お羊さま考−多胡郡碑−   2020/7/1修正

はじめに
 古代の上野国の「多胡郡碑」は、「多胡弁官符碑」「建多胡郡弁官符碑」などの異称があり、
土地間に伝わる羊太夫の伝説から「おひつじさま」とも呼ばれている。(1) 
 

「多胡郡碑」には、六行の配列で漢字八十字が刻まれている。
「弁官符上野国片岡(四の下に正の字)郡緑野郡甘/良郡并三郡内三百戸郡成給/成多胡郡
和銅四年三月九日甲寅/宣左中弁正五位下多治比真人/太政官二品穂積親王左太臣正二/
位石上尊右太臣正二位藤原尊」
因みに、「多胡郡碑」文中の「右太臣正二位藤原尊」は藤原不比等のことである。

この碑については、つぎの言い伝えが残っている。(2)
「多胡の荘をたてた羊大夫は、小幡太郎大夫勝定の子で、本名を宗勝といい、朱鳥九年未の
年の未の日の未の刻に生まれた。
駿馬に乗り、八束小脛という童子を供にして、毎日ここから都まで通い、朝廷に仕えていたが、
ある日小脛は昼寝をした。
大夫がふと気づくと、小脛の両脇の下に羽が生えている。
大夫は怪しんでその羽を抜きとった。ところがその日から、小脛はもちろん大夫も都に通えなく
なり、朝廷には大夫に叛心があるという噂がたって、
まもなく押しよせてきた官軍のために討ちとられてしまった。
そのとき首が飛んでここに落ちたので、この碑をたてたのだ」

お羊さま或いは羊太夫の伝説は別にして、この碑文のうち「羊」をどう読むかについては、古来
議論があり、この議論への参入を試みる。
「人名・異体字・方向を示すなどの諸説があるが、近年では「人名」とする意見が強い。本碑の
性格は建郡の記念碑というべきものであろう。」(3) とされる。

1 碑文の「羊」について
(1)人名とする説
「羊を人名とする説は、中世の物知りのみならず、江戸時代以来、学者の間で陰然とした勢力
を持っている。(4)
 たしかに古代には、生まれた年をその名とするばあいがある。
正倉院の戸籍に比都自などという人名がでてくるが、調べてみると未年の生まれである。
だからその説によると「三百戸を郡と成し、羊に給い、多胡郡と成す」とよむ。
しかしなんといっても、人名ならば、氏や姓をその上につけるのがふつうだ。
これはどうも無理である。」(5) ともされる。
「羊に給う」を考える。

 表1 「賜ふ・給ふ」の用例
字句
用法の例(『続日本紀』第30巻から)
賜ふ
姓・穀・稲・物・位・禄・食封・布・・・・
給ふ
政は行い給ふもの・愍み給ひて免し給ふ・退け給ふ ・別部と成し給ひて・名を取り給ふ 
給薬・給医薬・鈴二口を給ふ・季禄・食封の田租を全く封主に給ふ・封租全給
 三省堂新明解古語辞典によると、「賜ふ・給ふ」は、 1(他動四)@与エルの尊敬体。お与えになる。下さる。 A「人をつかわす」「行かせる」「来させる」の尊敬表現。おやりになる。およこしになる。 2(自動四)(命令形を用いて)人を誘うのに言う語。いらっしゃい。 3(他動下ニ)飲ム、食ウなどの謙譲体。 「給ふ」は、 1(助動四〉@他人の動作に関する動詞に添えて恩恵を受ける意を表わす。 …シテクダサル。…ナサル。 A自己の動作に付けて…シテヤル、…シテツカワスの意となる。 2(助動下二)(もっぱら会話や消息文に用い、多く動詞「見る」「聞く」「思ふ」につける。 また、時には「す」「知る」「申す」「聞こゆ」などにも付ける) @(自己の動作を表わす動詞に付けて)その動作が及ぶ相手に対する敬意を表わす。 …申シアゲル。 A(「思ふ」に付くことが多い)自分の動作・精神作用を謙譲していう語。 とあるが、三百戸の郡を羊に「賜ふ・給ふ」のは「1(他動四)@与エルの尊敬体。お与え になる。下さる。」の意味であろうから、 表1のとおり、『続日本紀』の用例から類推するに「賜ふ」を用いると考えるから「給羊(羊 に給う)」は適切でない。 そして、「給ふ」の用例として、「政は行い給ふもの」があり、これは弁官符、つまり、太政 官に直属する弁官(律令制の官名)からの 命令を下達したものであるから、まさに「政は行い給ふもの」である。参考までに、『日本 書紀』の「給ふ」の例としては、 「甲子年に諸氏に給へりし部曲」、「給へりし食封」(天武11年3月辛酉条)、「給はれる封 戸の税」(天武5年4月辛亥条)がある。 お上が義務的に支給するものか。 また、「成給」の用例は、『続日本紀』神護景雲三年(769)九月己丑(25日)条に「別部と 成し給ひて」がある。  表2 成給の用例(『続日本紀』)
原文復清麻呂等〈波〉奉侍〈留〉奴〈止〉所念〈天己曾〉姓〈毛〉賜〈弖〉治給〈天之可〉。今〈波〉穢奴〈止之弖〉退給〈爾〉依〈奈毛〉、 賜〈幣利之〉姓〈方〉取〈弖〉別部〈止〉成給〈弖〉、其〈我〉名〈波〉穢麻呂〈止〉給〈比〉、
法均〈我〉名〈毛〉広虫売〈止〉還給〈止〉詔〈布〉御命〈乎〉、衆諸
注釈復清麻呂等は侍へ奉る奴と念ほしてこそ姓も賜ひて治め給ひしてか。今は穢き奴として退け給ふに依りてなも、賜へりし姓は取りて別部と成し給ひて、 其が名は穢麻呂と給ひ、
法均が名も広虫売と還し給ふと詔りたまふ御命を衆諸聞きたまえと宣りたまふ。
 次に、「羊に郡を給う」ことを考える。 『続日本紀』によると、新郡の建置は、下表3のとおり見られる。  表3 新郡の建置の例
期日
内容
養老3年4/28
志摩国塔志郡の五郷を分けて始めて佐芸郡を置く。
和銅元年9/28
越後国言す、新に出羽郡を建てん。
同2年2/20
遠江国長田郡、是に於て分かちて二郡となす。
同4年3/6
多胡郡と成す。
同5年10/1
陸奥国の最上、置賜の二郡を割きて出羽国に隷す。
同6年12/2
新に陸奥国丹取郡を建つ。
同年
越後国言す、新に出羽郡を建てん。
霊亀元年7/27
新羅人七十四家を美濃国に貫して、始めて席田郡を建つ。
同年10/29
香河村に於て郡家を造建し、…閉村に於て使に郡家を建て…
同2年5/16
武蔵国に遷して始めて高麗郡を置く。
 ここには、郡を置く、又は郡を建つことはあっても郡家を賜ふような記事は一つも見当 たらないのである。 多胡郡の三百戸という郡の単位を郡司に給ふことはないであろう。 (2)方角説  「比較的に有力なのは、羊を方角とする説であろう。未の方というと、南南西である。 上野国の国府のあった前橋市元総社町からみて、 多胡の碑のある多野郡吉井町は、南南西にあたっている。そこで問題の箇所は、「郡と 成し給う」で一度切り、「羊のかたを多胡郡と成す」とよむ。 これは正格の漢文ではない。土地の人が書いたためだろう。だがもともとこの碑文全体 も、公式令に定められている符の書式とはちがっている。 だいぶ略してあるのだ。」(6) とされるが、多胡の碑の位置は弁官符の内容となるもので なく、公的文書である弁官符が十二支で示される方角の 「未」を「羊」と書き換えることもないと思われる。 (3)動物説 建郡にあたり動物の羊を配給したと解釈する。 (4)誤字説  古来の難問とされているが、大別すればつぎのように分けられる。第一は誤字説で、 「羊」は半の誤りとみて「郡と成し給い、半ばを多胡郡と成す」 もしくは「郡と成し、半ばを給いて多胡郡と成す」と読む説、「羊」は手の誤りで「郡と成し 給いて」と読む説などがある。(7) (5)省略説  碑文の文字の省略説としては、「養」・「群」・「祥」・「詳」等がある。(8) 「[人名を無理であると]そう思う学者は羊を養の略字とする。石を彫るのはやっかいなの で、字画を略する例はよくある。しかし「給養」とは聞きなれぬことばだ。  そこで「給郡[筆者:群カ]」と読んでみる。羊は群の略で、群は郡に通ずるというのであ る。いや群は郡でなく集で、アツマリテとよむのだという反論もある。 ついには羊は羊そのものだという説もでた。馬の名産地ならば、羊を飼っていてもおかし くないというわけである。」(9) 「養」以外の省略字に当たってみることも必要であろう。  井上通泰が「詳」の略字とみて「さながら多胡郡と成す」と考える。(10) (6)私見 井上と同じく「詳」の略字であり、「言」篇を省略していると考える。 2 省略説の展開 (1)漢字の省略  和同開珎について、広辞苑では、「わどうかいちん」、「わどうかいほう」と二つの読みが ある。  珎は、寶の省略字であろう。(11) 和同開珎は、中国の開元通宝を真似て、和銅元年に発行された貨幣である。和同は、 和銅の略であり、金偏が省略されており、 珎も同様寶の省略字である。  皇朝十二銭の三番目は神功開寶で、皇朝十二銭は全て、○○○宝であり、金属貨 幣のない時代は宝貝が貨幣の役割を果たしたから、 開珎(かいちん)とするのでは、意味をなさない。  このような貨幣の例をはじめ、金石文では、省略文字が使われている場合がある。  特に、有名なのは「漢委奴国王」印がある。後漢光武帝より賜ったとされるが、「後 漢書」倭伝に「倭奴国」とあるから、「委」は「倭」の省略字と知れる。(12) 書籍・木簡でも、地名は、「筑紫」を「竺紫」、「周防」を「周方」とする例があり、その他、 「部」を「マ」と省略する。(13)  古代の青銅鏡には多くの省略字が見られる。 椿井大塚山古墳出土の方格規矩鏡の「羊作同竟…買主寿 (14) 」は「祥作銅鏡…買 主寿」の省略字ではないだろうか。 (2)「言」篇の省略  「言」篇を省略する例は、表4のとおり、古くは、『梁書諸夷伝』に「倭王賛」とあり、『宋 書倭国伝』の「讃」を略字にしている。  日本霊異記は、上六縁のみ「讃」を用いるが、他の15箇所では「賛」とする。讃岐国は、 出土した木簡では「賛支国」とも表記された例がある。  延暦3年在銘の紀吉継墓誌は、「墓誌」を「墓志」とする。  『日本後記』巻22、嵯峨天皇弘仁3年5月21日条「拾芥磨玉之彦」の「彦」は「諺」であ ろう。  表4 「言」篇を省略する例
史料
記事備考
梁書諸夷伝
倭王賛『宋書倭国伝』の「讃」
日本霊異記の「讃」
「賛」(15例)上六縁「讃」
紀吉継墓誌
墓志墓誌
日本後記
拾芥磨玉之彦「彦」は「諺」
奈良文化財研究所
木簡データーベース
賛支国讃岐国
(3)「詳」の略字説 「詳」の略字説を採るのは、『今昔物語集』に「不詳ズ(つまびらかならず)」、『日本霊異 記』中6-12に「姓名未詳也(姓名詳ならず)」の用例があり、  『播磨風土記』には、「漢部里、多志野、阿比野、手沼川、里の名は上に詳なり」「林田 里 故詳名淡奈志」とあるから、「姓名、郡名」などを 明らかにすることは「詳」で表わしたものと考える。  表5 「詳」の文字の用例
史料
記事
播磨風土記
漢部里 多志野、阿比野、手沼川 里の名は上に詳なり
播磨風土記
林田里 故詳名淡奈志
今昔物語集
不詳ズ(つまびらかならず)
日本霊異記
姓名未詳也(姓名詳ならず)
万葉集20-4458
古新未だ詳(つまび)らかならず
  (4)多胡郡碑の省略字  次に、多胡郡碑の省略字を考える。多胡郡碑の「岡」は、「四の下に止の字」が使用され ている。  表6 「岡」の別字、省略体
西暦年
史料別字、省略体
323
中国東晋「謝鯤墓誌」「岡(四の下に止の字)」
414
高句麗「広開土王碑文」「岡(四の下に止の字)」
415
高句麗「広開土王壷□銘」「岡(四の下に止の字)」
501
北魏「元羽墓誌」山の下に「岡(四の下に止の字)」
533
北魏「王悦墓誌」山の下に「岡(四の下に止の字)」
694
法隆寺銅板造像記〈片岡(四の下に止の字)王寺〉 ?
707
威奈大村骨臓器
729
小治田安麻呂墓誌
730
美努岡万墓誌「岡(四の下に止の字)」
760
藤氏家伝山の下に「岡(四の下に止の字)」
 「崗」は、「岡」の俗字であるが(15)、奈良時代に、威奈大村骨臓器、小治田安麻呂墓誌 に使われている。  威奈大村骨臓器は、多胡郡碑より古い資料であるので、「岡(四の下に止の字)」は、「岡」 の俗字である「崗」の「山」を省略しているとも考えられる。 『藤氏家伝』は、「崗本天皇」の「崗」を別字体の「山の下に岡(四の下に止の字)」の字とす る。(16) また、多胡郡碑は、複数ある「正」が初出はきちんと「正」であるが、以後の二箇所で二画目 の縦棒が省略され、「ヽ」字になっている。  このように、多胡郡碑に省略文字が使われていることは、「羊」も省略文字である可能性が ある。 (5)「多胡郡碑」の解釈  「多胡郡碑」の「羊」を「詳」の省字と見做すならば、解釈は、「…三百戸を郡と成し給ふ。 詳(つまび)らかには多胡郡と成す。」である。 現代語的には、「詳(くわ)しくは」でも意味が通じるのではないか。  「三百戸郡成給 詳成多胡郡」と同じような言い回しに、「…久麻芸等、肇賜爵位、其爵者 大乙上…」がある。(17) 三百戸を郡と成し、その名は詳らかには多胡郡と明らかにするように、「久麻芸等に肇めて 爵位を賜ふ、其の爵は大乙上なり」とするのと同様に、 後段で具体的な名称を示すものある。  表7  「多胡郡碑」と『続日本紀』の比較
多胡郡碑上野国片岡郡緑野郡甘良郡并三郡内三百戸郡成給 羊成多胡郡
続日本紀割上野国甘良郡織裳、韓級、矢田、大家、緑野郡武美、片岡郡山等之郷、別置多胡郡
 『続日本紀』和銅四年(711)三月辛亥条に「割上野国甘良郡織裳、韓級、矢田、大家、緑野 郡武美、片岡郡山等之郷、別置多胡郡」とあり、「多胡郡碑」と『続日本紀』は、「多胡郡」が 新設された同一の事実を記録したものであり、「詳成多胡郡」は「別置多胡郡」の別表現であ るといえる。 結びに  「お羊さま・羊太夫」伝説を否定した。  「多胡郡碑」の解釈は、簡単に言えば、「上野国甘良郡、緑野郡、片岡郡の三郡の内の 三百戸を割いて多胡郡と成す。」である。  史料に用いられる文字は明確に誤字と判断できる場合もあるが、そうでない場合は、や たらと(正しく)改ざんせず、 そのままを使うべきであろう。  ただ、金石文等の文字史料は、材質、道具等のいろいろな制約のもと、多様な表現をす る場合がありうるので、 一つの形に固執するだけでは正しい判断が出来ない場合があろう。 註 (1)『国史大辞典』第9巻、吉川弘文館、151頁。「多胡碑」たこのひ 群馬県多野郡吉井町  大字池小字御門、鏑川の左岸段丘面平地上に所在。 (2) 青木和夫『日本の歴史』3奈良の都、中央公論社、昭和40年、161頁。 (3) 『国史大辞典』第9巻、吉川弘文館、151頁。 (4) 群馬の古代遺跡の研究に取り組んだ人に尾崎喜左雄氏(故人)がおられた。尾崎氏  は『多胡碑』(中央公論美術出版)のなかで、 「多胡碑の羊は人名」と断定できるとした  うえ、 ?氏や姓のないものが郡司になるのはおかしいとする説もあったが、蝦夷人の首長  には氏や姓がなくても郡司になった例はある〃と説明されている。(森浩一『日本の深層  文化』ちくま新書791、2009年、99頁。) (5) 青木和夫 註(2)、 164頁。 (6) 青木和夫 註(2)、 164-5頁。 (7)『続日本紀』第2巻、岩波書店、1989年、412頁。補注5-26 (8)『続日本紀』第2巻、岩波書店、1989年、412頁。補注5-26   高島英之は、それ以外に、聚・等・蓋をあげ、「羊」を「蓋(けだし)」の略字に賛意を表す。   用例として、韓国の円融国師碑(1054)の「国師…其羊年二十八」をあげるが、「詳」とみ  ることができる。(「多胡碑を読む」『東国石文の古代史』吉川弘文館、平成11年、92〜95頁。) (9) 青木和夫 註(2)、 161頁。 (10) 井上通泰『上代歴史地理新考』東山道、三省堂、昭和18年、225頁。 (11)日本最古の流通貨幣「和同開珎」(708年)。「開珎」の文字をカイチンと読むか、カイホ  ウと読むかで長く論争が続いている。 チン説は「珎」が「珍」の異体字だからというのが根拠。 ホウ説は異体字「寶」から「ウ」  と「貝」を除いた簡略字だから「宝」なのだ、という。   「和同開珎」の話題に触れた平成9年2月28日の『産経抄』は「戦後しばらくまで教  科書もカイホウと読んでいたが、最近はカイチンがむしろ通説となった」とあった。   本紙のデータベースでも、「カイホウ」とする記事は見当たらなかった。    しかし、個人的には「和同開珎」以降に作られた11種類の銅銭(万年通宝760年〜   乾元大宝958年)はいずれも「寳」と書いている。    最初の「和同開珎」のみ「珍」の異体字というのは合点がいかない。やはり「寶」の   簡略字ではないだろうか、と思う。      (平成26年3月26日付け『産経新聞』「杉村一郎の教育漢字考」〈29〉)     ※享保4年(1719)の奥書のある「先徳略名口決」には、「三寳院」を「三珎」と略す。      (『続群書類従』第28輯下、第845巻、380・388頁。)[平成30年5月21日追記]     ※京都府久御山町の「一口」は「いもあらい」と読む。これは、「芋洗」の捻った簡略       表記(「芋」のくさ冠の横棒の「一」と、「洗」のサンズイ篇の水=河から「口」を借用)       と考える。すると、和銅年改元を記念して鋳造された「和同開珎」は「和銅開寳」の       省略と考え、「わどうかいほう」と読むことは伝統的な日本文化であろうと思われる。      [令和3年3月8日追記] (12) 石原道博編訳『後漢書倭伝』中国正史日本伝1、岩波文庫新訂版、1985年、20頁。   120頁。 (13) 沖森卓也・佐藤信『上代木簡資料集成』おうふう、1994年。「物マ、丈マ」100頁[30]。    「周方」141頁[154]。 (14) 『山城町史』資料編、山城町役場発行、平成2年、1039頁。 (15) 『角川新字源』「崗・岡」 (16) 『藤氏家伝』 (17) 『続日本紀』和銅四年(711)三月辛亥条 [参考文献] 東野治之「上野三碑管見」『日本古代木簡の研究』塙書房、昭和58年。 奈良国立博物館編『特別展 発掘された古代の在銘遺宝』、1989年。 増田修「多胡碑の「羊」と羊太夫伝承」『市民の古代』研究会編、第10集、1988年。 増田修他「多胡碑と羊太夫伝説に関する文献目録」研究会編。 高島英之「多胡碑を読む」『東国石文の古代史』吉川弘文館、平成11年。


[戻る]

行基論文集