茶の湯
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項 目

1.茶の湯と種子島−上田宗箇 付、1.上田宗古の槍 2.上田宗固の武辺咄  3.上田宗古の覚悟
2.茶の湯と武道−松浦鎮信
3.流祖石州公の逸話
4.不意の客
5.秀次の作意
6.風呂上がりの茶の湯
7.刀の扱いについて
8.石州公の料理、火入れ・香炉の道理

 わたくしは茶の湯が好きで「石州流 怡渓派」で御稽古をさせていただいています。お茶というと三千家が有名で、わたくしの母は表千家、妹も裏千家の師について御稽古をしてただいていました。しかし、わたくしは居合の稽古が好きでやはりお茶も、所謂「武家茶道」を御稽古したいと思っておりましたところたまたま友人より石州流怡渓派の家元を御紹介いただき、現在も御稽古をして戴いております。石州流には他にも色々な派があり、京都からも近い彦根様も派こそ違え石州流であり、先の大老をお勤めであった井伊直弼候のことは大変御尊敬申し上げております。彦根様のように・・・・、というのは大変難しいことですが、たとえ何万分の一でも彦根様の様になれたら、と思って稽古をしています。
 又、茶の湯の上での武辺咄とでも申しましょうかわたくしは武士と茶の咄が大好きです。

1.茶の湯と種子島−上田宗箇

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 このホームページは何となく種子島の話題から始まりましたので、上田流の祖が大筒でくぐりの開くのを知らせたというお話を御紹介したいと思います。又、引用文の後半に登場する多賀左近は織部の流れ。

 惣じて茶の湯は、世をのがれ閑居隠者のなすわざなれば、不弁に麁粗にしていさぎよきをもとゝす、武道をもとゝす、さればには上田主水、茶湯の会に客きたりてくゞりの明くを待ち居たるに大づゝを玉なしにうち放してのち、客を請待せしとなり。また多賀左近の雲州御在番に、茶の湯の時、床に花はなくて甲をおかれしとなり。皆その本を忘れぬ心なるべし、万事おもいおもい心々なれば、是を是とし非を非とするにあらず、たゞ当然の理にしたがうべし。(『備前老人物語』−現代思潮社−より引用)

付、1.上田宗古(箇)の槍

 居合のことで『前橋旧蔵聞書』を調べていたらこんな話が出ていました。上田宗古の人となりを偲ばせる話だと思いますので引用しておきます。

一 鎗ノ柄ハ軽テ堅キニ利アリ上田宗古ハ杉柄ノヤリヲツ子ニ所持ス人ノトヘハ突オルホト働テ打死ハ本望ナリト云ヘリ

付、2.上田宗固の武辺咄

 上田宗古というのはどんな人だったのかなぁと思っていましたら、『近史余談』にこんな話しが載っていました。これを読むと大変な武辺者だったように思います。

夏御陣の時―略―浅野家人、上田主水宗固、亀田大隅守高綱取て返し、大手柄有。―略―上田宗固は、尾州星崎の所産にて甚左衛門重光が子也。初は丹羽五郎左衛門長秀方に相勤候。紀州雑賀の一揆退治として、長秀出陣の供致し候処、明智逆心に付て、長秀紀州鷺の森の陣を払ひ、大坂表へ馳登て織田七兵衛信澄を責られしに、主水先登して手なみを顕し、大将信澄をも打捕申候。其後秀吉公の直臣になり、関ヶ原陣上方の一味を以て牢人致し、紀州に引込罷在候。然るを浅野紀伊守幸長、一万石の扶助料にて招き申され候。元来隠なき数寄者にて在しが、和歌山城普請の砌―略―主水も大石を挽するとて柿の太布手拭にて鉢巻をし、馬乗をあけたる柿の木綿羽織に船の楫の大紋をつけ、石の上へ騰りて下知致し候を、年若き侍共見物して「あれは上田宗固にてあるよな。檀那も大名也。茶道坊主を一万石にて克くも抱られしは」と嘲り笑ひ候を、一家中にて聞伝へ、茶呑物語に致し候。是を紀伊守聞及ばれ、宗固心底気の毒ならむを察し、或日家中一統出仕の砌、宗固を招き「其方事若き者共が、何角わる口いひなす由聞伝たり。大行は細瑾を顧ずと云事あり。必々心にかくべからず。左あれば万一変事あらば弥頼み申ぞ」とて、手づから指料の脇指を与られ候。宗固これを押戴き「誠に忝なき御懇情、申述べき様も無御座候。若も急変出来るにおいては、此脇指に血をつけ、御芳志の程を報じ申べし」とて、退座致し候。然るを又家中の面々打笑ひて「宗固が口上のごときは、鼠の血か猫の血かにて有べし」なんど罵りけるが、紀伊守卒去の後、件の一戦に比類なき働して但馬守の実験に入れ、過分の褒美を受て次の間へ退去し、諸士列居たる前にて「我等事、先年当家へ招かれし時分は、高知行の茶道坊主にて皆々のわらひ草になり、其後先君より脇指拝受し、御挨拶申たるとて、又候嘲り申さるゝ由、追々耳を打もの有之つれ共、所存有て黙し過ぬ。いで茶の湯も致されず武士道一通りを専らに嗜るゝ衆中、今日は茶道の宗固におとりて、更々武辺も見へ申さず」と荒らかに申ければ、満座の大勢閉口して、一人も会釈する者なかりしと也。此已後大神君宗固を召出され、御目見へ受させられ「其方事久しく御覧なされず候。何とて入道致し候や。早々元のごとく主水に罷成申べく候。其体にては刀脇指も有間敷まゝ是にて腰をふさげよ」と仰られ、御腰者御脇指を下され、一段御懇なる上意を蒙り候と也。子息両人の内一人は浅野家へ仕へ、代々主水と申候。一人は主殿助とて秀忠公へ召出され候。其子を弥右衛門と申候。

付、3.上田宗固の覚悟

 調べ物をしていたら『常山紀談』拾遺巻之一にこんな咄が出ていました。

 上田主水入道宗古物がたり致し候は、士は討死を遂げ、首に成たるときの義を心に掛たるがよきなり。去に依てさかやき抔の後さがりなるは、侘言づらになり見苦しき間、若き衆中必後高に剃たまへ。明日は必一戰と知れたる前日は、首を綺麗にいたす心得第一の由かたられし。  

 別に、上田宗古の逸話を調べているわけではないのに武辺咄を読んでいるとふと目にとまります。余程の武辺者だったのでしょう。同じく『常山紀談』の巻之二十二に

落武者の降参するを斬たりとも、母衣をかけたる我にいかばかりかの功名とかすべき。―略―みだりに人數を殺すのみ武と思へるは、大きなひが事にてこそあれ、といひしとぞ

という斎藤織部という武士の言葉が出ていますが、武辺咄を読めば読むほど上田宗古もきっとこの斎藤織部のような情けをしる武士で、その点前というと妙に「武士」を強調した芝居がかったものでは決してなく物柔らかく、それでいて侵しがたい品のあるものであったのではなかろうかと想像しています。

2.茶の湯と武道−松浦鎮信

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 松浦鎮信候と言えば、武芸と茶の湯も随分と良くされた方でわたくしは彦根様についで尊敬申し上げているお大名です。松浦候はその著書『茶道由来記』に以下のように述べられ、茶の湯は文武両道の内の風流であると述べられています。本当は全部引用したいところなのですが・・・・。

  我が師宗関居士(片桐石見守貞昌)出て、事理を具にして、殆といにしへの道にかへり、此法におゐて人にこへ、所作ひいでたる事、世挙てしれり。しかれば茶湯の濫觴は、出所おもき事ならねど、所作よこしまならずして、そののりただし。理をはなれては一事も調かたし。だだに所作のみにして理をもてせざれば、見ものの、様になりゆきてゑきなし。元来茶礼とて礼の一條なれば、礼と楽とをさらず。―略―文武は武家の二道にして、茶湯は文武の内の風流なり。さるによりて柔弱をきらふ。つよくしてうつくしきをよしとす。
(『石州茶道 茶事三十五格』−浪速社−所収・『茶湯由来記』−松浦鎮信著−より引用)

3.流祖石州公の逸話

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 石州公が香爐として用いる事が出来る唐物を煙草盆の火入れとして使われているのを指摘されたとき「香爐として使えば下となり、火入れとして使えば上となる品である。道具も人も生かして使うのが茶道の本意である」と云われたとか・・・・。わたくしはこの逸話が大好きです。

 片桐石見守も茶事は衆に勝れし人也―略―或人煙草ぼんの火入を見て是は唐物ならずや火入には惜しゝ香爐に御用ひ然べからんと云石見守答へて茶道の意みはかやうの所に有る也此器物を火入れに用ふればこそ人に賞せられ香爐に用ひなば下の香爐なり上の火入れを捨て下の香爐に用ふは道具を殺して遣ふもの也渾て器物に限らず何物にても其物を生して遣ふこそ肝要なれ人を使ふにも用る人を上手下手に依て愚者も役に立賢者も役に立ず萬事火入れと香爐の道理也

4.不意の客

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 亡くなった家元は良く「茶人が『茶人めかす』というのは一番良くない」ともうしておりました。武士の武士臭いのは良くない、というのと通じるものがありますね。
 さて、『備前老人物語』に古田織部お気に入りの塗師で、そのため家業も栄え、茶の湯も上手であるという評判を取っていて、自分自身それを自慢にもしていた道恵というものが実は「めか」しただけの茶であったのかな、と思わせる話が載っています。

  田舎に住んでいた武士が四五人連れだって伏見に行く途中、道恵の家の側を通りかかり、茶を所望しました。すると道恵は
 「折りふし釜の湯も湧きたり、よくこそ訪わせ給え」
といって茶室に通します。そして、茶請けにいりなまこ、串あわび、かまぼこの煮染め物をだしてもてなします。道恵のもとを出た武士達は道すがら彼の茶について批評をしますが、毀誉褒貶まちまちだったとか。すると中の一人の千田主水が
「今日の茶請けこそ潔からね、不時の作意こそあらず。たゞ余残の類と覚えて、気味あしかりし。道恵が茶の湯奥ゆかしからず」
と申したとか。確かに煮染めなどと言うものは如何に手の込んだ料理とは言え、否、手の込んだ料理だからこそ不意の客に出すにはふさわしくない品です。「残り物のようで気分が悪い」という批評は当然と思います。勿論道恵としては急ぎ作らせた物であり、残り物ではなかったかも知れません。そして「不時の作意=思いがけない趣向」として出したつもりが「不時の作意こそあらず」という評価になって仕舞ったわけですね。
 千田がこういうと人々はこの意見に同意したとか。自分では一生懸命考え、あれこれ手を尽くしてやったことが却って相手に不快感を与える。お互い不幸ですね。でも、こういうこと、私もやってしまうことがあります。筆者はこの逸話を
「かゝること茶湯に限らず、時により人により、よくよく遠慮あることなり」
と結んでいますが、ホントにそうだなぁと思います。

5.秀次の作意

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 今日「作為的」などというと余りよい意味ではありませんが、4.からも察せられるように茶の湯で「作意」というのはとても大切なことです。作意については『備前老人物語』に関白秀次のこんな逸話が載っています。

 小倉百人一首の色紙を入手した秀次はその披露の会をひらいた。上客は利休で相伴は三人。頃は四月二十一日の事である。時刻は暁のころで、形式は「風呂の茶」である。人々が座敷にはいると明かりをともす短檠(たんけい)の火もなくただ釜の煮える音だけで如何にも静かな雰囲気である。どういう作意であろうかと思っていたところ、利休のいるところの後ろの障子がほのぼのと明るくなってくるのを不思議に思い、障子を開けてみた。月影(=月の光)あかるく床の内にほのぼのと移ってくる。「なるほど」と思い床ににじり寄ってみると小倉百人一首の色紙の掛け物である。その歌に

 ほとゝぎす 鳴きつる方を ながむれば たゞ有明の 月ぞ残れる

とあった。その面白さは言葉にならない。そのとき利休その他の人も「さても名誉不思議の御作意かな」と異口同音に述べ、感じ入ったという。

語釈‐風呂の茶

 普通に考えると風呂=風炉で初夏から秋にかけて使われる、丁度火鉢と茶釜がセットになったような道具を用いたものかな、と思います。ですから、「風呂の茶」とは「風炉の茶」だと考えられます。

 字は入ると疲れが取れて気持ちの良いお風呂の「風呂」ですね。でも、勿論昔の人は余り字にこだわらないから、風炉を用いたとの意と考えてもよいと思います。
 ただし、お風呂上がりの茶、というのもあるので一概に決めつけられません。ただ、時刻が「暁」となっていますから・・・。参考になると思いますので、次に同じく『備前老人物語』所収の「風呂上がりの茶の湯」というのをご紹介しましょう。

6.花見帰り、風呂上がりの茶の湯

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 短文ですし、さほど難しいものでもないので、そのまま引用します。ただし、漢字は一部書き改めています。

 花見帰り風呂上がりの茶の湯というあり。これは人によりて花見のかえるさ、風呂の後の席に茶をまいらするなり。その時はつねの衣服を着て迎えに出で座へ請じて、粗相なる道具にてまづ薄茶を以て、次第にすゝむべし、其の茶過ぎてのちに、炉の火をなおし、つねの如く膳を出し、それより真にかまえ、衣服等もあらためよとなり。悉くは略す。

7.刀の扱いについて

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 確かにこのコーナーはお茶関係の話なんですけれど、このHPを見てくださっている殆どの方は居合関係と言うことですので、そういった方々にも面白い話となると、彦根の井伊大老の『一会集』にこんなことがかかれています。

 一、貴人正客、相伴の衆は、腰の物刀掛に懸けず、軒下の壁に柄を下にして、鼻紙を敷き、立てかけて置くものなり。

 道場や大会などの会場では刀を立てかけるより、寝かせておいた方が安全ですけれど、何かの理由で立てかけた方がよいときはこれを思い出していただくと良いのではないでしょうか。鐺は上、柄は下で柄の下には鼻紙(懐紙)を置く。そうすれば滑って倒れることも防止できますし、武家茶道の故実に適った置き方ですから人に訳を聞かれてもちゃんと説明できます。ちなみに懐紙は便利ですよ。新しい懐紙を一束ナイロンの袋に入れて汚れないようにし、稽古着を入れる鞄のどこかに入れておけば何かと役に立ちます。それから、『一会集』にはこんな事も書かれています。

 一、刀・脇指・下緒・柄糸までもほこりを払い、改むべし。扇子も新しきを持つなり。石州好みの扇子あり。常の扇子にても無地を持つべし。

 入室の際に刀や脇差のほこりをはらうなどということは現代人では思いも寄らぬ事ですが、それゆえこういう話は面白いのではないでしょうか。又、白布や手拭いを持つことも述べられています。

8.石州公の料理、火入れ・香炉の道理

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『明良洪範』という慶長・元和の頃から五代将軍綱吉公の御代の初期までにあったことを眞田増誉という幕臣が歳月の順ではなく、自分が見聞きしたままに綴った本があります。その九巻に石州流の祖・片桐石見守様の逸話を見ることが出来ます。
 週末で普段なら酒を飲んで高いびきの筈が、明日は人と会わなくては成らないのでしらふで寝たら夜中に目が覚めてしまいました。寝付けないので、そのお話を紹介したいと思います。ただし、又、いつものように私の下手な現代語訳です。ご勘弁、ご勘弁。
 片桐石見守は茶事に優れた人である。会席も上手で、軽い品を出されても風味のまことに良いものである。人々も片桐にならって料理をするのだけれどなかなかその風味の及ぶところではない。
 ある人が片桐に料理の仕方を問うと、片桐が答えて言うには大体料理というものは軽い料理で風味を良くしようと思うなら先ず、重い料理を作る。その中から出た「軽さ」は風味の良いものである。ところが、最初から「軽く」と思って作ったものはただ「粗末」になるだけで、客には出されない料理となって仕舞うものである。

 また、(こんな事もあった。石州公の茶会で)ある人がたばこ盆の火入れを見て
「これは唐物ではないですか。火入れなどには惜しい品。香炉に用いられてこそしかるべきでは。」
と言った。すると石州公は
「茶道の意味はこういうところにあるのです。この器は火入れに使ってこそ人に賞賛されます。しかし、香炉として使っては下の香炉にしかなりません。上の火入れを捨てて下の香炉として用いるというのは道具を殺して用いるということです。総じて器に限ったことではありません。何事もそのものを活かして使うことが肝要です。人を用いるのもそうです。その人が何が得意で何が下手か分かって使えば愚者でも役に立ちますし、分かっていなければ賢者を役に立てることも出来ません。何事も火入れと香炉の道理です。」
と、答えられた。


 この話を読むと、「山内昔咄」のコーナーで紹介した北条流軍学の「人用捨」の極意を思い出します。
 因みに土佐山内家の茶も石州流で幕末の有名な藩主・山内容堂公は茶も良くされたと言います。
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