xx そういう関係2 xx
― 交わる関係 ― 2
下宿の近くを歩いていて、小さな子に指でさされて気が付いた。 僕の頬を冷たいものが伝い落ちていた。 ………どうしたことだろう。 僕は驚いた。 少しも悲しくなんか、ないのに。 僕は自分の心の中を覗き見る。 …ただただ、空虚なだけ。 涙を流すような感情なんて、どこにもありはしないのに…。 それからの、僕の涙腺は完全に壊れてしまっていた。 コントロール不能。 気が付いたら瞳から溢れ出していた。 気を張っている間は、なんとか大丈夫だった。 でも、浅井と一浩さんの前ではヤバイ。 ともすると、気を許した彼らの前でボーっとしてしまう。 その“ボーッ”がいけない。 何を考えてるわけでもないのに、瞳が濡れ始めてハッとする。 相手に気付かれる前に、と僕は瞬きを繰り返して瞳を乾かし、今までは何とか見つからずに済んでいた。 だんだんと、涙と付き合うすべを覚えた。 浅井の前でも一浩さんの前でも、どこか気を引き締めていれば大丈夫だった。 僕は、その慣れに油断していた。 その日、僕は浅井の部屋で一緒に課題を片付けていた。 昼からやっていたのに、教授の気に入りそうな考え方を、探っていたら遅くなってしまった。 「夕食、食って行けよ。手料理をご馳走してやろう。お前、課題進めといてね」 言われて、僕は笑いながらうなずいた。 浅井の料理は何度か食べたことがあった。 大雑把に料理するのに、なぜかおいしい。 僕はしばらくペンを動かしていたが、疲れたな〜、とキッチンにいる浅井の後ろ姿を見やる。 だんだんと、湯気がキッチンにたちこめる。 湯気は、いい。 温かくて、幸せそうだ…。 「できたぞ〜。机の上片付けて…」 振り返った浅井が、妙な顔をして言葉を止めた。 …?……あ! しまった、と思ったが遅かった。 いつものように目をパチパチすると、乾くどころかますます涙は溢れ出し、床にポツリと…落ちた。 自分を見つめてくる浅井から目をそらせないまま、僕は手探りで床の水滴を拭う。 いつものように、何も聞かないで…お願い…。 浅井はゆっくりと僕のほうに近づいてきた。 ひざ立ちしていた僕の前でかがみ、視線の高さを合わせる。 その間も、僕たちはお互い目を逸らせないでいた。 浅井が手を伸ばして僕の頬に伝った涙を拭う。 「…見ないフリなんて…できないぞ?」 低い浅井の声が、なぜか胸に染み込んで、新しい涙が目から溢れた。 ナニコレ? どうして…止まらない? 「バカだな…お前…ほんっとうに、バカ…」 浅井も僕と同じくひざ立ちになって、彼は…僕を、抱きしめた。 ナニ? ぎゅーっと、浅井の腕で体を締められて、確かな感触に胸が軋む。 僕は溢れる涙を流れるにまかせた。 それは浅井のカラーシャツの肩口に、大きなシミを作ってゆく。
僕が泣き止んだのを感じとって、浅井は体を僕から離した。 そして彼は、僕の涙の跡を親指で拭って、目尻に軽いキスを落とした。 「………」 ちょっと目を見張った僕を見て、浅井は苦笑を浮かべた。 「…ごめん。つい…」 僕は、思わず笑ってしまった。 浅井は女の子を慰め慣れているのだろう。 「ウマイね。浅井」 当てこすりでも何でもなく、僕は感嘆の念を込めて言う。 何とも答えようがないらしく、浅井は困ったように笑った。 「…来いよ」 浅井は僕の腕をひいて、部屋の隅に向かった。 そして、自分は壁にもたれて座り、足の間に僕を座らせる。 「なに?この格好…恥ずかしいよ」 後ろから抱き締められて、僕は彼の腕から逃れようともがいた。 「おい、暴れるなって。別に俺がお前に惚れててどうこうしようと思ってるんじゃないから…って、惚れてるけど恋愛感情じゃ、ない。お前が、イヤだったら止めるよ。俺の腕の中は安心できないか?」 「……できる」 ボソッとつぶやくように返事した僕を浅井はますます強く抱きしめた。 「う〜。ますます惚れそう…」 バカなことを呟く浅井の指を、軽く噛んでやる。 「お前なぁ…」 抗議の声を上げた浅井を僕は無視した。 「いつから…泣いてた?」 「さぁ?湯気が、立ち始めた頃…かな?」 「違う!今日じゃなくて、もっと前から泣いてたんじゃないのか?」 「……もう、思い出せないよ…」 「そんなに前からかよ…泣くほど辛いんなら、どうして…」 「辛いから、泣いてるんじゃない」 浅井の言葉を遮って、僕は言った。 「じゃぁ、どうして…」 「…分からないんだ…僕も、最初は驚いた。辛さとか悲しみとかいう感情は僕の中のどこを探しても、見当たらなかった…」 浅井は、僕の頬の肉をつまんで引っ張った。 「いたたた」 浅井の手を払いのけて、僕は後ろを振り返る。 「もうっ、何すんだよ?」 浅井が、思いのほか真剣な顔をしていて、ビックリした。 「バーカ」 それだけ言って、浅井は口をつぐんでしまった。
2000.03.23 脱稿 |