いわゆるひとつのエイプリルフール
嘘つきが内閣のはじまり‥国盗り物語
脳波が平らに成ったかどうかは知らぬが、、、。
近頃、ある男がよくテレビにでている、
その男は少年に、配偶者を強姦殺人され
その場にいた子も殺害されたそうである。
そして、その少年を死刑にすることを望んでいると発言している。
確かに気の毒であり、自ら犯人を殺してやりたいという気持ちならわかる。
しかし、勘違いしてないか?
国家が刑罰を科すのは、国の都合のなのである。
社会防衛といっても現権力に都合の悪いもの反体制勢力を、
因縁つけて殺したりしてきた歴史のことではない。
殺人や窃盗など”社会”を保つために罰し
被害者に復讐させないために国が刑罰権を独占するのである。
決して、被害者の親族の癒しのためではない。
なお、一定の場合つまり社会の結束に役立つ場合には、
殺人・強盗・強姦などが奨励されていたことも付け加えておこう。
そして、
彼の発言で気になるのは、
復讐するのに自らの手は決して汚さない自己中心の心性がうかがえることであり
最近の大きく報道される犯罪と共通する点なのである。
司法制度改革の論議がさかんである。
利用者が迅速な適正手続きを受けられる目的には、まったく異存はない。
むしろ量の問題、
特にボトルネックとなっている裁判官の数をまづ増やすべきと思うが。
陪審制や参審制の導入ではむしろ裁判官の手間が増加するため、
(もちろん抽選でえらばれた市民も大変な労力をはらうのだが)
市民の司法権への参加という目的は達せられてもボトルネックは解決しないと思う。
そして、
法曹一元論、特に弁護士任官論が強く主張されている。
一般的には、いいことだと私も考えている。
しかし、裁判官個々の独立性、特に政治部門からのという面ではどうなのであろうか。
念のため、
これは裁判官個人に中立性の外観を要求するということ決してない。
だいたい全ての人から中立なんてありえないじゃないか、
個人の立場を明確にしてもなお説得できる法律と条理に基づく判決という、
仕事さえできればいいのである。
本題に戻ろう、
人間とは弱いもので、
ほとんどの会社の監査役は社長に逆らえない、
法律上身分保障されていても、実質上の人事権が握られていることによる。
裁判官も同じである、
いままでも、再任拒否・任官拒否などがあったが少数に止まっていた。
しかし、この弁護士任官制度を利用すれば、
政治部門は最高裁を利用して
好みの弁護士を採用して裁判官を入れ替えることもできるし、
現任の裁判官も最高裁に逆らえなくなることうけあいである。
いまでも、憲法関連や行政事件の判決は学理上不当なものが散見されるそうである。
それが「審判着いてる巨人軍」状態どころではないのである。
ではどうすべきか、
陪審制と同じく抽選を利用すべきではないだろうか。
善意の改革が悪用されないようなパッチを当てなくてはいけない。
最近の都市近辺の水害のニュースを見ると
いかにも切れそうな堤防が決壊し、
いかにもあふれそうな場所で溢れていることがおおい。
もちろん、自然的地形のことではない、
水害多発地域であるにもかかわらず、中小河川で基準が甘かった場所や、
河川を人為的に曲げたりした場所である。
彼がオウム真理教の信者であったとの情報もあるが、
思い当たることもないではないが未確認である。
しかし、そんなことは関係なく貴重なウエブのひとつであり、
賛意を表しがたいものもあったとはいえ
多くの指摘は妥当なものであったことを見逃すものは悪しき党派のドグマである。
なお、
オウム真理教が日本の新興宗教の流れから自然に出たものであることと
仏教からみて邪教であることは両立する。
最近、古本屋にいってみると、古い版ならともかく
司法試験の選択科目だった法律の教科書などが売れ残っていてたりするが
教養としても読まないのかなと少し心配になる。
ひるがえって、
自身の興味や仕事に直接に関係ないものを読んでいるのかといわれると
ちょっとつらいな。
双方とも仏教用語であるが、
分析思考と、偏見を排斥したのちの総合思考として理解してみるなら、
さらには、それを支える論理思考さらには人権感覚として
今日の日本にこれほど必要なものはないのではないか。
仏教でも先に分析的思考から修行するらしいことに注意して
知識を身につけたら、ほんの少しの想像力を働かせてみてみよう。
仮想現実(バーチャルリアリティ)、思考実験。
誰の人権が侵害されていようと自己の痛みとしても感じられないのでは
文明人としてはちょっと困るのではないか。
現に、誰が発明しようと関係なく文明の利器は享受しているのだから。
盗聴とは目標の通信を窃取など了解を得ずに積極的に工作して情報を得ること。
傍受とは自己のもとへ飛び込んできた通信の内容を得ること。
ある歌手の電話が盗聴されているとの記事があった。
よく読むとコードレスホンの電波が傍受されたに過ぎないことがわかる。
ドアに鍵をかけるように通話を暗号化すべきものが、
ちょっと近所のこわれたラジオでも聞こえてしまうような
電波をまき散らすコードレスホンを使っていたから起きたことらしい。
玄関の伝言板に書いた伝言を読まれてもしかたないようなものである。
受信機を全体主義国のように規制するのは筋違いである。
そんな、古いものとはいえ杜撰なコードレスホン製品にあきれる。
それはそうと
少し前に歌手俳優の住所などが警察退職者の会社から漏れたとのニュースがよぎった。
捜査の名を借りて有名人・無名人の電子メールも話し声もまるどりできるんだな。
前回の2000.11.13のコラムでのある歌手の盗聴騒ぎは傍受ですらなく
その歌手の対話者が内容を雑誌に漏らしているのに過ぎなかったらしい。
引用で価値を下げてしまうことはよくあるが、峻別すべきものはあるだろう。
その引用が例示であれなんであれ文章の本質にかかわらないもの、
たとえば、
園部逸夫退官記念論文集なるもののに寄せられた論文に
「日本人とユダヤ人」を引用していたものがあったが、
これなどはいくら悪評高い「日本人とユダヤ人」であっても
たいして評価はさがらないだろう、馬鹿にされることはあっても。
しかし、
例示とはいえ文章の本質にかかわるものは引用が価値を下げるだろう。
最近の日経夕刊のコラムにラジーニシを賞賛していたものがあった。
行政改革の柱は市民の参加と法による行政の徹底である。
しかし、行政争訟についての改革はハコモノの提案のみのものばかりで積み残されている。
一連の刑事司法改革で積み残されていることで特に重要だと思うことである。
起訴前に弁護士を呼べないのか、被告人側に証拠開示はされないのか、
前者については、少年などには特に必要だと思うのに、
少年審判では弁護士がつかなくてもいいとされている。
教育の場という理念からも、適正手続の上での罰という理念からも
ゆるされていいものだろうか。
後者のついては、戦前の刑事訴訟法でもなされていたことなのである。
インパクはほどほどに繁盛してね。
決して、サーバーが落ちちゃうようなほど繁盛しないでね。