「芸術立国論」

「芸術立国論」
集英社新書 660円

平田オリザさんの「芸術立国論」読みました。なんだかすっごい元気がよいと
いうか、元気が出る本なのかもしれません(笑)元気を出すためには、まず、い
ままである種「じょーしき」だと言われていたこととか、自分が何か思い込み
をしてしまっていることをまずぶっこわす勇気を持ってからはじめなければい
けないのかもしれませんが。

本のなかにも少しだけ書かれているのですが、そういえば NHK の「課外授業」
で平田オリザさんが出ていたものがあったと思います。私はちゃんと見ていな
いのですが、平田オリザさんがその番組に出ていると気がついていた(ちゃん
と見ておけばよかった)。きっと元気の塊のような平田さんが見られたかもし
れないと残念に思います。

本を読みはじめて、まず、「公立」の施設であるからといって、それが「公共
のもの」であるとは限らないのだということに、思わずはっとしてしまいまし
た。もちろん、そんなことは自分で周知のことだと思ってはいたけれど、どう
もちゃんと区別しきれていないと気づき、では、演劇や音楽の公共性とはどう
いうことなのかについてちゃんと話すことができるかと言われると、やっぱり
怪しくなってしまう自分に少々情けなくなってしまった。「芸術」という言葉
に自分で勝手に線をひいていないだろうか、それが何か特別で高尚なものなの
だと思い込みすぎていないだろうか。「芸術」と「文化」という言葉に妙にこ
だわりつつ、それなのに、なにやら自ら逃げ腰になっていると思いこみすぎて
いないだろうか。

再度タイトルを見直してみる、「芸術立国論」うん!?妙に記憶に残ってしまっ
た一部分、昨今あちこちに出来ている地方のホールとは、「本来、地域の住民
が演劇やダンスの創作の場として作られた」はず(p.46)ところが若者たちはス
トリートでダンスをしても、ホールで踊ることはない。地方都市の郊外にある
公立ホールの周りでは連夜、ストリートダンスの練習が行われていたりする
(なぜかというと、たいていのホールは回廊のようになっていて、建物はガラ
ス張りだから最高の鏡が出現するというわけ)。

私の住んでいる地域にもつい半年ほど前にホールが出来た。確かに、回廊のよ
うになっていて周辺はガラス張りになっている。まあ、いまのことろそこでス
トリートダンスをやっている若者を見かけることはないけれど、同じようにそ
の新品のホールに活気があるという風にも見えないのも確か。むしろ、そのホー
ルのすぐ近くにある JR の駅前では、連夜「スケートボード禁止」のたて札の
前で若者がたむろし、ストリートミュージシャンたちがギターを弾いて歌って
いる姿のほうが活気があるかもしれない。

ホールには舞台があり座席がある。ホールは、普通、観る側と演じる側が分離
されている。けれど、JR の駅にたむろする若者たちはどちらの側にもなりた
いのかもしれない。それは若者に限らずだろうけれど。観る側であると同時に
表現者にもなる自由、「芸術立国論」の底に流れるものはそれかもしれないなぁ
と思う。文化とは与えられるものではなく、自らの暮らしのなかから掘り出す
もの。

そういえばびわ湖ホールでは「夏のフェスティバル」という催しがありました
ね。昨年、私は参加しようと思いつつ、結局は行けなかった。1月ほど長い期
間にわたってのさまざまな催し、あれはホールを「場」として捉えていこうと
するひとつの試みでしょうか。それから若杉芸術監督のお話をお聞きする機会
があったとき、「ホールを出会いの場」として位置づけていくことについてお
話しが及んでいました。

ごく普通の人の暮らしのなかに演劇やダンスや音楽やひろくゆきわたること、
それって特別なことではなく、本当はそれが生きる活気がみなぎる社会なのか
もしれません。たとえば祭のような場というのは歌も踊りも音楽も満ちている
場ですよね。ホールに人が集まることも、本当ならそういう暮らしの延長にあっ
てこそのものかもしれません。

小さい本のなかにさまざまな話題が提供され、そのひとつひとつに自分の思い
こみを反省しなきゃなんて思ってしまいました。



「はるか」に乗った

関西空港まで「はるか」に乗った。単純だけれど、これがけっこう楽しいのだ。
「はるか」を利用すると関西空港まで、京都駅から約1時間15分ほど。思っ
ていたよりは近い。空港までの専用路線だから、そう頻繁に利用する電車でも
ないというか、これまで利用する機会に恵まれなかったというわけ。でも、い
つも利用する嵯峨野線ホームの隣に「はるか」が止まっているのは見ていたが、
見てるだけと実際に体験することにはけっこう大きな差があるものだ。

関西国際空港

「はるか」が楽しいというのは「はるか」という電車が楽しいという意味では
なくて、「はるか」が走っている路線が妙におもしろかったということですが。
なぜ楽しいかというひとつの答えは、「はるか」が走る路線は在来線をうまく
利用しているからということかもしれない。

せっかくですから電車について少しメモをしておきますと、空港行きの専用線
の電車ですから、普通の電車とはちょっと違った設備がある。各車両のドア近
くの通路の両側にかなり大きなスーツケースを並べて収納する場所があるのは
「はるか」独特かも。飲物のたぐいは自動販売機があり、各車両は禁煙なので、
喫煙コーナーが設置してある。座席はとりたてて立派なわけではありませんが、
車内販売等はありませんので、新幹線のような座席テーブルはありません。京
都駅に到着すると、5分から10分ほど車内清掃の時間があるのですが、なん
と、関西空港駅に到着しても同じくらいの車内清掃の時間を取っている。とい
うことは発着駅と到着駅の両方で車内清掃をしているわけで、これはなんだか
すごいことかも。

さて、「はるか」は次のような路線を走っていきます。関西空港ができて「は
るか」のために新しくできた線路というのは、日根野から関西空港駅までのほ
んの5分ほどの部分でしょう。その他大半の部分は、次のように在来線を使っ
ていることになります。

京都ー新大阪(JR京都線)ー(東海道本線)西九条ー天王寺(大阪環状線)ー
日根野(JR阪和線)ー関西空港駅(関西空港線)

京都に住む人間にとったら 大阪環状線とJR阪和線というのは日常的にはあま
り縁がない。大阪駅から環状線に乗る時というのは、やっぱり何か用事があっ
て乗ることが多いですから、普段はゆっくり景色をながめてという気分ではな
いですね。それは京都、大阪間も同じ。

ところが「はるか」に乗ると、ほんのちょっぴり先が長い。少しだけゆとりの
時間があるわけで、そうなると列車の窓から見える景色に目がいくのが不思議
だ。京都を出て大山崎のあたりがなかなかよろしい。さて、環状線に入るとな
んだかごみごみした雰囲気があるのですが、「はるか」という電車は何かしら
非日常的なところがあるので、環状線ホームのきわめて日常的な雰囲気との差
が妙におもしろい。

このあたりの見どころ(?)は天王寺あたりを通過する時でしょうか。突然
「大阪ドーム」が見えて、不思議な雰囲気のドームが宇宙的。大阪ドームの前
には、なんと、大阪ガスのガスタンクがある。これにはちょっとびっくりした
けれど。それから通天閣が見えて、ああ!これこそ、お〜さかやんかぁ!と思
わず笑顔が出そう。そしてビルの間を抜けるジェットコースターにド肝を抜か
れ、話には聞いていたスパー・ワールドの前を通り抜け、天王寺動物園に沿っ
て電車は走る。

阪和線に入ると沿線風景はなにやら牧歌的にかわる。緑が増えて田畑が増えて、
この先には「和歌山」があるのかと妙に感慨深い気持になりそう。そして、や
がて海が見えて、関西空港というのは、本当に海のなかの島なのだと改めてえ
らいもん造ったんだなぁとふううっとため息のひとつも出そうな気分に陥る。
日根野を通過すると、線路はほとんど90度曲がって関西空港線に入る。海の
上を走るのはほんの5分ほどにしかすぎませんが、「離れ島」が「空港」であ
ることを改めて実感する時間でもあるのかもしれない。2002/08/07



カモノハシ

山梨県にあるリニア実験線で新型のリニアモーターカーの走行テストがはじまっ
たそうだ。新型車は空気抵抗を減らすため全長28メートルの先頭部分五分の
四が傾斜しているとか。先頭部分がかなり傾斜しているのでとがっており、ま
るでカモノハシの口ばしのように見える。新聞では「新型リニアはカモノハシ」
という見出しだった(2002年7/25朝日新聞夕刊)。

新聞に載っていたリニアの写真をながめて、確かに、イメージとしては「カモ
ノハシ」だなと思った。かなりかっこいい。リニアモーターカーがどれくらい
高速の乗物になるのか、そこは私にはよくわかりませんが、21世紀の超高速
列車にはなりそうですね。新幹線の先頭部分も見るたびに「おお!かっこいい」
なんて思ったりしてます。

リニアモーターカーについては 
http://linear.jr-central.co.jp/index1.html
をどうぞ。一般公募の試乗会もあるようです。

山梨リニア実験線のページは、
こちらです。
その他リニアモーターカーについてはいろいろページがあるようですので、
自分で探してね。

新幹線の車両等の写真は、
JR 東海ミュージアムにいろいろあります。

さて、本筋は「カモノハシ」なのです。

カモノハシはタスマニア島、オーストラリアの東部地方に住む生きもの。「カ
モのくちばし」という意味だそうです。私、カモノハシにはけっこう思い出が
あるのです。といってもカモノハシの実物は見たことがない。はじめてその名
前を聞いたのは10年くらい前のことだったか。nifty の Unix の会議室でだっ
た。その頃、カモノハシのスケッチをながめて、私はこれは両性類だと信じこ
んだ。どうみてもそのように見えたから。ワニがひらべったくつぶれたような
胴体と、あひるのくちばしをもう少し丸みをつけて、もっと大きくしたような
口ばしが印象的だった。まさに「カモのくちばし」。

この写真は、私が一番はじめに見たカモノハシのスケッチが T シャツになっ
たものです。肝心のカモノハシのスケッチは少しみにくいですが、カモノハシ
がデザインされたInfoMagic社製 の Linux T シャツです。この T シャツは、
InfoMagic から Slackware の CD-ROM を購入するときに一緒に注文したもの。
当時、nifty の funix の会議室では話題にのぼっていたけれど、日本では売っ
ていなかったかもしれない。

O'Reilly(オイラリー)社の動物のイラストが使われているシリーズの本にカ
モノハシがあったかどうかはあまり記憶はないのですが、Linux の関連の物品
にカモノハシが使われていたのですね。



私がカモノハシは両性類かも〜と思って、会議室にそう書きましたら、いや〜、
あれは鳥類ではないか、いやハ虫類ではないかと、いろんな説が登場してきた
ことがあった。そして、結論はどうだったかのか、それはあまり記憶にはない
のですが、いずれにしろなんだかかわった生物がいるのだとカモノハシという
名前だけはしっかり記憶に残ったというわけ。

さて、カモノハシはハ虫類、両性類、鳥類、それとも?何ものなのでしょう?
ずっと長いこと、私は、はて?と思ってきたのですが、ある日ふと「カモノハ
シくんはどこ?」という絵本が出ることを知りました。長年の疑問(笑)に何
か楽しい答えがあるのかもと思い、さっそく絵本をながめてみたというわけ。
なかなか楽しい絵本ですので、興味がある方はぜひどうぞ。

カモノハシくんはどこ?
作 ジェラール・ステア
絵 ウイリー・グラサウア
訳 河野万里子
福音館書店 

分類という作業はおもいのほかやっかいなもの。その動物を特徴づける形質に
よって分類していっても、どうしても分類しきれない動物が存在する。「カモ
ノハシ」はそのひとつで、現在のところは「卵性ほ乳類」に分類されるのだそ
うです。カモノハシは子どものときは、くちばしと歯があり、足には水かきが
あり、毒を出す爪ももっています。これは知らなかったのですが、カモノハシ
は卵で生まれますが、母乳を飲む。体には羽毛がある。というわけで、鳥のよ
うでもあり、両性類のようでもあり、ほ乳類のようでもあり、だから、やっぱ
りはて?となる。それぞれの動物を分類するときの仕切り際の特徴をかねそな
えている動物というわけですから、既存の分類では分類しきれない動物という
ことになってしまう。

だから、私がカモノハシは両性類だと思ってしまってもある意味不思議じゃな
い特徴があるし、いやいや両性類じゃないよ、あれは鳥類ですよと言った人も
間違っているわけではなかったのです。生物の進化の過程で、複数の特徴を持
つ動物が存在するということ。ダーウインの島と言われるガラパゴス島に棲息
する動物は、ほんとうに興味深い。(2002/07/26)

追記:私にとっては、なのかもしれないけれど、ある日図書館である本のタイト
ルが目にとびこんできた。
「カントとカモノハシ」ウンベルト・エーコ 岩波書店 3200円
 ISBN4-00-022431-X

う〜ん!そうか、「カモノハシ」で「哲学」できちゃうんだ、本の最初の部分を
ぱらぱらめくり、いたく納得するところがあったのです。
それはやっぱり「カモノハシ」は爬虫類か、哺乳類か、はたまた鳥類か、どのよ
うに分類するかということは、どのように哲学するかにも通じるのだ。
2003/10/28



よその家の裏庭!?

ジェイミーが消えた庭
キース・グレイ作
野沢香織訳
徳間書店 1400 円

よその家の庭にはいりこみ見つからないようにかけ抜ける、子ども時代の密か
な冒険は誰にも記憶があるかもしれない。その家の人が留守だとわかっていて
も、こんな「不法侵入」はかなりどきどきするものだ。「よその家」というの
は「未知の世界」ですね、確かに。似たような形、同じような間取りの家であっ
ても、違う家族が住んでいると違った空気が流れている。見慣れない家具やも
のがあって、違った暮らしがある。「よその家」にはまったく違う何か未知な
ものがあるように思えてしまうから本当に不思議だ。

「クリーピング」とは、通りに沿って軒を並べる家の裏庭を順番にかけぬける
スリルあるゲーム。家と家の間には高い塀があったり、犬がいたり、陰になる
ようなものがなにもない庭もある。十軒、二十軒と並んだ家の裏庭を駆け抜け
るには越えなければいけない障害がたくさんある。わかっていることだけの対
策では不十分、予期しない事故だって起こる可能性は十分。家の住人「マル住」
が留守であればことは簡単だけれど、夜、たいていの家には灯りがつき、庭へ
の侵入者を「目撃」したら、警察に通報され「御用」となるかもしれないし、
どんな「罰」が待ち受けているかはわからない。「クリーピング」しやすい通
りもあれば、難易度が高い通りもあるわけで、もっとも難しい通りを制覇した
ものは「英雄」になれる。

ある夜、「ぼく」とジェイミーは、町で一番長くて、クリーパーの間で、最高
に難しいルートというダーウェント通りに挑む。ところが、三十番の家まで来
たときに「ぼく」はへまをやってしまう。ぼくたちは「ドツボ」にはまり、お
かげでジェイミーは「御用」になってしまう。ジェイミーは絶交するわけじゃ
ないけれど、もう「ぼく」とはクリーピングをしたくないと。それはまあ、そ
うでしょうねぇ、ドジな友達と組んだら、えらい目にはあっても英雄にはなれ
ない。「ぼく」はジェイミーの信頼を回復するために、あらゆる努力を払う。

なんだかひさびさに素敵な本を読んだなぁという感じがする。ここには魔法も
ないし、妖精もいない、手品もないし、超自然的な不思議もない。大人から見
たらよその家の庭にはいりこんで悪さをする悪童たちがいるだけかもしれない
けれど、素晴らしい子どもの世界がある。確かに、子どもの頃に黙って入り込
んだよその家の「裏庭」には不思議魅力があって、なんだかドキドキしたと私
も思う。2002/07/25



「わたしのグランパ」他

文庫本三冊

「わたしのグランパ」 筒井康隆 文春文庫
「蛇の石 秘密の谷」  バーリー・ドハティ著
                     中川千尋 訳
                     新潮文庫
「働く女」           群ようこ  集英社文庫

「わたしのグランパ」
ひさびさに筒井康隆の本を読んだ。ちょっと気に入った作家の本はできるだけ
連続して読んでしまう凝り方をしますが、筒井康隆もそんな作家のひとり。あ
る時集中的に読んでいて、しばらく間があって、それでまたふと目に止まって
といったところですが。実はこの本は図書館の書棚で目に止まったもの。タイ
トルに何やら惹かれるものを感じてさっそく読んだ。その後、本屋で文庫本を
みつけ、所有しておきたいという気持になって買ったもの。珠子は中学生。珠
子のグランパ(祖父)がある日突然刑務所から帰ってくる。15年の刑期といえ
ば、ただごとではない。けれど、グランパは妙なところで不思議な魅力ある人
だ。このじいちゃんは「私のおじいちゃん」では表現しきれない。「グランパ」
という言葉をとても自然に受け入れてしまえるのは、やっぱり筒井康隆はすご
いと思うのだ。それにしても、自分の生きる道を自分の意志を通して歩くとい
うのは、ほんとにほんときわめて難しいことなのだと思う。

「蛇の石 秘密の谷」
著者バーリー・ドハティという名前ははじめて知った。日本語訳はこの本の他
にも「シェフィールドを発つ日」、「ディア ノーバディ」というのがあるそ
うだ。養子として育ったジェームス、自分を生んでくれた「母」の姿を求めて、
もらわれてきた時に 身につけていた紙切れ一枚の書き付けと蛇石を持って家
出をする。自分はいったいどこからきたのか、誰が「ぼく」を生んだのか、生
まれた時の秘密を自分の手で探り出そうとするジェームス。本文の間にほんと
うの「母」のモノローグがはさまれている構成になっているが、繊細な心の動
きで物語がすすみ、かなり興味を持った本。

「働く女」
群ようこの本って何か妙にそそられるものがあって、見かけたらさっと買って、
さっと読んで、ふ〜んなんてつぶやいて、それでもまた次に見かけたらまた買っ
てるという何か変な感じ。つまり、私は、群ようこさんの書くことってけっこ
う好きだなと思う。さまざまな女性の日々の暮らし。そうか、女性ってこうい
うときはこんな風に感じるのかと目線はかなり新鮮だと思ってしまう。自分が
経験しなかった生き方のほんの一部を体験させてもらえるようでおもしろいなぁ
と思う。

以上 2002/06/30


「天国までの百マイル」


天国までの百マイル
浅田次郎
朝日文庫

百マイルはキロメートルに直すと約160キロほどになるらしい。この小説のな
かでは、東京から「千葉鴨浦」までの距離。千葉県に鴨浦という場所があるの
かどうか、私にはわからないけれど、「鴨浦」で探してみましたら、「天国ま
での百マイル」が出て来ました。

「天国までの百マイル」

千葉県に「鴨浦」というところが実在するかどうか、それは別に問題ではない
ですが、浅田次郎の本、はじめて読みました。「天国までの百マイル」、ちょっ
と感動的ではあるのですが、ちょっとくさい。くさいけれど、こういう内容の
本というのは、「考えてしまう材料」をとてもたくさん提供してくれるところ
はあるので、やっぱり「必要」な小説だと思うのです。

本屋の文庫本の棚でなんとなく目につく本でした。ずっと前からそこにあるこ
とを知っていて、う〜ん?なんだかなぁとなんとなく避けてきて、ま、ちょっ
と読んでみようかと軽く思った本。文章に気負いがなくてきれいですから読み
やすい。病気の母に手術を受けさせたい一心で、自前で調達した車に母を乗せ、
百マイルを走る。「切ない」という言葉がありますが、読んでいるうちにどん
どんそんな気持がわいてくる。

「金」がものを言う世の中へのやりきれない気持は誰しも心の片隅に持ってい
て、金じゃない、心だよと言いつつも、その心の通りにはなかなか動けないも
のだ。自分には失うものはもう何もない、ただただ、この母に最善を尽くした
い、その気持だけが見えてきたときに、その思いを果たすうためにつっ走って
みると、その行きつく先で豊かなものを見ることもある。だから百マイルつっ
ぱしるのは、本当は母のためじゃなくてもいいわけ。つっぱしろうという気持
が内から湧いてくることなんだよね。

で、主人公が行き付く先はカトリックが経営する病院なんだけれど。この主人
公はもちろん宗教とは無縁の人なんだね。

でも、これより先に行くとどうしても「信仰」ががってくるんだよねぇ。ほん
とは私だってそこのところを思いつつなんだ。でもね、「信仰」なんて言葉が
先にたったらだめってことね。信仰があるからじゃないね。せっぱつまった思
い、もうそれしかなかったんだというところからはじめて見えてくるものこそっ
て感じがするなぁ。こういう風に書きたくなるでしょ、だからこの小説ってく
さいわけ。。。。

マザー・グースのなかにこんな唄があります。
私の訳はここに
マザー・グース私訳
     How many miles is it to Babylon?--
     Threescore miles and ten.
     Can I get there by candle-light?--
     Yes, and back again.
     If your heels are nimble and light,
     You may get there by candle-light.

     バビロンまではどれくらい?
     60マイルと、さらに10マイル
     夕方までにはいけるかな?
     ええ、戻ってこれますよ。
     あなたの足が軽やかならば、
     夕方にはつけるはず。

How many mile というのが口調がよいので好きな唄です。この唄は何のことを
言っているのかと、意味不明なところもありますが「バビロン」というのは、
栄華繁栄をきわめた都なので、やっぱり暗に天国をさしているのかとも思いま
すが。「天国までの百マイル」を読んでいてふと思い出したのはこの唄だった。
直接にはこの唄と浅田次郎の小説は関係はないとは思いますが。



「13階段」

「13階段」 高野和明 講談社 1600円

「13階段」は、第47回江戸川乱歩賞受賞作。宮部みゆきさんがこの作品を
絶賛していたのを雑誌で読んだことがありました。読んでみようと思いつつ、
なぜか本はすぐには買えなかった。「死刑」を扱ったサスペンス作品あるとい
うのを知っていたせいか、なにか心にひっかかるものがあったような。おもし
ろいという言葉を使ってもよいだろうか。お勧めの作品のひとつ。サスペンス
小説ではあるけれど、いろいろ考えることの多い作品。ストーリーや内容に関
しての紹介はやめておきます。


ライオンと暮らす

「ライオンの飼い方とキリンとの暮らし方」
非日常研究会 著
新潮社 OH!文庫 581円

「ライオンの飼い方とキリンとの暮らし方」の前作に「ジャンボ・ジェット機
の飛ばし方」という本があった。その本もちゃんと目に入ってはいました。な
んだかおもしろそうな本だとは思ってながめた記憶があるけれど、買おうとは
思わなかった。「ライオンの飼い方とキリンとの暮らし方」というタイトルを
見た時は、すぐさま読んでみようと思ってしまった。ということは、私は飛行
機よりは動物のほうへの関心度が高いのだろうか。

この本の著者さんは「非日常研究会」。それはどんな会かというと、「ありと
あらゆる非日常的な出来事を想定して、会員相互の徹底的な議論と検証によっ
て、どんな人にも役に立つ完璧な解決方法を編み出し、社会に貢献することを
無情の喜びとする心優しいボランティア研究者の集団」(文庫本表紙から)なの
だそうです。非日常である事柄を日常的にできるようにする方法を研究しちゃ
うと、それって非日常じゃなくなるなぁなんてふと思ってしまうのであるが、
なかなか興味の持てる研究会だ。

本屋さんにもペットに関するコーナーがあって、猫や犬をはじめ、うさぎや小
鳥のような小動物たちと暮らす方法について書かれた本はたくさんあります。
けれど、ライオンを飼ってみたいと思って、書籍でライオンについての知識を
得ることはできても、「ライオンを自分で家で飼育する方法」について書かれ
た本は、まあ、一般的向けにはないものでしょうけれど。とはいえ、世の中ひ
ろいですから、たま〜に、なんだかすごい動物をペットにしている方もおられ
る。

もしも隣の家にライオンがいたら、ペンギンがいたら、そしてうちに駱駝がい
て、その隣の家ではキリンを飼っていて、別のお宅にはコアラがいたら、い
や〜、まあ!なんと言えばよいのだろうか。

「ライオンの飼い方とキリンとの暮らし方」、1LDKくらいのマンションで
ライオンと暮らして、そう「飼う」という発想じゃなくて、一緒に暮らしてみ
ようなんてすっごい話なわけ。どこまでまじでこの本と接するかというのは、
人によってはきわめて難しいかもしれないわけで、でも、いたってきまじめに
暮らし方についてまとめてあって、お隣へのあいさつの仕方から食糧の調達方
法とか費用まで書いてあって、もしかしたら一緒に暮らせるんじゃないかと錯
覚を起こしそうな気になるところが妙におもしろいわけです。

ライオン、キリン、ゾウ、ゴリラ、ダチョウ、ラクダ、パンダ、コアラ、
ナマケモノ、コビトカバ、フンボルトペンギン、アシカ、ラッコ、イルカ

さて、あなたはどの動物と暮らしてみたい?

私は、そうですねぇ、キリンか、ラクダ、イルカあたりかな。

そういう動物と一緒に暮らすなら、まずは適当なマンションを見つけなければ
いけないし、家主に改造の許可を取らないといけないし、ご近所にあいさつの
ひとつも。ゾウさんと暮らすなら、床の補強は必死だし、キリンと暮らすなら、
2階部分も一緒に借りて天井抜かなくちゃいけないし、イルカとかラッコと暮
らすなら家のなかにプールも作らなくちゃいけません。

そうそう、どこやらの住宅会社がテレビで「ゾウさんも一緒に暮らせる家」な
んてコマーシャルを流していましたが、もしほんとにできるならなんだかわく
わく(笑)とはいえ、いろいろ大変だろうなぁ(笑)

この本で扱っている動物たちは、実際のところ、ワシントン条約があって、一
般人が簡単に手にいれることはできないんですけれど、妙にリアルでおもしろ
い夢を描いてしまえるところが最高ですね。その動物と一緒に暮らす場合のイ
ラストが笑える。

で、最後まで読んでふと思うこと。非日常とは言うものの、動物園の飼育方法
をきちんと調べて書いておられるようですから、思うほど非日常でもないよう
な気がするんですよ。1LDKくらいの広さというのは、動物園の園舎では割
合日常的な感じもしますから。ただ、まあ、自分もライオンのオリの横で暮ら
せるかというのが問題なだけで。ライオンの吠る声ってすっごい恐いんですよ。
犬の吠え声とは違って、ちょっと恐い。あれは何といったらいいのか、お腹の
なかに空気をいっぱい貯めこんでそれをいっきに吐き出すというか、
ウォォ〜!って腹の底から吠えるという感じがありますね。でも、それが同居
人(はて?)だとしたら、その声もいとおしくなるのだろうか。

この本をじっくり読んで、動物園にいったら動物たちにもっと親しみを感じる
ような気がして、おりの向こうのライオンさんに「ねぇ、一緒に暮らしてみな
い?」なんて声かけてみたくなるかも〜。2002/05/30


ひのまどかの作品ふたつ


「星の国のアリア」  講談社 1996年初版
「総統のストラディヴァリ」 マガジンハウス 1998年初版

図書館の書棚でふと目に止まったのが「星の国のアリア」。「アリア」という
文字が「マリア」に見えていたのではないかとは思いますが、本を手に取って
みると、表紙はどこかのすばらしい劇場の写真がデザインしてある。そこでは
じめて「マリア」ではなく「アリア」なのだと確認した。表紙を開いてみると、
ねぎ坊主の尖塔がある建物の写真。それで表紙の劇場はたぶんボリショイ劇場
だろうと思った。何の予備知識もなく、どんな小説なのかも知らず、読み始め
たが、あまりにおもしろすぎて、その世界に没頭するのに、それほどの時間は
かからなかった。

日本で「オペラ」というと、あまりよい反応があるとは思えない。言葉の問題
も大きいし、一般的なところでは「オペラ」は遠い世界の何やら高尚なものと
いったイメージ。確かに海外のオペラ公演のチケットは想像以に高いし、よほ
ど注意深くしていないと、ごくごく普通の者にはどこでどんな公演があるのか
といったような情報も入りにくいかもしれない。私もビデオやテレビではあれ
これ見てはいるのですが、生舞台はベルディの「アッティラ」と、「マルタ」
くらい。いずれも出演者は日本人で残念ながら本当の生オペラの舞台を見たこ
とはない。

さて、「星の国のアリア」舞台は1970年代の東京。百合はロシア人の祖母と一
緒に暮らしていた。祖母の名前はリーナ・ニコラーエヴナ・モローゾフ。百合
のロシア名なタチヤーナ。リーナはロシア時代(1930年頃)はボリショイ劇場の
プリマ・ドンナだったが、1933年に日本に亡命した。リーナは日本に亡命する
とき、オペラ「金鶏」の楽譜を荷物のなかにしのばせていた。

1905年「血の日曜日事件」。帝制は崩壊したが、ソビエト政権は1929年スター
リンの独裁制が強化し、反スターリン・反共産主義者は殺され、流刑に処せら
れた。激動のなかでオペラ「金鶏」はリムスキー・コルサコフによって1907年
に完成した。オペラ「金鶏」は、プーシキンの「金のにわとり」の詩をもとに
した作品だったが、「金鶏」は時の指導者を批判する危険なものとして数々の
妨害を受けることになり、リムスキー・コルサコフは学生たちに革命思想をふ
きこんだ人物としてマークされた。「金鶏」は、リムスキーの死後、1909年か
ら数回上演されたが、32年を最後にオペラはソビエト共産党政権によって上演
禁止となり、幻のオペラになった。

日本に亡命したリーナはいつか「金鶏」が上演されることを願っていた。それ
も自分の孫娘によって。リーナは百合をプリマ・ドンナに育てあげることだけ
に集中する。

オペラ歌手というのは、自分の体そのものが楽器になるのだという話は聞いた
ことがあった。DVD で、アンジェラ・ゲオルギューという歌手の「椿姫」を聞
いたことがある。うっとりと聞き惚れてしまう。リリコ・コロラチューラ、ま
さに声がころがるという表現しかできないが、確かに人間の体そのものが楽器
となっているあの声は本当に素晴らしい。しかし、それもたゆまぬ訓練のたま
もの。

ロシアという国の激動の時代を背景に、リーナは人生をかけて百合をプリマ・
ドンナに育てあげる。しかし思わぬ罠にはめられることもある世界。リーナは
命をかけて百合にオペラを伝えようとする。百合もまたロシアの娘としてリー
ナの思いを受け入れていく。大きな歴史の流れと個々の人生との重なり。オペ
ラに対するイメージもかわりそうなほど、おもしろい本だった。

「総統のストラディヴァリ」もまた政治に翻弄される芸術の姿が描かれていて
とても興味深いものでしたが、「星の国のアリア」に比べると、少々リアリティ
に欠けるかもしれないという印象。2002/05/22

リムスキー・コルサコフ、オペラ「金鶏」については次のページも見てください。
リムスキー=コルサコフのホームページ

君こそシェマハの女王だ


京の町家でジャズライブ

5月3日の午後、京都の町家でのコンサートに行ってきました。

妙心寺の門前東にある町屋。築100年にはなるだろうとの古い京都の家。改装
されて、普段は家のなかを見学できるようになっています。通り庭のある典型
的な京都の家です。おくどさん(かまど)はそのまま残っているし、時にはちゃ
ぶ台が置かれ、はだか電球に灯がともる。。座敷は絵や焼物の展覧会や落語会
などの会場にもなります。そこでジャズのライブコンサート!これはぜひ行っ
てみなければと思い、参加してみました。

座敷は2つの部屋が続いています。間のふすまを取り払って、玄関に近い六畳
の部屋が「舞台」側で、広いほうの部屋(二十畳くらいかしら)が座蒲団を並べ
て客席。ライブ演奏は大阪芸術大学のジャズ研究会のメンバーとのこと。

「ちらし」はアコースティックライブと書いてあり、会場は民家で、天井は一
割低い畳の部屋です。そこでジャズですから、ピアノは?サックスは?ドラム
は?そんなものをここで演奏してどうなるんだろと、実のところは私はそうい
うことに興味があったわけで。

で、楽器の運びこみがはじまりました。ドラムがど〜ん!アンプがど〜ん!み
るみるうちに六畳の部屋はいっぱいになりました!バンドの構成はギター2、
ベース1、ドラム1の変則バンドでした。それでもギターをアンプにつなぐと
けっこうな音量になります。ドラムはどうだろうと思ってましたら、ささら型
になったスティックですから、軟らかな音になります。

というわけで、ライブ開始です。好感のもてるいい感じでした。「場違い」的
な感じもあるといえばあるのですが、奇妙にマッチしている。そこがおもしろ
い。ムーン・リバーのようななじみのある曲を中心にドラムの方がトークをは
さんで約10曲。スウィング系の優しい感じの曲が民家の雰囲気にぴったりで
した。

ちょっと暑い日でしたが、あけっぱなしの玄関から座敷のむこうの庭まで、さ
わやかな風が吹抜け、ちょっといい時間を過ごさせていただきました。

ちょっと変わったコンサートでしたが、楽しかったですよ。無料で、お客さん
はスタッフの学生さんも含めて25〜30人くらいでしたか。小学生の兄弟が
ふたり、一番前の座蒲団に座っていました。最初は食い入るように楽器をみつ
めていましたが、しばらくすると、体が動きだしふたりでじゃれあい。
生の音楽をバックに楽しそうに遊んでました。

この連休の他の日には、ボサノバライブとか、ロックライブとかがあります。
築100年の京都の家でのロックなんてちょっと興味しんしんになります。(2002/05/04)



なかみの重さ

「弥勒」 篠田節子 講談社文庫 914円 662ページ(文庫本の厚さ約2.8センチ)
「聖域」 篠田節子 講談社文庫 638円 418ページ
「旅涯ての地」 (上・下) 坂東真砂子 571円(上下とも)
                                   414 + 415 = 829ページ
                             (二冊合わせて約3センチ)
「一八八八切り裂きジャック」服部まゆみ 角川文庫 1000円 781ページ(約2.8センチ)

篠田節子の本、他に「女たちのジハード」「ハルモニア」をはじめ、文庫本で
出版されているものは、たぶんほとんど目を通していると思います。ま、けっ
こうおもしろいと思うし、嫌いな作家ではないし、どちらかというと好きなほ
うだろうと思います。坂東真砂子の本は「旅涯ての地」が最初に読んでみた本。
「死国」というのは映画にもなりましたから、題名だけは知ってしますが、読
んではいません。

まあ、実にすごい女性作家たちだと思います。何がすごいって先にあげた三編
はいずれも長編ですが、これが生はんかな長編じゃないですね。はっきり言っ
て、長い!扱っているテーマ(「切り裂きジャック」はちょっと置いておいて)
が宗教とか信仰に関するものでもありますから、文献がすごい量になります。
「切り裂きジャック」も加えるなら、歴史書も含めて、実に膨大な文献を使っ
ておられる。

それぞれの本の厚みは、参考に測ってみましたところ、いずれも約三センチ程
度はあります。文庫本で三センチの厚みがあるというのは、やっぱりページ数
がとてもたくさんある本になります。

そのような長くて厚い本をたて続けに読む私も、けっこうすごい!(笑)

興味のあるテーマだったり、その内容がおもしろいと思えば読みだしたやめら
れなくなるというのは、性分だからしょうがないといえばしょうがないですが、
はっきり言って、「旅涯ての地」とか「弥勒」にはむっちゃ疲れたなぁという感
じ。小説を読むというのは、まずは、娯楽であって、読んで楽しむものでしか
ないわけですが、本読んで疲れたなぁと思うのも、まあ、なんともすごい話だ。
とはいえ、本を読むという行為に疲れたわけではなくて、本の内容に疲れたわ
けですが。実際のところ、私はこれらの本をずっと毎日読んでいたわけではな
くて、これらの本を読む間にも別のジャンルの本を何冊も見たり、読んだりし
ているわけですから、本を読むという行為に疲れているわけじゃありません。
ただただ「内容の重さ」に疲れたなぁと思っているのかもしれないですが。

「弥勒」 篠田節子 講談社文庫 914円 662ページ
もともとはニューヨークあたりを中心にバリバリ働いていた新聞社社員が仏教
美術を日本に紹介しようという企画でヒマラヤの小国を尋ねる。一週間くらい
の予定だったはずだが。パスキムという国に潜入し、帰ることができなくなっ
てしまう。そこで彼が見、そして経験したこと、「宗教」とか「信仰」っ
て?!?!

「聖域」 篠田節子 講談社文庫 638円 418ページ
「現代」という「いま」の時の裏側にある、なんかすっごいおどろおどろしい
世界なのですが、本を読んで考えて、やっぱり答えを出すのはきわめて難しい。

「旅涯ての地」 (上・下) 坂東真砂子 571円(上下とも)
マルコ・ポーロと言えば「東方見聞録」。マルコ一族がヴェネチアに帰郷する
とき、倭人と宋人の血をひく奴隷を連れ帰った。名前は夏桂。夏桂が偶然手に
した「イコン」にはキリスト教をゆるがすほどの秘密が隠されていたのだが。
マグダラのマリアが書いたという「マリアによる福音書」の話が下の圧巻では
あるのですが。福音書には、「トマスによる福音書」をはじめ、ほんとはもっ
とたくさんの福音書が書かれたというのは本当のことらしいですが。夏桂自身
は生涯キリスト信者になることはなかったが、夏桂の目を通し、「信仰」って
いったい?!?!

「一八八八切り裂きジャック」、これはちょっと異色でおもしろいです。シャー
ロック・ホームズとワトソン氏を連想させるような主人公たちに興味があると
同時に、彼らが暮らした時代のロンドンの街がスケッチのように興味深いです。
「切り裂きジャック」は結局はいまだに犯人は特定できないようですが、日本
人ふたり組が「切り裂きジャック」を追うかなり異色のサスペンスという感じ。

「宗教」って何だろうね、「信仰」っていったい?ふとそんなことを思ってし
まう。私自身一応カトリックの信者であって、「宗教」とか「信仰」をめぐる
言葉に日常的にもそれほどの違和感を持つことはない。この世界は誰が何のた
めに作り、人はどうして生まれ、死んでいくのか。そして、死ぬとはどういう
ことなのか。死んだらどこにいくのか、どうなるのか。人の生き死にについて
永遠の問いであり、永遠に答えはないのかもしれない。

究極、なぜ「私はいまここにいるのか」という哲学的な問いは宗教のはじまり
でもあるし、信仰への道でもあるんだろうな。

けれど、答えがない。答えがないからこそ、そこに宗教という考えがあり、何
かを信じることで人は生き、そして死ぬことができるのかもしれないなぁと思
う。どの「考え」が正しいのか、どう思うことが正しいことなのか、あるいは
間違っているのか、それは本当に、誰にもわからないものなのかしれない。だ
からこそ、こう考えるのだ、こう考えることで幸せだと思うのだと、人の世に
は実にさまざまな宗教がある。それこそ鰯の頭の信心から、それはそれで正し
いと思うのだ。信仰の究極って生死観だろうなと思うから。(2002/04/18)



「誰がヴァイオリンを殺したか」

「誰がヴァイオリンを殺したか」
石井宏
新潮社 1500円

「誰がヴァイオリンを殺したか」タイトルはちょっとショッキング、もちろん
推理小説ではありませんが、ストラディヴァーリをめぐる「謎」解きは推理小
説のようにおもしろい。誰が殺したかと犯人を特定できるわけではなく、つま
るところは時の流れ、そして人の暮らしの変化が、ヴァイオリンという楽器が
奏でる音を変質させてきたのかもしれません。

私は「ヴァイオイリン」という楽器についてどれだけのことを知っているだろ
うか。ヴァイオリンはピアノのような楽器ほど一般的ではないし、ギターのよ
うに身近にあるものでもないですから、ほとんど何も知らないと言ってもよい
かもしれない。触ったことがないと思う。けれど、どんな形をしていて、どん
な風な感じの音を出すものかくらいのことは知っている。生のオーケストラの
舞台を見て、どこにヴァイオリンを弾く人たちが座り、誰がコンサートマスター
かはわかる。けれど、ヴァイオリンとビオラの区別をちゃんとつけることがで
きるかと言われると怪しいし、まあ、ヴァイオリンについては(というかヴァ
イオリンに限らずではありますが)かなりあやふやな知識しかないように思う。

この本を読み終えて、思わず手近にあった MIDORI の CD でパガニーニを聞い
てみた。私は何かやっている時は BGM は苦手だから、通常は音楽を聞きなが
ら何かするということはほとんどない。けれど、たまに何か音楽をと思うとき
はオーケストラかヴァイオリンを選ぶ。BGM として使うときはピアノ曲だけは
どうしてもだめだ。楽器の基本は「叩く」「吹く」「はじく」だと言われます
が、BGM に「叩く音」の連続というのはどうしても苦手だ。ヴァイオリンはこ
すり合わせて音を出すものだから、BGM に使うには私には比較的よいように思
う。

しかし、この本を読むと、現代のヴァイオリンの音は「死んで」いると。テク
ニックはきわめて高度だが、ヴァイオリンの音は貧しいと著者は言う。このあ
たりにことについては残念ながら私は、音について何か蘊蓄を語るほどのもの
は持ち合わせてはいない。

さて、ヴァイオリンというと、何も知らなくても、ストラディヴァーリという
名前くらいは誰でも聞いたことがあるかもしれない。有名なヴァイオリニスト
が何千万もの値段でストラディヴァーリを購入したなどという話をたまに聞く
こともある。ヴァイオリンは楽器のなかでとりわけデリケートなものといわれ、
なかでもストラディヴァーリは名器なかの名器と称される。ヴァイオリストで
あればこそ「名器の音にあやかりたくて」家を売り、財産を投げ売っても買い
たいと思うのはそれほど不思議な話でもないと思う。しかし、ストラディヴァー
リは 100% 期待に応えてくれると言い切れるのだろうか。

五千万ほどの値がついたストラディヴァーリを購入したあるヴァイオリニスト
は、さぞかしいい音がするだろうと思い、最初のうちはなるほどと思うことも
あったが、しばらくすると、以前から自分が知っている「私の音」がしている、
高価な値のついたストラディヴァーリであっても私の音は変わらなかった、こ
んなことを言っているそうだ。つまり「あらゆるヴァイオリンには固有の音は
ない。ヴァイオリンから聞こえてくる音というのは、すべてその弾き手の音だ。
別の人が弾けば別の音がでるのだ」と、これはクレモナでいまでもヴァイオリ
ンを作っている職人の言葉。ストラディヴァーリを使えば、誰でも絶対に素晴
らしい音に出会えるわけではなさそうだ。

ではなぜストラディヴァーリはそれほど高い値がつくのか?その値段は、演奏
する「楽器」としての価格ではなく、骨董品としての価格なのだ。現存するス
トラディヴァーリの数は限られている、どのような経過をたどったものなのか、
現在誰か所有しているのか、保存状態はどうなのかなどなど、ストラディヴァー
リの価格はそのような骨董的な価値で決まる。骨董のコレクターはあくまでコ
レクターであって、ストラディヴァーリを所有する人が演奏家であるとは限ら
ない。高い値がついているからと言って、演奏する楽器として最高であるとい
う保証があるわけではないということになる。そして、非常に悲しいことでも
あるが「もの」には寿命がある。その「ストラディヴァーリ」がいまも最善の
状態で演奏できるものであるかどうかは別の問題なのだ。

一般的にも、「高価なもの」とか「人がよいと言うもの」あるいは「ブランド
品」を持てば、今まで出来なかったことができるようになるかもしれないと勘
違いをするということはよくある話。けれど、どんなに高価な万年筆を持って
も、突然きれいな文字で素晴らしい文章が書けるわけでもないし、誰か有名な
人が使っていた原稿用紙を使っても突然小説が書けるようになるはずはない。
「もの」は究極は自分が使うようにしか使えないのである。それを使いこなす
努力と、使う感性があってこそものは生き、生かせるものでしかない。ヴァイ
オリンのような極めてデリケートなものについても、一般的なありふれたもの
についても、同じように通じる原理はあるのだろう。

恐らく絶対によい音といったものはないと言ってもいいのかもしれない。たと
え楽器が奏でる「音」であっても、その時代の人たちに受け入れられるかどう
か、そういう要素はとても大きいのかもしれない。「音」と「人の暮らし方」
には密接な関係があるはずだ。社会がかわり、人の暮らし方が変化すれば、当
然、求められるものは変わっていく。

そうなると「死んだ」のはヴァイオリンの奏でる音だけにはあらずということ
だろうと思う。それはピアノの音にしろ、その他の楽器や楽器以外のものにつ
いても「現代」という時代の要求を組み入れてどんどん変化しているのだろう
と考えざるを得ない。

単純に考えても、社会がいまよりももっと静かだった頃があった。テレビもな
くラジオもなく、さまざまなオーディオ機器もなかった時代の音楽と、「いま」
の暮らしを比べてみるだけでも「音」に対する反応は随分違うはずだ。

どんどん変化していくなかで人間は芸術に何を求め、何を描き創ろうとしてい
くのだろうか。「音」というのはとても感覚的なものだし、その場でしか出会
えない生の魅力に満ちたものだ。再現することがとても困難なものでもあるが、
一方では「再現」やコピー技術もまた飛躍的に進歩してるのだ。

いまほど「音」があたりに満ちている時代はかつてなかったのかもしれない。
騒音の時代でもある。「音」が満ちているのに、普段の生活のなかではなにげ
なく通りすぎてしまうものでもある。「死んでしまったものたち」を増やさな
いためにも、「私の好きな音」については、もっと敏感に反応してもよいのか
もしれないなぁと思う。2002/04/10



「シーズンチケット」

「シーズンチケット」
The Season Ticket
ジョナサン・タロック著
近藤隆文 訳
角川書店 1000円

なにげなく手に取って、買おうかどうしようかちょっと迷いましたけれど。お
もしろいと言えばおもしろい。でも何やらようわからんと言えばわからん内容
なのかもしれない。

たとえば、サッカー(フットボール)を題材にした小説にこんなのがあります。
サッカーの神様と呼ばれるペレの「ワールドカップ殺人事件」(創元推理文庫)
もちろん小説よりはドキュメントのほうがはるかに多いですが。
熱烈なアーセナルサポーターの記録「ぼくのプレミアライフ」(新潮文庫)
その他もろもろワールドカップ関連のドキュメントや記録に関する本は
ほんとうにたくさん手軽に手にいれることができます。

「サッカー」という言葉は、イギリス生まれ。イギリスのフットボール協会 
Association Football が縮まった言葉。ですからフットボールをサッカーと
呼んでいるのは、イギリスと日本くらいなものだそうです。

  #「サッカー」という競技の名称は、もともとはイギリス起源ではあるようで
  すが、いまや世界的に通じる言葉であって、サッカーと呼んでいるのはイギリ
  スと日本だけ、なんてのはちょっといい過ぎだったかも。
  サッカー情報が比較的少ないアメリカでもサッカーは Soccor でよいそうだ。
  日本代表ニュース 
  アメリカにもこんなページをはじめ「サッカー」関連はいろいろあるようです。
   Colin Jose's USA Soccer History Essays
  FIFA の結成は、1904年。最初はヨーロッパ7ヵ国で結成された連盟でしたが、
 いまはサッカーは世界のどこでも行われているスポーツになっている。


サッカーという競技は、足でボールを蹴って奪い合い相手チームのゴールにい
れて勝ちを競う、単にそれだけのゲーム。ボールさえあれば何もいらないと言っ
てもいいくらい。ボールがなけりゃセーターを丸めて蹴ってもできる。サッカー
はイングランド生まれと言われますが、ボールを奪い合って戦うというゲーム
の原型はどこでも行われていたものでしょうね。イタリアのどこかの町では泥
まみれになってボールを奪い合うものすごい祭があるようです。それこそ文字
通りの泥試合だ。サッカーやアメリカンフットボールやバスケットボール、そ
して格闘技も含めてその他さまざまな競技の原型が入り混じっているような不
思議な祭のドキュメントをテレビで見たことがありました。そんなこんなの何
やら人間の本能をくすぐるような遊びから出発して、イギリスでルールが確立
された競技ということになるのでしょう。

「シーズンチケット」というのは、サッカー観戦のための年間指定席チケット
のこと。このチケットを手にいれようと貧しい二人の少年がさまざまな知恵を
ふりしぼる。ニューキャッスルユナイテッドのシーズンチケットは500ポンド
はするそうだ。クズ拾いに子守、果ては盗みまでも。けれど、シーズンチケッ
トが買えるほどのお金がたまるはずはない。少年たちはかなり貧しい暮らしに
あるようだ。ジュリーの両親は離婚していて、母は病気がち。父は頼りになる
どころか、せっかくためたお金をまきあげてしまうし、きわめて無責任。スー
ウェルもにたりよったり。ふたりは学校にも行けず(行かずか)、ある日、ケー
スワーカーがやってきて、学校にいくように説得する。2週間でも学校にいく
なら、サッカーのチケットをあげようということになるが、彼らが応援するの
は、イングランド・プレミアリーグに属するNewcastle Unitedニューキャッス
ルユナイテッドなのに、ジュリーが貰ったのはサンダーランドのチケットだっ
たりする。

文句たらたらでサンダーランドのホームに出かけるが、球技場にいれば他の試
合の途中経過もわかる。その日、応援するニューキャッスルは負けていること
がわかるが、球技場にいるすごさに彼らはやっぱりシーズンチケットを手に入
れようという思いをさらに強くしていくのだ。

この本、2001年3月の発行。ジュリーとスーウェルというふたりの少年は日本
で言うと、高校生くらい。でもたばごは吸うし、どうも薬にも手を出している
らしい。学校には行かないし、盗みにまでやってしまう。この本、イングラン
ドの少年たちの現状がどこまで描かれているのだろうか。

イングランドといえばサッカー発祥の地とも言われ、当然サッカーが盛んな土
地。彼ら少年たちが熱狂するプレミアリーグというのはプロサッカーの最高の
リーグだ。少年たちの暮らしのなかに根づくサッカーへの情熱。これは並のも
のではないようだ。

Premiership Teams 20
England  の全体的なこと
 England Clubs

イングランドのリーグには4つのカテゴリーがあり、全部で92チームになる。
Premiership Teams 20
Division one 24
Division two 24
Division three 24
          合計  92 チーム
 

Newcastle United のホームグラウンドは、              
Newcastle United

Newcastle United
    "Magpies"
    Founded 1881
    St James' Park (Capacity: 51,600)
    Newcastle-upon-Tyne NE1 4ST

Newcastle United Official

ちょっと前ならイングランドのクラブチームと言ってもどんなチームがあるの
かさえ知らなかったけれど、現在ではイングランドのクラブチームに所属する
日本人選手がいるわけですからすごいことです。

さて、England のリーグに所属する日本選手を
soccernet の Who's Who で見てみると、
稲本選手の所属するアーセナルArsenal(ベンゲル監督)
稲本選手のプロフィール
 Junichi Inamoto

ボルトンBolton には西沢選手が在籍しました。プロフィールはまだ残っていました。
 Akinori Nishizawa

こういうページでなじみの日本選手の名前とその活躍ぶりを見ると驚きととも
にかなりうれしい気持になるし、プレミアリーグにも親しみがわいてきますか
ら不思議なものですね。しかしながら、外国人がプレミアリーグに所属し、さ
らにレギュラーの地位を獲得するというのは相当すごいレベルなのである。

ところで、2002日韓共催のワールドカップ間近の3/28 の夜中、日本とポーラ
ンドの試合が放送されました。前半日本が得点した後、試合は日本のペースに
なっていましたが、約20分を過ぎたとき、ポーランドのゴールキーバーに向かっ
て爆竹が投げられるというアクシデントがありました。爆竹はポーランドのゴー
ルネットのすぐ裏から投げられ、ポーランドのゴールキーバーはしばらくうつ
伏せに倒れていました。どうやら耳のすぐそばで爆竹が破裂したらしい。日本
に先に得点され、ふがいない試合には徹底的に抗議サポーターたち。見る側も
単にスポーツの観戦を超えてサポーター同志の戦いもまたすごいものがある。

セリエA の試合を見ていると、よく発煙筒が炊かれるので、競技場が白く煙っ
ていたりする。ある時は本当にサポーター席が火事になるとか、なんともすご
い場面を目にすることがある。ここまで熱くなれるのかと思うけれど、単にス
ポーツ観戦なのだと言ってしまえない何かがあって、彼らサポーターはほんと
に熱いのだ。

サッカーの試合は確かにおもしろい。サッカーほど現場に居合わせることのお
もしろさを感じるものもないかもしれません。

「シーズンチケット」に出て来る「少年」たち、生活や暮らしに関してはちょっ
と気がかりな面はあるのですが、「生きる」ことへの貪欲さとたくましさを感
じるのだ。サッカーというスポーツを通じ、さまざまな人間の多様な暮らしを
知ることは悪くない。((2002/03/29)

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