平成十八年の今年、大河ドラマが「功名が辻」、山内一豊公と妻の見性院(千代)様が主人公ということで、一豊公の武辺話や歴代の殿様の話を聞きたい、という方があります。
困りましたねぇ。旧子爵・山内家の方とはお付き合いはありますけれど、私は血縁者でも一族でも何でもないのです。ただ、英信流が明治まで土佐で受け継がれたのは山内一族や家中の方々の努力の賜物であったことに間違いはないでしょう。「土佐山内家中の文化を知ることが英信流を学ぶ上で役に立つのではないか」というお申し出もあったことですし、例えば介錯の前の気持ちの落ち着け方とか、介錯の後の血刀をどう処理するかなどというような話など、いわば山内一族や家中の心得事や様々な逸話が土佐の士風を育て、また、支える一助となっていたことを思えば、そういった山内家の四方山話をすることも、英信流を学ばれる方達の参考とまでは行かなくても、稽古あとの雑談のネタ位にはなるかも知れません。
その程度でよければ、と思い、この項目をたてました。ただ、ドラマで様々なエピソードも紹介されるでしょうから、私がここで下手な文書で先に綴ってしまえば興味も半減です。それでは申し訳ないので、テレビとにらみっこしながら、紹介されなかったようなエピソードをボチボチ紹介してゆきましょう。
一豊公佩刀の兼常というのは有名であったらしく「武徳会誌」に「関の兼常の切味 齋藤、山内の兼常」という一文が掲載されています。兼常というのがどういう刀匠かというと、その記事では以下のように説明されています。
「関に兼常が五六人ある其中で上作と称するするは応永のころ大和手掻より美濃の関へ移住した奈良太郎兼常これが上手であるこの人は多く二字銘に切る次に文明ころ濃州下有知住兼常と云ふ人があるこれも上手で業物の部に入れてある、また赤阪関の一派に兼定の門人で兼常これは明応から永正ごろの人マヅこの三人の刀ならば二ツ胴位は受合である、兼常は多く二字銘であるから裏銘がなければ之を分つ事が困難である、併し何れにしても古刀と見えて刃も健全で銘振りも確かなものであらば切味は受合である。」
さて、一豊公の事。天正元年、秀吉配下の梶原某が美濃の齋藤家に内通の様子。そこで秀吉は彼を長良川堤防工事の監督に出張させた。そして秀吉は一豊公と松田、山下の三人に「放討‐はなちうち」を命じた。
三人は長良川近くの梅ケ寺に酒肴を用意し「遊山に来たから」と梶原を呼びだした。梶原は用心深く家来十数名を引き連れてやってきたとき一豊公が「梶原殿のお供の衆込み合い候」と声を掛ける。「そんなにぞろぞろ来たら狭い」というのである。と梶原が「その方ども、あとへ下がり候へ」と家来をしかると皆五、六間ほど下がる。その瞬間「上意!」と叫んで兼常で斬りつける。本当は事前に籤を引き、「1.山下2.松田3.一豊公」と斬りつける順番を決めていたのであるが、そんなことは状況次第である。松田が二太刀目、山下が三太刀目をつけて梶原落命。
後で事の次第を聞いた秀吉は「大事の業前にてはその場の機会(しおあい)次第で手を下すが手柄なり。猪右衛門(一豊公)の仕度もっとも巧者なり」と賞賛したという。
実はこれ以外にも一豊公の放ち討ちの功名話は幾つかあります。それはまた、いつか話したいと思います。
「放ち討ち」などという言葉は今日では聞かぬ言葉です。同記事中に上手く説明してあるので、これを引用しようと思います。ただし現代人には読みにくいと思うので表記を一部書き改めました。
「此の時分は侍を処罰するに放ち討ちと云う法があって君命で突然討ち果たすのである。これを上意討ちとも云う。必ず声をかけて斬りつける事になっている。声をかけずにやると喧嘩になって討った者も腹を切らねばならぬ。主人が自らやれば手打ちと言い、家来に命ずれば放ち討ちという。放ち討ちの二三度も首尾良く致せば勇名が世上に聞こえ、やり損ずれば返り討ちになる」
『山内家史料 一豊公紀』の第一巻に「公の勇敢」としてこんな逸話が載せられています。
永禄三年(1560)の夏のことである。その頃美濃の牧村兵部殿の元に牢人身分のまま一豊公は身を寄せておられた。(ある戦闘のとき)敵兵五六騎が突然現れたので味方はあわてふためいた。
そのとき十六歳であった一豊公は水色の帷子をお召しになり、鉢巻きをすると兵部殿の乗り換えの馬に乗って敵に立ち向かった。兵部殿が縄手の脇道を先に引き上げられ、一豊公は本道をすらすらと引き取られる。
(そのとき)敵兵一人に目をかけ、追いかけて勝負に及ばれるところ、兵部殿が引き返してこられ「若輩には過ぎたる振る舞いよ」と言葉をかけ、その敵に駈け合わそうとすると敵は退いた。この間一豊公の振る舞いはおちついたもので全く騒ぎ立てるところがない。
「さすがに山内の一子だ」と兵部殿は語り、感心していたと言うことである。
また、この時の武者ぶりを秀吉公が聞かれて感心され、それで召し出されたとも言う。
天正六年(1578)秀吉に従い播州三木城を攻めていたときのことです。、八月十五日、嘉古の付け城の軍勢が三木城への兵糧搬入の支援に出てきました。その時のことです。
「附城の軍勢これを防ぐ時に一豊公本陣より一番に駈け出で給ひ高名し給ふなり」
とあり、又『寛政重修諸家譜』にも
「同十五日の夜石野越中守城を出て嘉古口の附城におもむきいとみたたかふときに一豊一番に嘉古口にいたりて敵の首をきる事おほし」
と見えているとか。
一豊公というとまるで奥さんのおかげで大名になれたようなイメージがありますけれど、武勇にも優れた方であったようですね。
「嫉妬と言うことで云えば、女の嫉妬より男の嫉妬の方が余程怖い」などと申します。一豊公はいわば何の軍功もなしに小山会議の一言で土佐一国を手にしたわけですが、戦国の荒くれ大名から見たら決して面白いことではなかったろうと思います。それを意識してのことでしょうか、『名将言行録』にこんな話が出ています。
一豊封を受くるの後、諸陪臣に、府下、或は路途に遇ふ毎に、則ち必ず騎より下り、轎
より出で、揖譲して過ぐ、是を以て衆、遙に望見せば、必ず之を避けり。
揖譲(ゆうじょう)=拱手の禮をなして謙遜すること。轎(きょう)=小さき車、竹輿、ヤマカゴ、アゲコシ
土佐に封じられたのち、一豊公は陪臣にさえどこであっても常にすぐさま馬を下り、また乗り物を出て礼を尽くして道を譲ったので、以来人々は山内家の行列を見ると必ずこれを避けたというのですね。
それは自分より格下の者にも礼節を尽くすことで無駄な摩擦を避け、無用の妬みを買うことのないようにという配慮でもあったろうとは思いますが、他の諸記録を見ていると、あまり酒も飲まず(子孫の飲みっぷりからはからは信じられない!)、物静かな方だったということですから、それは作為的なものというよりも、むしろ”地”だったのではないでしょうか。
私はそういう人、好きです。私が段位称号が余り好きではないのは、それをとるために一生懸命努力することは良いことだとおもうけれど、時々、相手より段が上なら人間としても自分の方が上等だと勘違いしている人というのが全くいないわけではない、ということを知っているからかも知れません。
この後の文章は「累世禮節を尚ぶと云ふ」とその家風を讃え、続いて質素な家風の逸話へと続いていますが、そこには一豊公の人柄がそのままにじみ出ているように思います。
昨日(平成18年6月5日)、大河ドラマ「功名が辻」をみていたら、備中高松城攻略戦で一豊公が敵の槍の穂先を奪い取る話が描かれていました。しかし、戦闘シーンはなく、秀吉公などがその様子を遠望している体で、その会話によって戦いぶりを説明するという技法がとられておりました。
そこで、『山内家史料』の中からその時の様子を紹介したいと思います。もとの資料は『御武功記』の天正十年(1582)の記録です。
一 秀吉公中国へ出陣され、毛利と合戦されたときのことである。一豊公も出陣され、「野間」というところで敵と槍を合わされた。
敵の槍の柄は二間半、姓名は分からない。一豊公の御槍の柄は二間。敵の槍が一豊公の御兜の内に入り、左のお耳の下に浅手を負わせた。敵がそのまま引き取ろうとしたところを(一豊公は相手の)白刃を握り引っ張ると、手の中で目釘が折れる音が聞こえたので、ねじ折って捨て、すぐさま敵を仕留めた。この時御掌を負傷されたが少しも痛まず、御家臣の五藤吉兵衛がきれいな手拭いで手当をした。(槍の穂先は五藤吉兵衛が)腰に差して(『御家中名誉』には「吉兵衛儀右之槍之穂をわたがみに挟み」、とある)陣に持ち帰った。‐中略‐今の「鳥毛之御槍」とはこれである。
三角で塩首まで五寸九歩(分)。梵字あり。三王大師とあり。樋あり。‐略‐来国俊と銘あり。
大名行列の先頭に立てる槍の鞘にはそれぞれ工夫が凝らされ、槍を見ればどの御家中か分かると言うことで、『武鑑』にもそのデザインが描かれています。
山内家のこの槍にはT字形の鞘がついており、立てると丁度、鍔の広い帽子をかぶったような形になります。全体を尾長鶏原種と思われる鳥の羽で飾り、黒色をしていることから「黒大鳥毛」とも言われ、最近山内家宝物資料館から出された図録「将軍と大名」にもその写真が掲載されています。ただし、槍そのものは掲載されていません。
先に上げた資料の原文を一部引用すると「白刃を御握り御引取暫ク御争之内二、目釘之折ルル音聞ヘ則チ御捻折捨則敵を御討留」とあります。資料の最後で槍の特徴を述べた部分に「中心の寸八歩少し」とあり、この「歩」とは「分」でしょうから、中心の長さは約二,五センチと大変短いものとなります。というと、本文の「御捻折」というのはやはり素直に「槍をねじ折った」と読むべきなのでしょうね。ならばこの寸法でも不思議はありません。(吉兵衛がこの穂先を挟んだという「わたがみ」とは鎧の肩の部分にあたります。槍の中心というのは大変長いものですから、わたがみなどに槍を挟んだら邪魔になると思いますけれど、もし八分ほどに折れていたなら全体で七寸(約二一センチ)足らずということになるのでわたがみに挟んでも邪魔にはならないでしょう。それにしてもとんでもない力持ちだったのですね、一豊公は。
しかし、この寸法では使い物にならないでしょうから、後に中心を継いだのか、あるいは中心はいじらず、キャップ型の継ぎ足をつけて使用したのかは分かりません。また、『御武功記』にはそう記されているだけで、実際の中心はうぶのままなのかも知れません。資料館に電話すれば教えてくださるでしょうけれど、今年一年はなにかとあちらもお忙しいでしょうからやめた方がいいですね。でも、いつか折を見てお聞きしてみたいし、現物も拝見したいと思っています。
八代豊敷公の時代のこと。享保十九年(1734)三月二十六日、三州奥殿一万五千石松平様お屋敷内にて山内家家中・近藤勝之丞が刃傷事件を起こしました。
土佐の生まれで鍼治療を以て松平家に仕えていた河本松随と近藤は遠縁にあたり、日頃から昵懇にしていたのです。この日も河本の治療を受けたのち酒肴の接待を受けていたとき、近藤にわかに乱心、河本に斬りつけて重症をおわせて取り押さえらられ、山内家に護送されてきました。
さて、河本落命の場合、近藤は切腹と決まり、介錯には関助左衛門・松並半丞がえらばれました。いつ切腹となるかは分からないので一日交替で、当番のものが介錯、もう一人は副介錯ということで二人が任命されたのです。
四月十三日、二人は目付の若尾槇右衛門に呼び出され、昨夜河本が死去したことを告げられました。すると近藤は
「私共介錯を命ぜられ、本日は私が当番です。しかし、相手は乱心者故、必ずし損じることでしょう。そこで、”放ち討ち”にて仕留めたいと存じます」
と申し出ました。すると槇右衛門は
「成る程道理である。しかし、普通通りに介錯するように。もとより乱心者のことであるから介錯は難しいかも知れないが、左右の手を縛らせておくから」
と言い渡しました。すると半丞は
「思し召しはごもっともでございます。しかしながら”武士道”ということを考えるなら外聞は如何でございましょうか。それでは近藤があまりに気の毒でございます。それでは縛り首同然ですので、そういった処刑であれば士分に申し付けられることではなく、(下級者を取り締まる)横目の者に申し付けられるようなことと存じます。この度のことについてはどうぞ私の思うようにさせてくださいませ」
と重ねて申し出た。すると槇右衛門は
「成る程尤も至極の申しようである。これ以上はとやかく言うまい。何分とも宜敷とりはからわれるように。」
と答えた。
さて、その日の切腹は松平様が日光に御用で出かけておられたため延期となり、二十一日に処刑となった。当番は松並半丞。介錯刀は近藤の父・半十郎の願いにより勝之丞の常の差料である備前守忠国二尺三寸。
さて、御徒目付の岩崎幾丞が柄を奉書で包み、二カ所を結んだ脇差を載せた三方を勝之丞前に置いた。切腹の形にはなっているが乱心者故、何をしでかすか分からないと言うことで、刀を落とし差しにて控えていた半丞は直ちに勝之丞の畳の所に歩み寄り抜き打ちにてその首を落とした。首は一間以上前に飛んで落ちたという。
また、一説にこんな話も伝わっている。勝之丞は入牢中、「月代を剃りたい」と言っていたけれど乱心者なのでそうも行かない。いよいよ切腹となったので切腹の場で月代を剃りたいと申し出た。そこで湯を入れた盥を用意して勝之丞の前に置くと勝之丞は盥をのぞき込もうとして俯き加減になる。そこをすぐさま介錯、随分と手際の良いことだった。
その夜、遺体は麻布薬王寺へ運ばれて葬られることになり、関助左衛門・松並半丞の二人はこれを見送りに行った。
「介錯の心得」、などともうしますと、やたら儀礼的なことや技術的なことばかりのように思う人もあるでしょうが、それだけではないように思います。勝之丞の名誉を思って手を縛ることを断り、その亡骸を寺まで見送るというような心遣いこそ一番大切な「心得」ではないでしょうか。抜き打ちに斬るとか、盥をのぞき込むところを斬るとか杓子定規にいえば「卑怯」かも知れません。が、そこには乱心している勝之丞に見苦しい振る舞いをさせまいという思いやりがあり、私は何れの伝承が正しいにせよ半丞の振る舞いを「卑怯」とは言えないと思います。
さて、介錯の前に半丞はある老人からこんな伝授を受けています。
「介錯ばかりに限らず、大事の場に赴くときは左右の足の親指の毛を唾でよくぬらしなさい。古人の教えですから決して忘れないように。さてそれから介錯が終わってから鼻紙(懐紙)で刀を拭います。そのときのために内側の四五枚を水に少し浸して鼻紙の中に挟んでおきなさい。そうすれば血も良く取れます。それに乾いた紙だと抵抗が少なく、滑って指を切ることがありますからね。」
半丞はこの老人の言葉を守ったところ刀の血も良く取れ、その場に臨んで上気することもなかったということです。
余談ながらこの話によれば、「血奮い」を刀から血を振り飛ばすことだという解釈もあるようですけれど、刀に付いた血というのはなかなか簡単には落ちないようですね。
土佐山内家中の文化を知ることが英信流を学ぶ上で役に立つのではないか、とそんな話もあったことからこのコーナーを作ったわけですけれど、英信流だけではなく、武道を学ぶ上で、又、学問を身につける上で今でも意味のあるのではと思う言葉があります。
容堂公が藩主になられてまもない嘉永二年(1849)五月十日に出された十三箇条の通達の内の一条です。
一 忠孝を励まし礼儀を守風俗をそこふへからす尤文武之道を常に心掛候義可為当然事 附 文を学び其行を不省武を修練するといへとも唯名を求める族皆真実の道に非ず
容堂公は徳川家で言えば将軍継承者を出せる家格である御三卿にあたる南邸家の出身です。公はその南邸公子のころから居合を好み、常々
大名たる者の刀は士心に在りて、區々身に帯ぶる武器のみを頼むまじ
と言われていたそうです。
先に引用した一条の「附」の部分、「学問をしても自らの行いを省みない。武芸を修練するといってもそれはただ名声を求めるだけのため。こんな連中のやっていることは何れも真実の『道』ではない」、という部分は以前掲示板でご紹介したとき、共鳴される方も多かった一文です。
私もこの部分、大好きです。
勿論これだけではなく容堂公の言葉は数多く記録されていますが、「英信流を学ぶ上で」ということであれば、この二つは特に味わい深い言葉だと思いますので、「容堂公遺訓」として抜き書きをしました。これは私が自分の好みで選んだものですのでもとより私の手元に「容堂公遺訓」という書物や文書が伝えられているわけではありません。
元禄十四年(1701)といえば、三月に浅野内匠頭の刃傷事件があった年です。その年の十月六日、五代目当主・豊房公は『須知要樞』を発して家臣への戒めとしています。
その中の武芸を学ぶ上での基本的な心構えについて述べられた一条は「山内家中の風儀を知ることにより英信流を学ぶ上での参考にしたい」という方には興味深い一条ではないかと思います。
一 兵は士の道也。一人一個の者なりとも、心掛なくんば有へからず。習を得されハ、我得たる所の武芸も用る所の善悪を不知か故に、功をなす事すくなし。其上不心不覚を取り、或死すましき所にて命を捨、却て不忠とも成もの也。其他色〃武芸を稽古するも、先我得たる所より何れにても成就する様に可心得。我社心掛厚と人に言われん為、見聞一通に精を出す類ハ、数年を経るといへ共用に立事なし。一返にても真実に稽古をすれハ数返にも向也。惣て何事によらず日用の業、信を以て可本也。
私程度の者で申し訳ないのですが、こういう文章があんまりお得意でない方のために大意を申し上げてみたいと思います。
一 兵法は武家の道である。例え部隊の指揮者でなくても一人一人が心掛けていなければ成らぬ事である。兵法の本質を学んでいないと、自分が得意とする武芸の業も用いるべき場かどうかの判断が出来ないため、大した功績をあげることが出来ない。それどころか心ならずも不覚をとったり、死んではならないところで命を捨て、却って不忠ともなるものである。
色々な武芸を稽古するときは自分が好きで得意とするものから初めて(そればかりではなく)、どの業も一通りの水準まで達するように心掛けるべきである。
(武芸の稽古というものは、他人から)「彼こそは武芸に志の厚い者だ言われたい」と思い、他人の評判を得るための稽古に精を出すような輩は何年稽古を積んだところでものの役には立たない。
例え一回でも純粋な気持ちで稽古をするならば数回稽古をするのと同じ効果の上がるものである。(これは武芸の稽古ばかりではない。)何事によらず、日々の生活の中ですることは全て「信」をもととしたものでなくてはならない。
「兵法」には「武術」を意味する他、「軍略」という意味もあります。山内家の兵法で容堂公も免許皆伝の「北条流兵法」の「兵法」は後者の意味です。
更に言うと北条流は「人用捨」‐人をその時その時の自分の都合で用いたり捨てたりするのではなく、その人の優れた点を見出し、それを大事にして用いること‐を極意とする兵法であり、実際の用兵術よりもむしろ一軍を指揮する者の人間形成を重視した軍学です。(8.石州公の料理、火入れ・香炉の道理に戻る)
(北条流には調練の技術がなかったので幕末、山内家では会津松平家に実戦調練を得意とする長沼流軍学の教えを乞うています。)
豊房公は武芸が出来ても兵法・軍略が備わっていなければ状況判断が出来ず、功を立てられなかったり、犬死にをしてしまう危険性があることを指摘しておられます。この考え方は同じ元禄時代でも、『葉隠』の「武士道とは死ぬことであり、例え判断ミスから討ち死にしても恥には成らないが、『犬死』などということを考えて死すべきところで生き残ってしうのは恥である」という考え方とは正反対のものです。
『葉隠』は戦国の遺風を慕い、非常に情緒的なものの考え方をし、戦闘員であり続けたいと願う武士達の「武士道」のテキストであるのに対して、君主としてとして、あるいは行政官として徳による政治を行おうとする江戸期の武家の「士道」というものがはっきりと現れているのが豊房公の考え方です。
ただし、山内家が士道のみを重しとし、武士道を軽んじたかというと、そうではありません。その両方を重んじたことは七代当主・豊常公の逸話に明らかですが、長くなるのでそれはまた、後日ご紹介しましょう。
さて、豊房公は武芸の根底には兵法(戦闘や戦争全体を把握した上で、今自分はどうするのが最適かを考える力)がなくてはならぬとされ、さらに「惣て何事によらず日用の業、信を以て可本也」と言われ、武芸のみならず、日々の暮らしの中、全ての行動は「信」をもととしたものではなくてはならないと結論づけてこの一条の締めくくりとされています。
元禄三年、四代目当主豊昌公の時代に『元禄大定目』が出されています。
その中の「諸侍掟」では武芸について「諸侍専文武之道を心懸」とあり、幕府の発した「武家諸法度」と通じるものです。
内容的には「武士が武芸を稽古するのは当たり前である」という立場に立ち、「だから稽古をせよ」という上からの押しつけの形を取っていると言えましょう。
これに対して、「10.豊房公曰く 武を修する上の覚悟」で紹介した如く、元禄十四年に出された五代豊房公の『須知要樞』では、「武を修するのとき、その根本には『信』がなくてはならない。そして、これは人間生活の全てに共通する要素である」としています。
つまり、武を修するのは「武士だから当たり前」ではなく、そこに『信』を根本とした人間形成の道があるからだということです。これは殿様も家来もない、武を修するものすべてにとって大切な覚悟であり、人生の中で武を修することの意義も箸の上げ下ろしの意義も何ら変わらない、日常生活を真摯に生きることで人間性を高めてゆくことの大切さを説いている一文です。
僅か十一年前の『元禄大定目』とは大きく変わり、武芸を学ぶことの意義を学ぶ人一人一人の人生と結びつけ、武を修する者一人一人の自発的な意志が大切であることを説いたと言う点で、「武道は人間形成の道」という今日に繋がる考え方を打ち出し、成文化したものと言えます。
と、いうことは『須知要樞』の中の一条は殿様やその一族もなければ上級武士も下級武士もなく、山内家中にとって、山内家の兵法とは何かを新たに、そして、明らかに定義づけた一条であるということが言えると思います。
従って、剣術とか馬術とか、或いは○○流、××流と言った小さな枠を越えた、全ての武芸・兵法において「元禄十四年は山内家の兵法元年」と言えるのではないでしょうか。
寛文十年(1670)のことです。家中の者が経済的に難儀をしていると言うことを聞かれた豊昌公は、貸し出したお金の全てを棒引きにすることを決定されました。
この決定が通達される以前、平井はすでにこの情報を得ていました。で、彼はどうしたかというと、通達発表以前に全ての借入金を返済すると「良いときにお返しできた」と喜んでいたそうです。
記録者は「借金をしておいて払わなくても良くなったっことを喜ぶ者、はなはだしきは事前にこのような情報を入手し、更に借金をするような輩もいるとか。平井氏とは雲泥の差である。」と述べています。
今の世には「インサイダー取引」という言葉があり、このような破廉恥な行為を法で禁じているそうですが、それでも守らない人はいるそうですね。
それに対して平井氏の致しようは何ともさわやかです。
お金の咄と言えば、もう一人思い出す人物が居ます。同じく豊昌公の時代に弓の名手で曽我平太夫というものがおりました。その名は他家にも聞こえ、細川越中守様がお越しになったとき、その手並みを所望されたほどです。
曽我は御前にて百本の矢の内、九十九本を的中させ、残り一本をもってその場を下がりました。矢一本を残すのは弓矢の作法です。
このように弓は名人ですが、文盲同然で印可をもらっても何が書いてあるのか分からず、人に読んで貰ったとか。また、大変なおしゃべりで、ケチだったそうです。
曽我は態度に不遜なところがあって、遂に浪人となり、大阪に出ました。そこにやはり浪人していた日根野紋丞というものがおり、曽我に借金をしていたそうです。
曽我は弁が立つものですから、さんざんに相手をはずかしめながら日根野に返済を迫ったそうです。
我慢できなくなった日根野は「覚悟せよ!」と刀を抜きながら、曽我をまっぷたつに斬ったとか。
曽我は斬られながら脇差で日根野を刺し、相打ちに果てたとのことです。
弓の名手で、斬られながらも相手を刺し殺したというのだから、曽我は余程武芸に優れていたのでしょう。
面白いですね。どれほど武芸に優れていたとしても、その技術と人格は又別だと言うことがはっきり分かります。印可を受けているからと言って必ずしも人間として上等ではないというのは面白いですね。
技術を追い求めるだけで、人間性を養うことをしなかった芸者の末路の哀れさを今に伝える咄だと思います。
私は曽我名人のような人よりも、平井氏の方が好きですね。彼が武芸に優れていたかどうかは記録にありません。特に記されていないと言うことは、特に記すほどの武芸の技量は持っていなかった、ということかもしれません。
平井氏は「実戦の役」には立たないかも知れないけれど、「四民の手本」と言われる武家としては立派な人物だったのだろうと思います。
今日、よく「手段の目的化」なんて事が言われますけれど、武芸の上達が人間的成長と正比例するかのような思いこみがあると、武芸のお稽古の中でもそういうことがおこるのだろうと思います。同じ時代を生きた二人の人物のことを思いだし、そんなことを思いました。
先日(平成18年7月23日)放送の「巧妙が辻」で一豊公、遂に長浜城主ですね。その長浜時代のエピソードです。
長浜で草履取りの者に不届きの振る舞いがあった。一豊公は腹を立てられ、庭先より兼常を抜いて追ってゆかれた。(その不届き者が)御門前の橋の上より湖水(=琵琶湖の水)を引き込んでいる堀に飛び込むところに追いつかれ、(自らも)飛び込まれ、水上で(不届き者を)大袈裟に斬って捨てられた。(そして)兼常を「無類の大切れ」としていよいよ御秘蔵なされた。(一豊公は)水練など御達者であった。
常は余り酒も上がらず、物静かな方であったという一豊公であり、このようなお手討ちの話は他になかったように思います。何があったのでしょうか。
不審には思いますが、戦国乱世にあっては大名は時にこのような猛々しさを世に示し、その力で四辺を威圧する必要もあったのかも知れません。この話を読むとき思い出されるのが寛永十八年の生まれで元禄十三年(1700)に六十歳でなくなった四代目・豊昌公の逸話です。
草履取りの弥五助と言う者、御行水の時に大酒を呑んで湯殿に参上した。豊昌公は酒飲みが大嫌いな方で弥五助をご自身、湯殿で折檻された。すると弥五助は恐れ入って上司にことの次第を届け出、上司は出仕をご遠慮・謹慎という処断を下した。
翌日の御行水の時とき「弥五助は」とお尋ねになる。「昨日のことで謹慎を申し付けました」と上司の方からご返事申し上げると「ならば行水はせぬ」と止めておしまいになる。 それで俄に弥五助を出勤させたところ「ならば」と行水をされる。湯殿で直接弥五助に
「お前は、全く分からぬ者だな。役人に(お前の失態を)言えばお前は罪人になる。だから自らの手で折檻したのだ。今後このようなことがあってもいちいち組頭に報告などするな。私が行水を止めると言わなければお前は(謹慎処分を受けた)咎人となるところであったではないか」
と申された、と言うことです。
戦国の世も次第に遠い昔話となって行った時代。大名に求められていたのは不届き者を切り捨てる猛々しさではなく、罪を許し、咎人を出さないようにする思いやりの心となっていたのであろうと思います。豊昌公の人柄を伝える話としてこんな話があります。
豊昌公は人をお使いになるのが上手で、そのため諸芸の名手もこの御代にたくさん集まった。桂井素庵は能書である。彼をひいきにしていた間彦六が「彼に祝儀として知行をあたえては」と進言した。すると豊昌公は
「彼の者に知行を遣わす時は以後、不届き者にも知行を遣わすことになるであろう。素庵は先年手討ちを行ったとき、武士の道に外れた仕方があった者である。(そんな者に知行を与えたなら、不届き者に知行を遣わす)先例になってしまう。」
と言われたそうです。また、禁制となっている相撲見物に行き、百姓と諍いとなって殴られた武士が処分されたとき
「同道した者は友が打たれても助けようとしなかったばかりか、その恥を触れて歩いたのであるから、同道者も厳しく詮議するように」
と言われたとか。こういう記録から拝察するに決して依怙贔屓もなく、厳しさに欠ける殿様でもなかったようです。が、弥五助は折檻ですませようとされた。そこには今日凶悪事件、或いは微罪を言い立てて人を社会的に葬ろうとするマスコミの奢った態度を批判する人がテレビ番組などのなどでも良く口にしているのを耳にする「罪刑均等=犯した罪に応じた刑でなくてはならない」という考え方を見る気がします。太平の世にあって民心を安定させる上では大切なことだと思います。「大定目」、俗に「元禄大定目」といわれるものを制定され、法制度を整えられた殿様らしい逸話だと思います。
不届きな草履取りを切り捨てるにせよ、殴って済ませるにせよ、罰を与えることに対する社会的な影響を常に考えていなければ”殿様”は勤まらないもの、と言うことなのでしょうね。
以前新聞で『上司は思いつきでものを言う』というビジネス書の広告を見ました。思いつきで命令を下したり、一時の感情で人を罰したりするようでは”殿様”にはなれない。そういう意味では大抵の上司はせいぜい、殿様が何故弥五助を殴ったのかが分からない草履取りの組頭位が関の山なのかも知れません。
慶長八年十一月に高石左馬助というものが一揆を起こしました。 討手が差し向けられると高石は瀧山に立て籠もります。瀧山は高く、険しい山である上、高石は鉄砲の名手で、岩の間から正確な狙撃を行うので多くの死傷者が出ました。 そこで、瀧山の左右の高い山から、大筒に小石を詰めて激しく射撃をさせると、一揆勢もこれには参り、山伝いに讃岐国(香川県)へと逃げ去った、と山内家の記録にあります。 このように、大筒は大きな弾を一発だけ込めて門扉を破壊するような「大砲」としての使い方の他に、いわば散弾銃としても使われたようです。 今日の散弾銃の有効射程が五十メートルであることを考えると、谷を越えて、隣の山に立て籠もっている一揆勢を殺傷することができた大筒というのは大変強力な散弾銃でもあったと言えます。