行基論文集―謎なる行基―


[2017 2/13]
・行基の伊丹における活動を巡っての一考察

(『ひょうご考古』12号、P29-52、
          兵庫考古研究会、2015年3月)
・目次
一、伊丹における行基の活動について 
1 行基の造った施設 
2 崑陽施院、崑陽布施屋の比定論
3 昆陽寺鐘銘からの考察
4 『昆陽組邑鑑』から見る史実
5 池及び溝の比定
6 年譜が有する性格
二、『大僧上舍利瓶記』の信憑性について(省略)
(補論)  伊丹の昆陽上池・下池の基について
 はじめに
 行基の功績を記した史料に『行基年譜(以下「年譜」とする。)』がある。 行基の死後(749年)から四百二十六年後の安元元年(1175年)に、泉高父宿禰により編纂された。  『続々群書類従』所載の年譜は、伝写の誤りが多い悪本とされ、厳密な資料批判が必要とされている。  年譜の信憑性については、井上光貞の「行基の社会事業を考察するためには、年代記の使用をあきらめ、 もっぱら「天平十三年記」に依拠するのが、研究法として妥当である。」とする論、米田雄介の「年代記 の部分についてもかなりの信憑性がある。」とする論、栄原永遠男の「天平十三年記と対応する部分の年 代記に一致するものは信憑性がある。」とする論などがある。  井上光貞は、天平十三年記について「内容的にも天平十三年記の記録にふさわしいことを確認できたと 考えるが、これは、少なくとも四度以上の転写を経ているのであるから、その過程で誤写したものの他に、 故意に改竄したり、追記した場合があり得る。」と指摘する。  ここでは以上を踏まえて、年譜及び関連文献等から伊丹における行基の活動を考察しながら、年譜が有 する性格を検証する。  また、次の章では、行基関係資料で最も信頼できる史料とされる『大僧上舎利瓶記』の成立過程を探り、 信憑性を検証していきたい。
 要  約 

謎解き考-暗号論-
[2019/1/21・修正2019/3/2]
暗号を解くといっても言葉遊びの類である。暗号を解くには法則がある。暗号の所在は、錠前と解く鍵が必要であり、そして、両者を合わせることが大事である。 つまり、錠前に鍵を差し込み、回すという行為(解法)がいる。難しいのは、回すという行為である解法である。 暗号を解く鍵は何故そうなっているかを考えることである。人が考えたことなら、よほど捻ったものでない限り、その考えを再現することが可能であると考える。 分からないものでも答えを見れば、納得できるものである。 通常、ものの命名の理由は忘れ去られて不明である場合が多いが、いつまでも残る山、川、湖沼、人為的な境界の国・郡・町・村・郷、天皇の尊号や神の名、神社・仏閣の名、人名など多くの名前には付けられた理由があろう。それを追いかけるのと同様に行基の謎を探りたい。
行基と摂播五泊
[2018/7/15]
目次
1 摂播五泊について
(1)摂播五泊の比定 (2)五泊以東
2 行基五泊制定の否定論
(1)喜田貞吉の論 (2)千田稔の論 (3)松原弘宣の論
3 五泊の位置づけ
(1)瀬戸内航路 (2)三国川開削 (3)猪名川河口の「居名の湊」(4)河尻と楊津院
4 行基年譜と意見封事
(1)『行基年譜』の信頼性 (2)「意見封事」の信憑性 (3)「意見封事」の背景
5 行基の活動
(1)摂播五泊の設置時期 (2)活動圏の広がり
6 行基と官との関わり
(1)泊の設置及び管理 (2)行程を決める官の役割 (3)行基と官との関係
『大僧上舍利瓶記』の信憑性について
[2018/8/13・修正2018/11/28]
目次
1 行基と忍性の墓誌との比較
2 忍性記の構文について
3 行基記の構文について
4 行基記の時代の新規性
5 現物資料の考察
むすびに
(補論)行基と忍性の舍利瓶記について
[2018/8/17]
目次
1 額安寺記と竹林寺記の成立の先後
2 行基舍利瓶記の作成年代の新規性
3 舍利瓶残片に対する疑問
4 「多宝之塔」について
5 行基舍利瓶記の信憑性の根拠
行基と竹林寺
[2018/9/14]
唐招提寺保管の『竹林寺舎利瓶記出現注進状』によると、天福二年(1234)六月二十四日慶恩に行基の託宣があり、文暦二年(1235)八月二十五日大和国生駒山の行基御廟を開掘し、舎利瓶記を発見した。そして、『百錬抄』(注2)は、託宣があった二年後の同じ日に、平安京岡崎の中山観音堂辺りで行基菩薩の遺骨と称する粉の如きものが細瓶に入れられ安置され、参詣人は之れを自由に取り出すことが出来たと伝える。この日付の一致は、果たして偶然であろうか。 行基舎利の発掘に関しては、先に拙考で行基菩薩御遺骨出現に伴う注進状に付された『大僧上舎利瓶記(以下『舎利瓶記』とする。)』及び舎利瓶残片・行基墓の装置について考察した。 その中では、これまでの定説を覆し、『舎利瓶記』は忍性の舎利瓶記等を手本として作成した偽作と論じ、舎利瓶残片・行基墓の装置についても時代に相応しくないものと考えた。 『舎利瓶記』の信憑性の問題を、更に行基廟開掘という史実の問題にまで広げて考えるならば、次いで、検証すべきことは、行基舎利瓶記の出現状況を詳しく記した『竹林寺舎利瓶記出現注進状(以下、『注進状』とする)』などの史料批判である。 そして、『注進状』に見られる行基廟開掘をどのように考えるか。 通説は『舎利瓶記』及びその残片の存在を根拠として概ね行基廟の開掘は事実としながらも、行基廟の所在は論が分かれているという不安定な状況であるから、その事実の確定には課題が残っているものと考える。これは、行基遺骨出現から七十年後に凝然が著した『竹林寺略録』に、行基の墓所を竹林寺とするものと、往生院とするものの二つがあることに起因する。どちらが正しいものであろうか。そして、それらの記録に現れる人物で重要な役割を果たす寂滅の存在と竹林寺を取り巻く人物を史料の中に確認しながら、行基の舎利出現記の信憑性を考察していきたい。
『行基年譜』の地名表記について
[2018/10/1]
『行基年譜(以下「年譜」とする)』は、安元元年(1175)に和泉高父宿彌により、編纂されたものであるが、他方で改ざんや多くの追記が指摘されている。その中で、 「天平十三年記」は、公文書の様式に則り作成されているものであり、信頼性が高いとされている。「年代記」についても、一定の信頼を置けるという説がある。 「天平十三年記」と「年代記」の地名表記は、奈良時代の地方行政制度の変遷に拘らず、国郡以下の「郷里村」が混在している。年譜の地名表記については、 先学の研究があるが、行政制度に即さない「村」表記が存在すること及び「郷里村」の混在については、考察が不十分と思われる。また、年譜には和泉を中心 とした地域の表記が改められたり、時代にふさわしくない地名表記が使用されており、記載に混乱が見られる。 年譜における地名表記の特徴的なことは、「里」中心の「天平十三年記」と「村」中心の「年代記」に分かれることである。表記の少ないものを挙げると、 「天平十三年記」には「村」が一例、「年代記」には「里」が五例ある。年譜全体の記載が統一されていないのは何故なのか、年譜の地名表記を考えたとき、 行政制度に即さない「村」表記が何故存在するのか、そして、「郷里村」が混在するのは何故なのかを『日本霊異記』など他史料の地名表記と併せて考察する。
『行基年譜』の暗号性
[2020/3/31・修正2020/6/15]
行基の国史にみえる記録は、弾圧と活動の公認、大僧正の任命など天皇の帰依に加え、行基の超人的な伝説は、霊異記、行基菩薩伝その他の多くのものに見られ、 行基の事績としては、行基辞典の資料編に詳しくまとめられている。 『行基年譜』は誤りが多い史料と指摘され、その信憑性は先学が論じるところである。 しかしながら、誤りが多いことをもって暗号性を秘めたものと指摘した先学はないが、『行基年譜』に誤りが多いのは、暗号性を秘めたものとして暗示するために印をつけられたものとの仮説を提起し、その暗号を紐解いていきたい。 『行基年譜』の地名表記について、「郷里村」が混在していることは拙論「地名表記」を参照のこと。 巻首が欠けているが、「行基師・願勝師・利鏡師等、野田村大歳松樹下至集、語諸刀祢云、率知識為大神修功徳、以利鏡師為画師造七佛薬師像、在障子也。」のように、 行基師、願勝師、利鏡師で始まる。利鏡は、実在した理鏡からの連想、改変であろうか。意味は、鏡を利用する。つまり、本体と像の二つの形が生ずること、対があることを意味する。普通、一つの言葉だけでは、暗号や正誤は解けない。 二つの対照するものがあって、比較することにより、差異がわかり、正誤・内容が判断できる。後段の跋文中に、「故和泉之生所ト相二似迦毘羅城之古所一」と「相似」の言葉が出てくる。これも、二つを比べることを意味する。 詩経に六義がある。比は、物事に例えて、意のあることを表わす。つまり、比喩である。興は、草や鳥など自然界の物事から救い起して、それとなく人間世界に例える手法、賦は、比喩によらず、心に感じたことや物事を直叙したもの。暗号には、比と興が使われることになろう。年譜には、比の文字が使われているものを検討する。 「『行基年譜』には、行基のおこなった事業の起立年月日がなぜか詳細に記されており、このこと自体が問題視されてよいが、ほとんど2〜3月、9〜10月に集中する。」とある。 『行基年譜』の詳細に記された年月日には謎があり、数字が意味を持つものと考える。三の聖数の多出、三の数字の意味は、「見ミ」に掛かっている。冒頭部が三人の僧から始まることから、「三人寄れば文殊の知恵」という諺からの暗示もあり、行基の謎解きを試みる。
史料『行基年譜』
[2020/4/19]
『行基年譜』参考資料
『続々群書類従』428-437頁
井上薫編『行基事典』国書刊行会、1997年、255-275頁
井上光貞「行基年譜、特に天平十三年記の研究」『律令国家と貴族社会』竹内理三博士還暦記念会編、吉川弘文館、1969年、255-275頁
PDF「U『行基年譜』校註」『社会的結合としての行基集団に関する基礎的研究:研究成果報告書』代表者新川登亀男、吉川弘文館、1999年、12-29頁
行基と大仏勧進
[2018/12/25]
行基の大僧正の就任と大仏勧進は切り離せない関係にあると見られるが、これを人民の立場から見て、大仏造営に伴う人民の疲弊は行基の裏切り行為とする転向問題が提起された。 多くの研究者がこの転向問題に係わらざるを得ず様々な論が展開されてきたところである。この転向問題は、行基の実像を解明することにより、解消できるものと考える。行基の実像を 解明する方法としては、正史である『続日本紀』とともに数多く書かれている行基の伝承などを比較し読み解くことが、解決にも繋がるものと思われる。そして、その具体的な事案として、 転向問題を生じる原因となった行基の大仏勧進そのものを取りあげる。この大仏勧進は、多くの研究者が論じているところであるが、国史である『続日本紀』に書かれていることは全て 正しいものであるのか、という視点を課題に設定する中で、行基の大仏勧進を論ずることとする。
行基と弾圧
[2018/12/28]
『続日本紀』に初めて見える行基は、「小僧行基」とされ、僧尼令に反する行為で弾圧を受けるところから始まる。そして、行基集団に属する高齢者の出家容認をされる頃から法師と称され、 世の人からは大徳及び菩薩と崇められると、大仏勧進を経て、終には、官僧の最上位である大僧正にまで上り詰める。 『続日本紀』等による行基の最も簡略な経歴は以上のとおりであるが、行基の僧尼令違反行為を考える時、素朴な疑問が持ち上がる。長山泰孝が、「官人でもない一民間人がその 社会活動について直接名ざしで非難されるということはきわめて異例のことであるが、行基の布教活動はなぜこのようにきびしい 取り扱いをうけねばならなかったのであろうか。」とするのと同感である。また、ことさらに、僧尼令の条項を並べて、僧尼令違反を強調するのはなぜだろうか。しかしながら、 行基への弾圧は、小僧と蔑称で名指しをされるものの、他の行基の伝には、『続日本紀』に見られるような僧尼令違反行為が見えず、むしろ、 『行基菩薩伝』の如く、朝廷と交わり、鎮護国家のために衆生を利益すと伝承される行基の姿との乖離がある。そのように他の行基の伝には、厳しい弾圧を受けたことが記されて おらず、奈良時代を代表する僧である行基が50歳の頃に小僧と名指しされることの不自然さが気になるのである。さらには、文殊菩薩の化身、霊異神験が多い僧とされる行基の 実像が十分に解明されずにあるなかで、行基の僧尼令違反行為は大変興味深い問題であり、行基が本当に弾圧を受けたのかどうかを先学の研究を紐解きながら考察する。
行基と道昭
[2018 11/28]
『続日本紀』の道昭と行基の卒伝には、奇異及び霊異があることが共通する。 道昭の事績及び行基と道昭の子弟関係など二人の接点を考察するなかで、『続日本紀』編者の隠された意図を探ることを目的とする。
行基と智光
[2018/12/29]
奈良時代を代表する僧に、行基と智光曼荼羅で有名な智光がいる。この二人の関係は『日本霊異記(以下『霊異記』とする。)』に見られるとおり、智光が行基の栄達をねたみ、 地獄に落ちる話から始まる。地獄では、行基の入ることになる金の宮殿を見つつ、智光は、地獄の責め苦に遭うものの、許されて蘇生し、難波で活動する行基に許しを乞うという ものである。また、智光が若い頃に、真福田丸と呼ばれ、行基の前世である姫君に導かれる説話がある。これら、智光と行基が係わる説話・伝承の意味するところは何であろうか。 山岡敬和は、「…「真福田丸説話」は、時代と目的の違う諸書−説話集から『今昔物語集』・『古本説話集』・『私聚百因縁集』、歌論書から『奥義抄』・『袖中抄』・『古来風躰抄』、 そして、太子伝の一書『聖誉抄』や当麻曼陀羅を講釈した『當麻曼陀羅疏』、また謡曲や近世の地書など−に記載されているため、不分明な生成・伝播の過程の一端を解明して ゆく上で貴重な手がかりを与えてくれるのである。そこで、この論においては、枝分れして流れゆく伝承の河を遡及して、真福田丸説話が生成されたときの姿と、その方法について 論じてみたい。」とするように、智光、行基は多くの説話に取り込まれ、枝分かれしていくのである。 なぜ、智光は行基と比較されるのか。 なぜ、智光の幼少時代が真福田丸とされ、どのように智光と行基が結びつくのかを考えてみたい。
行基と文殊
[2018/12/30]
『日本霊異記(以下『霊異記』と表記)』に見える行基は、「文殊菩薩の反化」とされ、『続日本紀(以下『続紀』と表記)』では、「文殊」とされず、「小僧行基」として、僧尼令に反する 行為で弾圧を受けるところから始まる。 『霊異記』の「文殊菩薩の反化」は、ひとつの物語と考えられたとしても、『続紀』では、「霊異神験類に触れて多し」とあるから、『霊異記』を踏まえて、行基の卒伝が物語化されて いるように窺える。物語化された行基像という視点を保持しつつ、なぜ、行基は文殊菩薩とされるのかを論ずる。 菩薩とは、さとりを求めて修行する人(広辞苑)である。 吉田靖雄は、「民衆利益を志し実践する大乗の修行者行基にささげられた「菩薩」の称が、彼の死後、「文殊師利菩薩の反化」になるのはなぜであろうか。」と疑問を呈する。 おなじところで、「『霊異記』上巻第五縁は、聖徳太子の侍者であった大部屋栖野古の蘇生譚で、屋栖野古が「雲の道を往くに」「黄金の山」があり聖徳太子が待っていた。 太子と共に登るに「金の山の頂に一の比丘あり」、太子と共に「南無妙徳菩薩」と誦礼して帰り、夢さめて蘇生したというのである。作者景戒は、「黄金の山とは五台山なり」 「妙徳菩薩とは文殊師利菩薩なり」「行基大徳は文殊師利菩薩の反化なり」と解説をつけている。」ここには、大部屋栖野古の蘇生と、聖徳太子、妙徳菩薩=文殊師利菩薩= 行基大徳がからんでくる構成がある。 また、吉田靖雄は、「景戒が『霊異記』の稿本をまとめた延暦6年(787)頃には、五台山文殊信仰と金閣寺のことは日本仏教界によく知られ、五台山金閣寺→塗金の寺→黄金 の山という印象が成立していたのであろう。さて、文殊師利は「維摩経」における維摩居士との問答のことが有名で、従来造像される場合は、在俗有髪の菩薩形をとるのが 普通であった。不空三蔵の喧伝した文殊師利は密教形の文殊菩薩で、たとえば彼の居住寺であった長安大興善寺の翻経院に勅命をもって作られた「大聖文殊鎮国閣」には、 「文殊六字菩薩」、つまり密教形の六髻文殊像が安置されていた。また金閣寺の本尊も、「金閣を開きて大聖文殊菩薩の青毛の獅子に騎り給へる聖像を礼す」と円仁が記した ように、密教形の菩薩像であった。 しかし不空以前に、文殊師利が五台山に出現したとする伝承においては、出家比丘形をとる場合が多かった。…」とする。 大まかにとらえるならば、中国の金閣寺、黄金の山、大聖文殊菩薩、文殊師利といったことが日本の僧行基に係わってくるのである。
行基・鑑真の菩薩戒
[2020/3/8]
行基が聖武天皇らに菩薩戒を授け、即日、大僧正を改め、大菩薩号を賜ったことは多くの行基伝に見られるところであるが、その中身には異同が多い。 正史である『続日本紀』は、聖武天皇が「沙彌勝満」として出家授戒したらしきことは記すが、多くの行基伝と異なり、行基による菩薩戒を受けたことは記さない。これは何故であろうか。 また、聖武天皇らの出家授戒について行基の菩薩戒と重なるものには鑑真からの受戒がある。『続日本紀』においては、鑑真による聖武天皇らの受戒は、菩薩戒とはされていないが、 鑑真の事蹟をしるした『唐和上東征伝』は、鑑真から東大寺の大仏殿前において、天皇に菩薩戒を授け、次に皇后・皇太子が授戒したことを述べる。 しかし、他の史料では、菩薩戒のほかに、具足戒、沙彌戒とされるなど混乱が見られる。これらの違いは何に由来するのだろうか。 そして、行基の菩薩戒と鑑真の戒の重なり及び『続日本紀』と他の行基伝との違いを考えたとき、多くの行基伝に見られる行基による聖武天皇らの菩薩戒が混乱の原因となっている ことが指摘できる。 ここでは、『続日本紀』などの史料に基づき、行基と鑑真との関わりの中で聖武天皇らの受戒の状況を追っていき、多くの行基伝に見られる行基による聖武天皇らの菩薩戒の実態を 検証することを目的とする。また、『続日本紀』に、聖武天皇らが鑑真から戒を受けるが、菩薩戒とはしないことの意味を探る。 その前提として、聖武天皇の出家は何時か。また、孝謙天皇に譲位して太上天皇となるのは何時か。菩薩戒を受けたのは何時か。三つの時点を考えることを出発点とする。
行基四十九院考
[2018/12/13]
そもそも、数字の四と九は忌み数字であり、迷信が廃れた現代でも未だ避けられる傾向がある。そのような忌み数字の組み合わせである四十九はどういう意味を持つのであろうか。 忌明けの日は、四十九日後である。四十九歳は重厄の年である。 広辞苑「四十九日」@人の死後49日のこと。前世までの報いが定まって次の生にうまれかわるまでの期間。俗に、この間死者の魂が迷っているとされる。中有(ちゅうう)。中陰。 A人の死後49日に当たる日、すなわち中陰の満ちる日。死者追善の最大の法要を営む。 広辞苑「四十九院」平安時代以降、一寺院の境内に四十九の堂宇が、また、鎌倉時代以後、墳墓の周囲に四十九基の塔婆が建てられた。 行基の四十九院を取り上げて、なぜ行基と四十九院が結びつくかを考察していきたい。
大野寺と土塔
[2019/1/4]
大野寺土塔からは神亀四年の銘を持つ軒丸瓦が出土している。それは、「神亀四年□卯年二月□□□」が「神亀四年丁卯年二月三日起」と復元されている。大野寺の建立については、 『行基年譜』に記されており、まさに、「神亀四年丁卯年二月三日起」とされている。出土した軒丸瓦の瓦当面に残された文字の部分が、その『行基年譜』の記事と一致するところから、 このように復元されたのである。 本当に、そうであろうか。新聞報道の第一報で素朴な疑問を感じた。 平成10年6月27日付け朝日新聞朝刊の記事に「紀年銘軒丸瓦は、土塔の南西の隅、大門池の斜面の中世の堆積層にあった」。とあった。つまり、軒丸瓦が出土した堆積層は 奈良時代のものではなく、中世の堆積層とされていることである。中世の堆積層から発見された奈良時代の遺物は不審である。後人の作為があった可能性を見いだせないだろうか。 ついで、「神亀四年丁卯年二月三日起」と復元される軒丸瓦の文字である。これは、元号が入った瓦としては、最古に属するものであるが、『行基年譜』の記事と一致することは、 信憑性を示すものでなく、逆に不審を醸し出すものである。この最古の文字瓦が信用できるものか、検証を進めるとともに、『行基年譜』に土塔は見えないので、行基が関与したか どうかについては識者の意見が分かれるため、行基と土塔の関係を考察したい。
補論 菅原寺考
[2020/4/28・修正2020/6/30]
菅原寺は、平城京の右京の一角を占める比較的大きな寺院であったにも拘らず、国史に表われないという珍しい寺院である。 もうひとつの特徴は、『行基年譜』に表れる行基の大和国における唯一の活動拠点であり、しかも都内に位置することである。 『清涼山歓喜光寺略縁記(以下『略縁記』とする。) 』は、元明、元正、聖武天皇三代の勅願寺、鎮護国家の寺とされ、『行基年譜(以下『年譜』とする。) 』では、聖武天皇から喜光寺の 勅額を賜ったとみえ、聖武天皇の行幸が行われたとされる寺であり、朝廷とも深い関係にある寺院である。そして、大仏殿の元、試みの大仏殿との伝承がある。 何故、国史からは、除外されているのだろうか、また、菅原寺は、行基が建立した寺であり、行基が入寂した涅槃所ともされている。菅原寺の成立と行基の関わりを考えていきたい。
楊津院と神前船息
[2018/12/27・修正2020/6/29]
『行基年譜』を見ると、行基は畿内各地方に数多くの施設を造る。行基の社会施設等の配置を地域別にみると、これらの諸施設は、摂津・河内・和泉・山城の四箇国に広く散在するが、 子細にみると、いくつかのまとまりをもち、また互に有機的な連関をもって存在することが知られる。   このような有機的な連関から見たところ、先学によって比定された楊津院と神前船息は、その存在が孤立しており、異質と思われる。この二つの施設を考察する。
大養徳国考
[2019/8/5]
智光説話の舞台は、『霊異記』は、河内国であり、真福田丸説話の舞台は『今昔物語集』は和泉国のでき事とし、さらに、智光が講師として出向く法会は、河内国で催されている。 これは、行基の出身地と一致するものであるが、真福田丸の主人は、『古本説話集』『奥義抄』などでは、「大和国の長者」であり、『古来風躰抄』では、「やまとのくになりける長者、 国の大領なるもの」、『和歌色葉』では、「大和国猛者」となり、行基を大和国と関連づけている。『今昔物語』の「和泉国大鳥の郡に住みける人」から、国や身分が変わっているのである。 なぜ場所をかえたのか。そこに理由があるならば、行基は「やまとのくに」に誘導されるものと思われる。 『行基年譜』の「天平十三年記」に大和国の社会施設がひとつとしてないことが指摘されるが、そのうち、直道一所は「やまとのくに」と関係がありそうである。 どうやら、『行基年譜』には、大和国が隠される状況があると思われた。それは、なぜなのかをひも解いていきたい。
行基伝の研究
[2018/12/31]
奈良時代、小僧行基と呼ばれて弾圧された僧が、時代の経過と共に律令政府からは法師・大徳と呼ばれ、時の人からは菩薩と崇められ、ついには僧の最高位である大僧正の 位まで登りつめた。四十九院の建立をはじめ、池溝開発や布施屋などの社会福祉施設、道路、橋、津の交通施設など行基の事跡は近畿を中心に数多くあり、これら行基の 行動力は眼を瞠るほどの超人的な活躍ともいえる。 しかし、行基が大僧正になってからは、すなわち、745年[天平17年]からあと行基は目立った行動はしていない。 そして、行基は生存中に「菩薩」と呼ばれていたとされるが、 これに疑問を持った人は知らない。 行基は、『日本霊異記』にも、天眼を示す文殊の化身、隠身の聖とされ、『今昔物語』など数々の仏教説話や伝説が残り、正史である『続日本記』には「霊異神験類に触れて多し」 とされるなど謎の多い僧である。行基の研究は先人により多方面から取り組まれ、素人には付け入る隙間もないであろうが、果敢にも行基の真の姿に迫ることに挑戦する。 行基は単に一介の乞食僧(2) であったのか。民衆を導く官僧であったのか。民衆の味方から大僧正の位を得て転向したのか。   行基の生きた時代は千三百年前の奈良時代のことであり、行基が遺した史料は勿論のこと、当時の史料が少なく、行基の真実の姿に近づくには困難を極めるが、幸いに 多くの伝記・伝説・説話がある。そこには、行基の出生から入滅時の年齢、大僧正の授与された日まで数々の伝記に多くの違いがあり、行基の複雑多様な姿が混沌としており、 行基の実像と虚構が交錯しているものと考える。これを解きほぐす 研究の手法としては、先人が残し伝えてきた多くの伝説・説話・伝記を基にして、この多様な行基伝承等を比較分析する中で、行基伝の編作者各人が真に伝えたいとする主張を 手繰り、隠されている事実を探り出す。そのためには、拙いながらも想像力をたくましくして、多様な行基伝の揺らぎの中から、虚構を除き、垣間見える真実らしき点をつなぐ作業を行う。 その前提として、ふたつの仮説を提起する。 [仮説1:××××××。] [仮説2:××××××。] そして、論述するなかで、行基に関する第3の仮説を導き出し、隠された行基の真の姿に近づいてみたいと考える。
行基と難波・摂津職
[2020/6/24]
『行基年譜』には、行基が難波に多くの寺院等や橋、道路を造ることが記される。 『霊異記』や『今昔物語集』を見ても、行基が難波の橋や津、道の整備を行うなど、行基と難波と関係が深いことが分かる。 天平八年、婆羅門僧正菩提遷那が来朝した。行基が難波の津に菩提遷那を迎える。 その当時、摂津国の行政組織は、他の国とは別の特別な組織である摂津識が置かれ、その長官は摂津大夫であるが、後に、僧正となって、聖武天皇から東大寺の大仏開眼の講師を依頼される重要な人物である菩提遷都が来朝した時の摂津識大夫が不明である。 しからば、『続日本紀』には見えず、歴史の上からは明らかにされていない菩提遷那来朝時の摂津大夫は誰であったのか、また、行基と摂津職の関係を考察する。
行基地図考
[2019/8/3]
行基図という古式の日本地図がある。平安京のあった山城国から七道の国を道線で繋いだ日本国の形を表しており、行基菩薩作とされている。 今の時代に置き換えても、専門的な測量技術を持たない人がただ単に動きまわっても府県の位置関係を正しく捉えることは困難があろう。 平安時代以前に日本図を作成し、その日本地図が江戸時代に至るまで受け継がれてきたことは日本の歴史にとっても最大の功績であろうと思われる。 ところが、「実のところ行基が地図をつくったという証拠は何もない。」とされる。 蘆田伊人や秋岡武次郎は、行基作の行基図を肯定する立場であるが、行基図のほとんどが東海道や北陸道、山陽道などの道路の起点を京の山城国 から描いており、平安京遷都後の作であることは明白であるとされるなど、否定する論がある。 また、行基が生存していた奈良時代の平城京を中心とした地図は実在していないため、行基菩薩作とされる行基図は、「後世の付会」、「行基伝説の一つ」 とする見方もあり、「通俗的な理解は行基による制作でなく、彼に仮託したもの」とされる。  行基地図は果たして行基が作成したかどうかを考察していきたい。
国分寺考(未定稿) (未定稿)
摂河雍州における行基・橘伝承
[2020/2/3]
[2020/5/10修正]
目次 一 摂河雍州における行基伝承 二 橘に関係する伝承 三 佐為寺の比定  伊賀盆地から流れ出る伊賀川、名張川の下流域は木津川となって淀川に注ぐ。淀川は大阪湾に至り、瀬戸内海を通じて東アジア世界へと繋がる。  その一部である木津川流域の山城国相楽郡の大養徳恭仁京遺跡辺りから、流れに沿って、三川合流の地点まで、つまり、雍州(山城) (2)・河内・摂津三国の国境近辺まで、行基の伝承を追っていく。  また、恭仁京遺跡や相楽郡井出町などは橘諸兄と関係の深い地域であり、雍州・河内・摂津三国には橘と関係があるものが多く見られるなど、行基の活動地域と重なるように思われる。  行基・橘伝承が重なる中で、『類聚国史』に現れる謎の「佐為寺」を考察する。
行基を取り巻く人物
[2021/12/30]
行基には多くの伝承がある。行基を表象する言葉は、民衆の教化僧、菩薩、大徳、沙弥などのほか、「霊異神験」「文殊の化身」「権化・権者」「二生の人」「隠身の聖」とされるなど、その実体は隠されている。 行基の実体を見極める一つの方法として、誰が行基に関心を持つか、行基を取り巻く人物群を眺め、そこから浮かび出る「霊異神験」などに隠された特別な人「行基」の人間像を探し出す端緒としたい。
目  次
一 行基を取り巻く人たち 1 行基伝  2 寺院・四十九院など  3 行基伝承  4 石清水八幡宮 5 行基に係る史料  6 行基伝の伝播 二 行基に関わる人物 1 家系  2 僧侶 3 天皇家  4 光明皇后その他皇族 5 貴族、官人  6 豪族・地方官 、その他 三 行基伝説 1 行基伝編者 四 行基と関係のある人たちの分類 1 橘氏及び後裔  2 橘氏縁者  3 その他  4 橘氏と藤原氏の繋がり 五 行基と交わらない人物
藤三女考
[2018/10/7]
[2022/05/02修正]
奈良の正倉院に伝わる『楽毅論』は、光明皇后がみずから筆写したとされる。末尾の署名に「藤三娘」という奥書がある。 「藤三娘」とは藤原不比等の第三女をいうが、これは既定事実とされており、それを疑うことはないようである。 まして、藤三女が光明皇后であることを取り上げ検証した史料も見当たらない。  しかしながら、光明皇后は、藤原不比等の第三女としない史料も存在する。 これを考察していく。
目  次
1 光明皇后の名称 2 『楽毅論』光明皇后署名の真贋 3 不比等の娘たち 4 光明皇后願経 5 願文の比較 6 五月十一日経を光明皇后発願とする問題点 7 第三女は誰か
橘夫人考
[2019/2/3]
[2023/08/30修正]
橘夫人と呼ばれた者に、県犬養宿禰橘三千代と聖武天皇夫人の橘古那可智と二人がいる。 橘大夫人というのは、光明皇后の母にあたる橘三千代のことである。 そして、東大寺や法隆寺などに橘夫人に係るものが伝承されているが、そのうち、三つの品物を取り上げて、さて、どちらの橘夫人に関係するものかについて考察を加える。 橘夫人厨子・橘夫人念持仏 東大寺献物牌(琥珀数珠十三号) 観无量寿堂香函箱中禅誦経
佐為王考
[2022/3/6]
佐為王は、敏達天皇系の五世王、父美努王と母橘三千代の第二子で、兄葛城王と共に臣籍降下し、母方の橘姓を名乗る。そして、聖武天皇と深く関わり、皇太子侍従、中宮大夫などを歴任。天平九年、藤原四兄弟とともに疫病に倒れる。娘の古那可智は聖武天皇夫人である。 その辺りまでは国史で分かるが、取り上げられることが少なく歴史に埋もれた人物といえる。 ここで、橘宿禰佐為を取り上げるのは、藤原仲麻呂と同様に行基と交わらない官人の一人であることに、興味を持つからである。
中将姫伝説とその周辺
[2023/3/31]
はじめに  中将姫は、奈良の當麻寺に伝わる『当麻曼荼羅』を織った、日本の伝説上の人物とされているが、井上大ミは、「中将姫の存在も記録と史実とは全く合わない。」と指摘している。  平安時代の長和・寛仁の頃より世間に広まり、様々な戯曲の題材ともなった。  実在しない説話上の人物としては、『竹取物語』のかぐや姫がある。  中将姫の説話は、中将姫の妹の白滝姫、あこや姫説話(山形県の伝説)と拡大される。  他方、中将姫と同様に奇跡を行う点では共通であるが、更に超能力を持ち超人的な足跡を残す行基については、実在を疑われる人物になっていない。行基は、鎌倉時代に行基墓が発掘されるまでは伝 説上の人物とみなされていたとされるが、拙論で行基墓の発掘及び明治期の墓誌残片の発見は疑義あることを論じた。  中将姫は実在しなかった人物なのか、中将姫伝説に見合う時代とその周辺を考察する。
目  次
1 中将姫の史料 2 中将姫と行基 3 伝承上の中将姫 4 中将姫を取り巻く人たち 5 藤原家の女たち 6 当麻曼荼羅の憶測
行基大徳考(未定稿) (未定稿)

お羊さま考−多胡郡碑−

忍海野烏那羅論文集

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