山内話

山内昔咄

項 目

1.兼常ばなし 付、放ち討ち
2.公の勇敢 付、秀吉との縁
3.三木城攻め 一番の駈け
4.累世禮節を尚ぶ
5.鳥毛之御槍
6.松並半丞 、近藤勝之丞を介錯の事
7.容堂公遺訓
8.藩主の居合‐錆びた数々の居合刀
9.明君・豊常公 家来の差し出口を叱る事
10.豊房公曰く 武を修する上の覚悟
附 「元禄十四年は山内家の兵法元年」
11.林六太夫に関する記録
12.組み討ち助太刀の心得
13.平井先左兵衛の逆インサイダー取引と弓の名手・曽我平太夫
14.乱世の大名、治世の殿様‐一豊公の草履取り手討ちと豊昌公の草履取り折檻の話‐
15.大筒の使い方

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 平成十八年の今年、大河ドラマが「功名が辻」、山内一豊公と妻の見性院(千代)様が主人公ということで、一豊公の武辺話や歴代の殿様の話を聞きたい、という方があります。
 困りましたねぇ。旧子爵・山内家の方とはお付き合いはありますけれど、私は血縁者でも一族でも何でもないのです。ただ、英信流が明治まで土佐で受け継がれたのは山内一族や家中の方々の努力の賜物であったことに間違いはないでしょう。「土佐山内家中の文化を知ることが英信流を学ぶ上で役に立つのではないか」というお申し出もあったことですし、例えば介錯の前の気持ちの落ち着け方とか、介錯の後の血刀をどう処理するかなどというような話など、いわば山内一族や家中の心得事や様々な逸話が土佐の士風を育て、また、支える一助となっていたことを思えば、そういった山内家の四方山話をすることも、英信流を学ばれる方達の参考とまでは行かなくても、稽古あとの雑談のネタ位にはなるかも知れません。
 その程度でよければ、と思い、この項目をたてました。ただ、ドラマで様々なエピソードも紹介されるでしょうから、私がここで下手な文書で先に綴ってしまえば興味も半減です。それでは申し訳ないので、テレビとにらみっこしながら、紹介されなかったようなエピソードをボチボチ紹介してゆきましょう。


1.兼常ばなし


 一豊公佩刀の兼常というのは有名であったらしく「武徳会誌」に「関の兼常の切味 齋藤、山内の兼常」という一文が掲載されています。兼常というのがどういう刀匠かというと、その記事では以下のように説明されています。
 「関に兼常が五六人ある其中で上作と称するするは応永のころ大和手掻より美濃の関へ移住した奈良太郎兼常これが上手であるこの人は多く二字銘に切る次に文明ころ濃州下有知住兼常と云ふ人があるこれも上手で業物の部に入れてある、また赤阪関の一派に兼定の門人で兼常これは明応から永正ごろの人マヅこの三人の刀ならば二ツ胴位は受合である、兼常は多く二字銘であるから裏銘がなければ之を分つ事が困難である、併し何れにしても古刀と見えて刃も健全で銘振りも確かなものであらば切味は受合である。」
 さて、一豊公の事。天正元年、秀吉配下の梶原某が美濃の齋藤家に内通の様子。そこで秀吉は彼を長良川堤防工事の監督に出張させた。そして秀吉は一豊公と松田、山下の三人に「放討‐はなちうち」を命じた。
 三人は長良川近くの梅ケ寺に酒肴を用意し「遊山に来たから」と梶原を呼びだした。梶原は用心深く家来十数名を引き連れてやってきたとき一豊公が「梶原殿のお供の衆込み合い候」と声を掛ける。「そんなにぞろぞろ来たら狭い」というのである。と梶原が「その方ども、あとへ下がり候へ」と家来をしかると皆五、六間ほど下がる。その瞬間「上意!」と叫んで兼常で斬りつける。本当は事前に籤を引き、「1.山下2.松田3.一豊公」と斬りつける順番を決めていたのであるが、そんなことは状況次第である。松田が二太刀目、山下が三太刀目をつけて梶原落命。
 後で事の次第を聞いた秀吉は「大事の業前にてはその場の機会(しおあい)次第で手を下すが手柄なり。猪右衛門(一豊公)の仕度もっとも巧者なり」と賞賛したという。
 実はこれ以外にも一豊公の放ち討ちの功名話は幾つかあります。それはまた、いつか話したいと思います。

語釈‐放ち討ち

 「放ち討ち」などという言葉は今日では聞かぬ言葉です。同記事中に上手く説明してあるので、これを引用しようと思います。ただし現代人には読みにくいと思うので表記を一部書き改めました。
「此の時分は侍を処罰するに放ち討ちと云う法があって君命で突然討ち果たすのである。これを上意討ちとも云う。必ず声をかけて斬りつける事になっている。声をかけずにやると喧嘩になって討った者も腹を切らねばならぬ。主人が自らやれば手打ちと言い、家来に命ずれば放ち討ちという。放ち討ちの二三度も首尾良く致せば勇名が世上に聞こえ、やり損ずれば返り討ちになる」  

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2.公の勇敢


 『山内家史料 一豊公紀』の第一巻に「公の勇敢」としてこんな逸話が載せられています。
 永禄三年(1560)の夏のことである。その頃美濃の牧村兵部殿の元に牢人身分のまま一豊公は身を寄せておられた。(ある戦闘のとき)敵兵五六騎が突然現れたので味方はあわてふためいた。
 そのとき十六歳であった一豊公は水色の帷子をお召しになり、鉢巻きをすると兵部殿の乗り換えの馬に乗って敵に立ち向かった。兵部殿が縄手の脇道を先に引き上げられ、一豊公は本道をすらすらと引き取られる。
 (そのとき)敵兵一人に目をかけ、追いかけて勝負に及ばれるところ、兵部殿が引き返してこられ「若輩には過ぎたる振る舞いよ」と言葉をかけ、その敵に駈け合わそうとすると敵は退いた。この間一豊公の振る舞いはおちついたもので全く騒ぎ立てるところがない。
 「さすがに山内の一子だ」と兵部殿は語り、感心していたと言うことである。
 また、この時の武者ぶりを秀吉公が聞かれて感心され、それで召し出されたとも言う。

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3.三木城攻め 一番の駈け


 天正六年(1578)秀吉に従い播州三木城を攻めていたときのことです。、八月十五日、嘉古の付け城の軍勢が三木城への兵糧搬入の支援に出てきました。その時のことです。
「附城の軍勢これを防ぐ時に一豊公本陣より一番に駈け出で給ひ高名し給ふなり」
とあり、又『寛政重修諸家譜』にも
「同十五日の夜石野越中守城を出て嘉古口の附城におもむきいとみたたかふときに一豊一番に嘉古口にいたりて敵の首をきる事おほし」
と見えているとか。
 一豊公というとまるで奥さんのおかげで大名になれたようなイメージがありますけれど、武勇にも優れた方であったようですね。

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4.累世禮節を尚ぶ


 「嫉妬と言うことで云えば、女の嫉妬より男の嫉妬の方が余程怖い」などと申します。一豊公はいわば何の軍功もなしに小山会議の一言で土佐一国を手にしたわけですが、戦国の荒くれ大名から見たら決して面白いことではなかったろうと思います。それを意識してのことでしょうか、『名将言行録』にこんな話が出ています。

 一豊封を受くるの後、諸陪臣に、府下、或は路途に遇ふ毎に、則ち必ず騎より下り、轎 より出で、揖譲して過ぐ、是を以て衆、遙に望見せば、必ず之を避けり。

揖譲(ゆうじょう)=拱手の禮をなして謙遜すること。轎(きょう)=小さき車、竹輿、ヤマカゴ、アゲコシ

 土佐に封じられたのち、一豊公は陪臣にさえどこであっても常にすぐさま馬を下り、また乗り物を出て礼を尽くして道を譲ったので、以来人々は山内家の行列を見ると必ずこれを避けたというのですね。
 それは自分より格下の者にも礼節を尽くすことで無駄な摩擦を避け、無用の妬みを買うことのないようにという配慮でもあったろうとは思いますが、他の諸記録を見ていると、あまり酒も飲まず(子孫の飲みっぷりからはからは信じられない!)、物静かな方だったということですから、それは作為的なものというよりも、むしろ”地”だったのではないでしょうか。
 私はそういう人、好きです。私が段位称号が余り好きではないのは、それをとるために一生懸命努力することは良いことだとおもうけれど、時々、相手より段が上なら人間としても自分の方が上等だと勘違いしている人というのが全くいないわけではない、ということを知っているからかも知れません。
 この後の文章は「累世禮節を尚ぶと云ふ」とその家風を讃え、続いて質素な家風の逸話へと続いていますが、そこには一豊公の人柄がそのままにじみ出ているように思います。

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5.鳥毛之御槍


 昨日(平成18年6月5日)、大河ドラマ「功名が辻」をみていたら、備中高松城攻略戦で一豊公が敵の槍の穂先を奪い取る話が描かれていました。しかし、戦闘シーンはなく、秀吉公などがその様子を遠望している体で、その会話によって戦いぶりを説明するという技法がとられておりました。  そこで、『山内家史料』の中からその時の様子を紹介したいと思います。もとの資料は『御武功記』の天正十年(1582)の記録です。

 一 秀吉公中国へ出陣され、毛利と合戦されたときのことである。一豊公も出陣され、「野間」というところで敵と槍を合わされた。
 敵の槍の柄は二間半、姓名は分からない。一豊公の御槍の柄は二間。敵の槍が一豊公の御兜の内に入り、左のお耳の下に浅手を負わせた。敵がそのまま引き取ろうとしたところを(一豊公は相手の)白刃を握り引っ張ると、手の中で目釘が折れる音が聞こえたので、ねじ折って捨て、すぐさま敵を仕留めた。この時御掌を負傷されたが少しも痛まず、御家臣の五藤吉兵衛がきれいな手拭いで手当をした。(槍の穂先は五藤吉兵衛が)腰に差して(『御家中名誉』には「吉兵衛儀右之槍之穂をわたがみに挟み」、とある)陣に持ち帰った。‐中略‐今の「鳥毛之御槍」とはこれである。
 三角で塩首まで五寸九歩(分)。梵字あり。三王大師とあり。樋あり。‐略‐来国俊と銘あり。

 大名行列の先頭に立てる槍の鞘にはそれぞれ工夫が凝らされ、槍を見ればどの御家中か分かると言うことで、『武鑑』にもそのデザインが描かれています。
 山内家のこの槍にはT字形の鞘がついており、立てると丁度、鍔の広い帽子をかぶったような形になります。全体を尾長鶏原種と思われる鳥の羽で飾り、黒色をしていることから「黒大鳥毛」とも言われ、最近山内家宝物資料館から出された図録「将軍と大名」にもその写真が掲載されています。ただし、槍そのものは掲載されていません。
 先に上げた資料の原文を一部引用すると「白刃を御握り御引取暫ク御争之内二、目釘之折ルル音聞ヘ則チ御捻折捨則敵を御討留」とあります。資料の最後で槍の特徴を述べた部分に「中心の寸八歩少し」とあり、この「歩」とは「分」でしょうから、中心の長さは約二,五センチと大変短いものとなります。というと、本文の「御捻折」というのはやはり素直に「槍をねじ折った」と読むべきなのでしょうね。ならばこの寸法でも不思議はありません。(吉兵衛がこの穂先を挟んだという「わたがみ」とは鎧の肩の部分にあたります。槍の中心というのは大変長いものですから、わたがみなどに槍を挟んだら邪魔になると思いますけれど、もし八分ほどに折れていたなら全体で七寸(約二一センチ)足らずということになるのでわたがみに挟んでも邪魔にはならないでしょう。それにしてもとんでもない力持ちだったのですね、一豊公は。
 しかし、この寸法では使い物にならないでしょうから、後に中心を継いだのか、あるいは中心はいじらず、キャップ型の継ぎ足をつけて使用したのかは分かりません。また、『御武功記』にはそう記されているだけで、実際の中心はうぶのままなのかも知れません。資料館に電話すれば教えてくださるでしょうけれど、今年一年はなにかとあちらもお忙しいでしょうからやめた方がいいですね。でも、いつか折を見てお聞きしてみたいし、現物も拝見したいと思っています。

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6.松並半丞 、近藤勝之丞を介錯の事


 八代豊敷公の時代のこと。享保十九年(1734)三月二十六日、三州奥殿一万五千石松平様お屋敷内にて山内家家中・近藤勝之丞が刃傷事件を起こしました。
 土佐の生まれで鍼治療を以て松平家に仕えていた河本松随と近藤は遠縁にあたり、日頃から昵懇にしていたのです。この日も河本の治療を受けたのち酒肴の接待を受けていたとき、近藤にわかに乱心、河本に斬りつけて重症をおわせて取り押さえらられ、山内家に護送されてきました。
 さて、河本落命の場合、近藤は切腹と決まり、介錯には関助左衛門・松並半丞がえらばれました。いつ切腹となるかは分からないので一日交替で、当番のものが介錯、もう一人は副介錯ということで二人が任命されたのです。
 四月十三日、二人は目付の若尾槇右衛門に呼び出され、昨夜河本が死去したことを告げられました。すると近藤は
「私共介錯を命ぜられ、本日は私が当番です。しかし、相手は乱心者故、必ずし損じることでしょう。そこで、”放ち討ち”にて仕留めたいと存じます」
と申し出ました。すると槇右衛門は
「成る程道理である。しかし、普通通りに介錯するように。もとより乱心者のことであるから介錯は難しいかも知れないが、左右の手を縛らせておくから」
と言い渡しました。すると半丞は
 「思し召しはごもっともでございます。しかしながら”武士道”ということを考えるなら外聞は如何でございましょうか。それでは近藤があまりに気の毒でございます。それでは縛り首同然ですので、そういった処刑であれば士分に申し付けられることではなく、(下級者を取り締まる)横目の者に申し付けられるようなことと存じます。この度のことについてはどうぞ私の思うようにさせてくださいませ」
と重ねて申し出た。すると槇右衛門は
「成る程尤も至極の申しようである。これ以上はとやかく言うまい。何分とも宜敷とりはからわれるように。」
と答えた。
 さて、その日の切腹は松平様が日光に御用で出かけておられたため延期となり、二十一日に処刑となった。当番は松並半丞。介錯刀は近藤の父・半十郎の願いにより勝之丞の常の差料である備前守忠国二尺三寸。
 さて、御徒目付の岩崎幾丞が柄を奉書で包み、二カ所を結んだ脇差を載せた三方を勝之丞前に置いた。切腹の形にはなっているが乱心者故、何をしでかすか分からないと言うことで、刀を落とし差しにて控えていた半丞は直ちに勝之丞の畳の所に歩み寄り抜き打ちにてその首を落とした。首は一間以上前に飛んで落ちたという。

 また、一説にこんな話も伝わっている。勝之丞は入牢中、「月代を剃りたい」と言っていたけれど乱心者なのでそうも行かない。いよいよ切腹となったので切腹の場で月代を剃りたいと申し出た。そこで湯を入れた盥を用意して勝之丞の前に置くと勝之丞は盥をのぞき込もうとして俯き加減になる。そこをすぐさま介錯、随分と手際の良いことだった。

 その夜、遺体は麻布薬王寺へ運ばれて葬られることになり、関助左衛門・松並半丞の二人はこれを見送りに行った。

 「介錯の心得」、などともうしますと、やたら儀礼的なことや技術的なことばかりのように思う人もあるでしょうが、それだけではないように思います。勝之丞の名誉を思って手を縛ることを断り、その亡骸を寺まで見送るというような心遣いこそ一番大切な「心得」ではないでしょうか。抜き打ちに斬るとか、盥をのぞき込むところを斬るとか杓子定規にいえば「卑怯」かも知れません。が、そこには乱心している勝之丞に見苦しい振る舞いをさせまいという思いやりがあり、私は何れの伝承が正しいにせよ半丞の振る舞いを「卑怯」とは言えないと思います。
 さて、介錯の前に半丞はある老人からこんな伝授を受けています。
 「介錯ばかりに限らず、大事の場に赴くときは左右の足の親指の毛を唾でよくぬらしなさい。古人の教えですから決して忘れないように。さてそれから介錯が終わってから鼻紙(懐紙)で刀を拭います。そのときのために内側の四五枚を水に少し浸して鼻紙の中に挟んでおきなさい。そうすれば血も良く取れます。それに乾いた紙だと抵抗が少なく、滑って指を切ることがありますからね。」
 半丞はこの老人の言葉を守ったところ刀の血も良く取れ、その場に臨んで上気することもなかったということです。

 余談ながらこの話によれば、「血奮い」を刀から血を振り飛ばすことだという解釈もあるようですけれど、刀に付いた血というのはなかなか簡単には落ちないようですね。

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7.容堂公遺訓


 土佐山内家中の文化を知ることが英信流を学ぶ上で役に立つのではないか、とそんな話もあったことからこのコーナーを作ったわけですけれど、英信流だけではなく、武道を学ぶ上で、又、学問を身につける上で今でも意味のあるのではと思う言葉があります。  
容堂公が藩主になられてまもない嘉永二年(1849)五月十日に出された十三箇条の通達の内の一条です。

一 忠孝を励まし礼儀を守風俗をそこふへからす尤文武之道を常に心掛候義可為当然事 附 文を学び其行を不省武を修練するといへとも唯名を求める族皆真実の道に非ず

 容堂公は徳川家で言えば将軍継承者を出せる家格である御三卿にあたる南邸家の出身です。公はその南邸公子のころから居合を好み、常々

大名たる者の刀は士心に在りて、區々身に帯ぶる武器のみを頼むまじ

と言われていたそうです。
 先に引用した一条の「附」の部分、「学問をしても自らの行いを省みない。武芸を修練するといってもそれはただ名声を求めるだけのため。こんな連中のやっていることは何れも真実の『道』ではない」、という部分は以前掲示板でご紹介したとき、共鳴される方も多かった一文です。
私もこの部分、大好きです。  勿論これだけではなく容堂公の言葉は数多く記録されていますが、「英信流を学ぶ上で」ということであれば、この二つは特に味わい深い言葉だと思いますので、「容堂公遺訓」として抜き書きをしました。これは私が自分の好みで選んだものですのでもとより私の手元に「容堂公遺訓」という書物や文書が伝えられているわけではありません。

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8.藩主の居合‐錆びた数々の居合刀


 藩祖一豊公が抜き打ちの業で度々功名を上げられたためでしょうか。『南路志』(文化十年・1823)に

 近年、御武具蔵に御代〃様の御居合刀数〃錆て居けるを御払物になりけるを、安達氏望にて見合けるに、其中にても對州様(=忠豊公)御用被遊し御刀ハ、三尺の刃引中〃重き御刀なり。夫れを片手に被遊けると安達氏物語也。

と見え、これによって歴代の殿様が居合を学ばれたことが分かります。
 ここに見える三代目忠豊公は身長は六尺程あり、百目蝋燭を片手に持った碁盤で扇ぎ、吹き消したとのことです。
 それはともかくとしてこの記述で歴代の藩主の居合刀が錆びたまま放置され、後に払い下げ品とされたことが分かり、お茶の世界と比べると面白いなぁと思います。お茶の世界ではお道具やお茶にも「○○代目家元好み」とされる形や味があります。
茶の世界では家元が好んだ道具と言えば大切に伝えられ、そのコピーも数多く作られることもあるのですが山内家では歴代の藩主の居合刀がこんな扱いです。でも、私としてはそれを不思議とは思いません。藩主やその一族、並びに上級武家に要求されることと、何らかの芸事の家元に要求されることは全く違いますから。
 七代目豊常公の先生として三宅尚斉という名高い朱子学者が招かれました。彼は授業を始めるに及んで
 「土佐一国だけではなく、日本国中の志ある諸大名方のお手本となるような方になられるようお願い致します。お心を常に正しく保たれ、人々を憐れみ天下のお手本とおなり下さい。その肝要は云々」
と説いています。仁の心を持った為政者となること、それが大名に要求されることでした。それが勿論山内家独特の考え方ではなく、江戸時代の諸大名に要求されることであったことは「志ある諸大名の手本とおなりください」という尚斉の言葉に表れています。
 従って学問にしろ芸事にしろ、その芸と心を伝える「家元」と言われる人達とは取り組み方が違いました。豊常公にはこんな話が残されています。

 平常日漢の学問・技芸に至迄、一芸に片寄不給、何事も不捨として遊したる也。芸にて御身を持たせ玉ふならねハとの御覚悟なるよし。

 日頃より日本や中国の学問から芸事に至るまで何か一つに片寄るわけでもなく、かといってどんなことでも捨てずに(幅広い教養を身につけるべく)学ばれた。(一芸に片寄らないのは立場から言って)「別に芸で身を立てて生きてゆくわけではないから」というお考えであったと言うことである。

 一芸に偏しないのは大名だからであり、大名に受け継いでゆくものがあるとすれば、それは技芸ではなく、君主の徳であったからでしょう。居合もまた君主の徳を磨くカリキュラムの一つにしか過ぎなかったわけですね。
 このことを思えば別に居合を教えて食べてゆくわけではないのですから、居合刀が由緒ある伝世品とは違い、扱いが雑で、後には払い下げられてしまうのも無理はないことだと思います。
 そういえば、子爵家の現当主と雑談しているときに「居合なんて、山内の家の中では教養のほんの一つにしか過ぎない」というようなお話を伺ったことがあります。
 ただ、やはり殿様にけがをして貰っては困ると言うことでしょうか、少なくとも忠豊公の刀が刃引きであったということは面白いですね。
 亡くなった宇野又二先生が大江正路先生に「山内様には居合だけで、何故剣道は教えて差し上げないのですか」と聞いたら大江先生が「殿様を竹の棒で殴るわけにいかん」と言われたそうです。この話を伺ったとき、思わず笑ってしまいました。
 それはともかくとして、では、山内家の家風として技芸に優れた者を軽んじたかというと勿論そんなことはありません。五代目の豊房という方は学問や武芸、その他の何か一芸に秀でたものを選んで扶持を使わされたと記録されています。要するに殿様と家来とでは立場が違うので学問にしろ技芸にしろ、同じ事を学んでもその学び方に違いがある、と言うことでしょう。
 世間では「山内派は所詮殿様芸、実戦の役には立たない」という批評もあると聞いています。
 私もそうだろうなぁと思います。殿様が戦場で自ら太刀を抜き、敵兵の二人や三人斬ったところでどうなるものでもない。というより、そんなの負け戦です。そんなことにならないよう勝てる作戦を立てるのが殿様の仕事ですし、更に言うなら、戦のない平和な世の中を保てるようにするのが江戸のお大名の仕事ですから。錆びたままに放置されていた居合刀=実用刀というのはそういった「お大名の覚悟」を象徴しているように思います。
 念のために申しておきますと、私は世間が狭く山内派の人をそんなにたくさん知っているわけではありません。
中には当然実戦本意に鍛え上げておられる方もいると思います。又、上記のようなことから山内派に宗家だの家元だのはないと思っていましたが、どこかに宗家だか、家元だかを名乗っておられる方もあるようなことを風の噂で聞いたこともあります。勿論私の周りにはそういう方は居ませんけど。  
 それに、「宗家」だの「家元」だのという「特別な誰か」を「頂点」とする考え方と「全ての人間に」という『須知要枢』の考え方とは相容れないものだと思っています。

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9.明君・豊常公 家来の差し出口を叱る事


 七代目の豊常公というのは早くに亡くなりましたが、後に『明君遺事』がまとめられるほど立派なお殿様でした。
 勿論武芸にも熱心な方でしたが、乗馬のお稽古の後、家来を叱る一場面があったそうです。どういうことかと申しますと、お稽古の後、参加していた家来の一人が
「殿様、あのような場合はこのように乗られた方が」
とアドバイスをしたのです。すると豊常公は
「私には指南役が居る。その指南役が何も言わなかったのは稽古全体を考えての事であろう。それを其の方がとやかく言うべきではない。たかが、馬の稽古のことぐらいでそのような差し出がましい口をきくのであれば、大切な本来の役目の中でも周りの仕事に要らざる差し出口をきいて周囲に迷惑を掛けているのではないか」 とその者をしかりつけたと言います。
 どこにも、いつの時代も「教え魔」というのはいるものです。それが却って稽古の邪魔になっているというのも今も昔も変わらないことでしょう。ただ、私がこのお話の中で面白いと思うのは、殿様が単なる技術伝習のための弊害を指摘するに留まらず、その教え魔の勤務態度にまで言及したことです。
 「武道は人間形成の道」、とはよく聞く言葉です。しかしながら、武道の技術向上が必ずしも人間形成につながる訳ではない。むしろ学習姿勢が人間形成に繋がるのだという考え方が豊常公にはあったのでしょう。この考え方については別の殿様が丁寧に説明されている言葉があるのですが、それはまた、後日紹介することと致しましょう。
 さて、豊常公。馬の稽古は随分お好きだったようですが、こんな話も残されています。
お馬の稽古が終わると、家来が政務に関する重要案件を持ってきました。すると、殿様は
「何故もっと早く連絡しなかったのか」
と叱ります。すると家来が
「お馬の稽古中でございましたので」
と答えます。すると殿様は更に怒りを増し
「たかが馬の稽古と政務とどちらが大切か、考えるまでもないことではないか」
と家来をしかりつけます。先日「8.藩主の居合」のところで、豊常公の
「平常日漢の学問・技芸に至迄、一芸に片寄不給、何事も不捨として遊したる也。芸にて御身を持たせ玉ふならねハとの御覚悟なるよし」
というエピソードを紹介致しました。乗馬と鷹狩りがお好きだったというと一見「一芸に片寄不給」というのと矛盾するように思います。しかし、ここに言う「芸」とは乗馬、鷹狩り、剣術、弓というような個々の芸をいうと同時に、武芸、芸術、というような大きなジャンルも意味していると思います。そういった「芸」全般に片寄る、則ち執着することはない方であった。何故なら大名の仕事は政治であって、芸を切り売りして生業(なりわい)とするのではないのだから、という風にこのエピソードは読むべきなのでしょうね。
 鷹で思い出しました。殿様が入国のおり、出迎えた家来が早速鷹狩りの話をすると「城中も検分しない内から遊びの話とは不届き!」と叱られたそうです。
 しりとり話のようになりますけれど、お国入りというと、御行列の人払いをやめることを決めたのも豊常公です。理由は「農作業の妨げになる」ということでした。
 そういった民への思いやり深い殿様だったという話はまだまだ沢山あります。この殿様が亡くなったとき、家来領民ともに悲嘆にくれ、城下の八百屋さんなど出家して念仏三昧の毎日を送っていたとか。それを聞きつけた役人が八百屋さんを訪ね、
「そういったことは却って良くない」
と八百屋さんをたしなめたと言います。そうですね。民の農作業の手を止めることを嫌って御行列の人払いをやめられた殿様です。八百屋さんには八百屋さんとしていつまでも元気に働いていて欲しいと思われたことでしょう。
 役人=家来もまた、そのお心を解していた、と言うことだと思います。

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10.豊房公曰く 武を修する上の覚悟


 元禄十四年(1701)といえば、三月に浅野内匠頭の刃傷事件があった年です。その年の十月六日、五代目当主・豊房公は『須知要樞』を発して家臣への戒めとしています。
 その中の武芸を学ぶ上での基本的な心構えについて述べられた一条は「山内家中の風儀を知ることにより英信流を学ぶ上での参考にしたい」という方には興味深い一条ではないかと思います。

一 兵は士の道也。一人一個の者なりとも、心掛なくんば有へからず。習を得されハ、我得たる所の武芸も用る所の善悪を不知か故に、功をなす事すくなし。其上不心不覚を取り、或死すましき所にて命を捨、却て不忠とも成もの也。其他色〃武芸を稽古するも、先我得たる所より何れにても成就する様に可心得。我社心掛厚と人に言われん為、見聞一通に精を出す類ハ、数年を経るといへ共用に立事なし。一返にても真実に稽古をすれハ数返にも向也。惣て何事によらず日用の業、信を以て可本也。

 私程度の者で申し訳ないのですが、こういう文章があんまりお得意でない方のために大意を申し上げてみたいと思います。

一 兵法は武家の道である。例え部隊の指揮者でなくても一人一人が心掛けていなければ成らぬ事である。兵法の本質を学んでいないと、自分が得意とする武芸の業も用いるべき場かどうかの判断が出来ないため、大した功績をあげることが出来ない。それどころか心ならずも不覚をとったり、死んではならないところで命を捨て、却って不忠ともなるものである。
 色々な武芸を稽古するときは自分が好きで得意とするものから初めて(そればかりではなく)、どの業も一通りの水準まで達するように心掛けるべきである。
 (武芸の稽古というものは、他人から)「彼こそは武芸に志の厚い者だ言われたい」と思い、他人の評判を得るための稽古に精を出すような輩は何年稽古を積んだところでものの役には立たない。
 例え一回でも純粋な気持ちで稽古をするならば数回稽古をするのと同じ効果の上がるものである。(これは武芸の稽古ばかりではない。)何事によらず、日々の生活の中ですることは全て「信」をもととしたものでなくてはならない。


 「兵法」には「武術」を意味する他、「軍略」という意味もあります。山内家の兵法で容堂公も免許皆伝の「北条流兵法」の「兵法」は後者の意味です。
 更に言うと北条流は「人用捨」‐人をその時その時の自分の都合で用いたり捨てたりするのではなく、その人の優れた点を見出し、それを大事にして用いること‐を極意とする兵法であり、実際の用兵術よりもむしろ一軍を指揮する者の人間形成を重視した軍学です。(8.石州公の料理、火入れ・香炉の道理に戻る)
(北条流には調練の技術がなかったので幕末、山内家では会津松平家に実戦調練を得意とする長沼流軍学の教えを乞うています。)
 豊房公は武芸が出来ても兵法・軍略が備わっていなければ状況判断が出来ず、功を立てられなかったり、犬死にをしてしまう危険性があることを指摘しておられます。この考え方は同じ元禄時代でも、『葉隠』の「武士道とは死ぬことであり、例え判断ミスから討ち死にしても恥には成らないが、『犬死』などということを考えて死すべきところで生き残ってしうのは恥である」という考え方とは正反対のものです。
 『葉隠』は戦国の遺風を慕い、非常に情緒的なものの考え方をし、戦闘員であり続けたいと願う武士達の「武士道」のテキストであるのに対して、君主としてとして、あるいは行政官として徳による政治を行おうとする江戸期の武家の「士道」というものがはっきりと現れているのが豊房公の考え方です。
 ただし、山内家が士道のみを重しとし、武士道を軽んじたかというと、そうではありません。その両方を重んじたことは七代当主・豊常公の逸話に明らかですが、長くなるのでそれはまた、後日ご紹介しましょう。
 さて、豊房公は武芸の根底には兵法(戦闘や戦争全体を把握した上で、今自分はどうするのが最適かを考える力)がなくてはならぬとされ、さらに「惣て何事によらず日用の業、信を以て可本也」と言われ、武芸のみならず、日々の暮らしの中、全ての行動は「信」をもととしたものではなくてはならないと結論づけてこの一条の締めくくりとされています。


8.藩主の居合‐錆びた数々の居合刀へ戻る。

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附 「元禄十四年は山内家の兵法元年」


 元禄三年、四代目当主豊昌公の時代に『元禄大定目』が出されています。
 その中の「諸侍掟」では武芸について「諸侍専文武之道を心懸」とあり、幕府の発した「武家諸法度」と通じるものです。
 内容的には「武士が武芸を稽古するのは当たり前である」という立場に立ち、「だから稽古をせよ」という上からの押しつけの形を取っていると言えましょう。
 これに対して、「10.豊房公曰く 武を修する上の覚悟」で紹介した如く、元禄十四年に出された五代豊房公の『須知要樞』では、「武を修するのとき、その根本には『信』がなくてはならない。そして、これは人間生活の全てに共通する要素である」としています。
 つまり、武を修するのは「武士だから当たり前」ではなく、そこに『信』を根本とした人間形成の道があるからだということです。これは殿様も家来もない、武を修するものすべてにとって大切な覚悟であり、人生の中で武を修することの意義も箸の上げ下ろしの意義も何ら変わらない、日常生活を真摯に生きることで人間性を高めてゆくことの大切さを説いている一文です。
 僅か十一年前の『元禄大定目』とは大きく変わり、武芸を学ぶことの意義を学ぶ人一人一人の人生と結びつけ、武を修する者一人一人の自発的な意志が大切であることを説いたと言う点で、「武道は人間形成の道」という今日に繋がる考え方を打ち出し、成文化したものと言えます。
 と、いうことは『須知要樞』の中の一条は殿様やその一族もなければ上級武士も下級武士もなく、山内家中にとって、山内家の兵法とは何かを新たに、そして、明らかに定義づけた一条であるということが言えると思います。
 従って、剣術とか馬術とか、或いは○○流、××流と言った小さな枠を越えた、全ての武芸・兵法において「元禄十四年は山内家の兵法元年」と言えるのではないでしょうか。

     
 子爵家の先代・豊健先生は当代によく、「人間はね、みんな同じなんだよ」と話されることがあったそうです。私は武を修する者一人一人が自発的な意志を持つことによって自らを高めて行けるとし、人間一人一人に同じ可能性があることを前提としている『須知要樞』を読んだとき、ふとそのことを思い出しました。
 因みに元禄十年、柳生新影流の出淵三郎兵衛が豊房公の剣術指南として迎えられたという記録があることから、豊房公は柳生流を学ばれた方だと言うことが分かります。

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11.林六太夫に関する記録


林六太夫守政翁ハ、享保十七年七月十七日七軒町ニ而七十歳にて終わられし。豊昌君より仕へし侍也。此人ハ、伊勢兵庫直門にて伊勢流の故実に達、無双流の居合ニ妙を得、和術・釼術にも達し、又料理の妙手也。書ハ佐〃木本山ニ學。其余音曲をも能し、小技曲藝に器用成人にて、弟子も多し。安達甚三郎の実父也。(割注 甚三郎ハ六太夫の実子、安達茂兵衛の養子と成。和・釼術の達人師匠なり。)無雙流の居合ハ柑崎甚助重信より始。柑崎ハ北条五代目に仕へ、此流を以後太閤秀吉公學被成、無雙流と云名を始て御附被成しと也。其後塙團右衛門に傳り、團右衛門より長谷川内蔵助に傳ふ。夫より近年の兵作に傳へ、兵作は大男つミこぼしにて褊綴(ヘンテツ)を着けると也。権現様以来江戸居住の浪人也。林氏の居合釼術ハ二代目の勢哲より直傳也。右の柑崎ハ居合の元祖也。其以後段〃に流枝出来る也。柑崎ハ上泉伊勢弟子也。上泉は鬼一法眼の流の釼術鍛錬の由、宝藏院流の鑓も本ハ上泉より初るといふ。右林安太夫の物語也。安太夫ハ六太夫の養子、安田道玄の弟也。居合釼術の達人也。

 林六太夫に関しては様々なところで紹介されており、今更私如きが何も申し上げることはありません。内容は皆様よくご存じの通りです。
 ただ、この文章が『南路志』巻第七十一 ○豊昌公御代 八 雑記 に記されているということは案外知られていないのではないでしょうか。とすると、原文に触れることもなかなか無いかも知れません。そこで引用しておきました。豊昌公というのは四代目当主で元禄十三年になくなっています。

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12.組み討ち助太刀の心得


 慶長十年(1605)、こんな事がありました。一豊公が聚楽第再普請のため、京都におられたときのことです。いつもの如く下手な口語訳をさせていただくとこんな話です。
 ある侍に不届きのことがあり、掛川へ差し戻されることになりました。それに先立ち、弟の修理亮康豊公へ密かに連絡をされたのです。
 康豊公も上洛の予定で、遠州見付までお越しになっておりました。彼の地で定宿としている要法寺という寺にその侍がやってくると、康豊公は兼ねてよりお供の面々との打ち合わせ通り、彼の者に料理を与え、懇ろに酒を与えられます。
 その時、目で合図をすると一人が後ろより抱きついて引き倒し、伏ざまに
「脇差をお抜きなさいませ!」
と叫びます。が、それでは下になった武士まで傷つけてしまうと躊躇されていると、その武士が
「私ごとお刺し下さいませ!」
と叫びます。そのとき、康豊公は一豊公より「そのような場合は横から突くのだ」と教えられていたこと思い出し、脇から突き刺してその者を仕留められたということです。

 この記録を読んで思い出したのが文久二年(1862)、島津久光公が公武合体を良しとし、家中の急進派を粛正する結果となった寺田屋事件のことです。
 急進派の有馬新七は刀の折れるや相手の道島五郎兵衛を壁に押しつけ、同志の橋口吉之丞に
「オイごと刺せ、オイごと刺せ!」
と叫びます。当時二十歳の橋口は「前後のわきまえもなく、その言に従い、柄も透れと、両人を串刺に刺し貫いた」と徳富蘇峰は『近世日本国民史』の中に書いています。
 ふと、そんな話を思い出しました。

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13.平井先左兵衛の逆インサイダー取引と弓の名手・曽我平太夫


 寛文十年(1670)のことです。家中の者が経済的に難儀をしていると言うことを聞かれた豊昌公は、貸し出したお金の全てを棒引きにすることを決定されました。
 この決定が通達される以前、平井はすでにこの情報を得ていました。で、彼はどうしたかというと、通達発表以前に全ての借入金を返済すると「良いときにお返しできた」と喜んでいたそうです。
 記録者は「借金をしておいて払わなくても良くなったっことを喜ぶ者、はなはだしきは事前にこのような情報を入手し、更に借金をするような輩もいるとか。平井氏とは雲泥の差である。」と述べています。
 今の世には「インサイダー取引」という言葉があり、このような破廉恥な行為を法で禁じているそうですが、それでも守らない人はいるそうですね。
 それに対して平井氏の致しようは何ともさわやかです。

 お金の咄と言えば、もう一人思い出す人物が居ます。同じく豊昌公の時代に弓の名手で曽我平太夫というものがおりました。その名は他家にも聞こえ、細川越中守様がお越しになったとき、その手並みを所望されたほどです。  曽我は御前にて百本の矢の内、九十九本を的中させ、残り一本をもってその場を下がりました。矢一本を残すのは弓矢の作法です。
 このように弓は名人ですが、文盲同然で印可をもらっても何が書いてあるのか分からず、人に読んで貰ったとか。また、大変なおしゃべりで、ケチだったそうです。
 曽我は態度に不遜なところがあって、遂に浪人となり、大阪に出ました。そこにやはり浪人していた日根野紋丞というものがおり、曽我に借金をしていたそうです。
 曽我は弁が立つものですから、さんざんに相手をはずかしめながら日根野に返済を迫ったそうです。
 我慢できなくなった日根野は「覚悟せよ!」と刀を抜きながら、曽我をまっぷたつに斬ったとか。
 曽我は斬られながら脇差で日根野を刺し、相打ちに果てたとのことです。

 弓の名手で、斬られながらも相手を刺し殺したというのだから、曽我は余程武芸に優れていたのでしょう。
 面白いですね。どれほど武芸に優れていたとしても、その技術と人格は又別だと言うことがはっきり分かります。印可を受けているからと言って必ずしも人間として上等ではないというのは面白いですね。
 技術を追い求めるだけで、人間性を養うことをしなかった芸者の末路の哀れさを今に伝える咄だと思います。
 私は曽我名人のような人よりも、平井氏の方が好きですね。彼が武芸に優れていたかどうかは記録にありません。特に記されていないと言うことは、特に記すほどの武芸の技量は持っていなかった、ということかもしれません。  
 平井氏は「実戦の役」には立たないかも知れないけれど、「四民の手本」と言われる武家としては立派な人物だったのだろうと思います。
 今日、よく「手段の目的化」なんて事が言われますけれど、武芸の上達が人間的成長と正比例するかのような思いこみがあると、武芸のお稽古の中でもそういうことがおこるのだろうと思います。同じ時代を生きた二人の人物のことを思いだし、そんなことを思いました。

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14.乱世の大名、治世の殿様
‐一豊公の草履取り手討ちと豊昌公の草履取り折檻の話‐


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 先日(平成18年7月23日)放送の「巧妙が辻」で一豊公、遂に長浜城主ですね。その長浜時代のエピソードです。

 長浜で草履取りの者に不届きの振る舞いがあった。一豊公は腹を立てられ、庭先より兼常を抜いて追ってゆかれた。(その不届き者が)御門前の橋の上より湖水(=琵琶湖の水)を引き込んでいる堀に飛び込むところに追いつかれ、(自らも)飛び込まれ、水上で(不届き者を)大袈裟に斬って捨てられた。(そして)兼常を「無類の大切れ」としていよいよ御秘蔵なされた。(一豊公は)水練など御達者であった。

 常は余り酒も上がらず、物静かな方であったという一豊公であり、このようなお手討ちの話は他になかったように思います。何があったのでしょうか。
 不審には思いますが、戦国乱世にあっては大名は時にこのような猛々しさを世に示し、その力で四辺を威圧する必要もあったのかも知れません。この話を読むとき思い出されるのが寛永十八年の生まれで元禄十三年(1700)に六十歳でなくなった四代目・豊昌公の逸話です。

 草履取りの弥五助と言う者、御行水の時に大酒を呑んで湯殿に参上した。豊昌公は酒飲みが大嫌いな方で弥五助をご自身、湯殿で折檻された。すると弥五助は恐れ入って上司にことの次第を届け出、上司は出仕をご遠慮・謹慎という処断を下した。
 翌日の御行水の時とき「弥五助は」とお尋ねになる。「昨日のことで謹慎を申し付けました」と上司の方からご返事申し上げると「ならば行水はせぬ」と止めておしまいになる。 それで俄に弥五助を出勤させたところ「ならば」と行水をされる。湯殿で直接弥五助に
「お前は、全く分からぬ者だな。役人に(お前の失態を)言えばお前は罪人になる。だから自らの手で折檻したのだ。今後このようなことがあってもいちいち組頭に報告などするな。私が行水を止めると言わなければお前は(謹慎処分を受けた)咎人となるところであったではないか」
と申された、と言うことです。
 戦国の世も次第に遠い昔話となって行った時代。大名に求められていたのは不届き者を切り捨てる猛々しさではなく、罪を許し、咎人を出さないようにする思いやりの心となっていたのであろうと思います。豊昌公の人柄を伝える話としてこんな話があります。
 豊昌公は人をお使いになるのが上手で、そのため諸芸の名手もこの御代にたくさん集まった。桂井素庵は能書である。彼をひいきにしていた間彦六が「彼に祝儀として知行をあたえては」と進言した。すると豊昌公は
 「彼の者に知行を遣わす時は以後、不届き者にも知行を遣わすことになるであろう。素庵は先年手討ちを行ったとき、武士の道に外れた仕方があった者である。(そんな者に知行を与えたなら、不届き者に知行を遣わす)先例になってしまう。」
と言われたそうです。また、禁制となっている相撲見物に行き、百姓と諍いとなって殴られた武士が処分されたとき
「同道した者は友が打たれても助けようとしなかったばかりか、その恥を触れて歩いたのであるから、同道者も厳しく詮議するように」
と言われたとか。こういう記録から拝察するに決して依怙贔屓もなく、厳しさに欠ける殿様でもなかったようです。が、弥五助は折檻ですませようとされた。そこには今日凶悪事件、或いは微罪を言い立てて人を社会的に葬ろうとするマスコミの奢った態度を批判する人がテレビ番組などのなどでも良く口にしているのを耳にする「罪刑均等=犯した罪に応じた刑でなくてはならない」という考え方を見る気がします。太平の世にあって民心を安定させる上では大切なことだと思います。「大定目」、俗に「元禄大定目」といわれるものを制定され、法制度を整えられた殿様らしい逸話だと思います。
 不届きな草履取りを切り捨てるにせよ、殴って済ませるにせよ、罰を与えることに対する社会的な影響を常に考えていなければ”殿様”は勤まらないもの、と言うことなのでしょうね。
 以前新聞で『上司は思いつきでものを言う』というビジネス書の広告を見ました。思いつきで命令を下したり、一時の感情で人を罰したりするようでは”殿様”にはなれない。そういう意味では大抵の上司はせいぜい、殿様が何故弥五助を殴ったのかが分からない草履取りの組頭位が関の山なのかも知れません。

   

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15.大筒の使い方


慶長八年十一月に高石左馬助というものが一揆を起こしました。 討手が差し向けられると高石は瀧山に立て籠もります。瀧山は高く、険しい山である上、高石は鉄砲の名手で、岩の間から正確な狙撃を行うので多くの死傷者が出ました。 そこで、瀧山の左右の高い山から、大筒に小石を詰めて激しく射撃をさせると、一揆勢もこれには参り、山伝いに讃岐国(香川県)へと逃げ去った、と山内家の記録にあります。 このように、大筒は大きな弾を一発だけ込めて門扉を破壊するような「大砲」としての使い方の他に、いわば散弾銃としても使われたようです。 今日の散弾銃の有効射程が五十メートルであることを考えると、谷を越えて、隣の山に立て籠もっている一揆勢を殺傷することができた大筒というのは大変強力な散弾銃でもあったと言えます。

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