関西の人・まち(9)
「生野区の教会を訪ねて」 《2》
(質問者)不幸というものについて、いろいろ考えたことがあるんですけれど、例えば家族の中の不幸とか・・・。、不幸とは何なんでしょう。
(中村)「あ
のね、聖書のマタイの5章の最初のところから、イエスが幸と不幸について話している有名な『山上の垂訓』のところがあるんですけれども、『幸いなるかな、
貧しい人。』あなたたちは幸いなる。幸せである、というね。で、貧しい人が幸せなのです。私たちは何とかして貧しさから脱出しようとしているわけなんです
けれど、金持ちになったら幸せになると思っているのですけれども、でも、現実にはそうじゃないわけですよね。最大の金持ちはまあアメリカでしょうけれど
も。金持ちの人の心は常に恐れでいっぱいです。ですから、もういつも防衛しているでしょう。テロとの戦い、とか何とか言いながらね。そうやっていつも恐れ
ている。そして本当に貧しい人は恐れがありません。奪われるものがない。『今泣いているあなたたちは幸いである。』神と結ばれているときに初めて、幸いに
なることができるんだ、と。揺るがない。」
(質問者)あの仏教で言う無常観のようなものと似てますね。その、不変のものを求めるというか、はかないものではなくて、絶対なものが・・・。
(中村)「ま
あ仏教に似てる部分があるでしょうね。何か哲学的な、なんというか『悟り』じゃなくてね、前にも言いましたけど『出会い』なんですね。自分でいろいろ、こ
れはある人は夫婦で苦しんでいたりとか、何かの必然であったりとか、いろいろしているでしょうね。それがひとつのきっかけであって、キリストと出会う、神
と出会うとかね。人間て普通に暮らしてなに不自由ないときには別に、究極的なものを求めるよりも、目の前のものを、その追求していくじゃないですか。初め
て、どん底に陥ったときに、人間って何なのか、私とは何なのか、私がなんで生きなければならないのか、死でもどうして死んではいけないのかとかね。命その
ものを問いかけていくわけでしょう。ほんとになんもかんも奪われて貧しくなったときに、初めて、自分が生かされているということに気づいたりしたら、幸せ
じゃないですか。」
(質問者)私
は例えばあの、苦しさというのは分かるんですが、その、不幸というものはずっと着いて来るというか、何ていうんでしょう。どうしても心を前向きにもってい
こうとするとそれだけ余計に引きずられて、幸せだなと思うときがないというか、こう不幸というものの中に自分が入ってしまっているような気がするんです
ね。で、そういう人は結構多いような気がするんです。気づかなかったですけど。何か常に疑いを持っていて。それで、何か社会の中で、不幸が癒えるとか、不
幸でなくなるという方法を探したいという願望が非常にあるんですけれども、もし、(神との)出会いがなければ社会の中で、不幸を克服する方法がある、とい
う希望は持てるでしょうか。
(中村)「あのね、例えば自然に癒されるという言い方をしますね。例えば富士山を見て
ね、本当に癒しをもらう人っているんですね。なんだか私も分かるような気がするんですけど、或いは例えば、誰かとあって、ほんとに愛してくれる人、そして
愛している人と出会ったら、それはすごい生きがいになるし、癒されるし、力になるでしょ。
人との出会いの中にも癒しはあるでしょうし、或いは何か学問的な研究の中に、真理を追究して、見出した真理によって神に触れる。また美の世界にもそれは
あるでしょうね。ちょっとさっき道・真理・生命って言いましたけど、いろんな人は道を求めていくでしょうし、或いは学問的な真理を求めて、或いは命の豊か
さに触れる。例えば何もできない障害者がふっとこうほほえんだりという何かしら深い命を垣間見る。或いはおばあちゃんでも、もう何もできないしね、死ぬの
を待っているだけのお年寄りだっていらっしゃる。でもその人の豊かさ。交わり。それで奉仕に来たつもりがそのおばあちゃんと出会うことによって、かえって
力を得るというか慰められるというか、生きがいを得る。命の世界ってほんとに不思議でしょう。そういうのを含めて命の世界である主を求めていく人たちがい
て、その、もっともっと深い、全部を含めた深い世界の中に、神の世界というのがあるんだろうと思うんですけれども。神の世界にまで至らなくても、自然の中
に、神の光とか力とかを、こうあらわす、例えば富士山とか夜の夏の星とか。自然の中にいろいろあるじゃないですか。私はそう思うんですね。実際に例えば日
本の中でキリストに出会う人もいるでしょうし、ある意味で、日本人の宗教心にしても、深いものがあると思いますね。自然の中に、あるいは人の運命とか、神
秘とかね。そういうことを悟るということは、ある。
その一方では、この2〜30年、失われた10年といった言葉もありますけれども(笑)、すごい世俗化されてきている。価値観が、単純化されてきている。
皆何か同じ方向にいかないと、そこにしか幸せがないという。あの、何というかアメリカの。昔は、アメリカン・ドリームがあったんですけれど、昔はね。若い
時は。あそこに、どれほどの嘘があり落とし穴があるかと、思います。
ものがたくさんあることは、ありがたいことではあるけれど、そうじゃない、例えばそうじゃない、アラブの人たちの、営みね。昨日ね、ウルルンなんとかと
いうテレビやってるじゃない。モロッコの、山の砂漠の中で、ベドウィンの人たちがテント生活している大家族のところへ、お嬢さんが出かけていって一週間く
らい生活するんです。でねそのおばあちゃんとかおじいちゃんが話すのはね、いつも神様の言葉がでてくるんですよ。『神様がこうしてくださるから大丈夫
よ』。とかね、その自然に出てきて、それがね、本当に何ていうか本当に心から出てきている。ああと思ってね。もうそこは何にもないんですよ、本当に。文化
生活のかけらもないところなんだけど、でも神に満たされている、神の愛の心の豊かさ。ほんとに『貧しい人は幸いである。天の国はその人のものだからであ
る。』まさに、その人は、天の国に生きているというか、分かち合う世界にいる。今の世俗の、この自由主義の世界は、奪い合う世界ですね。昨日もね、電話が
来たんです(笑)。で、KDDIっていうのが、今度料金が安くなりましたから何%何%割引ですっていう。これでもうすぐ引っ掛かってね、まあいいや別の機
械も新しくつける必要ないし、サービスしますよって。何のことか分かんないけどまあ安いのはいいと思うわけでしょう。はい、はいって言ってね。ハンコ押し
てサインさせられるわけ。そうすると、私のとこはNTTに入っていたわけですよ。だからNTTから結局お金を向こうに移すことになる。何かがないと来ない
わけですよね。理由がある。ただでサービスすると、ただより高いものはないわけです。結局私も同じ穴の狢というか、やっぱり安い方がいいみたいな、欲得で
どこかで生きてしまっているわけです。それは神の国じゃない。神の国というのは本当にとったものはすべて分かち合う。
ベドウィンの子どもたちが、駱駝を放牧するわけですが、別にそこでお金があるわけじゃないじゃないですか(笑)。そしたら、虫とか鳥とか捕ってきて、岩
穴から鳥捕るのうまいんですよね。それを毛をむしって、焼いて、一番おいしいところをその若い女の子にあげるわけね。どんなに豊かですか。分かち合うね。
貧しい人たちは分かち合うんですよ。私たちもしますけど、寄付とかね。でもそれは余ったものですよ。痛みはない。」
(質問者)自分のためではなく人のためにということですよね。
(中村)「テ
レビで観てたんですけど、鳥の中で一番おいしいところがあるんですって。喉のこの辺の肉なのかな、それをちゃんと知ってて、それをちゃんと包んで、その人
にあげるわけですよ。で自分たちは他の残ったものを食べるわけね。で、分かち合う心の中に、昔の日本人は、持ってたことがあるんですけど、『もてなす』と
いうね。それはもう宗教のカテゴリーじゃないかなと思います。八十八箇所の四国の巡礼で、今はだいぶん商業化しているみたいですけれど、やっぱりお遍路さ
んがきたらもてなすわけです。そういう人と人との出会い、分かち合いの中で、生きる力をもう一度取り戻せるんじゃないかな。」
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