御存じの通り、他流にも英信流にも立膝の状態から行う座業があります。この立膝の業について考える上で面白と思うのが『明徳記』(『群書類従』より引用)の次の記述です。
敵若馬ニテ近付キ懸寄バ馬ヲ切テハネオトサセヨ。敵馬ヨリ落タラバ。取テ押ヘテ差コロセ。若又敵モ馬ヨリ下立テ切テカゝラバ[小膝ヲ折テ跪イ]「兵共サシテウツブキテ」。弓向ノ袖ヲユリカケテ。敵ニキラセテクゞリ入。組デ勝負ヲ決ベシ。
もし敵が馬に乗って近づいて来たら馬を斬って敵をはね落とさせよ。敵が馬から落ちたら押さえ込んで刺し殺せ。もし敵が馬から下りて斬りかかってくれば膝をついて座り、うつむいて鎧の左の袖を揺りかけて敵に斬らせて敵の下に入り込み組み打ちで勝負を決せよ。
明徳二年(1391)、室町の初期に起こったいくさの一場面ですが、「もし敵が馬に乗って近づいて来たら、馬を斬って跳ね落とさせよ。そして敵が落馬したら取り押さえて刺し殺せ。もし敵も馬から下りて斬りかかって来たら膝を折ってつくばい、低い姿勢になって弓向の袖(左の袖)を揺り懸けて、敵に左袖を斬らせて其の瞬間、敵の下に潜り入り、組討ちとなって勝負を決せよ。」と言っています。この様な形から組討ちに持ち込む代わりに刀を使えば座業となります。猶、鎧の左の袖は弓を射るとき敵に向けるので「射向の袖」、盾として使うので「盾の袖」などと呼ばれることもあります。又、『前橋旧蔵聞書』(京大本)の中で
一 竹中半兵衞常ニイヘリケルハ刀ヲ指テ座敷ニ付事(←古の下に又と書く字)古ヨリシカリ近頃ハ刀ヲヌイテ別所ニ置或ハ多クノ刀トモ(ノモと書く字)ト一所ニ置┐(事の略字)ニナレリ志アラン輩其心得アルヘキ┐(事の略字)也同所ニ刀多クアレハ急ナル時ニ取チカユル┐(事の略字)アリサレハ人ノ刀ハ横ニイタサハ我刀ハ立カケテ置人ノ刀ノ柄ソロワハ我刀ハフリチカヱテ置人ノ刀ノアラン所ヲ除テ別所ニ置カ如ク心得ヘシ大勢入コミ刀ヲ不置テ不叶トキハ我刀ノマキレサルヤウニ心ヲ可得トイヘリトソ
竹中半兵衞が常に言っていたことは、刀を差したままで座敷に着座するのは昔からの事であるが、最近では別のところに置き、多くの人の刀と一緒におくこともあるので心がけあるものは気を付けておくことだ。同じところに刀がたくさんあればとっさの時に取り違えることもあるので、人々が刀を横にして置いていたら自分は立てかけるとか、柄の方向が皆一緒だったら自分は向きを変えるとか、人とは違う場所におくとか、大勢で込み合い、刀をおかなくてはならないときはとにかく自分の刀が紛れないように気を付けることだ。
と、斎藤氏に仕え、後に秀吉の軍師となった竹中半兵衛は、昔と違い最近は刀を指したまま座らず別の所におくので人の刀と取り違えないように注意しなければならないといっており、このことから戦国の終わり近くまで、刀を帯びたまま着座することが日常生活の中でも見られたことが分かります。とすれば何流によらず居合の座業というのは室町・戦国の昔の戦いの経験を伝える貴重な無形文化財だと思います。
座敷に座って対座している二人は明らかに大小を指して対座している。また、縁先に控えている者も大小を帯びて座っている。
これは「[三好]筑前守、加持田甚兵衛を追ひ払ふ事」の挿し絵であり、三好義長は永禄三年一月に(1560)に筑前守となり、永禄四年(1561)正月に義興と改名している。
戦国の昔は大小を帯びて対座する風習があったことを宝永の頃の人々は知っていたのであろう。猶、『室町物語』は慶長頃の成立と考えられている。
月に一度武徳殿で居合の稽古をするときに最近、兵庫県の加古川市からお稽古に見えている方があります。その方にいつも葉書で日程をご案内しているのですが、先日、日程だけでは愛想がないと思い、「先日脇指で稽古しました」と書いたら早速お返事がきて、一寸びっくりされた様子でした。その方も英信流ですのでてっきりなさるものとおもっていたらそうでもないようで、やはり、同じ流派と言えど派が違うとちがうものですね。
わたくしが三尺一寸三分という長い、国輝の刀を愛用しているのは居合が下手だからであり、長い刀は左手を使って抜かないと抜けないので、お稽古になるからということは以前書いたとおりです。今回使用した大磨上無銘(伝・大和末手掻)、一尺三寸七分の脇指は寸も短く、重ねも薄い作ですので非常に軽く、右手だけで抜き付ける事も打ち下ろすことも勿論可能です。しかし、そう言う作ですから左手を使わなかったり、使っていても鞘引きが少しでも後れると切先がふわりと浮いてしまい、目の前で切先が左から右へ、一文字ではなく、弧を描いて丸く動きます。本来通るべき刃筋を弓の弦としたら、失敗したときの刃筋はその弓の本体部分ですね。
また、打ち下ろしも手の力だけで打ち下ろした場合、刃筋が真っ直ぐおりて来ず、右から左へ流れます。それと納刀も、きちんと鞘引きをしないと上手く入りません。脇指は自分がきちんと稽古できているかどうかいっぺんに分かりますのでたまに脇指で居合をなさると面白いと思います。わたくしも二週間ほど脇指を稽古していて自分の下手さ加減をつくずく思い知らされました。
山内派では抜き付けのとき、切先が「−・マイナス」ではなく、「一・漢字のいち」を描くように稽古致します。それは手だけで切るのではなく、身体全体で斬りたいし、斬ることを教えたいからです。そのためには右手だけではなく、左手も使わなくてはなりません。左右対称に使って横一文字に斬るため、真っ直ぐ正面をむいた状態で刀の鍔がぎりぎり視界の中に入っているというところまで斬ります。そしてこのとき、刀の動きを天井からみていたら横一直線ではなく、弧を描いて切先が動くように斬ります。そのためには切先が相手に当たった瞬間に腰を進め始め、切り終わった瞬間にその運動が終了するように稽古します。
以前ある方から、「居合は無駄な動きをしない。目または首を斬るのにどうしてそんなに大きく斬る必要があるのですか」とお尋ねを頂きました。それは、身体を左右対称に使うことにより、ひっかき傷程度では済まない、致命傷を与えるための稽古方法です、とお答えしておきました。
それから、最初教えるときは必ずしもそのお弟子さんが根元之巻を受けるところまで稽古が続くとは限らず、他流派へ移ってしまうことも考えられるので、大事なことを漏らさないため、初めは狙うのは目、又は首、としていますが、本当は狙うのは手首です。これは山内派に於いては一通りの稽古を修めた人に替え業の部で一番最後に教えます。その時は最初に教わる「一の文字」の大きさが肩幅くらいの大きな「一の字」だとしたらここで使う「一の字」は掌くらいでしょうか。 しかし、手首というのは大きな骨が二本並んでおり、そうたやすく斬れるところではありません。ですから、初心の内はしっかりと大きな「一の字」を描き、切先に力を込めて身体全体で斬れる稽古を致します。しりとり話のようになりますが、切先に常に力が入っていると言うことはとても大事で、そのための稽古方法として寝る前、仰向けになった状態で刀でも木刀でも何でも良いから手にとって天井に切先で自分の名前を書くという稽古方法があります。
余談ですけれど、漢字の「一」の字は「かたきなし」という読みもあります。
※山内派の一本目の最初に習う形というのは抜き付けてそのままの位置で打ち下ろしをし、後ろ足を引きつけて一歩踏み出して打ち下ろすということは通常しません。(しても良いんですけど)
それなら、目又は首にしろ、あるいは手首にしろ、傷つけただけなら刀は相手の頭に届かないはず、可笑しいじゃ無いか、と仰る方もあろうかと思います。特に手首を狙うということなら尚更でしょう。勿論、届かない、と思えば前進すれば良いのですけれど、人間の習性として傷を負うとその傷をかばおうとしますので、相手は前屈みの姿勢になります。そこを打つ、特に、前屈みの姿勢から相手が姿勢を立て直そうとする復元力と打ち下ろす力がうまくぶつかり合うようにすればより大きな力で相手を打つことになります。
ですから、抜き付け、打ち下ろし、納刀何れの時においても山内派では前屈みの姿勢になることを嫌います。それは視野が狭くなるということもありますけれど、それだけ頭が敵方向に進んでいることになりますから、相手に斬られやすくなるからです。
一本目でもなんでも良いんですけれど、最初横へ抜き付ける業がありますね。抜き付けたとき、拳の中指の付け根の骨のところに誰かに臂の方へ向けて30pの物差しを置いてもらったとします。
このとき、物差し・手の甲・腕の三つの直線が三角形を描くというのを山内派では大変嫌い、そんな風に物差しを載せられたら、手の甲と腕は一直線ので、物差しがぴたりと手の甲と腕の線の上に載っていなければなりません。
とすると、握った刀と床が平行と言うことは決してあり得ず、刀は刃の方がやや下がった状態になっています。図示すると「/」こういう方向ですね。この角度があるから斬れる、と山内派では教えています。機械工作をされる方々の仰る「逃げ角」ですね。この角度がなく、手首を立て、刃を床と平行にして斬ると、場合によっては刃が滑って上を向いてしまったりすると言うことです。それに手首が上を向いていると切先を効かすことも左手を利かすことも上手く出来ません。この、手の甲と腕が真っ直ぐというのはちょうど、空手の正拳突きの形と同じではないでしょうか。わたくしも最初「拳で相手を殴るような気持ちで」と習いました。
因みに抜きつけには、この横というのと上からというのと、下からというのがあります。下から切り上げる抜きつけの時は制定居合のように(今でもその業があればですけれど)鞘をひっくり返して天神差にして抜くということはなく、そのままの形で抜きます。どの方向から抜き付けても構いませんけれど、手首を立てないというのは共通した要素です。
武士に兵士という側面とシャーマンという二つの側面があるように、山内派にも武用の業と呪術的な業とがあります。(もっとも日本刀で相手を斬るという行為自体相手を祀る行為ですから、厳密に両者を分離するのは不可能ですが、ここでは便宜上分けさせていただきます)
普段お稽古している正座から番外までの業を主として武用の業としますと「悪魔払い」と「四方払い」は呪術的な業です。
先ず、悪魔払いですけれど、北を向いて立て膝で座り、戸脇のように抜き出し、斜め後ろではなく、真後ろをつきます。そしてそのままの姿勢つまり、膝を直角に立てたちょうど抜きつけをしたときの下半身の状態で、右を斬り、次に左を斬り、最後に正面を斬ります。時計で言うと六時・三時・九時・十二時の順ですね。このとき一切足を動かしてはなりません。正面を切り終わったら奥居合の納刀で終わります。
そして、これを立った姿勢で行うのが四方払いで、どちらにせよ、重要な点は下半身をつくり、決して動かさないこと、直角に四方向を斬ると言うことです。
で、この業はその場の悪魔を払い、その場を清める為に行う業で、生きた人間と闘うための業ではありません。で、お稽古の順としては、別にどこで稽古しても構わないのですが、通常奥居合の後、番外の五本を稽古した後で、悪魔払い・四方払いの順で行っています。何れにせよ、真っ直ぐ、前屈みにならず、切先を大きく延ばして打ち下ろすことがだいじであり、別に早くする必要もありませんし、刀をぴゅんぴゅん鳴らす必要もありません。
山内派には基本的に番外として「早浪」と「雷電」が甲乙二種類、そして「迅雷」の合計五種類が伝えられています。
故・宇野先生も『英信流叢書』のなかで、この業に関しては名前のみ挙げて、記述を避けておられ、又、この業については「親兄弟、同門たりとも他見、他言無用の事」と言う事になっておりますのでわたくしも詳細を述べるのは控えたいと思いますし、こればかりはきちんと習った方から順を追って教わっていただくしかないと思います。
ただ、その方が見よう見真似でやっておられるのか、きちんと教わった上でやっておられるのか、見分けがつかないということがあると思うのです。
そこで、一つの目安として、もし、その方が山内派と仰るのなら、番外の乙の業をされたとき、足を見ていてください。足が地面から浮くようでしたら、それは見よう見真似でされているか、あるいは余程稽古不足か何かです。
それから、業によって刀を約270度回す部分がありますが、そこでは一応「相手の胸の紋所のあたりを切り払うように」と教えます。
と、「教えます」…・、ということはつまり、そこに「ホンマはなぁ」という口伝があるということです。
番外に限らず、「ホンマはなぁ」という口伝にはある種、共通した要素があります。それは有る意味では「業を否定する」という要素です。
受流とか、棚下とか、浮雲とか、わたくしの好きな業ですけれど、その業が想定している状況と100パーセント同じ状況というのが必ず起きるとも限りませんし、ましてや、相手が習った業の順番どおり斬りかかってきてくれるわけでも有りません。
では何故、稽古をするのかと言うと、それぞれの業の中にある動きを身につけておけばその状況に応じて体が勝手に動いてくれるようにするためです。
生き残るために、その一瞬で体の方で勝手にやって欲しい動き、それはごく単純な動きなんですけれど、その動きを稽古した事が有るか無いかが生死の分かれ目となるのです。
その「単純な動き」というのは、というのは何かというのが「ホンマはなぁ」という口伝の部分で説明される場合も多いのです。勿論業の説明のときにもありますけれど。
その「ホンマはなぁ」の最後の話が番外と、その後で教わる「教外別伝」です。山内派は外の派に比べて換え業の数が多いようだと他派の方が仰っていましたけれど、もしそうだとしても「なるほど」と納得できます。
と、言うのは平面上に幾つかの点があり、それを結ぶとある一点で全ての線が交叉することがあるのと同じで、幾つかの点、つまり、幾つかの換え業を与えることにより、「結局この技は何を伝えようとしているのか?」ということを考える上での手がかりとなり、そういう思考をして欲しいという事があるからです。
故・宇野先生によりますと、宇野先生に対し、大江先生という方は先ず手本を示し、それを何度も「よし」というところまで反復練習をさせた方だそうです。それに対して故・山内先生は、この業はこういうことを教えており、こう言う構造になっているというふうに細かく説明されたそうです。
と、言う事は大江先生も山内先生に対しては自分の主筋ですから大変丁寧に教えられ、その教授方法が山内派の伝統となったようです。
山内派のことをある方が「殿様芸」といっておられましたけれど、そのお陰でしょうか、明治以降台頭してくる妙な精神主義が山内派にはありません。
岡本綺堂の『風俗江戸物語』というのを読んでいたら安政の頃「いしたたき張」という煙管が流行ったそうで、これは講武所の生徒が剣道の面をつけたまま煙草が吸えるように「石敲=鶺鴒(せきれい)の異称」の尻尾のように先が細くなったものを拵えさせ、それが次第に流行したという話が載っていました。講武所は幕府の学校ですから「殿様」と呼ばれる旗本の子弟は当然沢山居たのでしょうけれど、これなども、実に合理的・殿様的発想だと思います。
今日、面をつけたままで煙管などくわえていたら大変な事になるでしょうね。
以前、京都の武道センターで胡座をかいて刀の手入れをしていたら怒鳴られた事があります。長い刀は胡座をかいて膝にもたせて手入れするとやり易く安全であり、古く故実にもあるのですが…・。胡座をかいて刀の手入れをしていることに興味がおありであれば『松ヶ崎天神縁起絵巻』をお目にかけても良かったのですけれど、そうではないご様子なので黙っておきました。
「何故、そうするの???」という学習態度を山内派は大事にしますけれど、他流派の学習方法が必ずしもそうであるとは限りませんし、どちらが良いと言う事も言えない事ですから。
インターネットの世界というのは有りがたいものでリンクして頂いてる「セトさんの居合」の掲示板ではわたくしの様な未熟者にも色々教えて頂いております。
その方々のお話の中に「剣居一体」という言葉が出てきましたので、例えば戦場で抜いてしまった後、どうするの、と言うことで少し書かせて頂きたいと思います。別に居合だからといってその都度納刀する必要もありませんし、又、したくても「タイム!」と言って待ってくれる相手ばかりとは限りません。で、どうするかというと、山内派では居合の業を抜いたまま使えばよい、という、実に単純なことになっております。
例えば、抜いた刀をだらりと(武蔵の絵にもそう言うのがありますね)と下げておいて、相手が打ち込んできたら奥居合の受流と同じ要領で受け流せば良いのですが、この時、自分の刀が視野の中に有ったら、討たれた勢いで跳ねた刀で自分の顔面を強打したり、切先が下がっていたら刀身で胸をうったりするするのは普通の受流でも同じ事ですね。
尤も相手が討ってきた瞬間右足前に身体を開きつつ、受け流しつつ前進すると同時に、柄で顔面又は頬骨辺りを撃つ方法や左足前で前進しつつ受け流し相手を刺し貫く方の受流では、勿論受け流した瞬間の刀は視野の中にあります。
山内派の伝える手裏剣と軍場剣とは共に抜き合わせてからの業で技術的には、鏡合わせとでも言うべき、大変よく似た業です。しかし、前者が主として、技術的な事を伝える業であるのにたいして、後者は技術的には勿論、精神的に非常に大事な事を伝える業であるとが前者と大きく異なる点です。では、先ず、個々の業について述べたいと思います。
刀を構えて、相手と対峙しています。この時、左手で最終的には刃が上を向くように刀を回転させつつ、自らは腰を軸回転させながら、後ろ足で蹴りだし相手の顔面を刺し貫きます。ここで、技術的に教えたいのは全ての業に共通する要素ですが、先ず後ろ足を効かせて身体全体を進め、その力を使うこと、常に相手の中心を自分の中心で捉えていること、そして、この業の大きな要素として軸回転の力を利用することがあります。
更に、この業は攻撃と防御を兼ね備えており、相手を刺し貫いた瞬間、相手と自分の中心を結ぶ直線上に刀と腕が三角形を描くことになります。で、例え相手も同時に打ち下ろしてきたとしても、相手の中心をA、自分の中心をB、三角形の頂点をCとすると∠CABによって相手の刀ははじき飛ばされます。
更に付け加えておくと、この業は随分遠間の様なイメージがありますが、「思っているほど、遠間ではない」という口伝がりあます。
この場合も抜き合わせて対峙しています。そして、「よしっ」と決断して打ち下ろした瞬間相手も打ち下ろします。そのまま行けば相打ちです。ここから生き残る技術は付込にも入っていますが、それとは別な方法を戰場剣では学びます。
互いの刀が交差した瞬間、刀の刃を立て、腰の回転を使って相手の刀を外へ押してやります。勿論切先は相手の中心を狙ったままです。そうすると相手の刀はお互いの中心を結んだ線上から弾き出され、と同時に自分の刀は相手のこめかみに殺到しています。
このように、技術的には非常によく似た業ですが、その技術以外に戰場剣は教えたい、精神的なものがあります。「正座から奥居合まで、最後は納刀が違うとか、お辞儀をするとかと言った点を除けば抜打・血奮・納刀という単純な正座の業で終わりますね。それは何故ですか?」という事を有る程度稽古んだ方に山内派では尋ねます。技術的なものも含めてその答えが分かったとき、軍場剣が何を教えたいかも自然に分かってきます。
最近「山内派」と言いながら随分変形してしまったものを多々見る機会がありました。それは、コピー機で同じ原稿を何度も複写するとどんどんぼけてくるように、何故、そうするのか、という内容が分からず、形だけ真似ているというのが、一点、技術に拘りその業を通じて先人が何を伝えようとしているのかという考察をせずに稽古を何年も、そして何代もしてきた結果ではないでしょうか。 手裏剣と軍場剣のことを書いていて、ふとそんなことを思いました。
抜打・真向・暇乞、何処が違うかというと、納刀が違うのと暇乞にはお辞儀がつく位で、業としてはおなじことで、左の脇を切り上げるように抜ければ良いのですけれど、最初は危険を避けて稽古するのにはもう一つの身を刀で囲う方法が良いと思います。
そういう技術的な話は兎も角として、山内派では正座〜奥居合、多少の違いは別としていわば全て抜打で終わるのはなぜですか?、と言う命題があります。これは技術の向こうにある「で、居合ってなんですか?」ということを考える上で大事な公案の一つです。
この話をある方としていたら「業が完全に抜けてからでないと分かりませんね」と仰っていましたが・・・・。
土佐という土地柄のせいか英信流の指導方法には朱子学の影響があるのではないでしょうか。他派のことは分かりませんが、山内派の稽古をしているとそう思います。山内派では目録〜根元之巻・所謂伝書までの各段階を上がるのにも公案がありますけれど、その公案が頭で分かるのと身体全体で分かるのは又別のことです。朱子学では「知先後行」ということを言います。つまり、学問を通じて自分は何をなすべきかを知り、そしてそれを実行するということですね。頭で分かったことを心で掴み、身体全体で体感する為の稽古を求める山内派の指導過程というのは朱子学の教育課程を踏まえているように思います。昔、故・山内豊健先生の御子息と酒を呑んでこんな事を話していたら、後日『近思禄』(朱子学の重要書)の一節を書にして送っていただきました。以来故郷のわたくしの部屋の床の間にはそれがいつも掛けてあります。
山内派には江戸時代に付け加えられた業で抜打の替え業、「月影」というのがあります。これは立ち技の抜打の一つで、正座の部の「月影」とは又別のものです。
やり方としては、先ず、刀を抜きます。で、中段に構え、右足前、左足後で立ちます。相手が打ってくるので左足(後ろ足)を更に引いてすかしつつ刀を振り上げ、足は動かさず、腰だけ進めて打ち下ろします。剣道をしている人に聞いたらやはり同じ様なわざがあるそうですね。抜打の立ち技というと多分「ホンマはなぁ」とう話でもう一つの方を教わったという方は多いでしょうけれど、案外この業は御存知無い方もあるようです。まぁ、どっちでもいい、といえば、どっちでも良いのかもしれませんが。
野暮ったいと言えば、野暮ったいのでしょうが、それでも山内派では撞木足も使います。と言うのは、例えば、先ず足を前後並行にして刀を構えて、誰かに横からどんと押してもらう、もしくは体当たりをしてもらうということをやってもらい、次ぎに同じ事を撞木足でやってもらうと分かるのですが、平行が案外脆いのに対して撞木足はかなり強いというのがその理由の一つで、場合によって、撞木足も使います。 もう一つは、敵味方複数入り乱れて戦うような場では色々な方向から攻撃を受ける可能性が高く、その場合、撞木足の方が色々な方向の敵に対処しやすいということもあります。 又、山内派の足捌きでは四股の姿勢をとるというのが重要なポイントです。たとえば「月影」の場合でも右足をどんと踏み出し、背骨を通るY軸に対して線対称を描きつつ左足を開くようにして左足を立てながら刀を抜き上げます。 これは、四股を踏み開くことにより下半身の力が有効に活かされることと、体が安定するからです。 ちなみに、「浮雲」で左足と右足を交叉させ右膝の下で左膝下の裏を押すのは、このような形で足と足を押し付けあうことで四股を踏んだ状態になり、狭い、四股を踏むだけの広さがない場所で四股を踏んだのと同じ効果を得ようとするためです。 ですから、前屈みになってしまうと折角四股を踏んでも上下ばらばらになってしまい、何の意味も無くなってしまいます。 因みに昔、宇野先生にこの業の事をお尋ねしたら「単に足を交差させるというのではなく、左足に右足を巻きつけるようにしなさい」と教えて下さいました。
最近、ある方より「柄口六寸の勝について差し支えなくば教えて下さい」と言われ一寸びっくりしました。あの、全然差し支えないんですけど・・・・。「確かに柄口六寸の勝」には意味が二つあり、一つはある種、「秘伝」でしょうけれど、もう一つの技術的なことは秘伝でも何でもなく、多分何派であろうと、一番最初に習うことです。
まず、刀を抜き、足を前後に開き右手で力一杯振ってみて、切先の到達点を見ておいて下さい。つぎに力は入れなくて結構ですから右手を緩め、左手だけでゆっくり大きく振り、概ね拳が方の高さ(切先が視界に入ってきたときが大体そうです)になったら臍を一寸程前進させて下さい。で、刀は腕が胸に当たって自然にとまりますから無理に留めようとしないで下さい。
このやり方で振ったとき、さっきよりも切先の到達点が遠くなっているはずです。この技術が「柄口六寸の勝」の一つであると山内派では伝えています。
請流や附込など逆手で納刀する業があります。その納刀の最中に敵が現れたらどうするのか、という質問を受けることがあります。
答えは簡単です。素早く掌を返して柄を握り直せば済むことです。「でも、もし」という方がありますけれど、そんな一瞬の動きより早く攻撃をしてくる相手というのがいるかどうかですね。人間の動きというものには限界がありますから。
但し、まぁ、いろいろな状況があるといえばあるので、心得として知っておいた方がよい、とされるのが逆手で抜くと同時に手裏剣ということです。
といって別に難しいことではありません。そのまんまの意味です。状況により、前進または後退、あるいはそのまま位置で逆手のまま抜き、素早く柄頭の方を左手で握るやいなや手裏剣にて相手を刺し貫く、ということです。まぁ、こんな事はわざわざ稽古するほどのことでもないのですが、するとしたら、「実戦を想定して云々」とかなんとか「えらい気合いのはいった」事を考えるのではなく、業によって雁字搦めに縛られている自分を解き放つ一つの方法としてこういう稽古をしてみてもよいかなという程度のことです。
鍔ぜりあいになったとき、あるいは臑払いをしようとして結果的に互いの刀が交差して押し合いになったときの事を前者を「峰」後者を「谷」と言っております。
前者の場合、左手を離して相手の手の上、もしくは下から柄頭を相手の柄の真ん中に差し込んで自分の刀の柄で相手の柄を引っかけ引き倒しつつ首筋を引ききったり関節を決めたりし、後者の場合は柄頭で相手の肱の関節を決めつつ引き倒します。これらの技術を総称して「峰谷二星」と呼んでおります。猶「星」とは拳の事です。