11月
すべての聖人を記念し祝う日。この祭日の歴史は、ローマにはキリスト降誕前から、あらゆる神をまつるパンテオンがあり、ローマ人たちはあらゆる神々をパンテオンに祭っていた。4世紀にキリスト教がローマ帝国の国教になると、パンテオンは聖堂に改築され、かつてローマ人のまつった神々の像のあったところに、諸聖人の聖像が安置され、また、聖人や殉教者なども遺骨も地下墓地カタコンブからうつされた。教皇グレゴリオ4世は、この聖堂をすべての聖人に献げることにし、11月1日を諸聖人の祭日と定めた。
教会は「聖徒の交わり」を深めるために、諸聖人の祝日の翌日に死者の霊を記念する。この世にある者は誘惑と戦いつつ、主の恵みをいただき、日々祈るが、煉獄にある者は、やがて天に入れられる日をまち望みつつ精練の苦痛に耐える。「煉獄の苦痛は、この世において人が耐え忍ぶことのできるすべての責め苦、否、想像することのできるすべての責め苦よりもまだまだ堪え難いものである」聖セザリオ 第2バチカン公会議は死者の記念について「旅する人びとの教会は、イエス・キリストの神秘全体のこの交わりをよく認識し、キリスト教の初期の時代から死者の記念を深い敬愛の心をもって尊び、『罪から解かれるよう死者のために祈ることは、聖であり、健全な考えであるから』マカバイ後12:46死者のために祈願をささげてきた」(教会憲章50)
マルチノポレスはスペインの貴族とアフリカ系の女性の間に生まれた。出生当時から父は息子として認めず、洗礼証明書には「父不祥」と記録された。15歳になった時、リマのドミニコ会修道院に志願し、準会員として入会を認められた。その後、彼の働きを目の前にして、会の長老たちは彼の誓願を認め、正式に入会した。人種や階級の差別がことさら強い時代であったが、マルチノはとくに黒人や先住民の援護に献身し、貧しい者、虐げられた者、恵まれない者、人種や階級や民族性のために差別の対象となているものにキリストの光を照らし、希望と勇気を与える存在となった。
聖カロロは1538年、イタリア・ミラノ近郊のマジョーレ湖畔にあったボロメオ家のアローナ城に生まれた。両親は貴族で母方の叔父はピオ4世教皇である。ミラノでラテン語と人文学を学び15歳の時パドィアの大学に入り、法学博士となった。
1560年教皇ピオ4世からローマに招かれ、22歳で助祭枢機卿となった。トリエント公会議の準備に献身的に働き、公会議後はその決議を実践しようと種々の改革を行ったが、その成果は、第2バチカン公会議の直前まで続いた。1569年、ミラノ大司教となり、ここでも必要な改革を行った。1576年頃からミラノ市ではペストが流行し、カロロはペスト患者の救済に尽くした。カロロは教会や修道院の矛盾を改革することに務めたが、それを快く思わないものもあり、そのために暗殺にも出会った。1584年11月2日、カロロは厳しい生活や膨大な仕事に力つきて、46年の生涯を閉じた。
ラテラン大聖堂は320年頃に、カトリックをローマ帝国の宗教と定めたコンスタンチヌス帝によって建てられた。ラテラン大聖堂はローマ司教である教皇の司教座聖堂であり、諸聖堂の母および「かしら」と呼ばれ、大きな祝日にはたびたび教皇ミサや教皇による祭儀が行われ、ラテラン公会議も開催され、現在でも聖木曜日には教皇の共同ミサが行われる。
レオ教皇はローマに生まれた。シクスト3世教皇のあとを受けて、440年教皇位についた。ちょうどこの頃、コンスタンチノープルの司教ネストリウスによって、キリストは神ではないという説が唱えられ、これは431年のエフェソ公会議で異端とされ、「キリストは真の神であると同時に真の人の子である」との教理が確認された。その後、エウチケスという修道士によって「単性説」が唱えられたが、451年カルケドン公会議においてレオ教皇は議場で信仰宣言集を読み、他の司教たちを感動させた。レオ教皇は在位21年の間、たえず行動的に教皇の首位権を宣揚し、数多くの説教集を出し、自ら率先して人々の聖化をはかった。461年死去。
聖マルチノは317年ハンガリーのマルチンスベルグの山の麓に生まれた。父はローマ軍の司令官であったので、マルチノは15歳でローマ騎兵隊に入隊させられた。しかしマルチノは軍務の傍ら教理研究を続けた。18歳で退役を決心し、受洗し、その後、ローマに巡礼を行い、そこで聖ヒラリオと出会った。当時の教会はアリウス派の異端との戦いに苦しみをなめていた。正統派のリーダーであった聖ヒラリオは東方に難を避けていたが、聖マルチノはミラノで修道院の創設に力をつくした。360年に聖マルチノは聖ヒラリオと再会し、まもなくマルチノは聖ヒラリオによって司祭に叙階され、371年にはツールの司教となった。マルチノはいつも黒い修道服を身につけ、祈りと黙想そして住民の教化に力をつくした。マルチノはリアール河畔マルムチェに修道院をたてたが、これが大修道院の始まりといわれ、後年、聖ベネディクトが手本としたものである。
マルチノは司教としての仕事と大修道院院長としての務めのほかに、宣教者としても驚くべき働きをしている。「内は修道者で外は使徒」これは聖マルチノの生涯をあらわしたことばである。
ヨサファトは1580年にウクライナのヴォデミルでギリシャ正教徒の貴族ロサ家に生まれた。やがてロシア国内におこったカトリック教会への合同運動に大きな関心をよせ、バジリオ会に入会した。1609年司祭に叙階され、ビテン修道院の院長、ウィルノ修道院長をつとめた後、1617年ポロックの大司教となった。1623年、巡回視察のためにビテブスク市に滞在中に離教派の市民に襲われ、殺された。1867年、ピオ9世教皇によって列聖された。
聖アルベルトは1193年、南ドイツのシュワーベン洲の小都市ラウィンゲンに生まれ、北イタリアのパドア大学に留学して、医学、自然科学、文学などを学んだ。1223年30歳でケルンのドミニコ会修道院に入り、司祭叙階後、ケルン、シュトラスブルグ、フライブルグのドミニコ修道院で哲学、神学を教えた。この間に、ギリシャやアラビアの数学をはじめ、さまざまな学問研究に励み、そのためアルベルトはのちに全科博士と呼ばれるようになった。
アルベルトは学問研究のほかに信心書を書き、また説教にもつくした。1254年、アルベルトはドイツ管区長となり、1260年、レーゲンスブルグの司教となった。信仰、知識、生活において調和統一を果したアルベルトは1280年87歳で亡くなった。1931年、教皇ピオ11世によって教会博士の称号を与えられた。
聖マルガリタ(スコットランド)皇后 1045〜1093
聖マルガリタは1045年、エドワード王の娘として生まれた。1066年、父王が死去すると、かねてから侵略の機会をうかがっていたフランスのノルマンディー公ウィリアムは英国上陸を果し、アングロサクソン王国を倒し、ノルマン王朝を始めた。
この時マルガリタは欧州に亡命しようとしたが、船はスコットランドに流され、同国の宮廷で保護を受けることになり、やがて、マルガリタはスコットランド国王マルコム3世の王妃のとなった。マルガリタは幼い頃から信仰あつく、結婚後、聖堂、学校、修道院などをたて、信仰や学問、芸術を盛んにするとともに、貧しい者や孤児たちのために献身した。マルコム公もこの感化を受け、多大な援助をした。「国母」と慕われたマルガリタは、1093年、病床につき、祈りのうちに亡くなった。
エリザベトは1207年、ハンガリーの王女として生まれた。父母はキリスト教徒であり、アンドレア2世とゲルトルード女王である。4歳でドイツのチューリンゲンの領主ヘルマンの息子11歳のルードウィヒと婚約させられ、将来の后としての教養をつけるためにチューリンゲンのワルドブルグ白に迎えられた。この城には1521〜1522年、マルチン・ルターが「公子ゲオルグ」と称して隠れた城である。
エリザベトは虚飾にまみれた生活を嫌い聖堂の中で日々を過ごすようになった。9歳の時に領主ヘルマンが亡くなり、エリザベトはますます深い信仰の道を求めるようになった。1221年エリザベト14歳、ルードウィヒ22歳で結婚し、エリザベトは領主の后となった。結婚後、夫はイタリアに従軍したが、チューリンゲンは飢饉にみまわれ、エリザベトは貧しい人々への救護活動を行いつつ、常に神を求め、奉仕し、神に仕えた。1227年ルードウィヒは27歳で病死し、夫の弟によって城から追放され、エリザベトはさらなる試練と苦難の時を過ごさねばならなかった。謙虚と忍耐のなかで、1231年エリザベトは24歳でなくなったが、3年後列聖された。
ペトロとパウロは福音を最初に伝えた人たちであり、現在のカトリック教会はペトロとパウロの福音宣教をうけつぐものであり、聖ペテロ・パウロの教会を通して導かれるものである。330年頃、コンスタンチヌス帝はペトロの墓の上に大聖堂を建てた。この聖堂は16世紀にブラマンテンとミケランジェロによって改築され、1626年に献堂式が行われた。同じ頃、コンスタンチヌス帝によってパウロの墓の上にも小聖堂が建てられたが、1823年に火災にあい、1854年に再建された。
参考:6月29日聖ペトロ聖パウロ使徒
「いつくしみ深い神よ、おとめマリアの奉献を記念して祈ります。聖マリアの取り次ぎを願うわたしたちが、豊かな恵みといのちにあずかることができますように」。
2世紀頃に書かれた「ヤコブの原始福音書」という聖書の外典には、聖母は幼い頃に神殿に住み、神殿に仕えるために親によって神にささげられたと記されている。聖母マリアはヨセフのいいなずけになるまでの11年間を神殿で起居した。この記念日は聖母マリアが一生涯自分を完全に神に捧げたことを記念し、祝うものである。主の招きに答えようとする人びとは聖母マリアのご自身の奉献を模範とし、奉献の手本として仰ぐことができる。
初代教会はローマのネロ皇帝の迫害からコンスタンチヌス大帝による313年の信教の自由の勅令まで250年間断続的に迫害された。この時代、信者たちはローマ郊外のカタコンブに集まって、礼拝式を行っていたが、セシリアもそのような信徒であった。
セシリアは2世紀頃、ローマの裕福な貴族の娘として生まれたが、質素は身なりで貧しい者へ施しをしたり、殉教者の埋葬を手伝ったりしていた。父は早くから異教徒の青年貴族と結婚することを望み、セシリアは神の摂理にまかせ、結婚した。やがて、夫ワレリアヌスとその弟をはじめ、多くの人を改宗に導き、ウルバノ皇帝は彼らに洗礼を授けた。しかし、町の長官アルマチウスはキリスト教徒の殺戮を命じ、セシリアを逮捕した。セシリアは尋問を受け、半殺しの目のあい、首を切られて殉教した。セシリアの墓の上には1599年、イタリアの彫刻家による大理石で殉教像が据えられた。
聖クレメンス
聖コロンバン修道院長 525(530)〜615
1538〜1584
317〜
フランスの使徒
1580〜1623
科学者の保護者
1207〜1231
2世紀頃
音楽家、オルガン製造人の保護者
クレメンスはローマ皇帝の宮殿に近い邸宅に生まれたが、その誕生の地には現在聖クレメンス大聖堂が建てられている。父はローマの元老院議員、母も貴族の出身であった。クレメンスは聖ペトロや聖パウロから直接キリストの教えを聞き、使徒たちを助けた。クレメンスが教皇であったのは、92年から101年であり、聖パウロによって叙階されたと言われている。聖クレメンスは使徒たちから受け取った信仰の遺産を忠実に守り、今も教会の中に生きてる聖伝を使徒時代と結ぶ聖人である。
聖コロンバン会の創立者
コロンバンは525年頃にアイルランドの貴族の家で生まれた。コロンバンとは鳩の意味である。アイルランドで修道生活をはじめ、その後12名の修道者をつれて、スコットランドに渡り、イオナの丘に最初の修道院を建てた。弟子たちをスコットランド全土とイングランドに派遣して宣教し、その後はフランス、ベルギーにも布教した。615年死去。