土建国家の輸出を許さない!

インドネシア・ダム撤去訴訟
東京 河村 健夫

(『青年法律家』383号 2003年1月25日より)

一 はじめに
 二〇〇二年の九月五日、インドネシアの住民三八六一名(原告)が、日本のODA資金により建設されたダムの撤去などを求め東京地裁に提訴した。この提訴行動は広くマスコミ等で報道されたが、この間の事情を説明したい。

二 コトパンジャン・ダムとは
 コトパンジャン・ダム(以下「コトパン・ダム」という)は、インドネシアのスマトラ島中部、リアウ州にあるコンクリート製ダムであり、発電を主要目的として円借款により建設された。一九七九年に日本企業が「案件探し」を行い、九〇年から円借款の供与開始、九六年にダム完成、九七年から本格的な貯水が開始されて現在に至っている。ダム建設に伴い、二万名以上といわれる住民が水没予定地からの立退を余儀なくされた。今回原告となったのはこれら水没地住民である。

三 ダム建設による甚大な環境破壊と住民の生活破壊
 ダム建設にあたって、現地の実状を無視した建設が行われたため、甚大な被害が生じた。被害は大別して環境破壊と住民の生活破壊に分かれる。

《環境破壊》
@ 水没予定地にはスマトラ象・スマトラ虎・バク・マレー熊などの貴重種が生息していたが、形式的にスマトラ象の一部を移転させた以外、一切の保護措置が採られなかった。そのため、これらの貴重種は貯水開始後、一時的に島状に残された土地に避難したが、餌が得られないことから大部分が餓死してしまった。
A ダムの貯水開始に先立って水没予定地の樹木の伐採がなされないという「手抜き工事」のため、水没した樹木が腐り水質を悪化させ、貯水部分で魚類の大量死を招いている。また、腐敗樹木の周辺は格好の蚊の生息場所となり、マラリアの大量発生が危惧されている。
B 水没地は熱帯雨林であり貴重な植物種が生息する地帯であるが、これらの貴重種に対しての保全措置はとられず水没するに任された。

《生活破壊》
@ 水没予定地の住民は「ミナンカバウ系」と呼ばれる独自の社会生活を送っていた。村落の中央にモスクと共同集会所を置き、集団的土地所有制度を有する母系社会であった。ところが、インドネシア政府が用意した代替地では、機械的に世帯ごとに土地が割り当てられ、村落共同体に配慮した土地配分は行われなかった。このため、従来からの伝統や文化は存亡の危機に瀕している。
A しかも、水没予定地の住民に対し補償の一環として与えられたゴム農園付の土地は、実際に移住してみると道路沿いの一〇%程にゴムの幼木が植えてあるだけのやせた土地であった。
B 移住地には住宅が用意してあるとの触れ込みであったが、実際に用意されていたのは土間形式の粗末な住宅(縦横とも六メートル、屋根がアスベスト製のものもある)でしかなかった。ミナンカバウ系の住宅は気候に配慮した高床式であり、移住者は早々に用意された住宅を放棄する羽目になった。
C 移住地に援助によって掘られた井戸は、赤茶けた飲用に適しない水しか出てこず、移住地住民は数キロ離れたところまで水汲みに往復しなければならない。アスベスト製屋根から流れ落ちる雨水を貯め、飲用する住民も多い。
D 移住者には補償金が支払われることになっていたが、分配にあたった役人などのピンハネなどにより、補償金をまったく受け取れないか、ごく一部しか受け取れなかった人が続出している。移住した住民の中には危険を承知で、水没しかかった従来の生活地に戻る者も出現している(コトパン・ダムは欠陥ダムであり予定通りの湛水がなされておらず、水没予定地であっても未だ水没していない地帯が存在する)。

四 生活破壊ダム建設に至る利権構造
 コトパン・ダム建設はインドネシア・スハルト独裁政権のもとで計画が進められた。コトパン・ダムはその主目的を発電としているが、ダム計画が推進された当時、スハルトのファミリー企業が華僑財閥と結びついてリアウ州でのプランテーション開発を計画し、そのための電力源としてコトパン・ダムが期待されたという関係があった。日本政府は、腐敗したスハルト政権の私腹肥やしに協力したのである。なお、ダム建設当時リアウ州知事であったスエリプトは、スハルト政権崩壊後住民により放逐されている。
 建設工事を請け負ったのは現地企業およびハザマ(間組)であった。ダム工事後も予定通り湛水が進まず、ダム工事が欠陥工事であることは前述の通りである。インドネシア政府は住民の「同意」を仮装するために一九九一年に一部の村落指導者を集めて移転・補償の同意を取り付けているが、その際には指導者一人あたり一五万ルピアが支払われている。また、指導者を見学旅行と称した物見遊山に連れ出すということも行われている。

五 住民の抗議運動を抑圧する日本政府
 当然ながら、多くの住民がダム建設反対の意思を表明した。しかし、住民の意思表示に対して日本政府は許し難い対応をとった。
 一九九一年九月。上述したインドネシア政府による「同意」仮装の動きを知った住民たちは、軍・治安当局者の目を盗んでダム建設反対の住民声明書を採択し、五人の住民代表を首都ジャカルタに送った。住民代表と支援の学生はインドネシア政府機関にダムの問題点を訴えるとともに、日本国大使館にも面会を申し入れた。日本国大使館は当初面会自体に難色を示したが、交渉により翌日面会が実現した。入館した住民代表は、面会場所に赴いて色を失った。面会には二名のインドネシア制服警官と二名の私服治安関係者と思われる人物が同席したのである。警官たちは面会の最中、住民代表の似顔絵を描き続けていた。なお、一九九四年八月発行の『国際開発ジャーナル』誌上においてインドネシア日本国大使館の目賀田参事官(当時)は、「組織的な反対運動のようなものはまったく存在しない」と言い切り、住民らの抗議を無視する姿勢を露わにした。

六 本訴訟の問うもの─援助先の生活を破壊するODAという利権構造
 ODA(政府開発援助)については、従来の「善」のイメージを覆す事実が次々報道されている。典型例は鈴木宗男がアフリカのODA資金をめぐって暗躍していた事実であろう。その他モンゴルでもODAをめぐる疑惑が報道されている。
 なぜ、日本のODAには問題が多いのか。
 日本のODAは「援助」とは言っても、援助計画の立案から工事の実施まで日本企業が関与することが多く、援助先の事情への配慮を欠いている。また、日本のODAは円借款という名の返済義務を負わせるものも多く、援助相手国にとって相当の経済的負担を与えている。
 ところで、ODAの供与先は独裁的な政治形態であることも多く、日本では到底許されないような強引な手法であっても問題の表面化を押さえることが可能である場合が多い。ここに、日本企業がODAに群がり、利権化し、住民の利益を侵害して儲ける構図ができあがるのである。
 ODAの利権構造は、援助先の利益になることはない。ODA供与を受けた国は、円借款の多額の利払いに追われ、経済を自立させることができないからである。同様に、ODAは日本の利益になることもない。円借款の残高は二一兆円にも達しようとしているが、これらの貸付が焦げ付く可能性も高く、そうなれば財形投融資が影響を受け、例えば年金の原資が枯渇する事態もあり得るのである。いわば、ODAの不良債権化である。本件訴訟は、ODAに対して根本的な問いを突きつける。「援助先から提訴される開発援助とは何なのか」と。

七 訴訟の概要
 訴訟の概要は、以下の通りである。被告は、日本国政府のほか、ダム計画に関与した国際協力事業団(JICA)・国際協力銀行(JBIC)、ダム計画を主導してきた企業である東電設計株式会社である。請求の内容は、@インドネシア政府に対しダム撤去の勧告を行うこと(主位的請求)、完全な補償金支払いの勧告を行うこと(予備的請求)および、A原告ら一名あたり五〇〇万円の損害賠償請求をなすというものである。九月五日の提訴では、原告らの代表も来日し、東京地裁前で伝統的舞踊を披露したり、各地で報告を行って日本国内の支援者と交流を深めた。 なお、現在は訴訟救助手続が進行中である。さらに、二〇〇三年一月時点で四〇〇〇名弱の住民が追加提訴の準備中であり、原告の総数が八〇〇〇名に迫る大型訴訟となる。

八 おわりに
 提訴時に来日した原告の言葉が胸を打つ。「インドネシアで二度敗訴し、インドネシアには裁判所はあるが正義はないと知った。では、日本に正義があるか確かめに来た」現在、提訴した住民たちは現地でさまざまな嫌がらせにあっているという。「金目当て」との中傷をはじめとして、涙金「援助」による訴訟取り下げまで画策されている様子だという。日本での集団提訴を皮切りに、インドネシア国内での集団提訴も秒読み段階に入った。これらインドネシア住民の声に応え、日本のODAの腐敗を告発し、真の援助を実現すべくこれからも頑張りたい。

【本訴訟についての連絡先】
コトパンジャン・ダム被害者住民を支援する会(代表・鷲見一夫新潟大教授、副代表・村井吉敬上智大教授)
東京都新宿区新小川町九─七─A三〇二
電話 〇三─三二六七─〇一五六


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