最近、私が気に入っているコマーシャルは「骨太牛乳(チーズ)」と「アンナ
マンマ」。さらにもうひとつ加えるとあみんの「待つわ」という曲をバックに、
なんとも体の軟らかい女性が登場して、両手に荷物かかえているから、パッと
足をあげて門柱についているチャイムを押したり、足で電話取ったり、最近で
は体操まがいの妙技を見せてくれる車のコマーシャル。市原悦子さんが目を丸
くして「かわいいふりしてわりとやる!」。車 Duet のことはまるで記憶に残
らないのですが(すみません)、あの体の軟らかさに感動してしまう。目の高さ
くらいのチャイムに向かってあれだけのバットマンは、う〜ん、まねしたいけ
れど、なかなか。
パスタソース「アンナマンマ」のコマーシャルはバックに流れている曲が素
敵です。これはバロック時代のリュートのための曲で原曲の題名は「シチリアー
ナ」だそうです。パスタ料理は大好きなのでアンナマンマのソースは愛用して
おります。
シチリアーナの mid ファイルです。
これは win98 の recomposer for win で作成したものです。
個人使用に限ります。
その他 mid ファイルいろいろはこちらのページへどうぞ。
さて、本題は「(骨太)牛乳」のコマーシャル。女優吉永小百合さんが出演し
ているもので、ジョギングや水泳のあとで健康維持のために牛乳やチーズを食
べるというものです。このコマーシャルをはじめて見たとき、あの女優さんは
誰だろうと思ってしまった。水泳、それもバタフライで泳いでいる人が吉永小
百合さんだとはすぐにはわからなかったのです。何度か目にしているうちに、
へぇ〜、あの女優さんがこんなことをしているのかとちょっとした驚き。最近
は健康のためスポーツジムに通ったり、マラソンに挑戦したりというのはそれ
ほど珍しいことでもありませんし、女優さんこそ体力勝負のところはあります
から、吉永小百合さんが走ったり、泳いだりしても本当は驚くことではないで
すね。
沢木耕太郎の「象が空をII 不思議の果実」に「女優 吉永小百合」(P.61)が
収録されています。吉永小百合は「過剰なほど几帳面に普通のことを実行しよ
うとしている」女優さんだと沢木耕太郎は書いています。
いまの時代「普通」であることほど努力がいるのかもしれないですが、本来
なら黙って立っているだけで輝く女優であるはずの人が、あえて普通であろう
とすることに心を使う、不思議といえば不思議なことかもしれない。沢木耕太
郎によれば、吉永小百合とは「普通」に殉じる「不思議」の国のジャンヌ・ダ
ルク、なのだそうだ。
さて、その普通の人であろうとする吉永小百合さんは、ご自身のライフラー
クとして原爆詩の朗読をされている。2000年2月27日付けのカトリック新聞3面に、
吉永小百合さんによる
原爆詩の朗読会
浦上教会に千余人
という記事が掲載されていました。
1999年12月17日、長崎の浦上教会で開催されたもので、「第二楽章長崎から」
と題して原爆詩を朗読し、この集まりには千人以上の人が参加者があったとい
う記事です。私も生では聞いたことはないのですが、テレビで吉永さんの朗読
を聞いたことがあります。静かに、淡々とした朗読がかえって気持を揺り動か
すようで、もっと聞いていたいと思ったことがありました。
(女優としてはもっと狂いたいけれど)、まず普通の人間としての生活の基盤
を守っていくこと。私たちは、ごくごくあたり前のことを忘れすぎるきらいが
ある。
2000年2月18日の午後9時からABC の「ターニングポイント」という番組を見
ていました。その日のテーマは「思い込み力」とやら。ま、「思い込み」とい
うことについては、それはそれで別の関心事で良いとは思いますが、見たかっ
たのは、「美空ひばりにあこがれ続けた天童よしみ一瞬の異変」という番組前
半の部分。
お断わりしておきますが、私は「美空ひばり」のファンでも「天童よしみ」
のファンでもありません。美空ひばりはともかく、天童よしみさんがどんな歌
を歌っているのか、実はあまりよく知らないのです。京都嵐山には「美空ひば
り館」という名所があって、京都に住んでいると、実際のところはなんでここ
に「美空ひばり館」があるんだろうと思うわけですが、いまや嵐山には有名人
の店はたくさんありますから、それほど特別なものとも思えないです。もちろ
ん何回か前を通ったことがあって、地下のおみやげ売場は無料入場できるので
入ったことがあります。ひばりさんマークのハンカチのようなものや、それこ
そさまざまなひばりグッズが並んでいて、おみやげ選びもまた楽しいというと
ころでしょうか。
そのひばり館のみやげ物売場の一角は当然ながら CD やテープ、ビデオなど
が置いてあって、ひばりさんの歌ならたぶん(ほとんど)のものはその場で手に
入ります。実は、私、「りんご追分」と「川の流れのように」この2曲に関し
ては CD なり何なりいつか買いたいと思っています。「りんご追分」は美空ひ
ばりのデビュー曲、「川の流れのように」は最後の曲です。その間に美空ひば
りさんはたくさんの歌を歌ってきたわけですが、その他の歌は私は実はあまり
好きではない。好きとか嫌いとか言う前によくわからないと言ったほうが正解
かもしれません。歌謡曲や演歌の歌手としたら美空ひばりの右に出るものはな
いと言われるほど歌のうまさにかけては定評のある方ではあるのでしょうが、
私にはピンと来ないという感じなのでしょうか。
でも、「りんご追分」と「川の流れのように」の2曲に関しては、まるで別
な印象を受けるのです。「りんご」のほうはわずか10歳くらいの頃の歌なの
だと思うのですが、うまいというか、利発というか、なんだかよくわからない
のですが、妙なうまさを感じるわけです。こちらは「うまい」というか上手と
いう言葉が先に浮かびます。
ところが「川の流れのように」こちらの曲になると、うまいとか上手ではな
く、この人、本当にさまざまなことに深い思いをよせながら歌いあげている、
聞き入ってしまう、そういう感じを受けるのです。ひばりさんが病気で入院し
ていた頃、それから亡くなったあと、いくつかのテレビ番組でひばりさんの特
集などが放送されたことがありました。見るともなく見ていて、とても印象に
残ったのは、この「川の流れのように」という歌が「同じ歌」には聞こえなかっ
たということなのです。晩年のひばりさんはこの歌をさまざまな場所で歌った
わけです。CD の録音は当然ですが、舞台で、テレビの歌番組でと、あらゆる
場所で歌ったはず。
最後の舞台で歌った「川の流れのように」がテレビから流れてくるのを聞い
ていたことがありました。その時、ああ、これはひばりが歌っているんじゃな
いさまざまな体験をしてきた「加藤和枝」というひとりの女性が歌っているん
じゃないかと思ったことがありました。そう思ってテレビの画面を見ると、
「顔」が違うように見えた。そこに見えていたのは「ごく普通のおばさんの顔」
だった、でもその時の「川の流れのように」はとても心に響く歌だった、そん
なことを思ったことがありました。とても不思議な感じだった。この人いまほ
んとうにありのままの自然な姿なんだとそんなことを思ったことがありました。
そのときの「川の流れのように」が一番素晴らしい歌だったと私は思っていま
す。ですから、CD などを聞いたらたぶんこれは違うと思うかもしれないなぁ
とも思っているのです。
「川の流れのように」という曲は結果的には「ひばりのために」「ひばりが
歌うため」に書かれた歌になった。ですからひばり以外の人が歌ったら、これ
はその人が本当の歌手であればあるだけ、とても恐ろしい挑戦にもなるのでは
ないかと思うわけです。ものまねではどうにもならない、かと言って、自分の
歌として歌う、それも違う。ではどう歌ったらよいのか。それが 1999年のNHK
の紅白の舞台で天童よしみの挑戦になった、昨夜の「ターニングポイント」は
その部分にスポットをあてた番組でした。天童よしみは「川の流れのように」
の1番はひばりを受け継ぐ歌として、2番は天童よしみとして歌うということ
をやってのけた。確かに、素晴らしい出来なのかも。紅白の舞台での天童よし
みが歌った「川の流れのように」はうまいのです。ひばりの「りんご追分」と
似たような感じが受けます。
天童よしみさんは今後もこの歌をレパートリーのひとつとして歌っていくの
ではないでしょうか。でもおそらくこの歌が一番素晴らしく歌いあげられる時
というのは、すべてのことから解放されよけいな力も抜けて、自然なありのま
まの自分を表現することができた時、そういう時ではないかと思うのです。ま
さしく川の流れのように人生を歩んで、そして自分が一番自分らしくあるとき、
その時にこそ歌うことができる歌なのかもかもしれない。
沢木耕太郎さんが(象が空をII)「不思議の果実」のなかで美空ひばりについて
書いているのを読みました。
不思議の果実 文春文庫 79ページ「秋のテープ 美空ひばり」
沢木さんが美空ひばりにインタビューをした時の記録です。
2000年2月25日付記
闘う白鳥
I am MAYA PLISETSUKAYA
マイヤ・プリセツカヤ自伝
1996 年6 月25 日第1刷
山下健二訳 文芸春秋
Maya Plisetskaya
2000年2月6日の日曜日の朝10時から NHK BS で「マイヤ・プリセツカヤ」の
ドキュメント番組が放送されていたのですが、とても残念なことに見逃してし
まいました。気がついた時にはすでに遅く最後のほんの15分ほどしか見るこ
とができませんでした。番組予告で知った時になぜ放送時間をチェックしてお
かなかったのかと悔やみましたけれど。そこでとうとう「闘う白鳥」を手にし
ました。この本は実は以前から近くの図書館の書棚にあることは知っていまし
た。何度も背表紙を見ていた本だったのに、なぜ読もうと思わなかったのか、
本と自分との距離というのは不思議なものですね。どんなことがきっかけになっ
て、その本との距離感がなくなるのか、それはわからない。そして一度その本
を手にすると、どうしてもっと早くに読まなかったのだろうかと思うこともあ
りますが、手に取ったその時が一番よい時かもしれないし、これもひとつの出
会いなのでしょう。
確認をしていないので確かではありませんが、たぶん1996年の来日公演でプ
リセツカヤの「瀕死の白鳥」を見たという方が、「彼女は立っているだけで白
鳥だった」と言われるのを聞いたことがありました。その方は現役を引退した
バレリーナでした。そういう風に言われたあとでおもわず深いため息をついて
しまうほど、その方はプリセツカヤの白鳥に感動していたのだと思います。そ
のときのひとことはいまもとても強烈に印象に残っています。図書館で「闘う
白鳥」という本の題名を見たときに、私は「立っているだけで白鳥だった」と
いう言葉も同時に思い出していたわけですが、この本は自叙伝とはいえプリセ
ツカヤが何と闘ってきたのかについて、私はとっさに気がつかなかったのです。
でも、彼女が生まれ育ったいまはもうない世界で始めての社会主義国家「ソビ
エト」という国について、もっと現実的な知識があれば、彼女がバレエを踊る
ためには、まず何と闘わねばならなかったかについてすぐに気がついたはずな
のに。
マイヤ・プリセツカについてのごく普通の一般的な略歴紹介は、たいていこ
んな風に書かれています。「1943年ソリストとしてボリショイバレエ団に入団。
アンナ・パブロア以来の世界的なバレリーナ。最も古典的なバレエ「白鳥の湖」
の公演は世界各国で30年間に800回を超える。また、ローラン・プティと
La Rose Malade 、モーリス・ベジャールと Isadora を完成させた。その後、
スペインTheatro Lirico Nationalの監督に就任し、1991年にスペイン国王か
ら Fine Artsのメダルを授けられた。」
20世紀最高のバレリーナと言われるプリセツカヤの略歴はたいていこんな
風に輝かしいことだけが書かれ(それはあたり前のことでもあるけれど)ていま
す。簡単にまとめるとわずか数行ほどのプリセツカヤの略歴を見て、そのどこ
から彼女が何と闘ってきたかを知ることができるでしょうか。ソビエトの高官
ですら知らない。マイヤ・プリセツカヤがフランスのミッテラン大統領からレ
ジオンドヌール勲章を受けたときに、あるソビエトの高官は「レジオンドヌー
ル勲章はレジスタンスの勇士におくられるものでしょう。なぜあなたが?」と
言ったそうだ。その時マイヤは「私の一生はレジスタンスだった」と答えてい
る。
バレリーナにとって病気や予期せぬけがをはじめ自分の体を維持していくこ
とそのものがもちろん闘いのひとつですが、このようなことはバレリーナであ
れば避けられない闘いでもあるわけです。「闘う白鳥」は1991年に書き始めら
れ、このような一般的な紹介記事には絶対書かれれることがない闘いの内容が
マイヤ自身の言葉で書かれています。生きること、踊ること、そして踊り続け
るためにレジスタンスをして来なければならなかった。
マイヤ・プリセツカヤは1943年に18 歳でボリショイバレエ団に入団するが、
1959 年マイヤが33 歳になるまでスパイ容疑をかけられ、出国が認められず海
外公演に参加することができませんでした。あらぬ疑いでしかないはずのこと
ですが、時の権力は執拗にマイヤを迫害してきたのです。その間政府の高官へ
の数々の嘆願書や出国のための数限りない努力をしながら、プリセツカヤはバ
レエを踊り続けてきました。「白鳥の湖」や「胡桃割り人形」をはじめとする
古典バレエに加え、新しいバレエ芸術にも信じられないほどの情熱を注いでき
ました。
マイヤ・プリセツカヤは1925年の生まれですから、2000年の今年、75 歳、
75歳にしてなお現役のバレリーナであることがまずはとても驚くべきことです
が、マイヤ自身は私は107 歳まで踊り続けると自叙伝には書かれています。な
ぜ107 歳かは問わないにしろ、つまりは死ぬまで踊り続けたいのだと。70 歳
を超えてなお新しいバレエの世界への挑戦を続けること、それこそ今度は本当
の闘う白鳥だ。私はマイヤ・プリセツカヤの「瀕死の白鳥」の生舞台を見る機
会があるだろうか。いや、ぜひ見てみたい。
ローマ、ミラノ、ヴェネチアと聞けば、イタリアの有名な都市。多くの日本
人にもその名前だけは知られた都市。ところがこれらの都市にさらにペルージャ
という町を加えればイメージは少し違ってきて、サッカーファンならセリエA、
そして中田選手、名波選手などの名前を思いうかべてしまいそう。いままでな
らペルージャという町の名前を知っている日本人などかなり限られた人たちだっ
たことでしょう。
須賀敦子さんの「ヴェネツィアの宿」という本にペルージャの町のことが少
し書かれています。イタリア中部の丘の上の小さな町、落ち着いた雰囲気の古
都だそうだ。ここには外国人がイタリア語を学ぶことを目的にした外国人大学
があり、須賀さんもイタリア語の勉強のためにその学校に通い、しばらくの間
を過ごした町だそうです。
さて、須賀敦子さんのことを書いてみたい。けれど、それほど簡単には書け
ないだろうと思いますが。私にとってはとても興味のある方で、何よりも不思
議に魅力的な気品ある文章が本当に素晴らしい。
昨年の秋頃から本屋さんで須賀敦子さんの本をよく見かけるようになりまし
た。でも私が須賀さんの本に始めて出会ったのはもう4、5年も前のことだと
思います。最初に出会った本は「コルシア書店の仲間たち」でした。なんとな
く書名にひかれて読みました。とにかく全部読んでいるはずなのですが、その
時は実はよくわからなかったのです。なぜ「コルシア書店」なのかが。もちろ
ん須賀さんがその書店との関わりを持つようになったいきさつは、その「コル
シア書店の仲間たち」の本に書かれています。
その時は書名だけが記憶に残り、妙に何か心に残る本だったことは確かだっ
たのですが、著者名のほうは実はあまり記憶に残りませんでした。その後、そ
の本は私の手もとからなくなっていますが、なぜか忘れられない本でもありま
した。
昨年の秋頃から、須賀さんの本が書店に平積みになっていて「コルシア書店
の仲間たち」も一緒積まれていましたから、やっと書名と著者名が一致したの
です。須賀さんは1998年3月にお亡くなりになっていたのですね。それで
昨年は残された原稿がまとめられて、遺稿著作集という形でまとめて出版され
たようです。イタリアでのつつましい暮らしのなかから生まれた数々のエッセ
イは、イタリア人のご主人が亡くなられたあとに書かれたものが多く、どの話
からも須賀さんの深い悲しみの心がじわじわと伝わるように思い、過ぎ去った
日々をこんなにもいとおしく思える人がいて、こんな風にして時間が人を癒す
のかと思い、気がついたら書店にあった本を次々と買っていました。
ミラノ 霧の風景 白水ブックス
地図のない道 新潮社
トリエステの坂道 新潮文庫
ヴェネツィアの宿 文春文庫
コルシア書店の仲間たち 文春文庫
ユルスナールの靴 河出文庫
時のかけらたち(最後の作品) 青土社
追悼特集須賀敦子 文藝別冊
もしも須賀敦子さんに興味を持たれたなら、最初にお勧めしたいのは、「ト
リエステの坂道」でしょうか。
須賀さんは日本のカトリックの学校(聖心)で教育を受けられた方で、小さい
頃からカトリックの文化のなかで育ち、信仰や宗教についての知識も深い方で
すが、須賀さん自身はカトリックの洗礼を受けた信者ではありません。このあ
たりのことは「ヴェネツィアの宿」(夏の終り)。イタリアに渡り、須賀さんの
近くにはいつも「聖堂」があった。イタリアの町や都市の多くは教会を中心に
発達してきたわけですから、町の中心には必ず聖堂がある。ミラノにあった
「コルシア書店」そのものがサン・カルロ教会のもともとは物置だったところ
を改造して作った書店空間だった。須賀さんはその書店を取り仕切っていたペッ
ピーノさん結婚した。もちろんカトリックの教会で結婚式をあげた。ですから、
須賀さんとカトリック、そして聖堂というのはいつも空気のように一緒にあっ
たことになります。イタリアで過ごした日々の暮らしを通じて書かれたエッセ
イの多くは、須賀さん自身がカトリックの信者ではなかったこそ見えてくる深
い思いをを感じます。
1967 年にペッピーノさんが亡くなったあと、須賀さんはそのまましばらく
ミラノで暮らすのですが、一番大きな支えを失ったその時期に須賀さんはヴェ
ネツィアをはじめいくつかの町を訪れます。 リド島で夏を過ごした時、トルチェッ
ロという、リド島からさらに北にある小さな島の古いバジリカ式のほとんど廃
虚に近い教会に行く機会があった。ほんと1日がかりで須賀さんはその島に行
き、その古い教会で青い衣をまとって幼い子を抱いた聖母像に出会う場面があ
ります。聖母はイコン独特の厳しい表情に作られていた。しかし、その聖母像
に出会った瞬間、「それまで自分が美しいとした多くの聖母像が、しずかな行
列を作って、すっと消えていって、あとに、この金色にかこまれた聖母がひと
り、残った」。この像さえあればよいと須賀さんは思ったそうです。そう思う
と、「ねむくなるほどの安心感が私を包んだ」、この数行を読んだとき、私は
須賀さんの心の一番軟らかな部分に触れることができたように思い、同時に本
当にほっと息をついた。(2000/01/28)
関連
毛利衛
HSF - STS-99
January 30, 2000 Space Shuttle Status Report
宇宙飛行士毛利衛さんが2000年1月31日に打ち上げられるスペースシャトル
「エンデバー」に再度搭乗することが決まったようです。1992年の最初の飛行
は搭乗科学技術者としての搭乗でしたが、今回は搭乗運用技術者として搭乗す
るそうです。毛利さんは1998年には NASA でミッションスペシャリスト資格を
取られたそうです。一口に宇宙飛行士と言っても資格や経験によって、宇宙で
どういう仕事をするかというのはかなり複雑なようです。毛利さんの2度目
の宇宙飛行のニュースは、私にはとてもうれしいです。毛利さんの宇宙体験に
ついての本は、「宇宙の風」(50歳からの再挑戦 朝日文庫)というのがあり
ます。毛利さんの奥様が書かれた部分もあって日本人の宇宙飛行士のこまごま
した生活の部分をとても興味を持って読みました。
さて、毛利さんから少し離れますが、日本人の宇宙飛行士でもうひとり名前
をあげるとすれば、向井千秋さんですね。向井さんが宇宙飛行士に選ばれてか
ら、私は向井さんにとても興味を持ってきました。
向井千秋さんについてはご主人の向井万起男さんが書かれた本がありますが、
とても楽しい本でした。
「女房が宇宙を飛んだ」向井万起男 講談社
「君についていこう」向井万起男 講談社
これらの本によれば、彼らは「ちあきちゃん」「まきおちゃん」と呼びあう
のだそうです。宇宙を飛びつづけたいたくましい女性宇宙飛行士と基礎医学の
お医者さま。
毛利さんと向井さん、彼らは一般的な考えからいうと決して若くない。40〜
50代半ば。ところが NASA の宇宙飛行士の集団のなかではこの年代が一番の
働きざかりなのだそうです。そういえばさきごろ向井さんと同乗したグレン中
佐は78歳でしたか。グレン中佐は 1962 年にアメリカ人としてはじめて地球
をまわった宇宙飛行士です。
考えてみれば「宇宙船に乗り、宇宙に行く」ということはとても大変な仕事
なのです。高度な知識と強靭な体力がまず必要です。そして厳しい訓練をこな
していかなければなりません。実際に宇宙に行くことができる宇宙飛行士がで
きあがるまでには途方もない時間が必要なのだということなのですね。ですか
ら宇宙飛行士の平均年齢というのはごく普通の社会に比べるとかなり高いとい
う結果になるのだそうです。
日本ではあまり実感がわかないのですが、NASA には宇宙飛行士はとてもた
くさんいるそうです。けれど、実際に宇宙に行ける宇宙飛行士はほんのひとに
ぎり。宇宙に行けない宇宙飛行士のほうがはるかに多い。搭乗する宇宙飛行士
が決定すると同時に、同じ数だけの「リザーブ」の宇宙飛行士も発表されるそ
うです。その人たちは本飛行士にアクシデントがあれば当然代わりに任務につ
くわけですが、アクシデントがない限りはあくまで「ひかえ」の存在ですから、
毛利さんが宇宙船に搭乗すれば、「ひかえ」の役目は終り、彼らは次のチャン
スを待たなければならないのです。
地球に住む人間が宇宙を体験すること、宇宙から地球を見ることで人間とい
う存在にいままで考えられなかった視点が加わるのは確かだろうと思います。
少なくともカトリックの信者である私が「十戒」などというタイトルで何か
を書けば、「信仰」とのかかわりからと想像されてしまうかもしれませんが、
ま、最近はとんと教会にごぶさたしている私としては、そのような視点から何
かを言うつもりはありませんので。
「十戒」は映画になりましたし、いまならレンタルビデオ屋さんにいけば簡
単に借りられますし、価格ダンピングのビデオテープでも手軽に手に入ります。
もし見られたことがないなら、ぜひ一度ご覧になるようお勧めします。映画と
しておもしろいですから。
「十戒」というのは、シナイ山でモーセが神からさずかった「十の戒」。旧
約聖書をひもとくなら、「出エジプト記」の20章。十戒の板については32
章あたりから34章。モーセとはどんな人物だったかについては以前に簡単に
まとめたものがありますので、興味があればこちら を覗いてくださいませ。
さて、「十戒」とは何ぞや?
神がモーセという人を通じて人間に与えた戒であるというのは、ペーパー
テストの答えでしょうか。でもそれでは何のことやさっぱりわかりませんよね。
ではいったいどんな「戒」があるのか、ちょっと見てみます。そうそう随
分以前にある教会に行きましたら、そこの売店で「十戒の下敷」を置いていま
した。これなかなかよろしいやんとは思ったのですが、結局買わずに帰ってし
まいました。いまから思えば残念なことなのですが、この手のものなら、別に
手に入らないものではなく、またどこかで見つけたら、今度は買っておきましょ
う。
さて、「十戒」ですから、「戒め」は全部で10あります。その1番目は、
「私は主である」、2番目、3番目も私があなたがたの神であるというように
1番から3番まではしつっこく神についての掟です。私が神なんだよ、それも
唯一の、あなたがたの神はひとりだけ。よ〜く覚えておきなさいよ、と。まず
はここを忘れてはいけないって神は相当しつっこく人間に言われます。
4つ目に「父母を敬え」、5番目に「殺してはいけない」。6番に「姦淫す
るな」7番が「窃盗(隣人のものを盗んではいけない)」8番「隣人に関して偽
証してはいけない」9番「隣人の家を欲してはいけない」。そして10番は
「隣人の妻、男女の奴隷、牛、ろばなど隣人のものを一切欲しがってはいけな
い」。
4つ目の掟までは、ある種宗教的(笑)かなと思うのですが、全部で10ある
戒めのうち後半の5つのことは、きわめて日常生活的な戒めだと思いません?
その内容ははるか何千年も前の時代がかった戒めというよりは、いま、この時
にも十分に通じる戒めであると思いません?その昔、モーセが生きた時代、砂
漠で群れて暮らしていたベドウィン人たちが、群れのなかでしょうもない争い
事を起こさないための戒めというか。いまの言葉で言うなら「民事事件」を起
こさないためにこれくらいは守っておかないとこんな荒野で生活していけない
じゃないか、よ〜く聞いておきなさい、これだけは戒めて日々の暮らしをおく
れよ、と。
「殺人」「盗み」「偽証、うそをつく」「人のものを欲しがる」このような
ことは、人間の社会ではいつでも「ある」こと。もちろん、たいていの人は、
「私は絶対殺人なんかしないし、人のものを盗むなんて、そんなことはとんで
もない」と思っています。でも、実際のところ、ほんとうに最近、強盗事件は
多いし、殺人事件が多い。それも中学生や小学生といった年代でそのような犯
罪が起こる。そして、その動機はあまりにも短絡的であったり、どうしてその
程度で人が殺せるかと思うような理由であったり。
誰もが自分はそんなことはしないと思っているはずなのに、誰でも状況が変
われば陥りやすいことについて「やってはいけない」と言ってるんだ、十戒と
はそういうものなんだと聞いたことがあります。
人は何でもやってしまうこともできるけれど、
自分の意志と理性で思いとどまることもまたできる。
その一線を超えるのも人間、また、
意志を持って超えてはいけないと自覚するからこそ人間。
岸恵子(「けい」は本当は「恵」ではないのですが)さんの「30年の物語」
を読みました。1999年11月15日初版ですから、約2月ほど前に出た本です。少
し前に「徹子の部屋」という番組に岸恵子さんが登場していました。なんとな
くついていたテレビをなにげなく聞いていた(見ていたわけではなくて)だけな
のですが、そのトーク番組のなかで岸さんがこの本の話をしていたのが記憶に
残り、本屋さんでみかけて迷いなく購入したのでした。
とはいえ、私は岸さんの映画は見たことがないし、エレガントな方だという
印象はありますが、ファンというわけではありません。フランス人の映画監督
と結婚し、離婚して、そのままパリに住んでいる女優さん。しかしながら、ジャー
ナリストの仕事もこなし、またいくつかのドキュメンタリー番組にも出演して
いて、私は娘のデルフィーヌさんと一緒にナイルの旅をする番組(何だったか
はまるで覚えていないけれど)を見て、とても良い印象を持っています。
勝手についていたテレビで「徹子の部屋」が放送されていて、聞くともなく
聞いていた話だったのですが、岸さんが「30年たって書けた」(正確ではな
いですが)と。話の前後の脈絡が不明のままで私の耳にとびこんできた言葉だっ
たのですが、実はその言葉がいたく心に残ってしまいました。
この「30年の物語」は、岸さんが実際に出会い、経験されことなのでしょ
う。しかしその語り口は、ノンフィクションでもドキュメンタリーでもない。
まして小説ではもちろんない。どの出来事も、岸さんにとっては本当はなまな
ましい現実であったはず。それぞれの人について、そしてそれぞれの出来事に
ついて、30年という「時」を経てはじめて、そのことの本質が見えてきた、
そんな感じがします。すべて終った過去のことなら、すべては懐かしい思い出
になってしまう。思い出ではない。過ぎ去ったはずのことなのに、いまなおみ
ずみずしい「30年の物語」は岸さん自身の人生。セ・ラ・ヴィ (2000/1/18)
たまにはこんな本もよいかとロザムンド・ピルチャーの「イギリス田園の小
さな物語」という本を読んでいました。この方の本は一時ブームになったこと
もあるけれど、どの物語も、なにげない日常生活のなかの心の揺れ動きが細
やかな女性の目線で描かれていてなかなかおもしろい。
さて、そのなかのひとつの短篇「いとこのドロシー」のなかに「ケイタリン
グ」という仕事が出て来ます。ご主人を亡くしたあとどんどん成長する娘ドロ
シー、ある日突然ドロシーはロンドンの料理学校に行きたいと言い出し、母の
もとを巣立ってしまう。やがて料理学校を卒業したドロシーはひとりで「ケイ
タリング・サービス」の仕事を始めた。中古のミニバイクを買い、そのバイク
に「鍋やらフライパンやら料理用ナイフやらミキサーやらを積み込んで、ロン
ドンじゅうを走りまわるようになった」。このあたりを読んで、はて?「ケイ
タリング・サービス」って何だろうと思いました。続く文章には、「依頼があ
れば、晩餐会の料理を取り仕切ることから、冷凍庫がいっぱいになるほどの量
の料理を作り置きする仕事まで・・」と。これは、料理を運ぶというよりは料
理人がじきじきにその場に出かけていって料理をするというわけですよね。出
張コックさんと言えばよくわかる。
まずは「ケイタリング」という言葉を辞書で探してみると、
cater パーティー用の料理を調達する。
Our hotel also caters for weddings and parties.
当ホテルはまた婚礼-A�$)B宴会も引き受けます
caterer 仕出し屋さん、あるいはホテル、レストランの宴会係
これなら日本にも同じような職業はあるわけで、さっそくタウンページで調べ
てみたら「ケータリング」は宅配(飲食)という項目がありました。実際にはど
んな会社があるかというと、いわゆる「ディナーサービス」と称する「夕食の
材料配達」とか「調理済みの料理の配達」単身赴任や高齢者や病気の方のため、
さらにはダイエットなどを目的にしたものもあるようでした。
ドロシーはひとりでこういう仕事を始めるわけですが、「盛大な結婚披露宴
や、一流会社の重役会議につきものの豪勢な昼食会の料理を手がけることもあっ
た」とピルチャーさんは書いていますから、これはひとりでとはいえなかなか
すごい「ケイタリング・サービス」ですよね。相当な料理の腕がないことには
やっていけない。
けれど、ここで「なるほどね」とうなづいてしまうわけにはいかない。少し
気になるのは、日本の「ケイタリング・サービス」はドロシーの話とはちょっ
と違うような感じがするということです。もちろんドロシーさんの話は短篇小
説であってドキュメンタリーではないですから、実際にこうなのだというわけ
ではありません。けれど、ピルチャーさんの日常で、またロンドンのようなと
ころで「ケイタリング・サービス」という仕事が成り立つ暮らしがない限りは
こういうエピソードが書かれることもないようにも思います。
材料配達ではなく現場に出向いて料理をする、大きなレストランやどこかの
ホテルが出張パーティサービスをするというようなことはそれほど珍しいとは
思いません。けれど、若い女性がひとりでこういう仕事をするということに、
なかなか旺盛な生活力を感じますよね。
我が家にもときどき「ディナーサービス」会社の宣伝チラシが入れられるし、
夕食の材料配達についてのコマーシャルなどもみかけます。状況によったらこ
ういうサービスを利用することはよいことかもしれないなぁと思いますが、い
まのところは利用するつもりはありません。
「食べる」ことってとっても大事なことだと思います。「ケイタリング・サー
ビス」とはいわゆる仕出し弁当屋さんとは違う範疇に入るものだと思います。
というか違う範疇のサービスとして、それこそ個人でも成り立つ職業になって
いくのはよいことではないかと思うのです。
暮らしの状況によってはそれこそ気軽に「ケイタリング・サービス」のような
ものが利用できるような、そんな風にできるのはとてもよいことだと思うので
す。材料だけを配達するのではなくてそれこそ出張コックさんのような形でお
料理してあげるところまでできるともっとすごい。でもいずれにしても、その
時運ぶのは単なる「材料」いわゆる「もの」ではなくて、さまざまな意味をこ
めて「食べる楽しみ」も運ぶものだともっと素晴らしい。
先日、滋賀の田舎に家があるという友達から、裏庭で作ったというプチトマ
トをもらいました。もうこれで最後というトマトだそうです。黄色のプチトマ
トで、なんだか実がぎっしり詰まっているという感じでとてもおいしかったの
です。全部で50個くらいもらったうちの10個ほどがまだ青いトマトでした。
時期的にもう放っておいてもうれてこないだろうからもいでしまったというこ
とです。さすがにそのまま食べるには固いし、味が青い。でも、黄色くなった
ものは本当においしかったので、その青いトマトはどうしたらおいしく食べれ
るだろうかと思いました。
そこで、イタリア風トマトのスープならいけるかもと思い、ベーコンと赤い
パプリカ、じゃがいも、にんじん、たまねぎなどと一緒に青いトマトを薄切り
にしてオリーブ油で炒めて、しばらくことこと炊いてみました。味は固形のチ
キンスープと塩とこしょうのみ。そうしたら、これがとってもおいしい!
裏庭に畑のある暮らしなんてかなり憧れるのです。友達はたいへんだよと言っ
ていましたが。
ある雨の日のこと。バス停でバスを待っていました。バスの時刻表を
見るとすぐに来そうだったので待つことにしたのですが、なぜかバスは
なかなか来ない。雨はだんだん激しくなってくる。ふと横を見ると、バ
イクが1台止まっていて、その荷台に青いプラスチックのコンテナがく
くりつけてあり、そこに骨の折れた傘が斜めにさしかけてありました。
なんか妙な感じだったので、傘のなかをのぞきこんでみると、なんと、
そのコンテナのなかに犬が2匹じっと座っているではありませんか。犬
の種類についてそれほど詳しくないので、どういう種類の犬かはわかり
ませんが、2種類のごく普通の犬です。
犬たちはとにかくじっと青い箱のなかに座っています。私がじっと犬
をみつめると犬さんたちもじっと私をみつめます。雨がかなり激しく降っ
ていて、傘がさしかけてあるとはいうものの雨は青いコンテナのなかに
降りこんできます。頭や耳のところに時おり雨がかかるのですが、犬さ
んたちはとにかくじっと箱のなかで座ったまま。
何やらせつない目、いや、これは悲しい目なのだろうか。それともと
にかくご主人が戻ってくるまではじっとしてなくちゃと、まるで催眠術
にかかったようにじっと座りこんでいるのです。
バス停はレストランのあるちょっと大きなベーカリーの前でしたから、
もしかしたら犬たちのご主人は、バス停の横にバイクを止めて、レスト
ランでコーヒーでも飲みながら外の犬たちの様子を眺めていたのかもし
れません。バス停のところならレストランのなかから見えますものね。
バイクにくくりつけた青い箱のなかの犬2匹、いったいどういう理由
でそんな場所でご主人を待つことになったのか、それはわからないけれ
ど、ほんのしばらくの間、なかなかバスが来ないという不満を忘れさせ
てくれました。(1999/11/12)
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