9月
グレゴリオは540年ローマの裕福な貴族の家に生まれた。信仰あつい恵まれた家庭に育ち、勉学にも励んだ。30歳の時、東ローマ皇帝ユスチアノの信任を得て、ローマ市長となった。その頃に父が亡くなり、莫大な遺産を受け継いだが、すべてを施してシシリアに6つの修道院をたて、ついには自宅を改築してベネディクト会修道院とし、自らも修道者となった。579年ペラジオ2世教皇はグレゴリオの学識を高く買い、グレゴリオを教皇使節として東ローマ帝国のコンスタンチノープルに遣わした。6年後、ローマに戻り、修道院長となった。
590年ペラジオ2世が死去し、グレゴリオは教皇に選任された。異端説から教会を守ることに力をつくし、また典礼運動ことに教会音楽(グレゴリオ聖歌)を盛んにしたり、アウグスチヌスの神学をわかりやすく解説して信者の教養を高めるためにつくした。自らを神のしもべの中のしもべと称し、その謙遜な人柄が多くの人々から慕われた教皇であった。604年64歳で亡くなった。
歴史上、聖母マリアを祝った最初の祝日は、聖母の被昇天であったが、聖母の誕生を祝うのは、救い主イエスの出現の近いことを喜ぶものであり、東ヨーロッパの教会で聖マリアの誕生が祝われるようになり、全世界に広まった。
聖母マリアはユダ族であり、ダビデの子孫。マリアは日本語ではマリア、ヘブライ語ではミリアム、またはマリアンと発音され、モーセの姉妹の名前でもある。マリアにあたる言葉は「暁が高いところから我らを訪れ」、すなわち「高貴ですぐれた者」の意味であると言われる。
9月10日日本221福者殉教者(記)
9月10日は日本の205名の福者をはじめ日本のすべての殉教者の祝日と定められ、9月10日の205名の福者の日本の殉教者は日本の無数の殉教の先駆者としてあがめられている。205人の殉教者の祝日が決められたのは、1865年であるが、正式にわかっている殉教者の数は4000人以上といわれ、その他無数の殉教者、島原の乱の犠牲者、迫害による犠牲者を加えると、キリシタンの殉教者は約26万人と言われている。
すばらしい弁舌のために「クリズストモ」(金口)とよばれた人である。
397年コンスタンチノープルの総大主教が亡くなり、398年ヨハネはコンスタンチノープルの総大主教に任命された。しかし、当時のコンスタンチノープルは東ローマの中心であったが、ローマとの緊張が高まった時期であり、コンチタンチノープルの総大主教という立場はローマの司教と対立するものとなっていった。コンスタンチノープルの繁栄は、また同時に腐敗や背徳もつくり出し、ヨハネは自ら質素で禁欲的な暮らしを続け、このような堕落と戦い、皇帝をはじめ人々の不道徳をはばかることなく指摘したので、406年追放され、407年9月14日、53歳で亡くなった。
古代ギリシャのユダヤ人は十字架を凶悪犯の処刑の道具に用い、これを愚の骨頂、恥辱のしるしとみなしていたが、主キリストは十字架上で罪をあがなうために死去されたことから、十字架の意味を高められた。十字架への称賛は、十字架上の死に至るまでへりくだられた主イエスへの称賛である。
「十字架は悪魔を追い払い、青年を教育し、弱い者を助け、戦う者に勇気を与える。十字架は殉教者と苦行者の力であり、修道者と貞潔を守る者の支えである。かつて、ヘラクリオ皇帝に担われて公式に顕揚された十字架は、公審判の日に、イエスの旗じるしとして空に現れ、全世界の人びとの面前に無上の顕揚を受けるであろう」(聖クリゾストモ)
14日の十字架称賛に引き続き、十字架とともにあるマリアの悲しみが記念される日。十字架のもとに立って「マリアはおん子と共に深く悲しみ、おん子の奉献に母の心をもって、みずからを結び合わせ、自分からお生まれになったいけにえの奉献に心をこめて用意された」(教会憲章58)
「聖なる父よ、聖母マリアは十字架のもとに立ち、おん子イエスと苦しみを共にしました。教会が共におん子の苦しみに結ばれて、その復活にもあずかることができますように」
9月15日悲しみの聖母
悲しみの聖母の日には、十字架と深いかかわりをもつマリアの悲しみ、「マリアの心に伝わった主の受難のこだま」が記念される。「マリアはおん子と共に深く悲しみ、おん子の奉献に母の心をもって、みずからを結び合わせ、自分からお生まれになったいけにえの奉献に心をこめて同意された」(教会憲章58)
15世紀にドイツのケルンではじめてこの祝日が行われ、広まった。ピオ7世は、自分がナポレオンによって追放され、その後、逮捕された時、最後に聖母マリアの取次ぎによって解放されたことを記念するため、1817年に全教会に普及させた。
聖コルネリオ教皇?〜253 家畜の保護者
聖チプリアノ司教殉教者
聖ベラルミノは16性器の宗教改革運動の最中にイエズス会士として、カトリック教会を守り、立て直しをした聖人である。ロベルトは1542年にイタリア・フィレンツェのモンチプルチアノ市の貴族の家に生まれた。イエズス会の学校で学び、1560年、18才でイエズス会に入会し、1570年28才で司祭に叙階された。
1576年グレゴリオ13世教皇はベラルミノをローマに招き、ローマ市の大学の護教神学の教授に任命した。その間に当時の異説のあやまりを指摘し、また、「現代の異説に対するキリスト教の反論書」を著した。
1588年からは、イエズス会のローマ学院の指導司祭となり、聖アロイジオ(6月21日)を指導した。その後、ナポリのイエズス会修道院の管区長に選任され、1599年には枢機卿に就任。教皇の候補者にもおされていたが、辞退している。1621年、イエズス会の修道院で亡くなった。1923年に列福し、その7年後に列聖された。
ヤヌアリオは3世紀頃にイタリアに生まれ、ベネベントの司教に選ばれた。当時のローマ帝国の皇帝ディオクレティアヌス(284〜304)によるキリスト教徒の迫害がはじまった時、ヤヌアリオは助祭ソシウスと力を合わせて信者を励まし導いたが、305年、他の信者たちと共に逮捕され、裁判にかけられ、コルセオで猛獣による死刑の判決を受けた。アヌアリオ司教の遺体はポッツオリの近くのアルキアノに葬られた。
12使徒の1人。ヘブライ語でレビ、ギリシャ語でマタイとよばれる。アルファイの子。
聖コスマ、聖ダミアノは双子の兄弟の殉教者である。兄弟はアラビアの熱心なカトリク信者の家に生まれた。コスマとダミアノはシリアで医学を学び、2人は協同して郷里に医院を開業した。2人は病苦に苦しむ人を救い、貧しい人を無料で診療し、霊的ないやしの必要な人には信仰の糧を与え、しだいに名医としての評判が高まっていった。
当時、キリスト教はまだ合法的宗教ではなく、ディオクレチアヌス帝の迫害の嵐が吹いていた。名医と評判の高かったコスマとダミアノの兄弟の上にも迫害の手がのび、2人は逮捕され、斬首され、殉教した。コスマ兄弟の遺体はシリアのシールスに埋葬され、5世紀には同市の司教テオドレスはコスマ兄弟をキリスト教のために戦った英雄とたたえた。コスマ兄弟は現在、医師、薬剤師および医術の保護の聖人と仰がれている。
ビンセンチオは1581年、フランス西南部のランキンヌに6人兄弟の3番目の子として生まれた。12歳で、コルドリエ会修道院で学び、1600年19歳で司祭に叙階され、31歳でクリシーの主任司祭となった。その後、シャチョンの町で、貧しい病人のための家庭訪問をよびかけ、多くの婦人たちが集ったが、これが愛徳姉妹会の前身となった。1629年、愛徳同志会をさらに充実したものにし、病人の看護と貧しい人々への救済に力をつくした。また、1625年には、ド・ゴンディ夫妻とパリ大司教の要請によって「宣教会」という修道会を創立した。1632年この会はウルバノ8世によって認可され、「ラザリスト会」とよばれるようになった。これが1833年オザナムの創立した「ビンセンチオ・ア・パウロ会」の先駆になったのである。
生涯を通じ誠実な行いをもって隣人のために生きたビンセンチオは多くの偉業を残して1660年79歳で亡くなった。1737年クレメント12世によって聖人とされ、全世界の慈善事業団体の保護者となった。
ボヘミア地方(今のチェコ)には、9世紀頃にカトリックが伝えられたが、カトリックが栄えたのは、885年にボヘミア王ボルウォイとその皇后ルドミラた受洗して以来のことである。ことに国王の孫にあたるベンセスラオによって全国的にひろまった。
ベンセスラオはボヘミアの宮殿に生まれたが、家庭環境にはあまり恵まれていなかった。祖母によって信仰厚く育てられた。ベンセスラオは国王に就任すると、ドイツから多くの宣教師を招き、カトリックを広め、人心の刷新をはかった。神を敬い、民をいつくしみ、教会を保護し、善政をつくしたが、異教に心を寄せる母と弟はこれをにがにがしく思い、ベンセスラオの命を狙い、936年暴漢に教われ殉教した。
聖ミカエル 日本の保護者、放射線学者、騎士、乾物屋の保護者
カトリック信者は325年のニケア公会議の決議に基づきミサのクレドの中で、「われは信ず、唯一の神、全能の父、天と地、見ゆるものと見えざるもの、すべての創り主を」と信仰を宣言した。
大天使ミカエルはユダヤ人の保護者でもあるが、日本の保護者でもある。1949年8月15日、ザビエルが鹿児島に上陸し、布教の許可を得たのは9月29日の大天使ミカエルの祝日であるので、日本の保護者と定められた。
グレゴリオ聖歌の創始者、歌手、教師、市長の保護者
参考:7月26日聖マリアの両親聖ヨアキム聖アンナ
日本の殉教者の記念日
9月9日日本205福者殉教者 福者セバスチアノ木村神父とその友
9月10日福者アントニオ石田神父とその友
9月11日福者ディエゴ神父とその友
9月12日福者アンジェリス神父とその友
354〜407
演説家の保護者
ヨハネは、354年、シリアの首都アンテオキアの貴族の家に生まれた。幼い頃に父が亡くなり、母アントウーサによって育てられた。ヨハネは20歳で受洗し、以後聖書の研究に力を注いだ。母の死後、荒野で修行し、アンチオキアにもどって助祭となり、386年には司祭に叙階された。ヨハネは彼の雄弁家としての才能をすべて司牧のために献げ、各地で説教を行った。
聖コルネリオ教皇は、251年4月に教皇に選ばれた。当時、一時でも教えを捨てた者は、死ぬまであるいは迫害が終るまで罪のゆるしは与えるべきではないというノバチアヌス派の説があったが、コルネリオ教皇は背教者が罪のつぐないをすれば赦しが与えられると認めた。253年に死去。聖コルネリオの名前はラテン語のCORNU角から出たものの意味であり、角のある家畜の保護者とされている。
聖チプリアノは250年にカルタゴの司教となった。コルネリオ教皇と親交があった。チプリアノはノヴァチアヌスの説の間違いを指摘した「カトリック教会の唯一性について」を著した。253年にチビタベッキアに流されていたが、258年当時迫害の嵐が吹き荒れていたカルタゴに戻り、殉教した。
1542〜1621
銀行員、税吏の保護者
徴税人であった。イエス・キリストは、カファルナウムという町を公生活の活動の中心においたが、この町はまたマタイの故郷でもある。「私にしたがいなさい」イエスのこの言葉にマタイは一瞬の躊躇もなく、すべてを捨てて即座にキリストに従った。マタイは当時のユダヤ社会で使われていたアラマイ語で福音書を書き記した。福音書を著したあと、ユダヤを去って、エチオピア、ペルシャ、マケドニア地方で布教につくしたと言われている。
1581〜1660
聖ビンセンチオの布教宣教会と愛徳姉妹会の創立者 福祉団体の保護者
〜936
聖ガブリエル 郵便配達の保護者
聖ラフェアル 眼科医の保護者
(1)神の徳を映し出す役割によって
天のおん父の全知、全能を映すトロロノ(座天使)
おん子の無限の美と英知を映すケルビム(知天使)
聖霊の無限の愛と上知を映すセラフィム(熾天使)がある。
(2)能力からは
主天使、力天使、能天使、権天使、大天使、天使に分類される。
ガブリエルは神の力、ラファエルは神の薬、ミカエルは誰が神のような者か、の意である。