一般ローマ暦に基づく聖人カレンダー/8月

8月

  • 8月1日聖アルフォンソ(リゴリ)司教教会博士(記)
    1696〜1787
     レデンプトール会の創立者

     聖アルフォンソは、1696年、イタリア・ナポリ郊外のマリアネラに貴族の長男として生まれた。信仰あつい母に育てられ、一方では学業にも励み、17才で法学博士の学位を得、有望な弁護士となったが、貧者や病者を見舞っているうちに聖職者になる決心をして、父の反対を押し切り、神学の研究、苦行、祈りの生活に入った。  1726年31才で司祭に叙階され、ナポリで6年間司牧した後、スカラに女子贖罪主会を創立。また、男子贖罪主(レデンプトール)会の創立にも着手した。1749年教皇ベネディクト14世から正式に修道会としての許可を得た。その間に修徳、倫理、司牧神学に関する無数のパンフレット、50余の単行本を著した。7万以上の引用文と800以上の著作を著し、カトリック倫理神学の体系化を完成。教皇レオ13世から「倫理神学者のうち最優秀、最穏健なる者」と呼ばれた。1787年92才で亡くなった。1816年グレゴリオ16世により列聖され、ピオ9世は「司牧に熱心な博士」と形容し、教会博士の称号を与えた。その遺骸はパガニーのレデンプトール会聖堂にある。

  • 8月2日聖エウセビオ(ベルチュリ)司教
     286〜371

     同名の教皇、司祭、歴史家と区別するために、ベルチュリの聖エウセビオと呼ばれる。聖エウセビオは286年イタリア・サルジニア島で生まれた。父はディオクレチアヌス皇帝の迫害で殉教し、その後、母と共にローマに行き、教皇エウセビオから洗礼を受けた。洗礼名がエウセビオ(信心深い者の意)であり、名の通り敬虔な信者となり、司祭に叙階され、北イタリアのベルチュリの司教となり、アリオ派の異端と戦った。356年、ラヴェンナで司教会議が行われた際、教皇の使節としてこの会議に出席していたエウセビオ司教は、「ニケア信経に服従する気がないなら、公会議は無駄である」と会議を打ち切ったのでアリオ派の反感をかい、捉えられ、司教座を追われた。361年、ユリアノ皇帝が流刑中の司教、司祭を解放したので、エウセビオもベルチュリに戻った。流刑中に教理書などを書き著し、生涯教えの擁護のために戦った人であった。371年85才で死去。

  • 8月4日聖ヨハネ・マリア・ビアンネ司祭(記)
    1786〜1589

     聖ビアンネは、1786年南仏リヨン市の西北にあるダルディリオ村の農家に6人兄弟の次男として生まれた。両親は信仰深く、小さい時から信心深い子どもであった。5才の時にフランス革命に出会い、17才で司祭になる望みを持ったが、家の仕事や家畜番にいそがしく勉強をすることができなかった。ようやく29才で叙階し、1816年2月フランス南東部のエン県アルス村の主任司祭となった。約50世帯ほど230人の村人は皆カトリック信者であったが、村全体が享楽主義に陥っていた。ビアンネ神父は村人の回心を願い、司牧につくし、みよりのない少年少女のためには「摂理の家」を建て、日夜努力を重ねるうちに、日曜日のミサに出て来る信徒もしだいに増えていった。やがてビアンネ神父の聖徳のうわさは高くなり、1854年にはカプチン会のボナベントゥラ神父と共に「永久聖体礼拝の聖クララ修道会」という観想修道会を創立した。聖ビアンネは多くの人々の救霊のために働き1859年に亡くなった。

  • 8月5日聖マリア教会の献堂

     サンタ・マリア・マジョレ(聖マリア大聖堂)は、ローマの4大聖堂の一つである。413年のエフェソ公会議によって聖母マリアが神の御母であることが宣言され、聖母マリアはますます崇敬されるようになり、教皇シスト3世によってローマに聖マリア大聖堂が建てられた。サンタ・マリア・マジョレはローマの聖堂の中でも最も美しいので、「より大きな聖母聖堂」とも呼ばれている。

  • 8月6日主の変容

     主の変容の直接の目的は「十字架のつまずきに耐えられるように、弟子たちに心を準備することであった」(徐唱参照)「6日の後、イエスはペトロ、それにヤコブとその兄弟ヨハネだけを連れて、高い山に登られた。イエスの姿が彼らの目の前で変わり、顔は太陽のように輝き、服は光のように白くなった。見ると、モーセとエリヤが現れ、イエスと語りあっていた」(マタイ7:1−13)

  • 8月7日聖シスト2世教皇と同志殉教者、聖カエタノ司祭

     聖カエタノは1480年ヴィチェンツァに生まれた。幼い頃に父が亡くなり、2人の兄弟とともに敬虔な母に育てられた。少年時代に司祭への道を志し、24歳で法学博士となり、1516年36歳で叙階された。1518年、母が亡くなり、その後、病人の看護を目的とする信心の兄弟会を設立し、さらに貧しい人々への奉仕と救いを目的として司祭たちの修道会を創立した。1524年、聖カエタノの修道会は教皇クレメンス7世から認可を得、テアテノ修道会と名づけられた。1547年、ナポリ市に革命が起った時、心痛のあまり病を得て、1547年8月7日、67歳で亡くなった。

  • 8月8日聖ドミニコ司祭(記)
    1170年頃〜1221
     聖ドミニコ会の創立者 天文学者の保護者

     聖ドミニコは1170年スペイン北部のカステラ地方カレルガ村の貴族の家に生まれた。幼い頃から両親をみならって信仰あつい教育を受け、25歳で司祭となり、スペインのオスマ司教座大聖堂付参事会の一員となり、司教の顧問役として聖アウグスチヌスの戒律に基づき共同生活を行った。1200年頃から同志の司祭が集まってきたので、ドミニコは1215年、教皇イノセント3世に、説教、司牧、教育などをもって布教する修道会を願い出て、承認を得た。翌年、この会は「説教兄弟会」として公認され、創立から10年たたないうちに会員は増加し、全ヨーロッパに修道院を増設していった。

     1203年頃ドミニコはフランス南部地方がアルビ派の異端の毒牙にかかった時、聖母からロザリオの祈りを勧められ、その後、説教の時は必ずロザリオの祈りを信徒に勧めた。これがロザリオの起源と言われている。  ドミニコは厳しい苦行、修道会の指導管理、巡回などを熱心に行い、1221年51歳で亡くなった。聖ドミニコの遺骨はボローニャの聖ドミニコ聖堂に安置されている。

  • 8月10日聖ラウレンチオ助祭殉教者(祝)
    ?〜258年没
    聖ラウレンチオ助祭殉教者

     ローマ時代の殉教者。3世紀末、スベインのラウレ生まれ。サラゴサの学校を卒業後ローマの7助祭の首席にあげられ、教皇シスト2世らのミサに奉仕するとともに、教会の財産管理者であった。258年ローマ皇帝ワレリアヌスはキリスト教迫害令を発した。ローマ総督は教会の財産管理者であったラウレンチオに管理している財産を全部差し出すように命じた。ラウレンチオは3日の猶予をもらい、その間に財産を貧しい人々に配った。3日後、ラウレンチオが総督のもとに出向いた時、貧しい人々が彼のあとについて行った。「この人々こそ宝」ラウレンチオの言葉を理解できす、総督はラウレンチオを逮捕し、火刑に処し殉教した。  4世紀のコンスタンチヌス大帝の頃、遺骸が納められていたローマ城壁外のチブルチナ街道に面したカタコンブの上に小聖堂が建てられ、6世紀頃バジリカに改造された。聖ラウレンチオ大聖堂はローマの7大聖堂の1つとして現存している。?〜258年没。

  • 8月11日聖クララおとめ(記)
    1194〜1253
     聖クララ会の創立者

     クララは1914年、アシジの貴族スキフィ伯爵家に生まれた。敬虔な母親に信心深く育てられた。18歳の時、聖フランシスコと出会い、霊的指導を受け修道女になることを勧められ、1211年家出をして、ポルチェンクラ聖堂で誓願をたて、聖クララ会が生まれた。妹アグネスも家出をして姉のもとに行ったが、これを知った家族は非常に怒り、アグネスを連れもどそうとした。この時、クララは神のご加護を願い、アグネスも修道院に入った。やがてクララとその同志はベネディクト会の提供したサン・ダミアノ聖堂に移り住み、1215年、59歳で亡くなった。クララの遺骸はアシジのサンタ・チアラ聖堂に安置され、1255年、教皇アレキサンドル4世によって列聖された。

  • 8月13日聖ポンチアノ教皇 聖ヒッポリト司祭殉教者

     聖ポンチアノ教皇は230〜235年までの第18代目の教皇であり、ウルバノ1世の後継者である。

     聖ヒッポリト司祭は第16代の聖カリスト助祭の教皇選出(217年)を認めず、離教して別の共同体の長となった。ヒッポリト司祭は博学者として知られ、聖書に熟知し、西欧の聖書解釈学の創始者となった。235年マクシミノ皇帝の迫害で、ポンチアノ教皇とヒッポリト司祭は逮捕され、重労働を課せられた。2人はサルディニア島へ流され、鉱山で強制労働をしているうちに死去した。迫害後、ファビアノ教皇(236〜250年)によって2人の殉教者の遺骨はローマに移され、8月13日はその移転の記念日である。

  • 8月14日聖マキシミリアノ・マリア・コルベ司祭殉教者(記)

    聖母の騎士会創立者1894年ポーランド生まれ。1917年無原罪の聖母の騎士会を創立。1918年司祭叙階。1982年10月10日、教皇ヨハネ・パウロ二世によって列聖。昭和5年ポーランドから長崎に上陸し、以来昭和11年まで6年間、同地で働いた。その間に「聖母の騎士」を出し、同会の修道院や学校の基礎を開いた。第2次大戦中、コルベ神父の書いた記事の一部がナチス・ドイツ当局の非難を浴びて逮捕され、アウシェビッツ収容所で脱走兵の身代わりとなって殉教した。その処世訓は「すべてはマリア様のなさることです。私どもは目をつぶってマリア様のご希望にそえばいいのです。人に知られることや人にかれこれ評判されることは、私どもの目的ではありません。大切なのは霊的生命だけです。外部の仕事は内部の霊的生命のあふれでなければなりません」。 コルベ神父は「奇跡」と呼ばれる方。

  • 8月15日聖母の被昇天

     聖母は聖霊降臨後まもなく小アジア(今のトルコ)のエフェソに行き、十字架上におけるイエスの遺言通り、聖ヨハネの保護を受けて余生を過ごされた。聖母被昇天は聖母のご臨終が記念される。1950年の諸聖人の祝日にあたり、教皇ピオ12世は聖母被昇天を信仰箇条として次のように宣言した。「神の無原罪のおん母、終生処女マリアが地上の生活を終えて、霊魂と同時に身体をも天の光栄にあげられた」。

  • 8月16日聖ステファノ(ハンガリー)
    997〜1038
     ハンガリー王

     ハンガリーは10世紀の終わり頃にキリスト教国となったが、これは聖ステファノの働きによるものである。聖ステファノはフン族の出身であり、977年、フンガリア4代目の首長ゲィサ公の子供として生まれた。4歳で洗礼を受け、学問にも励んだ。997年、父ゲィサ公が亡くなり、ステファノは28歳で国王となった。新王の政策の一つに人々にカトリックを広めることも含まれていたが、この政策に反対した領主たちが反乱を起し、戦いとなったが、ステファノは敵の根拠地ベスプリツ市を占領し、その地にマルチノ修道院を建てたのをはじめとして、各地方に教会や修道院を建て、司教区を整備し、聖職者の生活を援助した。ステファノは国を治めるとともに、教会を助け、聖母のための教会を献げ、聖母の被昇天の祝日をハンガリーの国祭日と定めた。1038年死去。遺体はブタペストの聖堂内の聖エメリヒのかたわらに葬られた。死後45年目に列聖された。

  • 8月19日聖ヨハネ・ユード司祭
     1601〜1680
     愛徳の聖母の避難会の創立者

     ヨハネ・ユードは1601年、北フランスのノルマンディーの小さな村に生まれた。14歳で、カエン市のイエズス会経営の中学校に入学し、司祭になることを望み、聖フィリポ・ネリ(5月26日)の創立したオラトリオ会に入り、24歳で司祭に叙階された。1627年、ヨハネの故郷でペストが発生したとき、現地に赴き、熱心に働き、伝染病終結祈願の行列を行い、聖母に祈った。これ以後ヨハネはたびたび黙想会を開き、使徒的事業につくした。1680年、過労で倒れ、8月19日79歳で亡くなった。

  • 8月20日聖ベルナルド修道院長教会博士(記)
    1091〜1653

     聖ベルナルドは1091年フランスのディジョン市の近くにあるフィンティーヌ城に貴族の子として生まれた。21歳でシトー修道院に入る決心を定め、1112年、ベルナルドは知人30人と共にシトー会に入り、たえまない祈りと労働の生活に入った。1115年には4つの新しい修道院を建て、聖ベルナルドはその中の一つクレルヴォー修道院の院長に就任した。神の栄光と人々の救霊のために働いた聖ベルナルドは、多くの説教を行い、各地の教会に手紙を書き、またベルナルドが一生の間に設立した修道院は65にも及ぶという。1653年死去。1830年、ピオ8世によって教会博士(別名みつの流れるごとき博士)の称号をさずかった。

  • 8月21日聖ピオ10世教皇(記),br> 1835〜1914

     ピオ10世は1835年北イタリアのリエゼという小さな村でサルト家の長男として生まれた。洗礼名はベッピ(ヨゼフの愛称)と呼ばれ、幼い頃から信仰深い生活をおくり、学業にも励んだ。中学を終えて、パドアの神学校の特待生となり、トレビィゾ大神学校を経て、1858年23歳で司祭に叙階され、トンボロという小さな町の助任司祭となった。1867年サルサノの主任司祭となり、9年司牧後、トレヴィゾの神学校教授となった。1884年11月、マントヴァの司教に就任した。9年後にレオ13世により枢機卿に任ぜられ、ベネチアの総大主教となった。1903年7月レオ13世が逝去し、教皇選挙のためにローマ向かったが、教皇に選ばれ、ピオ10世と名乗った。  ピオ10世は20世紀初頭の混乱した社会をキリストにおいて立て直すために、経験豊かな実践的知力と強靭な意志を持って活躍した。在位11年目の1914年平和回復への努力にもかかわらず。第1次世界大戦が始まる中、ピオ10世は病を得て亡くなった。

     

  • 8月22日天の元后聖マリア(記)

     聖母の被昇天の8日目、天に上げられた聖母マリアの記念日。「天地を治められる神よ、あなたは聖母マリアを天の元后、私たちの母としてくださいました。聖母の取り次ぎに支えられて、天の国の栄光に共にあずかることができますように」。この祝日は1955年に定められたもので、もともとは聖母マリアの月である5月の最後に祝われていた。

  • 8月23日聖ローザ(リマ)おとめ
     1586〜

     聖ローザは1586年南米のペルー・リマに生まれた。当時ペルーはスペインの植民地であったので、多数のカトリック信者がいた。幼い頃から祈りや黙想につとめ、また、リマの町の貧しい人々のためによくつくしていた。母は結婚を勧めていたが、ローザは小さい時から決めていた自分の未知を進むことを強く望んだ。それは修道院の中ではなく、むしろ世間に留まって人びとの間で神につかえることであり、ローザはドミニコ会の第三会員となり、人々の尊敬を集めていたが、健康を損ね、8月24日バルトロマの祝日に亡くなった。その後、娘の修道院入りを反対していたローザの母は、70歳を越えてドミニコ会の修道女となり、サンタ・カタリナ修道院で余生を送った。

  • 8月24日聖バルトロマイ使徒(祝)
     12使徒5人目の弟子

     バルトロマイはトロマイの子供という意味で、使徒の本当の名前はナタナエルであるといわれる。フィリポの友人。聖霊降臨後、イラン、イラク、アルメニアなどの地で布教したといわれる。皮膚をはがされる拷問を受けた。日本最初のキリシタン大名である大村純忠は1563年に洗礼を受けたとき、使徒バルトロマイを守護の聖人に選んだ。

  • 8月25日聖ルイ 聖ヨセフ・カラサンス司祭
    1556〜1648
    エスコラピオス修道会の創立者

     ヨハネ・カラサンスは1556年スペインのアラゴンにあるペラルタ城に生まれた。1583年司祭に叙階され、1592年にはヨセフの聖徳と博学の名声をきいた枢機卿マルカントニオ・コロンナによってローマに招かれ、神学顧問官となった。1597年にはローマにヨーロッパではじめての無月謝の小学校を開設したが、この事業に共鳴する同志が集まり、人々の司牧と少年少女の宗教教育を目的とするエスコラピオス修道会を創立し、ヨセフは初代総長に任命された。52年間にわたり、青少年の教育につとめ、1648年8月25日に亡くなった。現在、遺体はローマのサン・パンタレオ聖堂に安置されている。聖ヨセフ・カラサンスは教皇クレメンス10世によって列聖された。 

  • 8月27日聖モニカ(記)
    332〜387

     大聖者と言われるアウグスチヌスの母。聖モニカは北アフリカのタガステに生まれた。パトリチウスという男と結婚し、夫の死後3人の子どもが残されたが、そのうちの一人が聖アウグスチヌスだった。アウグスチヌスは父の死後、信仰を捨て、マニ教に心を奪われたり、奔放な生活に走っていた。アウグスチヌスがローマ遊学を志した時、母モニカは彼がローマに行くと今よりももっと誘惑にさらされると考え、反対しようとした。しかし、アウグスチヌスはローマからミラノに向かった。母モニカは彼のあとを追ったが、アウグスチヌスはミラノで聖アンブロジオ司教(12月7日)と出会った。387年アウグスチヌスは回心の決意を固めた。信仰と祈りによって霊においてわが子を新しく生むという母モニカの存在なしにアウグスチヌスは出現しなかったと言われている。

     

  • 8月28日聖アウグスチヌス司教教会博士(記)
    354〜430

     アウグスチヌスは354年に北アフリカの小都市タガステに生まれた。父はパトリシオ、母はモニカ(8月27日)。母モニカは熱心なカトリック信者であったが、父は未信者であり、アウグスチヌスも洗礼を受けていなかった。母の影響で幼い頃はカトリックの信仰に近づいていたが、青年期には信仰を捨て、不道徳な生活におぼれていた。一方であらゆる宗教哲学も学び真理を求めようとしたが、19歳の時にマニ教の熱心な信者となった。20歳で大学を卒業した後、ローマからミラノに行き、ミラノで聖アンブロジオの説教を聞き、洗礼を受け、回心の恵みを得た。アウグスチヌスの著作は百以上の本、手紙、説教と膨大なものであり、「告白」「神の国」「三位一体について」など、説教や文筆でキリスト教の真理を説き、また異端とも戦った。430年、76歳で亡くなった。

  • 8月29日洗礼者 聖ヨハネの殉教

     洗者聖ヨハネの誕生について、ルカは「幼子は、イスラエルの民の前に現れるまで荒野に住んでいた」と記している。荒野の生活の後、公に現れたのは、紀元後26〜27年頃で、「回心しなさい。天の国は近づいた」と呼びかけた。  ヨハネの宣教がはじまって数カ月後、キリストはヨルダン川でヨハネから洗礼をお受けになった。ヨハネの死については、ヘロデの誕生日の席上、王女サロメの言葉からマルコ6:17−29に詳しい。ヨハネの首は初めにシリアのエメサにあったが、次いでコンスタンチノープルに保管され、1204年にフランスのアミアン市に移され、現在に至っている。
    参考:6月24日
    洗礼者ヨハネの誕生


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