と細菌性とがあり、細菌性の髄膜炎はちょっと怖いです。これは高熱が出ます。でも、たいていの髄膜炎はウイルス性で、おたふく風邪で高熱が出て頭が痛いといっている子は、よく調べればほとんどが髄膜炎です。ただ、軽い髄膜炎で、放っておいても、ちょっと静かにしていればよくなります。髄膜炎かどうかというのは、ずい液を採って調べないとわからないのですが、これは子どもにとってはかなりしんどい検査ですから、ありまやらないのです。やらないから、髄膜炎とは確定しているわけではないけれど、しかし、おたふく風邪ではかなりの率で髄膜炎になっているということです。だから、実際我々が見る髄膜炎は高熱にはならないこともある。肺炎でも高熱にはならないものがかなりありますね。昔風の肺炎は、いきなり悪寒がして高熱がワーッと出てという派手な肺炎でしたが、最近はそんなのは少なくて、もっとジワジワと熱が長いこと続いていて、熱はそうたいしたことはないのに、かったるそうな顔をしているとか、熱の割には元気がないというのが問題であって、高熱というのは実際には問題ないのです。
アメリカなどでは、それで病院へ行くと1回1万円くらいかかるぐらいの話ですから、なるべく自分でみることになって、自分でみると、あー熱ってけっこう高くても自分で下がるんだって実感できます。ところが、日本のように熱が出てすぐ病院へ行って、それでワッと薬をもらって、薬をちゃんと飲んだから治ったという言い方を医者がするものだから、自然に治ったのではなく薬で治ったと思っている。そういう事を繰り返しやっていると、自然に良くなるということが実感できなくなります。どんどん待てなくなって来ています。1日待つとか2日待つという事が苦手になっています。日本は競争社会と言われていますから待ちにくいということもあります。
競争社会と言えば、私は以前から健康診断はあまり意味がないと思っていました。人は一人づつ違うのですから、医療は個別にやるものです。集団でやると画一化されますし、能力主義になるし、必ず値の高い人と低い人が出来てきます。測定をやると差別が生まれると言われています。一番差別の根元になったのは頭の周囲を図るというもので、これはかなり歴史的にやられて来ました。ヨーロッパの人達がアフリカ人の文化が自分達よりも遅れている原因は何かを知る為に頭の周りを測り、頭の周囲が小さいから劣っているとか、頭の計測というのはロコツに差別的に行われて来たのです。そうでなくても、どんな測定をしていも何等かの差別が生まれてくるようになっているのです。
健康診断というのはもともと個人として病院に行く事が出来ない場合にするもので、例えば離れ島とか、無医村とかではみんな並んでやりました。予防接種を集団で行ったのは、個別にやる時間がとれないとか、医療機関が必要な時間にやってくれないというので一同に集めてやったのです。それでも個別にはまさらないということで、少し個別化して、健康診断の見直しがようやく言われるようになってきました。日本人は身長を測ったり、体重を測ったりするのは非常に好きですよね。私はだいたい学校の健康診断はやめようとずっと言って来ました。おととし改正になったから、きっと座高はなくなると思ったのですが、胸囲がなくなって座高はなくならないのですよね。座高って、これを知っていることで人間的にどれだけの意味があるかというと、意味はないと思います。努力すれば座高が変わるものでもないし、あんなものはいじめられるもとにしかならない。「おまえ、足が短い」とか言うだけの話なのです。身長とか体重とか測ると、チビだとかデカだとか、ヤセであるとかデブであるとかいうことが出てくる。それは見た目で言っていた時とは違って数値として出てしまうと、もう絶対的なものになってしまうわけです。ある意味では科学的な裏付けをされた差別が起こってしまいます。
文部省に聞くと、文部省も返事のしようがないのか、「日本人の体位が変わってきて、昔に比べると足が長くなったとか、そういう体型の生理的な変化はどうなるかと注目している学者がいるので、そういう人の為に測っている」と言っています。そんなことが理由になるのかと思います。実にくだらん事をやっているのです。胸囲の測定をやめるというと、絶対にやめるなという人がいます。小学校の高学年で胸の大きくなり始めた女の子は、胸囲なんか測りたくないに決まっています。小さかったら小さいでイヤで、大きかったら大きかったでイヤですよね。で、着衣での測定をというと、着衣だと何・か違う、そういう不正確な数値を出したらいけないと言われます。非常にあほらしい話ですけれど、実際には恐ろしい話であって、世界的には日本のように何十年も国民の体位の統計のある国は1つもありません。そもそも座高もなぜ始まったかというと、戦争中に塹壕の深さを決める為に国民の平均的な体位が必要だったという話があって、そのへんが始めのようです。今は、文部省の訳のわからない話を除くと、学校の机の高さを決める為に座高をはかるのだというの事です。だけど、平均を出したって、ちょうど平均の子が合うだけで、平均より背の高い子も低い子も合わないのだから、だから机の高さが合わないと姿勢が悪くなるというのなら、上がったり下がったりする机を作ればいいのです。
とにかくそういう統計があるから、日本人の一番背の高い人から低い人まで、ちゃんとわかるようになっているのです。番号をつければ、順番がわかるということは、恐ろしいことです。外国では、みんなで身長や体重を測ったりはしません。私も最近わかってきて、1つの教室の中に日本人しかいないから測ることが意味を持つのかもしれないけれど、もし、黒人の子どもがいて、東南アジアの子どもがいて、ヨーロッパの子どもがいて、日本人の子どもがいてという時に、身長や体重を測って平均を出すのに何の意味もない、やってもしょうがないですよね。黒人なんかで、すごい足の長い人がいて、そういう子が何人もいるのに、座高とか測りたくないですよね。で、日本人って世界中に勝ってきたというヘンな自信もあるものだから、低身長もすごく問題になって来ています。例えば、サミットなんかがあって、写真を見るとどうも日本の総理大臣は背が低いし悔しい。こんなに経済大国なのに、あと身長さえとどけば常任理事国になれるのじゃないか…など、体格によるコンプレックスがどこかにあるのです。それで、ホルモンも大腸菌を使って供給が出来るようになり、どんどんホルモンの注射をして、どうなるのかと心配です。そういことはあまりおかまいなく、子どもは身長が伸びると幸せになるのだからと思っているようです。でも、例えば男の子で 150cmぐらいにしかならない子には成長ホルモンを飲ますと言うのだけれど、 151cmの子はいいのかという話になりますよね。 150cmしかならないと言われた子が成長ホルモンを飲むと3〜4cmは伸びますから、その子は将来 154cmぐらいにはなるわけです。一方で 151cmになるという子は成長ホルモンを飲まないで 151cmのままなのだから、成長ホルモンを飲まなくてくやしいということになります。身長とか体重は、正常とか異常とか、どれが標準とかは非常に言いにくいもので、これは文化だとか価値観によって変わってきますから、そういうことをきちんとしないで、どんどん薬を使ったりすると、薬が供給できるにしたがって薬を飲む対象者が増えてくるというふうになってしまいます。
日本人は単一民族に近い集団を作っているので、ものすごく競争しやすい。子どもが発達していくのも民族差があり、黒人と黄色人種と白人というふうに3つの集団に分けると、黒人が成熟の度合いが早く、次が白人で、黄色人種が一番遅いということになっています。黒人は生まれてくるもの少し早いし、おすわりをしたり、立ったり、走ったりする時期がみんな早いということはあまり言われていません。いろんな事が早いから性成熟も早いのです。ところが性成熟が早いことが問題にされて、動物的であるとかいう言い方がされてしまいます。黒人の場合はテンポが早いのです。平均年齢も短いです。だからスピードアップして生きているのですね。そうすると黄色人種が一番のんびりしていて、ゆっくり出てきて終わりもゆっくりというふうになっています。これは動物がそれぞれ寿命が違うけれども、ゾウの時間もネズミの時間も一つの線上におけば同じというか、一生の脈拍数が決まっていて、短く生きるものは脈拍数が早くて、長生きする生き物は脈拍数が遅いという。だから短く生きている動物はかわいそうに見えるけれども、短い時間を相対的に非常に長く感じているはずだといわれるようになってきました。そういう生まれもった差があるので、それで早いとか遅いとかいうことについてはあまり意味がないのです。
日本人の場合は違いがあってはまずいというように、隣の子と同じにしようと思う。集団が大きくなって、大勢の人を見られるようになるといろんな子どもがいるんだなぁとわかるのですが、今のように集団が出来にくく孤立化して生きるようになると、単に隣の子どもと比べるとか、お向かいの子どもと比べることになるから、ちょっと遅れてもすごく大変な事と思ってしまいますね。実際、ぼくも医者になって30年程になりますけれど、最初、医者になった頃は、体重の増えない赤ちゃんがいますと、すごく気になりました。医者も初歩のうちは体重の増えない赤ちゃんが来ると、体重が増えてくれるといいなぁ−と思ってしまうのです。母乳だけの赤ちゃんはミルクを足すとたいがい太るので、「やぁ太った太った、よかったね−」という話になったのですが、今になってみると、そういうことはすごく無駄な事だったというのがわかります。赤ちゃんの時に太っているとか太っていないというのと大人になってからの体型とはまったく関係がありません。うんと小さかった赤ちゃんがおどろく程大きくなって、高校生になったり、あるいはお母さんになって自分の子どもを連れて来たりしますが、この子が…と思うことがありますね。我々も経験を積んでくると、ほんとうにいろんな子がいるということがわかってくるのだけれど、やはり1人、2人の子どもを育てている段階に、これが特別なことなのか、うちの子だけなのか、非常にわかりにくいものですから、ちょっとした差があると気になるのですよね。
今日は娘が一緒に来ていまして、向こうで本を売っていますけれども、障害があって、見た目にわかってしまう障害だとわりあいと楽だということがあります。例えば、左手がないとかいうのは見たらわかりますから、そのまま生きていこうということになります。勉強なんかもそうですが、全然できない、足し算もしないし字も書けないのですと、「勉強なんか出来なくてもいいから楽しく生きればいい」というふうになります。学校を選ぶ時にも学校を何の観点で選ぶかというと、どこが一番勉強できるかという観点ではなく、どこが一番楽しいかということで選びます。本当は子どもにとってはこの観点の方がいいのです。もともとは、学校なんて楽しいからいいわけで、一番楽しそうな学校を選べるといいと思います。人間って開き直ってしまうと非常に強いところがあって、開き直れない時がつらいのです。開き直りたいのだけれども、開き直れない、もうちょっとで届きそうで、届かないというのはイライラしますよね。もう最初から届かないから、届かなくていいんだと思うといいのだけれども、ひょとすると届くかもしれない、といろいろやって、何十年もやったけれど届かないで終わった、ということがあるわけです。そこら辺のところでゴチャゴチャやっていると、そこに付け込んで、いろいろな商売をする人がいるのですね。不安産業という言葉がありまして、これは産業自体が先行きが不安だということではなく、人を不安にすることで商売が成り立っている産業のことをいいます。例えば、小さいうちから猛稽古をしないと子どもがえらいことになりますよ、とか、不安をあおって商売をしている。この不安産業が日本は非常に多いと言われています。医者も不安産業になっているみたいですね。不安にさせる方が患者さんがずっときてくれるわけです。特に小児科なんかは子どもの数が少なくなりましたから、過剰にいろいろやるようになりました。
産婦人科も少子化の影響を受けている医者の第1位で、次が小児科で、病院では小児科は病室をなくしたとか、外来を廃止してしまうのがあって、小児科のなり手がいないと言われています。それでも小児科医になってしまった者はどうやってこの子どもが少ない中で子どもが多かった時と同じように利益を上げるか、と考えるわけです。子どもの数が3分の1に減ってやっていこうとすれば、1人の子どもに前より3倍の医療をするようにすればいいわけです。例えば産婦人科へ行くと、超音波なんか、いつの間にか当たり前になってしまいましたよね。超音波ってあんなにやらなければならないかと思います。超音波をやらないとなにが困るのか、よくわからないですし、超音波で何がわかるかというものよくわからない。親の方で本当に超音波をのぞんでやってもらっているのかもわかりません。もう行ったら、やることになってしまっています。超音波のよくないと思うのは、レントゲンには放射線という害があるのであまりかかってはいけないとみんな思っているけれど、超音波は見える害がないのですよね。しかし電磁波なんかの害があるかもしれないのですが、今のところはっきりした害がないので、いいや、という感じでやっています。だけど、医者がサービスでやっているわけではなくて、あれはちゃんと利益を得ているわけです。子どもが男の子が女のか知りたいかと聞くそうですね。聞かないでも教えてしまうのかな。知らなければ知らないで済んでいたものを、男の子か女の子かわかっていると買い物がムダにならないとか、いろんな事が言われるのですが、そういうのがわかってしまっているって何かおもしろくないですよね。そのわかってしまうことが利益なのかどうなのかをみんなあまり考えていません。
日本ではほとんどインフォームドコンセントなどされていません。非常に簡単に「どうしますか?」と聞かれるぐらいで、これとこれとと選択肢を出されても、本当にそれしかないのかどうかわからないわけです。いちおう2つありますと医者が言うけど、実は5つぐらいあって医者が2つしか出していないかもしれないんですよね。そこのところは非常に形式化されていますし、実際に患者の方がインフォームドコンセントを求めているかというと、それもないというか、めんどくさいからいい、お医者さんの方で決めてくれということがあるから、どんどん勝手にやられてしまうわけです。
小児科なんかでも、最初に赤ちゃんのうちに不安にさせるということがあります。赤ちゃんがちょっと咳が出て、のどがゴロゴロいっていると言うと「お母さん、大変ですよ。これはアレルギーになりますよ」と言ったりします。アレルギーマーチという言葉を知っている人が多いですよね。アレルギーが行進してくるという。アレルギーマーチというのは同愛記念病院の馬場さんが作った名前ですが、言葉というのは造語能力にたけた人がいて、すぐ流行ってしまい、ああいうのは罪作りですよね。どういうものかわからないままに比喩として使われています。自閉症だとかいうのも、スターが「子どもの頃は自閉症でした」とか何かに書いてあって、ただの内気な子だったというのにすぎないのに「自閉症」と言われてしまう。具体的に言わないで1つの単語にしてしまうと、それにともなってイメージが出来上がって、それがだんだん膨れ上がって、とんでもないものになってしまいます。アレルギーなんかもそれです。「アレルギー」という言葉がすごい怖い言葉になってしまっていて、それは絶対に回避すべきものだとなってしまっている。私は全ての病気について、楽観することが一番いいことだと思うのですよね。大変な病気もたくさんあるけれど、でもやはり楽天的になるのが一番いい事だと思っていて、よくなると思っていればよくなっていく事があるのです。悪くなるのじゃないかとずっと不安に思っていると不安というのは相乗効果みたいなのがあるのですよ。お母さんが不安になると子どもも不安になり、そして子どもが不安になると、またお母さんが不安になるというように、どんどん増幅していきます。私は自分が病気だとは思わない方がいい、普通の子どもだと思ってくれる方がいいと思っています。
大人の場合はある程度、病気を意識して、それをどう対処するかということを心がまえをした方がいいということがありますが、子どもというのは大人と違って、良い方へ向かっているのですよね。だいたい20才ぐらいまでは上り坂なのですよ。自然の力として免疫の力がついていくのはやはり子ども時代です。その免疫の力がどういうふうにしたらうまく作動できるか、自然治癒力というのがありますが、自然の力をどうやったらうまく出せるかというと、やはりくよくよしないことだと思うのですよ。「まぁ、そのうち良くなるだろうサ」と思って、プラス思考でいくと脳内モルヒネがよく出るのかもしれません。「脳内モルヒネ」と言ってたくさん本を売った春山さんという人とは学生時代によくマージャンしてて知ってますが、いいかげんな人だったんですよね。僕なんかかなりおごってもらって、いい目をしましたけれど。あれは学説としてはインチキですよね。とにかくプラス思考で生きていると良くなるというのをもっともらしく言っただけの話なのですが。でも、こういう今のような状況の中で、なるべくプラス思考に生きるというか、いいかげんに生きるということは大事だと思います。いい加減とか手ぬきとかいうのは、すごく大事で、子どもについても、やはり基本的に手のかけすぎなのです。私は娘と共に生きてきて、障害を持った子どもの生きている状態を見てきて、障害を持っている子の日本での不幸(外国のことは良くわかりませんけれど)というのは、プライベートな時間だとかプライベートな空間を持ちえていないというか、ずーっと大人に見られていることだという気がするのです。
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