歴史とは、連綿と続く時間の流れに、事象ごとの関連をながめるものと思われている。

しかし、異端の思想家は1940年こう書きつけた。
 

「新しい天使」と題されているクレーの絵がある。それにはひとりの天使が描かれており、
天使は、かれが凝視している何ものかから、いまにも遠ざかろうとしているところのように
見える。かれの眼は大きく見ひらかれていて、口はひらき、翼は拡げられている。歴史の
天使はこのような様子であるに違いない。かれは顔を過去に向けている。ぼくらであれば
事件の連鎖を眺めるところに、かれはただカタストロフのみを見る。そのカタストロフは、
やすみなく廃墟を積みかさねて、それをかれの鼻っさきへつきつけてくるのだ。たぶんかれは
そこに滞留して、死者たちを目覚めさせ、破壊されたものを寄せあつめて組みたてたい
のだろうが、しかし楽園から吹いてくる強風がかれの翼にはらまれるばかりか、その風の
いきおいがはげしいので、かれはもう翼を閉じることができない。強風は天使を、かれが
背中を向けている未来のほうへ、不可抗的に運んでゆく。その一方ではかれの眼前の廃墟
の山が、天に届くばかりに高くなる。ぼくらが進歩と呼ぶものは、<この>強風なのだ。
          <W・ベンヤミン『歴史の概念について』 訳:野村修>
 

神学において天使は、瞬く間に存在し、瞬く間に神を讃え、瞬く間に消えゆくものとされている。
存在とも非存在ともつかない存在。
天使とは生成と運動の時間の中にあらわれる瞬間の微笑みである。

ベンヤミンが語る「新しい天使」は「歴史の天使」だ。
歴史に事象のつながりをみるのではなく、事態のカタストロフを見る。

しかし楽園から吹く強風か。

人は時間の中に存在しているが、歴史に生きている。様々な想いの欠片を積み重ねながら。

刹那、天使が微笑む。
 

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