関西の人・まち(8)
「生野区の教会を訪ねて」 《1》
大
阪環状線桃谷駅から東へ進んだ幹線道路沿いの住宅街に、道路の喧騒はどこ吹く風、緑の色濃い影をおとして2階建ての建物はあった。シンプルな看板がかかっ
ている。「カトリック生野教会」。生野区は、在日韓国・朝鮮人の方の多く住んでいる地区である。中村道生神父は、20年前にここ生野教会へ赴任され、阪神
大震災のころまで活動された。その後9年間を韓国で過ごし、昨年再び生野教会へ戻ってこられたという。通された部屋の壁面いっぱいに、日本語の書物にま
じって半分ほどを韓国語の本が占めていた。
知っているようで知らないキリスト教。その信仰について中村神父にたずねた。
*
(質問者)神戸の震災のときは大変でしたね。
(中村)「そうですね。長田地区というのは在日の方があってね。まあ、ここも在日の方が多いですよね。それでまあ支援に行ったんですけれどね。」
(質問者)何%くらいの方が在日なんですか。
(中村)「生野区は日本で一番多いんです。4人に1人ですから25%です。16万人のなかで4万人は在日です。
でもね、最近はちょっと複雑になっているというと語弊がありますけど、ニューカマーズの人、戦後、いろいろな形で日本に来ている人たち、それからその人
たちを在日といえるかどうか、滞日ですね。仕事の関係とか留学とか。結婚で来ている人も在日になるんだろうと思いますね。来て住む、と。でその結婚も日本
人と結婚する人もいるし在日と結婚する人もいるし、韓国人同士結婚してそのまま日本に住まれて、で、いろいろですね。」
(質問者)在日の方が信仰しているのはほとんどキリスト教なんですね。
(中村)「そ
れもいろいろあります。で、韓国でもね、ほとんど、プロテスタントの方が多いです。まあ韓国はね。4700万くらいの人口なんですけれども、カトリックが
400万、プロテスタントが700万くらいだと思いますね。プロテスタント・カトリックあわせたら仏教よりも多いと思いますけどね。カトリックとプロテス
タントと仏教あわせたら50%。でもパーセンテージなんていい加減ですよね。だってあの、日本の人口が1億2千万だけれど、日本の宗教人口がどれくらいか
というと3億。つまりね、お寺さんは日本人はすべて仏教だと計算しているし、申請するし、神社の人は全部氏子って言って、だからそれだけで2億4千万にな
る。だから実質となるとやっぱりね。キリスト教(の人口)はかなり実質に近いと思いますけれども。というのは信仰告白して自分が信じてこの道を歩む、と決
めるのですから。仏教は別にお坊さんが登録制でこの家の人は全部檀家だ、とかね。」
(質問者)お葬式があれば行くという。
(中村)「お葬式とかなんかね。」
(質問者)キリスト教というのはこう、約束をして、自分がそのように生きるというすごく強い前提みたいなものがあると思うんですけれど。
(中村)「信
仰告白というような言葉があるように、もちろん赤ちゃんのときの幼児洗礼というのもありますけれども、どこかで、その自分の生き方を決断するということが
あるでしょうね。仏教にも『僧侶になる』というときには確かに得度というものがあって、それ以外だと、生活の中で習慣的に仏教徒であると。神道になると
もっと広汎になりますね。」
(質問者)信者になることによる救いといいますか、何かから救われるというようなものはありますか。
(中村)「ま
あ人の信仰のきっかけというか動機というかは、それぞれでしょうからわかりませんけれども、だからある人は何かから救われようという気持ちを持っているか
も知れませんけれども。出会いというものがあるでしょうね。神との出会いとかキリストとの出会いというね。もちろんいろいろな、牧師さんだとか神父さんだ
とかいろいろな、あるいはキリスト教の講演会を聴いたとかね。あるいはそのマザーテレサに会って、とかね。そういうような出会いを通して、キリストの根源
に触れるというそういう形がある。」
(質問者)それは社会の中でそういう出会いがあるかないかっていうのは偶然ですよね。
(中村)「まあ偶然と考える人は偶然かもしれませんけれどね(笑)。偶然かなあ。」
(質問者)もちろん神父様が信仰を広めようとなさるなかで信仰をもつようになる方もいらっしゃるでしょうけれども。
(中村)「偶
然の反対は何だろう。必然(笑)。あまりそういう切り込みでは考えないのです。例えばあなたは結婚なさっているかどうかはわかりませんけれど、出会って結
婚するまでに至りますよね。それも偶然といえば偶然かもしれませんが、でもその中にお互いの選択があるわけでしょう。他の人とも出会っているわけですか
ら。でもこの人と、というときはそれは選択じゃないですか。(私は)だからキリストと出会ったし、いろいろな形でお寺さんにも行ったし、それは神社にも
行っているわけですよね。でも、お釈迦さんの道を歩こうという気にはならなかったんですよね。
で、そのキリスト教の学校に行くのがひとつのきっかけというのはあるでしょうね。私はそこで、自己決断みたいなものがあり選択があったのです。でもそん
な、一方的な選択というか思い込みじゃなくて、結婚でもそうでしょう、私結婚したいとか言っていても相手のある話でしょ。相手が嫌だといえばできないわけ
でしょう。だからキリストとの出会いというときに、キリストと私の間にそういった相互作用があったのだと思います。」
(質問者)イ
エスさまっていうのは中東の、そのエルサレムという地域の神の信仰をつらぬいた方だというイメージというか理解があるんですが、それが何故こう全世界にま
で広がったか不思議なんですけれども。たくさんその土地土地の宗教がありますよね。なぜキリスト教はこんなに広がったんですか。
(中村)「あ
の(笑)、イエスの言葉ですけどね、『私は道であり真理であり命である』。ただ優れた人物であるというだけであったら、そうはいかなかったんじゃないかと
思います。お釈迦様にしろ孔子様にしろソクラテスにしろね。まあ有名な思想家というか宗教者はね、思い出していたんですけどね。
キリスト教の信仰の核心は復活信仰といわれてるんですね。キリストが十字架につけられて死んで、それから復活したというね。そこからキリスト教が始まっ
た。そういう宗教はキリスト教以外にはないんじゃないかと思います。教えとしてすばらしいということがあるでしょうけれど、教えではなくて命としてね。
で、やっぱり現存している神に出会うわけですよね。パウロにしてもね。パウロがキリストに出会ったのは、彼が十字架につけられて亡くなられて、かなり年数
が経っていましたからね。それで、でもパウロの確信は、この十字架につけられたイエスに出会った。それまでは、ユダヤ人の一人で熱心なユダヤ教徒で、ユダ
ヤ教を歪めた邪教のキリスト教を迫害してたんですよね。その信者たちを捕まえようとしていたときに、キリストと出会った。彼の信仰でいえばね。『目からう
ろこ』という言葉があるでしょう。私はつい最近まで日本のことわざか何かと思っていたんだけれども、実は『目からうろこ』というのはその時に復活したキリ
ストに出会って、目が見えなくなるんです。一瞬ね。一瞬というかかなりの期間。そして、あとで目からうろこのようなものが取れて、仏教的な言いかたでいえ
ば悟るっていうかな。あの方が、まさに主イエス=キリストだ、と。ユダヤ教っていうときに、イスラムの人とも同じ信仰なんですよね。唯一の神を信じてたわ
けですよね。神は唯一と。イエスも、自分が神の子、神と同じと主張していたわけでしょ。それで『私を信じるものは永遠に死なない』とかね。で、そのユダヤ
教からすればもうとんでもない邪教っていうかね。で、それこそ目からうろこが落ちた。イエスこそが生きている神、救い主と悟るわけです。それでそこから十
字架の意味を悟る。なぜ十字架なのか。十字架とはなにか。」
(質問者)十字架というのはなんですか。
(中村)「人
の行う、それぞれの罪があるし、人類の罪があるわけでしょう。今でもほんとにほら、社会を見ても世界を見ても、罪深い行いがあるし、親が子を殺し子が親を
殺して、核戦争があってとか、和解したくても和解できないとか、人間のどろどろした世界があるわけでしょう。それは何なのか、という疑問があるじゃないで
すか。究極的には人間は誰でも死ぬわけですよね。死への不安とか恐れとか、人間はどうやって救われるのか、とか、この我々の世界はどうなるのかとか。そん
なときにイエスこそがそれを除かれた神=キリストであるという悟りを得るというね、確信。キリストは、神の子として、全人類のすべての罪をおおわれた。あ
がなわれた。」
(質問者)それは一人の人物がその、ひとりひとりが原罪を持っていると言われますけれども、それを人が代わってあがなうということはできるんですか。
(中村)「だ
から、人はできないじゃないですか。核心の質問だと思うんだけれど、だから、キリストは神だ、ということなんです。人間であり、と同時に神、神であり同時
に人間であるというのが、キリスト教の信仰の原点、というか出発点です。あの、キリスト教の中に異端というのがあるんですよね。でその異端は、『キリスト
は人間であり、真の人であり、まことの神である。』という信仰告白があるんですけれども、それを認めない。キリストは素晴らしい方ですけれど、所詮人間
だ、預言者のひとり。例えばイスラムの人たちはイエスを尊敬していますよ。でもそれはモハメッドみたいに預言者の一人としてです。モハメッドは神じゃない
んですよ。預言者です。偉大なる預言者。神はアッラーです。アラーの神ですね。」 (《2》へつづく)
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