日々でなくなってきたかな、ことしの漢字は”災”
いま、一人ずつに区切られたようなベンチにもたれて考えている。
誰にも開放されたものであるべきものが、ユニバーサルデザインに反しているし、
相撲取りとまでいかなくても少し体格の大きな人にとっては窮屈だ。
急病人を寝かせることも出来ないどころか、
うっかり酔っぱらいが倒れ込めば脊髄損傷の重傷を負うこと必死である。
そして、姿勢が固定されるのでベンチに座って語り合うことも難しい。
そういえば、「連れだって歩く」ことや「立ち話する」ことさえも、
規制する条例が制定されようとしている。
社会全体に木構造を強制される社会はおよそ民主主義国ではありえないのだ!。
公共空間がネット以外からも消滅していっていると感じる。
カルシウムは加工の過程の中和剤に由来している。
黒い色は、煮詰める過程の焦げに過ぎない。
沖縄の黒砂糖であれ、高級和三盆であれ同じだ。
十分知っているはずなのに、コスタリカ産有機栽培粗糖を買ってしまった。
グラニュー糖なら迷うことすらないだろうけど。
ありゃ、上げ忘れてました。
スマトラ沖の巨大地震による被災情報が明らかになるにつれ、
被災した地域を支配する国家の手に負えないようにみえる。
ここに、国境を越えて、名称だけの「人道支援」でない人道支援がなされるべきである。
また、このような天災にそなえた国際協力関係を構築することは、
信頼醸成装置として高い価値があるように思える。
ちかごろ、天気予報があたらない、もちろん、異常気象かもしれない。
しかし、静止衛星からもたらされるような広い範囲の情報がないため、
十分にあるアメダスのような局地的情報が生かせないのかもしれない。
日本の近隣諸国にとっても同様であろう、
ひまわり後継機を打ち上げること自体も国際貢献であり、
日本産打ち上げロケットに固執すべきでない。
それにしても、新聞紙面をにぎわす国際貢献は近視眼的論議が多いな。
街中はそこらかしこに監視カメラが設置され、増え続けている。
それは、犯罪防止のためだというが、
もちろんカメラは助けてくれないわけで、予防的効果をねらったものと考えられる。
しかし、犯罪者はカメラに思いとどまるのだろうか。
テレビ番組で毎日のように監視カメラ大国アメリカの強盗の映像を観るが、
これは「写っていることを知っていての犯罪」である、
監視カメラ設置が予想される場所で行われるのであれば予防効果は少ないのではないか。
歪んだ鏡にもどる
お約束の玄関にもどる