以前、筆の滑りで「私の愛する日本は」などと書いてしまったことを
今は、深く反省するというより後悔している。
そもそも、国家に対する愛国心には懐疑的ではあったというより意識に上ることすらなかった。
何故かと質問されても子供の頃から自然科学が好きだったからと答えるのが適当だろうか。
そして、愛郷心も特に意識していないで過ごしてきた。
そのためか、愛国心は悪いが愛郷心は良いと言う宣伝に何となく同調してしまっていた。
現統治者への「愛」に転化しないという口実である。
しかし、悪いとされる点が作用する過程を見つめると共同体の悪夢が等しく横たわっているのだ。
内と外を峻別し、異物とされるものを徹底的に排斥するとき、
やはり現「統治者」への「愛」に転化するのだ。
知らざることの罪を今更ながら感じている。
共謀罪、ついに来るべきものがきたというか、
破防法・組対法などを一般化した悪法の総仕上げと思える。
経験知の所産である刑法総論に大きな変更をせまるものであり、
適用の広さも微罪逮捕が容易に行えるだけのものである、それらについてはもう書き疲れた。
新しい点としては、条約の義務を言う形での新しい押しつけ方をしていることであろう、
圧政こそグローバル化しているのだ。
もうすぐ武術を習いだして1年がたつ、確かに習い始めたときよりは上手くなっている、
しかし、その3ヶ月後より上手くなっているかというと自信が持てずにいる。
ひるがえって他のことはどうだろう、ふと首筋に冷たい汗を感じた。
NHKのみんなの歌に「それってホメことば」という歌があり、その一節に「フツー」の用法を問うものがあった。
例えば「フツーにおいしくない?」を疑問視しているが、
「客観的に(ひいき目なしに)おいしいと思いますがあなたはどうですか?」と翻訳するのが正しかろう、
つまり自らの判断を過小評価する点で「粗茶でございますが」と同じであり、
「敬語」の世界観は生きているのである。
つまり「ワカモノ」も相手を思い相手に合わせた言葉を使っているのである。
自らの評価自体を謙虚に再評価するだけなら、多様な価値観の共同作業の過程で必須とされる。
しかし問題は再評価でなく、
人的関係によって自ら意見を変えることの強制が強い社会は住みやすいのだろうかという点にある。
blogの「炎上」事件など枚挙するこができよう。
そういえば、野球で審判の権威だけが強調される中で、公正さや妥当性が疑われる場合がスポーツで続出している。
元選手のなかからは、こういうミスジャッジが続出すると競技が腐っていくという発言があった、
私も全く同感であるビデオ判定の導入なども含めて検討すべきだろう。
あるボクシングのジャッジについてなぜか一言も公正さについて発言しなかった弁護士タレントがいたなあ。