一年の計は元旦にありとかいう、せいぜい日が昇るような一年であればとおもうが。
ライアーゲームというドラマの再放送が正月にあった。
あらすじはというと、
カンザキナオという「純真」な人間が、ライアーゲームというゲームに巻き込まれ、
それを主催する詐欺等を行う組織と対峙し成長していくものである。
カンザキナオは、ライアーゲームが零和ゲームであることを見抜き、
参加者全員を説得し損得無しでライアーゲームから抜け出ることを果たす。
(なお最後に出てきた密輸ゲームは零和ではないしルールのつめも甘いようである。)
ここで注意したいのは、
事象の本質を見抜き、意味の読み替えや意味をずらし、
行動や心を支配することこそが詐欺の本質でもあることである。
ドラマでも、カンザキナオを「成長」させて幹部級として迎えるような魂胆が、
予想外の「成長」により逆手を取られたわけだ。
まあ、技術が変化しないなかでのイノベーションはこんなものだけれど。
そういえば、終わりで、現状を所与の条件として受け入れ云々との趣旨の台詞があった。
でも、それだけじゃだめなんだ。
私には、このプログラミングの本のきちんとした書評はできない。
せいぜい、あの2分探索が!や系統的な保守、いっぱいの汚水、
社会と無関係でないことなどに感心したくらいである。
ところで、この題名だが、美しき慣習あるいは、美しき法とも訳せるが、
それを我々は保持できていると憲法記念日前に言えるだろうか。
この著者RMSはもちろんGNU運動の創始者である。
これを読むと彼の一見過激な主張は全て経験的に導き出されたものであることがわかる。そして「あなたは、自由のために何かしただろうか」と自問してみる。
硫化水素自殺の影響で硫化水素の検索までできなくなっているらしい。 そもそも、気の利いた教科書には掲載されていることであるので無意味である。 言論の自由の対価として危険であっても知識の自由な流通が促進されるべきではないか。そうでなければ、単なる馬鹿な死に方が増えるだけだろう。 漂白剤を混ぜて塩素ガスをまちがって発生させてしまうような事故の危険や 硫化水素自殺未遂の後遺症関連さえ検索できないのだから。