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立膝の部

○虎一足のこと
 

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 山内派の虎一足と申しましても格段変わったことはなく、敵がすねに斬りつけてくるのを受け止め、直ちに振りかぶって撃つと言うだけの事ですけれど、この振りかぶるのが最初の内は難しく、切先で右の耳を突くようにして振りかぶるのが肝心で、そうすると切先からちからがぬけるということがないのですけれど、それがなかなか出来ません。ひどいときにはだらりと切先が下がり、身体の横で半円を描いて振りかぶり、それから打ち下ろすというような形にすらなることがあります。
 特にこの業に限ったことではなく、どの業の時も切先に力が入っていないといけないのですけれど、視界から切先が消えるとついつい力が抜けてしまいがちです。
 この業など、それをチェックするのにはよいかもしれません。

   

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○浮雲について

 昨日、(9月12日)武徳殿で稽古をしておりました。丁度その日は同じ敷地内の武道センターで柔道専門学校の大会があったらしく沢山の方が稽古風景や武徳殿そのものを見て行かれました。
 その内の一人の方とお話する機会があり、「居合というと早抜きをしたり物を斬ったりというイメージが強いようですが、刀を使って相手を投げ飛ばしたり、関節をきめたりする業もあったりして、柔道や、柔術、合気道をされるかたから御覧になっても面白いものかもしれませんね。」というお話をさせていただきました。
 例えば、滝落には柔道でいう体落のような投げ技が組み込まれいますし、浮雲など想定により柔術のオンパレードだと思います。

 浮雲は自分の右に座っている人の更に右の人が自分の刀の柄や腕を取りに来るときどうするか、という業ですが、面白いのは腕を取りに来たとき、取られたときです。
 かえわざの一つには鯉口を握って柄を体の左にやり、掌を開いて頭上にかざす業があります。これは腕を取られないためですが、尚も相手がその腕をつかみに来たら是は一つのチャンスで、その瞬間に肘をぐいっと張り、掌を左の肩の方へ持っていくようにすると相手の腕は引っ張られて伸びてしまいます。その伸びた相手の腕を左手に持った刀の柄で押さえ込みつつ座ります。
 又、腕を頭上にかざさず腰の位置に拳、或いは掌を置いておき、やはり刀の柄を左手で左外へ向けつつ立ち上がります。そしてとられている自分の肘から二の腕にかけての辺りを相手の腕の裏にぴったりと押しつけつつ一気に腰を下ろしてやります。
 また、立場が逆で自分が相手を取り押さえに行くときは右手で相手の手首を握り、相手の手を相手の体に押しつけつつ、自分は相手の後ろに回り込み左手で鯉口を握って柄で相手の肩口から肩胛骨の辺りを押さえつつ座ります。
 このように、業が決まった瞬間座ることにより相手に大きなダメージを与えて相手の動きを封じる事が出来ます。 他の業で立ち上がるエネルギーを利用する場合もあり、日常的な立つとか座るとかいったことによって生じるエネルギーを利用した業というと、柔術や合気道と通じるものがあるのではないでしょうか。
 わたくしの戴いた伝書には流祖からわたくしに到るまでの名前が書き連ねてありますが、その中にある名前と、『武芸流派大事典』にある、天神正より日本組討大祖−意慶坊長遍がさずけられたという「無双直伝流」の柔術の系図の中に幾つか同じ名前を見いだす事が出来、さらに言えば「長谷川内蔵之助英信」の名を見いだすこともできるので、居合術の英信流の業の中に投げ技や関節業があったり、組討ちで相手を押さえ込んでおり、片手しか使えない状況の中で刀を抜く方法、関節を取られた状況で刀を抜く方法などが伝えられているのと何か関係があるのかなぁ、と思って見ています。   

    

左−英信流山内派の伝書の一部       右−無双直伝流(柔術)系図の一部(『武芸流派大事典』より転載)

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○浮雲の換え業について

 浮雲で、先ず相手の肩先に刀を打ち込んだ後、山内派では刀を真横ではなく下へ、下げてから横へやり、ちょうど平仮名の「し」の字をえがくように刀を操作します。これは相手を(場合によっては襟を掴んで)引き倒し、起きあがってくるところを打ちたいからです。では他の英信流のように刀を真横にする業がないのか、というと換え業にあります。
 これは他派で言われているように首を切りながら、ということではなく(別に切れても構わないのですが)、肩先に刀を打ち込んだとき、疵が浅いので敵は刀を抜きかけるので、その右腕と刀が作る三角形の頂点の内角部分に自分の刀の柄を引っかけ相手の刀を抜きとばしながら相手を引き倒すために致します。又、他にも換え業があって肩先に打ち込んだら右臂を大きく上げ、切先を下げて相手の背中に刀を廻します。そうしておいて相手の背骨の周りの神経を切り裂きながら相手を引き倒すようにします。この業は「名人」というビデオの中で確か森繁樹先生がなさっていたと思います

○浮雲・「うちかえし」のこと 

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 浮雲で相手の肩口に刀を打ち込んだとき、相手が刀の柄に手を掛けて反撃してくるという場合も当然ありますね。それが出来ないように、相手の手首を自分の刀の柄で押さえる、柄を相手の手首の内側に入れて相手を引き倒すという方法があり、相手が術からのがれる為柄から手を離したら柄頭を相手の鍔の裏に引っかけて勢い良く引っ張ることにより相手の刀を向こうへ飛ばしてしまうといった方法も有ります。
 こう言った柄をつかった対処法に対して、打ち込んだ軌跡を刀が通るように操作し、刀をクルリと一回転させ、下から相手の手首を切り上げるという方法もあり、これは一瞬相手に刀を抜く時間を与えますが、そこが付け目で、相手が刀を抜こうとする力と自分が切ろうとする力とがぶつかり合うことにより、相手により大きな損傷を与えることが出来ます。
 この他に、打ち込んだ肩から素早く反時計回りに切先を回して相手の手首を切り上げるという方法もあり、この二つを山内派では、「うちかえし」と呼んでおり、便宜上浮雲の中で稽古することが多いですが、勿論単独でも、他の業と組み合わせて稽古してもよく、脇指だけのときなど便利な業です。こんな業伝書のどこにも(少なくともわたくしがもらった伝書には)出てきません。要するに口伝なのですけれど、こういった「口伝」の部分に面白い業や話が沢山あって、「居合は面白いなぁ」と思います。右膝を試合で痛め、柔道から居合に転向したのですけれど柔道よりわたくしには合っていた見たいですし、柔道の知識も結構役に立って何か得した気分です。

 

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○浮雲・手を掴ませること 

 先日−「浮き雲」でどうやって相手の手をふりほどき、倒していくのかな−という問い合わせのメールを頂きました。手抜きと言えば手抜きなんですけれど、その返信を切り取って張り付けておきます。

 この問題ですが、確かにこちらの方が力が強ければ振り解いてでも何としてでも出来るかも知れませんが、いつもそう上手くいくとは限りませんし、例えそうでも押し合いへしあいして無駄な時間を掛けるより、業を掛けた方がいいですね。
 仰っている相手の手を振り解き、というのがどのような状態の時を考えておられるのか分からないので、とりあえず、ごく普通に教えられる型、相手が柄を取りに来たので柄を左に寄せて取られるのを避け、立ち上がった状態というところからお話しましょうか。
 この時、右手を大体膝の辺りに置くよう教わりませんでしたか?柄を取りに来て、失敗し、元の位置へ戻ろうとする相手にとって、この膝の上の右手というのはまさに「棚からぼた餅」というヤツではないでしょうか。
 そうなんです。たなボタなんです。「しめたっ」、とそう思ってこの手を相手が掴みに来てくれたらこんなに有り難いことは有りません。特に、両手で思わず相手ががっしと握ってくれたら万々歳ですけれど、そんな美味しい話はなかなかないので、此処では、相手は左で自分の刀の鍔元をおさえ、右手でわたくしの右手首を取りに来たとしましょうか。これが、まぁ、最も自然で思わず掴んでしまった場合では一番あり得るケースでしょうね。
 その時はすかさず(と言うより、右手を膝に残したのはそのためですから、待ってましたとばかりに)相手に寄ります。と、同時に左手で刀を寄せて鍔もとを自分の右手に握らせます。この時相手の腕とわたくしの腕は直角を形成し(してなくてもいい、大体の話)、自分の臂は三時の方向、相手の腕は十二時の方向にあります。この相手と自分の腕の下から柄を二時の方向へ持ってくると同時にその柄を上げ、相手の腕の上に載せ柄で相手の右腕を押さえつけながら座ります。そうやって相手の腰を潰しながら腕を振り解き、後は刀を抜いて攻撃するなりなんなり状況如何ですね。又、折角下へ持ってきた相手の腕ですから状況によっては手首の辺りを踏みつける方法もあります。
 あと、相手が左手だったら、両手だったら、抱きついてきたらなどなど、色々あります。(上記の場合、柄を十一時の方から持ってきて、左足を進め、足を入れ替えてする方法もありますけれど、余りこれは言いたく有りませんでした。というのは、こっちの方が業を掛けられた方が痛い思いをするので気の毒ですから。)

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○「の」の字の事−付−「浮雲」・「山颪」のこと

 例えば「山颪」のとき、刀の柄と鯉口のあたりとを握って平仮名の「の」の字を書きつつ打ちますけれど、山内派ではあの「の」の字はいろいろと活用方法があるのです。「打つ」とか「決める」とか・・・・。
 例えば刀を帶から鞘ごと抜きつつ柄頭で相手の顔面を打つ場合、只真っ直ぐに向かってくる柄頭というのは相当早くてもよけやすいのですけれど、「の」の字、即ち螺旋を描きつつ迫ってくる柄頭というのは非常に避けにくいので、相手の顔面を打つときは「の」の字を書きつつ打つということになっています。
 それから、お互い立って向き合っている状態で、こちらが刀の柄に手を掛けた瞬間、相手はその刀を抜かすまいとしてとっさにこちらの刀の柄を握って押し込んできたとします。その時はやはり柄頭で「の」の字を描きます。つまり、「の」の字の縦棒を描くことで先ず、相手の臂を延ばしつつ、相手の体勢を崩すや否や「の」の字の曲線部分を描くようにして相手の手の甲へ柄頭を持ってくるようにします。このとき、出来れば相手の手の上から柄を握って相手が逃げられないようにし、さらに「の」の字の曲線部分を描きつつ腰を沈めると効果は数倍になります。又「浮雲」の替え業になりますけれど、相手が横から柄を取りに来て柄頭を床に押しつけられた状態になり、刀が抜けなくなったとします。そのときは手は刀の柄と鞘をいつものようにもって柄頭で地面に「の」の字を書きつつ右足で相手の左足の膝頭を後ろへ蹴る、もしくは押しやります。そうすると相手の体勢は崩れ突っ伏したような状態になります。それから、膝頭は後ろへ蹴ったり、押しやったりするほかに踏みつけておくという方法も有ります。
 又、相手が柄を取りに来たので柄を左にやり、立ち上がったとき、相手に右手を取られたとしても「の」の字の理屈を知っていれば刀の柄を使って、もしくは使わなくても取られた右手だけでも相手を崩すことが出来ます。このほか「山颪」にしろ一本目にしろ兎に角、何でも良いんですけれど、刀を抜こうとしたとき、相手がその刀を抜かすまいとしてとっさにその刀の柄を握る・刀を中へ押し込もうとする・刀を抜き取ろうとすると言った場合、つまり相手が自分刀の柄に執着してくれたときというのは一つの好機で、その好機の活かし方の一つが「の」の字です。他にも刀を後ろに、などという口伝も有りますけれど、ややこしくななるのでここでは「の」の字のお話だけさせていただきました。  

 余談ですけれど以前、鍔の上に種子島を固定して狙撃する古流砲術の型を稽古していたとき、ライフル協会の方から「居合は抱きつかれたら終わりだと聞いたのですけれど本当ですか?」と聞かれたので「では抱きついてみて下さい」といって抱きついて貰った上で、「刀を抜かない居合」のお稽古をさせていただいたことがあります。あんまり、痛くしませんでしたけど・・・・・。先程の「の」の字と言いこれといい、山内派には「柔術」見たいな業もあってお稽古の合間に「ちょっとここ持ってみて」とかいって皆で良く遊んでおります。  

○足音を鳴らすこと−岩浪、一〜四本目、余談に門入 

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 岩浪を抜くとき、片足を上げて一本足になり、刀は上げた右足に取り添えて、突くとき「トン」と足音をさせますね。
 実は山内派ではこの音をさせる事よりも一本足に成ると言うことが大切なのだと教えます。それは、確かに一本足になると不安定に成りますけれど、試しにその姿勢で好きな方を向いてみて下さい。刀の切先は如何ですか?常に目線と平行に動いていますね。一本足は敵の動きに素早く対応するためで、例えば自分から見て、敵が左後方へ下がったらそっちへ向きながら足を前に出しつつ相手を突く事が出来ます。もしその方向から相手がのしかかってきたら右後方へ足を引いて十分距離を保ち、相手を突く。場合によっていろいろに変化できるのがこの一本足の特徴です。で、お稽古の時は左足にそろえるようにトンと足を落として突き上げますけれど、この一本足の意味が分かっていれば前に突こうと、後ろに下がって突こうと、右を向こうと左を向こうと何でもいいんです。
 従ってこのとき、確かに足音を結果的に鳴らしますけれど、別に音が小さかろうが大きかろうがどっちでもいいことで、一本足の意味さえ分かっていれば良いんです。  又一〜四本目も足音をさせますね。先ずこの一〜四本目というのは確かにお稽古としては九〇度ごとに四方向を斬りますけれど、これはそれぞれをバラバラに考えるのではなく、このお稽古を通して三六〇度、どの方向へも斬れるようにお稽古をしていると山内派では教えます。で、足音をさせるのには一つには自分がどの方向へ向かって斬っているか、という方向確認の意味もありますけれど、むしろ大切なことは抜き付けるとき、手の力や手首のスナップだけではなく、後ろ足で身体を前に押し出すと同時に左手も使って身体全体で抜き付けをしていますので、この前に勢い良く打ち出された身体を止めるためのつっかい棒として前足を出します。で、その時、結果的に大きな足音がしますけれど、別に、つっかい棒ですから方向確認ということを別にすれば、音がする必要は全然なく、前足は音もなくすっとすり足で進めるだけでも良いとされています。  

 余談になりますけれど『風姿花伝』の中で世阿弥は打物業は武士の実際の動きを取り入れるように、といっていますね。世阿弥作の能、例えば「屋島」や「敦盛」を見ても足を上げると同時に太刀を振り上げ相手の方向に足を落とした瞬間が太刀の切先が止まる瞬間となっており、「屋島」で突くときは手だけで突くのではなく、門入の時と同様身体の軸回転の力を利用して突くという形になっており、流石だと思います。
 さらに余談になりますけれど、金春禅鳳が普通の人に舞を教えるとき「扇はあなたが刀を持つように」と教えたそうです。扇は手全体でふわりと持ち、要の所を小指で締めているだけですけれど、小指だけ効かせてあとはふわりと、というのはなるほど刀と同じですね。また、「さしこみひらき」などという舞の形を見るとよく分かりますけれど、右手に持った扇を操作しているのは実は左手の力ですね。なるほど、刀、扇、よく似ていますね。

   『禅鳳雑談』 一、へいはうのたうりうの太刀をつかい候やうに、あふぎを御とりもちあるべく候。
 太刀・刀をもち候とおもふ心得もち候へば、あふぎを取はおとさぬ物にて候。

口語訳

 武芸の正統な流派の太刀をつかうように扇をお持ちになるようにして下さい。太刀・刀を持っているんだという気持ちで扇をお持ちになれば、扇を取り落とすということは有りません。

○横雲の換え業について

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 先日、人を介して横雲の換え業について、質問を受けました。なんでも下村派の伝書に足を踏み出して、ではなく、左足を引いて抜きつける横雲があるが、山内派にもありますか?という質問でした。
 その業、「山内派に」という事に限って申せば、「ある」と言えばありますし、「無い」といえばありません。
 ともうしましても、別に意地悪をしているのではなく、そうとしか答えようがないのです。
 扨、どの業ででもよいのですが、抜きつけて右足を出すのは、「右足を出すということがとっても大事」、ということではなく、後ろ足となる左足の蹴る力というのが根本的に大事で、その力によってからだは前進しますので、そのままでは倒れてしまいます。そこでつっかい棒の役目を果たすのが右足だと言うだけのことなのです。
 ただ、敵と自分との間合の関係上、前進するよりも後退した方がよい場合というのも当然でてきます。その場合、ご質問のような形で足を引く横雲というのがあって当然です。
 しかし、このことについては山内派ではすでに一本目の換え業の中で説明してしまうので、浮雲の段階ではもう教えません。ですから、技術的な理論として言えば「ある」けれど、業を教えるカリキュラムの中で浮雲に付随しては「ない」ということですので、結果的に「ある」といえば「ある」ですし、「ない」と言えば「ない」です。
 ただ、気をつけていただきたいのは、というか、これがとっても大事なことなのですけれど、その動きは同時に鱗返や浪返の換え業でもあるし、虎走の一部でもあるということです。
 つまり、一つ一つの業というのはバラバラに存在しているのではなく、連続した大きな連環の一つであるというふうに考えて稽古することが大事で、そういう意識でお稽古をすると別に変え業を沢山やらなくても見えてくるものがありますし、逆にそういう意識がなければ「換え業を沢山知っている」というだけになってしまいます。
 その昔、「ニューヨークは人種のるつぼ」と言われていたのが、お互いの人種が理解しあうことも、混じり合うこともないことから「人種のるつぼではない、サラダボールである」と言われたそうです。
 山内派では業が「サラダボールである」という状態、もしくはそうしからならない稽古というのを好みません。やはり、連環であり、るつぼでなくてはと思います。
 たとえば先ほど間合によって云々ということを言いましたが、岩波も相手との間合と方向によって様々に変化するものであるということを換え業を使って体験します。この場合、岩波の換え業を覚えるということが一番大事なことではなく、様々な業の稽古の中で間合を意識した稽古をすることで、まず一つ、どの業に於いても間合ということがとても大切なことなのだ、ということを学ぶということが当面大事なことであるという事なのです。

 余談ですが、下村派にせよ谷村派にせよ古い伝書や記録に書かれていることは全て本当だと思います。ただ、注意しなくてはならないことは、その人の稽古水準によって、取りあえずこう教えておいて、ある程度進歩したら「ほんまはなぁ」と全く別のことを教えたりします。でもそれは以前嘘を教えたのかというとそうではなく、順を追っておしえたというだけのことなのです。ですから、その記録がそのときどのレベルの人が書き残したものか、というのはきちんと押さえた上で読む必要があります。  

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