京都ダウン症児を育てる親の会(トライアングル)会報


(2013年2月号 掲載)
「南正一郎さん (40才) のトーク & 空手の型 と 長谷川知子先生のお話」
テープおこし

2012年11月3日 京都市障害者スポーツセンター


 今日は千葉県から南正一郎さんとお母様と、長谷川先生が来てくださっています。たくさんお話されることがありますので早々に始めたいと思います。
 南さん、よろしくお願いします。(拍手)


 皆様、本日はようこそいらっしゃいました。どうぞごゆっくりしてください。
ご紹介いただきました、千葉県の稲毛区から来ました、南正一郎と言います。京都に来たのは久しぶりで、この前来たのは、1997年の日本ダウン症フォーラム。その時は25才。パネルディスカッションに出まして、空手の型をやりまして、本日もやるんですけれども。久しぶりの京都なので、張りつめて今日まで頑張ってきました。
 今からお話をさせていただきますので、よろしくお願いします。
 (前の子どもたちに)ボクたち大丈夫かな? 退屈しない?


 まずはですね、港区立の心身障害児通園施設、「のぞみの家」というところに行ってました。歌うことが大好きで、沢田研二・ジュリーの歌を歌ってました。その頃から先生に言われていたことが、「ニコニコ正ちゃん!」とか「優しい正ちゃん!」とか、そういうことを言われてました。
 はじめに住んだのが、港区六本木。それから目黒区青葉台。それから渋谷区代々木という商店街があるところへ引っ越しました。近くに公園があって、近所の友達とよく遊びに行った。時々、いじめっ子っているんですよね。それで「お〜い!」みたいにして来ると、「やめろよ!」みたいな、止めに来る番長みたいなのがいまして、親しくなって、いじめられそうになった時にかばってくれる。そのおかげでいじめられなくなりました。
 そこを卒園して、幼稚園に入ったんですね。俳優の三浦友和さん・山口百恵さんがご結婚した、あの教会の幼稚園に入園しました。その時の先生が、うちのおふくろに言った言葉。「障害児の教育は、普通の子の教育の原点です」と、母は良い言葉を聞いたと言っております。その先生はダウン症のことをよく知らなくて、勉強して僕のことを見てくれました。そこには砂場とかブランコとか遊ぶ所があって、自分は砂場で泥だらけになって遊んだり、そういうふうにしていました。
 クリスマス会があって、ワイワイ楽しく。園長先生が牧師さんをやっているんですね。毎朝お祈りをして1日が始まる。近所にも教会があるんですよ。日曜日に、3つ下の妹がいるのですけれど一緒に行って、お祈りをして。「無事に1週間が終わりました。また1週間が来ます。よろしくお願いします。」そういう感謝の気持ちをイエスキリスト様に、みたいな。近所では仲の良い兄妹で有名で、「正ちゃん」と呼ばれていまして、「今日はれいこちゃんと一緒?」なんて言われて、妹の名前が、れい子っていうんですけれども、そういうふうにしていました。


 それから、今はこういうふうにしていますけれど、その頃は病気がちで、風邪をひけば息もなんにも出来ない。小学校を1年遅らせてもらって、入学するまでの間に入院をしました。斜視を治して、アデノイドとね、一応男性ですから下の方とかも治して、スッキリして1才遅らせて小学校に入学したんです。西暦でいうと1980年に小学校1年生になりました。80年代の方、いらっしゃいますか? 手を上げて頂けますか。
 80年代、今40才ですよ。おられますか? その頃、流行ったテレビの番組とか覚えてますか? やっぱりドリフや聖子ちゃん世代。女性でしたら、おとこ組、光GENJI、トシちゃん派・マッチ派。男性でしたら、ピンクレディのミィちゃん派・ケイちゃん派とか。その当時は結構楽しかったですよ。
 それで小学校に入学したんですけれども、ひとりだけ担任の先生がひどい先生でね。おふくろがPTAだとか授業参観で学校に行きますよね、いつも先生が言ってくるのが、「こういう子ですから、無理です」「ダメです」「特殊に行ってください」。これ言われても絶対に居続けてください。絶対一緒にした方が良いですよ。勉強とか出来ないんですよね。勉強を覚えたのは、中学時代にやっと「1+1」。
 うちの先生がクラスメートに指示を出して、自分に「何もしてはいけない」と。「無視しなさい。何もしちゃいけない。声かけちゃいけない。」私がいる前で指示するんですよ。そう言われてもクラスメートは、そんなことをやる気は全くない。けれど先生に怒られたくないというのが、やっぱりあるんですね。「何にもしてませんよ〜」みたいな、そういう演技ですよ。芝居ですよ。「さっきはごめんな。先生に怒られたくないからやったんだよ」、そういうこともありましたね。クラスメートが、先生がいない陰でいろいろしてくれた。「遊ぼう!」とかね「こっち来いよ」と仲間に入れてくれて。「正ちゃん」と言っていつも声をかけてくれた。クラスメートは良くしてくれたんですよ。
 運動会とか水泳大会とか、あと学芸会。修学旅行では日光へ行ったんですけれども、キャンプファイアーでワァっと盛り上がって、楽しかったですよ。
 今はこうして原稿を書いていますけれども、最初は字を一文字も書けなかった。どういうふうにして書けるようになったか。絵日記ですよ。おふくろが「今日、どこに行ったの?何したの?」、公園に行きました。「じゃぁ公園に行きましたって書いてみれば」って言われて、字が書けないから1個1個、教わりながら書いた。字が曲がってんですよ。こっちは必死ですからね。それが出来るようになって、中学ぐらいになってから大学ノートに日記を書くようになって。授業はわかりませんから毎朝、日記を職員室に持って行って、「先生見てください。サインちょうだい」みたいにして、たまに一言ちょこっと書いてくれて、そういったことをしていました。
 小学校時代にも、やっぱり番長っていうのはいるんですね。仲はいいんですよ。「正ちゃ〜ん」みたいにして、背中をポーンとやるんですよ。その時は体力がなかったものですから「イテテテ・・・」ってなる。毎回やられるものだから、これはどうしたら良いかなと思っておふくろに相談しました。先生に言うとその子も怒られる。「じゃあ、手紙を書いてみれば?」って。「なんとか君へ」って書いて、「いつも良くしてくれてありがとう。だけど背中をはたくのはやめてくれ。」と書いたんです。そしたら次の日の朝、「ごめんなぁ。もうやらないからよ。じゃあ、遊ぼう。」と、普通のクラスメートの仲間として接してくれた。誰かにちょっかい出されたりすると、その番長が「おいやめろよ」みたいな、「こいつに手だすな」ってやってくれたんですよ。今も同窓会があるんですけどね。「あの時はいろんなことあったね」という話もしまして、結構いろいろあるんですよ。
 それで、授業がわかりませんから、先ほども言いましたけど、中学1・2年で「1+1」をやりまして、中学の3年間でやっと割り算ができました。それから勉強が楽しくなりました。紙に書いていくつといくつを足してという勉強の仕方もあるんですけれど、実際にお買い物。幼少の時に小さいポケットを作ってもらってね、中にお金を入れて。近所のお菓子屋さんにおふくろが話をつけてくれて、そこに行って好きなお菓子を買う。家に帰っておつりを目の前において、「何買ったの?」って言われて、これとこれ買った。「いくらしたの?」、最初の金額を言って、いくらあるから、これとこれというふうに。じゃあ全部でいくら使ったのかな。そういうふうにして計算の勉強を覚えていきました。そういうふうに、うちのおふくろがしてくれまして、計算を覚えるのが好きになりました。今はもう40才ですからね、やっぱり今は電卓でやってます。


 中学時代に公文教室に通っていて、学期末試験、これがまたわからない。点数なんか低いんですよ。その時もクラスメートが良くしてくれて、答えが廻ってくるんですよ。「これ写せばいい点数がもらえるよ」って。いくつかですよ。全部やるとばれますからね。そのお陰でいい点数もらって、できて良かったなぁ。その時は、悪いこともほんの少し。未成年ですから。やりはしませんよ、見学です。監視カメラってのがあるんですけれども、ぼくが監視カメラの係りで、隠している間にやってるんですよ。もっと最悪は下着泥棒ね。これは勇気要りますよ。こっちはやりませんよ。「正ちゃん、かくせ」って言われて、「俺、やんない。やんない」。それをやられて学校に言って、学校が親に言うじゃないですか。でもクラスメートが俺をかばうんですよ。「誘ったけども、こいつはやってないから親に言わないでやってくれ」。そういうのがあって、初めてこう友達といえるんじゃないかな・・・と自分は思っております。そういうふうに、いろんなことをして今に至る。*1
 その当時は、マラソン大会とかあって、結構きつかったですよ。足は痛い。息はハアハアするし、心臓はドキドキする。喉はカラカラ。スタートは良かったんですよ。帰りは一番ラスト。後何時間したら帰んなきゃいけない。必死で走ってるけど、このまま走ってたら帰れない。先生が自転車に乗せてくれて、ゴールぎりぎりまで来て「ここから走っていきな」。それで走って行ったら、自転車に乗ってるってことはわかってるんだけど、わかってないフリをしてくれたんですね。
「正ちゃん、お帰り!」「よく頑張ったね。」みたいにして。最後はかつがれて行ったという、そういうこともありました。


 中学を卒業して高校へ行きました。小学校と中学校は普通校でしたから、高校行ったらラクしよう。それで、いくつか入学試験を受けに行ったんです。大塚養護へ行って、中野養護も行って、最後に選んだのが、東京の世田谷区にあります青鳥特殊支援学校。養護学校、そこに行ってました。*2 そこはまぁ、クラスは良かったのですが、先生があまり良くしてくれなかった。やっぱり、先生と普通にしゃべっちゃうし、何でもできる、こいつ気にいらねぇ・・と。クラスメートに合わせろよ、みたいな。日記も大学ノートに書いていたのが、15マスの学習ノートに書かされて、いつも読まされるんですよね。それで、先生に気に入られるような文を書かないとダメなんですよね。字を直されたりする。それやってから日記がつまらなくなった。
 3年になると、卒業までに就職先を決めろと実習とか行かされた。良かったのは作業所が2件とクッキー屋。最悪だったのはクリーニング店。ここは虐待ですよ。覚えが遅いのを理由に殴ったり蹴ったり。アイロンの上に手を乗っけられて、ジューされたりとか。俺じゃないですけどね。俺の先輩が。俺も遅くて、のろくて、覚えが遅いじゃないですか。「おせえぞ、早くしろ」と、後ろから足を蹴られて、あざが出来たんです。一人に蹴られるならまだいいんです。3人いっぺんに蹴られて、青く腫れるんですね。家に帰って普通にしてたら、妹が「お兄ちゃん、この足どうしたの」。最初のうちは、心配をかけちゃいけないから「ぶつかった」と嘘を言ってたんですね。そしたら、「ぶつかったぐらいじゃ、こうはならない」と、おふくろに言った。おふくろが学校とクリーニング店に話をしたら、クリーニング店と学校がこんなひどいことを言ったんですよ。
「殴られたり蹴られたりするのは普通ですよ。文句言ってると働くところがない。」こう言われたんですよ。親がカチン切れてね、「もう卒業式は出ない」って。そんな時期もあって、それは3年で、2年のときにある先生が自分を救ってくれた。その話に入ります。
 西遊記で言うと三蔵法師的な先生がいまして*3、堀田和子っていう女性の先生なんですけども、産休補助の先生が来ました。「今日から新しい先生が来ますよ」と言われて、こっちは「どんな先生が来るのかな」と思うじゃないですか。黒板に名前を書くわけですよ。“堀田和子”と。順番を待って「お名前なんていうのかな」「南正一郎です。よろしくおねがいします。」緊張してるんですよ。初めての先生ですからね。ドキドキしながら、ぱっと眼が合った瞬間に、きれいなお姉さん系の先生なんですよ。その当時、自分は若かったですから。わかります?
 その先生が、いろんなところに連れて行ってくれまして、担任の先生が教えてくれなかったことを教えてくれたんですね。「ちょっと出かけようか?」みたいにして。「遊びに行こうか?」みたいにして。遊びに行ったところで、「障害者の手帳を使って割引出来るかどうか聞こうか?」ってなって、出来ることがわかって。それで区民館とか都庁とか行って、本を印刷して、「とみんず」っていう本を作ったんです。
 電話の応対とかが出来なかったんですよ。先生にそれ用の台本を作ってもらって、「こう言われたら、こう言うんですよ。」みたいにして。先生なんだけど友達みたいな付き合いをしてくれた。時折、彼女みたいなこともね、してくれたんですよ。先生の方はそういうふうにしている気は全くないんですよ。先生はただ、この子達が卒業した後に何でも出来るようしてあげたいという。彼女が出来たときに困らないように指導はしてあげますよ。先生ですからね。
 それで本が出来て、卒業式当日にその本を各クラスに配りました。
 卒業した後も先生が皆に声をかけて飲み会とかね。成人を越えてますから、多少のアルコールも飲んだり、旅行に行ったりしたんですよ。旅行で一番良かったのは夏の山形。花火大会がちょうどありましてね、これが良かったんですよ。


 大原作業所*4で、毎年秋に祭りがあって、そこで演劇をやるんですよ。最初は「手伝って」って言われて行ってたんですね。演目が落語の劇で、「まんじゅうこわい」という落語。知ってますか? あれを劇にしたんです。自分はやる予定じゃなかったんですけれども、演技指導をしてたらそのまま主役になっちゃって。饅頭ほおばるとかお茶を飲むだとかね。ちらっとやってみますか?

=【まんじゅうこわい】の落語実演=


 父とは仲いいんですよ。あと数日で成人を迎える時、父が「ちょっと来なさい」と言って。手には缶ビールを持っているんですよ。それ置いて、最初から飲まない。最初は真面目な話ですよ。どういう話をしたかと言うと、大人としての注意。お酒の正しい飲み方。飲みすぎはいけないとか。嘘をつかない、人のものを取っちゃいけない。これは常識ですよね。その後に、これだけはしちゃいけない。抱きついたり頬ずりしたりとか。小さいときはいいけれど、それを成人過ぎてやるといけない。女性に飛びついたり、抱きついたりしちゃいけない。成人なのでね、それをやると今度はお巡りさんに捕まっちゃうよ。牢屋に入るよ。人生がなくなるよ。それだけは意識して、やらないようにするんだぞ、と注意されました。そんな話が全部終わってから、一杯飲もうかと二人で缶ビールを飲んだ。その時は、おふくろも妹もいない時。ふたりで真面目な話をした。飲みながら話しちゃうと効果ないのでね、これは。


 8才で英語を習い始めるきっかけ。「MLS」という名前のモデルランゲージスタジオというのが出来まして、無料で体験が出来るというのでそこへ行ったんですよ。最初、見てたら楽しそうでね。そこは、英語といっても英語塾じゃなくて、遊びながら覚える。見てたらワイワイやってて楽しそうだから、ちょっとやってみようかな。「こういう子ですけどいいですか?」「いいですよ!」それで行った。英語で歌を歌ったり、ゲームをしたり、先生が自己紹介とか話とかしてくれるんですね。
 「おうちでどういうことしてるのかな?」という話になって、順番で回ってきたんです。やっと自分の番が来て、「お名前なんていうの?」と聞いたから、「南正一郎です」と。「好きなテレビは何見るのかな?」「ドリフの8時だよ全員集合を見ています」と言ったんですよ。「その中で誰が好きなのかな?」と言われて、「志村けんが大好きです」と言ったんですね。「志村けんのどういうとこが好きなのかな?」と言われて、「面白いところ」です。「どういう内容が好き?」と言われて、「コント」「どういうコント?」と聞かれて、「かあちゃんコント」と答えたんですよ。「志村けんは、コントの役名はなんていうの?」って言われて「ケンボウです」って答えたんですよ。

=志村けんのもの真似=


 「ありがとう」と言われて、その時は終わったんだけれども、そしたら今度は、初舞台。
 台本出来たよって言われて、台本もらったんですよ。台本見てびっくり。台詞は英語。英語って難しいんですよね。まず読めません。ただ読んでもしょうがない。英語っていうのは発音も注意しなければいけないんですよ。それに、舞台ですから、小さい声で言ってちゃわからない。その当時はピンマイクとかなかったので、普通の声ではいけない。それが一番苦労してね。
 台本をもらって志村けんのモノマネを練習したんですよ。最初は先生が相手役になってくれたんですけど、覚えるのが難しかった。「正ちゃん、こう発音するんだよ」とか言われて。「発音わかりません」と言ったら、舌をこうやって、出して、引っ込めて、まるめて、とかいろいろ言われました。
 そのときに注文がついたのは、重たいもの持ってヨロヨロしてくれ。本当は軽いんですよ。でも重いふりをする。ドリフの加藤茶が、重い物を持ち上げて屁をこくみたいな、そういう姿勢なんですよ。足はフラフラしなくちゃいけない。
「う〜。おっとっとっと」ってやったんですよ。笑い声とか聞こえてくるんですけど、こっちは必死ですよ。それからお笑いが好きになって。
 今のテレビのお笑いの人って、やる人が笑いながらやるじゃないですか。自分それはまったく無い。言われた注文どおりにやっただけですよ。まず観客が笑って、裏方さんが笑って、共演者も吹いちゃってね。汗はかいてる、顔はまっかっか。台詞は英語でしょ。これは大変。アホな格好はしなきゃいけない。声は出さなきゃいけない。台詞は英語、発音にも注意しなくちゃいけない。全部やんなきゃいけないでしょ。むずかしかった。その時、だいたい1000人ぐらいいたかな。覚えてないですよ。自分は、夢中でやってましたから。それが結構楽しかったんですよ。
 サマーキャンプっていうのがあって、バスを貸し切ってね。買い物とか、英語の先生と一緒に行って。海外に行ったときのために、「これいくら」だとか「How much this」とか、簡単な英語を教わった。ショッピングの英語バージョン。そういったことをしました。
 中学ぐらいになると、英語も遊んでいられなくてお勉強です。ついて行けなくて、おふくろに言ったら、「もうやめよう」って。そしたら今の先生が来まして、男の先生ですけどお兄さんみたいな、そんな感じの先生。その先生が「自分でよければ、教えさせてください」。それで、おふくろが「勉強だけじゃなくて、男同士、兄貴のような付き合いをしてくれますか? お願いします」って言ってくれたんですね。
 それで、誕生会・クリスマス。映画を見に行ったりとかして、楽しく勉強もしながら、その先生と親しくして、お兄さんみたいになってもらって遊びに行った。仲いいんですよ。その後は、飲みに行ったりとか。子どものときは子どものときの遊び。成人したらお酒を飲める。「これ以上、飲んだら危ないよ〜」とか止めてくれるので、安心して飲めるんですよね。二人で居酒屋とか入るんですよ。誕生日になると「いくつになったんだぁ?」とか言われて、「もう40才になったよ」って、おっさんだよって話をしたりして、「よく続いたな」って言われて。
 英語力は大したことないんですよ。でも英語は楽しい。映画とかよく見に行くんですけど、最初はアニメの映画とかを中心に見てたんですね。ドラえもんとかアンパンマンとか。「洋画も見てごらん」と言われて、最初は難しくてわからなかったんですよ。でも見てたら、ちょこっちょこっと知ってる言葉が出てくる。それを何度も聞いて、録音してそれを聞きながら自分で声を吹き込んだり。そういうことをしています。

 中学2年になったときに、当時14才、空手を習い始めた。その頃は体力がありませんから、今のように丈夫じゃない。筋力もない。足腰が弱ってる。これをどうしようかと思って、おふくろが連れて行ってくれた。*5
 最初は全くついて行けない。最初はマンツーマンで、そこから団体の稽古になって、団体の中にいるのだけど気を遣ってくれて、稽古をつけてくれた。腹筋なんかも教わったんですよ。最初は出来なかった。ちょっとずつやって、数を増やしていった。
 そしたら去年、黒帯をとった。最初は子どもたちがいる少年部でやってたんですけど、「一般の方でやってごらん」ってやったら、そこで今度は「初段の審査を受けなさい」「黒帯を取りなさい」「俺、自信ないです。型も覚えも遅いんで。」「いいから、やりなさい」「やってごらん」優しいんですよ。
 礼儀には厳しいです。それを教わってから目上の人に話すときには敬語で話そうとか、同年代の人たちには友達のように話そうとか、しています。
 黒帯をとって初段ですから、型もだんだん難しくなってくるんですね。挫折もあるのです。覚えが遅いのがイライラして、ついていけないから辞めようと思って。そしたらおふくろが、「もうちょっと続けてみては?」と言ってくれた。それでやってたら、今度は「少年部の指導に回ってください」と。やってみたら良く、最初は、見て教えていたら、今度は「一人で教えてごらん」。「俺できるかな・・・」って思ったけれど、やったんですよ。そうしたら、言う通りにやってくれて、その子が少年部の大会で優勝した。そのお母さんが「有難うございます」と言ってくれました。その時に初めて「先生」と言われて、「先生のおかげで優勝できました。ありがとうございました。」こう言われましてね。
 「よかったな。これからも頑張ろうね」って言ってたら、帯が上がって黄色とかね。それでも「先生、先生」って言ってくれる。「先生」と言われると、気をつけるのは、怪我をさせてはいけない。危ないですから。板の間でやっていますから、ぶつけると痛いんですよ。稽古に飽きてどこか行っちゃうとか、そういうのがありますから。「遊んでいいんですよ」って言っといて、遊びながら稽古させる。

=稽古の様子=


 白血病をしまして入院してました。
 病院に入院すると点滴するんですよ。空手をやってますから、筋肉があるんですよ。点滴の針が入らない。両方入らないので首にするんですけど、首だと動かせないから手にしてもらって。白血病って結構苦しいんですよ。めまいはする、勝手に体は震える、熱が最高40度。頭はツンツルテン。抗がん剤をやってまして、血液のがんですから血液を入れるんですね。顔なんか真っ青で、フラフラですよ。
 その時に妹が、ものまねタレントのコロッケさんに手紙を送ったんです。私はファンクラブ入ってましてね。妹が「兄はコロッケさんの大ファンです。その兄が今白血病で入院しています。中に便箋と封筒を入れておきますので、一言でいいですから兄に送ってあげてください。」と書いて送ったみたいです。こっちは何も聞いてないんですよ。妹は手紙が来ると思ったんですね。そしたら本人が「来ます」と言ってくれて。来てくれました。何も知らないものですからベッドで寝ていましたら、テレビから聞こえる声が、そばで聞こえるんですよ。あれっ?って見たら、いるんですよ、そこにコロッケさんが。「元気そうだね」と言ってくれたので、ファンになったいきさつとか、いろいろ1時間ぐらいしゃべってました。その時に、「この病気を治そう」って意欲が湧いてきた。
 憧れていたテレビの人が来てくれて、「頑張れよ」なんて言ってくれると、病気を治そうという意欲が湧いてくるんですよ。熱があってフラフラの時には食事がとれない。食欲がない、食べれない、食べても吐いちゃう。でも俺は食べたんです。
 ファンになったのは、ものまね王座決定戦という番組を見てましてね、87年に初優勝したんですね。その時にファンクラブに入会した。それからコンサートに母と何回か行きました。コロッケさんは、「また来たの、写真とろうか?」といつも撮ってくれるんですよ。コロッケさんの30周年のライブがNHKホールでありまして、「いのちの理由」という曲をものまねのさいごにうたっていました。
 ここで、のど自慢の話になります。
 歌「いのちの理由」、コロッケさんの30周年コンサートの最後にやるんです。おふくろと一緒に行って、「真面目に歌ってる!」みたいにしてたら、隣にいたおふくろが泣いているんですよ。「この曲いいね」と言って。
歌詞の1部分だけ書いてみたんですけど、

誰でも幸せになるために産まれて来たんだよ
悲しみの花の後から喜びの実が実るように

こういう歌なんですね。
 それでNHKのど自慢大会の予選会を受けに行って、その時にこれを歌ったんですね。落っこちましたけど。その時に自分の滑舌の悪さに気づいて、おふくろが、「歌を歌うときは、腹に力を入れなさい、顔の筋肉を使いなさい、音程を取りなさい、よく歌詞を見なさい。」いろいろ注文されて、「はいはい」ってやった。


 次は地震の話。神戸の方で地震がありましたでしょ。1995年1月17日、阪神淡路大震災があった。僕もボランティアに行ったんですよ。行くにしても、どうやって行ってよいのかわからない、一人では行けないからおふくろに「一緒に来て」ってお願いした。行った時は冬で寒いんですよ。いっぱい着こんで。寝袋とか手土産とか買い物して、行けるところまで行ったんです。そしたら、ニュースで見てるのと現実はぜんぜん違います。凄いです。歩く所がない。屋根の瓦が吹っ飛んでる。マンションの2階がつぶれて1階に来てる。とにかく埃っぽい。
 小学校に大勢の人がいて、大学生のグループがいると聞いて、そこからボランティアが始まりました。最初は街のごみ拾いから始まって、朝になると区役所に行って出来そうなことから始めて、体育かんでかたもみをしました。
 最後の日にカレーパーティーをやろうと炊き出しをやったんですよ。その時に一人のおばあさんが近寄って来て、「肩を触って良いですか?」と。そのおばあさんは、観音様にお参りをするように自分の顔に向かって拝んできた。おふくろに、「お母さん、この子を大切にしてあげてね」と言って。*6
 そして、去年の3月、関東を襲ったあの東日本大震災。行ってあげたいのだけど、自分も白血病やった後だったので行けなかった。だけどその代わりに、「平和のつどい」の仲間と千葉の五井の公民館を借りてコンサートをやって、募金集めをしました。空手の型もやりました。


 やっぱり親が強くなくてはいけない。お母さんたちが弱音を吐いちゃいけない。その中で必要なのは、絵本の読み聞かせ。そのうち自分で読んでみようと思っています。絵本から始まって、小説読んでみようかな。とにかく時間はかかるんだけど、ゆっくりでもいいから必ずできるようになります。
 そこで必要なのは、急がせない。早くさせない。のんびりやらせる。
時間はかかるけど、必ず出来るようになります。


 これで終わりたいと思います。長時間ありがとうございました。

=歌「いのちの理由」=


*1 陰の声:実際は親にばれて、たっぷり油を絞られたそうです
*2 陰の声:プールが良いと彼が選んだ。お母様は賛成できなかったが。選ばせて今でも残念に思うと
*3 陰の声:夏目雅子みたいな、という意味
*4 注釈:掘田先生が支援員をされていた作業所
*5 陰の声:お母様は、行儀も良くさせたいこともあって空手を勧められたとか
*6 陰の声:ダウン症のある人に似たお顔の仏像をよく見る。そのためかも




《長谷川先生のお話》

 皆さん、いかがでしたか?
 今、南さんが着替えをされている間に少しお話をします。
 お母様は第一マネージャー、私は第二マネージャーと言っております。今まで彼の講演で時間がオーバーしたことはないのですが、今日は言いたいことが一杯あったのでしょうね、珍しくオーバーしました。
 南さんのお話を聞かれて、特別な人じゃないかと思われる方も多いかもしれません。お母様は他の方からよく、「正一郎さんは軽いから」と言われて、「そんなことはない、小さい頃は全く同じだった」と言っておられます。彼が他の人の思い通りに生きるタイプではないことは確かですけど、それはどちらかというと親御さんから受け継いだ遺伝子かなと思いますね。
 実際、好きなことや得意なことは、とことん極めて行く方なのですが、やはり苦手なことも結構あります。新しいこと、経験がないことはイメージ出来ないようです。でも、知らない所には一度自分で下見に行くとか、そういうことをして、安心して本番に臨むようにされています。ご自分でも苦手なことはわかっておられますし、私たちもそれをどういうふうにしてあげたらよいかということを話し合ってやる、それが支援の在り方と思っています。
 それから、時間の流れをとらえるのが苦手です。これはダウン症の方には共通と思います。それに対しても、どうやったらわかるか、どういうふうに目で見える形にしたらよいか、そういうことも工夫して行っています。
 お母様は、正一郎さんがご自分で考えられるように、親御さんが先回りして勝手に決めないように、一貫して心がけて、育ててこられました。  先ほどご本人がちょっと言われていましたが、最初に、東京のダウン症の会で講演をされた時に、4つのことを言われました。1つは、「早く早くと言わないこと」。それは、お母様自身が、ご自分が言われたら嫌だから言わないと仰ってます。それから、「やりたいことから始めること」。やりたくないことは時期が早いか合わないことなのだとお母様は考えておられます。それから、「いろんな人に会わせること」。それから、「いろんなとこに連れて行くこと」。この4つです。
 今朝もまた、いろいろお話を伺ったのですが、「世間を知る」ということがとても大事なので、ご両親は、いろんなところに連れて行って、いろんな人に会わせて、それに対してキチッと説明をされています。
 テレビは漫然と見せないで、テレビの雑誌を買って、それを一人で独占するのではなく、家庭の中心ではなく、家庭の中の一員として、番組の予定を見ながら皆で話し合う。テレビを見ながらそれについての感想を言い合う。そういう雰囲気を作るように努められたと仰っていました。そこから学び取るものはとても多く、いろんな知識を入れるだけではなく、判断とか評価もかなり的確にできるようになられたのでしょう。
 私はいつも、彼はすごく偉いなぁ〜と思うのですが、必ず自分で調べるんですね。それと、適切な人を選んで相談しています。お母様も相談をすることは必要と考えておられていますが、「相談しなさい」と指示するのではなく、その話をしながら、わからないことは相談をするようにもっていかれています。
 お母様も言っておられますが、子どもというのは大体、「こうしなさい、ああしなさい」と言われるのは嫌。言うことを聞かないか、表面的に言う通りにしているだけというのが多い。そうではなくて、むしろ他人のことを話す。噂話とか、世間話をすると、よく聞いているのです。世間のこととか、社会の在りようとか、何をするのが良いのか、何をしてはいけないのか、ということを覚えていく上で、噂話というのはすごく大事と仰っていました。女性が噂話を好きなのは、子育てに必要だからかもしれません。人の悪口はいけないですが、噂話で社会に繋がるような話をして自然に社会性が身についていく・・・ということを私は前々から思っていたのですが、今朝もお母様とお話ししていて、本当にそうなのだと確信をもちました。
 南さんが自分で調べたことの一つは、お酒で健康を害さない方法。彼は尿酸が高いのです。ダウン症の方は尿酸値が高い方が多いです。ドクターからはビールは飲んではいけないと言われています。どうしてもお酒を飲みたいのですね。じゃあ、アルコールをどうやって早く体から出すか。そのためブラックコーヒーを飲んで出すということ、他には、図書館と本屋さん2軒で調べて、プリン体というのが尿酸に悪いというのを知って、薬局に行き薬剤師さんに「プリン体のないお酒は何ですか?」と聞いて、ハイボールとか酎ハイ(果実の入らないもの)をなるべく飲むようにしていると言っておられました。
 痛風になりやすい人は、お酒もそうですが、甘いものや果物も尿酸を増やしますので制限することが必要です。ビタミンC剤を使うと良いのではないかと言われています。彼は、ボケないようにポリフェノールを使うと良いということもご存知なのですが、「ポリフェノール」と言うと「ワイン!」とすぐ嬉しそうに答えるので、「ワインはダメよ。お茶が良いの」と言っています。
 お母様のことをすごく尊敬して、しっかり立てておられますけれど、かなり客観的に見ていて言いなりにはならない。自分に対しても親御さんやご家族に対しても、客観的に見ることが大人として大事なことなのです。
 では、用意が出来たようなので、どうぞ。

=空手の型=

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