秋津 伶
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割れた鏡面

―裏側にNの署名を持つ7つの短編―

ギリシア神話を題材としたメタフィクション



 鏡面を覗き込む時、鏡面もまた〈私〉を覗き込む。何が 映っているのだろうか。「鉄槌をもって哲学する」フリードリッヒ・ニーチェによってその鏡面は叩き割られた。亀裂が走り、砕け、乱反射する無数の破片と化 した自我。映っているのは、慣れ親しんだ自分でも他の誰かでもない。これら七つの短編は、その砕かれた鏡面の破片である。それらの裏側には、すべて彼の頭 文字Nが刻印されているはずである。
 『ボヴァリー夫人』を仕上げたフローベルが 「ボヴァリー夫人とはわたしだ」と告げ、プルーストが『失われた時を求めて』で生身の自分と入れ替えようとした〈私〉は死んだ。物語の反省意識である小説 が死に、小説の隠された真の主人公である作者が死に、作者の〈私〉が死に、文字の記されたテキストを覗き込んでも、映っているのはお馴染みの〈私〉ではな く、無数の言葉の断片と化した〈私〉、もはや〈私〉とは呼べない亀裂の入った空白の何かである。
 小説の主導権は作者から言葉に移行した。
 ニーチェが変身の神ディオニューソスの愛人アリアドネーと結びつき、日付のない神話の中で誰でもない誰かとなった発狂の日々を描く『アリアドネー』。ギリシア神話を題材としたこの短編集全体の序章でもある。
 ナルキッソスに恋したニュンペーを描く『エコー』は、言葉による三声のフーガによって、自分という木霊から逃れられないその声だけの存在を浮上させる。
 顔は清らかな処女の顔、胴体は貪欲で凶暴な獅子、夢に羽博く翼を持った女性の化身『スピンクス』は、みずから解きえない人間という永遠の謎を男であるオイディープスに、何処でもなく何処でもある永遠の淵から問いかける。
  『ヒュアキントス』は吹き過ぎる時間の風の悪戯による、花言葉アネモネとヒヤシンスとの軽やかな皮肉に満ちた交錯。
 言葉によって受肉され、すべてを贈られた女の『パンドーラー』はシテ、ワキ、ツレの入れ替わる三声のフーガで、希望が残されたことにより満たされないままになった欲望。  
 詩人オルペウスの妻を描いた『エウリディケー』は、詩の根拠を探りながら、詩と詩人の自己欺瞞の生を巡るダイアローグで、二声のフーガ。
 『プシューケー』はエロース神の妻の物語であり、序である言葉によるモノローグ、すなわちコロスの長による前口上の後、空洞の舞台に言葉だけ が登場する悲劇の上演。構成上、短編集の最後に置かれているが、一番最初に書かれたもの。終わりは始まりに直結し、心プシューケーと言葉の運命はさまざま に変奏しつつ、終わることなく回帰する。
 繰り返す情感のうねりに満ちたロマン派の音楽と官能を形而上的に描くギュスターヴ・モローの絵画に触発されて、これら七篇の短編は書かれた。これらの短 編とメタフィクショナルな長編『エセ・ロマンティック』(ゾーオン社刊1998年)によって、近代文学としての小説はすべて終わった、少なくともわたしに とっては。「神の死」が告げられた後、その死を確かめたり、喪に服したりした者はいない。しかし、あえて神を否定したり、言及したりする必要もなくなっ た。「作者の死」もまた然り。その死をまだ知らされていない者はもちろん、知っている者にとってさえ、もはやどうでもいいもの、演じたり語ったりするだけ の値打ちのないものになっている。その葬送は各自のうちで、ひっそりと質素に行われるべきである。
 とはいえ、まだ生きているわたしが、死んだはずの〈私〉 について語る滑稽さは、自分の葬儀に質素な身なりで二度ばかり出たというニーチェの手紙を少しばかり彷彿させる。この異常さ、この愚かしさをできるだけ回 避するために、前世紀末に書かれたこれらのテキストを刊行するまでの「私の物語」は、これ以上記さないでおくことにする。

(後記より)

目 次

アリアドネー

エコー

スピンクス

ヒュアキントス

パンドーラ

エウリディケー

プシュケー

後記


初出一覧
アリアドネー   パラントラ 創刊0号1988年3月20日
エコー      パラントラ 第2号 1988年6月18日
スピンクス    パラントラ 第1号 1988年5月15日
ヒュアキントス  パラントラ 第1号 1988年5月15日
パンドーラー   パラントラ 第5号 1989年1月10日
エウリディケー  パラントラ 第9号 1989年8月26日
プシューケー   未発表   1985年〜1987年頃? 
エディット・パルクのホームページに掲載後、 電子書籍kindle版として出版

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