xx 癒しの森 xx 1
あなたは、人を信じることができますか? この人なら!と無条件に信じられる人がいますか? 人を信じれば、裏切られるかもしれません。 どんなに信じられる人でも、その人が100%あなたの思うように動くという保証は、ないのです。 たとえ、0.0000…01と、小数点以下の0の数がどれだけ増えようと、裏切られる確率が0になることはありません。 信じていた人に裏切られれば、あなたは傷つくでしょう。 それでも、あなたは人を信じますか? それとも、傷つくことを恐れ、信じませんか?
新野太一は、いつものように“いやしの森”の隅のベンチに腰掛け、人の流れを眺めていた。 “いやしの森”とは、市街から少し外れた所にある木に囲まれた広場の名前である。 広場の真ん中には、大きく枝を広げた木が一本、植えられている。 昼間は子供たちが走り回り、買い物帰りの主婦たちが閑談する風景が見られるが、夕方以降、そこは知る人ぞ知る男の身売り場と様相を変える。 “いやしの森”とは、よくつけたものだな、と太一はいつも思う。 昼間はまさに、人々の心を癒す場であり、夜になるとある意味卑しいものたちの集まる場になるのだ。 いや、一概にそうは言えないかもしれない。 夜にここへ集まるものたちも皆、“癒し”を求めているのかもしれなかった。 太一も一年前までは、“癒しの森”の裏の姿を知らない、普通の高校一年生だった。 ある決定的な事件をきっかけに、自暴自棄になっていた太一が夜、たまたま“いやしの森”を通ったとき、彼は知らないおじさんに誘われた。 そのときの太一は、男に抱かれ、自分を痛めつけることに何の抵抗も感じなかった。 こんな望みのない世界に、存在したくもなかった。 優しげなおじさんに買われ、太一は抱かれた。 太一がもう名前も忘れてしまったそのおじさんは疲れた目をして、仕事の愚痴をポツリポツリともらした。 そして、“ありがとう”と太一に告げて、ホテルを出ていった。 太一も何か、心が温まるような気がした。 以来、太一は“いやしの森”の常連となっている。 お金の問題もあって、自分が買うことはなかった。 ひたすら誘われるのを待った。 声を掛けられない日もあったが、それはそれで、森の人々を観察するだけでも太一の心は和んだ。 自分と同じ、弱い人間を見るとホッとした。 こんな傷の舐め合い、何の意味もない。 分かっていた。 けれど、“意味のあること”にどれだけの意味があるのだろう? 太一は心地よい流れに身を委ねていた。 太一の相手は、歳の二周り以上離れたおじさんが多かった。 肉体的欲求のために、ただひたすら体を繋げる関係は太一の望むところではなかったため、若い男の相手は余程相手を気に入らない限り、断るようにしていた。 森には森のルールがあり、断れば相手に強要されることはない。 それが守られている点、森は客層がいいと言えた。 「よぉ、タイチ。元気か?」 突然視界がふさがれ、太一は上を見上げた。 ブランドもののコートを辿っていった視線は、端正な顔に行き当たる。 「カイさん。お久しぶりですね。最近見なかったですけど、どうしてたんですか?」 カイは太一にとって森でできた唯一の“トモダチ”だった。 大学を出たばかりのカイは、比較的太一と歳が近かったし、どこか同じような思いを共有している節があったので、話が合ったのだ。 カイも客を選ぶ方で、二人して売れ残ったときは二人で言葉少なに朝まで森のベンチで過ごすこともあった。 「ちょっと…ね。いいコトと悪いコトがあって…」 カイは、太一の横に腰掛け、細い指にはさんだ煙草に火をつけた。 「??」 顔にクエスチョンマークを貼り付けた太一に、カイは喉で笑った。 「はは。分からないよな。今日は、客とりに来たんじゃないんだ。タイチにお別れ、言おうと思って」 「え……?」 不安そうな顔になった太一の顔を、カイの冷たい手が覆う。 「そんな顔すんなよ…。行けなくなっちゃうだろ?」 カイは顔を近づけて言い、灰が太一にかからないようにすぐに離れた。 「…どこか、行くんですか?」 「うん、そう。…ちょっと、イギリスに、ね。そこにハハオヤ、いるから」 「そうだったんですか」 「言ってみれば…逃げ、なんだけど。って、こんな断片的に言っても分からないよな。ゴメン。とにかく…行くよ」 「そう…ですか」 「お前は、俺みたいになるな。いつか、幸せになってくれ。…心から、願ってるよ」 言って、カイは立ち上がった。 太一の目元に軽く口づけ、背中を見せて去って行く。 一つ、大事なものがなくなった気がした。
太一はカイが消えて行った方を、焦点の合わない眼で、ずっと見つめていた。 幸せって、何ですか? もういないカイに向かって質問する。 太一は今の状態は、悪くないと思っていた。 これは、幸せな状態ではないのだろうか? 「こんばんは」 物思いに耽っているときに声を掛けられ、太一は肩を振るわせた。 見ると、肩の所で長い毛を束ねた男が座った太一を見下ろしている。 男は柔らかい表情で、微笑んでいた。 何だか、陳腐な表現になってしまうが、天使みたいだ…と、思う。 「春?マジ、こいつにすんの?何か、ビクビクしてるトコといい、俺気に入らないんだけど?」 長髪の男の横から声がして、太一は初めてもう一人の男の存在に気付いた。 顔は太一の場所からはよく見えなかったが、身を少しかがめて、ハルと呼ばれた男の首に腕を回している。 何だ?コイツら…。 二人を睨みつけた太一に、長髪の男はなおも微笑みつづける。 「愛、うるさい。ごめんね?こいつ、気にしないで。俺、春也っていうの。今晩、俺といかがでしょうか?」 若い男の申し出はなかなか受けない太一だったが、春也の微笑みに、ふと付いて行きたい衝動に駆られる。 いい人のような気がする…。 それは、当てにならない直感だった。 それで痛い目に合うこともあった。 それを思い出し、太一は慎重になる。 「そいつは?」 後ろの男を指して言う。 「えーっと、仲間ハズレにしたら…怒る…かも」 春也が言いにくそうに告げると、当たり前だ、と言うように男は大きく頷いていた。 「でも、そいつは俺を気に入らないんだよね?」 「今日は俺が選ぶ番だから、気にしないで?」 こいつら、いつも3Pやってんのか!? 太一は一瞬驚いたが、ここにどんな趣味のヤツがいてもおかしくないことを思い出す。 今まで、たまたま太一に声を掛けてくるやつに、そういうのがいなかっただけなのだ。 カイに見捨てられたあとで、太一は寂しかった。 どうしても今夜は一人でいたくなかった。 そして、春也の微笑みは優しかった。 複数の条件に後押しされ、太一はベンチから立ち上がった。 春也は後ろの男を自分から離れさせると、太一の肩に手を回す。 優しくエスコートされ、太一は歩き出した。
2000.03.15 脱稿 |