7月
ガリレヤの生まれで、ゲネサレト湖畔の漁師であった。トマはあだ名を「デドモ」(双子)と呼ばれていた。キリストご復活の後、他の弟子たちからキリストの復活を聞いても、受け入れず、キリストを自分の目で見、その傷あとに自分の指を差し入れて見るまでは信じないと言いはった。しかしご復活の8日目、「信じる者になるように」というキリストの言葉によって、復活の証人となった。
「私たちにとってトマの不信仰は、他の使徒の信仰より役に立ちました。なぜなら、手をふれて信じたことによって、私たちの心はあらゆる疑いから解放されて、信仰に強められるからです」(聖グレゴリオ1世)
聖エリザベトは1271年、スペインのアラゴニア王ペトロ3世の王女として生まれた。父はハンガリアの聖エリザベトのおいにあたる。16才でポルトガル国王の皇后となり、信仰深い生活を持ち、家族の平和のため、国民の平和のために働いた。また、おばの聖エリザベト(ハンガリー)にならって、フランシスコ第三会員に入り、貧しい人々のためにつくした。
1325年、国王が亡くなると、54才になっていたエリザベトはコインブラの聖クララ修道院付属の小屋のこもり、祈りと黙想の生活に入った。1336年に実子のポルトガル王がカステリア王と不和となり、エリザベトは平和的解決に奔走し、心身ともに疲れはてたのか65才の時に病を得てなくなった。
聖アントニオ・ザカリアは1503年イタリアの貴族の家に生まれた。アントニオが生まれてすぐ父がなくなり、信心深い若い母親によって育てられた。アントニオはクレモナで基礎教育を受けた後、パヴィアで哲学を、パドアで医学を学んだ。1528年25才で司祭に叙階され、その後人々の救いのために働いた。
当時マルチン・ルッターの宗教改革の波がイタリアにも及んで、教会から離れる者が多く、アントニオは日夜心をくだいていた。1530年、ルイザ・トレリに招かれ、霊的指導を行った時、2人の青年がアントニオを訪ねて、共同生活を願い、これがバルナバ修道会のはじまりとなった。会員が8名になった時、教皇クレメンス7世から共同体の活動を公認され、のち、教皇パウロ3世によってバルナバ修道会の会憲を認可された。1539年7月5日、クレモナの実家で亡くなった。1897年5月27日、レオ13世によって列聖された。
聖マリア・ゴレッティは、1890年、6人兄弟の3番目の子供としてイタリア中部のコリナルドの村に生まれた。10歳の頃に父が亡くなり、信心深い母の手本と導きのもとで育った。自らの意志で初聖体の準備をはじめ、1901年に初聖体を受けた。父の死後、マリアは母を助けて働いていた。同じ家の半分に住んでいたセレネリの家族にはアレッサンドロという息子がいたが、表面はまじめな少年に見えたが、親のしつけに従わず、すさんだ心を持った若者であった。アレッサンドロは再三に渡ってマリアを誘惑し、マリアは必死でこれを避けたが、1902年5月ついに欲情にくるったアレッサンドロによって、マリアは14カ所を短刀でさされ、その傷がもとで亡くなった。アレッサンドロは30年の禁固刑に服し、1929年7月のサヴァイ公王女ピアのご誕生恩赦で出獄した。聖マリア・ゴレッテオは1950年に列聖された。
聖ベネディクトは480年、イタリア中部ウムブリアのヌルシア(今のノルチア)で生まれた。ベネディクトは若い頃からローマに学び、文法と修辞学と哲学と法律を学んだ。その後、荒れ地での修行を志し、ローマを去り、スビアコの修道院に行き、ロマヌスと出会い、修道生活の手引きを受けた。ベネディクトはスピコアの洞窟でほぼ3年の隠修生活をしていたが、神からの啓示を受けたある司祭によって発見され、べネディクトは聖人だという評判が高まり、訪れる人も多くなった。あまりにも有名になってしまったので、ベネディクトは隠修生活が不可能となり、また、彼を慕って多くの青年がやってきたので、ベネディクトは教理を教え、修道生活の手引きをし、スビコアの洞窟のまわりに12の小屋をたて、共同生活の規則をつくった。
529年、50歳になってベネディクトはモンテ・カッシノに行き、異教徒を改宗させて、この地に2つの教会をたてた。その1つがモンテ・カッシノ修道院の起源となった。修道者の数が増えるにつれて、彼らの生活に秩序を与え、修道生活の規則を書いた。これは長く修道生活の法典とされ、現在もその価値は失われていない。
ベネディクトは学者ではなかったが、聖霊に満たされた人であった。ベネディクトの修道会規則は主として沈黙、孤独、祈り、謙遜そして服従の上に作られており、とくに、謙遜についての12の段階は、聖トマス・アクィナスによって推奨されている。547年ベネディクトは急激な熱病で倒れ、亡くなった。
ベネディクトの修道会はいくつかの独立した集団に分割され、シトー会はその1つである。聖ベネディクトの戒律に従って創立された会(日本では)、聖ベネディクト男子修道会、聖ベネディクト女子修道会、厳律シトー会(トラピスト)、女子厳律シトー会(トラピスチン)、十字架のイエズス修道女会、善きサマリア人修道会、聖ベルナルド女子修道会がある。
ハインリヒは972年、南ドイツのレーゲンスブルグで生まれた。父はバイエルン公ハインリヒであったが、ドイツ皇帝に大使反逆したため祖国を追放されたので、ハインリヒも6才の時からあちこちを放浪した。13才の時、レーゲンスブルグに戻り、聖ウォルフガングから学んだ。995年、23才の時、父のハインリヒが亡くなり、後を継いでハイエルン公となり、いとこにあたるドイツ皇帝オットー三世に忠誠をつくした。
修道者によって社会を導き、国民生活を刷新していこうという当時の習慣に従い、ハインリヒは修道生活の刷新に着手し、教会の改革にも力をつくした。1023年頃から病を得て、1024年7月、52才でグロナウ城で亡くなった。その遺体は遺言によってバンベルグ市の聖堂に妻聖クネグンディスと共に葬られている。
聖カミロはよい臨終の神父といわれ、福音の精神を汲み取って病人の精神的・肉体的奉仕を目的とする修道会を創立した。
聖カミロは1550年、中部イタリアのブッアンスで生まれた。父は軍隊の将校であったが、酒とカルタにおぼれる暮らしをしていた。カミロは粗暴な父の性格を受け継いで、博打三昧の生活をおくり、18才でベネチアの軍隊に入隊した。カミロは1569〜1574年まで、トルコとの戦闘に参加したが、博打癖のために兵士として不的確であると判定され解雇された。軍隊を解雇されたカミロは行き場がなく、博打を続け、ついになくすものは何もない状態となり、マンフレドニアにあるカプチン会の修道院に連れていかれ、そこで働くことになった。1575年にカプチン会に入会を願い出たが、そのうち、青年の頃に受けた足の傷が悪化し、ローマのヤコボ病院に入信し、そこで、オラトリオ会の創立者フィリポ・ネリ(5月26日の聖人)に出会い、生きる意義を深く学ぶことになった。カミロは病気回復後の病院に留まることになった。
1584年34才で司祭となり、2人の同志を得て、カミロ修道会の基礎をつくった。1588年にはナポリに支部ができた。1607年57才の時、修道会の会長の職を辞し、余生を「謙遜の修道士」として病者や囚人の世話にささげた。1614年北イタリアへの視察旅行の途中に倒れ、亡くなった。
聖カミロは聖フィリポ・ネリと共にローマの保護の聖人であり、1886年には教皇レオ13世によって「病者および病院の保護者」にあげられ、1930年にはピオ11世によって「看護人の保護の聖人」とされた。
聖ボナベントゥラは1221年中部イタリアで生まれた。洗礼名はヨハネだったが、大病にかかった時、両親がアシジの聖フランシスコのもとに連れていき、取次ぎを願い、全快したら修道会に献げるという願をたて、聖フランシスコに祝福を受けるとたちまち全快したので、フランシスコが「おお、ボナベントゥラ!(運がよかった)」と叫んだことから、ヨハネはボナベントゥラと呼ばれるようになったという逸話がある。
ボナベントゥラは信仰あつい母に育てられ、17才でフランシスコ会に入会した。神学研究のためにパリ大学に留学し、24才の時に叙階した。ボナベントゥラは神学の研究と祈りと黙想のなかで、数多くの本を著し、アシジの聖フランシスコの伝記も書いている。1273年53才で教皇グレゴリオ10世からアルバノ司教兼枢機卿に任命された。翌1274年、リヨン公会議の司会をつとめ、カトリック教会とギリシャ教会の合同運動につとめた。1274年7月に亡くなった。ボナベントゥラは学問に深く、高い地位にもついていたが、信仰深く、非常に謙遜な人であった。
カルメル山はイスラエルの北西にあり、地中海に面した山である。預言者エリアやその弟子エリゼオも好んでこの山上を祈りの場としていたと伝えられている。カルメル山の隠者の谷と言われるところには570年頃に修道院がたてられ、今もその遺跡が残っている。1155年にカラフツアの聖ベルトルドゥスは、旧修道院跡に修道院を新設し、その後後継者聖ブロカルドウスはエルサレムの主教アルベルトにカルメル修道会の会則認可を申請し、1209年に認可され、1226年に承認された。カルメル会の修道者たちは、観想者である聖母の保護のもとに聖母をたたえていたので、カルメル会は「カルメル山の至福のおとめマリアの兄弟会」とも呼ばれる。
カルメル会は13世紀頃からヨーロッパで発展したので、この恵みに感謝するため、カルメルの聖母の祝日を祝う許可をローマに申請し、7月16日の記念日となった。
ラウレンチオは本名をジェリオ・チェザレ・ルッソ(またはロッソ)と言い、1559年7月22日、イタリア南部の港町、ブリンティジに生まれた。16才でベロナのカプチン会修道院に入り、勉学に励み、のち、パドアで哲学と神学を学び、司祭となった。ラウレンチオは16世紀宗教改革の時代にヨーロッパをめぐって説教し、カトリック教会のたて直しにつとめた。アシジの聖フランシスコの真の弟子にふさわしく質素で敬虔な生活をおくり、多くの著作を著した。その博識、聖性、司牧への熱心さなどによって、第2のペトロ(カニジオ・12月21日参照)と並び称せられている。1619年7月22日、リスボンで亡くなった。
マグダラのマリアはエルサレムの東、ベタニアの町の裕福な家に生まれた。マリアは7つの悪霊につかれた罪深い女という悪評を得ていたが、キリストの言葉を聞き、心からの回心をし、キリストを信頼し従い、カルワリオの道を歩いた。十字架のもとでは聖母マリア、聖ヨハネとともに、キリストの苦しみと辱に共に与った。ご死去後、日曜日の朝早く、まだ暗いうちに、イエスの死体を埋葬し直そうとしたマリアが急いで墓に来た時、大きな石が取り除かれ、遺体が無くなっているのを発見した。マグダラのマリアは復活したイエスに出会った最初の人であった。キリスト昇天後、使徒たちの宣教を助け、兄ラザロとともに、南フランスに行き、そこで死を迎えたと伝えられている。
聖ビルジッタは1303年スウェーデンのウプサラ近郊フィスタンドに生まれた。両親はスウェーデン王室の血統で信仰深い母に敬虔に育てられたが、幼くして母をなくし、おばの家で育った。14才の時、ビルジッタは父の勧めに従い、ウルフという貴族と結婚した。2人はまもなくフランシスコ第3会に入会し、祈りや黙想、そして奉仕に励んだ。1335年スウェーデン国王はビルジッタを宮中の女官に任命し、ビルジッタは宮中の暮らしに大きな感化を与えたが、結果的には王室の贅沢をいましめることになり、聞き入れられなかった。宮中を辞し、夫と共にスペインに巡礼した。夫はシトー会に入会し、そこで亡くなった。その後ビルジッタは宮中に戻ったが、やがてヴァドステナに修道会を創立した。1372年、パレスチナ巡礼の翌年に病死した。遺体はクララ会の聖堂に埋葬され、1年後にスウェーデンのヴァドステナ修道院に安置された。
ガリレヤ湖畔のベトサイダの漁師の子として生まれ、福音記者聖ヨハネの兄であり、もう一人のヤコブと区別するため大ヤコブと呼ばれる。ヤコブの兄弟は熱情家であったらしくイエスから「雷の子」と呼ばれていた。聖霊降臨後、スペインにまで宣教し、ヤコブは7年間スペインに滞在しキリスト教会を築いたと伝えられ、その遺体がスペインで発見されたことからもヤコブはスペインの使徒と言われ、スペイン国民から尊敬されている。
ヨアキムはダビデの子孫であり、その妻アンアはユダヤのベトレヘムの生まれ、父はダビデの子孫マタン、母は司祭マアロンの直系のマリアである。2人には長い間子供がなかったが、祈り続けるうちにアンナは身ごもり、その子はのちに神の母となる無原罪の聖マリアであった。
7月29日聖マルタ(記)
イエスがエルサレムに近いベタニアに来られた時、マルタという娘に招待され、その家にくつろがれた様子が記されている(ルカ10:38〜42)。マルタは両親を失ったあと、兄のラザロ、妹のマリアのともに裕福な暮らしをしていたと言われる。妹マリアは美しさのゆえに道を迷い、マルタは妹のためにたえず祈った。マルタは火事万端を切り回し、働き者であり、また信仰も深かった。マルタは人を喜ばせるために、特にイエスを喜ばせるために、まめまめしく働いたが、その働きには祈りと黙想の精神が常に伴っていかなければならないという真理を示した。ラザロの兄弟、マルタの家庭は、イエスから大きな信頼を得ていたが、マルタもマリアも終生イエスに従い、苦しみを分かち合った。マルタは、ヘロデ・アグリッパの迫害の時に、捕えられてフランスに流されたと言われるが、歴史的には不明である。
聖ペトロクリソロゴは406年、イタリアのイモラという小さな町に生まれた。この地の司教コルネイオから洗礼を受け、青年時代に聖職者となり、助祭になった。27才でシスト3世からラベェンナの司教に任命された。当時のラヴェンナ市はアリオ派の異説に惑わされており、ペトロは説教をもって教区の改革と福祉につくした。このペトロの説教は、のちのラヴェンナ司教フェリクスによって編集され、176編が残っている。43才頃に体力の消耗を感じたペトロは司教座を退き、故郷のイモラに戻り、451年に亡くなった。遺体は聖カシアノの墓のそばに埋葬されたが、片腕はラヴェンナに送られ、同市の聖堂に保管されている。
1503〜1539
バルナバ会の創立者
1890〜1902
480〜547
ベネディクト会の創立者
972〜1024
1550〜1614
カミロ会の創立者 病院、病人の保護者
1221〜1274
1559〜1619
1303〜1373
参考:8月15日聖母の被昇天
参考:9月8日聖マリアの誕生
参考:12月8日無原罪のマリア
料理人・お手伝いの保護者
406〜451