■■■ The Other Side of Midnight ■■■ Sidney Sheldon, Warner Books
邦訳題は「真夜中は別の顔」。次々に男を乗り換えて出世の階段を上っていく、知的でセクシーなフランス女優、Noelle Page。そのノエルを過去に孕ませ捨てた浮気性の米国人男前パイロット、Larry Douglas。申し分のない恋人をにべもなく捨て、その親友ラリーと電撃結婚した真面目で仕事熱心なCatherine。受けた恨みは三倍返し、ノエルが辿り着いた頂点の男、怖いギリシャ人大富豪、Constantin Demiris。この四者が繰り広げる、愛と裏切りと仕返しのサスペンスなのだった。
エンタメといえば、勧善懲悪。主要登場人物において、罪と罰の程度は各々比例しているのがお約束だ。物凄く悪い奴には悲惨な結末が待っているし、ちょっと悪い処もない訳ではなかった奴にはほろ苦い結末が待っている。また身の上の「不幸」は「罪」を軽減する免罪符として使われる。悪人でも可哀想な動機があれば多少許してしまうのが人情、そういった処がストーリィの結末にも反映されるという。その辺を踏まえて四人を見てみると、ちょっと納得のいかない処がある。
整理してみると、「罪」に関して、ノエルは男を利用しまくってきたという点、デミリスに隠れてラリーと付き合っていたこと、ラリーの妻の殺人未遂。ラリーは自分勝手で数々の女(妻含む)を泣かせてきた点、妻殺し未遂。キャサリンは善良な男を裏切り他の男に走った点、デミリスはビジネスにおける報復の名の下に裏で散々人を殺しまくってきた点で説明がつく。それぞれの「不幸」は、ノエルについては最初父親に愛人としてのレールを敷かれて始まった点、時に無一文で苦労してきたこと、若い頃ラリーに騙された点。ラリーに関しては無し、キャサリンは夫に裏切られ続け、殺されかけたこと、デミリスは幾多の裏切りを自力で乗り越えなくてはならなかったこと。その辺を差し引きして、「罰」はどう出たか、というとノエルとラリーは本当は無罪なのにハメられて死刑、キャサリンは溺れて錯乱して廃人に、そして、デミリスは無傷といったもの。
・・・善良な男をドタキャンする女は廃人レベルの「罰」を受け、愛人は作り邦題、裏で報復とはいえ人を殺しまくってきた筈のデミリスは無罪放免ですよ。また、「不幸」なしの、最初から最后までロクでもないラリーの「罰」が、幾多の「不幸」を抱えてきたノエルと同程度だなんて。・・・ちょっとそれって、かなり不公平じゃないのよう(怒)。エンタメ作り話の王道を行く作者なのに、いまいち勧善懲悪具合のバランスが宜しくない("THE MASTER OF THE GAMES"なんてその辺はっきりしてたのに)。純文学みたいな不条理や儚さを出したい訳でもないので、なんだかオチの収まり具合が心地悪い。いや話自体、つまり読んでいる最中は面白かったんだけどね。読み終わってふと気が付いて、こんなんで良いのかと。
米国のエンタメ小説って大体そうなのだろうが、シドニー・シェルダンという人も、これでもか!というくらい人物描写に縷々筆舌を尽くす人だと思う。根本的な処で理屈を並べることをダサイとし、あうんの呼吸で雰囲気を伝えるのをヨシとする日本人も、此処まで緻密かつ徹底的に、機関銃のように延々まくし立てられたら、ぐぅの根も出ないのでは。・・・というか私は出ないよ。喧嘩にしても書くにしても、きっとこんなに飽きずにまくしたてられない。選び抜いた凄烈かつ強靱な言葉でさえ、この畳みかけるような言葉の奔流にはあっさり飲み込まれてしまうに違いない(って、なんか夫婦喧嘩論みたいだな)。やっぱ「言わなきゃ分からない文化」には負けるわー、と思う。
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